喜緑江美里の策略 六章

 朝倉も喜緑さんもいない隠れ家で、俺は一人ため息を吐いていた。
 今日は土曜日。どこぞの料亭で鶴屋さんと古泉の仮初めの結納が行われる日であり、朝倉のパーソナルデータ統一のタイムリミットであり、そして俺が何者かに無理やり水曜まで時間遡航された日でもある。
 改めて思い返せば、今日という一日には色々なことが重なりすぎている。これがすべて偶然によることなのか、それとも誰かが謀ったことなのかはわからない。偶然なのは間違いないと思うのだが、それでも心のどこかで「誰かが謀ったことじゃないのか?」と疑っている。
 なにしろ、この世の中には偶然を必然に変えるヤツがいる。そういう規格外なヤツを知っているからこそ、本来なら「偶然」の一言で片付けられるようなことでさえ、いろいろと疑念を抱いちまう。何より、明け方の朝倉の言葉も少なからず心に引っかかっていた。
 ──喜緑さんが何か隠している……ねぇ。
 今の朝倉は、知識はあるが経験がない。経験がないとはつまり思い出がないということで、朝倉は喜緑さんに対してよくも悪くも思ってない。それが何を意味するのかと言えば、喜緑さんの発言に対して妙な色眼鏡で見ずに客観的評価として、その言葉には何かある、と感じているんだ。
 判断に悩むところだな。
 朝倉が相手の言動から本心を見抜くような千里眼の持ち主とは思えないし、客観的判断といっても記憶がないことによる猜疑心があるのかもしれない。故に喜緑さんに対しての疑いを抱かせている可能性だってある。そして何より、喜緑さんが俺たちにまで隠していることの正体がまるで想像できない。
 何かを隠している、ということは、つまり俺たちに言えないことであり、となればそれは俺や朝倉にとって利益にならないこと、もっとわかりやすく言えば知られるとマズいことってわけだろ? 
 朝倉が復活することによるデメリット……だろうか。情報統合思念体のインターフェースではなく、天蓋領域側になるってことか? それがデメリットであるように思えるところだが、けれどそれは聞いている。喜緑さんが話してくれた。
 それ以上のデメリット……?
 わからん。さっぱりわからん。わからなければ、考えたって仕方がない。
 ちらりと時計に目を向ける。そろそろ頃合いか。
 喜緑さんから言われていたんだ。一緒に行動しては万が一のときに困るってな。
 何しろ向かう先には『俺』がいる。その『俺』ってのは、この時間が本来の時間である『俺』のことなのだが、喜緑さんの作戦はその『俺』を朝倉に襲わせて長門を呼び出すことだ。
 今は喜緑さんの妙な小細工のおかげで、俺の居場所は長門の宇宙人パワーを使っても存在に気付けない。なのに『俺』が二人もいるとなれば、長門はそこに何かしらの思惑を感じるだろう。一から十まですべて理解せずとも、何が目的とされているのかくらい見抜きそうだ。
 かといって、俺は今日一日、ここでこうやって閉じこもっているわけでもない。
 最後の秘密兵器、とは喜緑さんの弁。喜緑さんは長門から朝倉の最後のパーソナルデータを何とかして奪うつもりらしいが、それが失敗したときは事情をすべて知っている俺が説得しろ、というわけだ。
 だから秘密兵器、らしい。
 どうにも調子のいい台詞でおだててるようだが、俺を欺そうったってそうはいくもんか。つまりだ、喜緑さんの言葉を噛み砕いて言えば、用意していた手段がすべて潰されたあとの始末を任せる、ってわけだろ? どこで喜べばいいんだ、そんな損な役割で。
 改めてため息を吐く。
 時間的に、『俺』が鶴屋さんと一緒に料亭へ向けて移動中って頃合いか。俺もそろそろ動いた方がいい。移動手段なんて自分の足しかないわけだから、少し早いくらいでもよさそうだ。
 荷物なんて特にはない。ほぼ着の身着のままと言っても過言ではない格好で、隠れ家として使っていたアパートに別れを告げる。思えば、今日が無事に終われば俺はこのまま家に帰れるんだよな?
 うーん……どうなんだろう。結局、今日のこの日この瞬間になっても俺をこの時間まで無理やり連れてきた相手の意図がわからない。意図どころか、それが何者なのかさえわかっちゃいないんだ。今でこそ朝倉を復活させることが主軸になっちまってるが、まさかそれが目的で俺をこの時間に連れてきたのか?
