タクシーの後部座席に三人並んで腰掛けて、俺はドアに寄りかかって寝息を立てている美代子を見た。長門のマンションでも寝ていたくせに、車の中でも寝ちまうとはね。ここまでぐーすか眠れるヤツは、そうそういないぞ。
「寝たふりをしているのかもしれませんよ」
と、古泉は言う。ここで寝たふりをする理由がわからん。
「眠っていれば、あれこれ問い質されることもありません。できれば僕も寝たふりをしたいところです」
「だったら寝てろ。先に言っておくが、俺に寄りかかろうものなら窓から放り投げるぞ」
「それは困りますね。なら、眠くならないような話でもしてほしいところです」
「話すことは何もないな」
「そうですか。それなら僕の方から質問させてもらってもよろしいですか?」
拒否権を発動したいところだが、説明したがりの古泉のことだ、何を言ったところで黙るわけがない。目的地に到着するまでの暇つぶしに、相手くらいはしてやるさ。
「どうして、僕を信用したのでしょう?」
「それは喜緑さんに感謝しろ。いろいろ説明してくれたあの人が『自分は味方じゃない』って言ったんだ。なら、俺の味方はSOS団のメンツしかいないだろ」
もちろん、こいつを信じていたのはそれだけが理由じゃない。他にもいろいろあるが、確信を得られたのは「個人的な意見」ってヤツを言ったことだ。
今まで呆れるほど古泉からよもやま話を聞かされているが、こいつは真面目な話の中で一度として「個人的な意見」ってのを出していない。信憑性の高い話であればあるこそ、こいつはさも人から聞いた話とばかりに語るくせに、あの時に限っては「自分の意見」ってのを主張しやがった。
それはつまり、あそこにいるのは『機関』としての任務優先というわけではなく、一個人としてやってきたんだと主張している……と俺は考えたわけだ。
「それはまた、一か八かの賭けですね」
「そうでもない。一年以上、面を付き合わせているから、なんとなくわかる。伊達に長門の表情分析を半年で終わらせちゃいないぞ」
「それはそれは……」
「おまえこそ、俺やこいつを助けるような真似をしていいのか? 『機関』の古泉一樹として」
「助けたわけではありませんよ。突如発生した異常空間からターゲットを安全地域まで誘導した──ただ、それだけのことです」
なるほどね。こいつには二枚舌があったっけな。心配してやるまでもないことか。
「あの異常空間に僕たちを引きずり込んだのは、長門さんですよね」
「それは知らん。マンションにはいなかった。もしかすると喜緑さんかもな」
「それはないでしょう。あのタイミングで閉鎖空間と類似性を持つ疑似空間を作り出せるのは、長門さんしかいません。喜緑さんにできないのではなく、ね」
「どんな違いがあるってんだ」
「喜緑さんはあなたたち二人に肩入れしているようですが、僕にまで気を回しているとは考えにくい。あの状況なら、僕があなたたちを通常空間に連れ戻して逃がしても、疑似空間を作り出すような第三者の攻撃から守るため──と言い訳ができるじゃないですか。もし喜緑さんが作り出したのなら、あなたたち二人は通常空間に残したままでよかったはずでは?」
長門にそういう気遣いができるとは思わないが……まぁ、古泉がそれで納得しているのなら余計なことを口走る必要もない。
「おまえの話に付き合ってやったんだ、ひとつ聞かせろ」
「なんでしょう?」
「森さんの話はどこまで本当だ?」
「すべてです」
と、古泉は躊躇う素振りすら見せずにそう言った。
「狙撃の話もか?」
「証明しろと言われると困りますが、こればかりは信じていただくしかありません」
今更、古泉の話を疑っても仕方がない。今のこいつがそう言うのだから、狙撃手は『機関』の自作自演ではなく、第三者が行ったものとして間違いない。
なら誰だ? 『機関』の追撃を免れている一般人……なんて、想像もできやしない。それともまだ見ぬ登場人物でも隠れているってのか?
