喜緑江美里の策略 四章

 逃げ出した朝倉を追い掛けて外に飛び出せば、時間も時間なだけあって、すっかり暗くなっていた。
 サラリーマンの帰宅時間にぶつかる頃合いだからか、人影はそれなりにある。さらに場所が繁華街にほど近いこともあって、こんな人通りの多い場所で、本能の赴くままとしか表現できない朝倉が解き放たれたのかと思うと、正直背筋が冷たくなった。
 まさか無差別に人を襲ってたりしないよな……なんて不吉な考えが脳裏を過ぎったが、喜緑さんの見解では俺だから殺しに掛かってくるのであって、無関係な一般人にまで襲いかかることはない、らしい。
 なんという迷惑この上ないヤツだ。そりゃ他のヤツらにしてみれば身の安全が保障されて一安心だろうが、唯一の攻撃対象になっている俺にしてみれば洒落にならない。
 どうやら今の朝倉は、親玉の情報統合思念体が管理しているという『意味記憶』がないおかげで、情報操作という反則技が使えないらしい。いざとなったら俺でもなんとか押さえつけられるだろう。
 どっちにしろ、大事になる前に確保しておきたい……んだが、ったく、どこに行ったんだあいつは? なまじ思い出もないらしいから、どこにいるのか見当さえ付かない。
 せわしなく周囲を見渡し、人混みをかき分けて雑踏を進む。そんなことをしていながら、ふと思ったんだが……今の状態の朝倉が、こんな人通りの多いところで、ふらふらと一人で歩いていれば、別の意味で目立ちそうな気もする。妙な連中に変なところに連れ込まれていそうでもあるし、警察で保護されているかもしれない。
「キョンくん」
 世の中の善意と悪意のどちらを信じようかと悩んでみたものの、どっちにしろ国家権力の捜査網に頼るのは悪い考えではないような気がしてきた矢先、不意に名を呼ばれて足を止めてしまった。止めてすぐに気がついた。
 本来なら俺は、この時間のここには存在しないはずじゃないか。つまり、他の誰であろうとも遭遇しちゃまずい立場にある。すでにミヨキチと顔を合わせているが、そこまで日々顔を合わせるような相手じゃないってことでギリギリセーフになってるだけだ。
 けれど今は、俺を指して『キョン』などと、八丈島にでも生息しているシカみたいな名称で呼ばれたんだ。ってことは、俺とかなり親しく、なおかつ頻繁に顔を合わせている相手である可能性が極めて高い。
「あっ、待って。わたしです」
 まるで何かしらの犯罪を目撃しつつも関わり合いになりたくないからと、顔を伏せて逃げるように相手を確認せず、その場から立ち去ろうとした……ところで、手を掴んで引き留められた。
 そこまでして俺を引き留めることに、まず驚いた。驚いて相手を見れば、さらに驚きが増した。
「なに……やってるんですか、こんなところで」
 そこにいたのは、朝比奈さんだった。朝比奈さん(大)の方だ。昨日はミヨキチと一緒にいるところで、今度は朝倉を捜している今、こんな短期間で二度も遭遇することになろうとは、誰が予測できたってんだ。俺が心底驚いたのは言うまでもないさ。
「キョンくんの方こそ、周囲をキョロキョロして何をやってたの?」
 それはたぶん、深い意味も何か裏があるわけでもない、ただ純粋に、俺がここで何をしているのか、不思議に思って聞いてきた世間話のそれに等しい問いかけだったんじゃないかと思う。
 それが……何故だろう、今は無性に呆れてしまった。呆れたというよりも、ひどく情けないような気分になった。
 理由なんてわからない。ただ、これが朝比奈さん(大)ではなく他の誰か……朝比奈さん(小)でもいい、まったく同じ態度で同じ台詞を投げかけられても、俺はそこまで落ち込みはしなかっただろう。
「俺が何をしているかって……そんなの、朝比奈さんこそが俺よりもわかってるんじゃないですか? 俺に何をさせたいんですか? 何で俺はこんなことになってるんですか」
 たぶん……と、後付的に思うことなんだが、俺は自分でも思う以上に、置かれている状況が不安で仕方なかったんじゃないかと思う。わけもわからずに今のこの時間まで連れてこられて、何がなんだか理解できずに朝倉を蘇らせようとしていて奔走している。これが正しいのか間違っていることなのかわからず、自分が思う正しいことをやればいいと理解していても、結果がわからない不確かさから不安に思っている。
 ある一時の朝比奈さんと同じだ。自分が何もわからず情けなく思って泣いていたあのときの朝比奈さんは、きっと今の俺と同じような気持ちだったんじゃないだろうか。
 なんてことに後になって気付くのだが、そんなことは今のこのときではハッキリしなかった。
「あ……そ、そうですよね。ごめんなさい。わたし、そういうつもりじゃ……」
 いつもより俺の言葉がキツめに感じたんだろうか、朝比奈さん(大)も少し驚きつつ、それでいて申し訳なさそうに顔を伏せるその姿を前に、俺もふと落ち着きを取り戻して先の考えに至ったわけだ。
 今はどうも朝比奈さん(大)と話をしても、実のある会話になりそうにない。こちらからコンタクトを取る手段がないので次にいつ会えるかもわからず、別れるのは賢い選択ではないと思うのだが、バカな考えでもマシと思える行動を取るのが俺らしいよな。
 第一、今は朝倉だ。あいつを捕まえておかなくちゃならない。
「あ、その朝倉さんのこと……で、なの」
「え……?」
 まさか朝比奈さん(大)の方から朝倉のことを話題に出してくるとは思わなかった。そんなことを話題に出されれば、逃げ出した朝倉を捜すより朝比奈さん(大)の方を優先させざるを得ないじゃないか。
「やっぱり……知ってるんですね? 朝比奈さんは、朝倉のことを……その、どうなるかを」
 けれど、それを話してくれるんだろうか。これから先に起こるであろうそのことを、いつも『禁則事項』の言葉ではぐらかす朝比奈さん(大)がちゃんと教えてくれるのか?
