喜緑江美里の策略 五章

 どんなに強固な糸であっても、両端を持って目一杯引っ張ればいずれは切れる。強固なワイヤーだって、それ以上の力が加わればブッツリ切れてしまうのは、子供にだってわかる理屈だ。
 だから、俺の緊張の糸ってのがどれほどの強度があるのかわからないが、少なくともいつ暴れ出すかわからない、そもそも本当に暴れ出すのかさえ首を傾げたくなる朝倉を前に、一分一秒たりとも気を抜かずに見守り続けることなんて出来るわけもなく、何よりロクな睡眠もまっとうな食事も口にしていない現状では、ふとした弾みに意識をつなぎ止めておく緊張の糸が切れて、ばったり倒れることだってあり得るだろうさ。
「……あ?」
 いつ眠りに落ちたのか、そのことさえわからないものの、自分が寝ていたことだけはハッキリとわかる。目を開いた時には、窓から差し込む光は天然の太陽光ではなく、外から窓ガラスにぴったりと黒い画用紙貼り付けて、そこに白い影をぼかして塗りつけたような街灯の明かりに代わっていた。
 俺は反射的にベッドに目を向けた。そこには、眠っているように大人しくなった朝倉が横たわっていた……はずだった。はずだったのに、そこには朝倉どころか人影さえ見あたらない。
「朝倉!?」
 まさかまた妙な暴走をしてどこかに逃げ出したのか? いやしかし、あいつは俺を見れば無条件に襲いかかってくるような状況だったはずだ。にもかかわらず、真横で意識を途切れさせていた俺を無視して出て行くはずが……いやいや、すでに喜緑さんから意味記憶のパーソナルデータを入れ込まれて人並みの記憶喪失になっているらしいから、状況がわからず混乱のあまり外に逃げ出したのか?
 どっちにしろ、ここにいないなら、また捜し出さなくちゃならない。不用意に眠ってしまった自分の迂闊さと手間ばかり掛けさせてくれる朝倉に舌打ちしながら外へ向かおうと立ち上がり、玄関に直結しているダイニングの扉を開けると。
「………………」
 ダイニングテーブルに腰掛けて、食パンを頬張っている朝倉がそこにいた。
 どれだけの沈黙が舞い降りたか。五秒か、一〇秒か、少なくとも一分は経過してなかったと思う。俺に視点を固定させたまま、お行儀よくモグモグと口を動かしていた朝倉は、おもむろに食いかけ食パンを俺に差し出してきた。
「食べる?」
 第一声がそれかよ。
 ドッと疲労感と倦怠感が全身にのしかかってきた。直前まで『朝倉がいない』ということでの焦りと緊張に包まれていただけに、そのギャップに体が追いつかない。
「……なに?」
「なんでそんなところで勝手に飯喰ってんだよ」
「お腹が空いたから」
 至極まっとうな意見に、ぐうの音も出ない。いつまでもへたり込んでいたって仕方がないので、俺はため息混じりに起きあがり、朝倉の対面に陣取るように席に着いた。
 朝倉が目覚めたのだから、早めに喜緑さんに連絡を取らなければならない。携帯を取り出して時間を見れば、時間は……午後六時? 確か予定では朝倉が目覚めるのは午後七時ごろだったはずだ。
 なんてこった、少なくとも一時間以上も早く朝倉が目覚めてるじゃないか。
「なぁ」
「なに?」
「目が覚めたのはいつだ?」
「今から五四二八秒前」
 律儀に秒単位で教えられても、そんだけ経過してりゃよくわからん。えー……約、一時間三〇分くらい前か? ってことは四時半ごろ? ますますタイムリミットが短くなってるじゃないか……。
「あのさ」
「ん?」
 舌打ち混じりに喜緑さんへ連絡を入れようとしたそのとき、食パンを口に運んでむぐむぐさせていた朝倉の方から、どこかしら遠慮を感じさせる声音で話しかけてきた。
「あなた、だれ?」
「あ?」
 自分でもマヌケだと感じる声が、思わず口を裂いて出た。
