森園生の変心 二章

 一夜明けて、どうにも落ち着かない気分でいるのは俺だけなんだろう。朝に出迎えに行ったときの鶴屋さんは、やっぱりいつもの鶴屋さんであり、結納を間近に控えているというのに、表面的な態度はまるで変わらない。世の中にはマリッジブルーなどという言葉があるらしいのだが、どうやらこの人はそういう言葉と無縁らしい。
 それとも、内心ではかなり不安でドキドキしているんだろうか? 昨日は「それでいい」とばかりに受け入れ姿勢を見せていたが、実際には不安で、けれど表に出せば朝比奈さん……は、無理かもしれんが、ハルヒや、俺の知らない鶴屋さん個人の友人知人にバレてしまうと思って、隠しているんだろうか。
 俺にはよくわからん。鶴屋さんの考えていることがよくわからないのはもちろんだが、結婚まで秒読みという段階まで来ている女性の心理は想像すらできない。そもそも、高校二年の年頃で、結婚が遙か先の出来事なのは当たり前のことであって、自分が結婚する、なんてイメージを克明に考えようったって無理がある。
 となれば誰かに聞いてみればいいと思う。身近には、幸か不幸か女性は多々いる。例えば──。
「なぁ、ハルヒ」
 性格や人間性というものは、この際だから横に置いておこう。少なくともハルヒは生物学的には女性であり、思考回路は時にぶっ飛んでぶっ壊れているが、そんなことは些細なものかもしれない。
「結婚ってどう思う?」
 そう問えば、窓の外を眺めていたハルヒは緩慢この上ない動きで首を巡らし、人の顔の毛穴さえも観察しようかというほどマジマジと睨み付けて来やがった。
 こいつにこうまで睨み付けられるのは、いったいいつ以来だろう。頻繁に睨まれているような気もするが、人の精神状況を不安定にさせるような凝視の仕方は、ほぼ初対面のころに声を掛けたとき以来だろうか。
「それは何? もしかしてあたしに、昨日の深夜にやってた推理ものの映画の話題でも振ってるわけ?」
「なんだそりゃ?」
「あんたが今言ったんじゃないの、血痕って。次回の映画でネタにできることでもあるかなって思って見てたけど、たいしたことなかったわね。そもそもあの血痕の残り方は無理ありすぎるわ」
 もしやそれは、何かしらのボケなんだろうか。そもそも、『けっこん』という言葉を耳にして、脳内で変換される漢字が『血痕』ってのはどうなんだ? 普通は『結婚』になるだろ。
「えっ? あんたが言ってたのって、ウエディングの話? ってか、なんであたしが、あんたにあたしの一般性の是非を問われないといけないのよ」
 安心しろ。端っからおまえの一般性を是と思ったことはない。ただ、おまえもいちおうは女であるからして、自分の考えは横に置くとしても、女性的な観点から結婚という契約が結ばれる直前は、どう思うものかと聞いているんだ。
「さぁね。そんなの人によるんじゃない? ウエディングドレスが着られるってことで喜ぶ人もいるくらいだし」
「ああ、まぁ」
 確かに、男性よりも女性の方が結婚に対する願望が強い一面は、結婚式で着られる衣装にあるかもしれない。実際に結婚式の日取りが決まり、それまでに費やす時間の中で多く割かれるのがドレス選びって話は、よく聞く話だ。
 かといって、鶴屋さんがウエディングドレスを着たいがために結婚するってのはあり得ないだろう。
「あとは……そうね、好きな人とずっと一緒にいられるわけだし、悲しいってわけじゃないでしょうね。少なくとも、あんたにそんな話を振られた今のあたしの心境よりは幸せでしょ」
 なんてことを、ハルヒは斜に構えて冷ややかな眼差しを俺に向けつつ言い放った。そのクセに、いつも以上に饒舌に語ってるのは何でだろうな。そんなに嫌なら、別に無理して答えてくれなくたって俺は構わないし、憎まれ口を叩かれるぐらいなら、初っ端から切って捨ててくれた方が傷も浅いってもんだ。
「だいたい、なんで結婚の話なのよ。誰か結婚でもするの?」
「……いいや」
 一瞬言葉につまったが、それでも冷静に否定しておいた。妙なところで勘が鋭い……と言うよりも、俺がそんな話題を振ればハルヒでなくてもそう考えるだろう。
「単なる雑談だ。気にするな」
 今の問いかけが鶴屋さんの結納云々ってことに直結できるわけもなく、素知らぬ顔して惚ければ、暇つぶしのどーでもいいような雑談で終わっちまうもんなのさ。すぐに忘れもするだろ。
「ふーん。あんたって、そんなに結婚願望強かったの? もしかして、高校卒業してすぐに結婚したいとか考えてるわけ?」
「そういうわけでもないが」