「ここじゃ何だから……どこか別の場所で。ね?」
 話の内容もそうだが、朝比奈さん(大)の口からそんな台詞を言われて断ることが出来る野郎がいたら、そいつは生物学的に『男』という看板を下ろした方がいい。


 別の場所と言われても、どこへ行くでもなく肩を並べて歩くしかない。どこかの飲食店で腰を落ち着けて話をしようにも人の目や耳があり、朝比奈さん(大)との会話は人気のない場所での内緒話が基本だ。
 かといって、いつも使っている公園まで行くにもやや遠い。残されたのは歩きながら話をする以外になく、これなら多少誰かの耳に届いても、断片的な会話では何を言ってるのかわからないはずだ。
「さっき」
 朝比奈さん(大)もそれでいいと判断したのか、こちらから話を促すまでもなく口を開いてくれた。
「あ、さっきと言ってもキョンくんには昨日のことかしら? 吉村さんと一緒にいるところに、わたしがお邪魔したでしょう?」
 確かにそれは日付的に昨日の話だ。それを『さっき』と言うところを見れば、この朝比奈さん(大)は、あの時間に俺たちと別れてすぐにこの時間まで移動してきたんだろう。
 用があると言ってたが、それは今ここにいる俺に会うためだったのか。
「あのときにお邪魔したのは、少し気になることがあったからなの」
「気になった……って?」
 朝比奈さん(大)が俺のことを気に掛けてくれるのは、この上ない喜び上ない話だが、この人が『気になる』のは、どうせ別のところに起因するものだろうさ。そのくらいは学習しているんだよ、俺でもね。
「ほら、今日の……えっと、この時間平面に駐留しているわたしが、コンビニでのことを聞いたの、覚えてる?」
「えー……」
 それは昨日あったことだが、今の俺にとっちゃ時間的には三日は過ぎている話だ。まるで遠い昔のことのように思えるが、確かに日付的には今朝なんだよな。
「それが、気になったことですか?」
「だってあのときのキョンくん、本当に何も知らない素振りを見せるんですもの。コンビニで会った人は、あのときのわたしは間違いなくキョンくんだって思ってました。それで今、ある程度の権限を得て自由に時間移動ができるようになって、そのぅ……ごめんなさい、今になって確かめたくなったの」
「はぁ……」
 つまり……なんだ。昨日、俺がミヨキチと一緒にいるところに朝比奈さん(大)が現れたのは、この時間での思い出──というか気がかり──を確かめたくて、ってことだと、そう言いたいんだろうか。
「うん、あの……切っ掛けはそういうことなんだけど、でもそれでまた気になることができて」
「というと?」
 聞けば朝比奈さん(大)は、少し言い淀むように表情を曇らせ、かと思えば急に立ち止まった。本当に急に立ち止まるものだから、半歩ほど前に進んだ俺は振り向くしかない。
「どうしたんですか?」
「キョンくん、何をしようとしているの?」
「え?」
 そんな台詞が朝比奈さん(大)の口から出てくるとは思わなかった。いつも一緒にいる朝比奈さん(小)ならまだしも、俺たちに何が起こるのかそのすべてを経験しているであろう朝比奈さん(大)が、何故そんなことを聞いてくるのかすぐには理解できない。
「わたしだって、何でもかんでも知っているわけじゃないの。例えば……そうね、キョンくんだって、この時間平面にいるわたしと一緒にいるときのことは何をしているのか知っていると思うけど、そうじゃないときはわからないでしょう? わたしだって、キョンくんが平日の夜に何をしているのか知らないの」
 言われてみれば確かにその通りだ。そんなプライベートのことまで把握されていたんでは、いかに朝比奈さんでも「何やってんだ」と突っ込みたくもなる。
 ただ……今もそうなのか? 今のこの状況でそんなことを聞いてくるなんて、それこそおかしな話じゃないか。
「そう……そうね。それじゃはっきり聞くけど……キョンくん、朝倉さんを蘇らせようとしているの?」
 やっぱり俺が何をしているのか、朝比奈さん(大)は知っている。知っているのは間違いないことであり、なのに真っ直ぐ俺を見つめる視線はいつもよりどこか少し鋭い。
「そういうことになっちまってますが……」
「それを決めたのはキョンくん……ですよね?」
 やけに念押しされている。まるでわかっていることを認めたくないような素振りに、どうも背中がむず痒く感じるのは何故だ。
「何が言いたいんですか?」
「……キョンくん、覚えていますか?」
 どこかしら意を決したように、朝比奈さんが口を開いた。
「過去を変えるのは、その時代に生きる人じゃないとダメなんだって、わたしが言ったこと」
 その言葉は確か……年明けの後、橘か藤原か知らんが、ハカセくん救出……と言うほど大袈裟なもんじゃないと個人的には思うのだが、あの救出劇の後に落ち込んでた朝比奈さん(小)が、どこかしら自虐的に話していたことだったかな。
「だからあのとき、俺を誘ったんでしょう?」
「そうです。未来から来ているわたしには、直接この時代で起きることに干渉することはできません。それがルールだから。唯一できるのは、あのときみたいにその時代の人に協力してもらうか、あるいは……言葉は悪いけれど……利用するか、そうなるように誘導するしかできないの。だから……」
