「申すまでもなく、本校の目的は忠良なる臣民を教育する為の、基本となる優秀な教員を養成する事にあります。教育とは、人が人を人にまで導く事でありまして、その為には、教員たるものは、心身共に他の範たる者でなければなりません。これこそ師範教育の亀鑑であり、基であります」
校長の訓辞に始まった職員会議は、起伏のない田の畔を行くが如く、坦々と続けられた。どの教員もその顔の感情を圧し殺して、表出しない事が教員としての本義であると思っているかの様だった。 やがて教員の坂崎が立つ。背の低い小肥りの男だった。髪は耳の辺りまでしかない。シャツの首のボタンが外れていた。末席の松蔵の方を視線で示しがらこう言った。 「昨日の竹田みつの件につきましては、体操科の柏倉先生に報告していただきます」 それは松蔵にとって、赴任して二回目。定例水曜の職員会議としては最初のものだった会議室は何の変哲もない板張りの部屋であったが、松蔵の席からは校庭の大きな松の木と、その下の小さな桜の苗木の不自然さが目についた。 「昨日、第一学年は組の体操の授業に置きまして整列させましたところ、手に欠陥のある生徒が一名居りましたので、教頭先生にお知らせ致しただけでありまして…別に…この生徒の悪い手と申しますのは左手でありまして…この子の学業などには別に何らの支障はないものと信じます」 「意見は後程にして、事実だけを報告していただきたい」 光頭の教頭にたしなめられて松蔵は 「はあ…」 恐懼してみるしか外にない。 「ダ、第四指と第五指、つまり、薬指と小指が欠除しているのであります」 「片輪か!」 座の中で声がもれる。 「生まれつきかね」 「はあ…その様であります。しかし、学業には…左手でございまして」 「柏倉君、もう宜しい」 校長が制した。 それは、たしかに昨日の第三時限の出来事だった。教員生活を、すでにもう何年か続けてきた松蔵である。赴任して始めて経験する新入生の授業とはいえ、ゆとりを持って臨むことができた。その前日、前々日と上級生に対して何時限かの授業を持たされていたが。その時は黒ひげのクマも脇から生徒たち偉圧して呉れた。始めての早独授業には違いなかった。まず彼は新入生たちを一列に並ばせる。そして号令を掛けた。 「右向け、右!」 勿論、明治の末期や大正の初期、いくら女学生と言ってもトレ−ニングパンツなどと言う様なものがあるわけがない。みんな筒袖の和服に紺の袴の平服だった。履物も大都会では編上靴などを履いていた場合もあったらしいが、岡山ではまだ草履きが多かった。体操とは言っても、今から見れば幼稚なものだった。 一年生とは言っても、師範の生徒は皆高等小学校は出ている。乙女たちの列は色とりどりに花のどよめきを感じさせた。右手から順番に、一人一人の初々しい横顔を若い松蔵はまぶしく眺める。彼はやがて八番目ではっとした。それは、頂度十日前に古京町で見た娘、みつだったのである。 あの時、師範だなんて言っていたのを聞いたが、ここの新入生だったのかと松蔵は思った。そして再びその時の光景が思い出されて来た。 「前へならえ!」 松蔵はまた次の号令を掛けた。そして八番目を見た。両手をきちんと揃えて前にかざしている指は、誰もがすんなりと延びていた。だが、みつの左手だけは違っていた。あの時と同じく袖口に隠されたまま縮込まっていた。 松蔵はつかつかと彼女のそばに走り寄った。 「指を延ばして、手をしっかり出してごらん」 少女は決して泣き出しはしなかった。その事態は無論、最初から予想されていた事だったろう。とはいえ十四や十五の陽気な娘は、ただ必死でそれに耐えるより他術は知らなかった。あどけない口元を十文字に結び、黒澄んだ眼で中空を睨んでいた。 松蔵は同じ言葉を二度、繰返して見た。沈黙は続いた。全ての目がみつと松蔵に注がれた。ようやく松蔵にも、彼女の立場が容易ならざるものである事を察知できた。 「宜しい。あとから教員室に来たまえ」 職員会議は続けられていた。寄宿舎の舎監をしている裁縫教師が立って報告していた。三十にはまだ二つ三つもあるのだろうが、背の低い色黒で肩と目の間が空いた女だった。 「部屋を片付けさせていただいたんでございますの。それでこの生徒に、あなた、その火鉢を部屋の端に寄せてごらん、と言い付けたのでございます。ええ、瀬戸物ですけれど決してそんなに大きなものではございません。ところが火鉢の縁に両手を掛けたのですが、全然持ち上がらないんです。不思議に思ってそばまでいきよくよくその手を見ますと、びっくりするじゃありませんか、三本指なんですね。あれじゃ力も出ないわけですよ。本当にどきっとしました。思わず顔を見たんですが、割合可愛い顔をしているんですね」 「三本指…」 再び座の中で嘆声がもれた。そこで教頭が立つ。 「さて、本生徒の処分につきまして、諸先生の御いけんを伺いたく、本日の第一議題と致したいと存じます。ここで改めて申すまでもなく、本校々則第八条にございますように、本校生徒は健全なる精神及び身体を持つ者に限ると明記されて居ります。しかしながら、一旦入学を許可された者が、その許可を取り消された場合を考がますと、その生徒の将来及びその一身上に置きまして、まことに忍びなきものがございます」 「出身校長の推薦状はどうなっていたのですか」 羽織袴の紋服姿も隙のない八の字にひげを蓄えた国語の教師が問うた。 