「ここ、どこなの? どうしてわたしはここにいるの? わたし……誰なの?」
 一度口火を切った朝倉から、立て続けに質問された。
 もしかして、見た目は冷静に見えるが、内心では肝心なところがまるで抜けてて不安に思ってるんじゃないだろうか。
「何もわからない……んだよな?」
「該当する情報が検索できることは知っているけれど、やり方がわからないの」
「……えー」
「母体とリンクすれば取得できることも知っているけれど、それもやり方がわからないの。今のわたしは自律起動モードで動いてるけれど……」
 はっきり言って、朝倉が何を言ってるのかまったくわからない。そもそも、今の朝倉に余計な情報を与えていいのかさえ判断できない。喜緑さんの話では、三つに分割されているパーソナルデータのバージョンが近い方がいいと言っていたから、今の状態で余計なことを吹き込むのもマズイのかもしれん。
「ちょっ、ちょっと待ってくれ」
 矢継ぎ早の質問を一言で断ち切り、操作途中だった携帯のダイヤルを回して喜緑さんに連絡を入れる。今回はすぐに繋がった。
『このタイミングで連絡してくるなんて、もしや目覚めました?』
 皆まで言うまでもなく、喜緑さんがそう言う。ここまで理解が早いと助かる。
「正確には四時……えーっと、十六時半ごろに目覚めたらしいですけど」
『らしい? ……寝てましたね』
 一発で看破された。
「そりゃだって仕方ないでしょう。俺は機械じゃないんですから、四六時中起きてられませんって」
『まぁいいです。わたしも、あと一〇分ほどでそちらに伺えそうですから、それまで大人しくしていてください』
「あの、朝倉にあれこれ聞かれてるんですが、これって答えていいもんなんですか?」
『え? ああ、そうですね。当たり障りのない、必要最小限の情報くらいでしたら大丈夫なんじゃないですか?』
 ないですか……って、ずいぶん適当だな。
『それでは、後ほど』
 喜緑さんにしては珍しく無駄口も余計なことも口にすることなく、やけにあっさりと通話が切られた。まぁ、すぐに到着するらしいから、あれこれ言うのは顔を合わせてからかもしれない。
 ともかく喜緑さんが到着する前に、朝倉に基本的な状況を説明しておくか。まずは……そうだな、自己紹介くらいでいいかな。俺を殺そうとしたとか、独断専行の果てに消されたとか、そういうことまで伝えていいのかは……判断できない。ただ、これまでの経験が完全に欠落した記憶喪失だってことは伝えておくべきだろう。それと宇宙人だってことも言っておくべきか。そうしておかなけりゃ、こいつが常識だと思ってることまで聞かれちまう。そんなの、答えられるわけがない。
「わたしとあなたは違うってこと?」
「まぁ、そういうことだ」
「それならどうして、わたしはあなたと一緒にここにいるの?」
「なんでって……」
 改めて聞かれると、俺もどう受け答えしていいのか困る質問だ。事の成り行きと言えばいいんだろうか? 少なくとも、俺が自分から望んだ状況でないことだけは間違いない……と、思んだけどな。
「前のことがまるでわからないけど、わたしとあなたは友だちだったの?」
 友だち? いやあ、友だちと言えるほど、和気あいあいとした関係じゃないことだけは断言しよう。そりゃだって、どこの世界にナイフを突きつけてくる友だちがいるんだよ。
 あえて俺と朝倉の関係を言えば……。
「ハルヒの……っつっても、ハルヒのことさえ知らないんだよなぁ」
「ハルヒ? 涼宮ハルヒのことなら知っている」
「え?」
 知ってるって……ハルヒのことを? 俺のことどころか、これまでの経験が一切ない朝倉がどうしてハルヒのことだけはわかるんだ?
