森園生の変心 一章

 明けて翌日。月曜の朝という、新しい一週間の始まりは気怠さも倍増され、布団から這い出るだけでも一苦労だというのに、その日の俺は早い時間であるにもかかわらず、必死になって自転車を飛ばしていた。
 まだ遅刻もしない余裕のある頃合いだ。むしろ、普段の月曜日なら半分寝惚けて朝飯を頬張っているか、あるいは妹の極悪目覚ましアタックを食らっているかのどちらかだろう。
 にもかかわらず、そんな早起きをして必死になって自転車を漕いでいるのは、鶴屋さんの家に向かっているからに他ならない。
 結局、森さんが提案してくれた鶴谷さん専属執事という立場は、どうやら本気でアリな展開だったらしい。あの後、思い立ったら即実行とばかりに俺を個人的に雇う是非を親に聞きに言った鶴屋さんは、戻ってくればいつもと変わらぬ平素な笑みを浮かべて「おっけーが出たよっ」などと、けろりと言い放ってくれた。
 本当にそれでいいのかと疑わずにはいられないが、そうと決まったのならここは素直に喜ぶべきだろう。そりゃだって、一度はフイになったバイトが決まったわけだからな。
 そんな俺の仕事内容と言えば、これまた森さんが言ったことそのまんまである。つまり、学校内における鶴屋さんのお世話、というものだ。
 果たしてあの人に俺なんかの世話がいるのだろうか? という疑問は、この際、横に置いておこう。むしろ俺の方がお世話になっているのは、はばかることのない事実であり、俺も自覚している。
 ただ、それでも自分の仕事がそういう役割である以上、鶴屋さんの世話ということをしなければならないわけで、じゃあ具体的にはどうしようってことになった。
 こういうことを本人である鶴屋さんに改めて聞くのもどうかと思うが、かといってわからないままでは話にならない。確認のつもりで聞いてみたら「何かあったら声を掛けるっさ」と言われ、どうやらあまりアテにされてない気がして、そこはかとなくもの悲しくなったのは、ここだけの話である。
 そもそも、執事とやらの仕事は、主がいちいち声を掛ける前に気付いて行動するもんじゃないかと思う。よくわからんけど。ただ、森さんを見ていると、特にそう感じるわけだ。
 そんな先輩的立場となった家事手伝い人、森さんにそれとなく相談してみれば、返ってきた言葉は「朝晩の送迎や昼食時のお世話をされては如何でしょう」と言われたわけで、それならそうしましょうと決まった。
「やっぽーっ! キョンくん、はっやいねぇっ!」
 予定時間に遅れることなく、鶴屋家正面玄関とも言うべき門の前にたどり着いた俺だが、そこにはすでに鶴屋さんがスタンバっていた。早いと言うのなら、鶴屋さんの方が数倍は早いと思うんですがどうですかね。
「こちら、昼食のお弁当になります」
 スタンバっていたのは鶴屋さんだけではない。その傍らには森さんも居て、俺に弁当の包みを差し出して来た。
 どうやら森さんは俺のような通いの家事手伝いではなく、住み込みでメイドをしているらしい。これはもう何て言うか、本当に『機関』から本式メイドに職変えをしたんじゃなかろうか。
 にしてもこの弁当、量が多いな。
「お嬢様の分とあなたの分もございますので」
「俺のもですか?」
「ご不要なら他の方に譲渡されても、破棄していただいても構いません」
 不要なんてわけもない。今日は朝が早かったので、うちの親が弁当を作る暇もなかったんだ。学食で事を済ませるかと考えていただけに、有り難いことこの上ない。
「んじゃ、よろしく頼むっさ!」
 そう言って、鶴屋さんはこの人らしい性格をよく表すかのように、立ち乗りで俺の自転車にまたがってきた。
 まだ高校生の俺には車の免許の持ち合わせは当然なく、かといってバイクの免許もあろうはずもなく、せいぜい自転車の荷台に乗ってもらって運ぶ程度が関の山だ。
「いっやーっ、こういうのは楽ちんでいいねっ! キョンくんは大変そうだけど、でもまっ! お仕事なんてそんなもんさっ!」
「朝早いのが辛いですけど、運ぶ分には楽なもんですよ。いつもはどうしてたんですか?」
「ん〜? ふっつーに車で送ってもらってたっさ」
 いやそれ、普通じゃないでしょう。少なくとも俺は、生まれてこの方、一度たりとも親やそれ以外の誰であろうと、車で送迎されたことなんてないぞ。
「いやでもほれっ、けっこーハッズイんだよっ! みんなジロジロ見ちゃうもんだからさっ、校門まで行くのも最近はやめてもらってたにょろよ。こういう風に自転車で送ってもらった方が、青春を謳歌してるーって感じになるっしょっ!」
 自転車で送ってもらうことのどこに青春の謳歌があるのかわからんけども、鶴屋さんは車での送迎よりこっちがいいと思っているらしい。それならそれで運ぶ甲斐があるし、このボロい自転車も本望だろうさ。
「そういえば」
 鶴屋さんを後ろに乗せて快調に自転車を飛ばしながら、ふと昨日のことを思い出した。
「昨日、森さんが言ってましたが、何かあるんですか?」
「ほぇ? なんか言ってたっけ?」
「大事を控えたとかなんとか。それがあるから、俺をバイトに雇ってくれたんでしょう?」
「ああ、その話かい? 別にたいしたことじゃないんだけどさっ、今週の土曜に……あれっ? ねっ、あれってみくるじゃないっかな?」
「え?」
 話を途中で区切って後ろに立ち乗りしている鶴屋さんが指さすその先には、一人静かに歩を進める朝比奈さんの姿があった。
「おーい、みっくる〜っ!」
「あれ? あ、鶴屋さん……と、キョンくん?」
 俺が自転車を止めるのも待っていられない、とばかりに飛び降りて、鶴屋さんが手をぶんぶん振って朝比奈さんを呼び止めれば、朝比奈さんは呼び止めた鶴屋さんよりも、どうして俺が一緒にいるんだろうということを暗に示すようにキョトンとした表情を浮かべて見せた。その面持ちも麗しいことは言うまでもない。今日はいい一日になりそうだ。
「おはようございます、朝比奈さん」
「あ、おはようキョンくん。あの……どうして鶴屋さんと一緒にいるの?」
 朝比奈さんがそう聞いてくるのも無理はない。いつ如何なる時であれ、俺と鶴屋さんが二人でいるって状況は確かに珍しい。しかもそれが朝っぱらからともなれば、朝の挨拶もそこそこになるのも当たり前ってもんだ。
