喜緑江美里の策略 一章

 今日はやけに星が見えるなぁ、と夜空を見上げて俺は思う。この日の俺は、この時間に何をしていたっけかな。何であれ、一昨日の晩飯のメニューが思い出せない時点で、あれこれ思い返そうとしても無駄だろう。
「はぁ〜……」
 我知れず、漏れるため息は鉛のように重い。俺の人生は、どうしてこうも面倒事が次々に舞い込んでくるんだろうな。こういう出来事を望んでいるのはハルヒの方だろう? なのにどうしてハルヒは蚊帳の外で、俺ばっかりに降りかかってくるんだ?
 そりゃ俺も、昔はマンガ的アニメ的特撮的な展開に憧れを抱いていたこともある。それは否定しない。けれど高校生になって、そんなことは夢物語だと割り切り、きっぱり現実を受け入れているんだ。
 神様が本当にいるのなら、ハルヒのような唐変木パワーを俺に寄越して、ハルヒを今の俺の立ち位置にすべきだったんじゃないか? そうしてくれりゃあ俺以上に、アクティブに、今のふざけたこの状況を心ゆくまで楽しんでくれるさ。
 まぁ……仮に俺とハルヒの立場が能力的な話もコミで入れ替わったとしても、あいつの性格だ、今のこの状況は納得しないかもしれないな。今のこんな……コンビニで一人寂しく夕飯の弁当を物色しなけりゃならん状況なんて、あいつだったら「ふざけんな」と喚きだしていそうだ。
 今、俺は一人でいる。側に喜緑さんはいない。あの人は俺の言葉を頼りに、朝倉が本当にいるのか、いるならそれがどういったことになっているのか、そこに九曜がどういう関わりを持っているのか調べるために帰ってしまった。
 なぁ〜にが「お食事のお世話はいたしますよ」だ。
 理由はわからなくもないが、それだって今の俺を一人にするとは薄情極まりない。
 それでも万が一のために携帯電話を渡してくれたが、去り際に「寂しかったら電話してくださいね」と、小さな子供を諭すような言い方をしてくださりやがった。
 そんな言い方をされたら、電話しようにもできないじゃないか。こっちは、まだ大人とは言い切れないが、高校生になりゃあ子供ではない、と思う。そして俺は男であり、ささやかながらも男としてのプライドってもんがあるのさ。
 もしここで、特に用事もないのに電話なんてしてみろ。相手は喜緑さんだ。どういうからかわれ方をするのかわかったもんじゃない。ただでさえ、喜緑さんを押し倒すという痴態を晒しているのだから、これ以上の恥の上塗りはゴメンだね。
「あれ? お兄さんじゃないですか」
 五百円のハンバーグ弁当にしようかと思ったが、こってりしたものは胃が受け付けそうにないのであっさり風味のざるそばにした方が無難かな、などと悩んでいれば、ここ最近、あまり耳に馴染みがない声が届いた。
 家の近所でもない、学校の側でもない場所で声をかけられるとは夢にも思わなかった俺は、驚くと同時に戸惑いも感じていた。
 今ここにいる俺は、本来ならいるはずもない人間だ。この時間に本来いる俺は、家で風呂なりテレビを見てるなり妹の宿題を教えてやってるはずだ。それなのにここで知り合いと出会うということは、あってはならない状況であり、ともすれば歴史が変わり兼ねない非常事態になる……のだが。
「ああ……なんだ」
 その顔を見れば、そこまで切羽詰まった状況ではない、と思えなくもない。
 何しろ毎日顔を合わせているような交友があるわけでもなく、ハルヒやSOS団のメンバーとも親しいわけでもない。連絡を取るにしても、ワンクッションを置かなければならないような相手だったからだ。
「ミヨキチじゃないか」
「こんばんは。でもお兄さん、ちょっとひどいですよ」
「え、何が?」
「偶然お会いできたのに、『なんだ』なんて落胆混じりに言うんですもの。声をかけたのがわたしじゃダメでした?」
 三つ編みに結った髪を肩から前に流し、どこかしら咎めるような上目遣いでミヨキチはそう言うが、それは大きな勘違いというものだ。俺としては、声を掛けてきたのがミヨキチだったことでどれほど救われたことか。言葉では言い表すことができないほどだ。
