喜緑江美里の策略 七章

 何の保護もなく、生身のままで高速移動を強いられるとは思わなかった。おまけに襟で首が絞まっているものだから、俺の最後は窒息死かという笑うに笑えない考えが脳裏を過ぎったのは言うまでもない。
「あらあら、殿方がそんな乙女みたいにか弱くてどうなさるんですか」
 いったいどこをどう通って北高まで飛んできたのか覚えちゃいないが、到着するころにはゲンナリしていた俺を前に、喜緑さんがけろりとした態度でそんなことを言ってくれやがった。
「体の根本的な作りが違うのに無茶言わないでください。そんなことより、長門をあのままあそこに置き去りにするなんて、どういうつもりですか。あいつは、」
「大丈夫ですよ。ジャミングも周防九曜が去ったことで切れてますし、彼女もここへ向かっていると思います。あなたが中庭に駆けつけたとき、メモはあっても長門さんはいらっしゃらなかったんでしょう?」
 確かにあのとき、中庭にいなかったはずだが……俺が言いたいのは長門のフィジカルな話ではなくメンタルの話だ。俺に見せた態度といい、九曜に言われた一言で受けたショックの度合いといい、長門にとって朝倉のことは、まるでトラウマのようになっているじゃないか。
 あいつ、もしかしてやんごとなき事情の末とはいえ、朝倉を消したことに罪の意識を感じてるんじゃないだろうな?
「まさか。それはあり得ません。その当時に朝倉さんの真意を長門さんが知らなかったとは言え、朝倉さんは覚悟の末での行動に出たんですよ? そんな人を相手に罪悪感や同情を抱くなんて、失礼極まりない真似を長門さんがすると思ってらっしゃるんですか?」
「なら、喜緑さんは長門の気持ちがわかってるんですか」
「わたしは長門さんじゃございませんから、断言はできません。けれど長門さんがあなたに言った言葉を思えば憶測は立てられます」
 だからこれは憶測ですが、と前置きをして、喜緑さんは言葉を続けた。
「長門さんは、あなたのように自分の気持ちを貫けないんですよ」
「俺……みたいって?」
「あなたは真実を知ったとき、朝倉さんのことを許して信じて受け入れたじゃありませんか。長門さんもそうだったんでしょう。けれど、あなたと長門さんの決定的な違いは、その後です」
 そんな説明をしながらも、喜緑さんはかつての一年五組の教室へ向かって校舎内へ歩を進める。俺もその後に続くが、今日が土曜日ってこともあり、教師や生徒の数が少ないのは幸いだ。
「あなたは真実を知って、それで朝倉さんを許しました。許す、というのも少し違うのかもしれませんけれど。でも長門さんは、そうじゃなかったんです。頭では理解していても、心がそれに追いつかなかった」
 喜緑さんが言うには、長門は朝倉の取った行動が許せなかったらしい。
 ただ許せないだけじゃない。
 朝倉がああいう行動に出ざるを得なかったとはいえ、何故、事前にそれを話してくれなかったのか。
 蘇ってもまた、朝倉は同じようなことをするんじゃないのか。
 そのとき、また何も話さずに行動に出られたら?
