森園生の変心 三章

 朝起きて、ここ数日の時間通りに鶴屋さんを迎えに行ってから北高へ向かえば、同じ時間にすれ違う人の姿は意外と覚えてしまう。そんな克明に覚えているわけではないが、それでも「ああ、この人とは昨日も同じような場所ですれ違ったな」と思う人がちらほらと見受けられる。
 もっとも、その中の誰かと運命的な出会いを経て劇的なストーリーに発展することなど、そう滅多やたらに起こるわけもなく、大抵は顔は見たことあるけれど素性どころか名前も知らない相手で終わることが多い……というか、そうとしかならない。
 ただ、その中に見知った顔がいるとなれば話は別だ。どちらからともなく声を掛け、約束をしているわけでもないのに自然と待ち合わせをしているかのように合流してしまう。
「おはようございます、鶴屋さん。キョンくん」
 真綿のような柔らかな笑みを浮かべる朝比奈さんとは、俺が鶴屋さんのところでバイトを初めてから毎日のように登校時に鉢合わせしている。今日も登校中に出会ってしまったわけだが、どうやら朝比奈さんは俺たちが来るのを待っていたようだ。
「やっぽーっ! いやあっ、もう今日ってばキョンくんっ、ツイてないねっ! いつも引っかからない信号にゴスゴス引っかかっちゃってさっ! 走っては止まり〜の繰り返しでフラストレーションたまっちゃうねっ!」
 などと、朝の挨拶もそこそこにそんなことを言う鶴屋さんだが、フラストレーションが溜まっているとは思えない。むしろ、そういうものが溜まっているのは俺の方であり、止まってからまた自転車をこぎ出す時に余分な体力を消費して地味に疲れた。
「ふふ、お疲れさまです。あ、そうだ……」
 ひとしきり鈴の音を転がすような笑い声を漏らした朝比奈さんは、何を思いついたのか、まるでハルヒに無理難題を吹っ掛けられたときのように眉根を八の字に垂れさせて、困ったような表情になって俺を見た。
「ねぇ、キョンくん。昨日のことって……そのぅ、どうして急に逃げ出したの?」
「はぃ?」
 逃げ出した? 俺が? 朝比奈さんから? どうして俺が朝比奈さんから逃げ出さなくちゃならないんだ。
 そもそも、昨日は鶴屋さんを自宅に送って橘が顔を見せた以外は特に何もなかったぞ。家に帰った後、風呂に入って妹の宿題を手伝い、部屋でのんびりしてたんだ。それから外出していなければ、朝比奈さんに会ってさえいない。
「え? だって昨日、駅前のコンビニエンスストアで女の人と一緒にいたじゃない。声を掛けようと思ったらキョンくんの方も気付いて、でもあたしの顔を見たら逃げ出して……あの、何かあったの?」
 何かあったと聞きたいのは俺の方だ。女の人と一緒にコンビニなんて、まるで記憶がない。
「いつの話ですか、それは」
「え……っと、夜の八時くらいだったかなぁ。醤油が切れちゃって、近所のスーパーもお休みだったからコンビニエンスストアまで買いに行ったときだから……うん、そのくらいの時間なんだけど」
 それこそ、その時間は風呂でのんびりしていた時間だ。
 だいたい、夜の八時と言えば外を出歩くには遅い時間だろ? そんな時間まで俺が異性と二人でコンビニにいたって言うのか。
 申し訳ないが、そんな時間まで一緒にいられるような異性が俺にいると思ってもらいたくない。だいたい、朝比奈さんの口ぶりでは、俺と一緒にいたのは朝比奈さんは知らない相手っぽい。この俺に、SOS団関係者以外で夜遅くまで一緒にいられるような異性がいると思ってるんだろうか。
「人違いじゃないですか? そもそも昨日は、鶴屋さんを自宅に送り届けて家に帰ってから、一歩も外に出てませんよ」
「えっ? でも……うぅ〜ん、そうなのかなぁ。だとしたら、すっごくキョンくんにそっくりな人でしたよ。瓜二つで」
 そんなヤツが近所にいるのか。一度としてそんな話は聞いたことがないわけだが、いつも部室で顔をつきあわせている朝比奈さんでさえ見間違うほど似ているんだろう。実際に見ればまったく似てないのかもしれないが、雰囲気とかが似てるのかもしれん。
「とか言って! 実はやっぱりキョンくんじゃないにょろ? はっは〜ん、女の子と一緒ってことはっ! さてはみくるにバレちゃ困ることでもしてたんかなっ?」
 何を言い出すんですか鶴屋さん。そんなことは天地神明に誓ってありえませんて。そもそも、その一緒にいた女ってのは誰ですか。
「うー……んっと、キョンくんと同じくらいかもうちょっと年下なのかなぁ。落ち着いた感じで……そうそう、髪の毛をこう……三つ編みにしてました」
 カバンを持つ手で器用に髪を結い上げてみせる朝比奈さんは、いっそのこと三つ編みお下げしてみてはどうだろうと進言したくなるほど似合っていた。もっとも、三つ編みお下げじゃなくても朝比奈さんならどんなヘアスタイルでもばっちりだとは思うが、今はそういう話をしているときではない。