 あり得ない。
 朝倉は属性で言えば宇宙人であって未来人ではない。時間移動は未来人の専売特許であって、朝倉を復活させるために未来人が力を貸すというのは、どうにも腑に落ちない。
 もしかすると朝比奈さんが一枚噛んでいるのかもしれない……なんてことが脳裏をかすめたが、それにしてはふらりふらりと現れたり消えたりを繰り返している朝比奈さん(大)の態度がおかしい。
 気が滅入ってきた。もしかして、問題はまだまだ山積みなんじゃないのか?
「っと」
 そんなことをぼんやり考えながら料亭に向かって歩いていたせいだろうか、危うく人にぶつかりそうになって足が止まる。
「すいません」
 相手と激しくぶつかって転ばせたのならいざ知らず、肩が触れるか触れないかというニアミスみたいな接触なら、すれ違い様に軽く頭を下げる程度で済ませようとするのは悪いことじゃない、と思う。相手が世の中すべてに敵対しているような弾け方をしている困ったちゃんなら謝りつつ全力疾走で逃げ出すってもんだが、少なくとも相手は俺の通常目線では顔も見えないほどの小柄な子供……あるいは女の子だった。
 だからその程度……と言えば聞こえは悪いが、会釈にも似た軽い謝罪でやり過ごそうとしたのだが。
 ガシッと、二の腕を掴まれて引き留められた。
「え?」
 俺がマヌケな声を出して驚いたのも無理はない。そんな真似をされるとは露とも思わず、振り向いた先に見つめる瞳と視線が交差して、さらに言葉を失った。
「……………………」
 予め断っておく。この無駄に多い三点リーダは俺のものじゃない。俺の腕を掴む相手のものだ。そしてこんな沈黙で語るヤツを、俺は知っている。
「なっ、ななな……長門!?」
 このときの俺の動揺具合と言ったら、そこいらの不審者よりも不審に思われる動揺っぷりだっただろう。「不審者にご用心ください」とか言われて「どんなヤツが不審者だよ?」と思ったことがあるヤツは、今の俺を見るといい。そのくらいテンプレ通りの不審者っぷりだったに違いない。
「…………」
 この沈黙が怖い。普段と変わらぬ鉄面皮の無表情と続く沈黙は、俺の藁のような自制心をポッキリ折るのに時間は掛からない。
「き、きき、奇遇だなぁ、こんなところで会うなんて。いや、ははは。散歩か? うん、そうだな天気もいいし、散歩もいいんじゃ」
「何をしているの?」
 ニコリともせず……まぁ、元から表情豊かなヤツじゃないから、逆ににっこり笑顔で聞かれた方が怖いのだけれど、それでも今のこの状況、いつもの無表情無感動テイストで聞かれては、どう答えていいのかわからない。
「え、えーと……」
 どうしよう。どうすりゃいいんだ? こんなところで長門と遭遇するなんて予定外だ。予定外どころか、あり得ない。喜緑さんが施してくれたチャフとか言ってた雲隠れ用のナノマシンはどうなっちまってんだ!?
「…………」
 俺の動揺を見て長門は何を思ったのか、ごくごく僅かに、それこそ凝視しても気付けるか否かという程度で眉根を寄せて、俺から視線を外し何処かへ目を向ける。その方角は、偶然か必然か、鶴屋さんと古泉の結納が行われている料亭の方角だった。
「何をしているの?」
 再び俺に視線を固定させる長門は、再度同じ言葉を口にする。まったく同じ台詞なのに、言葉と共に漏れる空気が鉛以上に重たく感じるのは何でだろう。
「そ、そういう長門こそ、こんなところで何してたんだ?」
 聞けば長門は、空いている手を挙げて見せた。その手が握っているのは本。見た目がだいぶくたびれている様子から、もしかして図書館から借りていた本なんだろうか。
「今から返しに行く」
「そ、そうか」
「……つもりだった」
 これは俺の心持ち次第なのかもしれないが、どうにも長門は怒っているようにも見える。
「あなたから、喜緑江美里が施した情報改ざんの痕跡を感じる。そして『彼』もいるのに、あなたもいる。あなたは……誰?」
 まるで猫の目のように、眼光に鋭さを増して長門が問いかけてくる。
 見抜かれた。さすがと言うべきか、やはりと思うべきか、長門は俺を一目見ただけで俺が本来ここにいるはずのない俺だと気付いている。
「いや、これにはいろいろと事情が……」
「朝倉涼子のこと?」
 瞬間、俺の心臓は一瞬だけかもしれないが間違いなく停止したような気がする。正しく血液が循環されず、頭に血がまわらずに貧血みたいな目眩さえ感じた。
「ちょっ、待て。なんでおまえが朝倉のことを、」
「……そう」
