喜緑江美里の策略 二章

 そのときの俺の困惑具合といったら、果たしてどのように喩えていいのかさっぱりわからないものだった。
 朝倉がここにいる疑問、自分がどうすればいいのかわからない戸惑い、土曜日に襲われた恐怖、その辺りの感情がごちゃ混ぜになって、腕にしがみついているミヨキチがけっこうな力を込めている感触も、あまり苦にならないほどだった。
「し、死んでるんですか? その人……」
 震える声で問いかけるミヨキチに、俺は言葉を返すほどの余裕はないが、それでも頭の中で「それはない」と断言している。そもそも朝倉には、今週の土曜日に元気に襲われているんだ。それまでにこいつの身に何かが起こり得るはずがない。
 だから目の前でぶっ倒れている朝倉に万が一はない。死んではいないと思うのだが……それにしては植木から出てきてからピクリとも動かないその様は、ミヨキチが危惧するように、死んでいるとしか思えない無反応っぷりだ。
「と、とりあえず電話……警察に」
「警察……え? 警察? ちょっ、ちょっと待った」
 携帯電話を取り出したミヨキチを慌てて引き留めた俺だが、逆にそんなことをした俺に、ミヨキチは奇異なものでも見るような眼差しを向けてきた。
「だ、だってあの、その人、動かないんですよ? 死んでないにしても、こんなところでこんな時間に……警察に連絡しないと」
 俺よりも小学生のミヨキチの方がしっかりしているってのは、どういうことだろう。言われてみれば至極もっともな意見だが、それは朝倉が何者かを知らないからこそ言える台詞かもしれない。逆に、その正体を知っている俺にしてみれば、国家権力に引き渡すのはいささか問題ありと判断するのことこそ妥当じゃないか。
 それよりも連絡するなら……連絡? 電話で? 電話……そうか。
 だからなのか、みちるさん。ここに朝倉が現れることを知っていたんだな? だからあのタイミングで姿を現して、何かあれば電話をしろ、なんてことを言ったのか。
 でもどこへ? 俺はみちるさんへの連絡手段なんて持ち合わせていない。今ここで電話連絡を取れるのは喜緑さんくらい……いや、それでいいのか。警察よりみちるさんより、喜緑さんに連絡するのが最善な状況じゃないか。
 餅は餅屋、宇宙人には宇宙人で、長門に頼れない今は喜緑さんしかいない。
「そいつの……ええと、身内というか親戚というか、そういうのに知り合いがいるんだ。いや、そこに倒れてるヤツも知った顔と言えばそうで……と、ともかく、ちょっと待っててくれ」
「えっ? あ、はい」
 戸惑うミヨキチを言い訳にすらなってない台詞で煙に巻き、俺は喜緑さんから預けられた携帯電話を取りだした。自分のものではないから登録されている番号は喜緑さんへの直通回線しかない。
『あら、やっぱり寂しくなったんですか?』
 繋がるや否や、開口一番にそんなことを言われた。
「んなわけないでしょう。そうじゃなくて、緊急事態なんですよ! 今、目の前に朝倉がいて……ええと、どう説明すればいいのかよくわからないんですが、ぴくりとも動かずに、でして、これどうすりゃいいんですか」
『えー……状況がよくわからないのですが』
 戸惑う声でそう言われても、俺だって状況がわからないんだ。それを説明しろと言われても、できるわけがない。
「いいからこっちに来てください! 今、目の前に朝倉がいるんですよ!」
『朝倉さん……ですか。よくわかりませんが、わかりました。そちらに向かいます』
「あ、今は外に居て、」