「まっ、迂闊に結婚なんて考えるもんじゃないわね。普通に付き合ってるなら当人同士の問題で終わる話だけど、結婚になれば個人同士の付き合いが一族同士の付き合いになっちゃうのよ? 好き嫌いだけで片付く問題じゃないの」
 なるほど、ハルヒの意見にしては珍しく、至極まっとうなものだ。確かに結婚ってのはそういう意味合いも含まれてくるんだよな。
 俺もいつか、結婚しようなどと思う相手が現れれば、その家に行って「娘さんをください」とか言わなければならんわけか。そんな真似ができるんだろうか? 今はまだ考えたくないが……実際にそういうことになれば、しなけりゃならんのだろう。
「まぁなんだ。そういうのはタイミング次第だな。いい相手がいれば結婚するだろうし、いなけりゃ見つかるまで保留ってとこだ」
「何をそんな悠長に構えてんのよ」
 俺がそう言えば、ハルヒは何故か柳眉を釣り上げて睨みをキツくさせてきた。
「あんたみたいな頭も顔も標準スペックなヤツが、まだまだ先の話だと思ってのんびりしてると婚期を逃して、老後も一人寂しく孤独死しちゃうのよ」
 ひでぇ言われようだ。そこまで言われて返す言葉が何も出てこないほど、俺は穏やかな性格じゃないぞ。
「人のことより、そっちはどうなんだよ。前に……なんだ、恋愛感情なんて気の迷い、精神病の一種とか言い放ってたよな? おまえこそ、老後まで独り身のままっぽい……なんだよ?」
 などと俺が言えば、目の前のハルヒは驚愕面から沸点ぎりぎりの鬼の形相一歩手前に驚くほどの滑らかさで切り替わった。
「うっさい、バカ! どーしてあんたがそんなこと言えるのよっ!」
 教室の中のみならず、校内の隅々まで響き渡るバカでかい音量で怒鳴られた。クラスの中が静まりかえったのは言うに及ばず、間近で怒鳴られた俺なんて鼓膜が破れそうな勢いだ。きーんっと耳鳴りがする。
「ふんっ」
 睨めば相手を殺せるとでも言わんばかりの眼光で俺を睨め付け、ハルヒは鼻を鳴らしてそっぽを向いた。もしや、今の俺の一言がそこまでこいつの逆鱗に触れるもんだったんだろうか? そんなことで怒り狂ってもらっては、今まで俺が受けた仕打ちはどうなるって話だ。まったく意味がわからん。
 どうにもここで俺の方から「悪かった」と謝罪するのもバカらしく思う。かといって、こっちも喧嘩腰になるにはハルヒの気分が突っ走りすぎていて、怒ろうにも怒りにくい。これでは閉鎖空間のひとつやふたつ、どこぞに現れていそうだが、俺にだって面倒を見切れないこともあるし、どうしていいのかわからんこともあるのさ。
 今はとりあえず、放っておくのが一番か。
 苦労する古泉には悪いが、出来ることなら俺は厄介なことに率先して首を突っ込みたいとは思わないんだよ。
 だから、その日はそれ以上の会話をこっちから振ることもなく、俺からリアクションを起こすことはしなかったんだ……が。
「それで放っておくのは、いささか問題があるかと思いますが……」
 その日は一日中機嫌が悪かったハルヒの不機嫌オーラに晒されて、針のむしろでストレッチをさせられているような気分を味わいながら団活が終了した後、俺は昨日と同じように鶴屋さんを自宅まで送り届け、これまた昨日と同じように残業らしからぬ鶴屋家での家事手伝いに従事することとなり、同僚……というよりは俺の教育係の先輩と言うべき森さんに学校で起きたことを追求されるがままに白状していた。
 何故にそんなことを報告しなければならなかったのかと言えば、それはやはりハルヒが原因に他ならない。
 あいつが不機嫌になるってことは、イコール閉鎖空間が発生するかもしれないということであり、そのとばっちりは古泉のみならず、森さんや『機関』関係者にまで及ぶ。
「でも、閉鎖空間は発生しなかったんでしょう?」
「…………」
 そんな軽口を叩けば、軽く睨まれた。
 いや、発生してないことは発生してないはずなんだ。そもそも今日の放課後、部室では古泉がのほほんとした態度でお茶をすすりながら俺とボードゲームでバトルを繰り広げていたわけだし、口やかましく何かを言って来たわけでもない。
 ハルヒもああ見えて自制心が強くなったのか、それともあいつが持っているという唐変木パワーも安定してきたのか、平和であったことは間違いない。
「確かに発生こそはしませんでしたが」
 ふぅっ、と呆れたような溜息一つ。
「あなたは、閉鎖空間を発生させないように、ということだけに注意して涼宮さんに接しているのですか? 腫れ物に触れるように」
「まさか」
 あの気が滅入るような灰色空間が発生して右往左往するのは『機関』の方であり、正直なところを言えば俺には関係がない。古泉の話では『機関』のエスパー軍団が《神人》に負ければ世界は作り替えられ、そうなると他人事ではなくなるのかもしれないが、そうなったとしても一般人代表たる俺には「世界がひっくり返った」と自覚できるかどうかも怪しい。