 ま、得てしてそういう疑問ってのは、種を明かされれば「なぁ〜んだ」の一言で片が付くもんなんだけどな。
「んっふふふ……キョンくんはねっ、あたしのモノになっちゃったのさっ!」
「ふぇっ!?」
 俺がちゃんと誤解の無いように説明しようとした矢先、鶴屋さんが人の腕にしなを作りながら寄り添いつつ、とんでもない爆弾を投下しやがった。
「ちょっ、何言ってんですか!」
「あっれぇ〜っ? ウソは言ってないにょろよ」
 確かに今の俺の立場は、鶴屋さん専属の執事らしいので『あたしのモノ』とやらに間違いはなく、となればおっしゃるようにウソは言ってないが、あれこれ誤解を招きそうな端折り方はやめてください。
「あのですね朝比奈さん。今、何をどう考えているのかわかりませんが、たぶんそれは絶対に違うんです。憶測なのか確信があるのかわからん言い方ですが、ともかく違います」
 あくせくしながらちゃんと説明しようとしている俺の横で、けたけた笑っている鶴屋さんがことさらうらめしい。今さらだが、バイトだからと言ってこの人に仕えることになっていいものだろうか悩む。
 それでも俺の必死の説明が功を奏したのか、朝比奈さんはちゃんと理解してくれたらしい。
「アルバイトなんですかぁ。なんだぁ、それならそうと、ちゃんと言ってくれればいいのに。もぅ」
 ぷくっと頬を膨らませて鶴屋さんを睨む朝比奈さんだが、その仕草もまた愛らしく、今からでも鶴屋さんから朝比奈さんの執事に鞍替えできないかと、ちょこっとだけ考えた。
「キョンく〜ん、なんか初っ端から減給しちゃおっかなぁって思えてきたんだけどっ! んん〜っ? なぁ〜に考えてんのかなっ!」
「いえ、別に」
 勘の鋭いこの人の前では、例え言葉に出さずとも迂闊なことは考えたらダメらしい。
「でもキョンくん、急にアルバイトだなんて……やっぱりそのぅ、大変なの?」
「ああ、いや。大変じゃないと言えばウソになりますが、俺も高校二年ですから、そろそろバイトのひとつでもやってみようかなっていう……そう、社会学習みたいなもんですよ」
 実際は朝比奈さんが言うように、毎度毎度の支払いでひーひー言ってる事こそがバイトを始めた最たる理由なんだが、金銭面での悩みを朝比奈さんに愚痴るなどと、そんなみっともない真似はできやしない。横でニヤニヤとほくそ笑んでいる鶴屋さんは、この際、見なかったことにしたいと思う。
「ん〜っ、でもキョンくん。いいのかい? バイトのことはみんなにはナイショじゃなかったっけ?」
「え、そうなんですか? あ、それならあたし、聞かなかったことにしますけど」
 いや、別に内緒にする話でもないし、かといって自分から公言するようなことでもない。そもそも朝比奈さんに知られた時点で、他の連中にまで隠し通せるとも思ってないっすよ。
「ん〜っ、でもハルにゃんに知られっと、怒られる……とまではいかなくても、機嫌を損ねちゃいそうな気がするよっ」
「あー……そうかもしれないですね」
「え、どうしてですか?」
「そりゃ〜っ、だってねぇ?」
「ええ……」
 可憐な上級生コンビは、そろって同じ結論に達しているらしいが、俺にはその理由がさっぱり思い至らない。どうして俺がバイトするとハルヒの機嫌が悪くなるんだ?
「おっとっ! こんなとこで立ち話してると、遅刻しちまうぜぃっ。早く行こ行こーっ」
「あ、じゃあ俺は自転車をいつもの駐輪場に置いてきますんで、先に行っててください」
「あいよんっ! んじゃみくるっ、行こっか!」
「はい。じゃあキョンくん、また後で」
 本来なら学校までちゃんとエスコートするのもんなのかもしれないが、それでもここまで運べば充分とも思う。特に今は朝比奈さんと会ったわけだし、雇い主がそれでいいと行ってるのだからいいはずだ。
「……あ」
 そんな風に自分なりに納得していつもの駐輪場へ向かう最中、ふと思い出した。
 森さんが言ってた、鶴屋さんが控えている大事とやらが何なのか、結局聞きそびれたな。まぁ……いいか。


 結局、朝はいつもより早く起きて家を出たというのに、教室に足を踏み入れたのはいつもと変わらぬ時間だった。人は目的の場所に向かうときは自ずとその方向に目を向けるわけで、とすればそこにはハルヒが居り、物憂げな眼差しをぼんやりと外に向けているのが目に入る。
 あの表情から察するに、退屈な授業時間を乗り越えた後の放課後に、いったい何をしてやろうかと目論んでいるに違いない。はた迷惑なことこの上ないヤツだ。
 そんなハルヒの顔を眺めつつ自分の席に向かって腰を下ろし、ふと朝の一幕を考える。
 俺がバイトをしていると知ればハルヒは機嫌を損ねる、という朝比奈さんと鶴屋さんの一致した見解は、果たして本当なんだろうか。
 俺がバイトをしようが何をしようが、そんなことでいちいちハルヒがむくれる意味がわからん。
「なぁ、試みに聞くんだが」
 避難訓練も、いつ起こるかもしれない自然災害が発生したときに慌てずに行動できるようにするためのものであり、そう考えれば何事においてもシミュレートしておくことは重要なのだと思う。
「俺がバイトを始めたとしたら、どう思う?」
 そう問いかければ、ぼんやり窓の外を眺めていたハルヒは油の切れかかったロボットみたいな首の動きで俺に顔を向け、おまえはまだ夢の中を彷徨っているのか? と暗に問いかけているような眼差しをしてみせた。
「バイトすんの?」
「いやだから、試みに、と言ってるじゃないか。例え話だよ。どう思う?」
「別に」
 ハルヒは肩に掛かった髪を後ろに凪がしながら、素っ気なく、かつ、簡潔にそう答えた。
「あんたがバイトしようが何しようが、あたしが何か思うわけないじゃん。好きにすればいいでしょ。まぁそうね、強いて言えばバイトを理由にSOS団の活動がおろそかになるのは許せないわね。両立できるもんならやってみなさいよ」
 だったらバイトを理由に早引けする古泉はどうなんだ? 今でこそそんな頻繁にじゃなくなってるが、SOS団発足当時はそう言う理由で帰っていたじゃないか。今もたまにあるぞ。
 だいたい、興味がないくせに挑戦的という態度も意味不明だ。
 が、それでも発信された言葉の意味を要約すれば、俺が予測していたものと大差はない。結局こいつは、俺がバイトを始めようが何しようが、どうでもいいに違いない。
