森園生の変心 エピローグ

「……う……ん……ん? はぇっ?」
 短いうなり声をあげたかと思えば、俺や森さん、古泉が見ている前で、鶴屋さんは目を覚ますなり勢いよく体を起こした。
「ご機嫌はいかがですか?」
 傍らで控えていた森さんが、すぐに鶴屋さんを支えて声を掛けた。こんなとき、俺や古泉が声をかけるより、同性の森さんの方が鶴屋さんも安心するってもんだろう。
「あっれぇ? あたし、どーしたんだっけ?」
「コルセットをきつく締めすぎたのでしょう、気を失われたとお聞きした時は肝を冷やしました」
 どうやら俺が選んだドレスは、幸いにして上手い言い訳として使えるものだったらしい。事実、中世のご婦人方はコルセットをキツく締めていたために臓器が肺を圧迫し、まともに呼吸できないがために気絶することがよくあった……って話を聞いたことがある。ヴィネグレットペンダントなんてものがあるくらいだしな。
 ただ、それが歴史的事実として実際にあったこととは言え、鶴屋さんに当てはまる話なのかと言えば、さてどうだろうね。それらしい理由付けにはなっているが、通用するかしないかは別の話だ。
「んん〜? そーだったっけかな? うーん……まっ、いっか」
 鶴屋さんは森さんを見て、古泉を見て、最後に俺に目を向けてからにっかりと笑い、納得してくれた。
「大丈夫ですか? 目の前で倒れたときは驚きました。まさか僕が結納相手だと知らなかったとは思わなかったもので。驚かせてしまいましたね」
 森さんの言葉を補強するかのように、古泉も鶴屋さんが気絶したことを強調するような言い方をしてみせた。
「それで鶴屋さん、今日のことですが……」
「あっ! うん、そーだねっ。ごめんよっ、古泉くんっ! 今回の話、最初にあたしも確認しときゃよかったんだけどっ、まさかこんなことになってるなんて思わなくってさっ」
「僕では相応しくありませんか」
 古泉は食い下がるような態度を見せたが、こいつがそういう態度を取るのは仕方がないことだと、俺にももうわかっている。鶴屋さんもそれがわかっているのかいないのか……どちらとも言えないが、返す言葉は『ノー』という拒否の態度だった。
「うん、なんて言うかごめんっ! あたしもオンナノコだからさっ、いざ結婚ってなったら、やっぱあたしのことを一番に見ててくれる人がいいっかなーって思うわけっ!」
「僕はそこまで気が多いわけではありませんよ」
 いくら事情があるからと、それは食い下がりすぎじゃないか? それが演技だと言うのなら、将来役者にでもなればいいと思うほどに未練たらたらっぷりを演出している。。
「それはわかってるけどっ! でも、今はあたしよりも他のことに気を取られることが多いんじゃないっかな?」
 話を聞いていた俺は、それはどういうことだろうと首を傾げるばかりだが、古泉には思い当たる節でもあるらしい。いつぞや、鶴屋さんがSOS団の連中が普通じゃないよねと聞いてきたときに浮かべた俺の表情は、おそらく今の古泉と似たようなものだったかもしれない。口の中に投げ入れたピーナッツが意図せずに喉まで直行したかのように、表情を白黒させる古泉の顔は初めて見る。
「だから」
 そんな古泉を見て、鶴屋さんはいつもとは違う、けれど鶴屋さんらしさも感じられる柔らかな笑みを浮かべながら古泉の手を取った。
「もしこれから先、他に気を取られることもなくなって、それであたしだけを見てくれるのなら、そのときにまた、あたしも真面目に考えてみるっさ」
「わかりました」
 古泉はしんみりした面持ちで頷き、鶴屋さんの手を離して立ち上がる。どうやらこれで、今回の話は正式に『なかったこと』となったようだ。
「大変残念に思うところですが、致し方ないことですね。僕はこれで失礼させていただきます。また、お会いしましょう」
 その台詞を鶴屋さんだけではなく、俺にも向けて言う古泉は、森さんに付き添われて部屋から出て行った。
 また会いましょう、ねぇ。
 そりゃそうだ。同じ学校に通っているんだから、また会うのは当然だ。当然だが、会うのは月曜に学校の部室で、ではなく、このあとすぐなんだけどな。
 そりゃあそうさ。あんなことが起こっていれば、俺一人では手が終えない。かといって朝比奈さんではどうしようもなく、長門にも頼れない。残るのはある種の組織力がある『機関』だけだ。