「だから長門さんは、不安で怖くて悔しいんです」
 たった一言すら残してくれなかった朝倉のことが、か。
「朝倉さんと長門さんの関係は、わたしと長門さんの関係よりも近いものです。近いからこそ、長門さんは何も言わずに行動に出た朝倉さんのことが許せません。だから、長門さんは朝倉さんを蘇らせることに踏ん切りが付かないんでしょう」
「それは……」
 違う、と思う。正しいとか間違っているとかではなく、ただ単純に、直感的と言い換えてもいい、長門がそう思っているのなら俺は「違う」と言いたい。
「違いますか」
「上手く言えないですが、それは何て言うか……もっと大事なことが抜け落ちてるような気がする」
「そうですか」
 一年五組の教室へ向かう喜緑さんは、俺の言葉を否定も肯定もせずにただ受け入れるように頷き、それ以上は何も語らず校内を進んでいく。
 それで俺は、ふと気になった。いくらなんでも人が少なすぎやしないか? 校舎の中に入ってから、まだ誰ともすれ違っていない。いくら土曜日で授業のない日といっても、部活で学校に来ているヤツは少なくないはずだ。にもかかわらず、今に至るまで誰ともすれ違わないどころか人影すら見かけてないのはおかしい。
「先ほど」
 俺が疑問に思っていることに、喜緑さんが気付いていないわけがない……と思うのだが、なのに喜緑さんはあえてそのことに触れようとしないかのような素振りを見せる。
「あなたは『違う』とおっしゃいましたけれど、その『違う』ことを長門さんに気付かせるには、朝倉さんは長門さんの側にいるべきだとお考えですか? それとも、距離を置かせるべきだと思いますか?」
 そんなことを言われても、俺だって『違う』ことの正体がわからないんだ。それでいて長門と朝倉がどうのこうのと言われても結論なんて出やしない。ただ──。
「俺にはあの二人がどういう関係なのかイマイチ理解してないですが、少なくとも朝倉は長門のために行動していたし、長門は朝倉のことを考えている。その二人の間に溝があるのなら、距離を置く時間は必要かもしれないけれど、最終的には側にいなければ溝は埋まらないでしょう」
「そうですか……そうですね、おっしゃる通りです。やはり朝倉さんは、長門さんの側に置いておくのが一番でしょう」
 俺の言葉に頷くと言うよりも、自分自身を納得させるように何度も頷く喜緑さんを見て、腑に落ちない違和感を覚えた。
 いったい何が言いたいんだ? いや、何を考えているんだ喜緑さん。前を行くその表情を背後から盗み見ようとしても、その意図がまるでわからない。その一方で、俺の胸中に蘇るのは朝倉の言葉。
 喜緑さんは、何かを隠してる。
 今の朝倉に思い出はない。だからあいつの言葉は、これまでの喜緑さんの心証が反映された言葉ではなく、そのとき、その瞬間に得た直感から導き出された言葉のはずだ。いわば初対面に等しい出会いで、あの朝倉は喜緑さんが「隠し事をしている」と察した。
 それは単なる気のせいか、普段の喜緑さんを知っている俺からすれば「いつものこと」で片付けたくもなるのだが……今になって朝倉の直感があながち間違いではないような気がしてきた。
「きみど、」
「ですから、最後の仕上げを心おきなく実行できます」
 俺の言葉に重ねるように宣言する喜緑さんは不意に立ち止まり、その背中にぶつかりそうになった俺がたたらを踏んで立ち止まった視線の先には、朝倉を何ものにも代え難い宝物のように抱く周防九曜が佇んでいた。
 ここはまだ廊下だ。かつての一年五組の教室までかなり距離がある。距離がある、と言っても遙か彼方ではなく、教室三つ分くらいの距離だろうか。
 それを「わずか」と言うか「かなり」と思うかは人それぞれだろうが、俺たちの目の前に九曜が立ちつくしているということは、先に教室へ向かうこともできただろう。にもかかわらず、どうして九曜がここで俺たちを待っていたんだ?
「──────カギ、は──……どこ────?」
 カギ、だって? 何言ってんだ。朝倉を目覚めさせるカギなら、料亭で喜緑さんが言ってた……と、そこまで考えて気がついた。
 そのことも、もしかして……ウソ、か?
「インターフェースが行える情報処理速度が、広域情報生命体と同じ速度で処理できるとお考えですか? 長門さんとの戦闘で破損したインターフェースの物質構成情報の再構築に、三分割されていたパーソナルデータの統合処理。目覚めるのに時間が掛かるのは当然です」
 あまりにもしたたかに、それこそ「欺される方がおかしい」とばかりに言い放つ喜緑さんは、ここでもやはり九曜をたぶらかしていた。早い話が、やはり朝倉は三つのパーソナルデータを入れ込むだけで復活させることができるってわけだ。
「────な……ぜ──────?」
 ここで新たな疑問がわき出てくるのは、九曜だけでなく俺でさえ思うところだ。
 だったら何故、喜緑さんはわざわざ九曜を北高に向かわせるように誘導したんだ? あの料亭で朝倉が目覚めるのを待つことができなかった理由ってのは、いったいなんだ?
「上が管理していた朝倉さんの意味記憶を司るパーソナルデータを受け取るときに、言われてしまいました。如何に天蓋領域への直接的なスパイになるからと、やはりこちら側のインターフェースの情報は渡せないそうです」
 ……え?