 これが割と頻繁に顔を合わせるような知り合いだったら、顔を隠して挙動不審なことこの上ない態度で逃げ出していたさ。
「大袈裟ですよ〜。でもお兄さん、どうしてこちらにいらっしゃるんですか? ご自宅はこの近所じゃないですよね?」
「えー……あー、今日はちょっと、知り合いの家に遊びに来てたんだ。その買い出しでね」
 本当のことなど言えるはずもなく適当にはぐらかしたのだが、よくよく考えれば話をでっち上げるよりも「散歩のついで」の一言でよかったんじゃないかと思う。後悔先に立たずとはよく言ったもんだ。
「それよりミヨキチこそ、こんな時間に一人なのか? よく外出なんて出来たな」
「あ、違います」
 これ以上、墓穴を掘り続ける気分を味わいたくないので切り返してみれば、ミヨキチは慌てたように両手をぶんぶんと振って見せた。
「その、一人なのはそうなんですけど、今週、親がそろって旅行に出かけちゃって。わたし、一人でお留守番してるんです」
「へぇ」
 小学校六年生で一週間も一人で留守番か。よく親も十二歳の娘を残して旅行に行けるもんだ。それだけ信用してるってことなんだろうかね? うちの妹ではあり得ないな。
 いや、俺でもどうかな。一人で留守番くらいなら、そりゃできるさ。ただ、毎朝ちゃんと学校に行ける自信はない。
「あ、わたしもそうです。でも、毎朝電話が来るんですけどね」
 ミヨキチの場合は、学校をサボらないようにと電話してくるのではなく、単に心配して電話してきているような気がする。いくら信用していても、娘を残して不安に思わない親はいないだろうさ。
「だったら、こんな時間に外を出歩くのはあまりよくないんじゃないか? 親が知ったら怒られるぞ」
「いえ、今日は夕飯を作るのが面倒になっちゃったから、お弁当で済まそうかなって来ただけなんです……あれ?」
 ミヨキチは、ふと俺の顔……いや、首筋に視線を止めて眉根を寄せる。
「首筋、赤くなってますよ? 痒そうですけど、虫刺されですか?」
「え?」
 見られている視線の先に手を伸ばして、俺はようやく気がついた。そこは先ほど喜緑さんに噛みつかれたところであり、そこが赤くなっているということは決して虫刺されなどではなく、おそらく吸引されたことによって毛細血管が破裂し、内出血しているものと思われる。簡潔に言い表せば、キスマークだ。
 なるほど、今になって喜緑さんがこんなところからナノマシンの注入をしたのか納得した。確かにこんなところにキスマークがあれば、俺の方だって知り合いから遠ざかろうとするだろうさ。
 なんてことをしやがるんだ、あの宇宙人は。
「あー、いや、うん。そこまで痒くないんだが、気になってたんだ。そうか、赤くなってるのか」
 どうしてこんな言い訳口調で弁明してるのかわからんが、自分でもみっともない狼狽っぷりだと思う。それとなく、ミヨキチが言う『赤くなっているところ』を手で覆い隠しながら、ここにはいないウェーブヘアの地球外知的生命体へ、非科学的と笑われてもかまうものかと呪詛っぽい恨み節を脳内で垂れ流しておこうと思う。
「でもそこだと、キスマークみたいですよね〜……なんて、ふふ、ごめんなさい。お兄さんに限って、そんなことないですよね」
「は、ははは、そんなわけないだろ」
 コロコロと笑うミヨキチを前に、女の勘か洞察力かしらんが、そら恐ろしいものを感じずにはいられない。このまま一緒にいては、いつボロが出るかわからん。
「まぁ、なんだ。時間も遅いし、」
 そんなもっともらしい理由を付けて退散しようかと思った矢先、ふと視界の隅が店内に入ってくる人影を捉えて卒倒しそうになった。
 朝比奈さんだ。あれは朝比奈さんで間違いない。たとえ普段着だろうと何だろうと、俺が朝比奈さんを見間違えるわけがない。
 そういえば、先週の木曜の朝に……って、今だと明日の朝か、鶴屋さんの送迎をしていて出会った朝に、俺をコンビニで見かけたとか言ってたな。お下げ髪の女と一緒だったとか言ってたが、ミヨキチのことだったのか。
「あれ?」