「類を見ないほど異常な情報フレアを発生させた発生地点のこと……でしょう?」
「ああ」
 ハルヒがどんなヤツかは知らないが、あいつがしでかしたことは『知識』として知っているってことか。
「人の名前だったの?」
「忘れていい名前だと思うぞ。会ったところでロクなことになりゃしない」
「そうなの? でも、」
「あら、本当にお目覚めでしたのね」
 朝倉の言葉を遮って、玄関のドアが呼び鈴を鳴らすこともノックすることもなく、合い鍵でも持ってたのかガチャリと開かれた。現れたのは言うまでもなく喜緑さんだ。手には買い物袋らしきものを持っていた。
「こちら、食事も買い物に行くこともできなさそうだからお持ちしました」
「あ、ども」
 なんだかんだ言っても、さすがは喜緑さんだ。こういう心配りは素直に有り難いし嬉しい……って、ものがインスタントばかりかよ。
「……ねぇ」
 俺がスーパーの買い物袋の中身を見て一喜一憂していると、朝倉がどこかしら不安げに声を掛けてきた。
「この海藻みたいな髪型の人は誰?」
 世界が凍てつく瞬間というのは、今のこのときを言うんじゃないだろうか。記憶がないというのは、人をここまで無謀かつ勇敢にしてしまうものらしい。
「……あらあら、あら。これはもしや、物理的かつ情報的にも完全抹消してみろという、わたしに対する宣戦布告と受け取ってよろしいのでしょうか?」
「ちょっ、ちょっと待った! 待ってください喜緑さん! 朝倉はあれです、悪気があって言ったわけじゃないんですよ。ほらだって、記憶喪失じゃないですか。見た目そのままの特徴を的確に捉えた結果として、ついそういう表現になってしまったという、ただそれだけですからここはひとつ大人の対応を見せて軽やかないつもの笑顔とともに受け流してあげましょうそうしましょう」
「つまり」
 ギチギチギチと、固いゴムを無理やりねじるような音が聞こえてきそうな動きで、喜緑さんが俺を見る。
 笑顔で。
「あなたも、そう思っていらっしゃる……と?」
 その瞬間、俺が朝倉の頭を押さえつけながら一緒になって平身低頭で平謝りしたことは、野生を忘れた人間にも危険回避行動を取れる本能が、わずかながらでも残っていた証拠だと思いたい。


「では少し、状況の整理と今後の予定を詰めていきましょう」
 木目調のフローリングがなされた床の上に俺と朝倉をそろって正座させながら、喜緑さんはキッチンテーブルの椅子にどこぞの女帝さながらの優美さで腰を下ろし、そんなことを口にした。
「まず、朝倉さん。わたしはあなたと同じ存在だということを告げておきましょう。ただし、わたしは情報統合思念体という広域拡散意識に属しておりますが、今のあなたは我々が便宜上に『天蓋領域』と名付けた、別種の情報生命体に記憶情報の管理を委ねております」
「……そうなんだ」
 他人事とはいえ、聞いてる分にはなかなか衝撃的な告白だと思うんだが、朝倉は思ったよりも淡々と受け入れている。
「記憶のないあなたに今までのことを簡単に説明いたしますと、あなたは本来こちら側のインターフェースでした。けれど独断専行の果てに、一度は有機体の情報連結を解除されて消えております。今、わたしとそこの彼が行動を起こしているのは、あなたの記憶を正しい形に組み直すためです」
 そこまで話して余計な記憶を与えていいもんなのかと思ったが、喜緑さんが話していることだから問題ないんだろうな。
「え? それって、」
「わたしの言葉に何かあれば『イエス・マム』と答えなさい」
 ……ここはどこぞの軍隊か? そんな言葉で朝倉の発言を一刀両断で遮って、喜緑さんは話を一方的に続ける。
「朝倉さんのパーソナルデータは三つに分割管理されていました。ひとつは情報統合思念体に属する数多のインターフェースが共通管理していたもの。もうひとつは情報統合思念体が管理していたもの。これらふたつはすでにあなたの中にあります。残るひとつは、かつてあなたがバックアップとしてサポートしていたインターフェース、長門有希が管理しております」
「長門……さん? だれって痛っ!?」
 朝倉が俺に話しかけて来た瞬間、喜緑さんが指先で弄んでいた丸めたパン屑を朝倉のおでこ目がけてはじき飛ばした。パン屑でダメージを受けるって、どんだけの勢いで撃ち出してんだ?
「今はわたしが話をしているんです。余計な口は慎みなさい」
 正直、怖いです。
「その長門さんから朝倉さんの最後のパーソナルデータを譲り受けなければ、朝倉さん、あなたは少々困ったことになります。簡単に言えば、自壊します」
 自壊? 自壊するって、どういうことだ? 前までの話では、分割されていたパーソナルデータがひとつに結合できなくなるって、そういうことだけじゃないのか?