 あんなものがあれば、仕方がない話さ。思い返す度に、頭が痛くなる。
 ……
 …………
 ………………
 何度見渡しても、どこを見ても、朝倉はおろか、長門も喜緑さんもいない。いたという痕跡もない中庭は、不気味なほど静まりかえっていた。
「ここに長門さんたちがいたのですか?」
 古泉が訝しげに聞いてくるのも無理はない。朝倉に襲われた出来事を体験していなければ、俺だってここに宇宙人トリオがいたことなんて信じないだろう。
「いたんだよ。間違いない。トチ狂った朝倉に、俺と森さんは襲われたんだ。そこに長門が現れて喜緑さんもやってきて……橘の話はおまえも聞いていただろ?」
「もちろん、あなたが幻覚を見たとは言いません。ですが、長門さんさえいなくなっているんです。あなたの言葉の真偽を疑うより、状況がどうなっているのかわからない不確かな現状こそ、危惧すべきでしょう」
 確かに古泉の言うとおりだ。朝倉や喜緑さんがいなくなっていたとしても、長門さえ姿を眩ませるのはおかしい。後で説明してもらうと言った俺の言葉をないがしろにしてまで、長門がどこかへ行かなければならない事態、ということじゃないか。
 何があったんだ、長門。
「見てください」
 不確かな状況の中、長門の身を案じている俺に古泉が声を掛けてきた。
「なんだよ」
「あれを」
 古泉が指さしたのは、縁側の柱。人智を超えたバトルが繰り広げられた場所とは思えないほど平素と変わらぬ佇まいを見せているが、ただ一カ所だけ変わっているところがあった。
 変わっている、と言っても空間が歪んでるとかバトルの痕跡が残されていたとか、そういうことじゃない。柱に一枚の紙切れが貼り付けられていたという、ささやかだが大きな変化だ。
『すべてが終わった後、北高へ向かえ。そこがすべての始まりだ』
 誰のものともわからない筆跡で、そんなことが書いてあった。
 長門の字ではない。あいつの字なら、ワープロで書いた文字のように流暢な明朝体だろうし、朝倉か喜緑さんが書いたにしては、あの二人の印象とは随分と掛け離れた悪筆だ。
 ただ、この筆跡は……何故だろう。どこかで見たことがある。俺には筆跡鑑定の特殊能力なんてないんだが……そんなことを考えても仕方がない。
 このメモが誰が残したものかはどうでもいい。とにかく北高へ向かうしかない。
「待ってください、あなた一人で向かわせるわけにはいきません」
「何言ってんだ。このメモが誰のものかわからんが、今はこれに従うしかないだろ」
「落ち着いてください。それには『一人で』とは書いてありません。それに、すべてが終わった後に、と書かれてあるんですよ。つまり、今すぐ向かったところで時期尚早だということです。また、何かしらの罠である可能性も否定できません」
「そりゃそうだが」
「ともかく、長門さんたちがいなくとも手がかりがあったことは幸いです。それに、鶴屋さんのこともあります。今はここを立ち去るしかなさそうですね」
 この手紙に書いてある『すべてが終わった後』の『すべて』とは、やはり今回の鶴屋さんと古泉の結納話のことを指しているんだろうか。まずはそれに決着を着けろと言いたいのかもしれない。
 戻れば、まだ鶴屋さんは意識を取り戻していない。橘の薬とやらは、よっぽど効果の優れた睡眠薬なんだろうな。ああ、もちろん嫌味さ。
「解せない手紙だね、それは」
 ここにいる全員が、あの宇宙人トリオと九曜が巻き起こしていることに少なからず関わりがある。九曜を除いて宇宙人トリオの姿を最後に見かけた場所で見つけた手紙は、俺だけじゃなくて他の連中にも関わりあることかもしれないし、隠しても得があるとは思えない。
 開示した手紙を見て、佐々木が口にした言葉がそれだった。
「何が」
「意味がわからない。いや、北高へ向かえと言う意味は理解できるよ。だが、北高のどこへ行けばいいんだ? キョン、キミならアテがあるのかい?」
「部室だと思うが」
 北高に行け、と言われたら、俺が向かうのは教室よりも部室の方が先に立つ。だから無条件で部室に行こうと思っていたのだが、確かに佐々木が言うことももっともだ。
「体裁としては指示書だろうけれど、それにしては指示が不的確すぎる。そもそも、『すべての始まり』と書いてあるが、その『すべて』とやらは何を指しているんだい? 九曜さんたちがやってることかな?」