「やっぱり知りませんね、そういう女は」
 三つ編みお下げ髪で印象深いのは、四年前の森さんくらいだ。けれどその森さんだって今は二つ結わきがデフォルトになっているし、そもそも夜の八時に俺と二人でいるってどんな状況だと言いたい。
「あっと、そろそろ自転車を駐輪場に置いてきます」
「あいよーっ。んじゃあたしらは先行っちゃってるねっ!」
「それじゃキョンくん、また学校でね」
「お昼ご飯、忘れないでねっ!」
 双方、自分の性格を体現するような挨拶を堪能して、俺は駐輪場まで自転車を走らせた。
 それにしても、俺のドッペルゲンガーか。まぁ、間違いなく朝比奈さんの見間違いだと思うが、世の中、何がどうなるかわかったもんじゃない。
 まさか本当に? いやいや、そんなバカな。
「おはようございます、ちょっとよろしいですか?」
 脳裏に過ぎったバカらしい考えを払拭させようと頭を振って、件の坂道を一人とぼとぼ歩いていれば、慎ましやかな声音で呼び止める声がひとつ。
「ん? ああ、おはようございます」
 誰かと思えば喜緑さんじゃないですか。今まで一度も遭遇したことはなかったんだが、この時間に登校してたとは。
「いえいえ、お待ちしておりましたもので」
 待ってた? 喜緑さんが俺を? はて……俺には喜緑さんに待ち伏せされる覚えなんぞ微塵もないのだが……ああ、もしかして長門のことに喜緑さんも気付いていたんだろうか。
「長門さん? あら、何かございましたか?」
「いや、あいつがここ最近、どうも気もそぞろな感じでして。何か悩みでもあるんじゃないかって思うんですが……そのことじゃないんですか?」
「あらあら、そうなんですか。ということは、長門さんも気付いてしまったのかしら?」
「気付いた? 何にですか」
「いえ、こちらの話です」
 それはどちらの話だ? 俺や長門に関係ない話とは思えないんだが。
「本当にお気になさらずに。そもそも、長門さんが何も話されてないのでしょう? でしたら問題ないことだと思いませんか?」
 まぁ……確かに大事になるような話であれば、何かに気付いた長門が俺に何も話さないということはないだろうが……。
「それよりも、あなたに伝えておきたいことがございまして」
「何ですか?」
「ええっとですね……あっ、予め申しておきますけれど、愛の告白とか、そういう類のものではございませんので期待なさらないでください」
 言われずとも、端からそんな台詞が喜緑さんの口から割いて出てくるとは思っちゃいないですよ。
「あら、つまらない方ですね」
 俺は別に喜緑さんを楽しませることをしようともしたいとも思ってないです。って、こんなことを言ってても埒が明かない。
「いったい何なんですか?」
「今、あなたは鶴屋さんのところでアルバイトをなさってますでしょう?」
 え……っと、なんでそのことを喜緑さんが知ってるんだ? 鶴屋さんから聞いたんだろうか。
「ニュースソースは秘密ですが、わたし、こう見えましても生徒会に属しておりますもので。生徒の逸脱した行為は見過ごせません」
「バイトは逸脱してないでしょう。喜緑さんだって、生徒会に属してると自分で言っときながら喫茶店でバイトしてたじゃないですか」
「あら、そうでしたね。ではその点についてはお目こぼしして差し上げます」
 お目こぼしするのは俺の方であって、なんで喜緑さんが上からの立場っぽい口調になってんだ?
「ともかく、あなたは今、鶴屋さんのところで……ええと、鶴屋さん専属の執事という立場ですね?」
「ええ、まぁ」
 執事というほど立派なことをしている自覚はないのだが、概ね言ってることは間違いではない。そこまでバレているのなら、あれこれ否定しても無駄な話だ。いったいどこから聞きつけたのか不気味と言えば不気味だが、ひとまず素直に頷いた。
「つまり今のあなたは、何かの際には鶴屋さんのことを第一に考えて行動するべき立場だと、そういうことになります」
「……何が言いたいんですか?」
「さぁ……わたしもこんなことに巻き込まれてしまって、ほとほと迷惑しております。ただ、この日、このとき、この場所で、あなたにこういうことを言わなければならないことになってしまいまして」
「はぁ……?」
 基本的に喜緑さんは謎な人だが、今日はいつにも増して意味不明だ。
「ともかく、たとえ不測の事態になろうともあなたは鶴屋さんのために行動なさってくださいませ。あらいやだ、そろそろ学校へ参りましょう。遅刻してしまいますよ」
「はぁ……え? あの、それで話は終わりですか?」
「ええ。それでは」
 ゆるゆるとしたいつもの笑みを浮かべ、たなびく髪に百合の花の香りを漂わせながら、喜緑さんは楚々とした足取りで坂道を駆け上がって行った。
 なんなんだ、あれは?