 やばい、目が合った。朝比奈さんのことだから、この流れでは絶対に声を掛けてくる。それだけは回避しなければならない。
 何も朝比奈さんと話をしたくないわけじゃないんだ。ただ、歴史的事実として俺はこのときに朝比奈さんと和やかに話をしていないわけだし、そうでなくともミヨキチと一緒のところで声を掛けられるのは……なんだろう、後ろめたいものを感じてしまう。
「あー、そうだミヨキチ。せっかくだからコンビニの弁当じゃなくてファミレスで軽く食事にしないか? うん、思うにコンビニの弁当はカロリーが偏るだろ? 育ち盛りにはよくないと思うわけだ」
「あの……どうしたんですか、急に?」
「いいからほら、行こうぜ。いいって、奢ってやるから」
「え、あの、あれれ?」
 ここであれこれミヨキチを説得している暇はない。「うん」と答えてくれようが「いいえ」と断られようがお構いなしにその手を取り、朝比奈さんから可能な限り距離を取りつつ顔を伏せてコンビニから逃げ出した。
 その姿は、ことさら胡散臭くみっともないものだっただろうな。店員には、まるで万引きでもしてるかのように見られていたかもしれない。よくも追い掛けられなかったものだと思う。俺が店員なら追い掛けているね。間違いなく。
「あ、あの、ごめんなさい。その、手がちょっと、痛いんですけど」
「え? あ、すまん」
 朝比奈さんから逃げ出すのに夢中で、引っ張ってきたミヨキチの手を思った以上の力で握りしめていたらしい。言われて気付き、慌てて離した。
「もう、ビックリしちゃいました。どうなさったんですか、急に」
「いや、ただ……そう、時間も遅いし、急いだ方がいいだろって思ったんだよ」
「はぁ? でもお兄さん、今日はお友だちのところに遊びに来ていたんじゃなかったんですか? あの……お誘いいただけるのは嬉しいんですけど、わたしとファミレスにだなんて、いいんですか?」
 ああ、しまった。そういえば、そういう話になっていたんだった。自分で言っておいて何だが、やはり思いつきの言い訳はすぐにボロが出るな。
「いや、いいんだ。うん、そんな細かいことを気にするヤツじゃないから。あとでこっちから連絡入れれば充分だし、放っておいても問題ない」
 こんなこと、喜緑さんに面と向かって言えやしないが、まぁいいだろう。放っておかれてるんだし
「そうなんですか? それならいいですけど……」
 取って付けたようなもっともらしい理由でも、ミヨキチは納得してくれたようだ。こういうピュアなところは、これからどんどん世俗にまみれていったとしても失わないでもらいたい。切に願うところだね。
「それならお兄さん、わたし、行ってみたいお店があるんです。そんな高いところでもありませんから……どうですか?」
「ああ、いいとも」
 今の俺に、ミヨキチの申し出を断る理由はミトコンドリアサイズもありゃしない。


 ミヨキチが行ってみたいと言っていた店とは、もちろんファミレスなどではなく、少しこじゃれた感じが漂うイタリアンレストラン……らしい。らしいというのは、今はまだ向かっている最中であり、ミヨキチが嬉々として説明してくれているから、そういうところだと俺も把握できているわけである。
 なんでも、オーナーシェフが何かしらの賞を受賞した人らしく、本場のナポリピッツァが味わえるのが店の売り……だ、そうだ。普通のピザと何がどう違うのか俺にはわからんが、ミヨキチに言わせると「生地が小麦粉と水と酵母と塩だけですし、石窯でちゃんと焼いて、燃料もちゃんと薪や木くずを使ってるんですよ」ってことらしい。どうやらその辺りがナポリピッツァがナポリピッツァと呼ばれる所以のようだが、どうしてこう、女性というのはそういうことに詳しいんだろうね。
「クラスの女子はみんな知ってますよ」
 それはない、と思う。断言してもいい。そりゃだって、もしミヨキチと同じクラスの女子全員がカフェなりイタリア料理店の情報なりを熟知しているとなれば、うちの妹も知っている、ってことになる。
 それはないだろう、どう考えても。