「それってどう……痛っ!」
 問い詰めようとした矢先に、喜緑さんのパン屑攻撃を額に食らった。さっき攻撃を受けた朝倉も痛がっていたが、オーバーリアクションではないことを身を以て理解した。マジで痛い。
「今はわたしが話をしているんだと……同じことを二度も言わせないでくださいね」
 人の笑顔がここまで他者に恐怖心やら精神的傷やらを植え付けるんだと、そう思える笑みを浮かべて、喜緑さんがそんなことを言う。
「小難しい話をしてもよろしいのですが、その仕組みを理解したところで結果が変わるわけではありません。ともかく明日の一六時三〇分ごろまでに、長門さんから朝倉さんの最後のパーソナルデータを手に入れなければゲームオーバーだ、と言うことで理解していればよろしいんです。その先兵として周防九曜を泳がせていますが、あちらもあちらで手をこまねいているようですね」
 そういえば、あいつは何をやってるんだ? 朝倉をここに残して姿を消してから一日以上が経過している。それまでまったく音沙汰がないのは、不気味と言えば不気味だ。
「周防九曜は今、仲間内でのごたごたで思うように行動できていないようです。具体的に言うと、橘京子の一派が周防九曜の行動に干渉しようとしています。それを煙に巻きながら長門さんから朝倉さんのパーソナルデータを奪う、というのは、いかに彼女でも骨の折れることのようですね」
 そう言えば、時間遡航してくる前の土曜日に、料亭に現れてちょっかいを出してきた橘自身もそんなことを言ってたな。あいつは九曜と朝倉が一緒にいるところを見ているらしい。それは水曜より前の話だから……九曜が今ここにいる朝倉を作り出したころの話なのかもしれん。
「何であれ、こちらにとって有り難い話なのは間違いありません。何しろあなたの話では、明日の土曜日、上手い具合にすべてのコマが出そろうようですし。残念なのは、実際に来たるべき土曜日を体験しているあなたも、周防九曜を見ていないことでしょうか。故に彼女がどのように動くのか不明です」
 ある種、一番のジョーカーは九曜ってことか。
 どうやら喜緑さんは、今のところあいつを上手くコントロールしているようだが、どこでどうなるのかわかったもんじゃ……待てよ? 土曜日といえば、九曜云々よりも別の騒動があったじゃないか。
 俺は朝倉に襲われてたんだよな。それが、今ここにいる朝倉の仕業ってことでいいんだろうか?
「そうです、それが餌です」
「餌?」
「長門さんを呼び寄せるための、です」
 喜緑さんの話では、つまりこういうことらしい。
 現状では、長門は自分が管理している朝倉のパーソナルデータを素直に渡すことはないらしい。直接会わせて「寄越せ」と言ってみたくても、長門は朝倉に会おうとしないし、会ったとしても十中八九拒否されると喜緑さんは睨んでいる。その理由は……どうも一言では言い表すことができない、込み入った事情があるようだ。
 だから逆に、長門が出てこなければならない状況を作ってしまえというわけだ。つまり、今はまだ長門が存在すらもはっきり把握していない朝倉を突然現れたように見せて、あまつさえ俺を殺そうとしている、という状況だ。そうなれば長門も朝倉に会う会わない以前に出向かざるを得ないことになるし、朝倉と嫌でも対面することになる。
「つまり、土曜日のことは……?」
「すべて予定調和のオママゴト、ということですね」
 がっくり力が抜けた。結局、朝倉が俺を殺そうとすることには必ず理由があるってことなのか。いやでも、あのときはかなり本気で殺されるかと思ったぞ。
「それはそうですよ。手を抜いては長門さんが出て来る前にバレてしまうじゃありませんか。何しろ側には『機関』の森園生がいらっしゃるのでしょう? なので朝倉さん、明日のあなたは手加減抜きで、彼を怨敵と思って完膚無きまでに叩き潰す勢いで殺しにかかってください」
 気のせいだろうか、喜緑さんの言葉の端々に本音が見え隠れしているような気がする。
「イエス・マム」
 かくいう朝倉も即答するな。って、喜緑さんの冗談を真に受けてそんな返事をするな。だいたい、少しは躊躇ったり言い淀んだりしてくれ。
「これが今、朝倉さんを取り囲む現状と、今後の大雑把な予定ということになるでしょうか。細かいことは、臨機応変に行くしかありません。はい、何か質問はございますか?」
 ここでようやく、喜緑さんから発言の許可を与えられた。今までの喜緑さんの話の中で、いくつか気になるところがあるものの、それは俺が知っていても仕方がない話だろう。時間までにパーソナルデータがそろわないと自壊する、とかな。具体的にどうなるのか知っておきたいところだが、知ったところで俺にできることが増えるわけでもないし、何より余計な情報が増えて混乱するだけかもしれない。
 それよりも、もっと直接的に俺に関わることを聞いておくべきか。
「明日、俺は何をしてればいいんですか?」
「強いて言えば長門さんの説得役、と言ったところでしょうか。ただ、悠長に長門さんを説得している時間などあるかどうかも怪しいところです。基本的には強引に長門さんから朝倉さんのパーソナルデータを奪う方向で行動しますので、実際には何もやることがないままで終わるかもしれませんね」
「強引に……って、長門に何をするつもりですか」
「さて……穏便に事が済むことを祈っててくださいな」
 不安をにじませた俺の問いかけに、喜緑さんは口元に薄い笑みを浮かべてうそぶいた。
「わたしからも質問あるんだけど」
 今度は朝倉が片手を挙げて口を開いた。記憶のないこいつが質問とは、いったい何に疑問を抱いたと言うんだ?
