朝倉涼子の面影〜恋文〜 後章

 携帯でメールを打ち終わり、時計を見ると約束の時間がそろそろだということに気づく。
 昨晩は布団の中に潜り込んだはいいが、結局眠れなかった。少しはうつらうつらとしていたが、熟睡できる精神状態ではなかったらしい。
 翌日──つまり今日の日曜日になって、何も食べてないことに気づいた。母親が何か言っていた気がするが、それを聞き流して少しは胃の中に食べ物を詰め込み、ミヨキチとの約束の時間までやるべき事を済ませておいて──。
 そして今。
 陰鬱な気分で身支度を調えて、家を出る。すべてが俺の思い過ごしであろうとなかろうと、ハッピーな一日になるとは思えない。自転車ではなく、徒歩で約束の時間を引き延ばすように歩いて向かっているの場所は、朝比奈さんから未来的な告白を受けた河川敷。あそこならそれなりに人通りもあるし、かといって騒がしい場所でもなく、何かと都合がいい。
 河川敷へと向かう途中でも、俺はずっと考えていた。ミヨキチの告白への返事のことじゃない。それについては、どう返事をするか決まっている。そうじゃなくて、ミヨキチと朝倉涼子の関係性についてだ。
 朝倉は対有機生命体コンタクト用ヒューマノイド・インターフェース……って、長いな。略称だとええっと……TFEIだったか。だからミヨキチと朝倉に血縁はないはずだ。そもそも朝倉の血縁という立場で言えば、長門が一番それらしい。バックアップとか、そんな関係だったらしいからな。それが暴走して俺を殺そうと目論み、失敗して消えたわけだ。
 そもそも長門や朝倉の役目はハルヒを観察することで、それなら近い立場でいたほうが都合が良いわけだ。だからミヨキチが朝倉のバックアップ……とまで言わなくとも、ミヨキチもTFEIである可能性は少ない。
 なら、TFEIがどのようにして誕生するのか、ってとこに焦点を合わせて考えてみよう。
 TFEIは情報統合思念体が作り出したアンドロイドだ。アンドロイドの作り方なんて見当も付かないが、俺が知る限り、長門は皮膚を切れば赤い血が流れる。中身も人間のそれと同じで、機械で作られたサイボーグとはワケが違う。有機生命体なわけだ。
 それを作り出すには……やはり何かベースとなるものがあった方が良いのだろうか。だとしたら、朝倉のベースとなったのがミヨキチか?
 それもないな。
 長門や朝倉が誕生したのは、俺が中学一年のころ。そのころミヨキチは小学校……ええっと、二年生で七歳……か?
 どう考えても、ハルヒの側で観察するには精神年齢が幼すぎる。いくら大人びているとはいえ、高校でハルヒの観察をするなら、ハルヒと同い年の人間をベースにして然るべきだ。当時七歳のミヨキチが選ばれるのは不自然極まりない。
 飛躍しすぎな発想で考えても、ミヨキチと朝倉の接点が思い浮かばない。にもかかわらず、仕草や時折見せる表情は似すぎていると思う。
 わからん。さっぱりわからん。
 ただ単に俺の考えすぎなんだろうか。朝倉に二度も殺されかけて心的外傷になっていて、過剰反応しすぎているだけ……ならいいんだが。いや、個人的にはよくないな。
 ともかく──。
「おまたせ」
 在りし日に朝比奈さんと二人並んで座ったベンチに、一人腰掛けていたミヨキチを見つけて俺は声を掛けた。
 ミヨキチの今日の格好は、昨日俺が選んであげたワンピースに、これまた俺がプレゼントした髪留めで髪を結わいてポニーテールにしていた。
 俺が声をかけると顔を上げて微笑み「わたしも今来たところですから」と控えめな声音でそう言いつつ、少し移動してベンチに俺が座るスペースを空けてくれる。俺は黙ってミヨキチの隣に腰を下ろした。
「あの」
 どうやって話を切り出そうか考えていた俺より先に、ミヨキチの方から話しかけてきた。
「お体の方は大丈夫なんですか? 今日も顔色が良くなさそうですし……」
「ああ、もう大丈夫だ。えーっと、それで……手紙の返事なんだけど」
「あ……はい」
 ミヨキチから、体のこわばりが空気を通して感じられる。もしかすると、ミヨキチにとっては初恋で初めての告白で──と、何から何まで初めて尽くしのことなんじゃなかろうか?