 朝比奈さんが見たと言うもう一人の俺も、含みのある喜緑さんの言葉も、まったく朝っぱらから妙なことを吹き込まれたわけだが、かといってそう言ってるのがあの二人だから、真に受けるのは如何なものか、とも思う。
 朝比奈さんはご存じの通り、頻繁に……もとい、ごく稀に……いや、それでも世の平均と比べれば多い方かもしれんが……ともかく、ハルヒの教育の賜物でドジっ娘スキルが高く、俺を見たと言っても本当に俺なのか疑わしい。というか、それは間違いなく他人のそら似だ。そりゃそうだろう。俺が二人いるわけがない。
 方や喜緑さんは、若干考える必要がある。あの人がわざわざ出張ってきて妙なことを言い出したからには、何かしらあるのかもしれない。が、あの人のことだ、何もなくとも暇つぶしに妙なことを突発的にやりかねない。一から十まで信用するのは難しく、話半分、いや三割程度で聞いておくのが無難だろう。
 つまり、あの二人が朝っぱらに言っていたことは右から左に聞き流しても問題ない話だと思われる。せいぜい、頭の片隅にとどめておけば、万が一のときに「ああ、このことを言ってたのか」と納得する程度で、仮に忘れていても困らないだろう。
 事実、その日は特に何もなかった。ハルヒの機嫌も日に日に元に戻ってきているようだし、昼間の飯時も放課後の団活でも、その後に鶴屋さんを自宅まで送り届けるということでさえも、妙なアクシデントも厄介なイベントもなく、ただただ淡々と過ぎていった。
「ただいまっと」
 家に帰宅するころには、すっかり朝にあったことなど忘れている。いや、完全に忘却の彼方に追いやってたわけではないのだが、意識しなければ表層まで出てこない程度には忘れていたってわけだ。
 そんなことを思い出させたのは、自分の部屋に戻って制服から私服に着替えようとしていた時に、俺の携帯に掛かってきた一本の電話だった。
『やあ、キョン』
「佐々木か」
 着信を見ずに出てしまったが、声を聞いて一発でわかった。
「どうしたんだ。そっちから連絡してくるなんて珍しいな」
『そうかい? キミからこそ、滅多に連絡をしてくれないじゃないか。今は大丈夫なのかな?』
「ちょうど今、帰ってきたところだ。後でいいなら、こっちからかけ直すが」
『それは悪いことをしてしまった。だが、急ぎの話でね』
 佐々木から急ぎの話……ねぇ。何事もない一日だと思っていたのだが、ここに来てそれが少し揺らいできたか? 出来ることなら有無を言わさず通話をシャットダウンしたいところだが、相手が佐々木じゃそうもいかない。
「何かあったのか?」
『最近どうだい? そっちの様子は』
 そんなことを言われて、俺は携帯電話を耳から離してディスプレイに目を向けた。急ぎと言う割には、そんな世間話を振ってくるなんて佐々木らしくない。
「おまえが言う急用ってのは、こっちの様子伺いなのか?」
『キョン、それは少し思慮が足りないな。キミが僕のすべてを理解しているとは言わないが、先に述べた言葉をまるで無視した話を振ると思うかい? キミの日常に変化があるか否か、そのことが火急の用件になっている』
「俺の日常?」
 そんなもんは特に何もなく、佐々木がどの程度を把握しているかにも依るが、特に変化はないと結論づけて間違いないだろう。せいぜい──。
「バイトを始めたことくらいか」
『バイト? へぇ、キミがか。どんなことをしてるんだい?』
「執事、かな」
『…………』
 なんで黙るんだよ。
『いや、ええっと……そうか。それはまた、興味深い社会勉強をしているようで何よりだ。僕も時間が取れるのなら、キミの勤め先で一緒に働いてみたいものだよ。となれば、僕はメイドということになるのかな。どう思う?』
 佐々木のメイド姿がどうにも想像できないのだが、それでどう思うと問われても、思い浮かばないものは答えようがない。
「それで、それがおまえの急用とどう直結するんだ?」
『いや、今のは単に話が逸れただけさ』
「切っていいか?」
『つれないことを言わないでほしいね。では、用件だけを伝えよう』
 ずいぶんと勿体ぶって、ようやく話は本筋に戻ったらしい……が、佐々木がこぼした言葉は、一日を終えて帰宅したばかりの俺の疲労度をさらに増してくれるものだった。
『どうもここ最近、橘さんが裏でこそこそしているようなんだ』
「橘が?」
『そう、橘さんが。何をしているのか、それは僕にもわからない。問い詰めてみたが、僕やキミには迷惑をかける話ではない、の一点張りでね。嘘を言ってるわけではないと思うが、腑に落ちない』
