朝倉涼子の面影〜恋文〜 新章:phantom

 そう思うべきじゃなかった──と、目を覚ましてから深く後悔した。ベッドで寝ていたはずの美代子の姿が消えている。布団を触れば、すっかり冷たくなっていた。
 どうやらだいぶ前に姿を消したらしい。部屋の中のどこを探しても美代子の姿はなかった。
 冗談じゃない。まさに青天の霹靂ってやつだ。昨晩はあんなしおらしい態度を見せておいて、日付代わって火曜日になってりゃ手の平を返された。女の恐ろしさの片鱗を味わった気分というか、古泉にゲームでボロ負けした絶望感というか、そんなマイナスの感情に心を苛まされたのは言うまでもない。
 ちょっとコンビニまで、とか危機感なくふらふら外出している……ってわけでもなさそうだ。もちろん、学校へ向かったのでもないだろう。
 書き置きがあった。この部屋に第三者が足を踏み入れてさえいなければ、それは美代子が残した手紙で間違いない。
『明日、あのときのあの場所で』
 意味がわからない。
 なんで明日なんだ? あのときっていつの話で、あの場所ってのはどこのことだ? そもそも、どうしてそこまで俺がおとなしく待っていなくちゃならない!? 勝手な行動を取るあいつの言いつけを、俺が律儀に守ると考えているなら甘く見すぎだ。
 明日ということは、今日一日は俺の好き勝手に動いていいってことだろう。そもそも『明日』とか言うのなら、せめて最後に『捜さないでください』くらい殊勝な一文を書いてみろ。書かれたところで大却下だがな。
 そうとなれば、いつまでもマンションの中でまごついている場合じゃない。身支度を調え、携帯で時間を確認すればまもなく正午になろうかという時間。俺の格好は昨日から引き続き北高の制服で、そのまま外に出歩くのはマズイ気もするが、小学生が一人フラフラ出歩いていることに比べたら、まだ健全だろうさ。
 憤まんやるかたない気持ちでドアに手をかけて力一杯ドアを開けた瞬間「きゃっ」と短い悲鳴が聞こえた。ドアを乱暴にあけたそこに誰かいたようだ。やばい、ここは別にTFEI専用のマンションってわけじゃなかった。ごく普通の一般人も住んでるはずだ。
「す、すいません。大丈夫ですか?」
 開けたドアが誰かにぶつかった、って手応えはなかったが、驚かせてしまったことは間違いなく、だったら悪いのは俺だ。謝るのが人の道理に適した行動だと思って声をかけると、そこにいたのは本来ならここにいるはずもない人だった。
「だ、大丈夫。まさかタイミング良く開くなんて思ってなくて、ビックリしちゃっただけだから。でもキョンくん、ここにいてくれて良かった〜。ちょっと捜しちゃいました」
 俺を捜していたというのは嬉しい話だが、それにしてもどういう理由でこんなところにあなたが……。
「なんで、朝比奈さんがここに?」
 俺がこの人を見間違うわけがない。私服姿でも部室で見慣れたメイド服でもなく、かといってゴージャスバージョンの朝比奈さん(大)でも当然なく、北高の制服に身を包んだ朝比奈さんがそこにいた。この時間なら学校にいるはずなのに……まさかサボりですか?
「違いますよ〜。長門さんから頼まれて、ここに来たんです。ええっとそれで……この時間平面だと、昨日の夕方の学校ってことになるの?」
「へ?」
「え?」
 何のことだと言う俺の顔を見て、朝比奈さんも困惑の表情を浮かべた。
「だって、あれ? ちょ、ちょっと待ってくださいね」
 俺をマンションの中に押し戻した朝比奈さんは、そこで何をしているのかさっぱりわからないが、しばらくして向こうからドアを開けた。
「あのぉ〜、やっぱり間違いないみたいです。申請も通ってますし……」
「申請?」
 それはつまりあれですか。時間遡航をする申請ってことですか。
 朝比奈さんがそんな言葉を使うということは、それ以外に考えられないから間違いな……え? それじゃ平日の真っ昼間から学校をサボってこんなところまでやってきて俺を捜していたのは、未来的な厄介事に巻き込むため?