 早口でそこまで口にして、朝比奈さん(大)は深い深いため息で言葉を区切った。
「ごめんなさい、少し……余計なこと、かな。ごめんね、今のことは忘れてください」
「え? いや、あの」
 何か凄く気持ちが悪い。見せようとしているものが見えないような……なんて言うんだ? 白黒はっきりしろと思うような、精神的な気持ちの悪さを感じる。
 言いたいことがあるなら、遠慮せずに言ってくれればいいじゃないか。今まであれこれあったってのに、そんな遠慮をするなんていつの時代の朝比奈さんだろうともらしくない。
「わけがわかりませんよ。いったい、」
 俺がそう言いかけた矢先、急に震えだした携帯に気を取られて言葉が途切れてしまった。
「すいません、ちょっと……」
 これは喜緑さんから借りている携帯だ。掛けてくる相手なんて一人しかいない。
「なんすか、今取り込み中なんですけど」
『えっ? あ、ご、ごめんなさい』
 出てみれば、相手は喜緑さんじゃなかった。電話越しだが、その声は……。
「ミヨキチ?」
 そういえば、番号を教えていたっけ。
『すみません、あの、またあとでかけ直しますから……』
「あっ、ああ、いや。大丈夫、そうじゃなくて……あれ?」
 必死に取り繕う俺だが、こういうのがあれか、二兎追う者は一兎をも得ずと言うんだろうか。
 たった今まで目の前にいた朝比奈さん(大)が、わずかに気を逸らした隙にいなくなっていた。どこにもいなかった。
「あ、あれ?」
 まさに忽然と、目の前から一瞬にして姿を消した朝比奈さん(大)を探して、俺は携帯を耳に当てたまま周囲を見渡した。けれど視界に飛び込んでくるのは、往来をせわしなく移動する人々の姿。中には、道のど真ん中に突っ立って携帯を耳に当てている俺を邪魔くさそうにチラ見して通り過ぎるヤツもいるが、その中に朝比奈さん(大)はいない。
『あの、もしもし? お兄さん?』
 耳に押し当てた携帯から響くミヨキチの声で、ふと我を取り戻す。朝比奈さん(大)が急に現れて突然いなくなることなんて、何も今に始まったことじゃない。そもそも、あの人が「また会いましょう」と言って消えたことなんて、一度としてあっただろうか。いやない。
『大丈夫ですか?』
 どうせ今回も、話すことを話し終えたから消えたんだろう。そういうことだと考えて、俺はひとまずミヨキチからの電話に集中することにした。だいたい、いくら電話番号を教えておいたからと、我が妹の親友とは思えないほど大人びて思慮深いミヨキチが、何の理由もなしに電話をかけてくるとは思えない。
「どうした?」
『あ、えっとそのぅ……わたしの家、まだ両親が帰ってきてなくて』
 少し言い淀んだ後、急にそんなことを言い出したものだから、素で何のことかと考えた。考えて、そういえばミヨキチの両親は一人娘を残して旅行中だったんだよな。
『それで、今一人なんですけど……』
 一言一言、言葉を選ぶように慎重に言葉を選ぶミヨキチが、果たして何を言いたいのかまったく要領を得ない。
「あー……悪いんだが」
 朝比奈さん(大)の突然の登場もあって話が逸れていたが、俺はもともと逃げた朝倉を追い掛けていたんだ。朝比奈さん(大)との話も中途半端で終わった感が否めないが、勝手にいなくなってしまったのだから、本来の目的を優先させるべく、ミヨキチからの通話を切り上げようと思うのは当然だろう。
 そう思ってたんだが。
『もしできることなら……その、今からうちまで来ていただけ……ません……か?』
「……ぁい?」
 まるで厳粛な家で育った清楚な乙女が、イケナイことと知りつつも隠れて大人の階段を駆け上がるような火遊びをしようとしているみたいに、恥じらいと戸惑いを含んだ声でささやきかけられれば、さすがの俺も間抜けなことこの上ない声が出てくるというものだ……が、どうやらミヨキチの意図するところは、そういうことではないらしい。
『実は、その……昨日の人がまた来てて』
「え?」
 昨日の……人……って、まさか。
『保護者の方への電話番号も、わたし知りませんし……お兄さんしか連絡できる相手がいなくて。あの……どうすればいいですか?』
「ちょっ、待て。それはあれか、朝倉のことか?」
『あさ……くら、さん? すみません、お名前までは聞いてませんでしたから……。でもたぶん、その方で間違いないと思います。昨日の方ですから』
 そういえば朝倉の名前とか、はっきり教えていなかったような気がする。だからミヨキチは判然としない態度を見せているんだろうが、話の流れから察するに、ミヨキチの家に朝倉が現れていると見て間違いない。
「今、そこに朝倉がいるんだな? 大丈夫なのか、おい?」
『はい。なんだか昨日みたいに元気がないみたいですけど……』
「わかった。今からそっちに行く。朝倉が逃げ出さないように見張っといてくれ」
 とにかく朝倉がそこにいて、ミヨキチが無事であることが確認できればそれでいい。電話をかけてきている時点で無事なことは無事なんだろうが、今の朝倉の状態がアレだ。そうのんびり事を構えていられない。
 通話を終わらせ、ミヨキチの家に向かいながら俺は別の相手に連絡を取るべくダイヤルを回す。携帯を耳に押し当てながら走るが、けれどコール音しか響かない。十回、十五回、二十回と鳴り響くが出てくれない。何をやってんだ、あの人は!?
