喜緑江美里の策略 プロローグ

 かちゃかちゃと耳に届くのは、食器が触れ合う音。鼻孔をくすぐる香ばしい匂いは、コーヒーか何かだろうか。馴染みのない羽毛に包まれた感触を肌で感じながら、俺の意識は五感のうちの三つで感じる気配で、周囲の状況を頭の中で処理しようとしていた。
 どうにも意識がはっきりしない。そもそも、どうして俺はそんなことを確かめるように考えてるんだ? 耳や鼻で判断するよりも、人間だったら目で見て確かめた方が早いじゃないか。
 なのにどうしてこんな……ああ、そうか。目を閉じているから真っ暗なのか。だったら瞼を開けば周囲が見える。見えるようになれば、こんな不確かな認識であれこれ思い悩む必要もない。
「…………」
 重い瞼を開いて、俺はますます混乱した。
 見慣れない天井。覚えのないベッド。左右を見れば、記憶を探っても手がかりさえ出てこない家具が、ぽつりぽつりと置かれてある。
 何だこれは。どうして俺はこんなところにいるんだ? ここはいったいどこで、どうして俺は呑気に寝ていたんだ?
「あら、お目覚めになりました?」
 自分が置かれている状況がさっぱり理解できない現状で、驚きと怯えにも似た感情に苛まされているとは対照的に、耳に届いた声は穏やかで落ち着きがあり、マイナスイオンでも含まれているんじゃないかと思えるような、落ち着きというかリラックスした気分を取り戻させてくれる声。
 もっとも、その顔を見れば安心とか安穏とか言ってられない。
「きっ、きききっ、喜緑さん!?」
「はい、わたしです」
 驚きと困惑に苛まされる俺とは裏腹に、目の前の喜緑さんはどこまでも牧歌的な声音で答える。制服ではなく私服姿で、両手で一組ずつ持っていたコーヒーカップをテーブルにおいていた。
「どういうことですか!?」
「あらら」
 頭で考えるより、先に体が動いていた。喜緑さんの手を乱暴に掴んだのは、ここで逃がしてたまるかという考えがあったからだ。
「いったい、何をやろうとしてるんですか!」
 どうしてここに喜緑さんがいるのか、俺に何があったのかなど、理解できないことも言いたいことも山のようにあるが、それでも目の前に疑わしき人物がいる。我が身に降りかかっている不可解な状況で悩むより、もっと大きな問題を解明する手がかりを追求するのは、ごく自然なことじゃないか。
「いったい何をたくらんでいるんですか!? まさか九曜と一緒に何かやらかそうとしているわけじゃないでしょうね? あの朝倉はいったい何なんですか!」
「……朝倉、さん?」
「さすがに今回ばかりはやり過ぎだ。適当にはぐらかそうとしても無駄です。納得する答えを出してください」
「……わかりました。わかりましたから、その前にひとつだけよろしいですか?」
「何ですか」
「今のこの状況を、どうお考えになります?」
 この状況、だって? だからそれを聞きたいのは俺の方だ。まったく状況が理解できてないくせに厄介事の渦中に放り出されている、不幸を絵に描いたようなマヌケは、この広い世界のどこを捜しても俺以上のヤツはいないだろうさ。
「ではなくて、今です。今、あなたがしていること。それを客観的に見ますと、どうなのでしょうか、という話です」
 今? 今はただ、喜緑さんを逃がさないように手を掴んで引き寄せて、その勢いが強すぎたのか組み伏せているような格好に……なって、いる……ような。
