森園生の変心 五章

 佇むその姿を、俺が見間違うはずもない。
 去年の五月、逢魔が時に教室で俺を殺そうとした一件以来、ある種のトラウマになっているあいつの姿は、たとえ後ろ姿をちらりと見ただけでも確信を持って「朝倉だ」と言えるだろう。
 もっとも、その事件の真相はすでにわかっている。
 あの一件はすべて茶番だった。俺に真実を伝えるための、そして長門と俺たちの絆を築くための茶番。それが自分の役割だと、朝比奈さん(大)に協力していた過去の朝倉が、俺にそう告白してくれた。そしてあの黄昏時の教室での一幕が、自分の役目が終わるとき、人で言う寿命が尽きるときとさえ言っていた。
 だから、朝倉は今のこの時代、この世界に存在しない。あいつはそうなることを承知の上で、それで限られた時間の中で残せるものを俺たちに残して消えたんだ。
 なのに、俺の目の前にいるそいつは、朝倉だった。少なくとも、俺の目では朝倉との差異が何も感じられない。
「おまえ……本当に朝倉……か?」
 そう聞かずにはいられない。そこにいるのは確かに朝倉だ。けれど、俺の頭の中ではそれを認められない。信じられない。
 その問いかけを、目の前にいる朝倉自身はどう感じたんだろう。まるで三半規管が狂ってるかのような千鳥足でふらりと揺れたかと思うと──。
「うわっ!」
 その瞬間、森さんに力一杯に突き飛ばされて、俺は尻もちどころか文字通り転がる勢いで縁側の柱に頭をぶつける羽目になった。
「なにす……る……」
 んだ、と、続く言葉が出てこない。そりゃあおまえ、顔を上げた目の前に、束ねればイカダでもできそうな太さのある、槍っぽいものが突き刺さっていれば、力一杯突き飛ばされたことなんてどうでもよくなる。むしろ、怒るどころか感謝さえしたくなるってもんだ。
 もし森さんが突き飛ばしてくれなけりゃ、グロテスクさだけを前面に出したB級ホラーでもかなわないような人体粉砕図が完成していただろう。もちろん、元は俺だったこの体を使ってな。
 それをやったのが誰かなんて言うまでもない。こんな建築物破壊を平然とやってのける常識外のヤツなんて、この場では朝倉以外に誰がいるってんだ。
「朝倉、おまぅえっ!?」
 怒りにまかせて朝倉に顔を向ければ、そこにアイツの姿はない。わずかに視線を上げれば、それなりに距離が空いていたというのに、一足飛びで俺の目前まで飛びかかってきていた。
 片手にナイフを握るおまけ付きで。
「ふっ」
 と聞こえたのは、鋭く吐き出す呼気の音か、はたまた風斬り音がそう聞こえただけなのか、俺にはよくわからないが、今まさにナイフが俺に突き刺さろうかという寸前に、自由落下するギロチンの刃のような森さんの蹴り足が朝倉の背骨辺りを直撃。朝倉は厳密に言えば人じゃないが、それでも人と同じ質量があるであろうその体が、ゴム鞠のように跳ねる。どれほどの勢いで森さんの足が振り下ろされたのか、考えたくはない。
「やり過ぎでしょう、いくらなんでも!」
「彼女を前に、手加減する理由が何もございません」
 それは相手が朝倉だからなのか、それとも万能能力を持っている対有機生命体コンタクト用インターフェースが相手だからなのか、どちらであれ、森さんの判断は正しいと思われる。
 俺なら間違いなく背骨がポッキリ折れているだろう森さんの蹴りを食らってなお、朝倉は何事もなかったかのような無表情でゆらりと起きあがっていた。
 モロに直撃を受けたんじゃなかったのか? 頑丈にも程がある。
「あいつ……いったい何考えてやがるんだ!?」
 最初のことといい、その次といい、どっちも直撃していれば即死コースじゃないか。しかもあの勢い、途中で止めるつもりはまったくなかったに違いない。
 これも何かしらの茶番なのか? それとも、本気で俺を殺そうとしているのか? あいつの真意がまったく読めない。無表情だからなおのこと、何を考えているのかさっぱりだ。
「そもそも、あれは朝倉さんなのでしょうか」
「さっきの攻撃といい、あの見た目といい、朝倉以外に誰がいるってんですか」
「橘京子の言葉をお忘れなく。あれが朝倉さんなのか否か、それはわたしにも判断しかねますが、少なくとも天蓋領域の周防九曜の関与がある、と彼女は匂わせておりました」
 確かに橘はそんなことを言っていたが……つまりあれは朝倉に見えるが朝倉じゃないのか? それともやっぱり朝倉だが、九曜に操られているとでも?
「どちらであれ、彼女に敵意があり、わたしどもに危害を加えようとしていることは間違いありません」
「じゃあどうするんですか。なんとかなるんですか、あれを相手に」
「かつて、朝倉さん自身からTFEIと事を構えることになった際の秘策を聞いております」
 そういえば、森さんは俺が知らないところで過去の朝倉と接点があったんだった。オーパーツ事件のときにウイルスを受け取っているだけ、というわけでもなかったんだろう。それほど親しい間柄ではなく、相互監視の立場だったようだが、それでもそんなことを話す機会があったんだろう。
「どうすりゃいいんですか」
「一人で相手にするときは諦めろ。複数で相手にするときは他を犠牲にして逃げ延びろ……と、申しておりました」
 秘策になってないのは俺の気のせいですかね?
