朝倉涼子の面影〜恋文〜 新章:encounter

「彼女の言葉は、おそらく事実」
 と、朝倉と入れ違いでやってきた長門に今の状況を説明すると、あっさり肯定した。
「なんとかミヨキチから朝倉を追い出すことはできないのか?」
 朝倉自身はそれが「無理」と言っていた。それは朝倉の言い分だ。実際に無理かどうかはわからない。もしかすると長門ならなんとかしてくれる……なんて淡い期待を寄せていたんだが。
「不可能」
 初めて、長門の口から「不可能」って単語が出たように思う。こいつにもできないことがあったとは、素直に驚いた。
「だが、方法はゼロではない」
 いったんは落ち込んだ俺だったが、その言葉に色めきだつ。方法があるのなら、不可能とは言わないだろ。
「どうすればいいんだ?」
 尋ねると、長門は誰かに判断を仰ぐかのように視線を空中に彷徨わせてから俺に目を向けて、まったく関係なことを口にした。
「わたしたちインターフェースは涼宮ハルヒの情報フレア発生が観測されてから作り出された。故に朝倉涼子の行った既存有機生命体への人格情報結合は初めてのケース。その行動は極めて異質であり、ひとつの可能性を秘めている」
「なんだって?」
「つまり──進化」
 進化……進化か。そういや長門の──というよりも長門の親玉の目的は自律進化の可能性をハルヒから探り出すことだったな。
「現状の朝倉涼子は、一般の地球人類と大差はない。他情報への干渉能力はなく、情報統合思念体からも切り離されたスタンドアローンの存在。それは通常ではあり得ないこと。朝倉涼子が吉村美代子と共生しているのは、彼女の意思で行った──進化」
 ミヨキチの中に朝倉がいるとわかった時点で、おぼろげに考えていたことがある。
 どうして朝倉がミヨキチを選んだのか、ということだ。
 どうやら俺は、長門の親玉に「ハルヒにとってのカギ」とか思われているらしい。だから観察対象に俺も含まれているとかなんとか、いつぞや長門が言っていたように思う。
 そんな俺の交友関係なんて、長門は知らずとも親玉の方にはすべて筒抜けだろう。だから、朝倉がミヨキチに取り憑いたのも、情報統合思念体の強硬派とかいう朝倉の親玉が少なからず関与してるんじゃないか、と思っていた。
 だが、違うらしい。すべて朝倉の独断で行った結果であり、ミヨキチが選ばれたのもただの偶然と長門は言っている。
「情報統合思念体は、朝倉涼子の行為に着目している」
「人に取り憑くことがか? そんなもの、いつぞやの原始的な情報生命体もやってただろ」
「だからこそ。朝倉涼子は、有機生命体と融合することで退化したと言える。けれどそこから新たな可能性も考えられる。進化とは──」
 長門はいったん言葉を句切り、頭の中で俺に話す言葉を推敲しているかのように間を空けた。
「周囲の環境変化の情報を蓄積し、その情報を次の世代が遺伝子レベルで適応変化させる行為。情報生命体である情報統合思念体には、有機生命体で言う遺伝子が情報そのものである。故に、進化の閉塞状態に陥っている情報統合思念体が新たな進化の道を開くには、一度蓄積した情報を破棄──退化して別の進化ルートを辿ることも一つの手段と判断されている」
 そういや朝倉は、ミヨキチに取り憑くのに三つの情報のうち、二つを失ったからできた……とか言ってたな。ほぼ理解不能で八割ほど聞き流してたが。
「朝倉涼子の行為は、注目に値する」
「それはつまり……長門にとって、今の朝倉も観察対象に含まれるってことか?」
 首を縦に振って首肯する長門に、俺は心内で頭を抱えた。
 それが長門自身の判断じゃないことは、まぁ……わかっている。こいつもいろいろ俺たちを手助けしてくれているが、宮仕えの立場だ。俺と親玉の意見が対立した場合、どちらの意見を優先させるか……なんて話は、考えるだけ無駄だろう。
「だから……不可能って言いたいのか」
「そう」