 と、俺が思う暇もない。喜緑さんがタップダンスのようにかかとを鳴らしたその瞬間、周囲の景色がぐにゃりと崩れる。まるで溶けた飴細工のように歪み、変わり、いつかどこかで目にしたような幾何学模様に取って代わった。
「この数日間、各教室の空間情報を連結させて学校全体をひとつの制御フィールドとなるように細工を仕掛けておりました。長門さんにバレず、途中途中で彼からの連絡を受けつつ行った割には上手く機能しているようです。そこまで大がかりに空間情報を制御下において、わたしが何をしようとしているのか……あなたでしたらご理解いただけるかしら」
 はっきり言おう。俺にはさっぱりわからない。意味どころか、喜緑さんの意図も掴めていない。ただ、その「あなた」というのは当然ながら俺に向けられた言葉ではなく、九曜に投げかけた言葉だろう。
 そのことを、九曜もちゃんと理解しているらしい。その手に抱く朝倉を、さらに力を込めて抱き寄せている。
「いいえ、違いますよ」
 そんな九曜の態度を見て、喜緑さんが首を横に振る。
「ひとつだけハッキリさせておきましょう。わたしの目的は、朝倉さんを朝倉さんとして朝倉さんのままに蘇らせること。それだけは決して揺らぐことのない目的であり真実です。さて、改めて尋ねましょう。わたしが何をしようとしているのか、もうおわかりですね?」
 その瞬間、喜緑さんが動く。ここが喜緑さんの情報制御空間だからだろうか、場所の雰囲気も相まって、その動きは長門と朝倉が繰り広げていた戦闘時の動きのように速い。真っ直ぐに九曜との間合いを詰める。
 その九曜は。
 何ものにも代え難い宝のように抱きかかえていた朝倉を離して、真っ直ぐに向かって来た。
 俺に。
「うぇっ!?」
 避ける暇もない。というか、避けようと考える時間すら与えちゃくれず、アメフトのタックルだってもう少しお手柔らかなもんだろうと思える勢いで九曜が俺に覆い被さるようにしがみついてきた。
「なっ……なぁっ!?」
 藻掻いたところで九曜は離れない。それどころか、上手く藻掻けないほどガッチリと俺にしがみつく九曜が何を考えているのかさえさっぱりだ。
 ただ、もしかするとこの状態は、見方によっては九曜が身を挺して俺を守っている……ようにも思えなくはない。
「そう、それが正解です」
 聞こえる喜緑さんの声。なんとか首を伸ばして視界に飛び込んできたのは、朝倉を手にする喜緑さんの姿があった。
「きっ、喜緑さん! どういうつもりですか!?」
「簡単な話ですよ。話しましたでしょう? 上から朝倉さんのパーソナルデータを受け取る際に、つまらない話を延々と聞かされたと」
 それは……言っていた。確かに言っていた。そのつまらない話とやらが、朝倉はやはり天蓋領域サイドに渡せないって話なのか? つまり喜緑さんは、朝倉を消すつもりか!?
「あなたまでそんなことをおっしゃるなんて。重ねて言いますが、わたしの目的は朝倉さんを蘇らせること。あなたが持ちかけてきた話じゃございませんか」
 それは真実なんだな? 信じてもいい、喜緑さんの本心で間違いないんだな? ああ、そうか。だからこそ九曜はあれほど大事に抱えていた朝倉を手放して喜緑さんに渡したのか。
 なら、今こうやって俺を羽交い締めにしているコイツは何がしたいんだ?