「くそっ」
 繋がらないんじゃ仕方がない。舌打ちひとつ、携帯の通話を切ってポケットに突っ込み、とにかく今はミヨキチの家まで行って朝倉の身柄を俺が確保しておかなければならん。
 幸いにして、連絡を受けた場所からミヨキチの家まではそう遠い距離じゃなかった。とは言ってもタクシーを拾ったり自転車を飛ばさなくてもたどり着けるという意味合いでの近場であり、走って一〇分から一五分はかかる距離だ。
 人混みを避けての全力疾走なんぞやりたくもないことだが、状況が状況的にやむを得ない。自己ベストのタイムを叩き出しているんじゃないかと思うスピードでたどり着いたミヨキチの家先は、見た感じでは特に変化がない。朝倉がいるらしいが大人しくしているようで何よりだ。
 乱れた息を整えるように深呼吸をひとつ。まぁ、急いで駆けつけたことを隠す必要もなく、息を乱していれば急いで駆けつけたというアピールになりそうだがそんなアピールをすることの意味もなく、そもそも朝倉がいるとわかっている状況を自分自身に納得させるための深呼吸だと割り切ってインターフォンの呼び出しボタンを押し込んだ。
『……はい、どちら様でしょう』
 インターフォン越しに聞こえて来たのはミヨキチの声だった。そりゃそうだ。ここでまったく知らない第三者が登場されても困る。
「俺だ」
『あ、お兄さん。えっと、ちょっと待っててくだきゃああっ!』
 話途中でミヨキチの台詞が悲鳴に切り替わった。何事だと思うまでもなく、インターフォンから聞こえて来たのはドタン、バタン、ガシャン、と何かが暴れ回る音が聞こえて来た。それは、ともすれば興奮したシャミセンが俺の部屋の中で暴れている音のようでもあるが、響いてくる音の大きさから、暴れているのがシャミセンとは比べものにならないほど大きいことがわかる。
 ──まさか……
 服と地肌の間に、巨大なつららでも突っ込まれたかのような寒気が背筋を走った。
 インターフォンはまだ通じているようだが、そんなことはお構いなしに俺は玄関へ急ぐ。ガチャガチャとドアノブを回すが、カギが掛かっているのか一向に開く気配はない……と思っていたのだが、かしょん、と響いた軽い音が、玄関のロックがハズされた音だと気付いたのは、力任せに引いたドアが今までの抵抗が嘘だったかのように勢いよく開いたからであり、それと同時に巨大な物体が俺に体当たりして来たからである。
 まるで住処を追われた猪が、エサを求めて畑に入れば人に追われて逃げ出したような勢いで突撃を食らわせて来たのが何なのかと言えば、あえて多くを語るまでもなく、さらにそれは逃げ出すためではなく襲うために突進してきたという事実は、考えたくもない。
 問答無用で人の真上に馬乗りになってきた朝倉は、まるで隠れ家で俺に襲いかかってきた状況の再現でもするかのように、首もとに手を伸ばしてくる。まったく学習してない反復行動のような朝倉の行動に、本当に記憶も知識も何もないんだな、と納得しかけてしまうが、それに勝る感情は、こんな理不尽な状況に叩き込まれた今の状況だ。
「こっ、この……っ!」
 なんだか無性に腹が立ってきた。理不尽な仕打ちにではなく、あれこれ言ってたくせに結局はこういうことかと、そう思えてならない状況に頭に来た。
 つまりあれか? 朝倉は、俺に事実を突きつけるためとか、長門と俺たちの絆を確固としたものにするためとか、あれこれもっともらしい理由を口にしていたが、根本にあるとこは結局俺を殺そうとすることなのか? ふざけんな!
「いい加減にしろ!」
 俺だっていつまでもやられっぱなしじゃない。今の朝倉は情報操作が使えず、腕力も人並みだ。つまり、見た目そのままの女の力ってわけだ。いかに俺が世間一般の平凡を絵に描いたような当たり障りのない高校生だとしても、逆を言えば世間一般的な男子高校生くらいの腕力がある。インチキなしの朝倉相手に、腕っ節で負けるわけがない。負けたら、それこそ『一般的な』という俺の代名詞を撤廃しなけりゃならん。
 元からかんしゃくを起こした子供が突っかかってくるような行動で人の首を絞めることしかしていない朝倉だ。勢いに飲まれて押し倒されているが、両手を振り回している腕も狙っている場所がわかっている。掴んで力任せに押し返せば、当然のことながら形勢は一気に逆転した。
「お、お兄さん大丈夫ですわわわわわっ!」
 ようやく……と言っていいのかわからんが、俺が朝倉を押さえつけることに成功した頃合いでミヨキチが家の中から飛び出してきた。一連の騒ぎは、もしかすると一分と過ぎていなかったのかもしれないが、なんであれ、こっちを見るや否や悲鳴を上げられた。悲鳴を上げたいのはこっちのほうだ。
「な、何をなさってるんですか!?」
「ミヨキチ、ロープか何か持って来てくれ」
「ろ、ロープ? そんな、うちにそんなもの、」
「タオルでもなんでもいいから、縛れるものを早く!」
「はははは、はい!」
 慌てて家の中に舞い戻るミヨキチを見送る最中でも、朝倉は暴れに暴れている。まったく、このふざけたバカ騒ぎをはいつまで続くんだ?