「根本なところであれだけど、どうしてわたしはここにいるの?」
 あまりにも基本的な質問なだけに、俺はもちろん喜緑さんもつい、面食らったような表情を見せて言葉を詰まらせた。
「あんたたちがわたしのパーソナルデータを復元しようとしてくれているのはわかったけど、そもそもどうしてこんなことになってるの?」
 こんなことに……って言われてもな。
 そもそもの切っ掛けは、九曜が朝倉のインターフェースを勝手に作り出したことが原因だ。あいつがこんなことをしていなければ、朝倉のパーソナルデータを集める必要はなかった。そんな朝倉のパーソナルデータ集めだって、喜緑さんがそんなことを言い出したからできると知ったのであって……極論で言えば、すべて偶然の上に成り立っている。そこに理由や原因を求められても「なんとなく」って言う曖昧かつ適当な言葉しか出てこない。
「なら言い方を変えるけど……リスクはないの?」
「リスク?」
「だってわたし、一度は消されているんでしょう? そんなわたしを復活させるって、かなり無茶なことじゃない。よくわからないけど、死んだ人を生き返らせるのと同じことなのかしら? そこにリスクはないの?」
 言われてギクリとした。そういう言い方をされると、そうなのかと思わなくもない。
 俺たちがやろうとしていることは、死んだ人を生き返らせるようなものなのか?
 確かに朝倉が言うように、今の俺や喜緑さんは「朝倉のパーソナルデータを集めて復活させる」という目先のことだけに気を取られているが、復活させることでのリスクなんて微塵も考えちゃいなかった。いや、そもそもリスクがある、って自覚すらない。何しろ俺には、自分がやってることに対する危機感や負い目も何もないんだ。
 あるのか、リスクが。どうなんだ?
「ありません」
 けれど喜緑さんは、そんな俺の不安を他所に、考える素振りすら感じさせずに否定した。
「朝倉さん、あなたは人の倫理観に則ったような考え方をしているようですが、そもそもわたしたちは人ではありません。生きる死ぬ以前の問題として考えるべきです。壊れた家電製品を『死ぬ』とは言いませんでしょう? その壊れた家電の故障箇所を交換して直しても『生き返らせる』とは表さないものです。そして、直したところでリスクはありません。そういうものです」
「んー……そういうものなのかしら?」
「かしら? って言われても、」
 喜緑さんや朝倉を家電とイコールで結びつけるには抵抗がある。あるが、その喩えは喜緑さんが出したものだから、この際は口出ししないでおこう。
 どっちにしろ、俺には朝倉の問いかけに答えられる材料が何もない。喜緑さんがそう言うのなら、そうなのだとしか答えられないじゃないか。
「もし仮に」
 俺が口籠もれば、喜緑さんが代わりとばかりに口を出してくる。
「何かしらのリスクがあったとして、ではどうします? 立ち止まったところで待つのは朝倉さんの自壊じゃありませんか。逆に、突っ走ったことでリスクがあるのかどうかは……どうなのでしょう。あるかもしれないし、ないかもしれません。とすれば、あるかないかもわからないリスクを懸念して立ち止まるより、起こることが確実とされるリスクを回避するため行動すべきです」
「確かにその通りかもしれないけど」
 いちおうは理解の態度を示す朝倉だが、それでもどこか、醸し出す雰囲気には100%の理解はない。何がそんなに気になるんだ?