 ええっと、なんと申しましょうか朝比奈さん。ええ、不肖このわたくし、あなたの頼みであるのなら何を置いても馳せ参じる覚悟はありますよ。そりゃもう、現在過去未来、あなたが頼めば何処なりとも参りましょう。参りますけどね、今このタイミングでお願いされちゃうのは別の意味で参っちゃうんですが……。
「ち、違いますっ。学校を休んでとか、あたしの都合とかじゃないんです。今回のことは長門さんからのお願いで……だから昨日、キョンくんと別れたあと、ここへすぐ跳んできたの」
「昨日と言うと……森さんたちに送られて、鶴屋さんのところへ行く前、ですか?」
「そうです」
 それで鶴屋さんのところまで見送ろうとした俺の申し出を断ったわけか。
「長門から?」
「そうですよ。あ、これも禁則……じゃないみたい。えと、昨日部室で長門さん、あたしに触ったときに、一人でこの時間平面のこのマンションの505号室にいるキョンくんを昨日の放課後の学校まで連れてきて、ってデータを送ってきて。時間遡航する申請が通るか不安だったんですけど無事に通って……だからあたし、今ここにいるんです」
 昨日部室で? んーと……あれか、美代子と妹が部室に乱入したとき、コンピ研に呼ばれていたと言う長門が珍しく朝比奈さんにお茶を出すように進言したときに触れて……ああ、そういえば去年の十二月の世界改変時、長門は朝比奈さん(大)への指ちょんで改変時間のデータを渡していたっけ。
 未来人は宇宙人が言うところの言語での情報伝達をしなくても済むようになっているんだな。人間の将来も便利になってるもんだ。
 そんな人間の未来に思いを馳せていても仕方がない。つまるところ、朝比奈さんは長門のお願いを聞いてここにいるわけだな? なら、この時間遡航も今回の事件に関わることと思って間違いないんだな、長門よ。
 今回はすっかり姿を眩ませて、おまえはいったい何を企んでいるんだ?
「それじゃキョンくん、いいですか?」
 朝比奈さんが俺の手首を握る。どうせだったら手を繋いでくれないですかね? ダメですか、そうですか……なんて考えていると、地面を踏みしめる足下の感覚が失われ、頭のてっぺんまで麻痺するような衝撃が襲ってくる。感覚がないのに刺激を感じる奇妙な体験。濁流に呑み込まれた流木のように前後左右の方向感覚も麻痺し、鼓膜を激しく揺さぶるように耳鳴りがする。
 相変わらずこれは……きつい。一眠りしたが、いつものベッドで寝たわけじゃない。体力がイエロー表示の俺には、そろそろエチケット袋を用意してもらいたいぞ……。
「はい……着きました」
 その声に合わせるように地球の重力が復活し、その意外な重さに膝が砕けそうになる。辛うじて倒れ込まなかったのは、朝比奈さんが手首を掴んでくれていたからに他ならない……って、しまった。どうせだったらわざと倒れ込んで、朝比奈さんに寄りかかればよかった。
「どこですか、ここ?」
「えっと、体育館の用具室です。人気のないところ、って選んで」
 うーん、それは確かにそうだが、もしここに誰かがやってきたらどう思うだろうね。人がいない体育用具室、そこに若い男女が二人っきり。しかも相手は北高非公認の美少女、朝比奈みくるさんときている。思春期真っ盛りの男としては、夢のようなシチュエーションだ。
 現実は、夢を打ち砕くことしか続いてないけどな。
「とりあえず、ここ出ましょう」
 人が誰もいないことを確認してからコッソリ用具室から抜け出して、俺はまず肝心なことを朝比奈さんに尋ねた。
「それで、俺はここで何すればいいんですか?」