 ただ、古泉たちがハルヒのご機嫌取りに精を出しているようなので、俺もその邪魔をしないようにとしているだけだ。だからハルヒがケンカをふっかけてきて俺の逆鱗に触れるような真似をすればしっかり買うし、それによって特大級の閉鎖空間が発生しても知ったことか、という気分になるだろう。
 だいたい、腫れ物に触るようにハルヒに接しているのは古泉や森さん、それに『機関』の連中の方だと思うんですけどね。
「そうです。わたしたちが何より恐れているのは閉鎖空間の発生と《神人》です。故に、わたしたちが涼宮さんに接するときは、どうしても畏れ敬うような態度になってしまいます」
「相手はハルヒですよ?」
 あいつ相手に卑屈になることはないだろう……と、俺なんかは思ってしまうわけだが、森さんにとってはそうじゃないってことか?
「そうですね。確かに涼宮さんのことです、そういう態度をされるのは本意ではないでしょう」
「だったら、」
「けれど、わたしたちにはそうはできないモノがあります。『機関』という組織に身を置き、閉鎖空間という世界を一変させてしまう力を持つ存在だと涼宮さんのことを認識してしまっている以上は……そうですね、本能の部分に畏れ敬う気持ちを植え付けられているのかもしれません。涼宮さんから力が消えるまで、あなたのように接することはできないかと思われます。それはわたしや古泉などの『機関』関係者のみならず、朝比奈さんや長門さんにも当てはまるでしょう。ですから、あなただけは、涼宮さんを普通の女性として接してあげてください」
 などと言って、人の鼻先に白くて細長い指をビシッと突きつけられても、俺はただただ困惑するしかない。
 森さんがそんなことを言うまでもなく、俺はハルヒをそんな目で見ちゃいないし、絶対不可侵の現人神のように接した覚えもない。後先考えず脊髄反射で面倒を巻き起こす困ったヤツのせいで右往左往してたまるか、と常々思っているわけで、そんなふざけた真似をさせてたまるかという思いから、あいつがやろうとしている常識はずれなことをたしなめているに過ぎない。
 だから、ハルヒが言い出すことでも、世間一般の常識と照らし合わせて激しく逸脱してないことであれば、普通に乗ってやってるし、他の奴らと変わらない態度を取っている。
「でしたら、今日の対応はあまり感心できるものではない、と思いませんか?」
「えー……っと」
 なんともなしに、今日の森さんはいつもの森さんと違うような気がする。別人がなりすましているって意味ではなく、いつもの一歩後ろに引いたような、メイド気質が身に染み付いているような態度ではなく……なんだろう、俺は長男だからわからんが、酸いも甘いも噛み分けた姉に、とつとつと諭されているような気分になってきた。
「何か、いつもと違いますね」
「今は状況が違いますもの。今のわたしは鶴屋家のメイド。あなたとは同僚ということになりますので」
 つまりTPOを使い分けてるってわけですかそうですか。
「でもあれですよ。俺はただ、ハルヒが挑戦的な言い方をしたから受けて立っただけで、そうしたらあいつが理不尽にキレただけじゃないですか」
「問題はそこではありません」
 違うのか? 俺はてっきりそこに問題があるからこそ、森さんはあれこれ苦言を呈しているのだとばかり思っていたんだが。
「涼宮さんが口に出す言葉と、心の奥底に本人さえ自覚してないであろう本心の部分は、違うものです。今は確かに恋愛事に興味がなく、あまつさえ結婚などというのは遙か先のことで、するつもりもないかもしれません。だからと言って、それを真っ向から、しかもあなたが否定してしまうのは、失言かと思われます」
「なんで俺が否定しちゃダメなんですか」
「あなたでなくとも、男性が女性に対して『おまえは結婚できない』と申しますのは、感心できません」
 ……言われてみれば確かに……って、待て待て。確かに森さんが言うように、あのときの俺の発言は冷静に考えれば失言以外の何ものでもないが、俺だってハルヒに似たようなことを言われてるんだ。それはいいってことはないだろう。
「確かにおっしゃるとおりです。けれどわたしはその場におりませんでしたので、涼宮さんの発言が本心かどうかは存じません。方や、あなたの発言は照れ隠しというよりも本心で口にした言葉との印象を受けましたが」
 そりゃあ、俺がハルヒに対して照れを隠さなくちゃならん理由はないわけで……って、じゃあ何だ、森さんはハルヒの発言が俺に対して何かしらの照れがあったと、そう思ってるわけか?