 あいつめ……やっぱり何かたくらんでいるのか? 昨日、俺の前に姿を現したときも胡散臭さは五割り増しだったが……佐々木から話を先に聞いていれば、もっと問い詰めることもできたんだが、タイミングが悪すぎだ。
『そうか、すでにキミの前にも顔を出していたのか』
「確かに俺やハルヒに迷惑をかける話じゃない、とは言っていたが」
『その点は信用していいんじゃないかな? 先の件もあるし、今さら何かを表立ってするとは思えない。諦めているわけではないが、機は今ではない。そんな愚行を犯すほど、彼女も愚かではないよ』
「だといいんだがな」
『もし、彼女が僕にまで嘘を吐いて何かをたくらんでいるのだとしても、言葉が通じる相手だ。僕の責任において、キミに直接的な被害が及ぶのだけは食い止めると約束するよ』
「約束は守るためにあるんだぜ?」
『わかっているさ。破ることになれば、それなりのペナルティは払うよ。そうだな……キミの苦手教科を克服するために、じっくり指導してもかまわない』
 それはどっちのペナルティになってんだ? 勘弁してくれ。
『ともかく、橘さんが裏で暗躍しているのは間違いない。それについては僕の方でなんとかしたいと思う。ただ問題なのは……そこに九曜さんまで巻き込んでいる可能性が高いことだ』
「……どういうことだ?」
 俺の見立てでは、九曜がそこまで橘に協力的には見えない。その逆ならあり得るかもしれないが、九曜から橘に手を貸しているとでも?
『どうだろう。キミが言うように、九曜さんが何かしようとしていることを橘さんが利用しているのかもしれない。あるいは結託したのかもしれない。そこまで僕も把握しているわけではないが、九曜さんの様子もここ最近、どこかおかしい』
「おかしいって?」
『気もそぞろ、と言う感じかな。何かに気を取られているようだ』
「九曜も、か?」
 佐々木が九曜に対する認識は、俺やハルヒが長門を見ている目と近いものがある。その佐々木をして、九曜の様子が『気もそぞろ』と言うのであれば、俺がここ最近、長門に抱いている違和感と通じるものがありそうだ。
『それはなかなか興味深い話ではあるね。長門さんと言えば、九曜さんと似たような人物だったと認識しているが……そういう言い方は失礼かな?』
 長門と九曜を一緒にするな、と言いたいところではあるが、それは俺の価値判断であり、他の連中からしてみれば同列に見えてしまうんだろう。そのことで今は怒っている場合でもない。
『ともかく、キミには少し注意してもらいたいと思ってね。こんな連絡をしたわけさ』
「そっちでなんとかしてくれ。俺を巻き込むなよ」
『もちろん、できることなら僕で食い止めるさ。これ以上、キミに嫌われてしまうのは本意ではないのでね。ただ、橘さんだけならなんとかなるが、そこに九曜さんまで加わるとなれば、話は変わってくる。彼女は少し、特殊だからね』
 それはわかっちゃいるが。
「念のために聞いておくが、藤原はどうしてる?」
『彼ならここ最近、姿を見てないな』
 そりゃよかった。ここに藤原まで絡んできたら、さすがにお手上げだ。もっとも、もし佐々木が危惧しているように橘と九曜が結託して何かたくらんでいるのなら、それだけでも勘弁してほしいところだけどな。
『ではキョン、くれぐれも注意してくれたまえ。できることなら、彼女たちが何かしでかしても、可愛らしい乙女のジョークと思って笑い飛ばしてくれ』
 乙女というのは、もしや橘と九曜のことを言ってるのか? だとしたら、それこそしょーもないジョークだ。
「だったらおまえに怒ればいいのか?」
『あまりいじめないで欲しいな。こう見えても、僕だって繊細なんだよ』
 などと言いながら声を殺して笑う佐々木の態度を前に、怒るには気をそがれたような気がする。事前に連絡したのは、そういうことか?
『そこまで打算的に思われるのは心外だね。僕はキミのことを心配しているんだよ』
「そりゃどうも」
『では、夜分に済まなかった。また』
「ああ」
 そんな言葉を最後に、佐々木との通話は切られた。
 携帯をベッドの上に投げ捨てて、自然に溜息がこぼれ落ちるのも仕方がない。あんな話をされた後では、誰だってそうなるだろうさ。
 まったく、とんでもない話を聞かされたもんだ。橘と九曜が結託だって? いったい何をしでかすつもりだ、あいつらは。
 もしやそれは、朝比奈さんが見たという俺のドッペルゲンガーと絡んでる話じゃないだろうな? はたまた喜緑さんが振ってきた話とも関係あるのか?