「ふぇっ!? あ、あのあたし、キョンくんを連れてくるだけで、それ以外のことは何も……。長門さんからのお願いだから、キョンくんも知ってるとばかり思って」
 長門め。朝比奈さんに頼み事をするなら、最後までしっかり説明しておいてくれ。それができないなら、当事者の俺くらいにはちゃんと話をしてくれたっていいじゃないか。
 かといって、ここで朝比奈さんが急に眠りだしたら、朝比奈さん(大)が出てくる合図になりそうだが、それはつまり、いずれまた俺はこの時間までやってきそうな嫌な予感に切り替わる。あの七夕の日のように。
「……朝比奈さん、今何時ですか?」
「え……っと」
 ひとつ思い至り、朝比奈さんに時間を尋ねると、その細い手首に不釣り合いなちょっとゴツめの電波時計をピピッと操作する。
「今、午後四時半になるころね」
「昨日の……この日のことですが、俺を突き飛ばしたのは何時頃ですか?」
「その時間はちゃんと覚えてますよ。午後四時五十二分です」
 そういうこと……なのか? 俺に狙撃犯を見せるために、わざわざ朝比奈さんの力を借りてまで時間遡航をさせたのか? ただ、それを見せるためだけに?
 違うな。何か違う。それなら長門が口で説明すればいいだけの話だ。あいつがそんな回りくどいことをするはずがない。そういうことなら言葉で説明するはずだ。普段無口だが、必要なことなら話はしてくれる。……まぁ、何を言いたいのか俺の頭じゃ理解できないのが難点だが。
 それに俺が今、狙撃犯を目撃したところで手出しはできない。狙撃された、という事実があること前提で俺はここにいるのだから、その前に狙撃を止めるような真似は、歴史を変えることになる。
 かといって……そうか。閃いた。
 この時間なら長門がどこにいるのかわかっている。あいつはコンピ研に呼ばれてたとか言ってたし、そこにいけばいるはずだ。なんで朝比奈さんを巻き込んでまで俺をこの時間に遡航させたのか、本人に会って直接聞けばいいじゃないか。
「朝比奈さん、長門に会いましょう。あいつは今、」
 ふと、視界の隅に入る陰。
 よくあるじゃないか。正面を見ていても、視界の隅に何か動くものが見えたりすることが。意識することもなく、周辺視野が捉えた陰に気を取られることが。
 それと同じだ。目は確かに朝比奈さんを見ていたが、視界の片隅に写るそれがふと気になって、俺は視線をそちらに向けた。
 ──なんで、朝倉がいるんだ?
 美代子のことじゃない。あいつは今、部室にいるか喜緑さんに連れられて長門のマンションに向かってるころだと思う。
 そうじゃない。そうじゃないんだ。
 そこにいたのは、かつて俺を殺そうとして長門に消された、朝倉涼子そのものだった。その姿は俺じゃなくたって、たとえ谷口や国木田が見ても彼女は朝倉涼子と言うだろうし、ハルヒとて朝倉と思うだろう。生き写し……というよりも、本人と言って間違いない。
 それが俺を見て、微笑んで、手招きをして──廊下の先へ姿を消す。
「おい……おい、待てっ!」
 廊下の角を曲がり去っていく朝倉を、俺は無意識のうちに追いかけていた。後ろから朝比奈さんが俺を呼んだ気がするが、立ち止まれるわけがない。走り出し、角を曲がり、朝倉の後を追う。どこまで走ったのか分からないがそれでも後を追いかけ、けれど追いつかない。
 あいつは歩いているのに、角を曲がれば次の角まで朝倉は進んでいた。幻を追いかけているような気分になってくる。
 本当に朝倉がそこにいるのか? それとも俺は他のヤツには見えない幻影でも追いかけているのか? いったい、どこへ俺を導こうとしているんだ? それとも誘い込んでいるのか?