「別に気にしてるわけじゃないけど。ただ、」
「朝倉さん」
 俺に顔を向けていた朝倉が、喜緑さんに呼ばれて「はい?」と振り返った瞬間、その額にBB弾くらいの大きさに丸めたパン屑がクリティカルにヒットした。
「わたしたちが、どこの誰のために、こんな面倒な、ことをしていると、思ってるんですか! 策を組み上げているのが、わたしなのに、それに文句があるとは、いい度胸です!」
「痛い痛いやめてやめてっ!」
 読点のたびに撃ち出す喜緑さんのパン屑弾を受けて、朝倉は頭を抱えて逃げ回っている。食い物をオモチャにするなと言いたいが、巻き添えを食うのはゴメンだな。
 なんであれ、これで明日やらなくちゃならないことはわかった。そのためにどうすればいいのかも理解した。不安に思うところは少なからずあるが、だからといって今のこの時点でやれることは何もない。
 となれば、残る今日という一日は、明日に備えてぐっすり寝るだけだ。だから俺が何を言いたいのかというと、極めて単純かつ明快なことだった。
「そろそろ帰ってくれませんかね?」
 パン屑まみれの部屋の中、いくら自分の家ではないと言ってもこの惨状はあまりにもあんまりだ。今ならセットで朝倉も付けてやるから、とにかく俺をゆっくりさせてもらえないだろうか。
「あら」
 そんなニュアンスのことを言えば、喜緑さんは「これまたご冗談を」とばかりに、最近の奥様方でさえ見せないような、手を振るジェスチャーを見せてきた。
「もう『帰れ』などとは素っ気ないじゃありませんか。最後の晩餐ですもの、皆さんで食事をするのも悪くないと思いますけれど」
 にこやかな笑顔でそんなことを言われても、当の喜緑さんが持ってきてくれた食料はカップ麺などのインスタントばかりじゃないか。だいたいなんだ、最後の晩餐て。縁起でもない。
「それはもしかして、暗にわたしの手料理が食べたいとおっしゃってるんでしょうか? あらまぁ、なんというワガママさん。せっかく料理が苦手な男手でも手軽に作れるレトルトを見繕って来たというのに」
 これは何だろう。俺の周りには、会話のキャッチボールができない連中ばかりなのかと頭を抱えたくなる。自分にとって都合の悪いところを綺麗サッパリ排除して、喜緑さんはあくまでもマイペースだ。
「仕方ありませんね、そうまでおっしゃるのなら、」
「いやだから、別に喜緑さんの手を煩わせることもありません。ああ、揚げ足取られそうなので先に言っておきますが、別に喜緑さんの手料理を食べたくないと言ってるわけじゃないですよ?」
「いえ、宅配ピザでも頼もうかと」
 言ってる側から電話片手にダイヤルを回している。そうですね、最初っから作る気なんざ、まるでなかったんですね。とにかく朝倉連れてとっとと帰ってくださいこんちくしょう。
「いやですね。帰るにしても、朝倉さんは連れ帰ったりいたしませんよ」
「え? まさかここに置いてくつもりですか? それはさすがにマズイでしょう」
「何がですか?」
 ニコニコニコニコと、俺が言いたいことなんてごりっとお見通しだとばかりの笑顔でスッ惚ける喜緑さんだが、かといって今回ばかりは照れたり恥ずかしがってる場合じゃない。特に明日は重要な一日だ。それがしっかり理解できているからこそ、何の気兼ねもなくしっかり休息を取りたいわけで、そこに朝倉が一緒にいられるのは落ち着かない。色々な意味でな。
「何を今さらおっしゃっていますやら」
 はぁ〜っとため息を吐く喜緑さんは、心底呆れ顔を浮かべてみせた。
「だいたい、役割のない朝倉さんを蘇らせようと決めたのはあなたじゃございませんか。今から朝倉さんが側にいると落ち着かないだのと言ってたら、今後はどうされるおつもりですか? そんな邪魔者扱いするために蘇らせるつもりですか、あなたは」
「む……」
 悔しいが、喜緑さんが言うことももっともだ。
 朝倉の役割云々はどうでもいい。そもそも役割がなければ存在しちゃダメなのかって話になる。それを論じるのはバカげたことだ。
 ただ、そういうこととは別に、朝倉を蘇らせようと決めたのが俺なのは間違いなく、その俺が朝倉に苦手意識を持ったり邪険に扱うのはよろしくないことだと思う。
 つまり、今のこの復活させるための大騒ぎは、あくまでも通過点でしかないわけだ。復活させてそれで終わりではなく、その後も続く。むしろ、その後の方が大事なのかもしれない。
 今の朝倉はまだ以前の記憶が完全ではないが、それが戻ったからと、消える直前の生活に戻れるわけじゃない。いや、戻れない確率の方が高い。そのフォローをしなければならないのは……残念なことに事情を知る俺であり喜緑さんであり、ここにはいない九曜も巻き込むことになるだろう。そして、長門も。
 長門はどう思うかな。喜緑さんからの話では、長門は朝倉の復活に賛成ではないらしい。自分が消した負い目でも感じてるんだろうか? いやでも、あれは状況的にそうせざるを得なかったことであり、今だからこそ言えるが、ああいう状況にしようとしたのは朝倉だ。だから、どちらがいいとか悪いという話にはならない。
 そういう風に割り切れる話でもないかもしれないが、長門が朝倉復活に反対な理由にするには少し無理がある。
 もっと別のところに長門と朝倉の確執はあるのか? それを取り除かない限り、朝倉が復活してもロクなことにならないんじゃないか?
