森園生の変心 プロローグ

「遅いっ! 罰金!」
 などというハルヒお決まりのセリフを耳にするのは、果たしてこれで何度目だろうか。その度に俺はハルヒを筆頭に朝比奈さんや長門、古泉にまで集合直後のミーティングで使っている喫茶店の代金を支払い続けている。
 今でこそ週に一度という感じではなくなったが、それでもハルヒの気まぐれで突発的に催される市内不思議探索は、その都度、俺のひっ迫した懐事情に大打撃を与え続けていた。
 よく考えて欲しい。うちは何も阪中のところみたいなセレブでもなければ、俺個人が確保している安定した収入源も、親から貰える月に一度の小遣いだけなのである。その小遣いとて、誰もが羨むような金額であろうはずもなく、全国の高校生の平均的小遣いと大差ない額面だ。
 はっきり言って、市内不思議探索が行われる度に、俺の財布から札やら小銭やらを引っ張り出すのはやめてもらいたいんだがな。
「遅刻するあんたが悪いんじゃないの」
 けれど我らが団長さまは、俺のせめてもの嘆願を無下にも却下してくれやがった挙げ句、すべての責任は俺にこそあるとばかりに言い放つ。
「誰がどう見てもあんたに責任があるでしょ。前も言ったと思うけど、あんた一人が遅刻すれば、それだけあたしたちの時間も無駄に過ぎていくの。あんた一人で行動してるなら話は別だけど、あたしたちも一緒である以上、その時間は等価なのよ。こっちは何もあんたを待つ時間なんて用意してないし、待ちたくもないわけ。なのに遅れて来たんだったら、せめてもの謝意を込めてあたしたちにご馳走するのは、天地開闢より続く真理だわ」
 どうしてこいつはここまで偉そうにものを言えるのかさっぱりだが、そもそも俺は遅刻してるわけじゃない。待ち合わせ時間ピッタリに到着してるんだ。けれど他の面子が予定時間よりも前に集まっているが故に、俺を待つという状況を自ら作り出しているだけじゃないか。しかも勝手に。そこに俺の責任は一切発生しないだろう。しないよな?
「するわよ。だから、そうまで言うなら、あんたも早く来ればいいじゃない。そうすれば、待っているあたしたちの気分が少しでも理解できるってもんでしょ」
 だから、その『早く』ってのが問題なんだ。いったいおまえらは九時集合の何時間前に集まっているんだと問い質したい。
「あのぅ……キョンくん、もしそんなに大変だったら、ここの支払いはあたしが……」
「いや、そこまでじゃ、」
「ダメよ、みくるちゃん。これはね、遅刻したキョンからの罰金なの。罪を犯したらその償いをするのも自分自身。他の人が肩代わりすれば済む話じゃないのよ」
 いくら自分の懐事情が厳しいからと言って、朝比奈さんに支払いを任せるつもりはない。俺がせめてもの見栄を張って朝比奈さんからの有り難い申し出を丁重にお断りしようとした矢先に、ハルヒが一刀両断に切って捨てやがった。
「そんなことよりほら、班分けするわよ」
 これ以上は議論の余地なしとばかりに、ハルヒは五本の爪楊枝を突き出す。朝比奈さんから順に長門、古泉、俺が一本ずつ抜き取る。印が付いていたのは、俺と古泉だった。最悪だ。
「それじゃ、お昼にまたお店前で集合よ。キョン、わかってると思うけど、遅れたら罰金だからね」
 何かを暗に期待しているようなハルヒの物言いに、俺は溜息しか出なかった。


 意気揚々と朝比奈さんと長門を引き連れて去っていくハルヒを見送り、俺はともかく本屋に駆け込もうと考えていた。いい加減、そろそろ真面目にバイト探しでもしなけりゃならんと思うわけだ。このままじゃ破産する。
「そこまで厳しいのですか」
 勝手に歩き出した俺の後を黙って着いてきた古泉は、求人情報雑誌を手に取った俺を見てそんなことを言う。俺がわざわざハルヒに進言した意味を考えれば、そんなことは聞くまでもないことだと理解してくれ。
「心配することはないと思いますよ。涼宮さんはああ見えて、あなたの財政状況を考慮していると思われますが」
「仮にそうだとしてもな、不思議探索のたびに財布の中身が減っていくことそのものをやめてくれりゃいいだろ」
「デートとなれば、男性が女性のために支払いを行うのがエチケットではないですか。あなたがその都度、支払いを任せられるのは、涼宮さんがあなたに恥をかかさないようにと願っているからです」
「何を言ってんだ、おまえは」
 そもそも、この不思議探索はデートじゃないとハルヒは幾度となく言っている。なのにそのハルヒが? デートなら男が金を払うもんだと思って? 俺が支払う羽目になっちまってるだと? 無茶苦茶な理屈じゃないか。支離滅裂もいいところだ。
「あなたもそろそろ学習されては如何ですか? 涼宮さんの表層的な言葉と、深層部分での本音は真逆と言っても差し支えないものです。確かにこの集まりには僕や朝比奈さん、長門さんもご一緒していますが、涼宮さんはあえて僕たちも巻き込んでいるのかもしれませんよ?」
「何故?」
「さて……涼宮さんも根本の部分では高校生らしい思春期の女性です。恥じらいというものも持ち合わせているでしょうね」
 憎たらしいほどに爽やかな笑みを浮かべ、意味ありげに自分の前髪を指で弄びながら古泉は惚けてやがる。
 ハルヒに恥じらい……ねぇ。人目も気にせず着替え始めたり、平気でバニーガールの格好になったりするハルヒに?