 聞けば長門は、わずかに視線をはずして嘆息混じりに頷く。それを見て、俺は引っかけられたと気付いた。何故、そんなことが言えるのかって、そりゃ次に出てきた言葉が決定的だったからだ。
「あれは、やはり彼女……」
「あれは……って? どういうことだ?」
「今週頭に、彼女らしき人物を見た。けれど感じる気配に『らしさ』がなく、彼女と断定する根拠が得られなかったため、判断は保留していた。けれどあなたの言葉で、確証を得た。あれはやはり、朝倉涼子だった」
 一気に捲し立て、長門は鞘から刀を抜き取ったような気配を交えさせて俺を見る。事と次第では叩き斬ると暗に言われているようだ。
「それとも、彼女は朝倉涼子ではないの?」
「その、何というか……」
「何が起きているの? 何を……しようとしているの?」
 もしやこれは、一触即発の危機的状況なのではないだろうか。人生を掛けた究極の選択を迫られているような気がしないでもない。下手な受け答えをしては、我が身にきっとよくないことが起こる。
 正直に、何もかも白状するべきか? しかしそれで長門が納得するとは思えない。今よりもっとひどいことになりそうだ。
 かといって適当な言葉でごまかしたところで、今の長門がにっこり笑顔で許してくれるとも思えない。
 ……どっちにしろ、今ここで死ぬんじゃないか? 俺。
「そ、それは……つまり」
 正直に話してもダメ、適当にごまかしてもアウト。沈黙を守り続けるのは危険極まりなく、しどろもどろに口を開き掛けたそのとき。
 俺の二の腕を痛いくらいに強い力で掴んでいた長門がその手を離し、弾かれたように何処かへ目を向ける。その方角は、料亭がある方向。時計を見る暇もないが、もしかするともう……始まったのか?
 どうやら始まっちまったらしい。長門の様子を見ればわかる。俺を追求するのを中断し、止める間もなく走り出しているんだからな。そうまでして俺のことを心配してくれているのは有り難いが、今の長門のテンションはかなり危険な方向へシフトしている。
「おい、ちょっと待てよ長門!」
 余計に話がこじれている。このままの状況で長門を朝倉と対面させるのは、さらによくないことを引き起こしかねない。
 ゆっくりなんてしてられるものか。弾丸のように料亭へ向かう長門を追って、追いつけないと諦めつつも、それでも俺は走り出した。
 本気で駆け出した長門に追いつこうとしたところで、追いつけるわけがない。普段の長門を見ているとたまに忘れてしまうのだが、忍者じゃあるまいし屋根の上を伝って移動する様を見せつけられると、やっぱり普通と違うんだな、なんて思ってしまう。
 どちらにしろ、俺の足で追いつくには無理がある。物理的にあり得ない。かといって諦めるわけにもいかず、そもそもこの事態が後々どう転ぶかわからない。なによりあのタイミングで長門と遭遇したのは、偶然なのか喜緑さんの狙い通りなのかもわからず、少なくとも、追いつけないからと何の手も打たずに長門を行かせられないのは確かだ。
 走りながら携帯を取り出し、この状況で俺が回すダイヤルは一カ所だけ。
『どうなさいました?』
 ワンコールを待つまでもなく、電話は喜緑さんに繋がった。もしかして、この電話は喜緑さんの脳内にダイレクトに繋がってるんじゃないだろうか。
『この状況で掛けてくるなんて、不測の事態ですか?』
 さすが喜緑さん、理解が早くて助かる。
「すみません、今そっちに向かってるんですが、その途中で長門に会っちまいました」
『えっ?』
 驚きの声がスピーカーから聞こえてくる。ってことは、俺が長門と遭遇したのは、喜緑さんの思惑外の出来事なのか。余計にマズイ邂逅だったわけだ。
『それで長門さんは?』
「物凄い速さでそっちに向かってます。あいつ、確証はなかったみたいですが朝倉のことにも気付いてたみたいですよ」
『タイミングはどうですか?』
 俺がさらに不安を募らせていると、喜緑さんがそんなことを聞いてきた。
「何の?」
『時間ですよ。こちらはすでに朝倉さんが行動に移しています。長門さんの動きはこちらでも把握いたしまして……五分以内には現れそうです。あなたがかつて体験した今日という日と照らし合わせて、大きな齟齬が発生しますか?』
「えー……」
 携帯を耳元から離し、現時刻を確認してみれば……どうだろう。森さんと朝倉がガチバトルを繰り広げているときは時間なんて確認できる余裕もなかったが、鶴屋さんのところから料亭に向かって出発した時間は覚えている。そこからの移動時間と朝倉に襲われるまでの体感時間で考えれば……そうだな、そこまで大きなズレはないように思う。