「こういう仮説は如何でしょう」
「なんだ?」
「あなたを狙撃した銃は、今はまだこの世界のどこにも存在していない。けれどこれから先の未来では作られている銃……という仮説です」
「それは……」
どういう意味だと問いつめるより先に、古泉はタクシーを停車させた。
「僕がお付き合いできるのはここまでです。そろそろ『機関』の古泉一樹に戻らねば、妙な疑いを掛けられそうですからね」
「いろいろ助かった、と感謝しておくよ」
「あなたに感謝されるとは僥倖です。ですが、あなたが『機関』に吉村美代子の身柄引き渡しを拒否した時点で、今回の事件はあなたが片を付けなければならなくなりました。どう決着を付けるのか、楽しみにしていますよ」
「他人事みたいに言うな」
「個人的な意見を言ったでしょう? 好きこのんで関わりを持つのは、あなたくらいです。それでは、また」
「待て」
立ち去ろうとする古泉を、俺は呼び止める。このまま帰られても、俺は困るんだ。
「まだ何か?」
「タクシー代、貸してくれ」
今ほど古泉に感謝したことはない。あいつが俺に渡したのは、諭吉さんではなくカードだ。しかも使用制限なしのブラックカードと来たもんだ。なんだってあいつがこんなもんを持ってるのか知らないが、水戸黄門の印籠よろしくどこにでも入れたり買えたりするらしい。今のうちに犬が洗えそうな庭付き一戸建てでも買っておこうかね。
ま、冷静に考えればそんな浮かれていられないんだがな。あいつがこんなカードを俺に渡すということは、それだけ金がかかるぞ、と忠告しているようなもんだ。
どうやら俺は、『機関』の申し出を断った時点で美代子と一緒に行動しなければならないらしい。愛の逃避行ってやつさ。はっはっは。
……笑えないな。
そもそも今は笑ってる場合じゃない。この状況は極めて俺の都合が悪い。
家にも帰れず、美代子と離れることもできず、かといって行く当てがどこにもない。鶴屋さんのところは朝比奈さんがお邪魔しているし、そもそもこれ以上、巻き込むわけにもいかない。長門のマンションにしたって、長門自身が外出中なら戻っても仕方がない。
ならばどこかに休めるところを、となっても、ビジネスホテルやファッションホテルに北高の制服のまま入るわけにもいかないだろう。そもそも美代子は小学生だ。
まいったな。体を休める場所がどこにもない。
「マンションに戻りましょ」
うおっ、びっくりした。寝ていたとばかり思っていたが、起きていたらしい。
「寝てたんじゃないのか」
「今起きたの」
タイミングが良すぎるだろう……。本当に古泉が言うように、寝たふりをしてたんじゃないんだろうな?
「マンションに戻ってどうする。長門が帰ってきてるのか?」
「長門さんのことなんて知らないわ。でも、前のあたしが使ってた部屋はそのままだと思うよ」
「引っ越したことになってるだろ」
「あなたが江美里と会う前に確かめておいたから確実。他にアテがあるならどこでもいいけど」
手回しのいいことで。こうなることを予想でもしてたのか? ま、休める場所が確保できるのであれば、それに超したことはない。
長門が住むマンションに戻り、美代子はマンション玄関口にあるインターフォン横のテンキーを手慣れた手つきで操作する。と、音もなく扉は開いた。コソコソすると逆に目立つということで、俺たち二人は堂々とエレベータに乗り込み、7階ではなく5階の505号室へ向かう。
表札にはしっかり『朝倉』と書かれてあったが、中には人の気配もなく、窓から見える室内には灯りもついていない。その窓に美代子は手を伸ばし、がさごそしているとカギを取り出した。元宇宙人でも、そんなベタなところに隠すんだな。王道は永遠の真理と、エライ人はよく言ったもんだ。
「どうぞ」
まるで我が家のように俺を招き入れる美代子の後に続いて玄関をくぐると、中は長門の部屋よりも生活感のある風景が広がっていた。
「引っ越ししたことになってんのに、なんで全部残ってるんだ?」
「なんでだろ? あたしを消した後の処理は長門さんがやったから、不思議に思うなら聞いてみたら? 引っ越したっていう事実を作ればいいと思って、中はこのままにしたのかもね」
長門がそういうところで手抜きをするとは思えないんだがなぁ。かといって、事実部屋の中には家具やらなにやらがそのまま残っている。さすがに冷蔵庫の中はカラッポだし、ブレーカーも落としてあったが、それ以外は『今まで生活してました。すぐに今から生活できます』ってくらい、物がそろっている。
引っ越したことになってから一年経ってるっていうのに……って、そうか、もう一年か。
「どうしたの?」
俺自身は意識していなかったが、見るともなく美代子の顔を見ていたらしい。おおぐま座のミザールの横にあるアルコルでも探すように目を細める美代子へ、俺は首を横に振った。
「いいや、なんでもない」
ただ、つまらないことを思い出しただけだ。ちょうど去年の……明後日になるか。俺がハルヒ関連でイカレタ状況の当事者になった事件に遭遇したのは。
そういう意味では、こいつが発端だったんだな。事実を告げたのは長門だが、真実を突きつけたのは朝倉涼子だったんだと、何故かそんなことを考えた。
「何か身の危険を感じるよ? えっちぃことでも考えてる?」
「…………」