「いえ、とても理にかなったことだと思います。少なくとも、あらゆる事象を『情報』として捉え、改ざんすることができる相手では逃げるしかありません」
「だったら今は……?」
「もちろん、逃げましょう」
 その考えに異論はない。どちらからともなく、少しでも朝倉から離れようと駆けだした──そのとき、周囲が暗転し、目の前に壁が現れた。
 またぞろおかしな異空間か、あるいは朝倉の情報制御空間とやらに引きずり込まれたんだ、とすぐに思い至るのはこれまでの経験があってこそか。ちくしょう、逃げ場なしかよ。
「森さん、ここからどーするんですか!?」
「こうなったときの対処法も、朝倉さんから聞き及んでおります」
 さすがに初めての経験ではないので俺もそこそこ落ち着いていられるが、森さんはいつもと変わらぬ冷淡っぷりだ。しかもこういう状況での対処法も心得ているらしい……が、その情報源が朝倉っていうのが胡散臭い。特にさっきの秘策とやらを聞いた後ではなおさらだ。
「相手の情報制御空間に引きずり込まれたら諦めろ、と」
 結局そういうことかよ。
「ですが、ただ座して最後を待つほど、わたしは達観しておりませんので」
 翻るメイド服のスカート。見てよかったのか悪かったのか、その判断は保留させていただくとしても、太股部分にレッグホルスターを装備しているところを見ると、この人もやはりどこかしら世間様とのズレがあると認識せざるを得ない。
「徹底的に抗わせていただきます」
 その宣言を実行するかのように撃ちだした銃弾は、朝倉が握るナイフの刃をへし折りはじき飛ばした。見事なまでの精密射撃だ。
 刃をへし折られ、グリップ部分だけになったナイフを物憂げにチラ見した朝倉は、サイドスローでボールを投げるように腕を振る。柄の部分を投げつけるつもりか──と思ったが、そうではなかった。
 腕が伸びた。二の腕あたりから指先にかけて眩く光り、鞭のようにしなり地面の上を爆ぜなが迫る。かつて、それは長門の体を貫いたものだ、と嫌な記憶が蘇る。
「うわわわわっ!」
 地面に這いつくばって転がるように逃げる俺を、いったい誰が笑えようか。高速道路を素っ飛ばす軽自動車ばりのスピードで迫るもんを前に、華麗な身のこなしで回避できるのは特撮の変身ヒーローか、森さんくらいだ。
 森さんは、さすがとしかもう言葉が見つからない。俺のように横や後ろに逃げるのではなく、前に出て銃を撃つ。どこを狙ったのかと思えば、まだ朝倉の姿をとどめている本体の肩部分。光の鞭の付け根になってる箇所を撃ち抜けば、鞭の軌道も変わる。
 のたうつように暴れる光の鞭の中をかいくぐり、森さんは朝倉に接近。銃口が密着するまでの距離まで詰めて、頭と胸に一発ずつ撃ち込めば、朝倉の体は大きく吹き飛んで倒れた。
「やっ……た……」
 のか? けれど周囲の景色は元に戻らず、周囲は幾何学模様に覆われた異常空間のままだ。
 ここが朝倉の……ええっと、情報制御空間とやらなら、あいつが倒れれば元に戻るはず。そうならないということは、つまり──。
「森さん!」
 わざわざ叫ばずとも、俺が気付いたことなら森さんだったらとっくに察しているはずだ。察していてもなお、対応しきれないこともある。
 ぐにゃりと歪む空間は圧縮されているようにも見える、と思った瞬間には、森さんを目がけて頭上から無数の槍が降り注いだ。
 樹氷のように数十本の槍が地面に突き刺さり、もうもうと煙を舞い上がらせた。肝心の森さんはどうなった? 朝倉は? とにかく、もしあの突き刺さってる槍の真下に森さんがいるのなら、無事で済むはずがない。
 胸の内に絶望的な気分が広がる中、舞い上がる煙が晴れてゆく。その中で、俺は見た。
 何を?
 無事だった森さんと、そしてもう一人。
「な……長門!?」
 何故、とか、どうして、など、そんな考えばかりが脳裏を過ぎる。けれど長門は俺をちらりとも見ようとせず、かといって森さんを見るでもなく、その冷ややかな眼差しは朝倉に向けられていた。
「あなたは誰」
 それが、長門の第一声だった。誰も何も、そこにいるのは朝倉……じゃ、ないのか? 見た目は同じでも、そこにいるのは朝倉じゃないってことか?
「彼女を真似る、あなたは誰?」
 再度問いかけるその声は、いつにも増して平坦かつ無感情の声音だった。
 ああ、これは怒ってるな──と、俺は達観の境地で茫洋と判断した。
 別に何かがいつもと違うわけではない。口調も変わらなければ、表情もそのままだ。けれど、小柄なセーラー服姿から放たれる気配というか空気というか、そういうものは限りなく重い。気配というものに重力があるのなら、ブラックホールのひとつやふたつ、早々に作り出しちまってるような気さえする。
 そんな風に感じる長門の気配を、ここにいる他の連中はどう察しただろう。とりあえず森さんは長門から離れている。賢明な判断だと思う。
 そして朝倉は……まるで空気が読めていなかった。
 あの長門を前に、どうして手出ししようなどと考えるのかまるでわからん。獲物を狙う蛇のようなしなりを見せて、光の鞭が長門を襲う。
 ばちん、どころじゃない。猛スピードで走っているトラックが壁に激突したような、腹に響く重低音が響き渡った。
 モロに長門を直撃した朝倉の攻撃は……けれど何事もなかったかのように、微動だにせず片手で受け止められていた。
「対象アンノウの敵対行動を確認。当該対象への物理的殲滅および構成情報根絶を──」
 ぺきん、とか、こきっ、など、冗談みたいな音が聞こえた。その途端、押さえる朝倉の光の鞭は、長門が触れている部分から光の粒子となって霧散し始める。
「──開始する」