「それが、何も記載されて居りません。勿論そうした記載があれば、入学が許可されるような事はまず無いと思います」 「それは不当な」 国語の教師が憤然と声を発した。 「怠慢も甚だしい」 「当然、入学取り消しだ」 「片輪者のくせに生意気な」 座の中から二三の声が飛んだ。議場の空気はすでに一定の方向に向けて流れ始めていたる「出身学校の校長に対しましては、目下問い合わせ中でございまして、間もなく回答が寄せられて来る事と思います」 教頭は事務的に答弁していくものの、行きつく流れは定まっていた。校長は議場の空気を読み取ると、おもむろに立ち上がった。 「昔から、健全なる精神が宿ると言われて居ります通り身体にたとえ些少でありましても、欠陥がある場合必ず、その心に何らかのひねくれたものがあります。これは私の長年の教育体験から割り出して、結論づけられます。まして本校の生徒は全員、教育者としての祟高なる使命を持っている者であります。冒頭二も申しました通り、教育者たるものは心身供に他の範たるものでなければなりません。たとえまた一歩退ってこの生徒に健全なる心が宿っていたとしても、将来教壇に立った場合、白墨を持つ手が三本指であったとしたら、それを見た児童にどの様な不快感を与える事か、その精神的影響は計り知れないものがあります。この際、この生徒の心情には忍び難いものがあります。泣いて馬謖を切るの覚悟が必要かと思われます」 校長は淡淡と、そして一挙に結論づけてしまった。諸場の空気は定まっていた。異議を唱えようとする気配は微塵もなかった。松蔵は夢中で立上がる。竹田みつに関する全責任が一身に被さって来るように、感じたからに違いない。 「しかし、ですが…、ともかく…この生徒は…指だけで…学業には…」 松蔵は自分でも何をどうゆう風にしゃべっていたのかは全く憶えていない。とにかく夢中で、たどたどしく、同じ様な事を何回も繰り返ししゃべり続けて居た事だけは確かだった。始めは圧し殺して聞いていた一座も次第に乱れて、ついには失笑に変って行った。 「君はまだ若い」 「人情論はよせ」 その中にはこんな声も飛び始めた。 「体操の教師のくせに」 松蔵はへなへなと崩れるように席に着いて居た。横の席のクマ画きっと声の方を睨む。武骨な手がやさしく松蔵の肩をたたいた。 教員室に戻っても、しばし松蔵は机の前に坐ったままだった。帰りを急ぐ人達が背の後をあわただしく通り過ぎて行くのも知らず。大波に洗われた岩礁の如く海上に只一つ孤立していた。何も自分が最初の発見者にならずとも何れは誰かがとは思う。だがあの娘の人生を自分の報告がどんな風に変えてしまったかと思うと、心は暗かった。 小橋町の下宿に帰るには、相生橋を渡るよりも、京橋を通って中之島へ出た方がいくらか近い。しかし、松蔵はこの道をあまり好まなかった。米の生る木を知らぬとの一言で、その殷賑さを誇ったこの辺りの風景には松蔵の気質になじまぬものがあった。その頃の女子師範は、今の藩山町、現在の旭中学校と市立商業高校のある場所である。近来、藩山町と名付けられたその当りは、昔の藩学の跡もあり、その時代には一つ上手の、後年松蔵の妻とくが務めた弘西小学校のあった弓之町に較べれば、藩でも中枢をしめた者達の屋敷町であった。十五年間とはいえ、三百余年前の正保年間、三千石で遇せられた熊沢蕃山の屋敷もここにあったわけだった。 従って松蔵は、いくらか遠廻りでも、丸の内を抜けて、相生橋を渡って行く方が好きになる。旭川もその川幅を細めて、流れも清らかだったし、上手には黒一色で装った烏城の櫓も眺められ、後楽園の緑が水に映えていた。旭川を渡った松蔵の足は独りでに古京町の方へ向う。尋ねて行ってみようかと一度は思ってみたが、何の意味があるのかとすぐ打消した。やがて、松蔵の足は先日の露路裏までやっては来たが、それ以上、向かはなかった。みつの白い細面の横顔に、ぐっと一文字結んだ唇。それは一言も発しなかったけれど、伏目がちな瞳には の光がさしていたことを、松蔵は思い出していた。もう一度その露路裏をのぞき、ぴたりと閉ざした格子戸にどこから吹きつけられたか、八重桜の花弁が二枚、はさまれているのを確かめると、松蔵はそのまま踵を返して、小橋町の下宿へと向かった。熊沢藩山が藩祖、池田光政に三千石の丈身に温せられて、岡山に留まったのは僅かに十五年間に過ぎない。その間彼の治績は、治山、治水、明歴の飢饉対策など見るべきものが多く、それは現代の岡山にまで受けつがれているものも幾つかある。しかし彼は孤高だった。家中には同調する者も少なくはなかったが、他方では、その声価高まるにつれ誹謗を受けることも多く、ついには止むなく京へ戻り、最后に不?古河で客死するまで、吉野、鹿背、明石、矢田山と流転の生涯を送る。 松蔵はふと藩山の身と自分を置換えて見た。もちろん、地位も周囲の事情もその時とは全く異ってはいても、遠く東国から流れついた身にはその時藩山の心境を察しられるような気がして来た。 下宿に帰っても、松蔵はみつのことや、今日の職員会議の状況が頭から離れなかった。特に、「体操の教師のくせに」と叫んだ小生意気な背の低いずんぐりした数学教師の声が、いつまでも耳から離れなかった。 |
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