『場所は大丈夫ですよ。なんだか今は、まともな説明をしていただけそうにありませんし。お貸ししている携帯電話が発信器の代わりにもなっていますから、どこにいるのかはわかります。では、後ほど』
 発信器て。この携帯にはそういうギミックも組み込まれていたのか。喜緑さんのことだからタダで貸してくれるわけがないと思っていたが……まぁ、今はそのおかげで無駄に言葉を費やさなくてもここまで来てくれるらしいので助かったけどな。
 そりゃ、助かったさ。目の前でぴくりとも動かない朝倉がいて、傍らには痛いほどギュッと腕をしがみつけているミヨキチがいる。そんな中で理路整然と順序立てて話が出来るほど、俺は冷静沈着じゃないんだよ。長門じゃあるまいし。
「あの……お兄さん、どうなったんですか?」
「え? ああ、来てくれるらしい」
「身内の方が、ですか?」
「まぁ、そうだな」
「そうですか。それであの、それまでにその人……どうすれば」
 どうすればって……うーん、確かにこのまま外に転がしておくのは問題あるか。朝倉の身の安否以前に、もしここで知り合いでもなんでもない第三者に目撃されるようなことになれば、それこそ面倒だ。
「悪い、ミヨキチ。こいつが横になれる場所を貸してくれないか?」
「あ、はい。じゃあ家の中へ……えっと、居間にソファがありますから、ひとまずそこへ」
 ミヨキチががちゃがちゃと落ち着きなく家のカギを開けている最中、俺は片時も朝倉から目を離さずにいた。つい最近……というか、今週の土曜日か。そこで俺はこいつに襲われているんだ。警戒するのは当たり前ってもんさ。
 今はこうしてピクリとも動かないが、いつ何時、急に起きあがって襲いかかってくるかわかったもんじゃない。
「お兄さん、あの、家の中へ」
「ああ」
「あの、そこの人も」
「え? あ、ああ、そうだな」
 そうか、俺が運ばなくちゃならんわけか。まさかミヨキチに担がせるわけにもいかないし、こればっかりは仕方がない。
 俺は倒れたままの朝倉に近付き、担ぎ上げた。俗に言うお姫様だっこってヤツだが、まさかこいつにこんなことをしなけりゃならん日がくるとはね。世も末だ。
 それにしてもこいつ……朝倉……だよな。抱えたついでに改めて顔をマジマジと見たわけだが、そこにいるのは紛れもなく朝倉だった。朝倉なんだが……どうしても頭の中では「本当に俺が知ってる朝倉か?」という疑問が後を絶たない。
 なんだろうな、この感覚。同じだけど、同じものに見えないんだよ。どうにもこう……緻密に描かれた人物画を見ている感覚、と言えばいいのか、見れば朝倉だと思うのだが、それでも俺が知っている朝倉とは別物に思えてならない。
 まぁ、いい。あまり深く考えても答えが出る類のもんじゃない。もう少しすれば喜緑さんが来るわけだし、そうすればこいつの正体も判明するはずだ。
「お兄さん」
 朝倉をソファの上に寝かせると、ミヨキチがどことなく心細そうな声音で呼びかけてきた。
「その人……」
「ああ、今はこんなだが、大丈夫だろ」
「いえ、そういうことじゃなくて……ええと、お知り合いの方なんですか?」
「うん? まぁ、知り合いと言えばそうだな」
「あのぅ……どういったご関係なんですか?」
「え?」
 関係? 俺と朝倉の? それは……なんて言えばいいんだろう。元クラスメイトと言うのも間違いではないが、じゃあ今は何だって話になりそうだ。もっと根本のところで言えば……教室へ呼び出しを食らってノコノコ顔を出せばナイフを突きつけてきた相手ってことだが、そんな話は刺激が強すぎてミヨキチに言えやしない。