 脳内でチラチラと思い起こされる我が妹の姿を反すうし、強く思う。もしあの妹が、兄である俺の目から見ても実年齢と比べて幼いと感じるあの妹が、俺も知らないようなオシャレなカフェやら何やらを熟知しているとすれば驚きだ。驚天動地だ。
 そりゃ、妹だって女の子なわけだから、そういうものにまったく興味がないとは言わない。もしかするとミヨキチ言うところの「女の子の常識」とやらに興味がないとも考えられるが、世間一般の女子とは違う趣向があったとしても、無関心ではなさそうだ。一緒に住んでいるんだから、そのくらいはわかる。
 ただ、今はまだ興味が薄いようだ。妹がより強くそういうことに興味を持つのは、もう少し経ってからだろう。中学……いや、高校に入学すればあるいは。いやいや、けれど今の妹の姿を見るに、もう少し時間が必要かもしれない。そうだな、ちょうど正面から歩いてくるあのお姉さんみたいに立派な大人になって……って。
「あ……朝比奈さん!?」
 妹もああいう風になればいいな、と思って行き交う人々の中から無作為に目を留めた人物をよく見てみれば、俺は掛け値なしに驚いた。暗がりの中だから今の今まで気付かなかったが、そこにいたのは紛れもなく朝比奈さんである。
 しかもだ。朝比奈さんと言っても、先ほどコンビニで接近遭遇しかけた部室のメイドさんではない。あらゆる点でボリュームアップした朝比奈さん(大)の方じゃないか。
 おまけに──。
「こんばんは、キョンくん」
 ──向こうから声をかけてきた。
 まさかここで、しかも隣にはミヨキチがいる状況であるにもかかわらず、声を掛けられるとは思わなかった。現れるにしても俺が一人の状況がいつものパターンだし、何より俺は土曜日から無理やりこの日、この水曜日まで時間遡航させられている。そういうことができるのは俺の友人知人顔見知りの中でもこの人か、藤原くらいしかいない。つまり朝比奈さん(大)は──疑いたくはないが──俺をこの時間に無理やり連れて来た最重要容疑者であるわけだ。
 どうして現れたんだ? もしかして、やはり俺をこの時間に連れてきたのは藤原だからこそ、朝比奈さんは救出に来てくれたとでも言うのか?
「あの……お兄さん、どちら様ですか?」
「え? あ、あー、えっと、この人は……」
 あるいは、そうか。ミヨキチが隣にいるから姿を現したんじゃないだろうな? この状況では、朝比奈さん(大)に詳しい事情を問い詰めることもできやしない。
「朝比奈みちるです、初めまして」
 にっこり笑顔でミヨキチに名乗る朝比奈さんを前に、吹き出しそうになったのはここだけの話だ。この朝比奈さんにとって、その話がいったいどれくらい前のものかわからないが、よくその名を覚えてくれていたもんだな。
「キョンくんにはいつも妹がお世話になっていて。ですよね?」
「え? あー、ええ、まぁこちらもお世話になってますと言うかなんというか」
 俺に話を振ってきたということは、つまりそういうことにしておいてくれ、ということなんだろう。
「それでキョンくん。こちらの可愛らしいお嬢さんは誰なの?」
「あ、こっちは、」
「よっ、吉村美代子です」
 俺が紹介しようと口を開けば、それは不要とばかりにミヨキチは慌て口調で名乗った挙げ句にバネ仕掛けの人形のように頭を下げた。
「お兄さんの……あ、お兄さんといっても実の兄とかじゃなくて、お兄さんの妹さんと仲良くさせていただいてて、そのご縁でこうしてご面倒をかけていることもあって……それでその」
「そうなの。よろしくね」
 何をそんなに、と思うほど、ミヨキチは言い訳でもしているかのような態度で俺との関係を口走るが、朝比奈さんはミヨキチの態度に初々しさを感じているのか、何かこう、見守るような大人の笑顔を浮かべてミヨキチに手を差し伸べた。
「あ、はい。こちらこそ」
 方やミヨキチは、そんな朝比奈さんの雰囲気に呑まれでもしたのか、何故か頬をわずかに上気させながら差し出された手を握り返す。
 こういうのも、貫禄と言うんだろうか。いつも部室で愛らしい姿を見せてくれる朝比奈さんも、ここまで成長すれば醸し出す雰囲気で人を飲み込むことができるらしい。それだけの美貌があることは……ま、今さら言うまでもない。