「ご理解いただけましたか?」
 ぼんやりそんなことにまで考えが巡り始めたころ、俺の思考を遮るように喜緑さんが丁寧口調な教師のように、声をかけてきた。
「あなたには、最後まで責任を取っていただかないと困るんですよ。末永く、ウチの涼子をお願いいたします」
「いや、やっぱいらないです。さっさと持ち帰ってください」
 今にも三つ指突いて頭を下げて来そうな喜緑さんの言葉を遮って、とにかくこいつらを追い出そうと心に決めた。
 記憶が無事に戻ったあとのフォローは、そりゃするさ。するけど、まるで朝倉の今後の人生の半分を肩代わりするような役目まで押しつけられるのはご免被る。俺のささやかな人生設計に、朝倉の居場所なんぞありゃしない。
「もしかしてわたし、物凄く失礼なこと言われてる?」
 話を聞いていた朝倉がそんなことを言うが、そんなことはない。俺が言いたいのは、記憶が戻ったあとは自分が思うように好きにしろと言ってるのであって、わかりやすい言葉を使えば「自立しろ」の一言に尽きる。
「だいたい、そんな話はまだ先でしょう。明日をどう乗り切るかで精一杯な状況じゃないですか」
「おっしゃることはごもっともです。ですが、わたしの意見を述べるのであれば、プライベートなリラックス空間に他所様を招き入れたくないと申しましょうか」
 つまり、喜緑さんも朝倉は邪魔だと言いたいわけですか。さっきまでの説教じみた話がすべて虚しく感じるな。
「……あのさ、本当にあなたたち、どうしてわたしを復活させようとしているの?」
 怒ろうにも思い出の記憶がない分、どこで怒ればいいのかわからないようで、代わりに呆れたような言葉を口にする朝倉を前に、俺も喜緑さんも返す言葉は何も思い浮かばなかった。


 結局、俺は朝倉と二人きりで一晩を明かしたくないという考えを引っ込めず、喜緑さんも朝倉を連れ帰りたくないという考えを曲げず、平行する意見が着地点を向かえたのは、喜緑さんもここに残るということだった。
 確かに俺は朝倉と二人きりということにはならないし、喜緑さんも朝倉を自分の家に連れ帰ってないのだから、双方の意見を取り入れた妥協案であるとは思う。
「それにほら、明日の大事なときに寝坊されても困りますし、この場所は周防九曜にもバレております。彼女がここに来る可能性は極めて低いと思いますが、万が一もございますから。下手に乱入してきてかき乱されては困りますもの」
 とは喜緑さんの弁。不測の事態に備えているんですよ、とさり気なくアピールしているつもりだろうか。
 ただ……何故だろう。喜緑さんの言うことはまぁ、理解できなくもないことだし、百歩譲って納得してやらなくもないが、どうも俺の思惑とは掛け離れた妥協案な気がしてならないのだが……これ以上の論争は不毛だ。もう好きにしてくれていい。
 夕飯も、結局喜緑さんがさっさと決めた宅配ピザで腹を満たすことになった。なんだかここ連日、イタリアンばかりなので薄味のものを口にしたかったのだが、こちらの事情なんてお構いなしとばかりに、すでにLサイズのピザ二枚が食卓に並んでいる。
 俺が閉口したのは言うまでもなく、けれど朝倉と喜緑さんは俺とは対照的に旺盛な食欲を見せて、さらに俺の食欲を減退させた。宇宙人はあれか、燃費が悪いんだろうか。
「食べないの?」
 ピザの一欠片にさえ手を伸ばさない俺に朝倉が口をモグモグさせながら聞いて来るが、答えるのも億劫だ。手の振りだけで断り、根の張ったように重い腰を上げる。
「あら、どちらに?」
「寝る」