 ま、当初は恥じらいがなくても今はそういうのに目覚めているのかもしれんし、その点については多くを語るまい。
 それよりも、問題なのは俺の財政状況であって、ハルヒのことなんざどーだっていい。
「そこまで厳しいようでしたら、どうでしょう。僕がいいアルバイトを紹介しますよ」
「おまえが紹介するバイトだったら、3Kとか言われてる仕事をしたほうがよっぽどマシだ」
「それはまた、手厳しい。では、いったいどのようなアルバイトを探すつもりですか?」
「コンビニのレジ打ちか、ファーストフード店やファミレスのウエイターが妥当なとこじゃないか?」
「しかし、その手のアルバイトをするには時間がないのではありませんか? アルバイトとは言っても、仕事は仕事です。むやみに休めるものではありませんし、かといって市内不思議探索で必要な経費を稼ぐためにSOS団の活動がおろそかになるのは、本末転倒というものでしょう」
 言われてみれば確かにその通りだ。となると、探す仕事は時間が自由に取れて短時間で済み、かつ時給がいいもの、ってことになる。
「現実的ではありませんね」
 人を哀れむように嘆息しながらそう言う古泉を、無性に殴りたくなったのは言うまでもない。だいたい、そんなことは言われるまでもなくわかってるんだ。
 SOS団の活動がある以上、まともなバイトができるとは思っちゃいない。何かにつけてハルヒの我が侭に振り回されるのだから、そもそもプライベートの時間だって日々少なくなってきてるんだ。
「試みに聞くが、古泉。おまえが俺に紹介したいバイトってのは、何をするんだ?」
「おや、興味がありますか?」
「……いや、いい」
 こいつが俺にやらせたいことなんて、どうせハルヒに関わる『機関』の仕事に違いない。俺は齢十七にして、世の中におおっぴらにできないようなトンデモ組織の一員になりたいとは思わないね。
 しかし……やれやれ、そうなるとバイトをするのも難しいな。こうなると新聞配達とか、早朝にかけて行う仕事しかなくなりそうだ。睡眠時間はしっかり確保したいから、なんとかその選択だけは避けたいところだが……。
「おやおや〜っ? キョンくんと古泉くんじゃあ〜ないかっ!」
 俺がそんな風に求人雑誌を片手に溜息を吐いていると、背後から元気ハツラツとしか形容できない声が飛んできた。そんな風に俺たちに声を掛けてくる相手は、考えるまでもなく一人しかいない。
「ああ、鶴屋さん。どうも」
「やっぽーっ。こんなところで男二人で立ち読みかいっ? んん〜っ、もしやハルにゃんの言いつけをほったらかしてサボリかなっ!?」
 ハルヒの言いつけとやらが市内に転がっていると言い張る不思議を探し出すことを指しているのならサボリと言われても致し方ないが、かといってそんなもんが本当にゴロゴロ転がっているわけもなく、言うなればこれはむさ苦しい野郎二人が暇を持てあましている風景だと認識してもらいたいところですね。
「むむっ。キョンくん、バイトでもすんの?」
 鶴屋さんは目ざとく俺が手にしている求人雑誌に目を留めて聞いてきた。
「そうしたいところなんですけどね、なかなか希望に即したのが見つからなくて」
「ほっほう? どんな条件のを探してんにょろ?」
「ええと、時間の融通がある程度取れて高収入のなら文句なしですね」
「うへっ、理想高いなぁっ! そんなの、ホントにあると思ってないよねっ? うっははははっ!」
 鶴屋さんは大爆笑するが、俺だって何も本気でそういう仕事があるなんて思っちゃいない。ただそれは俺のベストな希望なだけであって、それに近いものを吟味していこうかなというだけなんだ。
「古泉くんもキョンくんと一緒にバイト探し?」
「いえ、僕はすでにアルバイトをしていますから。登録制のもので彼の希望に添うものだと思っているのですが、残念ながらフラれてしまいました」
 登録制とは上手いことを言ったつもりか。何であれ、俺は古泉なんかと肩を並べて仕事をしたいとは思わないね。
「ふーむむむっ。つまりキョンくんだけってことか〜っ。んー……んん〜……キョンくん、ホントにバイトすんのっ?」