 そして。
 俺は立ち止まり、耳を澄ます。周囲を見渡す。
 時間は今、午後の四時……四〇分を過ぎたころか? 時計があるわけじゃないが、この時間に遡航して朝比奈さんから聞いた時間から、朝倉の幻影を追いかけた体感時間を足してもそのくらい……いや、もしかすると、もっと時間は過ぎているかもしれない。
 けれど、決して遅い時間じゃない。高校にもなれば、まだ人が大勢いておかしくない時間だ。部活だってある。教師だって何人も残っているだろう。
 なのになんで、こんなに静かなんだ? どうして人っ子一人見かけない? ここは……学校だよな? 俺が知ってる場所で間違いないんだよな?
「キョンくん!」
 大声で呼ばれて、口から心臓が飛び出るほど驚いた。朝比奈さんがいる。俺の後を追いかけてくれていたんだろう。人気がまるでない中で、自分以外の人がいてホッと安堵の息が口から漏れる。よかった、ここには俺以外にも人がいる。
「すいません朝比奈さん。実は、」
「まるでピエロだ」
 俺の言葉にかぶせる声。朝比奈さんじゃない、男の声。一度聞いたら忘れそうにない声だが、決して心地良い声音ではない。本能的な部分で灯される危険シグナルがイエローを表示し、反射的に振り返る。
 その男は、二月のあの日、花壇で記憶メディアを俺たちより先に見つけたときと同じような、高台から見下ろしてるような、野道を這う虫を見るような、けれどそこに敵意を含ませた目で、俺と朝比奈さんを睨んでいる。
 思いも寄らないところでまさかの登場だ。いや、予定通りの登場なのか? ここでコイツが現れたということは、古泉の憶測通り、この時間に俺を狙い撃った狙撃手はコイツか、あるいはこいつの連れの女ってことか? どちらにしろ、予想に反してはいたが現れてみれば納得できる相手さ。
「滑稽で無様だ。ありもしない幻影に踊らされて、このザマとはね。哀れにすら感じるよ」
「どうしてここにいる、なんて聞くのも馬鹿らしいな。おまえの仕業か」
「僕が? 何をしたと? 憶測はやめておけ。いや、身の程をわきまえろ、と言うべきか。あんたなんかに未来はわからない」
「知りたくもないね。だからこそ、今できることをするだけだ」
「できること?」
 男が鼻でふんっと笑う。それが嘲笑だってことくらい、俺にだってわかるさ。
「その『できること』とやらは何だ? せいぜいが、宇宙人女やそこの女の操り人形じゃないか。あんたは自分の意思で動いているのか? いいようにコマにされて誘導され、それを自分の意思だと思っているだけだ。だから、自分の犯す罪に気づかない」
 意味がわからない。そもそもコイツと悠長に話をしてやる義理も義務もない。いや、ひとつだけあるか。
「あの狙撃は何の真似だ」
「だからピエロだと言うんだ」
 そう言って、男は窓の外を指さした。つい釣られて目を向ける。そこで俺は、俺を見た。この時間、姿を消した美代子を捜して校内を走り回っていたこの時間に存在する俺。
 そうか、この場所は──。
「あと、一分」
 カウントダウンが始まる。
「それで未来が決まる。そして、あんたに未来は変えられない。長門有希が何故、ここにあんたを連れてくるように朝比奈みくるに頼んだのかわかるか? 考えなかったのか? いや、あんたでも考えるだろう。何か理由があるとすれば、それは狙撃のことに違いない。けれどあんたは未来を考え、それを止めることに躊躇する。だから、迷う。幻影を見る」
 コイツ……。
「おまえも見たのか」
「見たんじゃない。知っているだけだ。そしてその結末も。いいだろう、答えてやる。あんたを狙撃したのは──」
 響く、銃声。あのとき聞こえなかった音が、耳をつんざく。
「──長門有希だ」