 ここで二人の相手をしていても仕方がないし、相手をしたくもない。だったらさっさと寝ちまうことが、一番手っ取り早く時計の針を進める手段なのさ。
 眠れるかどうかは疑問だったが、ベッドに潜り込んで目を閉じれば、すぐに眠気が体全身に行き渡った。どうやら自分で思うより、体は疲れていたらしい。途切れるように眠りの淵に落ちた意識が、次に我が身に戻ってきたときには、すでに窓辺から光りが差し込む時間になっていた。
「……起きた?」
 ギョッとした。窓辺から光りがわずかながらに差し込んでいるからと言っても、部屋の中は薄暗い。そこに誰かがいるとは当然ながら思わず、不意に飛んできた声が無理やりに俺の意識を覚醒させる。
「あ、あさ……んぐっ」
 大声を上げそうになったところで、口を手で覆われた。何の真似だ。
「隣であの女の人……えっと、喜緑さん? 眠ってるから」
「なんだよ」
 隣で喜緑さんが寝てるってことを俺に伝えたってことは、起こしたくないってことの裏返しってわけだ。まさかこいつ、知識があっても俺に危害を加えようってわけじゃないだろうな?
「それ、明日……っていうか、今日の話でしょ。そうじゃなくて……ちょっとあなたに話しておきたいことが」
「だから何だよ。俺にあれこれ話すよりも、喜緑さんに話しておいた方がいいんじゃないのか?」
「それが問題なの」
 問題?
「彼女、何か隠してる」
「え?」
「その『何か』まではわからないけど、でも言ってることがおかしいのよ」
 おかしい? 喜緑さんの言葉が、か? ……まぁ、あの人の言動は常々おかしいとは思うが……そういうことじゃなくて? いや待て。
「なんでおまえがそんなことを言うんだ? 記憶がないんだろ?」
「そうらしいね。わたし、聞いた話だから自分でもよくわからないし、確かにあなたのことや彼女のことは知らない。わたしが誰なのかもわからない。だから聞きたいんだけど、あの喜緑さんって信用できる人なの?」
「……あ?」
 何を言い出してんだ、こいつは。喜緑さんが信用できる相手か、だって? 確かに言動には困ったところが多々あるが、それが「信用できない」ってことにはならない。
 ……そうか、こいつには俺や喜緑さん、その他もろもろの「思い出」がないのか。ないからこそ、見ず知らずの相手の話を素直に信じられないから、そんな疑念を抱くわけだ。
「だったらおまえ、俺だって信用できないんじゃないのか?」
「……あ、そっか。うーん、でもなんだろう。あなたは大丈夫のような気がするのよね。どうしてかしら?」
「知るか」
 何を神経質になっているのか知らないが、何だかんだ言っても喜緑さんは現状では一番頼りになる相手だ。それだけは間違いない。
「今ならまだ少しくらいなら寝られるだろ。静かに寝とけ」
「うん、わかった」
 朝倉が俺の言葉に素直に頷く様は不気味と言えば不気味だが……なんでおまえは、俺が寝ているベッドの中に潜り込もうとしてるんだ?
「え? だって、寝ろって言ったのあなたじゃない」
「俺が寝てるだろ。ここじゃなくて他でっておい! 潜り込んで来るな!」
「床の上、固くて痛いんですもの。ちょっと邪魔だからもっと奥に詰めて」
「詰めてたまるか! いいから、」
「あなたたち」
 いったい何が悪かったんだろうな、と後になって考えても答えは出てこない。俺の声がデカかったのか、それとも朝倉の常識知らずな奇行が悪かったのか、鋭く飛んで来た声は恐ろしいほどに穏やかだった。
「もしかして、見られたいがためにわたしを引き留めたんですか?」
「ちっがーう!」