 その言葉の意味に、それ以上も以下もない。相手に告げる宣言でも自分に対する言葉でもなく、その発言が世界の在り方を決めるかのようだ。
 それを危険と感じたのか、朝倉はバックステップで後ろに飛び退くが、詰める長門の動きはそれの倍速い。一瞬で間合いを詰めて、朝倉の顔を鷲づかみにするや否や、地面がめり込むほどの勢いで叩きつけた。
 いきなり、周囲の景色が幾何学模様が漂う異常空間から、高級料亭でありがちな日本庭園に戻った。さっきまでの空間が朝倉の情報制御空間とやらなら、それが元に戻ったってことは、長門の一撃で無力化されたってことなんだろうか。
 よくわからんが、少なくともまだ朝倉は実体をとどめている。が、長門は自分の口で「当該対象への物理的殲滅」などと過激なことこの上ない台詞を口にしていたわけだから、徹底的にやるつもりだろう。
「お、おい長門」
 そこにいるのが朝倉なのかどうなのか、俺にはわからない。偽物である可能性の方こそ高そうだが、それでも目の前で再び朝倉が消える姿を見るのは……どうにも気分がいいもんじゃない。
 そもそも、仮に消しちまうことになるとしても、その前に確認しておかなくちゃならないことがあるじゃないか。
「そいつはいったい何者なんだ? 朝倉じゃないのか? だいたい、なんでおまえがここに、」
「いえいえ、それは朝倉さんですよ」
 答えた声は長門ではない。森さんなんかは反射的に声が聞こえた方へ銃を向けてしまったようだが、その人を相手に拳銃一丁で立ち向かえるとは到底思えない。
「喜緑さん……」
「こんにちは。いろいろおっしゃりたいことも、わたしから言いたいことも多々ございますが、今はひとまず……」
 そのとき、喜緑さんが何かしたわけでも、何かやろうと動いたわけでもない。にもかかわらず、長門には何か察するところがあったんだろう。押さえつけていた朝倉から弾かれたように飛び退いた。
「賢明です、長門さん」
「説明を求める」
 喜緑さんを見据えてそう言う長門の言葉に、俺も激しく同意したい。いったいどういうことなのか、はっきりさせてくれ。
「説明と言われましても、あまり多くを語る言葉は持ち合わせておりません。正確性を問うのであれば、彼女は朝倉さんであって朝倉さんではない、と言うところでしょうか。それよりも」
 と、喜緑さんの視線は何故か俺に向けられた。
「数日前にわたしが言ったこと、覚えていますか?」
「え?」
「あなたは何故、ここにいらっしゃるんですか? それよりも、向かわなければならない所があるんじゃないでしょうか」
「何を、」
 言いかけて、俺ははたと思い出した。一昨日くらいの朝にふらりと声を掛けてきた喜緑さんが、まるで要領の得ない、けれどひとつだけはっきりしたことを言っていた。
「鶴屋さんに何かしようとしてるんじゃないでしょうね。喜緑さんは、いったい何を知ってるんですか」
「いえいえ、滅相もない。最初に言ったじゃありませんか。わたしも巻き込まれて、ほとほと迷惑しております、と」
 巻き込まれただって? いったい誰だ、この人を巻き込んだ考えなしは!?
「それはもちろん、あなたですよ」
 冗談じゃない。俺が何をしたって言うんだ。どんなことであれ、わざわざ好きこのんで喜緑さんを巻き込もうだなんてするもんか。
「そう言っていられるのも今だけ……かもしれませんね。それより、いつまでもここにいてよろしいんですか? 向こうも向こうで、大変なことになっているかもしれませんよ」
 その言葉に、真っ先に反応したのは森さんだった。戸惑いもなく身を翻し、躊躇いもなく奥へ向かって走り出す。向かうのはもちろん鶴屋さんのところだろう。
 その判断の速さはさすがとしか言いようがない。喜緑さんまで出張ってきたこの状況はまさに混乱の一言で十分に事足りることかもしれないが、森さんにとって鶴屋さんの結納に関わらないことであれば無視しても構わない出来事、と考えたのかもしれない。
 だが俺にとっちゃそうならない。もちろん、鶴屋さんのことがまるで気にならないわけではないし、そっちも重要な懸案事項だ。それと同じくらい、この宇宙人トリオが揃っている現状は緊急事態なんだ。
「行って」
 どっちつかずのままでいる俺の背中を押したのは、いつもと変わらぬ長門の淡々とした声音だった。
「ここは、わたしが居なければならない場所。あなたは、あなたが居るべき場所へ向かうべき」
「いや、でもな」
「行って」
 今なお躊躇う俺の背中を、長門の言葉が再度押す。重ねて同じことを言われては、もはや従うしかない。
「あとでしっかり説明してもらうからな。できるだけ穏便な方法で事を収めてくれよ」
「善処する」
 そこは「わかった」と答えて欲しかったところだが、そんなことを口にしている暇もない。俺は先に鶴屋さんのところへ向かったであろう森さんの後を追って、その場を離れた。
 後にして思えば、上手いように厄介払いされたんだと思う。どっちに、などと聞くまでもないだろう。もちろん、喜緑さんにだ。
 違和感なら、ずっと感じている。長門が現れたこともそうだが、何より喜緑さんの腹の底が読めない。
 二人がどうしてここに現れたのか、その理由はわからない。だが、長門はあの朝倉を前にして「誰だ」と問いかけていた。
 長門は、あの朝倉の気配……と言っていいのかわからんが、そういうものを察してここに駆けつけたんじゃないか? つまり、結果的にここへたどり着いただけであり、何が起きているのかまでは理解していないのかもしれない。
 だが、喜緑さんはそうじゃない。あの朝倉を前に、その正体を知っているような素振りを見せ、とどめを刺そうとする長門を止めるような真似さえしてみせた。とすれば、喜緑さんはここに朝倉が現れて、長門とやり合うことを知っていたのかもしれない。