『なら問題ありません』
 そう伝えれば、喜緑さんはそういう風に断言した。
『もしかすると、あなたと長門さんがお会いしたのは必然だったのかもしれません。だからこそ長門さんはこちらに向かっている、と考えていいでしょう』
「じゃあつまり……俺がこの時間に二人いるのは必然ってことですか?」
 でなけりゃ、あのタイミングにあの場所で長門に会うことなんてできなかった。
『時間の流れに限らず、世の中の仕組みというのは堅牢にして強固です。あり得ないことはあり得ませんし、起こらないことは起こりません。変わる歴史があるのなら、その変わることさえ歴史の一部です。これからもし不測の事態に遭遇しても、自分の行動を信じてください。それが歴史の必然になるはずです』
「そういうもんなんですか?」
『そうだと決めつけてください。でなければ、未来から干渉された今の状況では身動きが取れなくなってしまうじゃありませんか。違います?』
「……ま、確かに」
 と、俺が納得しかけたそのとき、携帯のスピーカーからズズ……ンと腹に響く音が聞こえてきた。
『ああ、こちらは始まってしまいました。では、後ほど』
 物々しい重低音とは裏腹に、軽やかな挨拶を残して通話が切れる。料亭の方向に目を向ければ、そこはかとなく白煙が空に向かって舞い上がってるようだ。
 そろそろ体にたまった疲労物質の影響か、脳から「休め」と命令を出されているのだが、かといってそれで立ち止まる暇もなく、切羽詰まった状況故に逆ハイ状態で走り続けている。残り二〜三キロメートルといったところか。俺の足でも、十分は掛かるまい。
 いい加減、酸欠でぶっ倒れそうになった頃合いで、ようやく料亭が見えてきた。もうそろそろ朝倉と森さんのガチバトルの間に長門が割ってはいる頃合いだ。俺もうかうかしてられない……のだが、事ここに至り、最大の障壁が待ちかまえていることに気付かされた。
 朝倉、長門、喜緑さんの三つ巴は料亭の中庭で行われている。そこに行くためには中に入らなければならないわけだが、玄関には古泉が立っていた。
 そりゃそうだ。こいつは鶴屋さんを連れて逃走しようとする橘を、ここで待ちかまえていたんだ。喜緑さんは不測の事態に遭遇しても自分を信じろとか言っていたが、かと言ってここで古泉に挨拶しつつ中に入っていくのは気が気じゃない。
 どうすりゃいい? 塀をよじ登って行くか? いや、そうしたいのは山々だが、手が届きそうにない。
「……キョン、かい? ここで何をやってるんだ」
 思案に明け暮れていれば、不意に投げかけられる声。
「佐々木!?」
 驚きと戸惑いが入り交じったような、それこそ「キョトン」と言い表すに相応しい表情を浮かべた佐々木が、俺の真後ろに立っていた。
「おまえ……なんでここに」
「藤原さんから聞いたんだよ。ここで橘さんが悪さをするとね」
 そうだ。そうだった。あのとき、古泉と森さんの一触即発状態を収めたのは、他でもない、佐々木だった。
「それで、」
「佐々木!」
「うわっ!」
 こうなればなりふり構っていられない。あれこれ事情を説明することもしている暇もないが、相手は佐々木だ。一を語って十を理解してくれるヤツだと信じている。詰め寄ったときに佐々木らしからぬ声が出たようだが、それでも佐々木は佐々木に違いない。
「まっ、待ってくれ。いきなり何の真似だ? 気持ちは嬉しいが、ここは天下の往来じゃないか。思春期真っ盛りとはいえ、劣情に身を任せて人目をはばからずというのも品がない。いや、拒否してるわけじゃないが場所をわきまえてくれと、」
「頼むから黙って俺の言うことを聞いてくれ」
「キョン……」
 何かを捲し立てるように喚いている佐々木だが、あいにくその言葉を律儀に聞いている時間もない。言いたいこともあるだろうが、ここは素直に俺の話を聞いてくれと真面目に詰め寄れば、暴れていた子猫が諦めたかのように大人しくなってくれた。
「わかった」
 仕方がないとため息混じりながらも、どこかしら落ち着きがない。ほんのり赤くなってるが、もしや風邪とか引いてるんじゃないだろうな。
「キミがそこまで言うのなら、僕も素直に従おう。若さ故の、というヤツだ。ただ……何と言うか、知識はあるが経験がないというか、恥を忍んで白状すれば、どうすればいいのかよくわからない。できればキミがリードしてくれると有り難いんだが……」
「それは当然だろ。俺からじゃなきゃ話にならない。それより、顔が赤いがどうかしたのか?」