 タオルで腕と足を縛り付けて、それでもまだ暴れ足りないとばかりに藻掻く朝倉を玄関先に放置しておくわけにもいかず、ひとまずミヨキチの家の中にお邪魔することになったわけだが、その惨状を目の当たりにした俺の口から出てくる言葉はひとつしかない。
 これはひどい。
 マジでそう思う。本当に心の底からそう思う。
 これはひどい。
 まるで小型のハリケーンでも通過したかのような惨状だ。ソファやテーブルはひっくり返り、蛍光灯の傘や棚や調度品が壊れ、俺が親なら問答無用で怒鳴りつけるほどの大惨事となっていた。
「これ……朝倉がやったの……か?」
 聞けばミヨキチは、今にも泣きそうな顔をしてこっくり頷いた。頭が痛くなってきた。
「なんていうか……本当にすまん……」
 俺が謝ることじゃないような気もするが、とにかくそう言っておかなくちゃならない気がする。
「あの、こんなこと言うのも何ですが……その人、どうかなさってるんですか?」
「いや、まぁ……」
 ここまで被害を被らせた以上、適当な言葉でごまかすことはできない。かといって、包み隠さずすべてを説明するのも問題だ。
 昨日、喜緑さんも言っていたが、ミヨキチはまだ無関係なんだ。こうも朝倉に絡まれている今ではそれすらも危うく思うところだが、しかしまだ無関係だと思いたい。だから包み隠さずすべてを教えるわけにもいかない。
「何かその……なんていうか……」
 ミヨキチは必死に言葉をごまかそうとしているが、何となく言わんとしていることはわかる。確かに今の朝倉を見れば、まともとは思えない。ちょっと心に傷を負っているようにさえ見えるだろう。
 まぁ、確かに知識も記憶もないんじゃ似たようなもん……って、そうか。
「そう、朝倉は病気なんだよ。信じられないかもしれないが記憶喪失で、精神状態も不安定なんだ。普段はこんなヤツじゃ……あー……」
 自分で言うのもなんだが、はっきり『違う』と否定できないところが朝倉らしい。
「記憶喪失……なんですか?」
 漫画やドラマじゃよくある症例だが、実際にそんなことになっている相手を目の当たりにするのは初めてだろうミヨキチは、俺の言葉がなかば信じられないとばかりに目を剥いて驚いている。ただ、こればっかりは、多少のニュアンスに違いがあるかもしれないが、近しい表現として嘘ではない。
 やれやれ、本当のことでさえ嘘くさくなるってのはどういうことだ。
「ともかく、ここの片付けとか、ミヨキチの両親への謝罪は俺がするから。本当に何て言うか、巻き込んで悪かった」
「いえ、それはいいんですけど……」
 いや、よくないだろ。できることなら喜緑さんでも呼んで、このひどい状態を情報操作でもなんでもいいから元に戻させたいくらいだ。……うん、あとでやらせよう。元通りに戻させて、その言い訳も喜緑さんにやらせようそうしよう。
「いえ、ホントに大丈夫ですから。でも、その人……記憶喪失なら、お兄さんがあれこれするよりも、お医者様に診てもらった方がいいんじゃありませんか?」
 確かにその通りだ。正論すぎて、返す言葉が何も見つからない。が、それはあくまで一般的な人間だったらって話であり、そのことをミヨキチに言うわけにもいかない。
「できることならそうしたいが、望むとも望まざるとも、どういうわけか俺じゃないとダメらしい」
 だからこそ、俺が奔走することになってるわけだ。
「え? でも……お兄さんが記憶喪失を治せるわけじゃ……その、ないですよね?」
 そうなんだよな。確かにミヨキチの言うとおりだ。朝倉の記憶をどうこうなんて、俺にできることは何もない。裏で策を巡らせているのは喜緑さんだし、朝倉の記憶を管理してるのは宇宙人の親玉だったり長門だったりするみたいだから、そこに挟める口さえも、俺には何もないわけだ。そもそもこれは、宇宙人連中の内輪揉めみたいなもんじゃないか。
「けれど、どういうわけか俺がいないとダメなんだ。そりゃ断ることも突っぱねることもできるだろうが、それでも頼られ……んー……頼られてるのかわからんが、何であれ俺にすべてのしわ寄せが来てるんだ。だったら無下に断れないじゃないか」
 俺がそう言うと、ミヨキチは呆れたように、それこそ心の奥底から遠慮なしで表情に表すくらいに呆れ果てたように、なんとも言えない表情を浮かべて見せた。
「本当にその人、記憶喪失なんですか?」
 俺の言葉から何を感じ取ったのか、ミヨキチが重ねて同じ質問をしてくる。
「え? あ、ああ、もちろん」
「……お兄さん……もう」
 俺が努めて冷静さを装ってミヨキチの疑念を否定してみせても、なんとなくわかっちゃいるんだ。客観的に見て、言い返せる言葉が大学ノート一冊分以上はあるってことが。
 それでもミヨキチは、ため息混じりに言葉を飲み込んで矛を収めてくれた。
「わかりました。今はもう、それでいいです。本当にもう……」
 何がどう『わかった』で『それでいい』のか俺にはわからんが、少なくともミヨキチは『今は』と言っている。何かしら思うところも、俺に対する文句も山盛りなんだろうがそれでも、ミヨキチは『今』は『それでいい』と言ってくれている。
 裏を返せば『いつか』は『ちゃんと話せ』と言ってるんだろう。