 かくいう俺も、こうやって告白の返事をするなんてのは初めて……うん、初めてということにしておこう。だから、あまり余計なことは言わずに、すんなり答えを出してやるべきなんだろうとは思うが……そうもいかないんだよな。
「昨日、メールで『気にしないで』とか言ってたけど、やっぱりこういうことはしっかり答えを出しておいたほうがいいと思ってさ。あやふやなままだと、お互いどうも……ギクシャクするだろ? だから……なんだけど、その前にちょっと聞きたいことがあるんだ」
「え……?」
 俺の言葉に、ミヨキチは虚を突かれたように顔を上げた。
「えーっとだな……」
 しまった……どうやって話を切り出すか、そこまで考えていなかった。何の前振りもなく、いきなり「朝倉涼子とのご関係は?」なんて聞いても、とぼけられたらそれまでだ。かといって他に聞き出すいい方法なんてないしな……。
「あ、あのっ! もう……その、わかりました」
 あれこれ悩んでいると、場の空気に耐えきれなくなったのか、ミヨキチがそんなことを言いだした。
「返事は……わかってました。お兄さん、好きな人いますよね?」
「……は?」
「お兄さんは、涼宮ハルヒさんのことが……好きなんですよね?」
 おいおい……なんでハルヒの名前がミヨキチの口から出てくるんだ? しかもなんで俺がハルヒのことを……って、まぁ、それは……ええい、ノーコメントだ。
「彼女から……ええっと、妹さんから聞いてます。そう……なんですよね?」
「いや、なんと言うか……ハルヒに会ったことあるのか?」
「わたしは直接お会いしたことはありませんけれど、いつも話を聞くんです。『キョンくん、今日もハルにゃんと〜』って。楽しそうに話してましたよ。涼宮さんて、どんな方なんですか?」
 どんなヤツって聞かれてもな……厚顔無恥で大胆不敵で唯我独尊で──と、四文字熟語で表現しまくれる奇特なヤツとしか言いようがない。本人を前にしては言えない言葉ばかりだがな。
 そう言うと、ミヨキチは鈴を転がしたような笑い声を上げた。
「お兄さん、本当に変な人ばかり好きになるんですね」
 ここでもか。ここでも俺は「変な女好き」に認定されているのか。ミヨキチが言ってるのはハルヒのこともそうだろうが、国木田や中河が勘違いしているあいつのことも含まれていそうだ。まったくいい迷惑だ。どこをどう見たらそんな勘違いをするのか問い質したいもんだ……が、ちょっと待て。
「なんで……そんなこと知ってるんだ?」
「そんなこと……って?」
 ミヨキチは本気でわからないという顔をしているが、オレの方も訳がわからない。
 どうしてミヨキチは、俺が「変な女好き」という不名誉な話を知っているんだ? そのことを知っている……というか、言いふらしているのは国木田を始め、俺と同じ中学でクラスメイトだったヤツらだ。少なくとも、妹はそのことを知らない。妹の方からあいつのことを話題に出してきたこともないし、俺からもない。
 だからといって、ミヨキチが自分の友好関係で俺の中学時代のクラスメイトと知り合いってこともないはずだ。でなけりゃ、俺が中学卒業のときの映画館デートはなかっただろう。あのときのミヨキチの雰囲気は……映画を理由にデートに誘った、ってもんじゃない。身近にいる十二歳以上の知り合いが俺しかいなかったから俺を誘った……そんな雰囲気だった。
 だから、変な女のことを知っているのは、中学時代の級友か、高校で俺とつるんでいる谷口、さらにどこから聞いたのか知らないが古泉、そして俺とハルヒがまともに話をするようになった頃合いに、国木田がぽろっと漏らしたのを聞いていたであろう──。
「朝倉……涼子?」
 その名前を口にする。ミヨキチは一瞬……ほんの一瞬だけ、キョトンとした顔を見せたが、すぐに笑顔に戻った。
「朝倉……さんですか? 誰のことなんですか?」
「誰って……」
 とぼけているのか? それとも、本当に知らないのか? 全部……俺の勘違いなのか? けれど、鳩尾あたりにぎゅーっとくる嫌な雰囲気というか、違和感はなんだ? 世界が改変されたあのときのような不安の正体は……。
「ああ、そうか」
 その笑顔だ。ミヨキチの香りとか仕草とか、それも確かに朝倉に似ているが、一番似ているのは、その笑い顔だ。