「よ……余計なことは言わないでくれ。こういうのは正気に返るとダメなような気がする。勢いというのは、何事においても大事なものじゃないか。それで、ええと、こういうときは目を瞑るのが礼儀なのかい?」
「瞑ってどうする」
「め、目は開いておいたほうがいいのかな? なかなか特殊な……いや、人それぞれだと思うがそれはそれで恥ずかしい、」
「いいから佐々木、よく聞いてくれ」
 このままじゃ埒が明かない。いまだもごもごしている佐々木の言葉に、強引に割って入ることにした。
「この先の料亭で、俺と古泉が玄関先で言い争いをしている。おまえにはそれを止めてほしい。俺が二人いるとかそういうことは気になるだろうが気にしないでくれ。ともかく今は、おまえが入り口付近にいる奴らの目を集めてくれればそれでいいんだ。その間に、俺は中に入らなくちゃならない」
「…………え、っと……なんだって?」
「だから、詳しく説明している暇はないんだ。できればここで俺に会ったことも口外しないでもらいたい。おまえも藤原のことがわかるなら、俺が言いたいこともわかるだろ?」
「あー……そう。そうなのか」
 何をそんな、フルラウンド戦い抜いて負けたボクサーみたいにがっくり項垂れてるんだ? ここでおまえにしっかりしてもらわなくちゃ困るんだよ。
「さて、これは果たしてどう表現すべきなのか自分でもよくわからない。胸の奥深くからわき出てくるドス黒い気持ちは何なのだろうねぇ、キョン。やり場のない怒りと言うか……どこにぶつければいいのか、僕の心の平定のためにも是非ともご教授願いたい」
「よくわからんが、橘にでもぶつけてやりゃいいだろ」
「そうか、ふふ、すべて橘さんのせいか……ふふふ」
 ぶつぶつと、虚ろな眼差しで呪詛っぽいものを口にしてるみたいだが、本当に大丈夫か?
「キミがあまりにも真剣に迫るものだから……いや、いい。忘れてくれ。とにかく、話が見えない。キミが二人いる?」
「だから……っ!」
 もう一度同じ説明をしている暇はない。口であれこれ言うより、佐々木に直に見てもらった方が早そうだ。
「こっちに来い」
「お、おい」
 周囲を伺い、他に『機関』関係者とおぼしき人物がどこにもいないことを確認してから料亭玄関ロビーの外、門前に張り付いて中の様子を伺えば、そこにはすでに森さんさえ現れている。思ったより時間がないぞ、これは。
「……なるほど、確かに二人だ」
 一緒に中を覗く佐々木が、この時間の『俺』を見てようやく事態を理解してくれた。
「キミは本当にユカイな人生を歩んでいるようだね。羨ましい限りだ」
「代わってくれるなら喜んで代わってやるぞ」
「他人の人生を羨んでも仕方ない、とも理解しているのでね。それは遠慮しておこう。それで? 詳しい説明はいつしてくれるのかな?」
「そのうちな。とにかく佐々木、おまえにはあそこにいる全員の目を惹きつけてもらいたいんだ。向こうの状況はこうだ。今日ここで、古泉と鶴屋さん……あの、ぐったりしている女の人だが、その二人の結納が執り行われることになっていた。けど、俺はそれに反対している。あのメイドの姿をした……って、森さんとは顔見知りか」
「六月にね」
 九曜がオーパーツを使った事件のときに、そういえば会っていたな。
「森さんも、あそこにいる俺の味方だ。敵は古泉……ってわけなんだが、古泉も本心では乗り気じゃない。ただ、それを口にできない」
「何故?」
「あいつにもあいつの立場ってのがあるらしい。だから古泉は遠回しに『自分を信用してくれ』と言ってるが、あそこにいる俺も森さんも頭に血が昇っていて、それを理解できていない。おまえは古泉の真意を二人に気付かせてくれ」
「そこまで状況が理解できているのなら不可能な話ではないだろうけど……しかしここで急に出ても、」
「だからこそ、おまえに全員の目が向くんだよ。それに、おまえじゃないとダメなんだ」
 尻込みする佐々木に重ねて言えば、これ見よがしに盛大なため息を吐かれた。
「キミのその強引さは、もう少し他の場面でも見せてもらいたいものだよ。どちらにしろ、あそこに橘さんもいるのだから引き取りに出向かねばならない……か。いいだろう、引き受けよう。ここを出たら、キミと出会ったことは忘れた方がいいんだったね」
「そうしてくれると助かる。悪いな、恩に着るよ」
「貸しひとつだ。それは忘れないから覚悟しておきたまえ」
 そんな言葉を口にして、俺が何かを言う前に佐々木は料亭の玄関ロビーでモメている『俺』たちの前に、俺の記憶にある通りの言葉を口にしながら進み出た。
