喜緑江美里の策略 三章

 困ったことになった。何が困ったことなのかと言えば、これがまた、実に困ったことになっている。
 喜緑さんが早速何かをやらかしたわけではない。あの人は朝倉のパーソナルデータとやらを手にするため、俺も知らないような他のインターフェース連中や親玉に話を付けるという理由でここにはいない。
 いないのだから何かやらかすわけもなく……いや、いないからこそ困ったことになっているのか。
「どーすんだ、これ……?」
 おそらく、俺の寝床になるはずだったであろうベッドに横たわる朝倉を前に、頭を抱えるのは健全な男子として当たり前の反応じゃあないか?
 この朝倉が、中身カラッポで動くことがないのはわかっている。いきなり起きあがって斬りかかってくることはないと、理解している。
 逆に、パーソナルデータがないだけで、身体的にはどうやら健康な状態であるようだ。ここまで運ぶ間、背中に背負っていたのだからわかる。体温もまぁ平熱程度はあるし、呼吸もしている。本当にパッと見ただけでは、眠っているようにしか見えない。
 そんなのと、一晩どころから事が解決するまで一緒にいると、喜緑さんは言うわけだ。
 あの人が帰る間際に朝倉を持って行けと言ったさ。ああ、言ったとも。なのに喜緑さんは「ここに置いておくことこそが重要です」などと、至極真面目な面持ちで断言しやがった。今にして思えば、その言葉がどこまで本気だったのかもわからない。
 おまけになんだ、「まさか無抵抗の相手に破廉恥なことはいたしませんでしょう?」などと、含みのある笑顔を浮かべやがって。ああ、そういえばさらに何か言ってたな。「でも、わたしも襲われそうになりましたから危険かしら」だっけ?
 冗談じゃない。そもそも、喜緑さんに襲いかかった覚えも……まぁ、あのときは状況がまるでわからず混乱していて、狼藉をはたらく一歩手前に見えなくもなかったが、含みのある喜緑さんが思うこととはまるで違う。
 だいたい、朝倉に何かしようだなどと、まるで考えちゃいなかったんだ。いやホントに。喜緑さんが余計なことを言うから、無駄に意識することになっちまってんじゃないか!
「…………」
 いかん。頭を冷やそう。
 幸いなのは、この隠れ家がワンルームじゃないことだ。広いわけでもないが、1DKなので朝倉が寝ている部屋と台所はドア一枚で区切られている。台所で寝れば、余計なことをあれこれ考えることもない。
 なんだか自分が、限りなく不幸な立場に追いやられている気がしないでもない。どうしてこんなことになっちまってんだろう。いったい俺が何をやったっていうんだ。
「はぁ〜……」
 と、俺が自分の置かれている立場について涙を堪えてため息を吐いたのとほぼ同時に、ドアをノックする音が聞こえた。
 呼び鈴を鳴らすでもない、ドアのノックだ。しかも本当に慎ましやかに、別室にいたら気付かないであろう儚げにコンコンコンと叩く音が聞こえた。
 今は何時だ? 手元に時計がないのでさっぱりわからんが、窓の外は真っ暗だ。日付こそ変わってるだろうが、日が昇る前の……一時か二時か、そのくらいだろうか。
 ……そんな時間に、玄関がノックされてる、だって?
 おいおい、勘弁してくれよ。幽霊や物の怪の類はお呼びじゃないんだ。間に合ってるわけでもないが、間に合わせたいとも思わない。
 いやいや、そんなものが本当にいるなんて、いくら俺でも本気で思っちゃいないさ。たぶん、酔っぱらいか何かが部屋を間違えてノックしているに過ぎない。
 無視しよう。それが一番だ。騒がしくなるようなら、警察でも呼んでお引き取り願えばいいだけの話だ。
 そう思っていたのだが、今度はドアノブをガチャガチャと回している。中に入ろうとしているのは明かだ。
 騒がしくなれば、なんて悠長なことを言ってられない。もう早々と警察を呼ぼうと思って暗い台所の床に置いていたはずの携帯を探していると、信じられないことが起きた。
 がちゃん、と低い音を立てて、玄関のカギがはずれた。
 合い鍵でも使ったのか? ってことは喜緑さん?
 いや、それならこんな夜中にこっそり戻ってくる理由がない。いくらあの人でも、俺が朝倉相手に狼藉をはたらいてるかどうかを確認するために、わざわざ戻ってくるような暇人じゃ……ええと、そう思いたい。
 だとすれば、そこにいるのは……。
「誰だ!」
 開いたドアに向かって、俺は叫んだ。とりあえずこっちからデカイ声でも出せば、相手もビビってくれると淡い期待を抱いてのことだ。
 が、相手はビビるどころか、動揺する気配さえ感じられない。そもそも、開いたドアに人影が見えない。暗闇の中、ドアが勝手に開いたようにさえ感じられた。
 だが、いる。そこにいる。間違いない。
「──────」
 ようやく姿が見えた。ここまで闇夜と同化できるのは、こいつしかいない。
 周防九曜が、茫洋とした眼差しを俺に向けて物言わずに佇んでいた。
「な……ん……」
 出てくる言葉が何もなかった。
 そりゃ、言いたいことは山のようにある。なんでここに、とか、どうやってカギをはずしたんだ、とか、そもそもどうしておまえが現れる、なんてことを言ってやりたい。言ってやりたいのだが、言うべき台詞が多すぎて何からどう言っていいのかわからない。
 そんな俺を他所に、九曜は漫然と室内を見渡したかと思えば、物言わず勝手に上がり込んで来やがった。しかも土足で。
「ちょっ、ちょっと待ておい! こら待てって!」
 我に返り、とりあえず九曜を引き留めようと押さえつけてみるが、なんという馬鹿力だ。まるで自動車を生身で押さえつけようとしている気分になってくる。つまり、やるだけ無駄ってわけだが、それでも勝手に上がり込む傍若無人っぷりを見過ごすわけにはいかない。
「何なんだ、おまえは!?」
 怒鳴りつければ、ようやく九曜は足を止めた。といっても、俺の言葉で止まったわけじゃない。部屋の中をぐるりと見渡し、そこでようやく俺が必死に引き留めようとしていることに気付いたように、再び見つめてくる。
「────ど……こ────?」
「は?」
 意味がわからん。何が言いたいのかさっぱりだし、そもそも何が目的なのかもまるでわからない。
 そんな俺の態度を前に、とぼけていると感じたのか、それとも聞くだけ無駄だと判断したのか、九曜は俺を引きずったまま部屋の中を我が物顔で歩き回り、朝倉が横になっている部屋へのドアに手をかける。
「まっ、待て! そっちには、」
 人の制止も聞きやしねぇ。がちゃりとドアを開けて、正面のベッドを真っ直ぐに見たときに一瞬だけ足を止めた。
「────────」
 言葉こそ口にしなかったが、九曜は朝倉の姿を見て……なんだろう、肩から力が抜けたような気配をわずかに醸しだした。つまり──ホッとした。そう感じられる。
 もしかして、こいつがここまで強引に押し入ってきたのは朝倉が目当てだからか? こいつは朝倉を捜してた?