 ミヨキチも、そりゃ人並みに笑うさ。長門みたいに無表情ってわけじゃなく、俺が中学卒業のときの映画館デートでも笑っていた。けれどその笑顔は無垢というか、無邪気というか、感情のわき起こりでこぼれるよう、そんな笑顔だった。
 けれど今の笑顔は……なんというか、表面だけを取り繕ったような笑みだ。他人と円滑なコミュニケーションを取るためには笑顔が必要だからと、そんな理由あっての笑い方。朝倉もよく笑っていたが、その笑顔は仮面が笑ったような微笑みで、その印象が今のミヨキチからも感じ取れる。
「おまえ……」
 手の平にじっとりと汗が滲む。喉の奥が張り付くほどに口の中が乾く。
 それでも俺は問いかける。
「朝倉涼子だろう?」
 俺の言葉に、ミヨキチの表情から笑みがすーっと引いた。顔を逸らし、視線を足下に落とす。
「わたし、吉村美代子ですよ。お兄さんも知ってるわたしです。なのに、そんなこと言うなんて……」
 ミヨキチはわずかに肩を震わせる。もしかして泣いてたりとか……しないよな? ミヨキチと朝倉は本当に何も関係なくて、すべてが俺の勘違いで、それでそんな問いつめるような真似をして……もし違っていれば、俺はとんでもないことをしでかしたことになる。
「どうして……」
 落としていた視線を再び俺に戻しミヨキチは──
「どうして、あなたにはすぐわかっちゃうのかしら?」
 ──いや、朝倉涼子は、笑顔を顔に張り付けて……そう言った。

 血の気が一気に引いたのは言うまでもない。そこにいるのは確かにミヨキチだが、俺の目にはもう、殺人鬼の朝倉涼子の姿にしか見えていなかった。
「なんで……おまえがどうして」
 本当なら立ち上がって逃げたほうが自然な反応なんだろうか。
 けれど今の俺は、疑念が確信に変わったショックで足腰に力が入らない。俺を殺そうと──長門が十二月に改変した世界でさえも殺そうと──兇刃を振るった相手が目の前にいるのだ。しかもそれが、妹の親友の姿を借りてそこにいる。腰が抜けないほうが不自然ってもんだろう。
「あ〜あ、こんなに早くバレちゃうなんて。けっこう鋭いんだ」
 探るような目で俺を見る朝倉は、もう開き直ったのか何も隠そうとはしない。ここでこうやって俺と話をしていることが当たり前と言わんばかりに、ごく自然に話しかけてくる。
「それだけ、あたしのことを見ていてくれたのかな? ちょっと嬉しいかも」
 自分を殺そうとする相手のことを気にかけないヤツがいるのなら、そいつはよっぽど肝が据わってるか楽天的なアホのどっちかだろ。
「どうしておまえが……吉村美代子の姿をしてるんだ? ミヨキチはどうしたんだ!?」
「どうしたって、目の前にいるでしょう? あたしが吉村美代子よ、お兄さん」
「ふざけるなっ!」
 何が「お兄さん」だ、趣味の悪い冗談はやめてくれ。そもそも、そこにいるのが朝倉なら、ミヨキチはどこに行ったって言うんだ? 少なくとも昔に会ったミヨキチは朝倉じゃない。あのときまでミヨキチは吉村美代子だった。
 それがなんで、今さら朝倉がミヨキチの格好をして俺の前に現れなくちゃならないんだ!?
「どうせわからないと思うけどなぁ。でも、まだ時間がありそうだから説明してあげる」
 何の時間か知らないが、俺が納得いくことを話してもらおうか。事と次第によっては……まぁ、俺にできることなんて限られているが、それでも本物のミヨキチを取り戻してやる。
「長門さんからも聞いてるでしょ? あたしたちは情報統合思念体っていう情報生命体が作り出したコンタクト用ヒューマノイド・インターフェースなの。情報生命体っていうのは、突き詰めれば『情報』という一因子のみで存在する生命体。でもインターフェースの場合は有機生命体とコンタクトを取るために『器』と、その器を動かす『動力源』っていうさらに二つの情報が必要になるの。ここまではわかる?」
 それは……なんだ? よくわからん。
「逆の言い方をすれば、有機生命体は『肉体』と『魂』と『心』っていう三つの情報でできてるの。情報生命体の場合は『心』のみで存在するもの」
 その説明で俺の頭の中に浮かんだのは、阪中のとこの犬に取り憑いた珪素生命体のことだった。あれは確か、珪素を宿主にした原始的な情報生命体……とか言ってたな。それが宿主をなくして情報だけが残り、それがルソーに取り憑いて……ってまさか、それと同じようなことをこいつは……朝倉はミヨキチに行ったとでも? そんなことができるのか?