 だとすれば、昨日だったか一昨日の登校途中に俺を呼び止めて口にした言葉も、このための布石じゃないのかと思えてくる。
 確かに鶴屋さんのことは大事だ。今の俺の立場で言ってもそうだし、それを抜きにしたって万が一にケガをするような事態に巻き込むわけにはいかない。そういう意味では喜緑さんが言うように、俺は何を置いても鶴屋さんのことを第一に考えて動くべきだ。
 けれど、そういう考え方に俺の思考回路が働いているのは、数日前の喜緑さんの言葉があってこそ、かもしれない。
 あのときのあの言葉がなかったとして、朝倉に襲われて長門が現れ、さらに喜緑さんまで馳せ参じる状況を前に、その場を離れようとしただろうか。
 俺は一人しかいないわけだから、同時多発で何かが起きているとすれば、意識的にしろ無意識にしろ優先順位を付けざるを得ない。鶴屋さんの身の安全も大事だが、宇宙人トリオの行動も一大事だ。どちらを取るのかと聞かれれば……状況的に宇宙人トリオの方か。
 そもそも、状況が納得できないとはいえ、ここには古泉や森さん等の『機関』メンバーがいる。その時点で、どれほど危険な出来事が迫っていようと、鶴屋さんには擦過傷のひとつも付かないはずだ。
 だとすれば、やはり俺はさっきの場所から離れるべきじゃなかったのかもしれない。
 そう考えれば考えるほどに先を急ぐ足取りは鈍くなった。
 やっぱり戻るべきだ。まだ鶴屋さんの方は『機関』メンバーがいるから何とかなるが、宇宙人トリオの方は状況がどんな方向に転ぶか未知数すぎる。
 腹を決めた俺は、来た道を引き返そうと方向転換したその瞬間。
「ひゃわわっ!」
 廊下の角をかなりのスピードで走り込んできた人影が、黄色い悲鳴を上げてたたらを踏む。妙なことが起きているとは言え、こんな料亭の廊下をそれなりのスピードで走り、おまけに足音も響かせずに走るヤツがどこの誰かと言えば──。
「たっ、橘!?」
「もぅっ! そんなところで突っ立っていて、危ないじゃないですか!」
 驚く俺を後目に、立ち会い様に怒鳴られた。料亭の廊下を全力疾走に近いスピードで走っていたヤツにどうして怒られなくちゃならないのかと、それだけで理不尽な話だと思うわけだが、それ以上に橘が背負っているものは何だと問い詰めたい。
「どうしておまえが鶴屋さんを背負ってんだ!」
 橘の背中にいる鶴屋さんは、いつぞやの朝比奈さんと同じようにぐったりとしていた。また妙な薬でも使ったのか、俺が怒鳴りつけても鶴屋さんは目を覚まさない。
「いやその、ほら。えーっと、今は何かこう、妙なことが起きてるじゃありませんか。あなたも見たのでしょう? あの朝倉涼子を」
「おまえが言ってたのは、やっぱりあの朝倉のことか。てことは、あの朝倉には九曜が関わってるんだな? いったい何をやったんだ!?」
「ですから、あたしも、あたしの組織も一切関わりのないことなのですよ。あの朝倉涼子について情報が欲しいのは、あたしも一緒なのです」
「そんな話が信じられるか!」
 だいたい、今回は何もしないとか言っておきながら、だったらどうして料亭内に入り込んで鶴屋さんを背負っている!? その時点でおかしいだろ、誰がどう考えても明らかに!
「いえいえ、本当に何かをしようとは思っていなかったんですよ、さっきまで。でもほら、状況がほどよく混乱しているじゃありませんか。この気を逃すのはもったいないと思いまして」
「そんな言い訳が通用すると思ってんのか!」
「いえ、まったく」
 しれっとした態度で言い放つ橘を前に、俺の堪忍袋もそろそろ限界のようだ。佐々木の手前、橘がやることに我慢と忍耐を重ねてきたが、ものには限度ってもんがある。その手前までなら言葉でなんとか言い聞かそうと努力もするが、臨界点を超えることになれば実力行使もやむを得まい。相手が女であってもだ。
「いいからとっとと鶴屋さんを離せっ!」
「ひゃわわわわっ!」
 力尽くで鶴屋さんを奪い取ろうとした俺だが、橘は追い立てられる猫のような俊敏さで俺の手をかいくぐって見せた。鶴屋さんを背負っているというのに、なんて身軽なヤツだ。
「待ちやがれ!」
「暴力には反対なのです!」
 そんなことを喚いて逃げ出す橘を、俺は全速力で追いかける。なんだかんだと言って、あいつもやはり只者ではないってことか。鶴屋さんを背負っているというハンデがあるにもかかわらず、全速力で追いかける俺と大差ない勢いで逃げている。
 追いつけるのかどうかわからんが、それでもこの料亭から外に出すわけにはいかない。外に出られてしまえば、捕まえるのはもとより、追いかけるのも困難になりそうだ。外であいつの仲間が車でも用意していたら、打つ手がない。
 なんとしてでもここで捕まえてやる。
「いいじゃないですか、ここで見逃してください。何も営利目的の誘拐ってわけではないのですよ? 夜にはちゃんとご自宅までお届けしますから」
「やかましい!」
 一時間だろうが一日だろうが一ヶ月だろうが一年だろうが、誘拐は誘拐だ。時間が短ければ許されると思うな。だいたい、おまえに鶴屋さんを任せる意味がわからん。
 ただ、そうは言っても全速力で逃げる橘に追いつける自信はない。この料亭の構造がどうなってるのかはっきり覚えちゃいないが、そこの角を曲がればすぐ外に出られるはずだ。
 追いつけないと思う諦めの考えが脳裏を過ぎるが、それでも立ち止まるわけにはいかない。最後まで追い掛けようと角を曲がれば──。
「うわっ!」
 立ち止まっていた橘に追突しそうになった。