 そういえば……と、思い出す。土曜日に、橘はなんて言ってた?
 ──九曜と朝倉が一緒にいるところを見た……
 そう言ってなかったか?
 そもそも、どうして朝倉の体があるんだ? それを長門が消したから朝倉のパーソナルデータとやらが、喜緑さん曰く『厳重に管理されている』んだし、実体があること自体、おかしな話じゃないか。
 つまり、朝倉の実体があることに、九曜が関わっている……って。
「おいこらっ!」
 俺がそんな憶測を巡らせている間に、九曜はずかずかと一直線に朝倉に歩み寄る。やっぱりこいつの目当ては朝倉か。朝倉なのはわかったが、それをどうするつもりだ? まさか、どこかに連れて行くつもりじゃないだろうな?
 そんな真似をされたら、こっちの予定が根本から崩れちまう。
「待てって言ってんだろ!」
 必死に九曜を食い止めようとするが、わかってるのさ。どぉ〜せ俺の言葉なんざ誰も聞いちゃくれない。ハルヒを筆頭にSOS団の連中だってそうだし、ましてや一般常識すら危うい九曜にとっちゃ、俺の言葉なんて馬の耳に唱える念仏みたいなもんさ。
 案の定、人の制止を振り切って九曜は朝倉に掛かっている布団に手を掛けた。
 瞬間。
 部屋の中が晩年のゴッホの絵画のような、見ているだけで精神状態が不安定になりそうな景色に切り替わった。
「なっ、なんだこれは!?」
 六畳程度の広さだった部屋の中が、妙な感じに歪んでいる。元の部屋の面影などどこにもなく、朝倉はもちろん、朝倉が横になっていたベッド、部屋の中にあった家具、その他一切なにもない。暗く濃い色味の、妙に圧迫感のある光が幾何学的に渦を巻き、そこはかとなく牢獄にでも閉じこめられているような圧迫感さえ感じられた。
 こんなところに長時間閉じこめられていたら、それはそれで発狂しそうなところだが、幸いなのが九曜も一緒にいることだろう。こんなヤツでも、当たり散らすことで気を紛らわせられるのが幸いだ。
 そもそも、こんな異常で異質な場所に人を招き寄せられるのは九曜しかいない。こいつが俺をこんなところに引っ張り込んだのか。
「おまえ、こりゃいったい何の真似だ!? とっとと俺をここから出せ!」
「──────時間────が……かかる────」
「時間? 何言ってんだ。おまえがやったんだろ!? いいからとっとと出せ!」
「────トラップ────クライン……式────三次元────空間……歪曲────封鎖──……」
 おーけー、わかった。俺は何も状況の説明を求めちゃいない。求めたところで理解できそうにもない。重要なのは結果であって過程はどうでもいい。だからとっとと出せ。
「……時間────が、かかる──」
 俺がそう言えば、九曜は同じような台詞を改めて口にした。
「どのくらいかかるんだ」
 本音で言えば一分一秒でもこんなところにいたくはないが、時間がかかるなら仕方がない。脱出に時間が掛かるのなら、早々に始めてさっさと出してくれ。
「──プログラム────解析────通常────時間────換算、で────四日────」
「……なんだって?」
「────四日──かかる──……」
 四日? 四日だと!? 人間、水だけで一ヶ月、飲まず食わずで一週間は保つらしいが、そんなことを我が身で実践したくはない。そもそも、こんな気が狂いそうな風景の中で四日も過ごしていられるか!
 なんでこんなことになっちまってんだ? 今まで散々な目に遭ってきたが、まさか最後が異常空間での発狂死だなんて、まったく洒落にならんぞ。
「くそっ」
 こんな気が狂いそうな場所の景色なんぞ、いつまでも網膜に焼き付けていたくはない。悪態一つ吐いて目を閉じ、もはや諦観の境地に片足どころか首まで達した俺は、ヤケクソとばかりに大の字になって寝転がろうとしたそのとき。
「っで!」
 ゴンッ、とそれはそれはいい音を響かせ、目から火花が飛び散るほどの勢いで後頭部を強打した。こんなところに突起物があったのかと悶絶しながら睨み付ける勢いで目を向ければ……そこに見えるのはベッドの足。
「え?」
 そのベッドは、朝倉が横になっていたベッドだ。ベッドがあるだけじゃない。部屋の中は陰鬱な幾何学模様が渦巻く空間ではなくなっており、元に戻っていた。唯一の違いは、窓辺から朱色の光が差し込んでいることだろうか。まるで夕暮れのようになっていた。
「その通り、今は夕方です」
 聞こえてきた声に、ぎょっとしたのは言うまでもない。そのはっきりした物言いは当然ながら九曜などではなく、優美に微笑む喜緑さんだった。
「な……っ!」
「たぶん、近日中には来るだろうと思っていました。幾重にもダミーを張り巡らせた上にトラップを仕掛けておいて正解でしたね。朝倉さんを連れ出すのなら、どんな方法であろうと布団を取らなければなりません」
 これでもう、何度目だろう。ここ数日は驚きっぱなしのような気がしないでもない。開いた口がふさがらず、ただ唖然と喜緑さんの顔を眺めていれば、それはそれは楽しそうに説明してくれた。
 つまり……なんだ、あの気が狂いそうな異常空間に俺と九曜を閉じこめたのは喜緑さんだったと。しかもその発動キーは朝倉の布団をめくること?