「そういう事例があったのなら、わかりやすいかな。確かにあたしは長門さんに『肉体』という宿主を消されて、『心』っていう一情報だけになっちゃったわけだし。でも、その事例ともちょっと違うかも」
「どう違うってんだ」
「情報生命体が蓄積している情報量は、有機生命体の脳では処理しきれないと思うな。だから、本来なら『あたし』という情報は『吉村美代子』という有機生命体に寄生することはできない。その犬に取り憑いた情報生命体も、犬自身に相当な負担をかけてたんじゃないかしら?」
 確かに……取り憑かれた犬は、ルソーをはじめことごとく衰弱していたな。
「けれどおまえはそこにいるんだろ」
「それができたのは、あたしが三つの情報に分割され、さらにあたしが『あたし』として存在する『心』っていう情報のみが圧縮されて残ったから。それだと情報量も三分の一……ううん、圧縮されているからもっと小さいもの。それでもちょっと人間の脳には多すぎるけれど、なんとか吉村美代子の空き領域に潜り込ませることができたみたい。データをインストールできたら、あとは簡単だったわ。吉村美代子がこれまで蓄えてきた人格形成情報に、朝倉涼子としての記憶情報を関連づけるだけで、あたしは『あたし』として存在できるんだから。だからあたしは『朝倉涼子』でもあり『吉村美代子』でもあるのよ」
 何がどう簡単なのか俺には理解不能だが……ともかく、朝倉はミヨキチに取り憑いてるわけだ。だったら、ルソーから珪素生命体をシャミセンに移したように、朝倉をミヨキチから別の何かに移動させれば、ひとまずは解決するってことだな。
「それ無理」
「なんだと?」
「パソコンで考えればわかりやすいかな? この肉体がパソコン本体だとすれば、肉体を動かすOSが、これまでは『吉村美代子』だけだったの。でも今は『吉村美代子と朝倉涼子』っていう別のOSで動いてる。寄生ではなく共生ということ。どちらか一方を取り外そうとしたら、動かなくなると思うよ」
 それじゃ、朝倉をミヨキチの中から追い出すのは不可能ってことか? こいつは……そうまでして俺の前に現れて、そこまで俺を殺したいってわけか。
「ねぇ、何か勘違いしてるんじゃない? あたし、別にあなたを殺したいわけじゃないけどな」
「……は?」
「あたしはただ、何の変化もない観察対象に飽き飽きしているだけ。涼宮さんが何らかの情報爆発を起こしてくれさえすれば、それで十分。それにあなたを殺すのは……長門さんが側にいるし、無理みたいだからやめておこうかなって。他の方法も思いついちゃったし」
 俺を殺さない……って言葉を鵜呑みにするのは危険な気もするが、他の方法っていうのが余計に気になる。それはつまり、ハルヒに直接何かしてやろうって言ってるんじゃないのか? まさか、ハルヒに自分の正体をバラしてトンデモ話が当たり前の世界にしちまおう、とかそういう類のもんじゃないだろうな?
「それはまだナイショ。でも、あなたに協力してもらいたいかなぁ」
「断る」
 なんで俺が朝倉に協力してやらなけりゃならんのだ。しかもハルヒのトンデモパワーを発動させる手助けだと? 冗談も休み休み言え。
「そんなこと言わずに、協力してくれませんか? お兄さん」
 こいつ……だからミヨキチの姿で俺のことを「お兄さん」なんて呼ぶな。
「どちらにしろ、協力はしてもらうことになるかな。それとも……あたしが『朝倉涼子』だって涼宮さんにばらす? それはそれで情報爆発が起きると思うから願ったり叶ったりなんだけど、あなたにとっては困ったことになるんじゃないかしら?」
 くすくすと微笑んで、朝倉はベンチから腰を上げた。
「今日は帰るね」
「待てよ!」
「あなたのことだから、ここに来る前からあたしのことに気づいていたんでしょう? 気づいていて、そのままあたしに会うわけないもの。どうせ事前に長門さんに連絡してたんじゃないかしら?」
 確かに……俺はここに来る前に長門にメールを出しておいた。ミヨキチとの待ち合わせ時間から三十分後に再度連絡がなかったら、河川敷に来てもらうようにしておいた。
 何しろここに来る前は、ミヨキチが朝倉かもしれないと思っていたんだ。朝倉かもしれない相手と会うのに、何の準備もしないほど俺はボケちゃいない……が、それも読まれていたってわけか。くそっ。
「図星みたいね。そろそろ長門さんが来る頃合いかな? 長門さん、あなたのことになるとムキになって怖いから、会いたくないな」
 立ち去ろうとする朝倉を、俺はただ見送るしかできない。人通りが少ないとはいえ、まるっきり誰もいない無人の場所ってわけでもないんだ。ここで力づくで朝倉を押さえつけていても、悲鳴のひとつでも上げられたら、俺が暴漢魔に勘違いされてもおかしくない。
 自分の身を守るつもりで選んだこの場所だが、朝倉にとってもすんなり帰るにはうってつけの場所になっちまったってわけだ。
「あ、そうそう」
 ふと足を止めて、朝倉が振り返る。
「ラブレターの返事をくれるなら、急がなくてもかまいません。いつまでも待っていますね……お兄さん」
 軽やかに微笑む朝倉の……いや、ミヨキチのその姿に、俺は目眩を覚えた。