 世話になった相手……って言うのが、当たり障りのないところだろうか。いやでも、その世話になったっていうのも六月のオーパーツ事件や七月頭のハルヒと佐々木の閉鎖空間共振騒ぎのことだし、とても口外できるようなことじゃないな。
 改めて聞かれると、俺と朝倉の関係ってのは、もしや他人に口外できない関係ってことになるんじゃないだろうか。
「あ、すいません。答えにくいことなら別に……いいです」
「いや、そういうことじゃないんだが……」
 答えにくい、というよりも、答えようがない、というのが正直なところだ。
 なのに、この妙に落ち着かない空気は何なんだ。特に……その、ミヨキチがどうにも俺やら朝倉やらをちらりちらりと探るように見ている。妙な勘違いをされているような気がしないでもない。
「あのな、ミヨキチ。何を考えているのかわからんが、」
 言い訳ではなく、ミヨキチが勘繰ってる内容を真っ向から否定しようと口を開いた矢先、室内に来客を告げる呼び鈴の音が鳴り響いた。
「あ、すみません」
 そそくさと席を立ち、インターフォンを手にしたミヨキチは、二、三の会話を交わすと俺に顔を向けた。
「あの、喜緑江美里さんって方が見えてるんですけど」
 もう来たのか。
 随分早いなと思いつつ俺が玄関まで向かうと、そこには確かに喜緑さんが現れていた。淡い色味のブラウスにカーディガンを羽織り、ロングスカートを着こなすその姿はどこぞの良家のお嬢様みたいで様になっているのだが……その表情に浮かべているのは、何故か冷ややかな笑顔だった。
「……なんですか」
「妙なところにいると思っていましたけど、まさかあんな可愛らしいお嬢さんと二人きりでいるとは思いませんでした。本当に、いいご身分ですね」
 待て。
「誤解のないように言っておきますが、ミヨキチと一緒にいるのは事の成り行きで、」
「ミヨキチ……ああ、あなたが機関誌で書かれていた、甘酸っぱい中学卒業時期にデートをされたお相手ですね。まぁ、それはそれは」
 どうやら何を言ってもダメなようだ。これ以上、あれこれ言葉を重ねても喜緑さんの機嫌はよくなりそうにない。
「あのぅ……」
 俺と喜緑さんのやりとりを傍らで聞いていたミヨキチが、戸惑いがちに声を出す。そりゃ戸惑うだろうな。俺も戸惑ってるわけだ。
「あら、ごめんなさい。彼から連絡を受けまして、身内の者がご迷惑をかけたみたいで、申し訳御座いません」
「いえ、迷惑だなんてそんな」
「すぐに引き取りますので。お邪魔いたします」
 一言ミヨキチに断りを入れて、了承も得ずに喜緑さんは家の中に上がり込む。困惑に怯えというスパイスを加えれば今のミヨキチみたいな表情になるんじゃないかと思うが、俺にあの人を止められると思っていただきたくない。肩をすくめて見せて、喜緑さんの後を追った。
 ソファに横たわる朝倉は、やはりぴくりとも動かない。これはどうやら、ただ眠っているとか気を失っているとか、そういうことではなさそうだ。そのくらい、俺の目から見てもわかる。
 だが喜緑さんなら、そんな朝倉を見てどう思うだろう? 何か気付くこともであるんじゃないかと、期待するのは当然と言えば当然だ……が、喜緑さんは居間への入り口で突っ立ったまま、朝倉の姿を初めてテレビを見た昭和初期の日本人みたいな眼差しで見つめているだけだった。
「どうなんですか? あの朝倉は、いったい何なんです?」
 隣にミヨキチが居るから大きな声で問い質すわけにもいかない。それとなく問いかけてみたのだが──。
「…………」
「喜緑さん?」
「え? あ、そうですね。確かに朝倉さん……うーん」
 ──どうにも歯切れが悪い。いちおう、朝倉だと言っているが、断定しているようでもない。どっちなんだ?