「彼女も理解されているのでしょう。朝倉さんは天蓋領域に渡せない。周防九曜は朝倉さんが蘇ればいい。そしてわたしは朝倉さんを消すつもりはなく、あなたは朝倉さんは長門さんの側にいる方がいいと思っている。なら、取るべき道はひとつしかなく、その結論へ至る策もしっかり準備しておりましたので」
「だから! 何をするつもりなんですか!?」
「天蓋領域に繋がっている今の朝倉さんを再構築して、情報統合思念体へ繋ぎ直します」
 再構築? 繋ぎ直す、だって? それはできないと言ってたじゃないか。だから朝倉は天蓋領域側のスパイにするって話だっただろう。
 まさかそれもウソか? いや、それがウソだと言うのなら、そんなウソを言う理由がわからない。
「あらあら。わたし、あなたにはウソなんて一言も吐いておりませんよ。ただ、悲しいかな言語での情報伝達には、必ず齟齬が発生してしまうものなのですね」
「ウソは吐いてない!? だったら喜緑さん、何をしようってんですか! その朝倉は九曜の親玉と回線が結ばれていて、それは切り替えられないんでしょう? そう言ってたはずだ。だったら、回線の繋ぎ直しなんてできないってことじゃないか!」
「だから一度分解し、再構築するんです。必要な要素はすべてここにあります。記憶も、インターフェースも。おまけに北高一帯を構築している物質情報のプログラムをわたしの制御空間に置くことで処理能力のブースターに流用していますから、失敗することはありません。多少、時間はかかることになりますが、許容範囲のことです。唯一の問題は情報統合思念体と朝倉さんを繋ぐ回線が存在しないことですが、なければ他のインターフェースの回線を使うしかありませんね」
「他の……他って、」
 他の回線って何だ? それはまったく別のところに繋ぐとかそういう話……ではないよな? 喜緑さんが言ってるのは、すでに使われている回線を朝倉用にする、って言ってるんだよな? だったらその回線ってのは……。
「わたしのを使います」
「な……っ」
 朝倉を蘇らせることで、喜緑さんが自身と情報統合思念体を繋ぐ回線を使うって言うのなら、じゃあ喜緑さん自身はどうなるんだ? その回線とやらは、なくても喜緑さんが喜緑さんとして成り立つものなのか?
 違うだろう。違うはずだ。あってもなくてもいいようなものなら、こんな大騒ぎになっちゃいない。
 唐突に、朝倉の言葉が思い返される。
 あいつは自分を蘇らせることで「リスクはないのか」と言っていた。それを受けて、喜緑さんは「ない」と断言した。
 あるじゃないか。俺には想像もできないが、喜緑さん自身がどうにかなっちまうようなリスクが。それは充分すぎるほどの危険じゃないか!?
「いいえ、リスクではありません。目的は朝倉さんをただ復活させるだけ。わたしの回線を使うことで朝倉さんは無事に、安全に蘇ります。ほら、目的に対するリスクはありませんでしょう? もしかしてあなたは、わたしが講じる策に自分自身を含めていなかった……などという片手落ちがあると思ってたんですか?」
 思っていた。思っているに決まってるじゃないか。最後の最後に自分自身を策に盛り込む策士がどこにいる? まさか喜緑さんがここまで徹底しているなどと、いったい誰が想像できる!?
「わたしの施した策はここまで。どちらにしろ、これが合理的なんですよ。役割のない朝倉さんにわたしの役割を与えれば、つまりそれは朝倉さんを蘇らせるに充分で、かつ、上や世界を納得させるだけの理由になりますでしょう?」
「何が……っ!」
 納得だと? ふざけんな。上とか世界とか、そんな抽象的な話をされても俺が納得しない。朝倉を蘇らせるのに喜緑さんが犠牲になってどうすんだ!?
 自己犠牲なんて他所で聞いてりゃお涙頂戴の感動秘話に聞こえるかもしれないが、当事者にとっては腸が煮えくりかえるほど不条理な話だってことを理解しろ。そんなことをするくらいだったら、他の手段を……その手段もなく、どちらかを選べと言うのなら──。
「それは受け入れられない話です」
「何故? どうして喜緑さんがそこまでやらなくちゃならないんですか!」
「あら、そんなことは決まっているじゃありませんか」
 朝倉を抱えたままで喜緑さんは、いつものような裏表がありそうで、けれど無垢とも呼べる柔らかな笑みを浮かべて──。
「だって、朝倉さんが蘇った方が面白いでしょう?」
 ──そう囁いた。
 瞬間。
 ごぎん、と音が響く。
 どこかで巨大な歯車が噛み合い、回り始めるような音が、なんの始まりを告げる音なのか考えるまでもなく……俺は九曜に押さえつけられた格好のまま、幾何学模様を描く周囲の景色が見慣れた北高校舎内の廊下に戻っていた。
「なん……だ、こりゃ。何なんだ、いったい。どうなってんだ!?」
「────もど……った────」
 戻った? ああ、戻ったさ。そんなことはおまえに言われなくてもわかってる。俺が知りたいのは、何で戻ってるのかって話だ。
 喜緑さんがいない。朝倉もいない。あの二人はどこに行ったんだ? それで戻って来て、何になるってんだ!?