「って、ちょっと! なんつーところにとんでもない爆弾仕掛けてんですか! 俺が朝倉の布団をめくってたら、どうなってたと思うんですか!」
「ですから」
 詰め寄る俺に、喜緑さんは悪びれた様子も見せない。
「無抵抗な相手に破廉恥なことはしませんでしょう? と、念を押したじゃありませんか」
 そりゃ確かに言われたし、元からそんな真似をするつもりなんざ微塵もありゃしなかったが、だからといって、まったく別の意図で朝倉に掛かっている布団に手を掛けることがあったかもしれないじゃないか。
「まぁまぁ、よろしいじゃありませんか。どちらにしろ、わたしが戻ってくるまでの足止めのつもりでしたし。すぐに解除するつもりでしたから」
 確かに、感覚としては九曜が言うような四日間も閉じこめられていた感じじゃない。それこそ一時間もあんなところにはいなかっただろう。
 なのに窓から差し込む光は夕暮れを示している。どうなってんだ?
「時間の流れがちょっと違います。今は木曜日の夕方五時ごろです」
 夕方……半日以上はズレてるじゃないか。もしあそこに四日も閉じこめられていたら、現実世界じゃ何日経過していたことになるんだ? 浦島太郎になんぞなりたくもない。
「それはさておき」
 俺の疑問や怒りや追求をたった一言で受け流し、喜緑さんは動かない朝倉を抱えている九曜に目を向けた。
「あなたが何故、朝倉さんのインターフェースを作り出したのか、ご説明願えますかしら」
 やっぱり俺の憶測通り、九曜が朝倉の実体を作ったのか。そのことを喜緑さんはある程度わかっていたから、あんな一歩間違えれば俺が引っかかっていたようなトラップを仕掛けていたわけだ。
「お願いですからわたしの話を少しでも覚えてくださいません? ですからわたし、昨晩に言ったじゃないですか。『明日にはよりはっきり判明します』と。わたしでもなければ長門さんでもなく、朝倉さんのインターフェースを構成できる存在なんて数えるしかいません。周防九曜がそれを行ったのは明白です」
 そのことを、喜緑さんはミヨキチの家で朝倉の姿を見た昨日のうちにわかっていたということか。
「わたしがわからないのは、どうして天蓋領域がわたしたち情報統合思念体のインターフェースを模して新たなインターフェースを構築したのか、ということです」
 そんな喜緑さんでもわからない疑問は、つまりその一点に絞られているようだ。確かに俺にも、九曜が──あるいは親玉の天蓋領域が──朝倉の実体を作り出した理由がわからない。
「憶測ならいくらでも立てられますけれど。朝倉さんの姿を借りることで自然に涼宮さんにも接触する、あるいは涼宮さんの周囲を取り巻くあなたたちの心的動揺を誘う……その辺りが妥当でしょうか。ですが、それらはわたしや長門さんがいることで意味がありません。朝倉さんの姿を使う決定的な理由にはならないんです」
 まるで推理小説の名探偵のように考えを述べる喜緑さんの持論は、微細な綻びさえない整然とした考え方だ。俺なんかは確かに朝倉が出てくれば驚きこそするが、朝倉が今現在においてどういう状況にあるのか完璧に把握している長門や喜緑さんを相手にすれば、動揺を誘うこともできないだろう。
「──────」
 片時も目を離さない喜緑さんの刺すような視線から逃れるように、九曜はちらりと窓に目を向ける。
「逃げようとしても無駄です。あなたが来るであろうことは予めわかっていましたもの。幾重にも空間封鎖を施してあります。あなた一人なら逃げられるかもしれませんが、その動かない朝倉さんを連れてでは無理でしょう? いつぞやの文芸部部室で後れを取ったわたしだと思わないでくださいね」
 ニッコリ微笑む喜緑さんは、けれど俺には微笑んでいるように見えなかった。よっぽど件のオーパーツ事件のときに、九曜相手に後れを取ったことを根に持ってるらしい。
 そんな喜緑さんを軽くあしらうことは九曜にもできなさそうだ。力尽くでの宇宙人同士の激突は勘弁してほしい。どんなことになるか想像もできないし、したくない。
「────────料理────」
 固唾を呑んで俺も九曜を見ていれば、九曜はぽつりとそう呟いた。
「────覚えた────……から、ちゃんと────食べて────もらいたかった──……」
「…………」
 や、そんな目で俺を見ないでください喜緑さん。俺にだって九曜が何を言ってるのかさっぱりわかりませんて。
「わたしにだって理解不能です。つまり、自分が料理できるようになったから食べさせたかったって……どうしてそれで朝倉さんなんですか。佐々木さんや他の方にでも食べさせればいいんじゃありません? そもそも二人に接点なんてありました?」
「だから俺にだって、」
 いや、待てよ。もしかしてこいつ、あのときのことを言ってるのか?