「さて、どうでしょう」
 くすくすと笑みを転がす森さんは、どこかしら楽しんでいるようでもある。
「今さらではありますが、涼宮さんに悪態を吐かれたときにあなたが返す言葉は『いざとなったらおまえが俺と結婚してくれ』と言うのが、相応しいものだったかもしれませんね」
 ……勘弁してください。いやホントに。
「あら、そうですか? 他の皆様方はどう思われるか存じませんが、少なくともわたしは祝福いたしますよ。幸せな結婚には、祝福が必要ですもの」
 いや、森さんに祝福されても、だからって残りの人生、ハルヒのワガママに振り回され続けるのは勘弁したい。
 だいたい、何でこんな話になってんだ? 俺はただ単に、結婚を間近に控えた女性の心理を知りたかっただけなんだけどな。
「幸せな結婚には祝福が必要ですか」
「女性の場合は特にそうなのではないでしょうか。当人同士が幸せならそれでいい、という考え方もございましょうが、女性はメンタル部分に比重を置くものです。やはり、親族や友人にも祝福されたいものでしょう」
「鶴屋さんもそうなんですかね?」
「え? ああ……」
 やや無理やりに、俺が当初の目的としていた方向に話を正せば、森さんは虚を突かれたように言葉を濁して、らしくなく視線を流した。
「そうかもしれません。ですから、あなたも祝福してくだされば、お嬢様も喜ばれると思います」
「鶴屋さんが納得して自分で決めたのなら、もちろん祝福しますよ。否応もありませんしね」
「納得……そうですね、お嬢様が納得なさって決めたことであるのなら、それが一番いいことなのでしょう」
 はて? これは俺の目がどうかなったのか、それとも単なる勘繰りすぎなのか……祝福してあげてくれと言っている森さんの方こそ、何故か祝福してないように見える。
「何かあるんですか、鶴屋さんの結納には」
「と、申しますと?」
「いや、なんとなくそんな気がしたんですが……違います?」
「さて……おっしゃる意味がよくわかりません。ああ、食器洗いが済みましたら、今日はもう上がられて結構です。御苦労さまでした」
 さらりと俺の問いかけを一蹴して、森さんはゆるゆると調理場から出て行った。


 さすがに三日目になると、いくら俺でも体が順応してくれるらしい。つい数日前までなら「早い時間だ」と思える時刻に目が覚めて、体も気怠さを感じずに動いてくれる。慣れというものは恐ろしいね。
 妹なんかは俺を起こすことがなくなって少しつまらなさそうにしているが、こっちにしてみれば朝っぱらから惨い仕打ちに遭うこともなく、清々した気分だ。
 そんな清々しい気分を維持できるかどうかは、すべてハルヒの機嫌次第である。昨日のヘソ曲げから今日までその態度が続いているとは思えないから、まぁ問題ないだろう。
「…………」
 教室に足を踏み入れて、考えが甘かったと今になって思い知らされる。自分の席に座ってぼんやり窓の外を眺めているハルヒは、パッと見た感じじゃいつも通りだ。不機嫌さなんて微塵も感じられない……が、俺の姿を目に留めるや否や、眉根に皺を寄せて口をへの字に曲げ、そんな勢いじゃ首がつるんじゃないかと思えるような勢いでそっぽを向いた。
 なるほど……と、納得する。
 俺を目にするまで、ハルヒの態度はどうやら普通だった。けれど俺を見るや否やであの態度だ。不機嫌の矛先は世界全域に向いているわけではなく、俺個人に向けられているようで、故に世界に対する不満はないのだから世界を作り替えるような閉鎖空間は発生してないらしい。
 そうかそうか、それで世界は平和なのか。
 冗談じゃない。
 世界全域に影響を及ぼすハルヒの不機嫌が、俺個人に集中して向けられているなどと、考えるだけでも恐ろしい。そんなイカレたパワーを俺一人に向けられているのだとすれば、今はまだ平気っぽいが、今後、俺自身の体調にどのような変化が出るのか、わかったもんじゃない。
「おはよう、ハルヒ」
 迂闊な事は何も言えやしない。当たり障りのない朝の挨拶で出方をうかがうことにしてみれば、ガン無視された。
「あ〜……そういえば、週末の土曜日には、市内探索をするのか?」
「なんで?」
 随分と険のある声で聞き返された。
「いや、もしかすると用事が入るかもしれないような気がするんで確認してみただけなんだが」
