喜緑江美里の策略 エピローグ

「遅いっ! 罰金!」
 などというハルヒお決まりのセリフを耳にするのは、果たしてこれで何度目だろうか。その度に俺はハルヒを筆頭に朝比奈さんや長門、古泉にまで集合直後のミーティングで使っている喫茶店の代金を支払い続けている。
 今でこそ週に一度という感じではなくなったが、それでもハルヒの気まぐれで突発的に催される市内不思議探索は、その都度、俺のひっ迫した懐事情に大打撃を与え続けていた。
 よく考えて欲しい。うちは何も阪中のところみたいなセレブでもなければ、俺個人が確保している安定した収入源も、親から貰える月に一度の小遣いだけ。その小遣いとて、誰もが羨むような額であろうはずもなく、全国の高校生の平均的小遣いと大差ない額面だ。
 はっきり言って、市内不思議探索が行われる度に、俺の財布から札やら小銭やらを引っ張り出すのはやめてもらいたいんだがな。
「遅刻するあんたが悪いんじゃないの」
 けれど我らが団長さまは、俺のせめてもの嘆願を無下にも却下してくれやがった挙げ句、すべての責任は俺にこそあるとばかりに言い放つ。
「誰がどう見てもあんたに責任があるでしょ。前も言ったと思うけど、あんた一人が遅刻すれば、それだけあたしたちの時間も無駄に過ぎていくの。あんた一人で行動してるなら話は別だけど、あたしたちも一緒である以上、その時間は等価なのよ。こっちは何もあんたを待つ時間なんて用意してないし、待ちたくもないわけ。なのに遅れて来たんだったら、せめてもの謝意を込めてあたしたちにご馳走するのは、天地開闢より続く真理だわ」
 どうしてこいつはここまで偉そうにものを言えるのかさっぱりだが、そもそも俺は遅刻してるわけじゃない。待ち合わせ時間ピッタリに到着してるんだ。けれど他の面子が予定時間よりも前に集まっているが故に、俺を待つという状況を自ら作り出しているだけじゃないか。しかも勝手に。そこに俺の責任は一切発生しないだろう。しないよな?
「するわよ。だから、そうまで言うなら、あんたも早く来ればいいじゃない。そうすれば、待っているあたしたちの気分が少しでも理解できるってもんでしょ」
 だから、その『早く』ってのが問題なんだ。いったいおまえらは九時集合の何時間前に集まっているんだと問い質したい。
「あのぅ……キョンくん、もしそんなに大変だったら、ここの支払いはあたしが……」
「いや、そこまでじゃ、」
「ダメよ、みくるちゃん。これはね、遅刻したキョンからの罰金なの。罪を犯したらその償いをするのも自分自身。他の人が肩代わりすれば済む話じゃないのよ」
 いくら自分の懐事情が厳しいからと言って、朝比奈さんに支払いを任せるつもりはない。俺がせめてもの見栄を張って朝比奈さんからの有り難い申し出を丁重にお断りしようとした矢先に、ハルヒが一刀両断に切って捨てやがった。
「そんなことよりほら、班分けするわよ」
 これ以上は議論の余地なしとばかりに、ハルヒは五本の爪楊枝を突き出す。朝比奈さんから順に長門、古泉、俺が一本ずつ抜き取る。印が付いていたのは、俺と古泉だった。最悪だ。
「それじゃ、お昼にまたお店前で集合よ。キョン、わかってると思うけど、遅れたら罰金だからね」
 何かを暗に期待しているようなハルヒの物言いに、俺はため息しか出なかった。