「いったい何がどうなってんのか、おまえにはわかってんだろ? どうすれば喜緑さんを止められるのか、それを教えろ」
「────ない────」
 ……なんだって?
「────多次元空間────構築を、確認────。変動────する……指標────の解析────及び──……干渉プログラム────構築は、不可能────」
「小難しい話なんてどうでもいいんだ! 不可能ってどういうことだ!? おまえは長門や喜緑さんと同じようなことができんだろ? 喜緑さんがやってることを、」
「男がいちいち喚くな。みっともなさ過ぎて、目も当てられない」
 九曜に向かってがなり立てていた俺の頭上から降って来た声は俺の神経を逆なでするに充分な響きを含んでおり、反射的に振り返って目に飛び込んできた足下を見て、俺は息を呑んだ。
「俺を水曜まで無理やり時間遡航させたのは、おまえか」
「今さらか? ふん、相変わらず安逸で浅慮な日々を送っているらしい」
 俺の突き刺すような眼光を受けてもなお、俺の目の前に立つ藤原はふてぶてしいにも程がある表情と態度でせせら笑っていやがった。
「何がおかしい。そもそも、俺を無理やり水曜まで連れて行きやがって、何が目的だ」
「そんなことを僕に聞く前に、自分がひどい格好をしていることに気付いたらどうだ? それとも、そんなものに組み敷かれて悦に浸るような趣味でもあるのか?」
 何を言ってんだ? と考えたところで、今の今まで九曜に押さえつけられるように組み敷かれていることに気付かされた。
 藤原が言うように、確かに俺には九曜に抱きつかれて喜べるほど広い心は持ち合わせてない。かといって『そんなもの』呼ばわりする藤原に、心中穏やかな気分でいられるほど広すぎる心の持ち主でもない。
 が、言われた九曜が無関心を貫き通している以上、怒るにしても嘆くにしても、どういう態度を取っていいのか判断し辛い。
「いい加減答えろ。おまえ、いったい俺に何をさせるつもりだ? まさか朝倉に関わることをさせたかったってわけじゃないだろ」
 九曜を脇にどかし、改めて食って掛かれば、藤原はさもつまらなさそうに鼻を鳴らした。
「当たり前だ。あんな存在に関わり合うほど、僕は物好きじゃない……と言いたいところだが、結果を見るにそうも言ってられないようだな」
「結果……結果だって?」
 いったい何を持ってコイツはそんなことを言ってんだ? 俺を水曜まで連れ戻して、ただそれだけをしたコイツは何を見て、俺に何をさせたんだ?
「何も」
 それでも藤原は、平然と言ってのける。
「当たり前だろう、どうして僕があんたに何かをさせなくちゃならないんだ? すべてあんたが勝手にやったことであり、僕はただ、それを見ていたに過ぎない」
 そんな白々しい台詞が通じると思ってんのか。おまえが覗き大好きなピーピング野郎だろうが知ったこっちゃないが、ただ傍観して満足するようなヤツとは、とても思えない。
「いいや、ただ本当に見ていただけだ。当たり前さ。僕や朝比奈みくるは、この時代に直接的な介入はできない。それが絶対のルールなのだから、覆るわけもない。それでも、見過ごすことができないこともある」
「何を、」
「歪み……とでも言おうか」
 そう言う藤原の言葉には、どこかしら愁いを帯びたものを感じる。
「歴史を知るということは、つまりそれが絶対になり、揺るぎない事実として僕たちは縛られることになる。が、時にそれが歪むことがある。あり得ないことが起こることも、時に生じるわけだ。現時間平面から遡ること四年前に、涼宮がやらかしたことのようにな。今回の出来事は、それよりも規模こそ小さいが、似たような事例だと思われる」
「だから、何の話だって聞いてんだよ。答える気があるのか、おまえは」
「朝倉涼子は存在しない」
 苛立ちを含めた俺の言葉を、藤原はその一言でバッサリと切って捨てる。傍らで傍観していた九曜が、ぴくりと動いた。
「……何言ってんだ?」
 朝倉は存在しない? どういう意味だ。今までのことを言ってるのか? それとも、喜緑さんがやろうとしているこの状況が失敗に終わるってことか? だとしたら……朝倉や喜緑さんはどうなるって言うんだ?