「あの、ちょっと。ちょっとお耳を……」
「はい?」
「いいですから」
 人の耳を券売機から切符を取るような勢いで引っ張られた。
「ひとまず、あの朝倉さんを連れ帰りましょう」
「え?」
「ここにはミヨキチさんがいらっしゃるじゃありませんか。今ならまだギリギリ無関係です。巻き込みたいのなら構いませんが、それは本意ではないでしょう?」
「そりゃあ……まぁ。でも、」
「では、よろしいですね」
 俺の意見を言葉半分、いや八分の一で遮っといて、いいも悪いもあったもんじゃない。喜緑さんはいつもの笑顔でミヨキチに振り返った。
「それでは、夜も遅いことですし、わたしたちはこれで。この度は本当にご迷惑をおかけいたしまして、重ねて謝罪と感謝を述べさせていただきます」
 笑顔を引っ込めた礼儀正しい言葉遣いに、エレベーターガールでもそこまで立派なお辞儀はしないだろうという角度で頭を下げて、言葉を捲し立てた喜緑さんは、そのまま俺に向き直った。
「では、お願いします」
「へ?」
「わたしに、朝倉さんを、担いで、帰れ、と、おっしゃるんですか?」
 そんな一語一句区切って言わなくてもいいじゃないですか。急に話を振るから虚を突かれただけですよ、と心の中で言い訳して、渋々朝倉を背中に担ぎ上げることにした。
「えー……それじゃミヨキチ、どうやら俺が運ばなくちゃならないみたいだから、これで今日は帰るよ」
「あ……そう、ですか」
 俺がそう言えば、ミヨキチはあからさまに落胆の色を見せた。まるで俺が帰ることを予想していなかったかのような態度に、こっちの方が逆に戸惑う。
 そもそも、こんなことになってなくても俺はミヨキチを家まで送り届ければ、喜緑さんが用意してくれた隠れ家に戻るつもりだったんだ。ちょっと予定外のことが割り込んだが、帰るってことだけを見れば予定通りじゃないか。
 ああ、でも。
「そういえば、一人で留守番してるんだったよな。何かあったときは携帯に電話してくれれば……ええっと、番号はこれだから」
「あ、えっと……はい」
 朝倉を担ぎ上げたまま携帯を取り出し、使い慣れない機種の操作に戸惑いながらも番号をディスプレイに表示させて見せてから、ミヨキチが番号をメモったのを確認して背を向ける。何しろ喜緑さんがさっさと外に出てしまったために、時間がないんだ。
「ああ、今日のことは妹にも内緒にしといてくれ。ミヨキチも、あいつからあれこれ聞かれても困るだろ?」
「はい、わかりました」
「じゃ、おやすみ」
「おやすみ……なさい」
 玄関先で名残惜しそうに俺を見送るミヨキチの姿に、後ろ髪を引かれる思いを感じながら、俺は朝倉を担いで喜緑さんの後を追った。
「やれやれ……」
 今こそこの台詞を口にするに相応しい時だろう。他の台詞は何も思い浮かばず、ただただその言葉だけが頭の中を埋め尽くしている。
 が、だからといって考えることを放棄するのはどうかと思う。何しろ厄介事の最たる物体が、物言わず俺の背後でぐったりしているんだ。これがいったい誰──いや、何なのかはっきりさせないことには始まらない。
「もうそろそろ、これの正体を明かしてくれたっていいんじゃないですか?」
 先を行く喜緑さんの背中に向かって、俺は声を掛けた。雑踏で聞こえなかったとは言わせない声量で。
「わかっているんでしょう?」
「正体、と言われましても……うーん」
 返ってくる言葉ははっきりしない。
 そういえば、長門も──土曜日にだが──こいつと直に対面したときに「誰?」とか言ってたような気がする。もしかして、長門や喜緑さんでもわからないような謎の存在とか言い出すんじゃないだろうな?
「確かにちょっと見ただけでははっきり言えませんが、今のようにしっかり見ればわかります。わかりますが……うーん」
「何ですか、歯切れが悪いですね」
「いえ、目的がよくわからなくて……それとも、目的そのものに意味はないということかしら……? でも、それならどうしてここに……うーん」
 何やら喜緑さんの頭の中では、あれやこれやと自問自答を繰り返しているらしい。断片的に漏れる言葉からは、何を考えているのかさっぱりわからん。
 こういうとき、喜緑さんの思考の旅を邪魔していいものかどうか迷う。
「そういえば」
 気を遣って声を掛けずにいたのだが、喜緑さんの方から俺を呼びかけてきた。
「どうしてあなたは、その朝倉さんと遭遇したんですか?」
「どうしてって、ミヨキチを家に送ったら、その庭先に潜んで……いたのかわかりませんが、とにかく急に現れたんですよ」
「ですから、そもそもどうしてミヨキチさんを送ることになったんですか」
「ああ」
 そうだった。そのときにあったことは、喜緑さんにも話しておくべきだろう。
 何を、と言われれば、そりゃ朝比奈さん(大)がふらりと現れたことだ。朝比奈さん(大)の一言があったからこそ、動かない朝倉を警察に引き渡す前に喜緑さんを呼び出そうと考えられたようなものだ。
「大人の朝比奈さんが、ですか? それでそのまま帰してしまったんですか。あらあら」
 心底呆れた表情を浮かべられたが、そりゃ仕方のないことだと思っていただきたい。何しろ側にはミヨキチがいたんだ。下手に問い詰めようものなら、それこそミヨキチにまでいらん情報を与え、最悪、巻き込むことになりかねない。
「ただ、あのタイミングで朝比奈さんが現れたってことは、俺を元の時間まで連れ戻す気はない、ってことでしょう? この朝倉と、何か関係があるんですかね?」
「まだ何とも言えません。それでも……そうですね、わたしの考え通りなら、その朝倉さんが存在しているそのこととは、直接の関係がないと思います。わかりやすい言い方をすれば、敵でも味方でもない、中立の立場……だといいのですが」
「朝比奈さんが敵なわけないでしょう」
「さて、どうでしょう。わたしの見立てでは……そうですね、一番の障壁になるのは長門さんでしょうか。ですから朝比奈さんも油断ならないかもしれませんよ?」
「……え?」
 長門が? あいつが障壁って……敵になる、と喜緑さんは言ってるのか?