「九曜、おまえが言ってる料理とやらは、もしや夏の日のおでんのことか?」
 問えば九曜は、かくんと首を縦に振った。やっぱりあの日のことを言ってるのか。
「何の話ですか?」
「喜緑さんは直接関わってなかったですが、ハルヒと佐々木の閉鎖空間が共振したときがあったじゃないですか。そのとき、過去の朝倉が朝比奈さんから譲り受けたTPDDを使って協力したときがあったでしょう?」
「もちろん覚えています。その後、朝倉さんが元時間に戻るまで、わたしのところで家政婦まがいのことをさせていましたけれど」
「それです。で、たぶんあいつが元時間に戻る当日のことだと思うんですが、俺、佐々木から九曜の面倒を一日だけ見るように頼まれてたんですよ」
「それで?」
「俺は料理なんてできませんし、面倒だからコンビニの弁当で済ませようと思ったんですけどね、そこで朝倉と会いまして。面倒だから朝倉に九曜の食事を作らせたんです。まぁ、正確にはあいつが九曜におでんの作り方を教えてたみたいですが」
「……それで?」
「それだけですが」
 他に何かエピソードなんてあったか? 俺は台所から追い出されて寝ちまってたから、その間に何かあったのなら、それこそ九曜にしかわからないことだ。
「わかりました。それで周防九曜と朝倉さんの接点が理解できました。それで? つまり結局は、朝倉さんに自分が作れるようになったという料理を食べさせたいと、そういう理由で朝倉さんのインターフェースを作り出したんですか? すみません、わたしにはさっぱり理解できないんですけれど……あなたならできます?」
 そんなことを言われても、俺にだって理解……うーん、何故だろう、そこはかとなく九曜の気持ちがわからなくもない。
 似たようなことがあったんだ、以前に。いや、さすがにインターフェースを作り出すような真似ができるわけもないが、うちの妹が学校の家庭科か何かで初めて料理を覚えたとき、嬉々として家族に振る舞おうと台所で大騒動を巻き起こしてな。
 なんとなく、九曜がしたいことというのは、うちの妹に通じるような気がしないでもなく……ああ、そうか。もしかしてこいつ。
「……家族が欲しかったのか?」
「──────かぞ……く────? ──────家族────……」
 どうも九曜は『家族』という概念が理解できていなさそうな態度を見せるが、言葉が持つ意味はそれとなくわかっているのかもしれない。現にこいつは、今の今まで朝倉の実体から片時も離れちゃいない。
「だからって」
 喜緑さんは今にも頭を抱えそうに、嘆息とともに言葉を吐き出した。
「朝倉さんのインターフェースを作り出して何になるというんですか。中身はどうするんです? 姿を似せても、パーソナルデータがなければ、それは朝倉さんではありません。姿形を似せただけの人形が家族になるわけが、」
「──────個体識別────データ────作成────」
 喜緑さんにしては珍しく、愚痴っぽいことを勢いに任せて言い放っていたのだが、その間に割ってはいるように呟く九曜の言葉で、続く台詞を飲み込んだ。
「……まさか」
 改めてこぼした言葉は、愚痴ではなく九曜への問いかけ。
「擬似的に朝倉さんのパーソナルデータを作ろうとしたんですか?」
「────けれど────不可能────」
「当たり前です。パーソナルデータを作成するのなら、その個体がそれまでに費やした時間を細密にトレースしなければなりませんし、そこにはわずかな狂いも許されません。ピンセットで砂漠の砂を一粒ずつすべて拾うようなものです。擬似的に作り出したパーソナルデータを移設したところで……待ってください」
 説明しているというよりも、どこかしら説教になりかけた喜緑さんの言葉だったが、ふと何かに思い至ったように中断された。
「もしかして、移設してしまった……?」
 どこかおそるおそるという態度で喜緑さんが問えば、九曜は臆面もなく頷いた。
「なんてことを」
「どうしたんですか?」
 良家のお嬢さまが貧血で倒れるような仕草を見せる喜緑さんの落胆っぷりは、仕草とは裏腹に本当に呆れているというか、疲れ果てていた。
「インターフェースとパーソナルデータは密接な関係にあります。インターフェースは鍵穴、パーソナルデータはカギだと思ってください。けれど鍵穴は作られた段階では如何様にも形を変えます。変えますが、一度『これ』というカギを使えばそのカギしか使えません。そして彼女は、そのインターフェースに擬似的なものとは言え、他のパーソナルデータを移設したと言ってるんです」
 ……つまり、喜緑さんは何が言いたいんだ?
「首尾良く朝倉さんのパーソナルデータを入手できても、そのインターフェースに移設することは……かなり、難しい話になります」
 はぁ〜っ、と溜息一つ。それはそれは深い溜息は、肺の中の空気すべてを絞り出そうとするようなものだった。
 そんな喜緑さんの落胆ぷりは、自分がこれまでやってきたすべてが無駄だったと、そう思うが故の徒労感から来るため息なのだろうか。どうやって声をかければいいのかわからんが、状況の把握がいまいち出来ていない俺は、とにかく詳しい説明を求めるしかない。
「難しい……って、どう難しいんですか?」
 そもそも俺には、インターフェースにパーソナルデータを移設する、なんて言われたところで、仕組みからしてわかっていない。おそらくまっとうな高校生には無縁の世界の話だろうし、喜緑さんだって俺に何かやらせようということはまるで考えてないはずだ。
 だから聞くだけ無駄なのはわかっている。それでも、ここに来て『難しい話になった』と言われても、納得できる説明が欲しい。
「ですから」
 喜緑さんの口調は、物覚えの悪い生徒に同じ問題を同じ解答で何度も説明しているような、若干の苛立ちも含んだ険のある声音になっていた。
「パーソナルデータと今まで散々言っておりますが、それはつまり、人で喩えるなら記憶のことです。インターフェースは肉体。その記憶と肉体が密接な関係にあるのは言わずもがなかと思いますけれど」
「ええと……つまり九曜は、朝倉のこの体に」
 と、俺はいまだに九曜が抱えている朝倉のインターフェースを指さした。
「別の記憶を入れたってことですか?」
「記憶と呼べるものを作り出したのかどうかはわかりませんが、話を聞く限りではそういうことです」
「そこに朝倉本来のパーソナルデータとやらは、入る余地がない?」
「他のパーソナルデータが入っているのに?」
「なら、今入ってるパーソナルデータを取り出せば、」
「あのですね」