 何がどこでどう絡んで、どの話がどう関係してるんだ?
 まるでわからん。予想もできないし、想像もできん。佐々木も、あんな電話をしてきたのはいいが、俺は何をどう気をつければいいんだ?
 難問を吹っ掛けられて答え合わせをさせてもらえない気分だ。しかもその難問が、難しいとわかっているだけで、どんな問題なのかさっぱりわからんときている。
 俺は何をどうすればいいんだ? 何ができる?
 なにもありゃしない。俺ができることは、目の前に降りかかった出来事に全力で取り組むだけだ。それ以外のことは、どうしようもないじゃないか。
 だから。
「やれやれ」
 今はせいぜい、そんな常套句しか言えないわけだよ。


「明日と明後日はゆっくりしましょ」
 と、背後のハルヒが独り言のように呟いたのは、本日金曜日の最後の授業が終わろうかという頃合いだった。
「なんだ、急に」
 教師の目を盗んで振り返れば、ハルヒはさもつまらなさそうに頬杖を突いて窓の外を眺めていた。そこまでロコツにつまらなさそうな態度をしていると、教鞭を振るっている教師に同情したくもなる。
「急にじゃないわよ。あんた、何日か前に土曜日がどうのと言ってたじゃない。だからよ」
 それはなんだ、つまりハルヒは俺の都合を聞き入れてゆっくりしようなどと言い出したのか? だとすれば驚きだ。驚天動地だ。
「なんてね。古泉くんも急用あるらしくてさ、有希もなんだかここ最近、ぼんやりしてるしから休ませたいし。暇そうなのはみくるちゃんくらいだからよ。あんたのことはついで」
 だと思ったよ。
 それに一言付け加えさせてもらうがな、朝比奈さんは確かに暇があるのかもしれないが、そこには自分も含めとけ。
「うっさいわね。あたしはあたしで、他にもやることあるのよ」
 そりゃ初耳だ。他にやることがあるのなら、俺の懐事情を苦しめる珍集会の優先度を下げてもらいたいところだけどな。
 それよりも──。
「古泉が急用だって?」
 あいつはSOS団の活動を優先させる奴だ。ハルヒの招集が掛かれば、閉鎖空間でも発生してない限りは何を置いても優先させていたように思う。ここ最近は特にそうだった。
 なのに、明日は自分の用事を優先させるのか。いったい何が……なんて、考えるまでもなさそうだ。
 明日は、ついにと言うか、いよいよと言うか、鶴屋さんの結納が執り行われる日だ。そのことを古泉は知っているらしく、だからこそそちらを優先させようってことなんだと思うが……いや待てよ?
 結納ってのはそういうもんだったか? 結婚式じゃあるまいし、いくら『機関』に属しているとは言っても、無関係な古泉まで顔を出すことはないよな。なら、それとはまた別の急用がある、ってことなんだろうか。
 もしや昨晩、佐々木からの連絡で判明した橘の組織と何かあるんじゃないだろうな? 派手はドンパチでも繰り広げるのか?
「まさかとは思うけど」
 俺が漫然と古泉が言う急用とやらが何なのか思いめぐらせていると、ハルヒが何やら疑わしそうな声を掛けてきた。
「古泉くんとあんたの二人で、何かたくらんでる?」
 こいつは何を言い出すんだ。
「……あのなぁ」
 別にあいつと二人で仲良く何かをたくらんでいるわけではないが、もしかすると目的としているところは同じかもしれない。故に「違う」と答えるのに若干の躊躇いがあるのだが、かといって肯定すればハルヒさえも巻き込むことになる。
 それだけは断固として回避すべき事態だが、言葉につまってしまった以上、妙なところで無駄に勘の鋭いハルヒのことだ、何かしら訝しんでいるかもしれない。
 そんな俺を救ったのは、授業終了を告げる鐘の音だった。
「そんなわけないだろ」
 起立、礼の挨拶もそこそこに、俺はそうハルヒに言い残して教室を後にした。とっつかまって尋問まがいのことをされるのはまっぴらだからな。
 それが功を奏したのかも知れない。ハルヒを置いて一足先に部室へ向かおうとすれば、部室棟へ続く渡り廊下を歩く見慣れた後ろ姿がひとつ。
 古泉だった。
「よう」
「ああ、どうも」
 どうせ向かう場所は同じだ。だったら無視する必要もなく声を掛ければ、古泉もいつも通りの笑みを浮かべたままで反応した。
「明日は急用があるんだって?」
「ええ。できることなら遠慮したかったのですが、そうもいかないようで」
 肩をすくめてみせる古泉は、表情こそ笑っているが目は笑っていない……ように思えた。
「明日と言えば……鶴屋さんのことか?」
 どうも態度だけでは判然としない。俺の方からその話を振ってみれば、聞くまでもないとばかりに肩をすくめた。
「やはりあなたもご存じなのですね」
「そりゃまぁ、な。おまえが週初めに鶴屋さんのところで働くのはやめておけって言ってたのは、つまりそういうことか?」
「今となっては隠しても仕方ありません。そういうことです」
「だったら最初から言ってくれ」
「いえ、そのことを話せばあなたのことです、てっきり怒られるものだと思いまして。つい、言葉を濁す格好となってしまいました」
 何を言ってるんだ、こいつは。どうして俺が、鶴屋さんの結納の件で古泉を怒らなくちゃならないんだ?