 すなわち「白熱した議論を戦わせているところに申し訳ないが」と。
 全員の視線がすぐに佐々木へ集まった。佐々木も状況を理解してくれているからなのか、そのまま玄関ロビーの中に入って外からは見えない位置まで移動してくれた。
 全員の目が佐々木に注がれている。この気を逃すわけにはいかない。
 門に張り付いていた俺は塀伝いに慎重かつ素早く行動に移した。当然ながら玄関ロビーに入るわけもなく、塀に沿うように進む。そのルートは人が通ることを考えて作られていないので、蜘蛛の巣やら何やらが張り巡らされており、一歩進むだけでも骨が折れる最悪な道のりだ。ちんたら進んでいれば心がくじけそうになるのは間違いなく、のんびりしている余裕もないので一気に突っ切れば──。
「っで!」
 庭木の張り出た根っこかそれとも別のものか、何かに足を取られて盛大にひっくり返った俺は、その勢いのままで中庭へと飛び出した。
「随分と焦らしたご登場ですね」
 真上から振ってくる声。見上げたそこにいるのは、喜緑さん。首を巡らせれば喜緑さんと対峙するように佇む長門、そして地面の上に転がったままの朝倉の姿があった。
「さて、長門さん」
 勢いよくスッ転びながら駆けつけた俺をちらりと一瞥し、喜緑さんは長門に話しかける。どうやら『俺』が鶴屋さんを案じてここを去り、俺が駆けつけるまでに、二人の間には何かがあったようだ。そう感じさせるには充分な空気が漂っている。
「彼が息せき切って駆けつけた状況を見て、わたしがご説明したこれまでの経緯がウソではないと、ご理解いただけましたか?」
「………………」
 俺がいない間に何があったのか、それはつまり喜緑さんがこれまでの状況を長門に説明していたってことのようだ。言われた長門は天然ものの黒真珠よりも黒く濃い輝きを宿す双眸を俺に向けて、俺に無言の問いかけをしてきている。
 つまり「本当なの?」と。
「喜緑さんが何をどう言ったのか知らないが、朝倉を蘇らせようって持ちかけたのは俺からだ」
「……そう」
 俺の言葉を受けて、長門は何を思ったんだろう。表情こそいつもと変わらぬ鉄面皮だが、漏れる言葉はどこかしら落胆と……困惑、だろうか。そんな感情が含まれているように、見ているこっち感じ取れた。
 長門が何故、そう思うのかわからない。ただ、その気持ちを慮って話を長引かせるわけにもいかない。何しろ朝倉には時間がないんだ。
「喜緑さんからどこまで聞いているのか知らないが、朝倉のパーソナルデータは三分割されてたんだろ? そのうちの二つがすでにあそこの朝倉に入っている。あとはおまえが持ってるっていうパーソナルデータだけだ。それを朝倉に返してくれ」
「それはできない」
 できない? できないってどういうことだ。朝倉の最後のパーソナルデータを持っているのは、長門じゃないってことか?
「いいえ、持っているのは長門さんですよ。間違いなく」
 そんな俺の懸念を喜緑さんはあっさり否定してくれたが、だからこそ俺はますます訳がわからなくなった。
 つまり長門は、朝倉に自身が管理しているパーソナルデータを返せない、と言ってるのか? 何故? もしかして、今日の午後四時までに戻さなければならないというタイムリミットのことを知らないから、そんなことが言えるのか?
 いや、そうじゃなくて……喜緑さんが言ってたな。長門は──。
「朝倉さんを復活させたくないんですね」
 ──やはり、そういうことなのか。
 喜緑さんは、どうも長門と朝倉の間には何かしらの確執があると言っていた。それは当事者たちにしかわからないような、根の深いものらしい。いったい二人の間に何があったのかなんて、だから俺にもわからない。
 ああ、さっぱりわからないさ。
 以前なら、朝倉が独断専行で俺を殺そうとしたことが理由にもなるだろう。けれどそのことに理由があるのも、長門は理解しているはずだ。
 俺に何が真実であるのか伝えるための、そして長門には誰が本当に頼るべき相手なのかをわからせるためにやらかした自作自演。だからこそ、それが理由で長門が朝倉の復活に否定的だとは思えない。
 別の理由があるんだ。長門と朝倉の間に、俺が知らないところで何かがあって、それが理由なんだ。いったい何があったって言うんだ?
「わたしは」
 長門は、俺を真っ直ぐ見つめながら口を開く。
「あなたほど、強くない」
「つよ……く?」
 あなた……って、俺のことを指してんのか? 意味がわからないぞ、長門。俺と比較してそんなこと言うなんて、どうかしてんじゃないのか!? 