「そうじゃない。そういうこととは別次元の話だ。いいか、よく聞いて考えろ。僕が知る歴史の中に朝倉涼子という存在が確認されているのは、現時間平面から見て昨年までだ。それ以降は存在しない。朝比奈みくるの介入でつい最近の出来事に関わっているが、それだって過去からの来訪によるものだ。今のこの瞬間、この連続する時間平面が元時間だと言える朝倉涼子は存在していない。それは歴史が示す事実であり真実だ。にもかかわらず、今まさに朝倉涼子は蘇ろうとしている。それは本来起こり得るはずのないイレギュラーな出来事と言えるんだ」
「そんなこと知るか。現に朝倉は存在してたじゃないか。それともおまえは、記憶がないあれは朝倉じゃない、とでも言うつもりか?」
「いいや、あれは朝倉涼子だ。それは認めよう。認めるからこそ、今のこの状況があり得ないことだと理解もしている。そしてこのあり得ない現実は、朝比奈みくるにとっても同じことだ」
「朝比奈さんにも、だと……?」
 どうしてコイツの口から朝比奈さんの名前が出てくるんだ。しかも今の状況が、朝比奈さんにとっても同じことだと?
「あんたが僕のことをどう思っていようがかまわないが、僕を紋切り型の悪人だと思っているのなら考えを改めた方がいい。僕には僕の、朝比奈みくるには朝比奈みくるの言い分があり、目指しているものがある。それが違うからこそ、朝比奈みくるに肩入れしているあんたには、僕が敵に見えるんだろう。短絡的かつ浅慮な判断だと言わざるを得ない」
「だから何だ。どんなに言葉を飾ろうがな、朝比奈さんに敵対してるなら俺はおまえを認められるわけがない」
「つまり逆を言えば、僕が朝比奈みくると手を組めば認める、と言うことか?」
「なんだと?」
「重ねて言うが、僕と朝比奈みくるの違いは目指すものの違いだ。僕個人としては、彼女個人に対して特にコメントはないね。仲良くしろと言うのであれば仲良くしてやるさ。目指すものが同じという前提付きでな。向こうだってそうなのかもしれない」
 同じなら? 同じならつまり、おまえと朝比奈さんは……手を組んだってことか?
「今回に限り、という条件でな。言っただろう? 朝倉涼子のことは僕にとっても彼女にとってもイレギュラーな事態だ。その解明に個人の諍いなんて些末なものさ。もっとも、僕と彼女では問題に対するアプローチの仕方が違った」
 待て。待て待ってくれ。話が捻れてきた。状況を理解するだけの時間をくれ。俺はそんなにあっさりと、何でもかんでも素直に受け入れて納得できるほど浮世離れしてないんだ。
 何がどうなってんだ? 藤原の言い分は……つまり、朝倉が存在していることはハルヒが四年前にしでかした出来事と似たような、あり得ない事態だと言いたいのか? それを解明しようとして……そのことに朝比奈さんも協力している?