「どういうことですか。長門が敵って……この朝倉は何なんですか?」
「早ければ、明日にはよりはっきり判明しますね」
 そう答えて、喜緑さんはふぅっと肩を落とした。
 そんな喜緑さんの落胆っぷりが気にならないと言えば嘘になる。何かわかっているようだが、何故にそれを隠しているのかが理解できないが、それよりも俺にはもうひとつ気になることがあった。
「で、この朝倉……どこに連れて行くつもりですか」
 目の前には、今週土曜日から遡航してきた俺の潜伏場所として喜緑さんが提供してくれた隠れ家なるアパートが見える。道中は会話に夢中で喜緑さんに着いていくだけだった俺も、事ここに至り周囲を見渡す余裕が出てきたようだ。
「その質問、本気で聞いてらっしゃるんですか?」
 高校生にもなって九九の暗算が咄嗟にできない相手を見るような眼差しを向けてくる喜緑さんに、俺はため息を吐いた。
「確認したいだけです。まさか、俺に貸してくれている隠れ家とやらに、こいつも安置しとくつもりじゃないでしょうね?」
「理解されているなら結構です。早く部屋の中に入りましょう」
「本気ですか……」
 俺がこぼした吐息も一緒に押しのけるように、喜緑さんがドアを開いて室内にさっさと入っていってしまった。やれやれと独りごち、こうなれば俺も部屋の中に中に入るしかない。土曜日に俺を襲って来た朝倉を引き連れて。
「こうなっちまえば仕方ありませんが、いきなり目を覚まして襲いかかってきたときには、どうにかしてくれるんでしょうね?」
「それはあり得ません」
 インスタントのコーヒーを準備しながら、喜緑さんはきっぱりと断言する。その根拠は何なんだ?