「条件に合うのがあれば、ですけどね。いい加減、ハルヒに奢り続ける状況が長く続きすぎてるもんで、ひっ迫してるんですよ」
「ほっほうっ! つまりはハルにゃんのためってわけだっ!」
 いや別にハルヒのためにバイトしようなどとは微塵も思っちゃいないわけだが。
「えっらいなぁっ! うんうんっ、おねーさん、感心しちゃったよっ!」
 いやだから、ハルヒのためのバイト探しじゃないんですけどね。人の話、聞いてるんだろうか。
「そういうことならさっ、協力してあげるよっ! ん〜、キョンくんだしね。万事おっけーっしょっ!」
 協力? それで、俺だから万事おっけーってのはどういう意味だ?
「ウチでさっ、ちょーっと家事手伝いのお手伝いさんの求人してるんだよねっ。どーよ、キョンくんっ! ウチでちょろんと働いてみないかいっ?」
 家事手伝い? 鶴屋さんの家で? この俺が!?
「まー、あれだよっ! 今風に言えば執事って感じかなっ! 大丈夫だって、ハルにゃんには黙っといてあげるし、そっちの都合はちゃーんっと考慮すっからさっ!」
 いや別にハルヒに黙っていてくれなくたって……ああ、いや。あいつに知られるよりは、こっそりやってた方が邪魔されずに安心できそうか。わざわざ吹聴する必要もない。
 ただ……この俺に家事手伝いをやれと言うのか、このお人は。そりゃあ鶴屋さんの自宅を見れば、そういう人手が必要そうなのは理解できるが……だからって、俺が執事?
「おっと! もうこんな時間になっちゃってら。んじゃあキョンくんっ! やる気になったらあたしに電話するなり、直でウチまで来とくれっ! んじゃねーっ!」
 かしましいほどハツラツにそう言って、鶴屋さんは本屋の店内をぐるり一周した挙げ句に何かの雑誌を買って、すったかと出て行った。
 そんな後ろ姿を見て、どうしたもんかと考える。
「どうするんですか?」
「とりあえず、ハルヒたちと合流だな」
 問いかけてくる古泉に、俺はそろそろ十二時になろうかという店内の時計を見て、溜息混じりにそう答えた。
 こりゃ昼も奢る羽目になりそうだ。


 思わぬ鶴屋さんとの遭遇で、予定していた本屋からの撤退時間をオーバーしてしまった俺と古泉が急いで待ち合わせ場所まで戻ってみると、そこにはふてぶてしいまでに満面の笑みを浮かべたハルヒが、仁王も裸足で逃げ出すような剛胆っぷりな佇まいで左右に朝比奈さんと長門を従えてふんぞり返っていた。
 結局、昼も俺の財布はダメージを負うことになった。幸いなのは古泉とペアでの罰金ってことであり、痛手は半分に抑えることができた……とも言えるが、朝のちょっとしたお茶代全員分と、昼食のしっかりしたランチに支払う代金は、たとえ古泉とワリカンにしたとしても同じ程度の額面になることは免れない。
 どんよりした気分で訪れた午後の市内不思議探索は、班分けせずに全員でまわることにになった。解散時にまた遅刻されたんじゃたまらないわ、というのがハルヒの言い分であり、そのおかげで解散時の集合に遅刻するかもしれない事態は避けられたものの、それでも今日一日の無駄な出費を考えると胸が痛い。気分的な話ではなく、実際に胃に穴が空いてるんじゃないだろうか。
 煩わしい学業から解放されたせっかくの休日に、どうして俺はこんな気分を味わわなければならないんだろうな。本当に、アレを誰か何とかしてくれ。切実にそう思う。
 かといって、ハルヒをどうにかして欲しいのはもっともだが、だからと言って他の誰かがカネを出せ、と思うわけでもない。俺はただ、自分の支払いは自分でしとこうぜ、と提案しているのであって、それが今の世の中の真理であり義務でもある。
 だからひっ迫したこの財政状況を打開するために、他の誰かに何とかしてくれと頼むのはお門違いだと思うし、となれば自分で何とかするのが筋ってもんだ。
「まさか本当に鶴屋さんのところで働くつもりですか?」
 ある種の決意を胸に秘めた俺に向かって、何を察したのか解散直後で古泉がそんなことを言い出しやがった。文句あるのか?