遠い昔を懐かしむ俺の目を、そういう風に捉えるとは上等だ。が、正直言って妹と同い年の小学生を相手に欲情するほど飢えちゃいない。そういやSOS団のサイト更新してるときに、そういう趣味のヤツが管理人をやってるサイトが……って、他人の趣味をとやかく言うまい。それよりも、俺にはひとつの懸案事項がある。
「自宅へ連絡くらい入れておかないとな……」
いったいこのふざけた事件がいつまで続くか知らないが、家には連絡のひとつでも入れておいたほうがいいだろう。連絡さえ入れておけば問題なさそうだが、無断外泊はさすがにマズイ。
問題は美代子のほうだ。小学生で外泊て……どう言い訳すればいいのやら、見当もつかないな。こいつの……というか、ミヨキチの父親はけっこう厳しい人だったと記憶している。無断外泊なんぞしようものなら、どでかい雷が落ちるかもしれないし、連れ回した(と思われても仕方がない状況に追い込まれた)俺は何をされるかわかったもんじゃない。
「うちは平気かな。お父さんは今日から初めての出張で、お母さんはそんなお父さんのフォローでついて行ってるし」
「出張?」
「情報操作は得意らしいよ? 長門さんも、江美里も」
てことは、あの二人の仕業か。なんつー待遇の良さだ。それなら俺にもそれらしいサービスをしてくれたっていいじゃないか。なんでこいつだけ……って、それだけあの二人にとっても美代子の行動は阻害できない、むしろ協力的な行動を取らなければならないものってことと考えるべきか? 普通なら、喜緑さんはともかくとして長門が情報操作を行ってまでフォローするとは思えん。
それがあの二人の自発的な行動なのか、それとも親玉の命令なのかはわからんが、ともかく俺は自宅へ電話しなければならない。ああ、憂鬱だ。これ以上にないくらい憂鬱だ。
俺は携帯を取り出し、傍らでニヤニヤしている美代子に一瞥をくれて自宅の番号をダイヤルした。妹や父親ならともかく、母親が最大にして最強の壁だな。
電話は、すぐに繋がった。
「あ〜、もしもし。俺だけど」
『あら、どうしたの?』
よりにもよって母さんだ。最強最後のラスボスがゲームスタートと同時に立ちはだかったくらいの難易度となってしまった。
「え〜と、その……」
『なに? 今日、古泉くんのところで勉強会なんでしょう?』
「は?」
『さっき、古泉くんから電話があったわよ。何か忘れ物? 着替えを届けろとか言うんじゃないでしょうね?』
古泉……ありがとう古泉! 今日のおまえは輝いてるぞ。無駄な講釈を垂れまくる無能エスパーなんて、ちょっぴり思っていた自分が恥ずかしいぜ。
「いや、そのことを連絡しようと思っていただけなんだ。うん、それだけ。伝わってるならそれでいいや。うん、それじゃ」
下手なボロを出す前に通話を切った。古泉のおかげで、少なくとも今夜一晩は外泊しても問題なさそうだ。明日以降はどうなるか、知ったこっちゃない。できれば明日で片付けたいところだが……決着か。古泉も、俺がどう決着をつけるか楽しみにしてるとか言ってたな。
そんなもん、どうしろってんだ? 決着もなにも、朝倉とミヨキチが一心同体な状況を打破しない限り、平穏なんて訪れやしない。かといって、その状況を俺が改善できるとは思えない。
長門もそれは『不可能』と言っていた。あいつにできないことを、俺にできるわけがないだろ。せいぜいできるのは、側にいて悪さをしないように監視することくらいだ。
勘弁してくれ。
ハルヒの面倒を見るだけでも精一杯なのに、これ以上の厄介事を背負えるほど、俺の背中は広くないんだ。
「無事にイイワケできたみたいね」
「おかげさまで」
美代子の人を食った物言いに、俺はせめてもの皮肉で返してやったが、小学生で中身が朝倉のこいつには通じないらしい。ミヨキチのままなら、えらく恐縮して何も悪くない俺が「すまんかった」と言いたくなるほどなのにな。
「あのさ」
他人に対する気遣いなんて皆無な美代子が、やはり自分の意見をただ主張するために俺に声を掛けてくる。
「なんだ?」
「おなか空いた」
「……で?」
「何か買ってきてよ」
「断る」
「じゃ、あたしコンビニでも行ってくるね」
はっはっは、こやつめ。何で俺が断ったのか、せめてミジンコの体長を秒換算して考えろ。おまえのお願いなんぞ聞いてやりたくないからだし、かと言っておまえ一人をホイホイ外に放り出してたまるか。
「じゃあどうするの? このまま飢え死に? それはちょっとヤだな」
「我慢しろ」
「これから何日も?」
「出前でも取るか?」
「あのね、この部屋、基本的に空き部屋なのよ? そこに出前なんて取ったら、管理人に変に思われちゃうよ? 建設的な意見を出してくれると嬉しいな」
も、もしかして俺は今、小学生にダメ出しをされたんじゃないだろうか? 中身が朝倉でも、それはそれでショックだ。
「ちゃんとここにいるから。ね? 買い物、お願い」
わかったよ、行けばいいんだろ行けば。
少なくとも、美代子が一人で外を歩き回るよりは安全さ。『機関』の連中に見つかれば俺でも面倒なことになるだろうが、美代子の場合は小学生だ。『機関』と関係なく補導されるかもしれない。
「いいか! 絶対何があっても必ず間違いなくここにいろ! 誰か来ても、俺以外は中に入れるなよ!」
「いってらっしゃ〜い」
ええい、くそっ。ここでもか。ここでも俺は使いっ走りにされなきゃならんのか!?