「その朝倉さん、中身はカラッポですから」
「……カラッポ?」
 カラッポとは何だ? ここまで苦辛して運んで来たが、朝倉の中身はぎっしり詰まっていたぞ。あいつの体重が何キロなのかさっぱりだが、それでも一般高校生と同じなら、四〇キロ前後はありそうだ。
 あいつに意識があって同意の上で背負っているのならともかく、全身脱力状態では総重量四〇キロ前後の荷物でしかない。あの重さで中身がカラッポなら、あいつ本来の体重はいったい何キロだと問い詰めたい。
「……そんなこと、朝倉さんの前で言ったらメッタ刺しにされますよ……。ではなくて、ええと……これ、この商品名はわかります?」
 と言って喜緑さんが俺に見せたのは、コーヒーのミルク代わりに使っていた牛乳だった。
「そうですね、牛乳です。でも」
 喜緑さんは、その牛乳パックをひっくり返した。中身は空だったのか、一滴もこぼれ落ちない。
「これは『牛乳』ではなく、正しくは『牛乳パック』です」
「……どんな詭弁ですか、それは」
「正確性を問うのであれば、詭弁でもなんでもありません。こう考えてください。あなたがわたしのことを『喜緑江美里』と認識しているのは、わたしのこの外見と、その性格を頭の中で統合させ、かつ、あなたが脳内で蓄えている知識と合致しているから『喜緑江美里』と認識しているのでしょう? では仮に、この外見はそのままで性格が長門さんだったとしたら、あなたはそれでも目の前にいる『わたし』を『喜緑江美里』と認識できますか?」
「えー……」
 物は試しに、喜緑さんが長門のように部室の窓辺で物静かに本を読んでいるイメージを描いてみた。それはそれでビジュアル的には問題ないように思えるが……うーむ、やはりどこか違和感を覚えるな。まるで特大の嵐が来る前兆のように思えてならない。
 ああ、なるほど。だから朝倉を見たときに、喜緑さんはあんな曖昧な態度をして見せたのか。確かにそういうことなら戸惑いを覚えるかもしれない。
「アイスコーヒーとそばつゆがパッと見ただけでは同じに見えても、本質は違います。その朝倉さんも、外見こそ朝倉さんですが中身が違います。違うというか、何もありません。ですからわたしは、それを朝倉さんとは言えないんです。先ほどはミヨキチさんの手前、言葉を濁しておりましたけれど」
 それであの歯切れの悪さか。保護者という名目で喜緑さんを呼びつけて、それで「誰これ?」とか言われたんでは、ミヨキチに言い訳もできやしないからな。
「じゃあこれ……何なんですか? 喜緑さんには朝倉に見えなくても、俺には朝倉にしか見えないですよ」
 事は牛乳の話じゃない、朝倉だ。さっきまで背負って運んだ俺には、それがハリボテの人形じゃないことがわかっている。体温もあったように思えるし、ちゃんと息づかいも耳に届いていた。
 死んでいるわけじゃない。よく出来た人形でもない。ただ、目を覚まさずに動かない。
 だから、目を覚ませば喋りもするだろうし、この見た目も相まって、俺の記憶にある朝倉らしい態度を見せるんじゃないのか?
 俺はそう思ってるわけで、中身がカラッポって意味がまずもってわからない。
「あなたは土曜日から遡航してきているんですよね? そのとき、わたしにも会ったんでしょう? その日のわたしは朝倉さんのことを指してどう言っていたのか、それを思いだしてください」
「えーっと……」
 土曜日……鶴屋さんの結納の日か。その日、結納を執り行う料亭に現れた朝倉を前に、喜緑さんが言った台詞は……朝倉だけれど朝倉ではない、だったはずだ。
 ……うん?
「矛盾してませんか?」
「いいえ」
 断言された。何故だ?
「今現在、朝倉さんがどういう状況なのか、あなたもご存じのはずです。あなたを殺そうとして長門さんに情報連結の解除をされている、そのことを。ですが長門さんは、あくまで朝倉さんのインターフェースの情報連結を解除しただけです。逆を言えば、朝倉さん自身のパーソナルデータは残っています。人で言うならば、魂というか自我というか……そういうものが、です。そのデータをそこのボディに移設すれば……どうなると思います?」
「どうって……」
 見た目は朝倉だ。そしてその中身──喜緑さんが言うには朝倉の魂とか自我に値するパーソナルデータ──も俺が知ってる朝倉になるのなら……それはもう、朝倉でしかない。
 朝倉がこの時代のこの場所に存在できると……そういう可能性なのか、これは。
「極めて現実味のない可能性ですけれど」
「え? でも今、喜緑さんが自分で言ったことじゃないですか」