「なるほど、それが理由ですか……」
 けれど喜緑さんには、何か察するところがあったらしい。つまらなさそうに、あるいは呆れたように嘆息して独りごちている。
「その気持ち、わかるとは申しませんが理解は示しましょう。ですが長門さん、それはあなたの弱さではなく、甘えなのだと自覚された方がよろしいですよ? そしてその甘えが、あなたの決意を鈍らせます。例えば……」
 と、喜緑さんが言葉を途切らせた、次の瞬間。
 発言の意味がまるでわからず、置いてけぼりを食らった気分だった俺は、次の瞬間には心臓を鷲づかみにされるような光景を目の当たりにすることとなった。
「長門!?」
 かくん、と膝を折り、見えない手で後ろから押されるように、長門の華奢で小柄な体が前のめりに倒れた。
 いったい何が起きたのか、目の前の光景を実際に見ていても理解できない。まるで身動きが取れず、事実、数秒か数十秒は瞬きひとつすら出来ずに固まっていただろう。
「喜緑さん、長門に何をしたんですか!」
 ようやく我を取り戻し、真っ先に出た言葉がそれだった。この状況下、長門が倒れるようなことになる原因は喜緑さんしか考えられない。
「あらいやだ。わたしではございませんよ」
 けれど俺の怒気混じりの声を飄々と受け流し、喜緑さんは白樺のような細い指先を真っ直ぐ天上に向かって指し示した。その指先に釣られて見上げた空から、それは俺と長門の間に割ってはいるように舞い降りる。
「く……九曜……」
 長すぎる髪は左右に大きく広がり羽根のようにたなびき、どこから降ってきたのか知らないが、地球の重力をまるで無視したような身軽さで降り立った九曜は、路傍の石でも見つめるような眼差しを、地面に倒れている長門に向けていた。
「────それ────は、あなたに────不要なもの────……」
「…………」
 語りかける九曜の言葉に、長門は応えない。応えられないのかもしれない。
 ……そうか、長門の変調は喜緑さんのせいじゃない。九曜の仕業か。
「ですね。強烈なジャミングを長門さんに仕掛けています。この規模は、よほど念入りに準備していたのでしょう。あれでは指一本、動かせそうにありません」
「だったらどうして喜緑さんは平気なんですか」
「あの小娘が仕掛けているのは、長門さんと情報統合思念体との接続を乱すジャミングです。わたしと長門さんでは接続の……そうですね、周波数、と言いましょうか、それが違いますもの。長門さんに利くものが即わたしにも通じるわけではございません」
 だから倒れているのは長門だけって理屈か。
「だったら、」
「長門さんを助けろ、ですか? さて、どうしましょう。このまま見ていた方が、朝倉さんを蘇らせるのには好都合なんですけれど」
「だからって、長門をあのままの状態にしておけってんですか!?」
「さて」
 人の焦りなど微塵も気にせずに、泰然たる態度で構えている喜緑さんに俺が痺れを切らすのにさほど時間はかからなかった。喜緑さんが動かないのなら、俺が動くさ。あんな状況を目の当たりにして、ただ見ているだけなんて真似ができるものか。
「お待ちください」
 なのに喜緑さんは、自分が動かないだけならまだしも、俺の動きさえ手を取って引き留める。なんのつもりだ!?
「心配なさることはございませんよ」
「けど……っ!」
「いいから見ていましょう。……ね?」
 言葉尻は優しく丁寧に、けれど醸し出す雰囲気にはどこか凄惨さを交える喜緑さんの態度に、俺は文字通り身動きを封じ込められた。
 そんな俺の眼前では、九曜が長門に手を伸ばし、その額に触れようとしていたその手が──。
「──────」
 ──ふと止まる。
 喜緑さん曰く、指一本たりとも動かせないと言っていた長門自身が、九曜の手を掴み止めていた。
「渡せない」
 九曜を睨む……というよりは、ただ真っ直ぐに向ける眼差し。その輝きは微塵も陰りはしてないが、けれど九曜も引こうともしない。それどころか、長門のその態度にどこかしら……そう、戸惑っているようにも見えた。
「────捨てたのは────あなた────……」
 その一言が、長門にとってどれほどの痛手になる一言だったのか俺にはわからない。ただ、雷に撃たれたように九曜の腕を掴んでいた指先がピクリと震え、紐が解けるように滑り落ちる。
 九曜はそのまま、触れるか触れないかという力で長門の額に指を当てた。目に見えて何かがあるわけではない。時間とて、それほど長くそうしていたわけでもない。
 俺の目には九曜が長門の額に触れただけという風にしか映っていないのだが、それで事は済んだとばかりに九曜は立ち上がって、ピクリとも動かない朝倉の側に歩み寄った。
「おめでとうございます」
 そんな九曜に、喜緑さんがにこやかな笑顔とともにそんな言葉を投げかけた。
「これであなたが望むように、朝倉さんは復活ですね」
 白々しいとも感じる喜緑さんの言葉。けれど九曜は意に介した風もない。こいつの目的も朝倉を蘇らせることであって、どうやら今はそれ以外のことはどうでもいいらしい……のだが。
「なぁ〜んて、都合のいい話が本当にあると思ってらっしゃるのなら、あなたはわたしたちを甘く見過ぎです」
 その一言に、九曜の足が止まる。俺も、何を言ってんだとばかりに喜緑さんを見た。その表情は、とてもとても楽しそうに微笑んでいる。
「確かに、これで三つに分割されていた朝倉さんのパーソナルデータはそろいました。でもそれは、この惑星表面上に本来生息する知的有機生命体の記憶に類するものであっても同等のものではございません。いわゆるプログラムと同じです。ではプログラムというものは、組み上げれば勝手に動き出すものでしょうか。違いますよね? 起動させるためのキーが必要……ですね」
 何を……この人は何を言ってるんだ? プログラム……起動、キーだって? 朝倉を復活させるには、パーソナルデータを集めるだけじゃ足りないってのか!?