「協力というほど積極的に手を貸しちゃくれてないがね。もっとも、それはこちらも同じことか。僕と朝比奈みくるは、ただ情報を共有しているに過ぎない。つまり、朝倉涼子が存在している、というイレギュラーな出来事だ。その事態を解明するために、僕らは動いていた。ただし、朝比奈みくるは起きた出来事の理由を探ろうとはせず、ただ問題点を取り除こうとしていた。対して、僕は問題の発生原因を突き止めようとしていた」
 ……そうか、なんとなくわかったような気がする。
 俺が過ごしたこの二度目の四日間、ふらりふらりと現れた朝比奈さんは、俺に朝倉を蘇らせるようなことをさせまいとしていたのか。けれどそのことを直接的に言うことができず、要領の得ない態度を見せていたってことだな。
 どうして直接的に言ってくれなかったのか、それはつまり未来に関わる禁則事項に抵触していたから、なのかもしれない。だから言葉ではなく態度でそれとなく俺に気付かせたかったんだろうが……俺はそれに気付けなかった。
 そして藤原は、コイツが言う「歪み」とやらがどうして発生したのか、そもそもの原因を探るために俺を無理やり時間遡航させたんだ。その結果、歪みをより顕著なものにしちまったわけだ。
 余計なことをして、さらに状況をややこしくしたのは他でもない、藤原自身じゃないか。
「僕が? ハッ! 本気でそう思ってるなら、あんたはよくよく僕を認めたくないらしい。だが、よく考えろ。この歪みは、一言で表せば『世界が認めていなかった朝倉涼子が存在している』というものだ。存在してはいけないんだ、あの女は。けれどあんたらは、朝倉涼子を利用しなければならない状況を招いたじゃないか。涼宮と佐々木の閉鎖空間共振騒ぎ、オーパーツ事件、ゴールデンウィークの遭難事件……いや、もっと前だ。すべての発端は朝倉涼子が存在したこと、あるいは安易に消し去ってしまったことに端を発する。そうじゃないか?」
 まるで誘導尋問のように確認を取る藤原の言葉は、けれど俺に向けられたものじゃなかった。問いかけた言葉が向かう先は俺の後ろ、そこに佇む一人の少女。
「………………」
 いつからそこにいたのか、けれど話はすべて聞いていたであろう長門有希は、ただ黙って立ちつくしていた。
「もっとも、あんた一人にすべてを押しつけるつもりはない。あんたはこのイレギュラーな出来事の根源だが、問題の直接的な原因は周防が朝倉涼子を作り出そうとしたことにある。そしてそれを利用して蘇らせようとしたあんたも、無関係だとは言わせない。もっとも、罪を背負うなら僕もか。僕があんたを水曜まで遡航させなければよかったんだろう。誰が悪いわけじゃない。けれど誰も悪くないわけでもない。歴史は変わる。変わる歴史も必然だろうか。けれどそれを判断できるほど、人は崇高なものじゃない」
 藤原は、これ見よがしに深いため息を吐いた。
「世界は朝倉涼子が存在するが故に、歪んだままの世界になる」
「させない」
 半ば自虐的に告げる藤原に、断固とした口調でハッキリと反論したのは長門だった。
「なら、どうする?」
「朝倉涼子が存在することが歪みなら、その歪みを正す。そうしなければならない」
 歪みを正す……って、朝倉を消すつもりか? 今さら朝倉を消したところで、けれどもう手遅れじゃないか。喜緑さんはすでに朝倉を蘇らせようとしているんだぞ? しかも九曜でさえ手出しできないような場所で、それをやろうとしているじゃないか。
 今さら朝倉を消したところで、それが解決に繋がるとは思えない。
「世界を改変する」
「え?」
 改変って、そんな真似が長門にはできる……のか。できるのか、長門には。
 かつての十二月、SOS団の全員が一般人になっちまってた世界にしたように、ハルヒの力を奪って、また世界を改変するつもりか!?
「奪わない。この改変は歪みを正すだけ。皺だらけのワイシャツにアイロンを掛けるようなもの。ただ一点を取り除き、世界の歪みを元に戻す」
「取り除く……って」
 いったい何を?
「歴史とは、記憶の繋がりに依るもの」
 記憶の繋がり……だと?
「俺たちから、朝倉に関する記憶を消すつもりか!?」
「そう」
「なにを……」
 バカなことを、と言葉が続くよりも前に、俺の真横を弾丸のような速度で駆け抜ける影。長門の言葉を聞いたその瞬間、九曜が飛びかかっていた。
「────また────消す、の────なら────」
「あなたは認めるべき」
「────────」
 迫る九曜を受け止めて、長門は静かに言葉を紡ぐ。
「朝倉涼子が存在する未来は選べない」
「────あなた────は────」
「わたしは選ばない。選ぶべきではない。……でも」
 九曜を受け止め、そして何かを求めるように空に向けて手を伸ばす長門が、俺を見る。その口元が、何かを囁く。
 が、けれど俺には聞こえない。
 それは世界を改変させる呪文を口にしたのか。それとも俺に何かを告げたかったのか。
 どちらとも取れるし、どちらでもないようにも思える長門の声は聞こえず──。
 代わりに、、世界がねじ切れるんじゃないかというような感覚が頭の中に直接響くような轟音を鳴らし、その中に俺は飲み込まれていた。