「まさか、劣情に身を任せ、破廉恥な行為に走ることはございませんよね?」
 うふふふ、と微笑む喜緑さんを前に、頭に昇っていた血が、貧血で倒れる寸前くらいまで一気に引いた。
「いっ、いや! そんなつもりはまったくなく、俺はただ、」
「殿方の強引さは嫌いではありませんが、この姿勢ではわたしも冷静な話し合いなどできそうにありません。離していただけないでしょうか」
 言われるまでもなく俺は喜緑さんの手を離し、そそそっと身を引いた。冷静になった今にして思えば、俺は何てことをしたんだと、腹を切りたくなるほどの自己嫌悪を感じる。しかも相手は、よりにもよって喜緑さんだ。他のヤツならいい、という話でもないが、喜緑さんが相手だということが大問題じゃないか。
 これはもう、生涯ネタにされ続けられるであろう大失態のような気がしてならない。
「さて」
 乱れた衣服を何事もなかったかのように正し、喜緑さんはそれはそれはステキな笑顔を浮かべて見せる。胃と言うか腹と言うか、あちこちギリギリと痛むのは、肉体的な疲労よりもストレスによる急性なんとかってもので間違いなさそうだ。
「わたしの方こそお聞きしたいことがありますが、どうやら状況を把握しなければならないのはあなたの方かもしれませんね。簡単な質問をいたします。ええ、先にわたしの質問に答えてください。話はそれからです」
 しつこいくらいに言葉を重ねる喜緑さんに、先ほどの件がある俺には、返す言葉が何もない。今はただ、従うのみだ。
 そんな俺の沈黙を了承と受け取ったのか、喜緑さんが『質問』とやらをしてくる。
「今日が何曜日か、おわかりになります?」
 肩すかしを食らった。それは俺が頭の中で膨らませていたような、おののくような無理難題ではなく、考えるまでもない容易い質問だった。
「土曜日でしょう?」
 鶴屋さんの結納が行われたのは、間違いなく土曜日である。その結納も無事に破談し、ひとつの決着を向かえたからこそ俺は北高へ向かっていて……そして気付けばこんなところにいるんだ。
「土曜日、ですか」
 即答した俺の言葉を受けて、何故か喜緑さんは嘆息混じりにテレビのリモコンを手に取って点ける。ちょうど、夕方のニュース番組が始まるところだった。
『それでは本日、水曜日のニュースをお届けします。はじめに……』
 ……水曜日? 今、テレビのアナウンサーはそう言ったのか? ……水曜日だって!?
「ええ、水曜日です」
 呆気に取られる俺を他所に、喜緑さんもアナウンサーの言葉を補強するように今日が水曜日であることを主張して、テレビを消した。
「やはりあなたは、別の時間平面からいらっしゃった彼の異時間同位体なんですね。現時間平面にいらっしゃるあなたとは差異も少ないようですし……土曜日ですか。今週末から遡航してきたのかしら? でも、あなた一人で時間遡航ができるわけもありませんし、同行者がいらっしゃるはずです。なのにどうして、あんなところで行き倒れになってたのでしょう?」
「そ、それこそ俺が聞きたい話ですよ!」
 今日が水曜日? 土曜日から時間遡航してきた、だって?
 冗談じゃない。どうして俺がそんなことになってなくちゃならないんだ? これも喜緑さんの手の込んだ冗談じゃないかと思う俺を、いったい誰が咎められる!?