 逃げられないと思って観念した……というのは、あながち間違った認識じゃない。ただそれが、追い掛けている俺から逃げられないと観念したのではなく、橘が料亭からの脱出ルートとして考えていた出口の前に立つそいつのせいで、立ち止まっただけのことだ。
「ここまで追い立ててくださって、ありがとうございます」
「……古泉……」
 この混乱した状況の最中、姿を見せないと思っていたら橘の脱出ルートで網を張っていたらしい。どこかしら冷ややかさを感じる笑みを浮かべて、出口を塞ぐように立っていた。
「外で控えていたあなたの仲間は、新川さんをはじめとする僕の仲間が押さえています。ここから外に逃げおおせたとしても、逃走ルートはないとお考えください。不毛な追い掛けっこはここまでにしませんか?」
 状況を見て取り、すでに古泉は橘よりも先手を取っていたらしい。そういう真似ができるくせに、どうしてボードゲームじゃ弱いんだ、こいつは。
「うぐぐぐぐ……っ」
 さすがにこの状況になれば、橘も観念するしかない。喉を鳴らして唸っているが、為す術がないのは見ての通りだ。事実、背後から迫っていた俺は、橘の肩をあっさりと掴むこともできた。
「おまえ、鶴屋さんに傷とか付けちゃいないだろうな」
「あ、当たり前です、そんなこと……」
 ま、そりゃそうだ。かすり傷のひとつでも付けていたら、いくら何でもただじゃ済まさないところだ。
「なら、とっとと鶴屋さんを引き渡せ」
 そう言えば、橘は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべつつも、素直に俺へ鶴屋さんを引き渡した。
 いつぞやの朝比奈さんのように、小さく息をする音と規則正しく上下する胸が、ただ眠らされているだけだろうということを教えてくれる。着ているドレスもどこかしら破けているわけでもなく、少なくとも鶴屋さんにかすり傷ひとつ付けていないという台詞だけは信用してもよさそうだ。
「ご苦労様です」
 俺が鶴屋さんの安否を確認していると、古泉が声をかけてきた。
「あとは僕の方で事後処理を致しますので、鶴屋さんをこちらに」
「……あのな、古泉」
 どうやら古泉は大いに勘違いしているようだ。ここいらでハッキリと言っておかなくちゃならないらしい。
「橘に鶴屋さんを連れて行かせるつもりはないが、おまえにだって渡すつもりはないぞ」
「……どういうことでしょう」
「どういうことだと? んなもん、考えなくてもわかるだろ。俺はおまえと鶴屋さんが結婚するなんてことは認められない。だいたい、この話の裏は知ってるのか? 『機関』の資金確保のために身売りされてんだぞ、おまえは!」
「ああ、その話ですか。さすがに当事者でもある僕は知っていますよ。森さんたちは知らなかったのかもしれませんが」
 知って……た? 知ってたのか、古泉は。知った上で、今回の話に乗ってきたのか。
「身売りと言われれば聞こえは悪いですが、僕も承知の上での縁談です。となれば、あなたが如何に今回の話が気に入らなくとも、口を挟む余地はない……とは思いませんか?」
「つまり……おまえは自分の意思で、鶴屋さんとの結婚を決めたんだな?」
「ええ。僕が鶴屋さんと結ばれることで『機関』は確実な資金源を確保できます。それはあなたにとっても重要かつ必要なことじゃありませんか。仮に、涼宮さんの能力安定あるいは消失前に『機関』が消えてしまうようなことになれば、涼宮さんは自身の能力に潰されてしまうことに為りかねません」
「ハルヒのためだと言いたいのか、おまえは」
「そう捉えていただいて構いません」
 そうか、やっぱりそうか。結局のところ、行き着くところはハルヒなのか。ハルヒのために、古泉は鶴屋さんとの結婚を承諾したってことで間違いないのか。
「ふざけるのも大概にしとけ」
 俺がなんでおまえと鶴屋さんの結婚に納得してないのか、その理由がまだわからないのか? 本当にそれがわからないのか?
「おまえ、今のその台詞をそっくりそのままハルヒに言えるか? あいつにはあれこれ隠しておかなくちゃならないことがあるから、もちろんそのまま言えるわけもない。それでも、鶴屋さんと結婚するのはハルヒのせいだ、ってニュアンスの話になる。それを言えるのか?」
 古泉と鶴屋さんが結婚するってことになれば、そりゃ『機関』は安泰だろうな。少なくとも、ハルヒの能力が消えるか安定するか、それまで活動できる資金面での体力は付くだろうさ。
「俺は別に、おまえが『機関』に利用されていようが鶴屋さんが誰と結婚しようが関係ない。本音で言えばな。が、その言い訳にハルヒを利用するのは許せない。何が『ハルヒのため』だ。何でもかんでもあいつのせいにするなよ。あいつが何も知らないのをいいことに、好き勝手に利用しようとするおまえらの態度が気にくわない」
「お言葉を返すようですが」
 俺の言葉に古泉は笑顔を引っ込め、反論してきやがった。
「何も涼宮さんを利用するつもりはありません。少なくとも僕にそんな考えはない。ただ、『機関』が立ちゆかなくなれば閉鎖空間で暴れる《神人》を狩ることができなくなる。そうなればこの世界がどうなるか……あなたにも説明したはずですが」
「だからどうした。それで世界がひっくり返るようなことになるなら、そうなっちまえ。消えるなら消えた方がマシだ。誰かが誰かを利用しなけりゃ立ちゆかない世界の方がどうかしてる。ハルヒが世界を作り替えるようなことになっても、そんな世界よりマシなもんにしてくれるさ」
 あいつの能天気な思考回路で作られた世界は、そりゃもう今の世の中とは似ても似つかないようなふざけたもんになりそうだが、少なくとも何かが起きたときの責任は自分で取るような世界になるさ。あいつ自身がそうなんだ。