 呆れを通り越して憐れとも言えるような落胆のされ方を見せつけて、喜緑さんは俺の指さし確認まがいの問いかけをばっさりと断ち切った。
「記憶というものが、どういうシステムになっているのかご存じですか?」
 存じません。
「記憶は大きく分けて三つに分けられるんです。感覚記憶、短期記憶、長期記憶です。感覚記憶はその直前のことを覚える記憶、短期記憶は認知的な一定期間の記憶、長期記憶は忘却しない限り覚え続けている記憶のことです。各記憶はそこからさらに細分化されますが、特に重要なのは長期記憶です。これは宣言的記憶と非陳述記憶というものにわけられます。それが何かというと……より専門的になるので省きますが、いわゆる『個性』と呼ぶべき記憶だと思ってください。パーソナルデータと今まで呼んでいたものもそれのことです」
「はぁ……」
 なんだかややこしい話になってきたな、と思った。より詳しくなるから省くと言われても、現時点ですでに知識が追いついてない。つまり、まるで理解してないのだが、喜緑さんはパンク寸前な俺のを他所に、ご丁寧にも説明を続けてくれる。
「それらの記憶というのは、人で言えば脳に蓄えられる記憶です。今さらあなたに隠しても仕方のないことですし、知られたところでどうなるわけでもないので包み隠さずご説明いたしますが、わたしたちインターフェースの場合、その脳が情報統合思念体にリンクしているんです。通常の人間が、わずか1.2グラムから1.6グラム程度の記憶媒体でそれら三つに情報を処理しているのに対し、わたしたち個別のインターフェースにある脳は、感覚記憶と短期記憶だけで済ませています」
「はぁ……」
「まだわかりませんか? 個性と呼べる重要な長期記憶は、わたしたちであれば情報統合思念体とリンクすることで引っ張り出します。けれど周防九曜が作り出した朝倉さんのインターフェースは、情報統合思念体とは違う天蓋領域という情報生命体とリンクしている、ということです。インターフェースという鍵穴に周防九曜が作り出した疑似パーソナルデータというカギは、天蓋領域へと繋がる道を開いてしまったんです」
 えー……あー……つまり、なんだ? パソコンをネットに繋ぐとき、Aというプロバイダで繋ぐ予定だったのが、すでにBというプロバイダと契約されて設置まで済んでいる、ってことになるのか?
「ご理解いただけて何よりです」
「……ん? でも待ってください。六月に起きたオーパーツ事件のときは記憶の入れ替えをやろうとしていたじゃないですか。同じような手段を用いればできるんじゃないんですか?」
「あれとは理論が違います。時空干渉型恒久的空間記憶装置は、あくまで元からあるデータを改ざんするためのものです。やりとりされているデータの入出力先は変わりません」
 前回はソフトの問題で、今回はハードの問題ってわけだ。それは確かに畑が違う。でも、それでも喜緑さんには、方法が残されていると考えているんじゃないだろうか。
 何故かって? そりゃ決まってる。長々と説明してくれたが、喜緑さんは今の今まで一度として「不可能」とは言っていない。「難しい」とは言ったが「不可能」って言葉を口にはしていないんだ。
 それはつまり、何か手段があるということじゃないのか?
「……あることはありますが、それはひとつの可能性でしかありません。おすすめしかねますね」
 聞けば、喜緑さんは渋々そう答えた。おすすめできなくても、手段が残されているのなら知っておきたい。
「それは?」
「朝倉さんのパーソナルデータを、天蓋領域に渡すことです」
 ……ああ、そうか。つまりはそういうことなのか。
 回線がまるで別のところと繋がっていても、内部でやりとりされるデータが同じものなら、その本質は同じものになるって理屈だ。自宅のパソコンで契約しているプロバイダからネットに接続しても、部室のパソコンから学校が契約しているプロバイダ経由でネットを閲覧しても、同じホームページを見ているのなら画面に表示されるのは同じじゃないか。
「ただし」
 俺が何かしらの希望っぽいものを見いだせた矢先に、喜緑さんは夢を打ち砕くような現実を突きつけてきた。
「インターフェースには、人で言うところの『忘却』というシステムはございません。そして長期記憶は『忘却しない限り覚え続ける記憶』です。朝倉さん本来の記憶と、作られた疑似記憶で齟齬が発生すればパーソナルデータそのものが破損します。ただ、母体である情報統合思念体、または周防九曜の母体である天蓋領域なら疑似パーソナルデータを破棄できるかもしれませんね。もっとも、いかなる情報であれ、一度『保管』という選択がなされた情報を、情報生命体が破棄することはあり得ないでしょう」
 そういえば、この人に限らず長門の親玉も九曜の親玉も、情報生命体というものだった。それがどういった存在なのか概念的に理解し辛いところが俺にはあるが、つまり情報そのものが人で言う……なんだろう、空気とか食べ物とか、そういう生命維持に直結するもの、あるいは自分を存在させる肉体みたいなものかもしれない。
 そんな存在が情報を破棄することは自己否定みたいなもんで、確かにあり得なさそうだ。
「そして何より、朝倉さんのパーソナルデータなんて、情報統合思念体にとっては特に重要な情報です。独断専行の末に存在を凍結されているとは言え、対有機生命体コンタクト用インターフェースのパーソナルデータなんですから。あなたはそれを、敵対勢力に差し出せとおっしゃるんですか?」
 確かにその通りだ。ごもっとも過ぎて反論しようがない。確かに喜緑さんが言うように、情報ナントカが敵対勢力に朝倉のパーソナルデータを渡しはしないだろう。
 故に、朝倉のパーソナルデータを九曜の親玉に差し出すのは難易度の高いミッションになるようだ。確かに理論的には不可能ではないが、現実的ではないってことか。
「──────パーソナル────データ────…………」
 本格的に打つ手がなくなってきたと思った矢先、九曜が朝倉を離してふらりと立ち上がった。
「────どこ────に……ある────の────?」
 喜緑さんを真正面から見据えて問いかける九曜は、磁器で作られた面のように表情を変えることはないのだが、どうにも俺は、その問いかけに答えると取り返しの付かないことが起こりそうだと感じている。
 それは喜緑さんも感じていることだと思う。思うのだが──。
「あなたが一番欲しているものなら、長門さんが管理しております」
 ──こともなげにあっさりと教えてしまった。よりにもよって長門が管理してるだと!?