「残念ながら、そんな冗談で人様をからかうつもりは毛頭ございません。面白くもなんともないでしょう?」
「い、いったい俺はどうしてここに……そもそも、どうして喜緑さんがいるんですか。ここ、喜緑さんの家ですか?」
「あれこれ一度に聞かれましても。コーヒーでも飲んで、落ち着いてください」
 こんな状況で落ち着いていられるか、と言いたいところだが、目の前に湯気が漂うコーヒーカップを突き出されては受け取るしかない。
 仕方なしにカップを受け取り、口を付けていれば、喜緑さんの方から話し始めてくれた。
「ここはわたしの家とも違いますけれど、そのことに大きな意味はありません。それよりも重要なのは、どうしてわたしがあなたをここに連れてきているのか、ということだと思いませんか?」
「え、ええ」
「理由は簡単です。生徒会の業務を終えて帰宅途中の坂道で、あなたを拾ったからですよ」
「坂道で……拾った?」
 それは……ええっと、北高に向かう坂道のことか? あそこで俺を拾った? 人をものみたいに言わないでくれと思う前に、喜緑さんが言わんとしていることがどうにも飲み込めない。
 いや、確かに俺は北高へ向かう坂道にいたんだが……でもそれは土曜日の話で、今日は水曜だから……ああ、ややこしいな。
「なんだって俺はそんなところに?」
「それをお聞きしたいのはわたしの方です。どうも長門さんからこれといった連絡もございませんし……いったい何があったのか、お聞かせくださいな」
 ああ、そりゃ話すさ。話すとも。こっちとしては、聞きたくないと言っても話すつもりだったんだ。喜緑さんの方から話せというのなら、願ってもない。俺の身に降りかかった出来事を、事細かく話してやろうじゃないか。
 俺が鶴屋さんのところでバイトをしていて、その鶴屋さんが古泉と結納するという席に朝倉が現れたかと思えばいきなり襲われ、そこに長門が介入してトチ狂った朝倉にとどめを刺そうとしたところに喜緑さんが現れた、って話をだ。
 ああ、そしてそうだ。そのときの喜緑さんはまるで何かを知っているような素振りを見せていた。だから喜緑さんは何かを知ってると俺は思っていたんだ。だから……えーっと、さっきは押し倒すような真似をしたわけで、そこに別の意味合いなんて何もないんですよ。
「まさに貞操の危機でした。でも、それは許して差し上げます。ええ、しっかり償いはしていただきますけれど。それより、わたしはそんなことになっているだなんて、夢にも思いませんでしたので、まったく知りません」
 その『償い』とやらが何なのか気になるが……何も知らない? どういうことだ? 素面で否定されたぞ。本当に何も知らないのか? まったく何も?
「知りません。天地神明に誓ってわたしは何も存じ上げておりません。それよりも、お話を聞いてしまったことで、気が重くなるような懸案事項ができてしまいました」
「……と言うと?」
「お気付きになりません? つまりあなたは、今日から土曜日までのわたしの行動を決定づけてしまったんです。今のわたしは何も存じ上げておりませんけれど、土曜日までにはある程度のことを把握した挙げ句、深く関わらなければならなくなったということです。そうでなければ歴史が変わってしまいますね」
 ああ……確かに、喜緑さんが本当に何も知らず、今日が過去の水曜日であるのならそういうことになってしまったんだろう。
 それが憂鬱に思うのだったら、喜緑さんはあれをすればいいじゃないか。ほら、長門もやってた未来の自分との同期とかいうヤツを。長門自身はその能力に制限をかけちまったが、喜緑さんはそうじゃないんだろう?
「それは少し、難しいですね」
 難しい……って、長門は簡単にやってたように思えたが。実はかなり面倒で厄介な手続きが必要なんだろうか?
「いえ、そうではありません。ただ、インターフェースという有機情報を持つわたしたちが別時間の時間連続体に接続することは、重大なパラドックスを生じさせてしまうんです」
 パラドックス? パラドックスってあれか、時間移動のSFものではよく耳にする、過去を変えることで未来が妙なことになっちまう、矛盾のことか。
 そのくらいなら俺も知ってるが、喜緑さんたちならパラドックスを生じさせずとも日々の行動を過ごせそうじゃないか。
「周囲の環境情報へのことを言うのであれば、可能でしょう。けれど、長門さんがしでかしたことを思い出してください。あなたと朝比奈さんが四年前の七月七日に長門さんに助けを求めた際に、同期を行ったでしょう? その後の十二月に世界を改変させてしまったじゃありませんか。それが重大なパラドックスになっているんですよ」