「来週には、たぶん何とかなるからそのときに、」
「知りません」
 俺のフォローにさえなっていないような弁明を受けて、ミヨキチはそっぽを向く。今の俺にとって、それが本当に有り難かった。
 とにかく、何とかしなければならないのは家の中の惨状であり、これはさすがに俺の手では負えない。ミヨキチは健気にもゴミと化した日用品の片付けを始めており、朝倉は手足を縛られてなお、獲物を狙う雌ライオンのように俺の一挙手一投足を見逃すまいと睨み続けているし、かくいう俺は場を収められそうな相手……つまり喜緑さんに連絡を取るべく携帯を握りしめていた。
 コール音が無情にも鳴り響く。一〇回までは数えていたが、それでも繋がらない。いったいどこで油を売っているんだとイライラしつつも、反面、もしや喜緑さんの方でも何かしらのトラブルが発生してるんじゃないだろうなと不安になってくる。
『はい、もしもし?』
 そんな不安に駆られた頃合いで、今までどうして繋がらなかったのかと逆に疑問に思えてしまうほどにあっさりと、喜緑さんの落ち着いた声音が聞こえてくる。
「何やってたんですか」
『いえ、ここまで引っ張ればあなたが不安になるんじゃないかと思いまして』
 ………………。
「朝倉を捕まえたんですが、少し困ったことになってまして」
『あら、軽やかにスルーしてしまうんですか? それは少しつまらないです』
 俺は別に喜緑さんを楽しませるつもりも喜ばせるつもりもなく、かといってこの人が思うようなリアクションを取ることは癪だなと考えてしまったものだから、あれこれ言いたいことは山のようにあるもののグッと堪えて言葉を飲み込む大人の対応をすることで、ささやかながらの抵抗を試みた結果、どうやら自己満足レベルではあるものの喜緑さんに一矢報いることができたらしい。
 つまり、俺が言いたいことはただひとつだ。
「どうでもいいからこっちに来てください。ミヨキチの家です。いいですね? 今すぐです。可及的速やかに寄り道せずにさっさと来い!」
 言うだけ言い放ち、喜緑さんの返事を待たずに通話を切る俺を、いったい誰が責められようか。携帯を壁に投げつけなかっただけでも、自制心が身に付いたと自画自賛したいくらいだ。
「あ、あの……大丈夫ですか……?」
「え? ああ……うん、大丈夫。あー、それよりまた、昨日の人がそこの朝倉を迎えに来るから。ついでに、ここの片付けもさせるよ」
「でも、ここを片付けるって言っても、」
「いいから片付けさせる。片付けさせないと、いろいろとダメだろ」
「は、はい。す、すみません」
 何故にミヨキチが謝るのか知らないが、そのことに考えを巡らせられるだけの余裕もない。ああ、胃に穴が空きそうだ。もう空いてるかもしれん。早いとこ喜緑さんが来てくれないかとため息混じりにソファに勝手に腰を下ろせば、そのタイミングを見計らっていたかのように呼び鈴が鳴る。もしかして、そこいらで身を隠していたんじゃないだろうな?
「たぶん喜緑さんだ。俺が行くよ」
 席を立とうとしたミヨキチを制して俺が玄関まで出向くと、やはり喜緑さんが来ていた……が、どうもその表情にはご不満があらせられるらしい。
「何ですか」
「ああいう素っ気ない態度はよろしくないと思います」
 ……電話の応対をまだ引っ張るつもりか。
「あのですね、そういうことを言ってる場合じゃないんです。いいからとっとと黙ってこっちに来てください」
 まだ何かを言いたくて仕方ないような喜緑さんを黙らせるには、あの惨状を直視させるのが一番だ。腕を取って引きずるようにリビングまで連れて行けば、呑気なことこの上ない声音で「あらあら」とぼやいた。
「これはまた派手にやらかしましたね。あ、ミヨキチさん、こんばんは。またも身内がご迷惑をおかけしたみたいで、重ねてお詫び申し上げます」
「い、いえそんな」
 そこでミヨキチがかしこまらなくていい。むしろ、そこは怒鳴りつけるべきところだろう……と言っても、ミヨキチの性格からそんなことができるはずもなく、だったら代わりに俺が言うべきことを言っておくさ。
「これ、何とかしてください。俺はともかく、ミヨキチにまで迷惑かけてどうするつもりですか」
「そうですね、確かにこれはやり過ぎでしょう。そういうことですのでミヨキチさん」
「はい?」
「えい」
 口に出した言葉は可愛らしく、やったこともミヨキチの額を指先で軽く小突くようなものだったが、その途端、まるで糸の切れた操り人形のように、ミヨキチがその場にくたりと倒れてしまった。
「なっ、何やってんですか!?」
「ご安心を。少し眠らせただけですから」
 眠らせた? いやしかし、なんでまた急に。
「さすがにこれは、ごまかしきれない状況じゃありませんか。となれば、王道中の王道である『夢オチ』にしましょうと、そういうことです」
 そんなことを言いながら、喜緑さんはミヨキチを眠らせたのをいいことに、持てる能力を駆使して朝倉がぶっ壊したリビングの家具やら何やらを元に戻していた。
 しかし夢オチとはね。確かに、かなりの被害が出ていた室内が、寝て起きてみれば元通りになっているのなら、今回のことは夢だったと思わなくもないかもしれないが……いくらミヨキチでも、そんなことでごまかせるもんなのか?