 とすれば、仮に俺が鶴屋さんのところでバイトしているってことがバレたとしても、上級生二人が揃って結論づけた『ハルヒが機嫌を損ねる』という七面倒くさい厄介なイベントは発生しないだろう。むしろ、そんなもんが起こってたまるかってのが本音さ。
「……そんなにお金ないの?」
「あ?」
 シミュレートが無事に終了し、もはやハルヒと話すことはないと思っていたのだが、向こうからそんなことを言ってきた。
「だってあんた、急にバイトがどうこう言い出すんだもの。今までそんなこと、一度も口走ってないし、バイトしようって素振りすら見せなかったじゃない。で、昨日のあんたの態度でしょ? そう思うのは当然よ」
「あのな、ハルヒ」
 呆れを通り越して落胆したくなった。
「おまえは何かを勘違いしているのかもしれないから改めて言うが、俺は画期的な発明をして莫大な特許料を得ているわけでも、人類史に残るような驚異的な芸術作品を残して印税をもらっているわけでもない。かといって家が石油を掘り当てているわけでもないとなれば、ごくごく普通の一般人なのは言うまでもないだろ? 当然、もらっている小遣いは人が羨むような額であろうはずもなく、月にン千円という、世の中の物価上昇にくじけそうになるような微々たるものなんだ。そこから毎度毎度、喫茶店の飲み物代なんて出してみろ。破産するのは時間の問題だ」
「バッカじゃないの?」
 俺の切実かつ的を射た演説を、たった一言で切り捨てた。こいつが成長したな、と思うのは、そんな俺の助長な演説を最後まで黙って聞いていたってとこくらいか。
「よっぽどだったら、このあたしが知り合いのとこにバイトを頼んでやってもよかったけど、そんなくっだらないことをべらべら並べ立てられるなら、まだまだ平気そうじゃない。まっ、あんたみたいに時間にルーズなヤツが仕事なんて出来るわけないもんね。せいぜい今度から遅刻しないように気をつけなさい。それが遵守できるようなら、いいバイトを紹介してあげるわ」
 ハルヒが言う『いいバイト』とやらが、果たしてまともなものであるのかどうかが疑わしい。そもそも、こいつに仕事の世話をしてもらうのは屈辱的とさえ言える。
「それとも、今度から待ち合わせ場所はあんたの家にしてあげよっか? そうすれば遅刻しなくて済むもんね」
 それこそご免被る、ってやつだ。休日の朝っぱらからハルヒや古泉がやってこられても困る。朝比奈さんだけなら大歓迎だけどな。
「だいたいあんたはね、」
 ハルヒはここぞとばかりに説教をしたくなったようだが、そんなもんを聞く耳は持ち合わせていない。幸いにして予鈴のチャイムが鳴り、担任の岡部が定刻通りに教室にやって来たおかげで中断された。
 俺がバイトを始めたことをハッキリ言ってやってもいいのだが、どうにもハルヒは俺が働くことすらまともにできないダメ人間と思っている節がある。それはそれで心外だ。
 別に隠し立てする必要もないが、俺が鶴屋さんのところで働いていることは、気付かれるまで黙っていることにしよう。


 昼休み、ついいつものクセで国木田と谷口の二人と食卓を囲みそうになったが、取り出した弁当の包みを見て、これには鶴屋さんの分も含まれていることを思い出した。なので俺は、森さんが作ったという弁当を味わう前に鶴屋さんへ弁当を届けなければならず、二人には先に喰っててくれと告げて三年の教室へ向かった。
 妙な倦怠感に包まれているこの時間帯、生徒たちの行動は大きく分けて二分されると言っても過言ではない。それはつまり学食や売店に駆け込むか、持参した弁当を食べるのに最適な場所へ移動するかのどちらかだ。
 慌ただしさと穏やかさが妙な具合で混ざり合う今の時間帯は、ある種、独特かと思う。
「やーやーっ、遅かったじゃないかっ!」
 下級生の俺が上級生の鶴屋さんの教室に顔を出すのはなかなか恥ずかしいものだが、鶴屋さんは俺が来るのを待ちかまえていたのか、誰かに呼び出してもらうまでもなく気付いてくれた。
「すっかり忘れられてるんじゃないかって、ちょこっと心配しちゃったよっ!」
「忘れるわけないじゃないですか」
 実際には弁当の包みを見て思い出したわけだが、それは言わぬが花ってヤツさ。
「思うんですが、何も昼にわざわざ俺が届けなくても、朝のうちに渡しておけばよくなかったですか?」
「なぁ〜に言ってんのさっ! キョンくん、あたしにおべんと届けるのが嫌なのかい?」
 そういうわけじゃないのだが、朝も一緒に登校することになるのだから、そのときに渡しておけば二度手間にならずに済んだな、っていう効率の話をしているだけっすよ。
「そんな効率ばっか気にしてちゃダメにょろよ。急がば回れってことわざもあるくらいだしねっ! それにっ、こういうことしてるとイイコトあるかもよっ?」
「いいこと?」
「あ、キョンくん」
 いったい何のことだろうと首を捻っていれば、俺に気付いて声を掛けてきたのは朝比奈さんだった。俺とハルヒが進級しても同じクラスだったように、この二人もまた同じクラスだったようだ。
「鶴屋さんにお弁当を届けに来たの? あ、よかったら一緒に食べていきませんか?」
 俺が鶴屋さんに弁当の包みを渡した直後だったこともあってか、そんなことをおっしゃってくれた。
「まっ、そーいうことだよっ!」
 俺の背中をバシッと叩きながら快活に笑う鶴屋さんを見て納得した。
「え、なぁに?」
「いや、何でもないですよ。それなら、お言葉に甘えて」
 国木田と谷口という野郎二人と面を付き合わせて食べる弁当と、朝比奈さんと鶴屋さんに囲まれていただく食事なら、同じ料理でも味わいが違うのは自明の理ってヤツだ。
 これが毎日続くなら、鶴屋さんを迎えに早起きするのも悪くない。
 朝比奈さんと鶴屋さんに囲まれていただく昼食は、俺の高校生活の中で光り輝く思い出のトップスリーにランクインさせても申し分ないものだった。立場的に、多少は気を遣って鶴屋さんと朝比奈さんの飲み物を買ってきたり等、使いっ走りみたいな真似をしてはみたが、そんなもんはお安いご用だ。
 そして何より、弁当を作ってくれたのは森さんだ。その味わいたるや、俺の貧相なボキャブラリーでは表現し難く、有り体な言葉を借りれば「美味い」の三文字で事足りる。それは読んで時の如く、まさに美しい味わいで感動もひとしおだった。