「事は結婚です。人生にとっての転機となる出来事ではありませんか。事情を知れば、断固拒否の態度を取るのでは? と、そう思うのが普通でしょう。あなたを知っていれば特にね」
「んなわけあるか」
 確かに言ってることは間違っちゃいない。人によっては二度、三度とあることかもしれないが、大抵の人にとって、結婚なんてもんは一緒に一度の一大イベントだ。
 けれどそれは、めでたい大イベントだろ? 鶴屋さんもそのことは承知しているし、理解した上で受け入れている。だったら俺の口から出るのは文句ではなく、祝いの言葉しかない。
「では、あなたに異論はないと?」
「ねぇよ。あるわけがない。ただ、いくらなんでも早すぎるとは思うけどな。それでも鶴屋さん自身がそれでいいと決めてるなら、俺があれこれ言ったって仕方ないじゃないか」
「正論ですね」
 俺が言うことは、いつも正論だろ。暴論や異論を口にするのはハルヒの役目だ。
「しっかし、なんでおまえまで明日の結納に顔を出すんだ? 式や披露宴でもあるまいし、ああいうのは身内だけで粛々と進めるもんじゃなかったか?」
「ええ、まぁ確かにその通りですが……はずすにはずせないことになりまして」
 どうにも奥歯に物が挟まるような態度の古泉に、俺が訝しがるのも束の間、すぐに「もしかすると」と思い至る理由がひとつだけ閃いた。
「もしかして、明日の鶴屋さんの結納に橘たちの組織が手出ししようってことじゃないだろうな?」
「というと?」
「何やら橘が九曜を巻き込んで何かをたくらんでいるらしい……ってな、昨晩、佐々木から連絡があったんだよ。おまけに橘の奴、一昨日には俺の前にも姿を見せた挙げ句に含みのある態度を見せやがった」
「なるほど、そんなことがありましたか。しかし、彼女の組織が何かしら暗躍しているからと言って、鶴屋さんのことに直結するとは思えませんが」
「鶴屋家は『機関』のスポンサー系列のひとつなんだろ? だから、あいつらが妙なことをしでかさないように目を光らせるために、おまえまで駆り出されたんじゃないかと……違うのか?」
「残念ながらハズレです。が、なかなか興味深い情報ではあります。確かにあなたが言うように、鶴屋家のめでたい席でなおかつ『機関』関係者がいる中、敵対勢力の横暴を許せば僕らの面目は丸つぶれですからね。ニュースソースが佐々木さんということが気に掛かりますが、あなたと彼女の関係を鑑みれば、あながちガセネタとも言えません。警戒するに越したことはないでしょう」
 佐々木が俺にガセネタを振って得する話なんて何もありゃしないから、信用していい話だとは思う……が、俺が言いたいのはそういうことではなく、どうやら古泉は橘たちの動きを把握してなかったらしい。
 だったらなおさら、どうしてこいつが明日の席に顔を出すんだ?
「理由はふたつありました。もっとも、ひとつの憂いは今し方にぬぐい去ることができましたけどね」
「何の話だ?」
 意味するところがまったく見えない台詞に首を傾げると、古泉は小憎たらしいほどの笑顔を浮かべて見せた。
「鶴屋さんの結納は、『機関』にとっても重要な意味合いがあります。その一番の障壁となるのはあなただと僕は思っていたんですよ。けれど話を聞く限り、あなたは拒否の態度を示すどころか祝福している。有り難いことですよ」
「だから、なんで俺が拒否しなけりゃならんのだ」
「それは、」
「二人して、何のんびり歩いてんの?」
 古泉の言葉に被せるように背後から飛んできたハルヒの声に、口から心臓が飛び出しそうになったのは言うまでもない。まさか今までの話、聞かれちゃいないだろうな?
「いえ、彼から数学の質問を受けていたので歩みが遅くなっていただけですよ」
 かと言えば、古泉はまるで用意していかのようなデタラメでハルヒを煙に巻く。まさかこいつ、ハルヒが近付いてるのを知ってたんじゃないだろうな?