「えー……日本語でお願いします」
「ですから、四年前の長門さんは、その時点で以降の三年間の記憶があるんです。そしてその三年間はすでに体験している記憶ですが、ではその記憶はどこで生じた記憶なのか、ということになります。にわとりが先か、卵が先か、という話に似ていますね。起点と終点がなくなってしまうんですよ、同期をしてしまうと。それが自我のパラドックスになってしまうんです。そこに、バグが生じます」
 いやあ……わかるような、わからないような……なんだろう、喜緑さんはおそらくわかりやすく説明してくれているんだろうが、それでももう少し、文系の人間でも理解できる言葉を選んでほしいものだ。
「彼女が世界を改変させてしまうほどのバグを蓄積したのは、別の所にあるのかもしれません。ですが、その切っ掛けは同期したことが原因である可能性が極めて濃厚です。ですのでそれ以降、わたしたちインターフェースがいかなる時間帯の自分と同期するには、極めて深刻かつ重要な緊急事態でなければ許可が下りなくなりました」
 つまり、同期するとバグるぞ、ってことでいいんだな? しかもしれが仕様になっちまってるってことか? 長門は自律起動の自由権を得ただのなんだと理由を付けていたが、そうでなくとも同期ってのは長門の仲間にとっても禁じ手に近い技術になっちまってるんだな。
「なので、あなたの話を聞いてしまった以上、わたしはこれから土曜日までにあなたの身に降りかかっている事態を自力で解明しなければならない、ということです。とても面倒ですね」
 にっこり微笑みながら、やけにトゲのある言い方をしてくれる。俺だってそんなことになってるとは夢にも思っていなかったんだ。嫌味を言うのはお門違いってヤツですよ。
「いいえ、わたしを巻き込んだのはあなたです。しっかり責任を取っていただかなければ困ります。そもそも、朝倉さんがどうのとおっしゃってましたが、どういうことですか?」
「それこそ俺にもわかりませんよ。橘の話では、九曜が関係しているようなことを言ってましたが……そうそう、喜緑さんも──土曜日に会った喜緑さんですが──朝倉は朝倉だけど朝倉じゃない、とも言ってましたよ」
「朝倉さんだけれど、朝倉さんではない……ふぅん」
 どうやら俺の言葉は、喜緑さんさえも悩ます難題だったらしい。ため息のように息を漏らして頬杖を突きながら、おおよそ俺では想像もできないような考えを巡らせているに違いない。
「よくわかりません」
 それでも答えは出なかったようだ。そりゃそうだ。
「それはもう少し調べてみましょう。周防九曜が関係しているようなので、その辺りから探りを入れてみます。それとは別に、あなたのことですが」
「俺、ですか」
「です。どうしてご自身が時間遡航されたのか、わかっていないのでしょう? 話を聞く限り、無理やりこの時間平面に連れてこられたような印象を受けました。誰がそんなことをしたんでしょうか」
「それは……」
 時間移動と言えば、朝比奈さんの専売特許だ。あの麗しの上級生から涙ながらのお願いを受けて、俺が何度過去と現在を行き来したことか。
「朝比奈さんだとして、でもあなたに何の説明もなしに、それどころか気を失わせて道路のど真ん中に放置するというのは不可解です。何か理由があるのか、それとも……あなたをこの時間平面に連れてきたのは朝比奈さんではない別の誰か、なのか」
「別の……って」
 朝比奈さん以外で時間移動ができるヤツは……藤原、か? あいつが? 確かにあいつなら、俺を気絶させた挙げ句にこの時間まで連れてきて、道ばたに放置するくらい何の気概もなくやってのけそうだ。
「ただ、それは些細な違いでしかありません。問題なのは『誰?』ではなく『何故?』です。朝比奈さんであれ、別件の未来人さんであれ、理由がわかりません。わかりませんが、あなたがこの時間平面にいることで、何かをさせる……あるいは、しようとしているのでしょう。それはもしかすると、あなたに理由も説明できないようなこと……かもしれませんね」
「……ちょっと待ってください。それってつまり」
 俺に何も語らずにこの時間に連れてきたのは、俺にとって承伏できないようなことをさせるため……ってことか? この時間に俺を連れてきたヤツの目的は、俺がこの時間にいなければならないが俺自身は話を聞けば絶対に拒否するようなことをさせようとしている?