「何か聞かれても、適当にはぐらかせば大丈夫ですよ。人の記憶なんて、そのくらい曖昧なものなんですから。ではでは、ミヨキチさんを寝室にお連れしてください。そうしたらあとは朝倉さんを回収して撤退いたしましょう」
 撤退することはやぶさかではないが、どうにもそこはかとなく楽しんでいる喜緑さんを見るに、もしかして俺はとんでもない悪事の片棒を無意識のうちに担がされているんじゃないかと思う。情報操作というよりは証拠隠滅に近い喜緑さんの事後処理は、あまりの手際の良さに感心しつつも呆れるほどであり、こういうことは一度や二度ならず、幾度もやったことがあるんじゃないだろうか。
 そこはかとない罪の意識を感じつつ、けれど担いでいる朝倉が妙に暴れるので深く考えることもできず、散々な目に遭いながらも、心の中でお経のようにミヨキチへ謝罪の言葉を並べつつ、何とか隠れ家まで戻ってくることができた。
「ひでえ目にあった……」
 朝倉をベッドのある別室に放り投げて、ダイニングのテーブルに腰を下ろせば、自然とため息も出てくる。本当にひどい目にあった。
「ご苦労さまです」
 誰に言うでもなく呟けば、喜緑さんから労いとはとても受け取れないセリフを投げかけられた。さすがにちょっと……いやかなり釈然としない。
「ご苦労さまじゃないですよ。結局、喜緑さんは朝倉のことなんざ微塵も捜していなかったんじゃないですか。全部俺に丸投げして」
「合理的に考えれば、わたしが捜すまでもなくあなたのところに朝倉さんは現れるものと思いましたので。何しろ今の朝倉さんが狙っているのは、あなたの命ですから」
 狙っているのが命というのは穏やかじゃないな。
「それでも結局現れたのはミヨキチのところでしたけどね」
「それが不思議なんですよね。どうして朝倉さん、ミヨキチさんのところに向かったのでしょう?」
 そんなことを言われても、俺にわかるわけがない。喜緑さんでさえ不思議に思うことなら尚更だ。
「今の朝倉さんにって数少ない記憶にある場所だから……とも考えられますが、何であれ、些細なことでしょう。ミヨキチさんは、もしかするとあなたと同じくらいに厄介事に巻き込まれる体質なのかもしれませんね」
 それはつまり、俺の不幸は体質的なものだと言いたいわけですか、あなたは。
「実りある人生を謳歌されているようで何よりです」
「そこまで言うなら是非とも代わってもらいたいんですけどね。それより、あの朝倉はどうするんですか? 何とかしてくださいよ」
「実は何とかするためにも、逃げた朝倉さん捜しはあなたに丸投げしていたんですよ」
 それはどういうことだ? と考えるよりも、これまでの喜緑さんの態度と対応を見てしまっていては『へー、そっすね』と軽く受け流してしまいたくなる。
「あらあら、すっかり信用を無くしてしまいましたね。けれど今回ばかりは本当です」
 重ねてそういう喜緑さんは、どうやら本当に何かしら思うところがあって別行動を取っていたらしい。
「少しばかり上と掛け合って、朝倉さんのパーソナルデータを入手してきたんです」
「え?」
 それはあれか。三分割されている朝倉のパーソナルデータのひとつ……ええと、上ということは情報統合思念体から入手してきたってことだから、人で言うところの意味記憶ってヤツか? 知恵とか知識を蓄える記憶だっけ?
「そうです。上の方達は何かと頭が固いものですから、あれこれ面倒な話を延々とされまして、余計な時間を費やしてしまいました」
「面倒な話? 朝倉を復活させることで、ですか?」
「ええ、まぁ……けれどつまらない話ですよ」
 長門や喜緑さんたちを生み出した情報思念体とやらの話がどんなものか興味をそそられたが、つまらないと言われてまで聞きたいとは思わない。何より、喜緑さんが醸し出す雰囲気が話してくれなさそうでもある。
「それで、朝倉のパーソナルデータを手に入れてきたんですよね? だったら早く入れ込んでください。今よりはマシになるんでしょう?」
「そうですね。確かに上が管理していたパーソナルデータを入れ込めば、今のような獣じみた状態ではなく、一歩前進して人並みに記憶喪失になるでしょう」
 人並みな記憶喪失とやらがどんなもんかわからんが、俺としては人の顔を見るなり首を絞めたりしてこなければどうでもいい。
「ただし、問題もあります」
「問題?」
「まずひとつめ」
 喜緑さんは、説明好きな講師が得意分野の話をするときのような饒舌さで口を動かしながら、右手の指を一本立ててみせた。
「タイムリミットの問題ですね。今、わたしが持っているパーソナルデータを入れ込めば、その時間から二十四時間以内に長門さんが管理している『エピソード記憶』のデータを入れ込まなければなりません。トータルのリミットで見れば、短くなってしまうということです」
 なるほど、確かそういうルールになっていたな。ってことは、明日金曜日の夜七時ごろまでは放置しておくしかないのか。
「次に」
 喜緑さんは、右手の指をもう一本立ててみせた。
「この記憶は知恵と知識の記憶です。つまり、わたしたちが扱える情報操作の能力が使えることになります。万が一に暴れられると、なかなか面倒なことになってしまいます」
 それはつまりあれか、今までは人の首を絞めてきたりと、何て言うか一般的な危害の加え方だったのが、今後は情報操作を交えて人の命を付け狙ってくると。