「いえいえ、文句などあろうはずもありません。ただ、前にも少し話したかと思いますが……僕の立場上、あまり鶴屋さんを面倒事に巻き込むのは感心できない、ということですよ」
 ああ……そういえば前に少し言ってたな。鶴屋さん……というよりも、鶴屋家は『機関』のスポンサー的な立場にある家柄とかなんとか。
 確かに、俺個人としてもあの鶴屋さんを厄介事に巻き込みたいとは思わないし、鶴屋さん自身も、そういうものは見ているのが楽しいのであって当事者になるのは遠慮する、というようなニュアンスのことを言っていた。
 だがな、何も今回の話は、妙なことを頼むわけじゃない。俺が個人的にバイトを探していて、そこに鶴屋さんの方から善意でバイト情報を提供してくれたって話だ。それに乗ろうが反ろうがハルヒ中心の面倒事とは関係ないし、ましてや『機関』のことも関係ない。
「それとも、俺がバイトしないで金欠になったときに、おまえや『機関』から援助金でも出してくれるのか?」
「それもまた、難しい相談ですね」
 だろ? おまえがそう言うであろうことはわかっていたさ。だからほっといてくれ。
 故に俺は今、自転車のペダルを必死になってこいでいた。向かう先は、もちろん一カ所しかない。
「ありゃ〜っ、キョンくん。ホントに来ちゃったんだねっ!」
 巨大で古風な門の前、半纏を羽織って無造作に髪をひっつめている鶴屋さんは、連絡なしで突然押しかけた俺を前に面白半分、困惑半分といった表情を浮かべて見せた。
「鶴屋さん、言ってたじゃないですか。バイトをさせてくれるんですよね?」
「ほぇっ?」
 え……っと、何でそこで驚くんだ?
「まっさか本当にお金に困ってんのかいっ? もしかして、キョンくんのおやっさんが倒れちゃったりなんだりしちゃって、長男である自分が働かなくちゃ〜ってんだったらっ、あたしができる範囲で協力すっけどっ!」
 何を言うんですか縁起でもない。うちの親父はそりゃもう嫌になるくらいピンピンしてますよ。
「単純に、自分の小遣いを自分で何とかしようと思ってるだけです」
「はっは〜ん、つまりやっぱりハルにゃんのためってわけだねっ!」
 だからハルヒのためでもないと……はぁ、やれやれ。いちいち否定するのも面倒になってきた。
「うっはっはっはっ! やだなぁ、キョンくんっ! ちゃんと相手しておくれよっ。まっ、そんな話は横に置いといて……でも、ホントに働くつもりで来たのかい?」
「バイト経験なんてゼロですからね。まったく見ず知らずのところで働くよりは、何であれ、多少なりとも知り合いがいた方がストレスも少なく済むかなと……何か問題でも?」
「いやね」
 天衣無縫という言葉が当てはまるこの人らしからぬ空気を感じ取り、もしや俺は洒落を真に受けたマヌケ野郎なんじゃないかと思い始めていると、鶴屋さんはポリポリと頭を掻きながら、まるで関係ない方向に目を向けて、ポツリと呟いた。
「決まっちゃったんだよね、お手伝いさん」
「え、そうなんですか?」
「いやあっ、なんかこう言っちゃうとさっ、イイワケみたいでヤなんだけどっ! でも実際そうなのさ」
 そう前置きしてから、鶴屋さんは俺に事の顛末を話してくれた。
「昼にね、キョンくんにウチでのバイトの話を持ちかけたときは、うん、ホントにまだ募集してたんだよっ。でもさっ、それからあたしが家に戻ってみたら、もう決まっちゃっててっ! あたしもビックリしてんだよっ! いやマジで。ホントにホントっ!」
 なるほど……それでこの人らしからぬ言い淀みっぷりを見せつけてくれてたわけか。
 それならそうと、別に気にすることもない。鶴屋さんだって俺に話した側から新しい家事手伝いが見つかるとは思っていなかっただろうし、俺もタイミングが悪かっただけの話だ。何も鶴屋さんが悪いわけじゃない。
「いやいやいやっ! そーいうこっちゃなくってっ!」
 そういうことじゃない……とは?