「とは言っても、今はこれしかないんだ。従うしかないじゃないか」
「迂闊に動くのは危険かもしれないよ、と忠告しているんだ。動くなとは言ってない。ただ、誰が書いたものかわからないのが胡散臭い」
「そりゃ確かに胡散臭いが……」
 その胡散臭い存在の代表格である橘に、俺はつい目を向ける。
「何ですか、その眼差しは」
「聞きたいのか?」
「失礼ですね。重ねて何度もしつこく言いますけど、九曜さんのやってることは何も知りませんし、その手紙もあたしは関係ないのです」
 普段ならともかく、今はそれを信じてやろうじゃないか。事実、橘が今ここでこんなことをやっても意味がない。
「筆跡が誰のものか、念のため調べてみましょう」
 と、申し出たのは森さんだった。
「すぐに出来るとは言いませんが、時間は掛かりません。ですが、今はまだお嬢様がこのような状態です。わたしが離れるわけにもまいりませんので、新川に指示を出しておきます」
 そういうことが出来るのなら、是非ともお願いしたい。もしかすると俺たちの知らない第三者が書いたものかもしれないし、逆に顔見知りが書いた手紙であるのなら、そいつを締め上げるのもひとつの手だ。
 ただ、どちらにしろ北高へ行かなくちゃならないのに、変わりはないんだろうけどな。
 ………………
 …………
 ……
 だから、俺はこの後に北高へ行くことになっている。森さんに付き従われて退席した古泉も、そのまま北高へ向かっているはずだ。
「ゴメンよ、キョンくん」
 そんなことをぼんやり考えていれば、鶴屋さんが俺に謝罪の言葉を投げかけてきた。
 はて、俺は鶴屋さんに謝られるようなことをされたっけ?
「んー……実は今日の縁談、最初っから断るつもりだったんだよねっ!」
「……は?」
 鶴屋さんの突然の告白に、俺の思考を動かしていたブレーカーが一気に落ちた。
「本当は、キョンくんを利用させてもらうつもりだったんだよ」
「俺を……って、え? どういうことですか?」
「相手が古泉くんだったってのは、ホントに知らなかった話っ! だからこうやってスムーズに断れたけどさっ、そうじゃなかったら『あたしにはもう相手がいます』っつってキョンくんを連れ出すつもりだったのさ。あ、いや、待った待った、怒んないで! これって森さんが提案してくれたことなんだよ」
「どういうことですか」
「つまりね」
 鶴屋さんは、相手が古泉だろうとなかろうと、最初から今回の話は断るつもりだったらしい。見合いを素っ飛ばして結納まで話が進んでいたことに、実はかなりご立腹だったようだ。かと言って、自分の親や相手のこともある。頑なに拒否をしても、角が立つ。
 どうしたもんかと悩んでいることを、森さんは見透かしていたらしい。それで俺を仮初めとは言え、鶴屋さんの恋人にしてはどうかと提案して、鶴屋さんも乗ったらしい。
 だから、こんな大事な時期に俺が鶴屋さんの専属執事という立場でバイトに雇われたのも、そういう理由があってのことだった。
 ……そういえば、俺が鶴屋さんのところでバイトができる切っ掛けになったのは、森さんの口添えがあったからだったな……。
 目眩がした。
 なんつーことに人を巻き込もうとしてたんだ。幸いにして相手が古泉だったからよかったものを、そうでなけりゃどうなってたんだ? 下手すりゃ俺は鶴屋さんと結婚か。
 んー……それはそれで悪くない……いや、そういう問題でもないぞ。せめて俺にその辺りのことをちゃんと説明してくれれば、最初っからそういうつもりで協力できたかもしれないじゃないか。
「あたしもさっ、ちゃんと説明したかったんだけど……立案の森さんが、最後まで秘密にって言うもんだから。んー、なんでだろ?」
 確かに不思議な……ああ、そうか。そういうことか。森さんも古泉と同じなんだ。
 建前としては、森さんは鶴屋さんの結納が無事に終わらせなければならない立場だ。そもそも森さんが鶴屋家でメイドをしているのは、鶴屋さんの結婚を祝ってのことだから当然だ。
 だから何があっても邪魔することはできず、結納が無事に済むように協力しなければならない。森さん個人の本音は別にあったとしてもな。それが古泉以上に徹底していたからこそ、最後まで本心を鶴屋さん以外に見せなかったのか。