「──────」
「お、おい九曜!」
 頷くでも答えるでもなく、喜緑さんの言葉を受けた九曜は、足音ひとつ立てずに動き出し、今まで散々大事そうに抱えていた朝倉を置いたまま部屋から出て行ってしまった。俺の呼び止めなんて何の抑止にもならず、それどころかあいつの耳にさえ届いちゃいない。
 あいつ、まさか……!?
「確実に、長門さんのところでしょうね」
 ふぅっと、と嘆息混じりに呟く喜緑さんは、けれど表面上は何かしらの危機感を抱いているようには見えない。
「それがわかっていて、どうして教えたんですか!?」
「いくら彼女でも、すぐに行動を起こすことはないでしょう。強引に奪い取ろうにも、それなりの準備が必要になるはずです。それに、もう彼女には聞きたいことがありません。ここにいられても邪魔になりそうなので、追い出したまでです」
「……は?」
 意味がわからない。追い出した……って、どうしてあいつを追い出さなくちゃならないんだ? 居てほしいわけじゃないが、あの態度で出て行かれたら、どうなるかわかったもんじゃない。そもそも、喜緑さんが九曜に聞きたかったことってのはなんだ?
「この朝倉さんのインターフェースが、天蓋領域が構築したものであることはわかっていました。ただ、先にも述べたように『何故、朝倉さんを模して構築したのか』という理由を知りたかったんです。その目的がわからないままで、このインターフェースに朝倉さんのパーソナルデータを移設するのは危険すぎます」
「移設……? え? 移設って……それはできないって言ってたじゃないですか。いや待て。もしかして、今までの話は全部ウソですか!?」
「できない、とは一言も言ってませんよ。今までの話に、偽りなど一点たりともございません。記憶のことは人類の医学書にでも載っている話ですし、わたしたちインターフェースの記憶システムについても、すべて事実です。……ああ、やっぱり」
 喜緑さんは等身大の人形のように動かない朝倉の顔を覗き込み、納得したように独りごちた。
「周防九曜から話を聞いて、妙だと思ったんです。擬似的なパーソナルデータを作り、このインターフェースに入れたというのなら、どうして動かないんでしょう?」
「それは、あいつが言うにはパーソナルデータの作成は不可能だったから……不可能?」
 九曜は確かに「不可能」と言っていた。擬似的に朝倉のパーソナルデータを作りだそうとしたけれど、それは出来なかったと口に出して断言している。
 だったら、あいつがこの朝倉に入れたものってのは何だ? 何を入れたんだ、あいつは。
「ここに入れたのは、エラーデータです」
「エラー……?」
「先にも述べたように、インターフェースの長期記憶は情報統合思念体──周防九曜なら天蓋領域──に送られる情報になります。その前段階の感覚記憶、短期記憶はわたしたち個人が必要か不要かを判別し、不要なら破棄、必要なら保存します。そうしなければゴミ情報さえも蓄積することになって、重要な情報にアクセスしにくくなるからです。このインターフェースは、周防九曜が作り出した擬似的なパーソナルデータをゴミ情報と判断し、破棄したんです。だから動かないんです」
「あー……なるほ……ど?」
「……無理に理解しようとしなくてもよろしいですよ? ともかく、このインターフェースは天蓋領域との回線が結ばれています。ですが、回線が繋がっているだけでやりとりするデータは何もありません。今ならまだ、朝倉さんのパーソナルデータを入れ込むことはできそうです」
「でも待ってください」
 このインターフェースに朝倉のパーソナルデータを入れられる理屈なんてのは、正直どうでもいい。何しろ俺には喜緑さんの言うことを鵜呑みにすることしかできず、その真偽を確かめる術が皆無だからだ。いや、皆無どころか事実なにもない。
 だから、喜緑さんができると言うのであればできるのだろうし、できないと言えばできない事だと納得するしかない。
 それでも残る疑問は多々ある。それを確認しておきたいのは当たり前だろ?
「九曜の親玉と回線が結ばれているのなら、喜緑さんや長門の親玉は朝倉のパーソナルデータを渡したりしないんじゃないですか?」
「むしろ、喜んで差し出すと思いますよ」
「……え?」
 それこそ、さっきと言ってることがまるで違う。真逆と言ってもいい。インターフェースのパーソナルデータは特に重要なものなんだろ? そして情報ってのは、喜緑さんの親玉にとっては必要不可欠なものじゃないのか? それこそ敵に塩を送るようなもんだ。喜緑さんの親玉が、上杉謙信みたいに気概のあるヤツとはとても思えん。
「それはひとつの物の見方です。確かにインターフェースのパーソナルデータは重要なものですが、周防九曜の目的は朝倉さんを朝倉さんのままで復活させること。朝倉さんのパーソナルデータに何かしらの手を加えるとは思えません。そうなると、どうなるかわかりますか?」
 わかりません。何が言いたいんだ?
「つまり朝倉さんは、天蓋領域とダイレクトに接続できる情報統合思念体側のインターフェースになります。うまく舵取りできれば、未知の部分が大きい天蓋領域そのものの情報を得ることができるじゃないですか。それは一介のインターフェースの情報とは比べものにならないほど、貴重な情報です」
 そうか……そういう見方もできるのか。相互理解は不可能とか言ってた相手の情報と比べたら、朝倉のパーソナルデータは安いものかもしれない。秤に掛ければ、どちらに傾くのかなんて考えるまでもない。
「でもそれは……朝倉はスパイになれってことじゃないですか」
「ええ、そうです」
 俺が抱いた懸念を、喜緑さんはあっさりと認めた。
「朝倉さんを蘇らせるなら、上を納得させるだけの理由が必要になります。彼女は今まで存在せず、その間、上の目的である『涼宮ハルヒを観測する』という行為に支障は何もありませんでした。つまり彼女は、我々インターフェース本来の役割にとってさほど重要な存在ではない、ということになります。そんな彼女を理由なく蘇らせるほど、世界の在り方は優しくありません」
 俺が言わんとしたことを察したのだろう、喜緑さんは丁寧なことこの上なく、わかりやすく、いつになく固い声音で断言した。
「朝倉さんにとって本当に必要なのは、パーソナルデータでもインターフェースでもありません。彼女でなければならない役割です。その役割が見つかりました。それがスパイということです。けれどその役割にあなたが納得できないとなれば、この話はご破算になります」
 そこまで一気に捲し立て、喜緑さんはニコリともせずに俺に問いかけてきた。
「如何なさいますか?」
「如何も何も……」
 これはある種の脅迫じゃないのか? 蘇らせるなら敵対勢力のスパイとして、それが無理ならこの話そのものがなしってのは、あまりにもあんまりな二択だ。おまけにその決断を俺に迫るなんて、どうかしている。
「だいたい、朝倉をスパイにするって……そんな真似をしても、すぐにバレるんじゃないんですか?」
「かもしれません。でも、朝倉さんに万が一はあり得ませんよ」
 やけに自信たっぷりだ。その根拠はなんなんだ?