「ど〜してあの人がウチで家政婦さんをやろうと思ったのっかな〜ってこと! いやねぇ、そこまで大々的に募集してたわけじゃないのっさ、今回のお手伝いさん募集。なのに、どっからか聞きつけたみたいでさ、ふらりと今日やってきたかと思えばっ! 経験者ってことで即決しちゃったにょろよ」
「あの人……?」
 あの人ってどの人だ? 家事手伝いの経験者に思い当たるような知り合いなんぞいないんだが。
 そんなプロフィールに該当する人物像を頭の中で照らし合わせ作業に没頭しつつも、鶴屋さんはさらに『あの人』なる人物について説明してくれた。
「タイミング的に、キョンくんか古泉くんあたりから聞いたんのかな〜って思ってたんよっ。だからっ! 今になってキョンくんが来たことに、さすがに鶴屋さんでもちょろんっと驚いちゃってるのさ〜っ!」
 俺か古泉から話を聞く? で、家事手伝いの経験者……? おまけに、鶴屋さんの話っぷりから察するに、鶴屋さん自身とも面識がありそうで……あれ?
 何故だろう、たった一人だけ検索条件にヒットする人物がいるんだが……。
「お嬢様」
 鶴屋さんが出した条件に当てはまる人物の顔を、脳内モンタージュ写真を制作していた俺だが、それはどうやら徒労で終わりそうだ。
「立ち話よりもお客様を中へお通しされたほうが……あら」
 鶴屋さんのことを「お嬢様」などと呼び、屋敷内から姿を現したその人が、鶴屋家の新しい家事手伝いで間違いない。一目見て、それはわかった。そして、どんな顔だったのかを思い出すまでもなく、脳内モンタージュ写真で作りだそうとしていた人物がそこにいる。
「森さん……何してるんですか……」
 優美に微笑み頭を垂れる森さんを前に、俺は聞くまでもないことを口にするのが精一杯だった。
「何を……と、申しましても。本日から鶴屋家の家事手伝いとして従事させていただくことになりましたもので。以後、改めましてよろしくお願い申し上げます」
 物凄く畏まった態度と言葉に、それが決して何かしらの思惑あっての……いや、思惑があるのかもしれないが、少なくとも森さんの態度と発言は、鶴屋家でちゃんと真面目にメイドをしているんだな、と思い至らせるのに充分なものだった。
「お嬢様、ここでの立ち話もお客様に対して失礼にあたるかと思われます。ご都合が悪くなければ、中へお通しされては如何でしょうか」
「おぉぅ、そうだねっ! キョンくん、どっちにしろさっ、せっかくウチまで来てくれたんだもの、お茶くらい飲んでいきなってっ!」
 鶴屋さんは俺の手を取って、力任せに引っ張って来る。そのままずるずると屋敷内に足を踏み入れることになったが、俺の視線は森さんを捕らえていた。
 鶴屋家の新しい家事手伝いとして森さんが働いている。それはどうやら事実のようだ。この二人が共謀して俺を誑かそうとしているのなら話は別だが、そんなことをする意味がわからないし、森さんの佇まいは明らかにメイドのそれである。
 どうして森さんが鶴屋家でメイドなんかしなくちゃならないんだ? 彼女は古泉と同じように、ハルヒがはた迷惑で作り出す閉鎖空間とそこにいる《神人》退治を行っている、時代錯誤も甚だしい秘密結社っぽい『機関』に所属する人じゃなかったのか?
 彼女がSOS団の合宿と称する小旅行でメイドをしているのは知っている。ただそれは、世を忍ぶ仮の姿、ハルヒを含めたSOS団の連中と行動をともにするときだけだと、本人も言ってたじゃないか。それなのに、いつの間にメイドが本業になったんだ?
