★ ヘラルドシネクラブニュース 1999/8・9 ★
岡村洋一の聴 ク、映 画


『割り箸女とスプーン・マン』

 私は長い間、映眠に慣れてきた。「映眠」とは映画を観ながら眠ってしまい、また途中で目覚めたりすることだ。罪悪感を感じながらもこの眠りは心地良い。タルコフスキーの作品ではよくウトウトしてしまった。退屈なのではない。
スクリーン上に展開されている世界が、あまりに高レベルで脳が疲れてしまうのだ。
 
7/15、『アイズ・ワイド・シャット』の完成披露試写会は超満員。主演の二人が舞台挨拶に現れた時、場内に起こったどよめきは、ちょっと特殊なものだった。真に美しい人間が、この世には存在するという事。N・キッドマンは、はじめ割り箸かと思った。細い!自分より背の低いT・クルーズのために、彼より少し後ろに立っていた。これを夫婦遠近法という。これまで多くのスターを生で見たけれど、本当に後光が差していたのはT・クルーズと真田広之だけだ。

私は偶然にも一番前の中央の席だったので、彼らを間近に見られたのはラッキーだったが、巨大スクリーンはすごく観づらかった。映眠はご法度だ。映画の前半、嫉妬が原因でT・クルーズが夜のN.Y.をさまようシーンがある。イギリスで撮影されたこの街角はどこか60年代っぽく、彼が出逢う人々、ふたつのパーティ、死体置き場、ラスト近くで交わされる夫婦の会話…すべてが謎に満ちている。
それもそのはず、これは妄想についての映画なのだ。
 
実を言うと我々は現実だけでは生きていけない。だから人は夢を見るし、劇場へ通うのだ。映眠は救いだ。夏の終わりの青空みたいなクルーズのさわやか笑顔。彼はミスキャストで、もっと屈折した表現のできる俳優を使うべきだ、と言う人もいるだろう。
しかし、雄々しい男は絶滅しつつあり、女性がますます力強くなってゆくこの世紀末の気分に、この二人はぴったりはまる。これ以上の選択はない。
 
クルーズの端正なマスクとニコールの魅力に救われながら、キューブリック監督の仕掛けた謎の解明は、いずれコンピュータのハル君に任せる事にして、終演後、トイレに入った。鏡の中には、映画に異常な愛情を抱いている現実の自分が居た。
はずすイヤリングはない。もちろんそばに美しい女性も居ない。まばゆい光もない。
これでめでたく、逆戻り。