 そんなことよりも、俺にはどうしても聞いておかなくちゃならないことがある。
「朝比奈さん、どうしてここにいるんですか」
 喜緑さん曰く、今の俺は地球人類の科学力ではもちろんのこと、長門でさえ居場所の特定ができないようになっているんじゃなかったのか? なのにこの朝比奈さん(大)──みちるさんと呼んだ方がいいのか──は、まるで俺の居場所がわかっていたかのようにピンポイントでの登場じゃないか。
 ミヨキチにさえ突っ込まれるようなキスマークを人の首筋に残した挙げ句に朝比奈さんに遭遇するのでは、片手落ちもいいところだ。
「さっき、キョンくんの姿を偶然見かけたの。急に逃げるんですもの、どうしたのかなって思って、捜しちゃった」
 照れくさそうに舌をちょろっと見せて弁明じみた口調でそう言うみちるさんだが、この人に限って偶然などというものがないことを俺は知っている。いつも一緒にいる朝比奈さんならいざ知らず、過去を──俺にとっては未来を──知るこの人との出会いに偶然などあり得ない。
 かといって、いくら大人になったからと朝比奈さんが咄嗟の思いつきで無難な言い訳ができるとも思えず、俺を偶然見かけたって言われてもそんなことは……あっ、そうか。
 確かに俺は、偶然にも朝比奈さんと出会っている。しかもついさっき、目が合ってしまうほどの距離で遭遇したじゃないか。
 この時代、いつも一緒にいる朝比奈さんと、目の前にいる朝比奈さんは繋がっている。あの時点で見つかっていれば、たとえ喜緑さんがチャフだかなんだか知らんが俺の居場所を特定できないようにしていても、朝比奈さんには意味がない。何しろ目視で見つかっているんだからな。
 だから、ここに現れることができた。でもなんで今なんだ? 側にミヨキチがいる、このタイミングなのはどうしてだ?
「それより二人は、どこか行く途中だった?」
 そんな俺の疑問を他所に、みちるさんはそんなことを聞いてくる。
「あ、そうなんです。これから食事に……すぐそこのイタリアンレストランなんですけど」
「もしかしてあそこのレストランかしら? わたしも行ってみたかったんだけど、一人で入るにはちょっと勇気がいるから結局行かず終いなの」
「そうですよね。わたしも、今日みたいな機会がなければなかなか……それに、わたし一人じゃとても行けませんし」
「いいなぁ。ねぇ、もしお邪魔じゃなかったら、わたしもご一緒していいかしら?」
 いきなり何を言い出すんだ、と思ったのは俺だけじゃないはずだ。
「ええ、是非」
 訂正しよう。思ったのは、どうやら俺だけだったらしい。俺が何か言う前に、ミヨキチがあっさりOKを出してしまった。
「本当? ありがとう。せっかくだし、無理を言ったんだからわたしがご馳走しますね」
 あれよあれよと言う間に女性二人の間で約束が取り付けられ、俺が入り込む余地がないままで話が進む。意気投合……というには、まだミヨキチに遠慮こそあるようだが、少なくとも男の俺が間に入り込むことができなさそうな会話が二人の間で続いていた。
 そんな会話はレストランまで続いていて、俺はただ着いていくことに終始した。
 ほどなくして見えてきたレストランは、そりゃファミレスっぽい紋切り型の安っぽさなどはなく、中に足を踏み入れてもその印象は変わらない。店のシンボル的な位置づけなのか、客席からも石窯が見える。
 メニューを開けば、ピッツァとパスタのメニューが多い。それ以外はサラダやドリンクなど、サイドメニューばかりだ。あまり聞き覚えのない名前がズラリと並んでおり、どれがいいのかさっぱりわからん。コースメニューもあるようだが、それはさすがに手が出せそうにない。そもそもそんなに腹が減ってるわけではないので、妙にテンションの高いミヨキチとみちるさんにすべて任せてよさそうだ。
 そんな感じで、レストランでの食事はつつがなく進行した。俺があえて口を挟むまでもなく女性二人は盛り上がっているし、俺は俺で料理の味を堪能する作業で忙しい。いや、そこまで忙しくないが、口を挟むよりもみちるさんの目的を探ることで口を動かす暇もない、というのが正しい。