 回りくどい言い方だが、つまり朝倉とミヨキチを切り離すのは『可能』だが、それを実行するのは『不可能』ってわけだ。長門にだって立場はある。無理強いは……できないよな。
「これだけは教えてくれ」
 問いかける俺に、長門は視線だけを向けてくる。その無言を問いかけることへの許可と受け取って、俺は尋ねる。
「朝倉は、何をしようとしてるんだ?」
 しばしの無言。そして。
「感情のコントロール」
 と、長門は答えになっていない答えを口にして、腰を上げた。

 月曜日。学校やら会社やらが始まる一週間の始まりは、大多数の人間にとって気分も沈みがちになる日であることは間違いない。俺なんか、足に一〇〇キロの鉄球をくくりつけられてマリアナ海溝に沈められてるくらい、落ち込んでるがな。
 そんな鬱々とした気分を神様は察してくれたのか、登校中は谷口やら国木田なんかと顔を合わせることなく教室にたどり着いた。
 教室には、すでにハルヒがいた。片肘を突いてボーッと窓の外を眺めている。それこそ、いつUFOが窓の外を通過してもかまわないと言いたげに凝視していた。いつもと変わらないハルヒの姿だ。
 それを見て、俺はややホッとする。どうやらミヨキチ──もとい朝倉は、この時点ではまだハルヒに直接接触はしてないようだ。
 気が気じゃなかった。
 朝倉はハルヒの変化を求めている。俺の目の届かないところでハルヒにちょっかいをかけて、非常識なことをされたらたまったもんじゃない。
「なに?」
 俺の視線に気づいたのか、窓の外を眺めていたハルヒがこちらに顔を向けて訝しげな表情を浮かべる。こいつには人の視線から質量を感じ取るセンサーがあるらしい。
「おはよう、ハルヒ」
「気味悪いわね、普通に朝の挨拶なんて。あんた、いつも言語障害にかかってるんじゃないかってくらい素っ気ない挨拶しかしないのに」
 どうして朝の挨拶ひとつにそこまで辛辣なコメントを言えるのか問いつめたい衝動に駆られたが、人間、一日に消費するエネルギー総量は決まってるんだ。無尽蔵にわき出るエネルギー源を持ってるハルヒと一緒にしないでもらいたい。ハルヒの嫌味に肩をすくめて、俺は自分の席に腰を下ろした。
「どうしたの? なんかちょっと変よ。悩み事?」
「いつも通りだろ? 気にするな」
「ふーん」
 俺の言葉にハルヒは「ウソおっしゃい」と言わんばかりの視線を投げかけてくる。
「ま、悩み事があるなら相談に乗ってあげるわよ。あんたも一応団員だからね、特別価格で学食一食分で聞いてあげるわ」
 聞くだけで解決しないのかよ。そもそもおまえに相談して事態が好転するとはとても思えん。さらに言わせてもらえば、外から持ち込まれた依頼は無料で、俺の悩み相談は有料とはどういう了見だ。
「それはそうと、今日の放課後は今週一週間の活動内容を決める会議だからね。必ず出席すること! 勝手に帰るんじゃないわよ」
「そんなの、今まで決めてたか?」
「最近、みんなたるんでるんだもの。ビシッと一週間の目標を決めておいた方が張り合いが出るってもんでしょ」
 俺は朝倉のことでいっぱいいっぱいなんだが、これ以上、張り合いのある一週間になんぞしたくない。が、そうも言ってらんないわけだ、この団長様を前にすれば。
「わかったよ」
 ため息混じりに、俺は頷いた。

 午前中の授業を乗り越えて昼飯時。ときどきハルヒが「ちょっとキョン、今閃いたんだけど聞いてよ」なんて言いながら背中をシャーペンでつついてきたが、それでもつつがなく乗り越えた今、俺はそこでひとつ失敗していたことに気づいた。
 鞄の中に弁当がない。どうやら忘れてきたらしい。健全で健康的な日本男児たるもの、昼飯抜きで午後を過ごすのは、傭兵にカレー粉の支給がないのと同義だ。
 財布を引っ張りだし、中身を確認。くっそぅ……被害は甚大だ。とても学食に駆け込むだけの兵力は足りていない。誰かに金を借りようとも思ったが、損得勘定抜きで俺に慈愛の手を差し伸べてくれる相手の心当たりがないことに愕然とした。
 意外と俺、友だちに恵まれてないんじゃないか……?