 頭が痛くなるような厄介事を引き起こして俺たちを巻き込む困った団長だが、それでもハルヒは自分が自覚してやったことなら自分で責任を取ってるだろ。俺たちがあれこれフォローしちゃいるが、それでもあいつは自分がしでかしたことを誰かのせいにしたりはしない。
 そのことを、今まで俺と一緒にハルヒの側にいたおまえが知らないとは言わせない。
「意外なほどに潔癖ですね」
 古泉は軽く鼻を鳴らすように嘆息してみせた。
「ですが、だからと言って鶴屋さんを連れさらわれるわけにもいきません。我々にもメンツというものがあります。あなたがどう思っていようとも、今はひとまず鶴屋さんを引き渡してください」
「……ああ、そうかい」
 結局、話は平行線かよ。人のことを潔癖とか言うが、だったら俺はおまえがそこまで頑固だとは思わなかった。ハルヒより意固地な性格じゃねぇか。
 こうなったら、力尽くでも古泉を退けるしかないのか? そういう真似はしたくないし、出来るとも思っちゃいないんだが、そうするしかなさそうだ。
「そこまでです」
 そんなことを考えていれば、割り込んで来たその声を耳にして、俺は更なる窮地に追い込まれたことを知る。
 森さんが、ここに現れたからだ。
「話は聞かせていただきました。双方、それまでです」
 俺の背後から現れた森さんは、真っ直ぐに俺を見つめている。正面には古泉がいる。さっきの橘じゃないが、状況的には今度は俺が挟まれた格好になった。
 このまま強引に突破するにも、古泉と森さんの二人をなんとかしなけりゃならない。そして俺には、この二人を何とかできるだけの腕っ節も機転もないと来ている。救いも何もありゃしない完全無欠の絶望的状況なのは、今さら言うまでもないことだろう。
 為す術がなく、ただ立ちつくすだけの俺とは対照的に、迷いのない確かな足取りで森さんは俺との距離を詰めてくる。蛇に睨まれたカエルの心境とは、今の俺の精神状態を表せばイコールで結ばれるものだと思われる。だから、近付いた森さんが手を差し出して来たときに、体が一瞬ビクついたとしても、それは自然な反応じゃないか。
「お嬢様はご無事ですか?」
 伸ばした森さんの手は、けれど俺にではなく、俺が抱える鶴屋さんの頬に添えられていた。
「え? ええ、それは……えーっと」
「当たり前です。その方には傷ひとつ付けてません」
 俺が返答に詰まっていると、横から橘が語気を荒く断言した。
「今はその言葉を信用いたしましょう。では、お嬢様を」
「鶴屋さんは渡せない」
 森さんの言葉を遮って、俺は先手を打った。これまで散々助けてくれたり手を貸したりしてくれたが、今回ばかりは期待できない。何より森さんは古泉と同じ『機関』の人間であり、明言したわけではないが、『機関』の中では古泉よりも上の立場にいる人かもしれないじゃないか。
 今回の出来事の裏側を知らなかったのだとしても、知った今でも、貫くスタンスは変わらない……と、思っていた。
「その考えに揺るぎはありませんか」
「森さんや『機関』の人たちには感謝はしてますよ。今まで散々助けられたことは、いくら俺でも忘れちゃいません。でも、今回ばかりは譲れない。ハルヒを守ることと、それを口実に好き勝手やることは別物だ。そこへ鶴屋さんや古泉まで巻き込んで利用するなんて、冗談じゃない」
「そうですか……では、お嬢様のことはあなたにお任せいたしましょう」
「……え?」
 任せる……って、どういうことだ?
 まったく理解できずにいれば、森さんは差し伸べていた手を引いて立ち上がり、古泉に向き直った。
「見ての通り、お嬢様は心神喪失にあります。私どもと致しましては、このままお嬢様を野ざらしのままにしておけません。本日はこれで失礼させていただきたく思います」
「……どういうことでしょう」
 古泉がそう問いかけるのも頷ける。つーか俺もわからん。どうして森さんが古泉相手にそんなことを言うんだ? それじゃまるで、ここから俺が鶴屋さんを連れて帰るのを手助けすると言ってるようなもんじゃないか。
「言葉通りの意味と受け取っていただいて構いません。……古泉、すべてこれまでです。そこを退きなさい」
「それではまるで、僕ではなく彼に味方すると聞こえますね」
 前髪を弄びながら、平時と変わらぬ笑みを絶やさない古泉の意見には、俺も同意したい。そもそも今の発言以前に、森さんだったら俺を力尽くで押さえつけて鶴屋さんから引き離すことだって出来たはずだ。
 それをしなかったという時点で、森さんは古泉ではなく俺を……助けてくれているのか? でも、いったい何故? どうして今になってそんなことを?
「これ以上は義に反します。そもそも、『機関』と鶴屋家の間で取り交わされているルールは互いに不干渉の立場を貫くこと。にもかかわらず、こうも深く関わり合い、あまつさえ賊にお嬢様の身柄を、一時的とは言え賊に拘束されているのです」
「賊とはなんですか!」
 脊髄反射のレベルで喰ってかかる橘だが、おまえはとりあえず黙ってろ。
「今はこうして無事でいるとしても、その時点でわたしたちのメンツなど潰されたも同然でしょう」
「それは森さん個人の意見でしかありません。確かに当初のルールはそうだったかもしれませんが、ルールの改訂など、どこの世界でも充分にあり得ることです。そもそも、この結納は『機関』の存続にも関わることですよ」
「かもしれません。ですが……」
 溜息を漏らすように息を吐いて、森さんは視線を流すように動かして俺をちらりと目に留めた。