 ったく、『機関』の連中はどいつもこいつも二面性が強すぎる。
「もういいですよ、こうなったら」
「ホントのほんとーにゴメンよっ!」
 両手を合わせ、神社でお参りしているときでも、そこまで頭は下げないだろうという勢いで頭を垂れる鶴屋さんを前に、俺はもう溜息さえ出やしない。
「でもそんなことをやってたら、今度は俺と結婚しなけりゃならない状況に追い込まれたかもしれないじゃないですか」
「あ、それはないよっ。うん、ないないっ!」
 笑顔でさらりと、それでいて断固とした口調で否定してくれた。怒るべきか泣くべきか、どうすりゃいいだろうね。
「前は惚けちったけどっ、覚えてっかなーキョンくん。恋と友情を天秤にかけなくちゃならなくなったら、どっちを取るかって話っ!」
 そんな話をしていたな。鶴屋さんは「経験がないからわからない」とか言ってたが。
「さすがにこの歳になって、恋愛経験ゼロってことはないよ。あたしはね、そういうときはあっさり身を引いて友情を取る女なのさっ。だから、キョンくんと結婚することはないかなーっ。うはははははっ!」
 豪快に笑うのはいいんですが、その『だから』って接続詞がどこにかかってるのか、さっぱりわからないんですがね。
「でもねっ、ちょーっとだけね、うん。嬉しかったかな。理由は別んとこにあったとしても、キョンくんがあたしのことで必死になってくれてさっ!」
 くっくっと笑いをかみ殺しているような声で問いかけてくる鶴屋さんに、俺はどうにも据わりが悪い思いを感じた。
「鶴屋さん、目を覚ましていたのはいつからですか」
「もちろん、ついさっきだよっ! その方が都合はいいよねっ?」
 やれやれだ。ああもう、そうとしか言いようがない。
「だからキョンくん、もうあたしは平気だから行ってあげてよっ。有希っこが待ってるかもしんないよ?」
 まるで我が子を見守る母親のような微笑みでそう言う鶴屋さんを前に、俺はただ従うしかなかった。


 あの置き手紙にあった『すべてが終わった後』というのに、今ほど相応しいときはない。鶴屋さんの結納話は、これでよかったのか悪かったのかは別としても、ひとつの決着を向かえたんだ。残るのは九曜の思惑であり朝倉の復活であり、長門の失踪だ。この一連の宇宙人どもが巻き起こしている出来事の答えがあるのか、それとも別の事件が待ちかまえているのかわからないが、今はとにかく北高へ向かうしかない。
 時間的に、すでに古泉は北高へたどり着いてるかもしれない。俺はまだ、北高名物の坂道途中だ。
 もう少しだ……と考えた、そんなときだった。携帯がぷるぷると震えて着信を知らせている。
 相手は古泉だった。
「どうした?」
『今、どちらですか?』
「北高の坂道だ。もうすぐ着く」
『では、その前に知らせておきます。残された手紙の筆跡鑑定の結果が出ました』
「出たのか」
 それが早いのか遅いのかわからないが、わかったというのなら有り難い。かっ飛ばしていた自転車を止めて、俺は通話に集中することにした。さすがに自転車を運転しながら聞く話じゃない。
「それで、誰だったんだ?」
『あなたです』
 ……よく意味がわからないんだが……なんだって?
『あの手紙を書いたのは、あなたです。長門さんでも他の第三者でもない、あなたの筆跡で間違いありません』
「ちょっ、ちょっと待て。俺だと? 俺はそんな、」
 全力で否定してやろうと開いた口からは、けれど続く言葉が出てこない。
 どうして何も言えないのか、なんてことは俺にだってわからない。わからないがでも、ひとつだけはっきりしていることがある。
 急に、足に力が入らなくなった。瞼が重い。立っていることさえ出来ないほどの……これは何だ? 睡魔と呼ぶにはあまりにも強引かつ強烈に意識がどこかへ持って行かれる感覚に、驚くより怯えるより、呆気に取られるほどだ。
 がしゃん、と聞こえた音は、自転車が倒れた音だろうか。それとも手に持っていた携帯を落とした音か? それさえも、どこか遠くから聞こえているように感じられる。
 まずい……と、思ったが抗う術は俺にはない。
 意識が途切れるその直前、最後に見えていたのは……男か女かもわからない誰かの足下だった。


──喜緑江美里の策略へつづく──