 まぁ、いい。ここは仕方がない。腹の中に何も詰め込まないのは危険と判断し、購買部でコッペパンのひとつでも購入しよう。
 そう思って購買部で物色していたそのとき。
「あら」
 と、世にも珍しい珍獣を偶然発見したかのような驚きと戸惑いが混じり合った声が、俺に向かって放たれた。
 女性の声である。俺を見て声を掛けてくる相手なんて、ハルヒか朝比奈さん、あるいは鶴屋さんくらいだが、珍獣を発見したような声を出すことはない。出されたら、それはそれでショックに感じるのは俺が繊細だから、ということにしておいてほしい。
 そこにいたのは誰であろう──生徒会の書記にして正体不明のTFEI、喜緑江美里さんだった。さん付けなのは、立場的には上級生だから、と理解していただきたい。
「あ、ども」
「その節は大変お世話になりまして、とても感謝しております」
 どこぞの貴婦人のように慎ましやかな微笑みとわずかに首を傾ける会釈を交えて、喜緑さんはそう言う。それがカマドウマ事件のことか、それとも文芸誌作りのことか、はたまた別のことなのか俺にはわからなかったが、とりあえず「はぁ、こちらこそ」と返事をしておいた。
「お昼はパンだけですか?」
「え? ああ、弁当を忘れてしまいまして。財布の中もついでに忘れたみたいで、パンくらいは食っておこうかなと」
「まぁ、それは大変ですね。ああ、それでしたら」
 と言いつつ、喜緑さんは自分の財布から千円札を取り出すと俺の胸ポケットに押し込んだ。
「え? あの」
「お貸しいたします」
「いやでも、いいですよ。悪いです」
「いえいえ、貴方にはいつもお世話になっておりますし、困っていらっしゃるのを見過ごすのは気が引けてしまいます。少しくらいの恩返しをするのも道理かと思いますので。お返しいただけるのなら、長門さん経由でも構いませんから」
「そ、そうですか。それじゃお言葉に甘えて」
 それほど親しい人ではないが、金がないのも事実だし、せっかくのご厚意を無下に断るのも失礼というものか。俺は有り難くその申し出を受け入れることにした。したんだが……。
「あの、何で俺に声かけてきたんですか?」
 長門ともつかず離れず、微妙な距離を保っている人だ。文芸誌作りの話が持ち上がらなければ、俺には長門と同種だってことにさえ気づかなかったくらい距離を空けていたのに、ここで声を掛けて来るのは意外だった。
「いえ、もう貴方はある程度のことをご存じのようですし、それに……今は大変そうに見えましたからつい……と言ったところでしょうか」
「はぁ……」
 俺は弁当を忘れたくらいで、そんな悲愴な顔つきをしてたのか。情けないというかみっともないというか……切ない気分になるな。
「それでは、また」
 会釈をして去っていく喜緑さんの後ろ姿に感謝しつつ、俺は学食へと向かうことにした。

 喜緑さんの援助でなんとか乗り越えた昼休み。思えば学食で飯を食うなんてことは入学してから初めてのことかもしれないと思いつつ、その味はハルヒが通うだけあってなかなかのものだった。金に余裕があるときは、今度から通ってもいいかな、とさえ思ったくらいだ。
 ま、SOS団に所属している限り、俺の財布が潤うことなんてなさそうだがな。
 ともかく、満たされた腹は十分に満足し、俺の脳内は食欲から睡眠欲へシフトしたようだ。午後の授業を受けている間、かなり眠くなってきた。背後のハルヒなんぞは、五時間目の授業から寝息を立てている。それで俺より成績がいいのは釈然としない。俺だって眠いんだよ。
 いっそのこと教師に見つかって怒られろと毒電波を放ってみたが、こいつには不可視シールドでもあるのか、さっぱり見つからない。俺の念力じゃ蚊とんぼさえ落とせないのは重々承知しているが、ここまで鉄壁だとイタズラでもしたくなるってもんだ。
 もっとも、運命の神様は授業中に寝こけているハルヒじゃなく、俺にイタズラをしたいようだ。六時間目の授業がそろそろ終盤を迎え、まもなく放課後という頃合いだったか。
 バイブレーションモードにしておいた携帯が、俺のポケットの中でぶるぶる震えていた。
 授業中に携帯を取り出すのは御法度だが、もしかすると緊急の用事かもしれない。ばーちゃんが倒れたとか、おじさんが事故にあったとか、その手の話かもしれないだろ。
 こっそり携帯を取り出してみる。電話ではなくメールだった。授業を受けてるふりをしつつ、メールを開いてみると、ただ一文だけ『窓の外』と書かれてあった。
 なんのこっちゃ?
 イタズラか間違いか知らないが、意味もなく文面に釣られるように窓の外に目を向ける。
「げっ」
 上でも中でもない。まさに下の『げ』の存在がそこにいた。
 弁当を忘れるとかちょっとしたハプニングはあったが、おおよそいつもと変わらぬ日常を過ごしていて、やや危機感が薄れていたらしい。それだけにショックはでかい。
 ミヨキチ──というか朝倉が、何故か北高の中庭でランドセルを背中に、俺に向かって手を振っていた。だが驚いたのはそれだけじゃない。
 何故か……どういうわけか、その隣には、俺の妹も一緒だった。