「数学? 何よキョン、あんた、そそくさと教室から出て行ったと思ったら古泉くんにそんな話を聞くためだったの? そんなの後にしなさい。今は放課後、団活の時間なんだからね!」
「おっしゃるとおりです。先ほどまでの質問は、またの機会にいたしましょう」
 ハルヒの尻馬に乗っかって、古泉はそんなことを言いやがった。俺だって、ハルヒの前で妙な話はしたくないが、どうにもはぐらされた気分はぬぐえない。
「それともキョン、あんたそんなに勉強したかったら、今日はトクベツにあたしや有希やみくるちゃんも含めてみぃっちり教えてあげてもいいわよ」
 勘弁してくれ。
 そもそも、午後の微睡みに満ちた時間でさえ、興味の対象外と称して差し支えのない授業で費やしたというのに、放課後のまったり気分で過ごせる部室でさえも勉強なんぞしたくない、と思う俺の心情は至極真っ当なものだと思われる。
 が、そんな真っ当な意見をひっくり返すのが涼宮ハルヒという奴であり、古泉のあまり上等とはおもえない言い訳という名の嘘もアッという間にひっくり返された。
 嘘がひっくり返ればホントとなり、結局、放課後の倦怠感溢れる一時は殺伐とした勉強会になってしまった。
 生徒は俺。ついでに朝比奈さんもどちらかと言えば生徒寄りの立場だろうか。
 教師はハルヒ、長門、古泉。まぁ、古泉は端から俺に勉強を教える気はないようで口を挟んでくることはなく、長門なんかは「そう」と「違う」の二言だけを時たま口にするだけで、教師にすらなっていない。
 最悪なのがハルヒだ。こいつが人にものを教えようとするのはやめた方がいい。少なくとも、こいつから何かを教えられる立場になってしまった人間は、鋼よりも強靱な忍耐力が必要かもしれん。
 いったい何度バカと言われたことか。五十八回目までは数えていたが、それ以降は虚しくなるだけなのでやめておいた。
 まったく、今日ほど早く帰りたいと思ったことはない。特にハルヒがことさら楽しそうに俺を罵倒して勉強を教えてくれる姿が癪に障る。この調子では、毎日が放課後の勉強会になりそうだ。そんなことになったら、俺は二度と部室には立ち寄らないだろう。
 ま、今日は金曜日だし、土日を挟めばハルヒも飽きて忘れるだろう。でなけりゃ困る。
「んでもっ! ハルにゃんのこったから、ちゃーんっと教えてくれたんでしょっ?」
「そりゃ教えてくれましたけどね」
 鶴屋さんを自宅に送り届けるようになってからの帰り道は、その日にあった部室での活動報告のようなことをするようになっていた。場の空気が持たずに俺から振ることもあれば、鶴屋さんの方から聞いてくることもあり、道中の丁度いい話題になっている。
「ものには教え方ってのがあるでしょう。罵倒しかされないんじゃ、やる気も激減ってもんですよ」
「そーかもしんないけどっ! でもほれ、そこはハルにゃんなりの照れ隠しだと思って諦めるべきっさ!」
 それはいったいどんな照れの隠し方なのかと問い詰めたい。だいたい、勉強を教えるのにどうして照れなくちゃならないんだ。
「あの調子だとあいつ、明日も勉強会を開きそうな勢いでしたよ。けどまぁ、さすがにそれは無理だからなくなりましたけどね」
「無理って? あ……っ、あーそっか。明日だっけかね」
 俺に言われて思いだした、とばかりに鶴屋さんは呟く。まるで今の今まで忘れていたような態度だが、そんなことはあるまい。他人事ならともかく、我が身で起こる人生の一大イベントの日程を、そう簡単に忘れられる奴はいない。鶴屋さんだったらなおさらだ。
 なのにそんな言葉をこぼすところを見れば、鶴屋さん自身、自覚のあるなしに関係なく明日のことは考えないようにしていたのかもしれない。
 その理由は──。
「不安ですか、やっぱり」
「そう見えるっかな?」
 自転車を運転している俺からは、後ろで立ち乗りしている鶴屋さんの表情は見えない。だが、その耳に届く声は「らしくない」と評していいような、どこか沈んだ声音だった。
「別にそんな不安とかって気持ちはさっ、ホントないんだけどねっ。でも、うーん、なんだろね?」
 さて、それは俺にはわからない心境だ。他の奴でもわからないだろうし、鶴屋さん自身にとっても明確な答えなんて出てこない気持ちなのかもしれない。
「あのさっ、キョンくん」
 気の利いた台詞が出てこなくて黙っていれば、鶴屋さんの方から言葉を重ねて来た。
「もし、このままどっかに連れてけーってあたしが言ったら、連れてってくれっかな?」
「えっ? あー……っと」