 先ほどコンビニで朝比奈さん……みくるさんの方と遭遇したことで、今日が水曜日であることは間違いない。あのときが翌日登校時間に朝比奈さんが言ってた、俺のドッペルゲンガーの正体だろう。だから今日は水曜日であり、喜緑さんの冗談でもなんでもなく、俺は土曜日から時間遡航して来ている。
 そういう時間移動に巻き込まれているのは、誰の仕業かわからない。俺の記憶に残っているのは、北高へ向かう途中に急に意識が薄れ、その最中に見た男か女か判別できない足下を見ただけであり、そいつが俺を今日のこの日に連れてきたと思われる。
 それは目の前にいるみちるさんだっただろうか? 違うような気がする。少なくとも、今のみちるさんじゃないことは確かだ。足下しか見てないとは言っても、その相手はハイヒールの靴じゃなかったことだけは断言できる。
 では、みちるさんは俺を元の時間に連れ戻すために来てくれたのか?
 それも違うような気がする。
 今の俺が置かれている状況が、みちるさんにとって不測の事態だとしたら、ミヨキチと一緒にいるところに現れるはずがない。確かに朝比奈さんと会ったのはついさっきだが、目の前の朝比奈さんにとってそれはだいぶ前のことなんだから、頃合いというものを見計らって姿を現すのが自然じゃないか。とても今がその『頃合い』とは思えない。
 となれば、俺の中から出てくる結論はひとつしかない。
 みちるさんと俺をこの日に連れてきたヤツとの間では、何かしらの協定が結ばれている。つまり、協力関係にある俺の知らない未来人だ、ってことさ。
 ま、それで正解がどうかわからん。そしてみちるさんの思惑も見当が付かない。あれこれ考えるだけ無駄かもしれないな。
「お兄さん、どうかされたんですか?」
 そんなことをつらつらと考えていれば、どこか心配した風な声音でミヨキチに話しかけられた。
「え? 何が?」
「いえ、ずっと何かこう……考え事をされてるみたいでしたから。料理の味が合いませんでした?」
「いや、そういうことじゃなくて、」
「ダメよ、キョンくん。女の子と一緒にいるときに、他のことを考えているなんて」
 俺の弁明に被せるように、からかい口調でそんなことを言うみちるさんに、俺は驚きを禁じ得ない。いつも一緒にいる朝比奈さんのこともあるから、だろうか。そういう事は頭の中で思っていても、口にしなさそうなイメージがあるんだが……何故だろう、登場したタイミングのこともあるせいか、すべてにおいて『らしくない』と感じてしまう。
 それを『大人になる』って意味での成長だと思えばそうなんだろうが……うーん、少し、疑念に思うところがあるせいかな。それともミヨキチがいるから、キャラを作っているのかもしれん。あとでしっかり説明さえしてくれれば、どうにも釈然としない今の俺の気持ちもすっきりするだろう。
「あ、いけない。もうこんな時間」
 と、みちるさんは細い手首には不釣り合いなゴツい腕時計に目を留めてそんなことを言い出した。
「ごめんなさい。わたし、そろそろ帰らなくちゃ」
「えっ? あの、ちょっと待ってください」
「大丈夫、支払いは済ませておくから」
 いやいや、そんなことで俺は呼び止めたわけじゃない。みちるさんに話を聞きたいからこそ呼び止めたのであって、ミヨキチと別れるまでは一緒にいてもらわなくちゃ困る。
「それにキョンくん、こんな時間に吉村さんを一人で家まで帰らせるわけにはいかないでしょう? ちゃんと家まで送ってあげなくちゃ」
 そりゃそうだが、それを言ったらみちるさんだって危ないでしょう。
「もう、わたしは一人で大丈夫です。じゃあ、何かあったら電話してね。携帯電話、持ってますよね?」
「そりゃありますが」
 喜緑さんからの借り物だけどな。
「うん、それでお願い。それじゃ」
 電話しろと言われても、いったいどこへ電話すればいいんだ? あれか、いつも一緒にいる朝比奈さんに電話しろとでも言うのか?