「そういえば」
 食事も一通り食べ終えて、食後のお茶と談笑を繰り広げている最中にふと思いついた。
「帰りはどうするんですか?」
 一日の授業が終わって、部活があるならともかく帰宅部ならば学校に用はない。鶴屋さんが何かしらの部活に所属しているという話は聞いたこともなく、もし授業終了とともに帰るつもりなら、俺は文芸部部室に顔を出す前に送り届けなければならない。
「ああっ、気にしなくていいよっ。ちゃーんと待ってるからっ! そだねっ、漫研のトコにお邪魔させてもらって時間でも潰してるっさ」
「それなら先に送ってもいいですよ。どうせ俺だって、部室でやってることと言えば古泉とボードゲーム対戦くらいですからね」
「いいよいいよっ! 今日は特に用事もないし、キョンくんだってハルにゃんの相手を優先させたくてウチでバイトしてんっしょっ? 何か急用あっときはワガママ言わせてもらうけどっ! 今日はそーじゃないしねっ。終わってからでいいよっ」
 鶴屋さんは本当にそれでいいらしく、ならば俺も強くいう必要もなさそうだ。


 そんな高校生男子、特に北高生が夢見るような昼食の一時を終えた俺は、足取りも軽く自分の教室へ戻る……その手前で、もしかして俺を待ちかまえていたのかもしれない野郎と出くわした。
「楽しい昼食時を過ごされたようですね」
 にこやかな笑みを浮かべつつ、俺の行動を監視でもしていたかのようなことを口にする。気のせいでなければ、その面持ちはひがんでいるというよりも、呆れていると捉えていいかもしれない。
「気のせいではありません。正直、少し呆れています」
「何が」
「まさか本当に鶴屋さんのところでアルバイトを始められるとは。その話を耳にしたときは、二の句が継げませんでしたよ」
 それはつまり、おまえは俺がバイトすることに反対だと言いたいのか。
「別にあなたがバイトを始めることに異論はありません。ただ、場所が問題だと言っているだけです」
「世の中には職業選択の自由が認められているんだぜ? 俺がどこでどんなバイトをしようが、それは俺の自由意思じゃないか」
「確かにその通りですが……」
 億劫そうに俺の言葉に同意を示しつつも、跳ねる前髪を指で弄びながら古泉は何かを言いたげだ。
「なんだよ?」
「いえ、あなたがそうと選んだのなら、多くを語っても仕方がないのかもしれません」
 奥歯に物が挟まった言い方だな。言い方だが、まぁいいさ。言いたくないのなら言わなくていい。それよりも、俺にだっておまえに言っておきたいことがある。
「俺が鶴屋さんのところで働く以前に、森さんが一足先にメイドをしてるじゃないか。確かおまえ、鶴屋さんを巻き込むのは感心しないとか言ってたが、『機関』に属する森さんこそが鶴屋家に深く関わってんじゃないのか? 御法度じゃないのか、それは」
「それはいいんですよ」
 何だそりゃ? まったく意味がわからん。『機関』とは直接的に関係ない俺が鶴屋さんのところでバイトするのはダメで、『機関』に所属している森さんならOKだと? 言ってることが無茶苦茶だ。
「すでにそう言うことになってしまっているのですから、仕方がありません。あなたが鶴屋さんのところで働いていることを含めてね。僕はこれ以上の文句もありませんよ。ただ、職務を全うしてくださいと労うのが精一杯です。ではまた、放課後に」
 お手上げと暗に示しているのか、はたまた別れの挨拶を表現しただけなのか、どっちとも取れるように片手を上げて、古泉は自分の教室へと戻っていった。
 ちょうど、昼休みの終了を告げるチャイムが鳴り響く頃合いだった。


 日も暮れて、学生の本分たる学業の日程をすべて全うした俺は、背後に鶴屋さんを乗せて鶴屋家へ送り届けるために自転車のペダルを漕いでいた。
「キョンくん、せっかくだしどっか寄って腹ごしらえでもしてっかい?」
「え? ああ……それも悪くないですが、もう遅い時間ですからね。寄り道はなしですよ」
「うへっ、意外と真面目さんだっ!」
 意外ってのは心外ですね。俺はいつだって真面目で正直に人生を謳歌してるんですよ。
「んじゃー、このまま直帰ってことで、このままでいっかな。でっ! 何かあったかい?」
「何かって何ですか。別に何もありませんよ」
「ほっほぉ〜うっ」
 俺がそう言えば、自転車の後ろに立ち乗りしていた鶴屋さんは、のしかかるように体重を預けて来た。
「ご主人サマに隠し事はよくないなぁ〜っ。これはお仕置きが必要っかな?」
「あのですね……」
 お仕置きって、いったい人に何をするつもりですか。
 この人のことだから、人を縛り上げた挙げ句に毛羽で擽ってくることが、お仕置きの筆頭に上がってくるに違いない。擽るってのはあれですよ、地味ながらも効果的な拷問じゃないですか。
「キョンくんってさ」
 からかうことに満足したのか、俺にのしかかっていた鶴屋さんは体を伸ばしながら、俺の通称を口にする。
 この状況だけを客観的に見るのなら、男がカワイイ彼女を乗せて自転車を走らせている微笑ましいワンシーン、なんて嬉しい勘違いをされそうだ。それはそれで「勘違いしてくれ」と願わずにはいられないことかもしれないが、実際には家事手伝いがその家のお嬢さんを送っているだけのものであり、いわば俺にとっちゃ仕事中なわけである。
 となれば、業務を真面目にこなしている部下に対して、俗称で呼ぶのは如何なものかと思うわけだが……ま、今さらそんなことを言っても始まらない。
「カワイイ妹くんがいるよねっ? つまりお兄ちゃんってワケだっ!」
 カワイイかどうかは別として、妹がいることは間違いないですね。
「だっからかなーっ、ぜーんぶ一人で抱え込んじゃうよねっ」
「そっすか?」
「違うかい?」
 さて、どうだろう。俺はそんな、何でもかんでも一人で抱え込むつもりはないのだが、人には言えない厄介で面倒な出来事が勝手に寄ってきているから、結果だけを見るとそう思えるのかもしれない。
「普段ならっ、ガンバるキョンくんをこっそり見守るのが楽しいんだけどねっ! でも今はさっ、あたしの大事な執事くんなわけだっ! お節介なことをしたくなるにょろよ」
 そんなことを言われても、それで俺は喜ぶべきか、悲しむべきか、それとも呆れるべきか、いったいどんな態度を取ればいいんですかね。