「そんな先のことなんて、知ったこっちゃないわよ」
 バッサリ切って、ハルヒは再び窓の外に目を向けた。
 ダメだこりゃ。今はもう、何も言うまい。幸いにして今はまだ俺自身に大きな変化があるわけもなく、こいつの気持ちがある程度落ち着くまで放っておいた方がよさそうだ。厄介なことは先延ばしするに限るってわけさ。
 だがしかし──。
 厄介なことかどうかは別として、ハルヒと違い、訳がわからないからと素知らぬ顔をしていられない話もある。
 いつの頃からか俺でもわからんが、ここ最近、妙に気もそぞろな長門は、果たして鶴屋さんが言うように恋煩いをしているんだろうか。あの長門が……ねぇ。
 俺には一概に信じられない話だが、そんなことを言ったのは鶴屋さんだからなぁ。直に長門の状態を見てないとは言え、妙なところで鋭いあの人の言葉は無視できない。恋煩いということでなくとも、何かしらの悩みを抱えているんじゃないだろうか。
 それも、俺たちの誰にも言えないような悩みだ。
 これがもし、いつぞやの世界改変のような大事になる話であれば、今なら事前にきちんと打ち明けてくれるだろう。だがそうしないということは、至極個人的な悩みである可能性は大だ。
 水くさい、と言えば水くさい話だが、長門にだって誰にも言えずに抱え込むような悩みがあって当たり前さ。一人悶々としているかもしれない。
 だとして……さて、それに気付いた俺はどうするべきか。気付かないふりをするのがいいかもしれないが、そういうことをすれば長門のことだ、悶々としたまま、ため込み続けて、ある時を境に大爆発を起こしそうで不安だ。
 そもそも朝倉がいない今、あいつが抱えるであろうストレスの吐き出し口はなくなっていそうだしな。
 夏のあの日、ハルヒと佐々木の閉鎖空間が共鳴したあのときに、過去の朝倉と今の長門が邂逅した姿を見て、長門にとって朝倉は本来なら頼るべき相手、朝倉にとって長門は守るべき相手だったんだろうと思った。二人がそう言ったわけじゃないが、二人が協力し合っていた姿を見た俺の感想として、そう思うわけだ。
 けれど朝倉はその役目を俺に丸投げしちまった。だからあの茶番の凶行を起こして表舞台から身を引いたんだろう。俺と長門の絆を作るために。
 となれば、本来朝倉がやらなければならないことは俺の役目となり、もし長門が悩みを抱えているのなら、その受け口になるのも俺の役目ってことになっちまう。そういうことを、あいつは俺に押しつけたんだ。
 やはり、見て見ぬふりはできないか。
 放課後になり、俺に対する怒りが未だに収まらないハルヒの殺気から逃げ出すように部室に飛び込んだ俺よりも早く、窓辺の指定席で本を読み続ける長門の姿を見つけて、俺はそんなことを考えた。
「長門」
 呼びかければ、本を読んでいた長門はページをめくろうとしていた指を震えるように一瞬だけ止めて、何事もなかったかのように次の一文に目を通したままだった。
 ま、いつも通りの反応と言えばその通りだ。一瞬だけとは言え、動きを止めたということはこっちの声も聞こえているんだろう。
 だから、長門が顔を俺に向けずとも言葉を続ける。
「何かあったのか? あー……その、悩み、とか」
「……何も」
 並ぶ活字に目を落としたまま、素っ気なく答えちゃいるが、その間はなんだと問いたい。
「けっこう深刻な悩みだったりするのか?」
「別に」
 とりつく島もない……と、他のヤツがこんな態度をしていればそう思うところだが、何しろ相手は長門だ。機嫌の良し悪しで言えばいつもと変わらない。もしくは、俺との会話よりも本を読む方に集中したいが故の素っ気なさかもな。
「もしかして、恋煩いとかじゃないだろうな?」
 遠回しに探りを入れるより、ここはこっちが思うことをストレートに聞いた方がいいような気がした。気を遣えと言われそうだが、長門はそんなことで気を悪くするようなタイプではないし、むしろ遠回しな言葉は通じなさそうでもある。
「…………」
 そう問えば、長門はようやく本から視線を上げて俺を見た。揺るぎもしないその眼差しは、果たして何を言いたいのか……こっちが長門のことを気に掛けているのに、むしろ長門の方が俺のことを気遣っているような気がする。