 それは何だ? 俺に何をさせようとしてるんだ?
「それも少し、嫌な感じがする話ですね。もしかすると、わたしとこうして話をしている時点で、相手の思うつぼなのかもしれませんが……そこまで疑ってしまえばキリがありません。ただ、少しの間は身を隠していたほうが無難でしょう」
「え、いやでも」
「先ほど、ここはわたしの家なのかと尋ねられたときに、否定しましたでしょう? そういうこともあってなんですよ」
「……え?」
「あなたが道ばたに倒れていて、わたしがそこに通りかかる。もしそれが、すべて相手の思惑通りなら、あなたが身を隠していても居場所が丸わかりです。だってわたしの家にいることがすでにわかっているんですもの。だからここは、急遽用意した……隠れ家、みたいなものだと思ってください。あら、隠れ家だなんて面白そうな響きですね。わくわくしません?」
 しません、と全力で否定したいところだが、喜緑さんは俺の話を聞く前から、ある程度の先読みをしていたわけだ。だから、こんなところを用意して俺を連れ込んだ。喜緑さんの機転の利かせ方に感謝をすべきなのかもしれん。
 それなら俺はここにいる限り、俺を無理やりこの時間まで連れてきたヤツに見つかることもなく……って、あれ?
「じゃ、じゃあ何ですか? 事が済むまで俺はここに監禁ですか!?」
「嫌ですか? ちゃんとお食事等のお世話はいたしますよ」
 いくら三食昼寝付きとはいえ、引きこもりになるのはゴメンだ。我が身の自由は、断固として確保したい。それに、少なくとも決着は土曜日まで着かないことが実証されている。今日が水曜なら、最低でも四日はここに閉じこめられることになるじゃないか。いくら俺でも発狂するぞ。
「それはそれで楽しそう……いえ、何でもありません。でしたら」
 直前に不謹慎なことを口走ったような気もするが、そんなことはないとばかりに、喜緑さんは長い髪を手で横に流しながら、俺に顔を近付けて来て──。
「っ!?」
 ──俺の首筋に唇を這わせ、あまつさえかぷっと歯を立ててきた。
 時間が止まった。金縛りと言うのはこういうもんなのかと、そんなことを考えて現実逃避をする自分がいる。
 歯を立てられているが痛みもなく、少し……いや、かなりくすぐったい。くすぐったいが、それでも俺は身動きひとつ出来ずにいる。
 どれほどそうされていただろう。間近に見える喜緑さんの細くて白い肩に手を回すのがもしかするとエチケットなのではないかと思い始め、けれどそんな真似をすれば二度と安寧の世の中に立ち戻ることができなくなりそうであり、さてどうしたもんかと考え続けていたせいで時間感覚がほどよく麻痺した頃合いに、喜緑さんは唇を離した。
「あなたの体表面にソフトキルスクリーンを展開させておきました」
「そ、そふと……なんですか?」
「チャフみたいなもの、とお考えください。今、ここにいるあなたの位置情報は、長門さんでも感知できません。ただ、透明人間になるわけではないので、目視で確認されれば意味がありませんよ」
 つまり、喜緑さんは俺の体内にナノマシンを注入してくれたわけだ。これで俺は外を出歩いていても、地球人類の科学レベルではもちろん、宇宙的超パワーを用いても、どこにいるのかわからなくなったってわけだ。
 それは有り難いことだが、なんで首筋なんだ? 長門みたいに腕とかでいいじゃないか。
「先ほど、人を押し倒した人の発言とは思えませんね」
「ですからあれは、」
「それにその場所なら、あなた自身も注意なさるかと思いまして」
 人の言い訳すら聞かず、コロコロと笑い声を転がす喜緑さんは、どうにも判然としないことを言う。
「それとも、本当に腕の方がよろしかったんですか?」
 うふふ、とどこかしら挑発的な微笑をたたえながら自分の唇に指を這わせる喜緑さんを前に、俺は顔を赤くしながら押し黙るしかなかった。