「素直になるって選択肢もあるじゃーないかっ! んで? 何があったのかホレ、おねーさんに言ってみなって!」
「別に何もないですよ。いや、ホントですって」
 鶴屋さんが俺の何を見てそんなことを言い出したのかわからんが、本当に抱え込んでいる悩みなんてのは何もない。昼間に古泉が見せた腹に一物ありそうな態度が気になることと言えばそうだが、あいつがあんな態度を見せるのは今に始まったことでもないし、いちいち気にしていても仕方ないので、あっさりスルーしたのは紛れもない事実だ。
 それでももし、俺が何か悩んでいると思うのであれば、それはたぶん……。
「有希っこが? ほぇ〜っ、そんなに変かい?」
「いや、そこまでじゃないんですが」
 あの様子は、いつも同じ部室にいる俺たちの中でも、朝比奈さんや古泉では気付くことはないだろう。勘のいいハルヒでさえ「なんか違う気がする」と思う程度で、具体的な変化を言い当てられないに違いない。
 と言って、長門の表情分析の第一人者を気取る俺ですら、ここ最近でようやく気付いたくらいだ。まったく同じに見える花畑の写真を二枚並べられ、その中に一輪だけ色の違う花があるからそれを見つけろ、と言われるくらい難易度の高い間違い探しかもしれない。
「本を閉じるタイミングが、ここ最近ズレてるんですよ」
 読み終えた本なら話は別だが、何もない平穏な日々の中で長門が読みかけの本を閉じるのは、下校時間が訪れた時だ。その正確さは言うに及ばず、SOS団では長門が読みかけの本を閉じることが、下校時間の時報になっているのは暗黙のお約束とさえなっていた。
 それだけ長門の体内時計は正確無比であり、もし仮に電波時計と長門の体内時計がズレていたとすれば、俺は間違いなく長門の体内時計を信用する……のだが、その信頼性が揺らぐ事態になっている。
 いったい何が原因なのか、そればっかりは俺にもわからない。部室にいる長門はやはり長門であり、その佇まいに変化はなく、話しかけても返ってくる言葉は一単語で事足りる様子も、やはり長門有希だった。
 なのに……ああ、そうか。そうだな、本を閉じるタイミングがズレているのもそうだが、こうやって鶴屋さんに話ながら思い返してみると、本を読むスピードも遅かったかもしれん。
 あの様子は……そうだなぁ、一般的に喩えると……。
「有希っこ、なんか悩みでもあるんかなっ?」
 俺の話を聞いただけで鶴屋さんがそう感じるように、やはり俺にも長門が何かを考え込んでいるように思える。しかも、長門にとっては呼吸するに等しい読書さえもおろそかになるような悩み事だ。
「んん〜……っと、つまりキョンくんはそんな有希っこを心配してるわけだっ!」
「心配?」
 俺が? 長門を? それは……さすがにないな。
 別に長門のことなんか心配する必要がない、と言ってるわけではなく、もしあいつが読書さえもおぼつかない深刻な悩みを抱えているのだとしても、その悩みを俺や、俺じゃなくてもSOS団の誰かに打ち明けないことはない。出会った頃のあいつならいざ知らず、十二月のあの日を過ぎて、ここ最近に起きた出来事も乗り越え、一年以上ともに過ごした今、自分一人で悩みを抱え込むようなことはしないと確信している。
 もし、あいつが抱えている悩みが俺たちにも言えないような、ひどくプライベートなことであったとしても、心配することはない。あいつのことだ、自分一人でちゃんと解決するに違いない。
 故に、長門が何か悩みを抱えているのだとしても、俺が心配したって余計なお世話にさえなりゃしないのさ。
「わっかんないよ〜っ? 有希っこだって女の子だかんねっ! 恋の悩みだったら、そりゃ誰にも言えないもんさっ」
「恋? 長門が!?」
 じゃあ何か、鶴屋さんは長門の悩みが恋の悩みだとでも言いたいのか? つまり、恋煩い?
 あの長門がねぇ〜……どうなんだそれは? 長門がハルヒと同じように恋愛感情は精神病だと思っているかどうかは横に置いておくとして、あいつが俺の知らない相手に恋心を抱いたりするもんだろうか。
 そもそも、あいつの趣味がわからん。どんな相手に恋い焦がれるってんだ? むしろ、長門が夢中になるのはどこぞの馬の骨とも知れない男じゃなくて、今はまだやっぱり本そのものが恋人みたいなもんじゃないっすかね?
「いんやぁ〜っ、意外といつも側にいる人とかもしんないよっ! しかもっ! 友だちも同じ人を好きになっちゃってたりしてっ! 恋を取るか、友情を取るかの板挟みで悩んでるかもしれないにょろよ」
 …………。
「鶴屋さん、ドラマやマンガの見過ぎですよ」
「なぁ〜に言ってんのさっ! 事実は小説よりも奇なり、って言うじゃん! まさかがひょっとするのが、今の世の中ってもんよっ!」
 そりゃ確かに、あり得ないと思っていたことが次々に降りかかってくるこの一年あまりの生活を考えれば……まぁ、万が一ってことはあるかもしれないが。
「なら、長門が鶴屋さんの言うとおりだとして……鶴屋さんだったら、どっちを取るんですか?」
「へっ、何が?」
「恋と友情ってヤツですよ」
「んー……そうだねぇ」
 背中越しに鶴屋さんが考えているような素振りを漂わせるのを感じて、俺は「おや?」と思った。
 てっきり鶴屋さんのことだ、そんな質問をしても「どっちも取るに決まってんじゃんっ!」と即答すると思っていたのだが。
「あたしはそんな経験ないから、よくわかんないやっ! あっははははっ!」
 快活に笑う鶴屋さんだが……何故だろう、俺は聞いちゃいけないことを聞いてしまったような、罪悪感にも似た気分を感じていた。
「そういやキョンくんさっ」
 会話が途切れ、それはもしかして俺のせいかと不安になり始めた頃、ふと思い出したように鶴屋さんが呼びかけてきた。
「この後、どーするのさっ」
「この後?」
 というのは、つまり鶴屋さんを自宅まで送り届けた後の話だろうか。
 俺の仕事は鶴屋さんの学校でのお世話ということになっており、このまま自宅まで送り届ければ業務終了だ。その後にどうすると聞かれれば、帰りますと答えるのが妥当なところだろう……が、もしまだ何かやることがあるのなら、それを断るつもりはない。
「何かあるんですか?」