 悪い表現を使えば、妙なことを言い出した相手を憐れんでるように見つめることしばしの時間。そろそろ居心地の悪さを感じるくらいに見つめられてから──。
「ない」
 ──わずか一言、そう答えて再び本に視線を戻した。
「そうかそうか」
 その言葉を素直に信じるか否かと問われれば、信じようと思う。普通ならこんなストレートな問いかけに、本当に恋煩いをしているのだとしても正直に答えなさそうだが、長門はそういう真似をしない……むしろ、できなさそうだ。
 ということは、やはり長門の様子がおかしいのは、恋煩い云々ではないらしい。が、まったく悩みもなくいつも通りとも思えない。
 何か抱え込んでいるのは確実だ。じゃあ、それは何だろう? さっぱり見当も付かない。
「まぁ……なんだ」
 どうにも鏡に向かってにらめっこしている気分になってきた。これ以上、下手に食い下がっても答えてくれなさそうだ。
「話せるようなことなら、俺じゃなくても他の奴らに相談してみればいいんじゃないか?」
「…………」
 俺のその言葉を、長門はどう受け取ったんだろう。黙して語らず、視線は本のページに落としたままで何も言わなかった。
 ならばこれ以上、こっちからあれこれ問い質すのはやめておこう。そうまでして言いたくない、あるいは言えない話なら、無理に聞きだそうとしても長門を困らせるだけになる。よかれとして思ったことが裏目に出るのは、双方にとって勘弁したいところだ。
 それならそうで、俺から長門に言うべき言葉は何もない。そろそろ朝比奈さんが来てくれてお茶でも淹れてくれないだろうか。
「悩み……では……が……」
 沈黙に包まれて、俺が長門の心配から朝比奈さんのお茶に考えをシフトさせた頃合いに、交通量の多い環状線の草場で儚く鳴く鈴虫の鳴き声よりも聞き取りにくい声で、長門がぽつりと何かを呟いた。
「何だって?」
「……あの姿は……」
「すみませぇ〜ん、遅くなっちゃいましたー」
 口の中で転がすような声音がよく聞き取れなくて、俺が改めて聞き直そうとする合いの手を阻むかのように開かれるドア。息を切らせて部室に駆け込んできたのは朝比奈さんであり、思わず俺も長門もドアに目を向けていた。
「あ……えっと……あたしの顔に、何かついてますか?」
「いえ、そういうわけでなく……ああ、長門。それで、何だって?」
「別に」
 気がつけば、長門はすでに本に視線を戻していた。
「何も」
 戻した上で、答える言葉は素っ気ない。もしかして、何か言ったと思ったのは俺の気のせいだったんだろうか? そう思えるほど、その日の長門はそれ以上の言葉を口せず、なのに帰り間際の読書終了時間はわずかにズレていた。
 んー……んん〜……ここはひとつ、アプローチの方法を変えてみるべきだろうか。例えば……そうだな、俺よりも近しい存在の喜緑さんにでも相談してみれば、上手く聞き出してくれるかもしれない。
 ……いや、あの人を巻き込むのは危険か。いろいろな意味で話をややこしくされそうだ。それは勘弁願いたい。
 ああ、そうとも。心の奥底からそう思う。
「じゃあ、あたしが聞き出してみよっか?」
 帰り道、俺の自転車の後ろで立ち乗りしている鶴屋さんに今日の長門の様子を話してみれば、鶴屋さんはそんなことを言ってくれた。
 どうやら俺には、何かを頼めば余計なことまで付属するような、頼りになるのかならないのかわからない先輩より、いざというとき望むような形で力になってくれる頼もしい先輩がいるらしい。
「いやあ、長門が何も言わないのなら、あいつから何かを言ってくるまで様子見にしておいた方がいいんじゃないかと思いますよ」
 かといって、鶴屋さんの申し出を甘んじて受け入れるのもどうかと思う。特に今はそんなことを頼んでいる状況ではない。なにしろ、明後日には結納を控えているんだ。鶴屋さんが直接関係ないことにまで巻き込んで、余計な心労を背負わせるのは心苦しい。
「そうかい? あたしは別に構わないんだけどさっ!」
「それより鶴屋さん、土曜日って俺はどうすりゃいいんですか?」
「ん〜っ、キョンくんは土曜日に何もないっかな?」