「古泉、忘れてはなりません。わたしたちの役目は『機関』を存続させることではなく、涼宮さんの能力を押さえるために《神人》を狩り、時に涼宮さん自身に迫る脅威を未然に防ぐことです。『機関』があるからわたしたちがいるのではなく、わたしたちがいるからこそ『機関』があるのです。そして何より、もし『機関』がなくなるようなことになるのであれば、それこそ涼宮さんが望んだからだと覚悟を決めるべきです」
「……本気ですか」
 古泉はこれ見よがしに盛大なため息を吐いた。
「とても森さんの言葉とは思えませんね」
「わたしも忘れていた気持ちです。それを……思い出させていただきました。ですからわたしは、わたしが信じる道を行きます」
「彼のおかげ、ですか」
「ええ」
「なるほど……その信頼の一部でも僕にも向けてもらいたいものです。しかし森さん、その言葉は『機関』に対する裏切り……と、言うようにも受け取れます」
「裏切り?」
 古泉の言葉に、森さんは口の端をわずかに持ち上げて、壮麗さと凄烈さを掛け合わせたような笑みを浮かべた。
「今のわたしは鶴屋家のメイド。お嬢様の身を第一に考えるわたしを前に、よくもそのようなことが言えるものね」
 これはまずい、と本気で思った。うまく言葉で表現できないが、このままでは取り返しのつかないことになると、理屈ではなく本能の部分で俺は感じ取った。
 ここで森さんが古泉を退けてくれると言うのであれば、俺にとっても願ったりな話だ。
 しかしそんなことをすれば、森さんの『機関』内での立場が危うくなる。今はそれでいいと考えているのかもしれないが、それでも森さんのような人が『機関』からいなくなるのは、絶対にあっちゃならないことだ。
「白熱した議論を戦わせているところに申し訳ないが」
 古泉と森さんの間に、まさに一触即発という空気が漂っているところへ声を掛けられるのは、よっぽど空気が読めない能天気なヤツか、あるいは何事にも動じない腹が据わった剛胆なヤツのどちらかだろう。少なくとも、俺は今のこの状況で何か閃いても口を挟むことはできない。
「先に僕の用事を済ませてもいいかな?」
 俺にできないことをさらりとやってのけるそいつは、俺個人の認識として『腹の据わったヤツ』だと言える。
「さっ……佐々木さん!?」
 その名を口に出来ないほど俺は驚きで言葉を失っていたのだが、橘にしてみればそうではないらしい。佐々木の名を口にしたのも、そこにいるのが本当に佐々木なのかと自分に言い聞かせる意味合いがあったのかもしれない。
「どどどど、どうしてこちらにいらっしゃるんですか!?」
「どうして? それはむしろ、僕が言うべき言葉だと思うのだけれどね。橘さんの方こそ、どうしてここにいるんだい? 万人が納得する理由を、理路整然に説明してもらいたいものだよ。と言っても、その理由はすでに聞いているのだが……」
 努めて冷静さを装っている佐々木だが、組んでいる腕の指先は、まるで自分の心拍数を表しているかのように一定の間隔を刻んでいる。そのスピードが結構な速さなのだが、それはそれだけ怒ってると判断していいんだろうか。
「僕に何か言うことはないかな、橘さん」
「ご……ごご……ごめんなさい……」
 佐々木の冷ややかな眼差しを前に、橘は端から見ている分には面白いほどガタガタ震えて、声を絞り出すように謝罪の言葉を口にした。こいつはなんだ、佐々木にこれまでどんな仕打ちを受けてきたのだろうかと、考えるのも恐ろしい。
「まったく……。キョン、申し訳ない。電話ではあれだけ格好を付けてみたというのに、結果はこのザマだ。申し開きもない」
「いや、それはいいが……でも何でおまえがここに? 橘を捜してたどり着いたにしても無理があるぞ」
「言っただろう、話を聞いたからさ。ここで橘が面倒を引き起こすから引き取りに行け、とね。キミと仲がいい、未来人の彼から」
 未来人……の、彼? 朝比奈さんじゃなくて、それはもしや藤原のことか? あいつと仲がいいと言われるのは心外だ。俺の態度を見てそう思ったのなら、今すぐ眼科に行くことをオススメする。
「考えておくよ。ともかく、橘さんへのお仕置きは僕に任せてもらいたい」
「それはできません」
 橘を引き取ってくれるなら佐々木の申し出に否を唱える気なんぞないのだが、森さんはそうではなかった。
「彼女には、まだ聞かねばならないことがあります。何より、この事態を引き起こした責任を取らねばなりません」
「責任……なるほど、おっしゃることはもっともです。では、橘さんが負うべき責任は、僕が果たしましょう」
「えっ? ちょっ、あの佐々木さん」
 俺はもちろん、橘も佐々木がそんなことを言い出すとは思っていなかったらしい。顔色を変えて佐々木を引き留めようとするが、逆に佐々木の方が橘を手で制した。
「ただし、その責任とは有り体の謝罪ではなく、真実を以て謝罪とさせていただきたい」
 真実? 真実ってなんだ?
 佐々木は、森さんから古泉に視線を移動させた。
「古泉さん」
「……なんでしょう」
 名を呼ばれた古泉は、表情にこそ微笑を浮かべているものの、その声音はどこも笑っちゃいなかった。
「今日のこの縁談、すでに破談しているんじゃないかな?」
「えっ?」
 破談……してる? なんでそんなことが言えるんだ。そもそも佐々木は、何をどこまで知ってるんだ?
「キミたちのやりとりはね、途中からだが聞かせてもらった。キョン、キミが確か……そうそう『俺はおまえと鶴屋さんが結婚するなんてことは認められない』と言った下り辺りからかな。かなりエキサイトしているようなので、顔を出すのもはばかれたよ。結果、おおよそここで何が行われたのか把握はできたけれどね」
 そんなときから陰に隠れて聞き耳を立ててたのか……って、いや待て。それでも、そこからのやりとりで、どうすれば古泉と鶴屋さんの結納が破談しているなんて言えるんだ?