「んにゃ〜っ、これってのはないけどさっ。来てくれるっつーんなら、やることはあると思うよっ。あれだよほらっ、残業ってやつっさ! ちゃんと残業代は出すしっ!」
 残業か。言葉が持つイメージとしては、できることなら遠慮したいと思うことかもしれない。が、そこを抜きに考えれば、ちゃんと働いた分だけ賃金が貰えるようだし、悪い話でもない。
 そして何より、仕事を名目に鶴屋家の敷地内に足を踏み入れられた上に、自由に動けるってのは願ったりだ。
「じゃあ、お願いしますよ」
「おっ、やる気マンマンだねっ! んじゃーっ、このままウチまで猛ダッシュだ! がんばれ、キョンくんっ!」
 承諾すれば、鶴屋さんにせっつかれてもっとスピードを出す羽目になった。俺としても、そうと決まればのんびりしているつもりはない。
 鶴屋さんの家でも働けるのなら、そこにいる森さんと話をすることもできるだろう。いったい何を考えて鶴屋家のメイドなんてやってるのか。そもそも、昼間に古泉が言ってたことの真意はなんだったのか。
 森さんと話ができるのなら、すべてを語ってくれずとも多少なりとも探ることはできるそうだ。もしできなくても、それならそれでいい。
 ただ、話を聞けるなら聞いておきたい。聞けないなら、じゃあいいや。
 そのくらいの気にかけ方だったのさ。
 そのときまでは。


「おかえりなさいませ、お嬢様」
 きっかり四十五度のお辞儀をしながら、慇懃な挨拶で森さんが出迎えてくれる。連絡した覚えはまるでないのだが、こっちが戻ってくるタイミングがわかっていたかのように門前で待機していた。
「たっだいま! 森さんっ、キョンくんがうちでもちょろんっと働いてくれるっつーからさっ、作業用の服とか、やることとか、いろいろ教えてあげちゃってよっ!」
「あら、そうなのですか」
 鶴屋さんにそう言われ、荷物を受け取る森さんは、やや大袈裟とも取れる驚きを表しながら俺を見る。そこまで仕事熱心な俺に驚いたのか、それとも俺がそういう行動に出ることは予測済みだったのか、さて、いったいどっちだろうな。
「では、彼をしばらく預からせていただきます」
 思惑通り……と言えば何か策を弄した結果が狙い通りになった、というニュアンスに聞こえるかもしれんが、ただ自分の立場と場の状況から推測すれば導き出されるであろう展開通りになったのだから、それはやはり思惑通りなんだろう。新米家事手伝い人の俺の教育係は、森さんで決定らしい。
「それとお嬢様、土曜日の件につきまして、旦那様がお呼びになられております」
「うぇっ、そうなの?」
 土曜日? そういえば、その話を鶴屋さんから聞きそびれたままにしている。
 土曜日と言えば、まだ先のことで未定だが、ハルヒの気分次第で市内不思議探索が行われる日だ。他の日よりも、催される確率はでかい。
 もし土曜日に何かあるのだとすれば、鶴屋さん専属の執事という立場になっちまってる今の俺も、是非、聞いておきたいところだ。いざ当日や前日に『来てくれ』と言われても、市内不思議探索とかぶってしまっては身動き取れないしな。
 ただ、そのことは鶴屋さんもわかっているはずだ。なのに今の今まで何も話してくれないってことは、俺がいなくても平気な話なのかもしれん。
 ただ……。
「んじゃ森さんっ、キョンくんのことは任せたよっ! キョンくんっ、あと頑張ってねっ!」
 かしましくそう告げて、鶴屋さんは足早に屋敷内へ入っていってしまった。
 その様子だけを見ればいつも通りなんだが、森さんから言伝を受け取ったときの様子はちょっと違う。鶴屋さんにしては珍しく、辟易しているようだ。そこはかとなく醸し出す雰囲気が、面倒で厄介な出来事と思いつつも避けて通れないという、まるでハルヒ絡みの厄介事に直面した自分の姿と重なって見える。
「では、こちらへ」
 そんな様子に気を取られていれば、森さんに誘われて鶴屋家の屋敷内にある従業員用の更衣室っぽいところへ通された。よもや一般家庭にこんな部屋があるのかと驚きを禁じ得ないわけだが、そもそも家事手伝い人を雇うという時点で一般家庭と掛け離れており、どこぞの事務所の更衣室みたいな部屋は必要に迫られて作られた部屋なんだろう。
「仕事を始められて初日が過ぎましたけれど、如何でしたか?」
 俺の作業服をロッカーの中から選びながら問いかけてくる森さんの言葉に、俺はひょいと肩をすくめて答える。
「鶴屋さんの送り迎えが加わっただけで、いつもと変わらない感じですよ」
「それは結構なことです」
「俺にとっても願ったり叶ったりですが、逆に仕事がこんなのでいいのかって思いますよ」
「それでよろしいのではないでしょうか。毎日続くと思われていた日常が限りあるものだとわかった今、お嬢様にとっても貴重な時間であると思われます」
 日常が……限りある? それは……ええっと、どういうことだ? 物凄く違和感のある言い方じゃないか。
「そういえば、今度の土曜日は如何なさるのですか? やはりあなたも屋敷へいらっしゃるのかしら?」
「ちょっと待ってください」
 また土曜日か。土曜日に何があるんだ? 俺はまったく何も聞いてないぞ。
「あら、そうなのですか?」
 そう答えれば、森さんは驚きと困惑が入り交じったような表情を浮かべて見せた。俺が土曜日の用件とやらを聞いてると思っていたのか、そうでなかったことに戸惑いを感じているらしい。
「いったい何があるんです?」
「そうですね……お嬢様が何も語らなかったということは、あなたに知られたくないとお考えなのかもしれません。わたしの口から告げるのも如何なものかと思いますが……ただ、あなたも家事手伝いとして従事していらっしゃいますし、知らぬままとはいかないと思います」
 そんな前置きをして、森さんはさらりと、それでいてとんでもないことを口にした。
「今週の土曜日に、お嬢様の結納が執り行われます」
「ゆい……はぃっ? 結納!?」
 待て。待ってくれ。なんだって? 結納だって!?
 結納ってのは、あれだ。ほら、あれだよあれ。ええっと、そう! 結婚の一歩手前のことじゃないか。いわゆる「結婚しますよ」ってことを個人の間だけではなく、両家そろってそれを認めるっていう儀式だ。だよな? 確かそうだったはずだ。違うかか?
 ともかく結納ってのは、結婚に直結する事柄であり、それが今週の土曜日に行われるだって? しかも鶴屋さんが!?