 そんな話は初耳だ。初耳だからこそ、その話が本当かと首を傾げたくなる。
 もしかすると、それはウソかもしれない。事実だとしても、それ以外にも必要なことがあるかもしれない。そうやって九曜を揺さぶっているんだろうか。事実、九曜が探るような眼差しで喜緑さんを睨んでいる。
「あらあら、そんな形相で睨むだなんて怖いじゃありませんか。わたし、気が弱いのですからあまりいじめないでいただきたいです」
「────カギ────は、どこ────?」
 喜緑さんの軽口に、九曜はニコリともしない。二人の間でバチバチと火花が散っているような幻覚が見えたのは、決して気のせいじゃないと思う。
 そんな張りつめる空気の中、先に沈黙を破ったのは喜緑さんの方だった。
「簡単な話ですよ。朝倉さんの時間は、昨年の五月、北高の教室で彼を呼び出し殺そうとしたときに止まっているんです。元に戻すというのなら、そこから始めなければならない……と、ただそれだけの話です」
 それだけ? ただ、それだけでいいのか? まさか五月まで待てとか言うわけじゃないだろうな。そうだとしたら、どちらにしろ今日の午後四時半ごろがタイムリミットの朝倉には時間がない。
 それだと意味がない。九曜をいいように扱うために朝倉をほっとくというのなら話は別だが、こっちの目的も朝倉を蘇らせることだ。いかに喜緑さんと言えども、自分たちの目的を曲げてまで九曜をいいようにからかうとは思えない。
 なら、今の喜緑さんの言葉は事実……か? 朝倉を蘇らせるには、三つのパーソナルデータだけでなく、場所も重要だってことか? しかしそれが事実だとするのなら、何故それを今まで隠して、しかもそれをこのタイミングで九曜に伝えるんだ。
「──────」
 九曜もそう考えているのかもしれない。ひとしきり喜緑さんを睨み続けてはいたものの、疑心暗鬼になっていても仕方ないと判断したのか、倒れている朝倉を抱きかかえ、そのまま料亭の屋根を飛び越えるようにして去っていった。
 向かうは北高か。
「わたしたちも追いましょう。はい、これ」
 どこから取り出したのか、喜緑さんが何故か紙とペンを俺に差し出してきた。
「なんですか、これは」
「メモを残さないと。ほら、あなたがあなた自身に宛てたメモです。それがあったから、あなたは学校へ向かう途中の坂道で何者かに眠らされ、無理やり時間遡航をさせられたのでしょう?」
 ああ、そうか。そうだった。ってことは、あのメモを残さなければこんなことには……いや、そうはできないのか。こんな事態になっちまってるのは俺としても不本意だが、歴史がそういう風になっているのだからそうしなければならないわけだ。
 わざわざ自分で自分を困った状況へたたき落とすような真似をしなけりゃならんとはね。ああ、忌々しい。
 文面なんて覚えちゃいないが、適当に書いてもそれが正解になるんだろう。読める程度の走り書きでそれらしいことを書けば、喜緑さんが俺の手からメモを奪って落ちていた小石で料亭の柱に縫いつけた。あなたは忍者か何かですか。
「では」
 喜緑さんが、口の中で何かを呟く。と、修理費に幾らせしめられるか考えるのも億劫になりそうなほどボロボロになっていた料亭の中庭が、何事もなかったかのように元通りになった。
「行きましょう」
「え? いやでも長門をあのままにして……って、げふっ!」
 ぞんざいに人の襟首を掴むや否や、喜緑さんは先に北高へ向かった九曜と同じような人間離れした跳躍を見せて移動を開始した。服の襟で首が絞まりそうになったのは、言うまでもない。