 俺があれこれ考えている間に、みちるさんはささっと席から立ち上がり、レジで会計を済ませて店から出て行ってしまった。去り際に、こちらへ向かって笑顔で手を振る様子を見るに、まるで本当にただ通りすがりで出会った俺たちと食事を楽しみたかっただけのように見える。あるいは、俺の様子をうかがいに来たか……だが。
「ええい、くそ」
 追い掛けるのは簡単だが、去り際にあんなことを言われたのでは、ミヨキチを一人置いていくこともできやしない。
「俺たちも帰るか」
「え? あ、はい」
 どちらにしろ遅い時間だ。いくらなんでも、ミヨキチだってそろそろ家に帰らなくちゃならならい。みちるさんに言われるまでもなく、家まで送っていくことにするさ。
「綺麗な人でしたね」
 道すがら、ミヨキチがほんわかした声音で話しかけてきた。どこかしら夢見る乙女のような響きを感じるのは気のせいか?
「さっきの朝比奈さん。スタイルがよくて女優さんみたいだし、気だてもよくて……わたしもああいう風になれるかしら」
「ミヨキチはまだまだこれからだろ」
 逃げるように去っていったみちるさんをどうやって捜し出して追い掛けようか、気もそぞろにそんなことを考えていたのがマズかったらしい。
「……何かこう、興味なしって感じですね……」
 ひどく落ち込まれた。
「あ、いやそういうことじゃなく、ただミヨキチはまだ小学生だし、発展途上の最中だと言いたいわけで」
 俺の曖昧模糊とした適当な応答を受けて、ひどく気落ちしたように肩を落とすミヨキチを前に、俺は必死の弁解を試みることとなった。みちるさんも言ってたが、女性と一緒にいるときに他のことを考えれば、男はドツボにはまるらしい。
 後にして思えば、妙な汗が噴き出しそうな恥ずかしい台詞も交えていたように思う。何をどう言ったのかさえ、いまいち不明瞭だ。何しろ気付いたときには、ミヨキチの家の前までたどり着いていたほどだから、俺の必死さ具合もおわかり頂けるだろう。。
 ただ、その甲斐あってミヨキチに笑顔を取り戻らせることができたのだから、よしとすべきかもしれん。
「それではお兄さん、今日はありがとうございました。わざわざ家まで送っていただいて」
「いいさ、別に。それより戸締まりはしっかりしておけよ」
「はい。それじゃあ、」
 ミヨキチが別れ際の台詞を口にしようとしたその直前、庭の植木が激しく葉音を鳴らした。風もなく、野良猫がイタズラしているにしては揺れている植木の範囲が広い。目測では中型犬程度の大きさがある何かがそこにいる。
「きゃあっ!」
 ミヨキチが黄色い悲鳴を上げて俺にしがみつくのと、植木の影からそれが現れたのは、ほぼ同時だった。俺はというと、植木の影から出てきたそれよりも、ミヨキチの悲鳴で心臓が潰されるかと思うくらいに驚いて、体が硬直したのは言うまでもない。
「な、なんですかいったい? お兄さん、何がいるんですか!?」
 そんなことを聞かれても、この薄闇の中じゃ俺にもよくわからない。それよりも人にがっちりしがみつくのはいいんだが、腕がへし折られそうなくらいに力を入れるのはやめてくれ。
「何って……」
 よく見れば、それは野良猫や野良犬ではなく、立派に人の姿をしていた。さらに目をこらせば、そいつは見慣れた北高の制服を着込んでおり、髪が長い。
 かといって近付くのも躊躇われるので、より一層目をこらせば、そいつはぴくりとも動かずに倒れたままであり、その表情を探るように伺えば、ミヨキチの悲鳴以上に俺の肝を潰すに充分な驚きを与えてくれた。
「あっ、朝倉!?」
 暗がりの中でも、俺が見間違えるわけがない。
 植木を揺らし、転がるように現れて倒れ、ぴくりとも動かないそいつは、朝倉涼子で間違いなかった。