「キョン、言葉というものは良くも悪くも心を映す鏡だ。時に屈折し歪ませることもあるが、逆に隠そうとする本心を表に映し出すこともある。多弁になればなるほど、それは顕著だ。例えば……そう、古泉さんが『その信頼の一部でも僕にも向けてもらいたい』と口にしたようにね。それはどういう意図があってのことかな?」
「さて……」
 古泉は言葉数も少なく惚けるが、佐々木は意に介した風もなく口を開く。
「キョンと森さんの意見は『鶴屋さんは渡せない、二人の結婚は認められない』というものだ。要約すればね。古泉さん、キミの意見はその真逆のものだと僕は把握している。となれば、そこでキミが二人から信頼を得られることなど皆無に等しい。何故なら、信頼とは文字通り、相手を信じて頼ることだからだ。平行線を辿るキミらの間に、そういう関係性が成り立つはずもない。何しろ今の状況では、キミは二人から頼られる立場とは真逆に位置するからね。古泉さんが言葉の意味もわからずに使っているのなら話は別だが、把握した上で『信頼してほしい』と言うのであれば、それはキョンと森さんの意見を受け入れていることになる。つまり、古泉さんと鶴屋さんの結婚はあり得ない……違うかい?」
 佐々木の長口上に、俺は舌を巻くしかない。よくも相手の些細な一言からそこまで考えを巡らせることができるもんだ。しかもそれが、一笑に伏せるには難しい納得できる意見なのが手に負えない。
「……まさか、ふらりと現れたあなたに看破されるとは思いも寄りませんでした。おっしゃるとおりです」
 しばしの沈黙の後、古泉は肩をすくめて佐々木の言葉を認めやがった。
「元から無理のある話だったのですよ、今回の縁談はね。鶴屋さんは聡明な方です。そして、何も知らずとも何かを察する目を持っている方です。僕が結婚相手とわかるや否や、頭を下げられてしまいましたよ。古泉くんじゃ無理だよ、と」
「おまえ……だったら何で先にそれを言わないんだ。そうすりゃ、」
「理由は二つあります」
 怒鳴りかけた俺を牽制するように、古泉は指を二本立てて見せた。
「ひとつは僕が『機関』に属する人間だからです。今回の縁談は、『機関』としては成功させたいものです。僕や鶴屋さん個人の考えは別であったとしても、『機関』の古泉一樹としては簡単に引き下がるわけにはいかなかった。多少なりとも食い下がるスタンスを示しておかなければ、最終的に破談となったとしても言い訳ができません」
 それは……まぁ、確かにそうかもしれないが。
「もう一つは、鶴屋さんとの話がまだ途中だったからです。事は複雑です。一般の結納であれば話は別ですが、あらゆる思惑が入り乱れている今回の話では、明確な理由が必要になります。『なんとなく』では誰も納得しないのですよ。ですから鶴屋さんの口から真意を語る必要がある。ですがその前に……邪魔が入ってしまいましたけどね」
 古泉がちらりと橘を睨めば、橘は佐々木の影にささっと隠れた。
「つまり、そういう理由があって鶴屋さんを連れ出させるわけにはいかなかったんです」
「古泉……」
 黙って話を聞いていた森さんは、古泉の言葉をどう受け取ったんだろう。何かを思うように目を閉じて息を吸い、深いため息を吐いて肩の力を緩めた。
「すべてを一人で背負おうとするのはやめなさい」
「……わかりました」
 森さんの短い一言に、古泉はただ素直に頷いた。そのやりとりだけですべてを水に流せるだけの繋がりが、この二人には元からあるらしい。
 が、俺はそうじゃないぞ。
 どうして最初からちゃんと言ってくれなかったんだ。古泉には『機関』に対するスタンスを見せる必要があったとはいえ、俺は『機関』とは関わりのない人間なんだ。森さんにすべてを語れずとも、俺くらいには全部話してくれていてもよかったじゃないか。
「とは言うがね、キョン。問題はキミの方にこそあると思うよ」
 憤慨している俺を前に、佐々木が肩をすくめながらそんなことを言いやがった。まるで俺が悪いみたいな言い方はどういう了見だ。
「キミがほどよく頭に血を昇らせていたからさ。もう少し冷静であればね、ふらりと現れた僕でさえ気付いたことに、キミや森さんが気付かないわけがない」
「森さんはともかく、俺はおまえほど鋭くはないんだよ」
「なるほど」
 喉を鳴らして声を含ませる佐々木は、笑い声以外の別のものも含ませているようにほくそ笑む。何が言いたい。
「いや、別に。それよりも」
 笑顔を引っ込めた佐々木は、自分の背後でコソコソしていた橘に改めて顔を向けた。
「橘さん、九曜さんはどこにいるのかな?」
 九曜? そうだ、九曜だ。こっちの話ですっかり忘れていたが、まだもうひとつ厄介事は残っていた。
 宇宙人トリオはどうしてる? そこに九曜の姿はなかったが、かといって、あの朝倉には九曜の影が絡んでいることを橘は暗に示していた。いったいどういう関わりだ?
「や、ですからそれについてはまったく知らないのです。天地神明、佐々木さんに誓ってそれは事実であり真実なのです」
「では、言い方を変えよう。橘さん、あなたは何を知っているの? 何を見たんだ」
「え、えーっと……九曜さんと朝倉涼子が一緒にいるところ、です……」
 佐々木に睨まれ、森さんが冷ややかに見つめ、古泉や俺にも直視されれば、さすがに橘も観念したらしい。脂汗を流しながら、あっさりと口を割った。割ったのはいいが、なんだって? 朝倉と九曜が一緒にいただと!?
「どういうことだ」
「知りませんよ、そこまでは。むしろ、そのことを知りたいのはあたしの方なのです。朝倉涼子のことはあたしも知っています。九曜さんとは別の、ある種、敵対していると言っても過言ではない宇宙人さんじゃありませんか。そんな方と、ですよ? 九曜さんが一緒にいたということは、誰だって何かあると思うじゃないですか。それを問い詰めようとしたんですけれど、九曜さんはあの調子ですから何も語らずで」
「ここに朝倉が現れたのは、つまり九曜の差し金ってことか? まさか九曜が鶴屋さんと古泉の結納を邪魔したいとでも思って、朝倉をけしかけたってことなのか?」
「でーすーかーらー、あたしもそこまでは知りません」
 ええい、このまま橘を追求したところで埒が明かない。幸いにして、今ここに朝倉がいる。おまけに長門がその朝倉を押さえつけ、喜緑さんまで現れている。そっちに聞く方が手っ取り早いか。
「森さん、鶴屋さんのことはお願いします」
「わかりました。ですが、お一人では危険かもしれません。古泉、あなたも彼と一緒に」
「ええ」
 別に俺一人でもいいんだが、同行するという申し出を無下に断る必要もない。鶴屋さんを預け、佐々木と橘のことも森さんに任せて、俺と古泉は朝倉が現れた中庭へと急いだ。
 そこで俺は見た。
 まるで何事もなかったかのように変化のない──朝倉がぶっ壊した料亭の壁や柱さえ元通りの──平穏そのものの中庭を。
 もちろんそこに、朝倉や長門、喜緑さんの姿はなかった。