「あの、それって……鶴屋さん自身も把握してること……なんですよね?」
「お嬢様のご結納ですから、その通りでしょう。先ほど、旦那様がお嬢様をお呼びしたのも、その関係ではないかと……あら、主のことをあれこれ詮索するのは、いささかはしたないことですね。お忘れください」
「いや、そんなことより……本当のことですよね、それ?」
「はい。ですからわたしもこちらで臨時にメイドをしておりますので」
 鶴屋さんの結納があるから、森さんがメイドを? そうすることの繋がりもまた、よくわからん。
「そうですね……」
 森さんはしばし考えるように手を口元に当てて、俺をちらりと見る。
「古泉からどの程度、わたしたち『機関』のことを聞かされているのか把握しておりませんが、鶴屋家が『機関』の間接的なスポンサー筋のひとつということはご存じでしょうか」
 それは知っている。バレンタインのときに、鶴屋さんに朝比奈さんを預けたときにふらりと現れた古泉が、さらりと途方もない裏話を延々と垂れ流していたからな。
「その鶴屋家の次期当主たるお嬢様の結納です。『機関』として何もしないわけにもまいりません。かといって、鶴屋家と『機関』の関係性は秘匿されております。公にできないのであれば、冬の旅行で多少なりとも接点が生じたわたしが、無事に結納が済むまでお側で仕えましょう、と。そういうことになりまして」
 なるほど……それで森さんが鶴屋家でメイドなんぞをしている理由がよくわかった。そして何より、森さんが働いていることで鶴屋さんの結納話は嘘や冗談ではないと理解できた。
「その話……この屋敷外で知ってる人ってのは……?」
「さて、どうでしょう。お嬢様があなたにさえ話していないとなれば、朝比奈さんや涼宮さん、また親しいご友人にも話されてないのでしょうね。ただ、古泉は別でしょう。彼もまた、『機関』の一員ですので」
 ああ……そうか。この話は古泉だけは知っていたのか。だからあいつは、俺が実際に鶴屋さんのところで働くことになって、渋い顔を見せていたわけだ。
 もしかすると、この話は本当に身内だけの秘密なのかもしれん。そこに俺が加わり……もしかして古泉の野郎、俺が自分から鶴屋さん結納の話に関わろうとしているのを止めようとしていたんだろうか。
「この話はご内密に。あなたが結納の件を知っていることも、お嬢様に確認なさるようなことはしないように、お気をつけください」
 そりゃな、確かに事は重大で、鶴屋さん自身がハルヒや朝比奈さんにさえ話していないことなら、ほいほい口外するわけにもいかない。
「でも、鶴屋さん自身にも、ですか?」
「ご自身の立場をお忘れなきよう、お願いいたします。わたしたちは鶴屋家の家事手伝い。主の家庭の内情に深く干渉しないのがルールです」
 ああ……なるほど、確かにその通りだ。鶴屋さんから結納の話をされたら別だろうが、そうでないのなら黙して語らずが鉄則だろうさ。
「なら何で、森さんはその話を俺にしたんですか」
「それは、世間一般の企業でもごく普通にあるような、給湯室での四方山話と同じようなものです。同じ職場で働く者同士の情報交換みたいなもの……と、お考えください」
 やれやれ……情報交換するのなら、もっと心の中に止めておいても重荷にならないような、気軽な世間話にしてほしかったもんだ。


 鶴屋さんの結納、などという少なからず衝撃を受ける話を耳にした後に従事した鶴屋家での仕事とは、あまりやることが多いわけでもない。時間が時間だし、何より森さんもいるわけだから、あらかたのことは済ませてあった。俺ができそうなことと言えば、せいぜい今やってる食器洗いくらいだ。
 それにしても……今週の土曜日に結納ってことは、鶴屋さんは近々結婚する……ってわけだよな? 俺より学年がひとつ上だから、今年で一八歳か。
 女子は親の同意があれば一六歳から結婚できることに法律上はなっているが、だからと言って昨今の結婚適齢期は二〇代後半から三〇代前半だと思われる。
 いくらなんでも早過ぎやしないか? 高校在学中に結納まで済ませるってことは──入籍まで話が一気に進むってことはないと思うから──高校卒業をしてすぐに籍を入れるんだろうか。
 どちらにしろ、早いよなぁ。なんでそんなに焦って結婚するんだ? ってか、相手はどこのどいつだ? 鶴屋さんに、そんな将来を誓い合った仲の男がいるなんて聞いたこともない。そもそも、その結納とやらは本当に鶴屋さんが望んで行われるものなのか? 俺にはとても鶴屋さんが結婚したがってるようには見えないんだが……。
「やーやーキョンくんっ、どぉ〜だい調子はっ!」
 食器を惰性で洗いながら、ぼんやり鶴屋さんの結納が行われる理由をあれこれ考えていれば、当の本人がわざわざ調理場までやってきた。
「うっはーっ! キョンくん意外とキマってんねっ! いっつもダルそぉ〜なカッコしてっけどっ、ビシっとしたもんも合うじゃないかっ!」
 ビシッとした格好というが、執事だなんだと言われている立場で、いつもの学校制服を着ているような着崩しじゃマズかろう。今は襟までノリが利いてるワイシャツにベスト、ツータックのスラックスという……あれだ、新川さんのような格好に近い。
「これでみくると並べたらさっ、もう言うことなしだねっ!」
 そのハツラツとした態度は、出会った頃からまったく変わらない。鶴屋さんはやはり鶴屋さんであり、その天性の明るさはいい奥さんになるだろうことは容易に想像できる。
 が、実際に籍を入れるわけではないが、その前段階の結納を間近に控えている割には、いつもの鶴屋さんと変わらない態度だ。もう少しこう、不安に思ったり喜んだり、どちらであれ、いつもと違う態度を感じさせてもいいんじゃないか?