あまりにも理不尽極まりない仕打ちに、心で泣きながらマンションを飛び出し、近くのコンビニに駆け込んで適当に弁当を手に取った俺は、古泉から預かったカードで会計を済ませた。
店員が「温めますか?」なんてもどかしいことを聞いてきたが、爽やかな笑顔で断ってやった。温めなくても食える。ああ、温めてないチーズドリアが美代子の分なのは、言わなくてもわかってると思う。
走ってマンションに舞い戻り、ぜーはーぜーはー肩で息をしながら505号室の扉を開けた。所要時間は十分もかかっていないだろう。我ながら、よくもそこまで必死に走れたな。
「おい、買ってきたぞ」
もちろん、そのとき口にできた言葉はそんなはっきりしたもんじゃない。息切れして、自分自身でも判別不可能な台詞だったような気がする。
だが、俺が戻ってきたことは伝わったはずだ。はずなのに、灯りがついている部屋の中からは何の反応もなかった。
まさかと思い、部屋の中に入ると……俺の予想とは裏腹に美代子はいた。いたのはいいんだが……これも予想外に……美代子は寝ていた。
寝てるんだ。これはどう見ても寝ている。床の上、猫のように丸まって寝息を立てている。長門の部屋といい、タクシーの中といい、こいつはどうしてそこまで寝てるんだ? というか、俺が体力を激しく消耗してまで買ってきた弁当はどうなるんだ?
「本当にそろそろ許してくれ……」
がっくり膝を付き、美代子の顔に油性ペンでラクガキでもしてやろうかと考えたが、さすがにそれは大人気ない。しばらく寝てる美代子を見ていたが、一向に起きる気配はなかった。
しかしあれだ。寝顔を見て思うが、こいつもハルヒと一緒だな。黙って何もせずにおとなしくしていれば美少女なのに、起きて行動すれば面倒を巻き起こす。
その面倒が、ハルヒの場合はポンペイを一瞬にして沈めた大噴火なのに対し、美代子の場合は海底での大地震のような感じだ。つまり地震そのものは陸地に影響ないが、その後の大津波で被害が甚大……みたいな。
「はぁ〜……」
疲れてるんだな。美代子が、じゃない。俺が、だ。
とりあえず、こいつをこのまま床の上で寝かせるのは体によくないと思い、寝室のベッドまで運んで、それから俺も寝よう。俺が寝るのは、どうやら必然的に居間のソファになりそうだ。
「……待って」
美代子を寝室のベッドに寝かせて部屋を出ようとしたそのとき、熱を帯びた指が俺の手に触れた。掴まれたわけではないが、俺の足を止めるには十分だった。
「起きたのか。ああ、起こしたか」
そう問うと、美代子は首を横に振って、俺の問いかけに別の言葉で答えた。
「側にいて」
「……は?」
「いるだけでいいから」
「何言ってるんだ、おまえ」
「お願い……」
俺の手ではなく、指をキュッと掴む。掴まれた指が微かに痛むほどの、強い力。美代子はそれ以上、何も言わずにすぐ寝息を立て始めた。
寝惚けているのか、それともちゃんと意識があって言った言葉なのかわからない。ただ、眠りについても俺の指を離そうとしなかった。
強い力と言っても、寝ている上に女の、それも少女の力だ。引き離すのは簡単だ。
なんてな。
引き離すことができるのなら、俺は今、ここにいない。それができるなら、厄介事で頭を悩ませてなんていないさ。
こいつが何を思ってそう言ったのか、俺が何を考えるべきなのか見当もつかないが。
──今日はこいつの隣で寝てやるか……
何故か……そう思った。
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