 ……本当に勘弁してくれ。
「そして最後に」
 俺が眉間を抑えて唸っていれば、喜緑さんはお構いなしに三本目の指を立てた。
「朝倉さんはあなたのことやわたしのことが、一切わかりません。あまりショックを受けないでくださいね」
「いやあの」
 前のふたつがけっこうヘヴィな話だったもんで、それはかなりどうでもいい。
「それより、つまり朝倉は明日の夜七時まであのまま部屋の中で放置しておくことになるわけですか? また逃げられるのは勘弁してほしいですね」
「隣の部屋を完全封鎖して身動き取れないようにしてもいいのですけれど、そうなると明日の夜七時までにわたしがここへ来なければならなくなります。たぶん大丈夫だと思うのですが、状況がどうにも不明瞭ですから」
「状況?」
「周防九曜の動きです。もうしばらく大人しくしていてくださると有り難いのですが、どうにもはっきりしません。あなたからの話を聞く限りでは大丈夫そうですが、それは彼女が何もしなかったからなのか、それとも未来を知っているわたしたちが彼女の行動の邪魔をしていたからなのかが不明です。万が一のときはわたしが抑えなければなりませんし、そのせいで夜七時までにここにわたしが来られないと困ったことになります」
 それは確かに困る。喜緑さんは九曜さえも利用しようとしているみたいだが、だからといってあいつはこっちの言いなりで動いているわけじゃない。あいつはこっちの思惑なんぞ関係なく、自分の思うがままに動いている。完全な敵ってわけじゃないが、頼りになる味方ってわけでもない……と、喜緑さんは言いたいわけだ。
「じゃあどうするんですか?」
「こうします」
 何を思ったか、喜緑さんは朝倉を軟禁している部屋のドアを開けて、手足を縛られている朝倉に近付いた。そんな朝倉の姿を改めて見て、なんというか、今さらだがその格好はなんとかならんのかだろうか。まるで俺たちが、いたいけな少女を拉致監禁しているテンプレ通りの極悪人に見えてしまうのだが。
 朝倉も朝倉で、ぼんやり静かにしていたかと思えば、俺の姿を目に留めるなり身動き取れないくせに襲いかかってこようとジタバタするのはやめてくれ。
 俺がどうにも居心地の悪い気分を味わっていると、喜緑さんは意に介さずに朝倉へ近付き、その額に手を添えた。まるで最初のパーソナルデータを移したときのように。
「まさか、また勝手にパーソナルデータを入れ込んでるんじゃないでしょうね?」
「そのまさかです」
「ちょっ」
 思わず鼻や口から妙な汁を飛ばしそうになった。さっき自分で言ったことを数分後には反故にするって、何を考えてるんですか。
「いえいえ、今回は違います。ほら」
 やや得意げに、喜緑さんが朝倉の額から手を離せば、先ほどミヨキチの身に降りかかったことの再現だとばかりに、その体がくたりとベッドの上に倒れた。
「また眠らせたんですか?」
「それに近いことです。入れ込んだパーソナルデータにタイマーを仕掛けたんですよ。ファイルに圧縮を掛けたようなものです。解凍までに時間がかかると申しましょうか、計算では明日の夜七時前までかかります。それまで、朝倉さんは情報処理のために目を覚まさないでしょう」
「じゃあ、それまでこいつは静かにしてるってことですね?」
「イタズラし放題ですよ」
 ……どうしてこの人は、そんなセリフを邪気のない純真無垢な子供のような笑みを浮かべて言えるんだろうな? 俺が朝倉に何をするってんですか。
「まぁ……ナニだなんて破廉恥ですね」
「そろそろ真面目に説教してもいいですか?」
「せっかくですが、またの機会でお願いします」
 俺がどんなに剣呑な言葉を飛ばしても、この人にはのれんに腕押しなんだよなぁ。ゆるゆると小川を流れる小枝のように人の説教をかわして、喜緑さんはため息混じりに立ち上がった。
「なんだかあれこれ詰め込みすぎですね。さすがのわたしも、少々疲れてしまいました。今日はこれで失礼させていただきます」
 見れば確かに、喜緑さんの表情にはやや疲労の色が浮かんでいる。所々でふざけちゃいるが、この人にとっても今回のことは気を遣って疲れるような出来事なのかもしれん。
「大丈夫なんですか?」
「あら」
 俺がそう言って声を掛ければ、喜緑さんはさも意外とばかりの態度を見せた。
「わたしのことも心配なさってくれるんですか?」
「そりゃあ、まぁ」
「あらあら、あなたごときに心配されるようでは、わたしもまだまだですね」
 おほほほほ、と微笑みを転がしながら、金輪際二度とこの人の身の心配はしないでやろうと、自分の嘘偽りない信念に誓ったのは言うまでもない。
「本当に大変なのは、あなたの方じゃありませんか。今し方入れ込んだパーソナルデータに施した圧縮は、即席のものです。もしかするとどこかしらでバグが生じ、何かが起こるかもしれません。そのときに対処しなければならないのはあなたなんですよ?」
「……はい?」
 対処って……え? 何だそりゃ? 待ってくれ、俺に何をさせるつもりだ!?
「さあ……暴れ出すかもしれませんし、自傷行動に出るかもしれません。どうなるかはわたしにもさっぱり。そのときは朝倉さんを押さえつけて、即わたしに連絡をくださいませ。これから徹夜ですね。頑張ってください。それでは」
 うふふと微笑みながら、喜緑さんは無責任なことこの上ないセリフを残して、玄関からそそくさと出て行ってしまった。
 最悪だ、あの人。