 その確認をハルヒに取ってみたんだが、けんもほろろな答えをもらっちまったわけで、どうやら丸一日空いているみたいではある。まぁ、明日とか明後日になれば気分屋のハルヒのことだ、どうなるかわからない。
「そんじゃ、暇してるってんならキョンくんにも付き合ってもらっちゃおっかなっ! あたしの旦那さまになる人がどんなもんか、興味あるっしょっ!?」
 興味のあるなしで問われれば、そこは迷いも悩みもなく即答で「ある」と答えるが、となればそこで出会うのは、将来、鶴屋さんの旦那になる野郎であるわけで、そんなのを前にするのはとてもとても複雑な気分になるのは間違いない。
「行きますよ」
 それでも俺がそう答えたのは、なんとなく、本当になんとなくだが、鶴屋さんに着いていった方がいいような気がしたからだ。
 別に何か言われたわけでもないし、俺の思い上がりだと言われても反論のしようがない。ただ、どうにも鶴屋さんは俺に着いてきてもらいたいような雰囲気だと感じた。
「そっかそっか。んじゃーっ、そこまで言うんだったら、土曜日はあたしに付き合ってもらっちゃおっかなっ!」
 考えすぎだったらしい。
「……やっぱり、家でゆっくりしてようかと思うんですが」
「うっはっ! うそだってばさっ! やっぱほれ、あたしもキョンくんに来てもらいたいなーって思ってたんよっ。ほんとほんとっ! だからほれっ、拗ねちゃダメにょろよ」
 別に拗ねてるわけじゃないが、鶴屋さんの態度を見るに、別に俺が居ようが居まいがどっちでもよさそうだとは思う。やっぱり俺の勘繰りすぎか。着いていった方がいい、などとちょっぴり考えた自分の思考回路をメンテナンスに出したくなってきた。
「ホント、感謝してるっさ。あんがとっ!」
 ……まぁ、あながち俺のアホみたいな勘違いってわけでもないのかな、と今の鶴屋さんの一言を聞いて思う。
 なんだかんだと、やっぱり鶴屋さんにも不安に思うところがあるんじゃないだろうか。朝比奈さんが一緒にいることが一番いいのかもしれないが、状況がそれを許さない。なら、事情を知っていて鶴屋さんと多少なりとも気心が知れている俺が側にいることで、不安も──完全にとは言えないが──解消できる。
 よし、そう思い込むことにしておこう。
「んじゃキョンくん、それなら土曜まで残業なしでいっかな? ほれ、キョンくんも来てくれるっつーんなら、その日までに疲れをため込まれてげっそりした顔をしてられちゃうと、ちょっとアレっしょ!」
「ああ、了解です」
 別に鶴屋さんの家でやることでげっそりやつれるようなことは何もしちゃいないが、雇い主がそう言うのであれば否応もない。
 鶴屋家の門前までたどり着けば、そこでは今日も森さんが出迎えてくれていた。もしかして自分の服か、はたまた鶴屋さんの持ち物いGPSやら仕込まれているんじゃないかと思えるような出迎えだ。
「んじゃキョンくんっ、また明日っ!」
「お疲れさまでした」
 元気な鶴屋さんと慎ましやかな森さんに見送られ、俺はそのまま自転車を自宅に向けて走らせた。この調子だと、今日は我が家で夕飯を食べることになりそうだ。となれば、その後に妹の勉強を見ることになるかもしれん。昨晩、そんなことを騒いでいたような気がする。
 久しぶり……と言っても三日ぶりくらいだが、早めに帰れるのなら、テレビでも見てのんびりしたいのが本音さ。妹に勉強を教えるのは手間というほど面倒なことでもないが、早めに片付けておきたい。
 ──少し急ぐか……
 そんなことを考えてペダルをこぐ踏み込みを強めようとした矢先。
「うわっ!」
 脇道からまるで狙っていたかのようなタイミングで飛び出して来た人影がひとつ。慌てて急ブレーキを掛けてタイヤを滑らせ、こっちがコケそうになりつつもギリギリの所で止まることができた。
「あっ、危ねぇだろ!」
「止まれると思ってましたから。こんばんは」
 怒鳴る俺の声なんざ、そよ風とさえ思わないような態度で、馴れ馴れしく声を掛けてくるその相手を見て、ブレーキを握る手に力を込めるんじゃなくてペダルをこぐ足にこそ力を入れればよかったと思った。
「何やってんだ、橘」
 ニコニコと、危うく俺に轢かれそうになったってのに屈託のない笑顔を浮かべる橘に、俺は険のある声を飛ばした。誘拐未遂の次は当たり屋未遂か。もう少し真っ当な人生を歩んだらどうだ?