 ひどく冗談めかしているが、声のトーンは驚くほど真面目な鶴屋さんの言葉に、俺はつい、返す言葉に詰まった。
 それは、単にこの帰り道で寄り道していこうと誘っている……ってことじゃなさそうだ。どちらかというと、明日の結納に行きたくないから、このまま誰も知らないような場所に連れ去ってくれ、と言ってるように聞こえる。
 そんな真似を実際にしてしまえば、そりゃ大騒ぎだ。気軽に出来る事じゃない。ハルヒだったら後先考えずに実行しそうだが、俺には出来ない。
「……ぷっ、あっははははっ! やっだなぁっ、キョンくん! そんな考え込まれちゃうと、おねーさんの方こそ困っちゃうじゃないかっ!」
 一転、大爆笑をかます鶴屋さんは、人の肩をバシバシ叩きながらそう言った。
「みょーなとこで真面目だなぁ、キョンくん! かるぅ〜い冗談っさ」
 冗談、ねぇ。
「いいですよ、別に」
「へ?」
「今の俺は鶴屋さんの執事ですからね、ご主人様の命令には絶対服従っすよ。どうします?」
 走らせていた自転車を止めて振り返れば、鶴屋さんはキョトンとした表情を浮かべていた……が、すぐにニヤリと笑みを浮かべた。
「無理ムリっ! キョンくんにはそんな真似できないっしょ」
 そりゃ確かに、俺にはそんな真似はできなそうにない。事実、最初に問われた時点で返答に言葉を詰まらせていたくらいだ。今さらこんな態度を取ったところで鶴屋さんにはお見通しだろう。
 だが、そうも断言的に言われると食って掛かりたくなるのが心情ってもんだ。
「そんなことないですよ。俺は鶴屋さんのこと嫌いじゃないですし、どこの誰とも知れない相手に取られるくらいなら……なんてこと、するかもしれないですよ?」
「ほぇ〜っ、そこまで言われちゃうと、さすがにあたしでも照れちゃうなぁっ! んでもっ! それでもキョンくんはそんな真似できないよねっ」
 まるで確信めいた口ぶりだ。別に自分自身に自惚れてるわけでもないが、どうしてそうまで言い切れるのか不思議になってきた。
「だってキョンくん、今のこの状況であたしをどっかに連れてっちゃうーってことはさっ、代わりに他のこと全部捨てちゃうってことになっちゃうよ? みくるや有希っこや古泉くん、それにハルにゃんとのこと全部捨ててまで、そんなことできる? キョンくんにはその覚悟がある? あたしが知ってるキョンくんは、そういうことができないと思うけどっ!」
 そこまで言われては、舌を巻くしかない。そう判断するほど鶴屋さんが俺のことを見ているとは思わなかったし、言われたことはあまりにも的を射ている。
 確かに俺には、他の何もかもを捨ててまで何かひとつのことを選ぶってことは出来そうにない。
 もしそんな真似ができているのなら、先頃に起きたハルヒと佐々木の閉鎖空間共振騒ぎのときに、両方とも何とかするなんて選択肢は選ばず、藤原が提案してきたどちらか一方を救う選択をしていただろう。
「悪く言えば優柔不断なんだろーけどっ!」
 反論のしようもない。
「でもさっ、キョンくんの場合は選ばないことを選んでるのかな? だとしたら、優柔不断ともちょいっと違うねっ!」
「何ですか、それは」
「んー、なんだろねっ? あたしもよくわかんないけどっ!」
 と言いつつも、その表情はくすくすと笑いをかみ殺している。わからないんじゃなくて、わかっているけど教えない、の間違いじゃないですかね?
「まぁまぁっ! とりあえず、早く帰ろうぜぃっ! 明日は早いんだ!」
「りょーかいっす」
 言葉こそ出てこなかったが、気分は「やれやれ」と言ったところか。漏れる溜息が暗にそう告げている。
 鶴屋さんに促されるままに、俺は再び自転車を走らせた。
「でもキョンくん」
「なんすか?」
「実はあたし、今の言葉でほんのちょっとだけ気持ちがグラついちゃったかもっ!」
「それも冗談ですか?」
「そっ、じょーだんっさ!」
 ですよね。
「だったら俺も冗談ついでに言っときますけど」
「なんだい?」
「鶴屋さんの結婚相手ってのが気にくわないヤロウだったら、問答無用で鶴屋さんを連れ出しますよ」
「うっはははっ! それはけっこー笑えない冗談だなぁっ!」
 ま、俺には気の利いたジョークを言えるようなセンスなんてありゃしませんからね。言うんじゃなかったと、今になって思ってますよ。
「でも、うん。あんがと」
 囁くように呟く今の鶴屋さんの言葉は、聞こえなかったことにした。
 そりゃだって、冗談を言って感謝されることなんて、あるわけがないだろ?