 意気揚々と朝比奈さんと長門を引き連れて去っていくハルヒを見送り、俺はふと、こんなことが前にもあったんじゃないかと思えてならない。既視感ってヤツだろうか?
「そこまで厳しいのですか」
 俺が難しい顔をしていれば、古泉はどうやら俺の懐具合をしてくれたらしい。確かに厳しいっちゃ厳しいが、すでにこんな調子で一年以上が過ぎている。贅沢さえしなけりゃ破産することはないさ。
「それは何よりです。デートとなれば、男性が女性のために支払いを行うのがエチケットですからね。あなたがその都度、支払いを任せられるのは、涼宮さんがそうするようにと願っているから、かもしれません。家計簿でも付けてみたらどうです? 収支が丁度いいバランスになっているかもしれませんよ」
 冗談のつもりか、そんなこと言われても笑えないな。そもそも、この不思議探索はデートじゃないとハルヒは幾度となく言っている。なのにそのハルヒが? デートなら男が金を払うもんだと思って? 俺が支払う羽目になっちまってるだと? おまけに支払えるように、俺の金運まであいつに握られてるってのは勘弁願いたい……と、そこまで考えて、やはりこんなやりとりが前にもあったような気がする。
「それより……ちょっと聞いていいか?」
「何でしょう」
「こんなことが前にもあったような気がするんだが、覚えてないか?」
「いえ、僕に覚えはありませんが」
 試みに聞けば、古泉は考える素振りも見せずに否定して来やがった。
 ふむ……俺の気のせいか。
「どうにも、以前にも似たようなことがあった気がするんだよな」
「既視感、というものですか? まさか昨年の八月のような、終わらない二週間に迷い込んでいると言い出したりしないでしょうね?」
「あんなことが、そう度々起こってたまるか」
 一万五千……何回だっけ? 詳しく忘れたが、あんな夏の日を繰り返すほど、ハルヒがここ最近の日常にやり残していることがあるようには見えない。だいたい、あのときは古泉だって何か違和感を覚えていたじゃないか。それがないってことは、やっぱり俺の気のせいかもな。
「ま、とりあえず時間を潰すか」
「どちらへ?」
「本屋で立ち読みが妥当なとこだろ」
 さすがに野郎二人だとな。どこぞのアミューズメントスポットで時間を潰せるほど金はないし、喫茶店を出たばかりで別の店に入る気にもならない。となればコンビニか本屋で雑誌の立ち読みをするのが関の山だ。
 別について来なくてもいいのに、古泉は律儀にも俺と一緒に本屋へやってきた。あいつはあいつで適当な雑誌を手に取っているが、俺はなんともなしに求人雑誌を開いている。別にバイトをする気はないのだが、さっきまで話に出ていた影響だろうか。
「おやおや〜っ? キョンくんと古泉くんじゃあ〜ないかっ!」
 俺がそんな風に求人雑誌をペラペラめくっていると、背後から元気ハツラツとしか形容できない声が飛んできた。そんな風に俺たちに声を掛けてくる相手は、考えるまでもなく一人しかいない。
「ああ、鶴屋さん。どうも」
「やっぽーっ。こんなところで男二人で立ち読みかいっ? んん〜っ、もしやハルにゃんの言いつけをほったらかしてサボリかなっ!?」
 ハルヒの言いつけとやらが市内に転がっていると言い張る不思議を探し出すことを指しているのならサボリと言われても致し方ないが、かといってそんなもんが本当にゴロゴロ転がっているわけもなく、言うなればこれはむさ苦しい野郎二人が暇を持てあましている風景だと認識してもらいたいところですね。
「むむっ。キョンくん、バイトでもすんの?」
 鶴屋さんは目ざとく俺が手にしている求人雑誌に目を留めて聞いてきた。
「いや、そんな暇はないですよ」
 そう答え、何故か唐突に妙な考えが脳裏を過ぎる。
「もしかして、鶴屋さんの家でお手伝いさんとか募集してたりします?」
「うん? そういう予定はないっかなぁっ。何だいキョンくん、うっとこで働きたいのかなっ? それならアレだねっ、永久就職するってんなら考えっけど!」
「なっ、何言ってんですか」
 深い意味もなく聞いてみれば、こっちの予想を上回るノリと勢いでからかわれた。別に鶴屋さんのところに永久就職したいわけじゃない。いや、断固拒否するってわけじゃないが、それは俺の柄じゃないでしょう。
「うっははは! そりゃそうだよねぇ〜っ。キョンくんの勤め先は別のとこかな? おっと、あたしもちょろんと用事あっから、こんくらいでっ! んじゃっ、まったねーっ!」
 現れたときと同様にぶんぶんと手を振って、鶴屋さんは明るい笑顔をばらまいて去って行った。あの人の周りには、暗い影など立ち寄ることも出来なさそうだ。
 だからこそ……なんだろうか。去りゆく鶴屋さんの後ろ姿を見ていると、どうにも落ち着かない気持ちがふつふつと胸の奥からわき出てくる。何なんだ、いったい?
「どうかなさいましたか?」
「いや、何でもない」
 訝しげな表情を浮かべる古泉を、俺は適当にはぐらかした。そりゃそうだ、自分でもはっきりしないようなことをあれこれ言ったところで意味はない。
 それでも何故だろう、なんだか落ち着かない妙な気分だが、この……不安、だろうか。そう思う気持ちの正体はいったいなんだ?
「……ん?」
 そんなとき、ポケットの中に突っ込んでいた携帯電話が震えていることに気付いた。
 もしかして、ハルヒからの呼び出しか? もうそんなに時間が経っていたとは驚きだ。そこまでのんびりしていたつもりはないんだが……と、思って取り出した携帯を見て、俺は首を傾げる羽目になった。
 俺の携帯……じゃ、なくないか、これ? いや、機種は同じだが……なんだろう、手に馴染んでない気がする。これも、さっきから続く『気のせい』なんだろうか。
 どちらにしろ、バイブレーションモードの携帯が震えており、それを俺が持っているのなら俺が出るのは当たり前の話だ。
『あ、もしもし?』
 通話ボタンを押してスピーカーから聞こえてきた声は、けれどハルヒじゃなかった。長門でも朝比奈さんでもなく、確かに知人ではあるが、どうして俺の携帯番号を知っているのかと首を傾げたくなる相手からだった。

 その通話が、俺の違和感が決して気のせいではないことを伝える知らせになるとは、今のこの瞬間には夢にも思わなかったけどな。


──吉村美代子の奔走へつづく──