「理論を申したまでです。机上の空論と言い換えてもいいかしら。事はそこまで簡単ではないんですよ。そもそも朝倉さんは情報統合思念体に背いての独断専行を行い、その結果としてインターフェースを消失しているんです。その背景にどのような思惑があったにしろ、それは言い訳にすらなりません。ですから朝倉さんのパーソナルデータは、かなり面倒な管理下に置かれています。引っ張り出すためには複数のインターフェースの認証と情報統合思念体による可決、そして長門さんの決断が必要なんです」
「長門の?」
「朝倉さんはほら、長門さんのバックアップじゃありませんか。長門さんを他所に、朝倉さんのインターフェースやパーソナルデータは動かせません」
 ああ、そういえばそうだったな。
「たぶん、一番の難関は長門さんですね。素直に首を縦には振らないでしょう」
「そうなんですか?」
「それはそうですよ。朝倉さん、理由は何であれ、結局は長門さんを無視して勝手なことをしでかしたんですから。そうすることが必然だったとしても、そのことを長門さんご自身が知っていたとしても、それでも朝倉さんは何も言わずに勝手なことをしたんです。そんな朝倉さんを、長門さんが許しているとは思えません。わたしが『長門さんこそ最大の障壁になる』と言ったのは、そういう意味なんですよ」
 長門がそこまで怒ってるとは思えないが……いやしかし、あいつはああ見えて、意外と頑固なところがあるからな。確かに喜緑さんの言うとおりかもしれない。
 それでも、だ。
「ここに朝倉の体があって、そのパーソナルデータとやらを入れ込めば朝倉は復活するんでしょう?」
「…………」
 俺がそう言えば、喜緑さんは冷めた眼差しを向けてきた。
「復活して欲しいんですか、朝倉さんに」
「そりゃあ、そうですよ」
「何故?」
「何故って」
 理由を聞かれるとは思わなかった。思っていなかったからこそ、すぐには返す言葉が出てこない。
 そんな俺を見て、喜緑さんはため息をこぼした。
「朝倉さんはすでに存在しない方です。人で言えば、亡くなった方と同じです。どんなに惜しんでも、蘇らないのと同じです。となれば、朝倉さんが復活されることは不自然なことになりませんか?」
「それは……いや、比較の仕方が違うでしょう。朝倉は死んでるわけじゃない。いわゆる仮死みたいなもんじゃないんですか? 今までは目覚める方法がなかったけれど、今になって画期的な治療方法が見つかったとか、そういうもんじゃないんですか? だったら目覚めさせようとするのは、当たり前のことじゃないですか」
「うーん……」
 思いつきだが、俺がそう言えば喜緑さんは考えるように腕を組んだ。
「正直なところを申しますと、わたしは朝倉さんが復活しようがしまいが、どちらでもいいんです。いえ、むしろどちらに転んでも、わたしの負担は大きくなるだけですから」
「負担?」
「仮に朝倉さんを復活させるとして、その根回しに奔走させられることになります。何より長門さんに怒られてしまいますもの。逆に、復活させないとすれば今ここで寝転がっている朝倉さんのインターフェースを消さなければなりません。どちらも面倒で気が重くなることです」
 確かに喜緑さんと朝倉の間には、長門と朝倉の間にあるような関係性は低そうだ。それに朝倉そのものの存在意義も、『ハルヒの観測』という、喜緑さんや長門の目的、いや、その親玉にとっての主目的からは外れている。
「だったら、同じ手間なら気分が良くなる方にしませんか? 喜緑さんだって、朝倉を消すよりは生かす方を選んだ方が、後味はいいでしょう?」
 少なくとも俺はそう思っているのだが、喜緑さんもそう思ってくれるかどうかはわからない。何しろこの人はロジカルな思考で動いているっぽいからな。後味がどうのとか、そういう結果による満足感とは無縁で、如何に手際よく、合理的に事を推し進めるかってことを重視していそうだ。
 だから俺の言葉は、一か八かの賭けだった。もしかすると賭けにすらなってないかもしれないが、喜緑さんが人間社会に溶け込むような宇宙人なら、俺が言いたいこともわかってくれるんじゃないかと期待しての言葉だった。
「わたしには、あなたの言うような満足感というものはよく理解できません」
 やはりダメか……?
「が、あなたがそうまでおっしゃるのであれば、長門さんに怒られることを差し引いても利点はありそうですね。貸しを作るという意味で、朝倉さんの復活に意味を見出せそうです」
「それなら」
「少しだけ、真面目に策を弄してみましょうか」
 そう呟いて、喜緑さんは微かに笑みを転がした。
 ──もしかして俺は、あまり喜んでばかりもいられないことをしたんじゃないか……?
 そう思える微笑みだった。