「あなたも見ていたでしょう? 周防九曜が守ります。彼女は本当にただ、朝倉さんを朝倉さんとして蘇らせたいだけですから。片時も離れなかったことと、蘇らせる算段が整って即時行動に移した姿を見て、よく理解できました。彼女の目的とわたしの目的は同じようで違います」
「違う……って」
 朝倉を蘇らせること。そうじゃないのか?
「おっしゃるとおり、わたしがしていることは朝倉さんを蘇らせることであり、それはあなたがそう望んだから応じているんです。ただ周防九曜の場合は、朝倉さんを蘇らせて存続させることが目的です。決定的な違いですね」
「……? 意味がよくわからないんですが」
「わかりませんか? わたしが弄している策は『朝倉さんを蘇らせること』その一点に絞られています。その結果、朝倉さんがどのような立場になるか、どのようなことになるかは考慮しておりません。方や周防九曜は、朝倉さんとともに過ごす時間を欲しているんです。仮にこちらの思惑を察していても、朝倉さんとの時間を過ごすためには目をつむり、上に背くことになっても朝倉さんを守るでしょうね」
 この人は……つまり、九曜でさえも自分の手駒として扱おうとしているんだな。あいつの気持ちさえも利用して、自分の思惑通りに事を進めようってわけか。
「彼女の思惑がわたしの策に組み込めることでしたから、組み込んだまでです。向こうも納得しているからこそ、あれほど大事に抱えていた朝倉さんを残して帰ったんじゃないかしら。利害関係の一致というものですよ」
「もし、あいつの思惑が別にあったらどうしてたんですか」
「それならそれで、別の策を弄するだけです。何もわたしは、すべて思惑通りに動くプログラムを組んでいるわけではありません。不測の事態が起こり得ることは多々あることです。それに対応してこそ、上策というものでしょう?」
 口元に薄く笑みを浮かべて、喜緑さんはそう言う。
「そしてこの策を練らせたのはあなたです。だからわたしは、あなたに尋ねているんですよ」
 さっきとまるで変わらぬ声音で、けれど俺に掛ける重圧はさらに激しさを増して、喜緑さんは問いかけてくる。
「如何なさいますか?」
 まるで悪魔の囁きだ。とても応じられるものではないが、けれどこの人と契約してしまったのは俺であり、その責任を負わなければならないのも事実だ。だから俺が決めなくちゃならない。そのことはわかっている。わかっちゃいるが……だからってこの選択はあんまりじゃないか。
「それは……」
 二者択一。究極の二択だ。どちらかを選べと言うのなら──。
「今すぐに……決めなくちゃならないことですか?」
 ──時間が欲しい。 納得して結論が出せるようになるまでの、悩む時間を与えてくれ。
「悩まなければ結論が出せません?」
「当たり前じゃないですか、そんなこと」
 喜緑さんの物言いに怒鳴ることこそ抑えたものの、脊髄反射で反論すれば……何かを言われたわけじゃないが、それでも何か言い返したくなるような、呆れを通り越した冷ややかな眼差しが向けられている。
「そりゃ……だってそうでしょう!? そんなこと、今すぐに決めろったって無理な話じゃないですか!」
「……わかりました。ただ、かといって悠長に事を構えていられるほど、時間があるわけでもありません。すでに朝倉さんを蘇らせる手はずは整いつつありますので」
 手はず……が、整いつつある、って?
「今、わたしには朝倉さんのパーソナルデータの一部があります」
「え……はっ!?」
 喜緑さんが持ってる……ってことは、それを目の前にある朝倉に入れ込めば、それで話はもう終わるってことなのか?