「キョンくん、どーかしたかい?」
「え? ああ、いや別に何でも」
「もしかして、初仕事一日目で疲れちゃったかなっ?」
「まぁ、そんなとこですよ」
 いかんいかん。鶴屋さんがいつも通りなんだ、俺が妙な顔をしてどうするんだ。だいたい、鶴屋さんは勘が鋭いからな、ちょっとでも妙な態度を取ると悟られてしまう。
「まっ、仕事なんて疲れるもんさっ! でも楽なもんっしょ?」
「こんなんでいいのかって思えるくらいですね。感謝してます」
「いやぁーっはっはっはっ! いいっていいって、気にしなくていいよっ。んでキョンくん、もしかして土曜日の話、誰からか聞いちゃった?」
 …………。
「あーっ! 森さんからかなっ?」
 たまに思う。もしかして、鶴屋さんこそが正真正銘のエスパーなんじゃないかと。単に洞察力が優れているだけだとしても、この勘の良さは超を付けてもいい能力だ。
「えー……っと、まぁ……はい」
 もともと無理な話だったんだ、俺が鶴屋さんに隠し事をしているようなポーカーフェイスを続けるなんてことはさ。
「いっやーっ、隠すつもりとかはさらっさらもなかったんだけどっ、なかなか言い出すタイミングがなくってさっ!」
 すっかりバレバレだが、かといって鶴屋さんは怒り出すでもなく、いつものようにあっけらかんと笑って自らもその旨を認めてしまった。
 認めてしまったわけだ。森さんが話してくれたことが事実であると。
「つまり……土曜日に鶴屋さんの結納があるってこと、ですよね?」
「そそそっ! あたしもついに年貢の納め時ってわけさっ!」
 年貢も何も、いくらなんだって早すぎでしょう。だいたい高校も卒業してないのに、なんで結納なんてしなけりゃならないんですか。大学だって行くんでしょう? 何につけても早すぎますよ。
「ん〜、世間様じゃそうだけど、ウチはほら、昔気質な家柄なんだよねっ。だから何事も早めを持って由とするんさ。それにほれ、あたしってば女じゃん? でもウチの跡取りでもあるわけっしょ? 旦那さんになる人が早めに決まっておかないと、いろいろ不都合があるわけさっ」
 それはつまり……え? 鶴屋さんの結婚話ってのは、結局のところ家の都合で決まってしまったものってことなのか? 鶴屋さんのことだから自分で選んで決めた相手じゃないのか?
「あたしってばホレ、こんなんだから恋愛事には疎いんだよねーっ。正直に言っちゃえば、あんま興味ないのだっ」
 そんなこと、胸を張って言われても。
「じゃあ……ある意味、親が選んだ相手と……ええと、見合いして結納ってことになったわけですか」
「相手の人、よっく知らないんだよねっ」
 …………俺はこんなとき、どうリアクションすればいいんだ?
「それでいいんですか、鶴屋さんは」
 せめてこのくらいしか言うことができない。
 なんというかそれは……そんなので結婚の約束をしてしまっていいのだろうかと、無条件で思ってしまう。まずは見合いでもいいじゃないか。なんで一工程を素っ飛ばしていきなり結納なんだ? せっかちって言葉で括るにはあまりにもあんまりだ。そもそも、話を聞く限りでは本人の意見を無視して結婚させようってことだろ? 時代錯誤も甚だしいじゃないか。しかもそれが家のためってなれば、そんなもんは反故しちまったって文句言われないでしょう。むしろ、そんな自分の意に反した結婚なんてやめちまえと言いたい。
「それは価値観の違いってヤツさっ。今は、うん。確かに相手のことはよく知らない。でもさっ、人の出会いなんて千差万別ってヤツだよ! キョンくんとハルにゃんの出会い方もあれば、あたしみたいなパターンもあるってことっ! 出会いはこんなんだけど、まっ、親が選んだ相手だから仕方ないっかなって!」
 仕方がない……ことなんだろうか。ウチの親が俺のあずかり知らぬ所でそんな真似をしていたら「冗談じゃない」と突っぱねるところだが、それは家柄とか何もないウチの話だからだろう。
 鶴屋さんの自宅の佇まいから感じさせる家柄を考慮すれば、中の中、あるいは中の下かもしれない平凡かつ一般的な家庭で育った俺では、推し量ることができない事情があるのかもしれない。
「じゃあ、鶴屋さんも納得してるってことですか?」
「まぁねっ! ホントはさ、十六歳になった頃には決めちゃおうかって話もあったんだけど、それはさすがに早いよってことで、今の今まで遊ばせてもらっちゃってたのさっ!」
 はっはっは、と豪快に笑う鶴屋さんだが、いくら何でもそれは割り切りすぎだろうと、俺なんかは思ってしまう。俺だって人のことは言えないが、色恋沙汰に疎いと言ってもそれは今の話じゃないか。これから先、鶴屋さんほどの人なら親が決めずとも相応しい人が現れるかもしれない。
 それに、ただの恋人ならまだいい。だが、事は結婚だ。相手はどんな人か知らないが、いくら親が決めて来た相手と言っても、鶴屋さんとの相性はどうなんだ? 見た目もそうだし、中身も合ってこそ、結婚に至るってもんじゃないか。
「その辺りは会ってみてかなっ。まっ、あたしの場合はさっ、中身はいつも笑っていられるような、見ていて楽しい人がいいっかなっ! あとは……そうそう! やっぱ何だかんだであたしも女の子だからねっ。あたしのことを一番に好きでいてくれる人がいいやっ。そうだったら、他は何でもいいかなっ!」
 それが鶴屋さんの異性の好みってわけか。いかにも快活なこの人らしい好みだと思うが……それでもなぁ、なんとも言えない複雑な気分だ。
「だからキョンくんさっ、あたしも女の子なワケだよっ。結婚ってのがどういう意味があるものかも、ちゃーんとわかってるのさっ」
「そりゃわかってますけど」
「いやいやっ! だからね? たぶん、このまま話が進めば高校卒業してすぐに結婚するわけだよっ! そんときには、せめて友だちには祝福してもらいたいのさっ。だからキョンくんには、別の言葉を口にしてもらいたわけっ!」
 それはもちろん、祝福はしますよ。しますが、それは鶴屋さん自身も納得ずくでなら、って前提あっての話なんだ。俺はそこを心配しているのであって……まぁ、俺なんかが心配しても仕方がないことかもしれないが……話を聞く限りでは鶴屋さんも納得ずくらしいけどさ。
 だとしたら、残る言葉はこれしかない。
「おめでとうございます、鶴屋さん」
 そう言えば、鶴屋さんは満面の笑みを浮かべて見せた。
「うんっ! あんがとっ!」
 まだ俺自身は納得していないし、呆れている。けれど俺が納得しようがしまいが、当事者たる鶴屋さんが納得して受け入れているのなら口を挟む話でもないじゃないか。
「おっと、こんな話をしに来たんじゃなかったんだ。キョンくん、それ終わったら今日はおしまいでいいよっ。それとさっ、あたしの結納とか結婚の話っ! みんなには内緒にしといてねっ! 人のことならともかく、自分のことだとやっぱちょっと恥ずかしいやっ!」
「わかってますよ」
 俺はそこまで口は軽くないっすよ。いくらなんでもそんな話、ハルヒにすれば面倒でうるさいことになりそうだし、朝比奈さんには刺激が強そうだ。長門は無関心だろうし、古泉はすでに知っていることだから、あえて話題を振る必要もない。
 まったく、初日から鶴屋さんの結納なんていうとんでもない爆弾を落とされたが、それでも人生初バイトの初日はようやく幕を下ろしたわけだ。
 肉体的な疲労はともかく、心労も計り知れないものがある。
 やはり、働くってのは大変なもんなんだと、身をもって実感したよ。本当に。