「あのですね、元からぶつかるつもりなんてなかったのです」
 つまり、当たるも避けるも自由自在か。やっぱり当たり屋じゃないか。
「どうしてもあたしを犯罪者にしたいわけですか」
「俺がどうこうする以前に、立派な犯罪者だろ」
「ひどいのです」
 ひどかねぇよ。事実だろ。
「それより……」
 橘は視線を逸らし、俺の遙か後方に目を向けた。つい釣られて俺も目を向けるが、別に何かがあるわけじゃない。ただ、俺が鶴屋家から通ってきた道が続いているだけだ。
「その鶴屋家のご令嬢と、ずいぶん仲がいいんですね。二人乗りなんかしちゃって、傍目に見れば、お付き合いしてるように見えちゃいますよ」
「んなわけねぇだろ」
「ですよね」
 俺が否定すれば、橘もあっさり頷いた。それはそれで妙にムカつくんだが、敢えて多くを語るまい。
「いえいえ、だってほら、ご存じですか? あの方、今週土曜日には結納を済ませてしまうそうじゃありませんか。確か、あなたよりひとつ歳が上なだけですよね? なのに結婚だなんて、家柄が大きくなると何かと大変ですね」
 それは確かに俺も思うところだが、だからと言って橘が同情めいたセリフを口にするのは、余計なお世話ってやつだ。鶴屋さんだって、こいつのことを知ればそう思うだろうさ。
「おまえ、また何かたくらんでるんじゃないだろうな」
「いやですね、人をそんな色眼鏡で見てはよくないのです。そもそも、以前にあなたには佐々木さんのことでお世話になってますし、当面は涼宮さんの能力のこととかでご面倒をかけるつもりはありません」
 当面じゃなくて、今後一切そういう厄介事を巻き起こすのはやめてくれ、と言いたい。前回のことで俺に感謝してるなら、もう悪さはしませんという誓約書にサインを入れて送って来い。
「ふふ、考えておきます。でもホント、今週になって毎日ですよね? なんで一緒に登下校なんてしちゃってるんですか?」
「誘拐未遂に当たり屋に、そしてノゾキまでしてんのか、おまえは」
「ですから、そうではなくて。ただちょっと、気になるんです」
 何が言いたいんだ、こいつは?
「だってほら、ご存じですか? あの方のお家、古泉さんが所属する『機関』のスポンサーのひとつじゃありませんか」
「だから何だよ」
「そのことは知ってるんですか。そうですか……それでその態度……ふぅん?」
 まるで探るように、橘はくりくりとよく動く大きな双眸で人の心の内まで探るように顔を近付けてきて、ふむふむと何やら独りごちている。
「もしかして、鶴屋家のご令嬢のお相手がどちら様か、まったくご存じない?」
「知ってるのか、おまえは」
「あっ、やっぱりそうなんですね。それでですか……。あ、今って帰り道? お邪魔しちゃってすみません。それではまた、どこかで」
「はっ? おっ、おい! ちょっと待て!」
 呼び止めたって意味はない。どうせやるなら追いかけることだが、自転車から降りていた今ではもう遅い。
 妙なところで素早い橘は、飛び出してきた脇道に引き返したかと思えば、すでに行方を眩ませていた。