「一部と言ったじゃないですか。朝倉さんのパーソナルデータは長門さん、情報統合思念体、そして大多数のインターフェースという三系統に分けて保管されています。わたしが入手してきたのは、大多数のインターフェースが共通管理していた……そうですね、人で言えば非陳述記憶、いわゆる『手続き記憶』と『プライミング』になります」
「手続き記憶……と、プライミング?」
「手続き記憶は俗に言う『体で覚える』記憶ですね。意識せずとも動くような、慣れのことを言います。プライミングは先行する事象が後の行動に影響を及ぼす記憶です。あれですよ、ピザと十回言わせたあとに『ヒジ』の部位名を尋ねても、咄嗟では『ヒザ』と答えてしまう現象のことです。あれも記憶に関わるものですから」
「はぁ……」
「ともかく、この非陳述記憶というのは直感的な動作に関わる記憶なんです。わたしが持つパーソナルデータを移設すれば目を覚まし、感覚的な動作ならできるようになるでしょう。もっとも、それでもまだあなたや周防九曜が知っている朝倉さんとはほど遠いのですが」
 ほど遠かろうが、それを入れれば、少なくとも朝倉が蘇る第一段階はクリアってことになる。なるのだが……。
「あなたがどのような結論を出すにしろ、わたしが持っている朝倉さんのパーソナルデータはこのインターフェースに移設します。いつまでも持ち歩きたくないものですから」
 可も不可もない。今の俺にはどちらとも言えない。止めようと思えば止められたにもかかわらず、俺は喜緑さんが朝倉の額に熱を測るように手を当てている姿を、ただ黙って見ていることしかできなかった。もしかすると、俺がこうやって何も言えずにいることさえも、この人の思惑通りなのかもしれないな、と──。
「そうそう」
 ──考えているところで、喜緑さんが声を掛けてきた。
「この分割されているパーソナルデータ、一刻も早く残りのパーソナルデータを入れなければ、統合できなくなって破損いたしますのでご注意くださいませ」
 ………………。
「ってちょっと! どういうことですか!?」
「そのままの意味ですよ。三つのデータは現状では同一バージョンのデータですが、このインターフェースに非陳述記憶のデータを入れてしまえば、そのデータだけがどんどん成長していきます。他のデータとバージョンが合わずに統合できなくなるのは、当たり前のことですね」
「そんな理屈を聞いてんじゃないですよっ!」
 そういうことなら話は別だ。俺の決断云々の前に、残りのパーソナルデータがそろってから入れ込んでくれ。
 朝倉の額に当てていた喜緑さんの手を慌てて引き離すも、それが間に合ってないのはよくわかる。今まで閉じていた朝倉の目が開き、どこを見るでもなく見ている。
「朝倉……」
「あまり刺激を与えない方がよろしいかと。それも『経験』となり『記憶』となって、残りのパーソナルデータとの齟齬になりかねませんから」
 ご丁寧に説明してくれるが、だからそれ以前の問題として三つそろえてから入れ込んでくれ。ああ、そうさ。言ってやりたいことは山盛りなんだ。
「なんで大事なことを言わず、勝手にやってんですか!」
「その方があなたのためだと判断したからです。いつまでも先延ばしにできる話でもございませんし、タイムリミットがあった方が決断もしやすくなりますでしょう?」
「だからって……」
 いや、わかってる。理屈で言えば喜緑さんの判断はあながち間違いじゃない。事はあまりにも重大すぎる話であり、期限なく先延ばしにしても、一向に答えなんて出てこないのは明らかだ。
 だったらタイムリミットでもあればいいのかもしれないが、それだからって……今さら愚痴っても、もう遅いか。
「そのタイムリミットってのは、いつまでですか」
「残りふたつのパーソナルデータ……つまり、宣言的記憶の『エピソード記憶』と『意味記憶』のどちらかを二十四時間以内にひとつでも入れ込めば、また二十四時間くらいなら猶予ができそうです」
「つまり……最長で四十八時間?」
「ええ、土曜日のこの時間がタイムリミットです。もちろん、早ければ早いに越したことはありませんが」
 土曜日のこの時間……ええと、今は十九時くらいか? それまでに残りふたつのパーソナルデータをそろえなくちゃならなくて……うん? 土曜日?
 そういえば俺は、その土曜日から何者かに無理やり時間遡航させられ、今のこの日にいるんだった。そしてその土曜日には、鶴屋さんの結納が執り行われ、そこで俺は……あれ?
「あの、喜緑さん。俺って土曜日の話をしましたよね?」
「え? ああ、ええ。何者かに今の時間平面まで無理に連れてこられていて、その土曜日には朝倉さんに襲われ……あ」
 気付いたか。ようやく気付いてくれたか。この宇宙人には『忘却』って記憶のシステムがないらしいから、忘れてたなんて言わせない。それとも何か? 忘れていなくても、それが関係することかどうか思い至らなかったから、無視していたとでも? 
 つまりこの朝倉が、土曜日に俺を襲う朝倉とイコールで結ばれる存在であるのなら──。
「ぅげぇっ!」
 いきなり襟首を掴まれて、喉が絞められるほどの勢いで引き倒された。誰がそんな真似をしてくれやがったのかは言うまでもなく、あろうことか俺を引き倒した張本人の朝倉は、俺の上に馬乗りになって首に手を掛けてきやがった。
 情報操作とか、妙な力を使わないだけまだマシ……なわけがない。手加減なしの力に、こっちも本気で振り払わなければ命が危ないと本能的に思ったんだろう。力任せに朝倉を突き飛ばせば、その勢いに乗じて窓を突き破り、そのまま室外へ逃げ出してしまった。
「だ、大丈夫ですか!?」
 さすがの喜緑さんも驚いている。それ以上に俺は混乱している。どうして何の知識も知恵も思い出さえも持ってないあの朝倉が、いきなり俺の顔を見るや否や首を絞めてくるんだよっ!?
「そのことが朝倉さんにとっての最後の記憶だったから……じゃないかしら?」
「意味がわかりませんよ。げほっ」
「つまり、あなたを殺そうとする意味や理由は『思い出』や『智慧』によるところですが、実際の行動は考えるまでもない『手続き記憶』での肉体的な行動であり、ここにわたしもいるのにあなたを狙ったのは、あなたの姿から『殺さなければ』と連想した『プライミング効果』だから……と、思われますけど」
 そんな無茶苦茶な。無茶苦茶だが、それならそれで土曜日に現れた朝倉が、俺を真っ先に殺しに掛かってきた理由は納得できる。そういう理由があったからこそ、いきなり俺を襲って来た……って。
「じゃあ土曜日に俺が襲われたのも、人の制止も聞かずにパーソナルデータをあの朝倉に入れ込んだ喜緑さんのせいじゃないですか!」
「まぁ、これまたびっくり」
 ……なぁ、そろそろ本気でこの人に怒鳴りつけたいところなんだが、ちゃんと聞いてくれると思うか?
「ともかく」
 聞く気はないらしい。
「ともかく! どうやら歴史上では土曜日まで無事のようですが、どこでねじれが生じるかわかりません。捕まえておかないと」
「俺も行きますよ」
 息苦しさの残る俺も、このままゲホゲホ咳き込んでいる場合じゃない。喜緑さん一人で捜すより、俺も捜した方がいい。何よりあいつの狙いが俺なら、俺が出歩いていた方が向こうからも寄って来そうだ。情報操作能力とやらがない今なら、俺でもなんとか押さえ込めるだろう。
 どこまでも面倒かけさせてくれやがるなぁ、朝倉め。