 まったく意味がわからん。森さんが何の思惑もなくこんなことをするものだろうか? そういえば古泉は、俺が鶴屋さんのところでバイトをしようとするのを渋っていた節がある。もしかして、古泉の差し金として、俺より先にバイトの穴を埋めちまえと働きだしたんじゃないだろうな?
「森さんの志望動機とか、何なんですか?」
 初めて足を踏み入れる鶴屋さんの自室だが、不躾に辺りをキョロキョロ見渡す余裕もない。どこかしら懐かしさを覚える和風のワンフロアに、同年代の女性らしい小物などがあり、漂う香りも女性特有の爽やかさがある、とだけ言っておこう。
「志望動機? あたしがそんなこと聞いてるわけないよっ。でもまっ! あれだよね〜っ。働くには働くだけの理由があるってわけっしょ? 生活のためだったりとか、何か欲しいものがあるとか、それこそ人それぞれってヤツっさ!」
 雇い主がそんな適当でいいんだろうか。いや、鶴屋さんが森さんを雇ったわけじゃないから、知らなくて当然っちゃ当然なんだろう。
「んー……でも」
 それでも鶴屋さんは、何かに思い至ったように。
「すっごい真面目だし、気配りも行き届いてるんだけど、でもメイドさんのお仕事してるーっ! って感じじゃないよね。メイドさんなのにメイドさんじゃないって感じかなっ」
 なんてことをポツリと漏らした。
 メイドなのにメイドじゃない……ねぇ。ということは、鶴屋さんの見立てでも森さんは何かしらの思惑あってここにいる……ってことなんだろうか。何かにつけて妙なところで鋭い鶴屋さんがそう言うのだから、そうなのかもしれない。
「んなことよりキョンくん、森さんのこと気にするのもいいけどっ! 自分のバイト探しはどーすんだい?」
 その一言で、一気に現実に引き戻された。そうだった、鶴屋さんのところで働けないとなれば、他を探すしかない。
「さすがにハルにゃんに相談はできないよねーっ。みくるや有希っこも働くことに関しては、ちょーっと相談相手にゃならんかなっ。うっははははっ! 頼りになるのは古泉くんってとっか?」
 その古泉にしたって、俺に斡旋するバイトはどうせ『機関』絡みのものに決まってる。聞くだけ無駄だろう。
 そもそも、あいつの誘いは最初にきっぱり断ってるんだ。
「ってなると〜……んー……キョンくんの友だちに聞いてみたらどっかな?」
「谷口とか国木田っすか」
「そそそっ! 特に……えーっと、ほれっ! あのかっるいノリの子の方は、バイトとかいろいろしてそーじゃん。相談してみれば?」
 あの二人で軽いノリ、っつったら谷口の方だな。確かにあいつはバイトをしてたような気がする。が、あいつの場合はバイトの種類よりもそこで働く女性目当てなのは言うまでもない。本人がそう明言してたしな。
 となれば、あいつと俺とでは働く目的からして違っている。相談するだけ無駄だろう。
 なら国木田はどうだ? あいつがバイトをしているって話は聞いたことがない。それよりも塾に通ってるんじゃなかったかな? そうなると働いている暇なんてなさそうだし、仮に聞いたところで至極真っ当な意見を返されるのが目に見えている。
 つまり、求人雑誌から探せば? って答えだ。
「あー……うん、キョンくん。あのさ、あたしがこんなこと言うのも何だけど……もしかして、いざって時に相談できる友だちっていないにょろ?」
「言わんでください」
 そこはかとなく泣きたくなってきた。
「あ、あは、あはははっ! ま、まぁあんま気にしなくてもさっ! だぁ〜いじょうぶだって。あたしも一緒に探してみっからさっ!」
 フォローになってないっすよ鶴屋さん。
 そもそも、事は俺のバイト探しだ。それを鶴屋さんが一緒になって探すことはない。その心遣いだけで充分っすよ。
「失礼いたします」
 そんな頃合いで部屋のドアがノックされた。
「あいよっ」
「飲み物をお持ちいたしました」
 やってきたのは森さんだった。言葉通りトレーにお茶と茶菓子を乗せ、しずしずとした物腰で部屋の中に入ってくると、ちゃぶ台と称してよさそうなテーブルの上にお茶と茶菓子を並べてくれた。
 俺がよく目にしているのは、こういうことをしている森さんだ。だからやってることに違和感もないわけで、気持ち的にも「ああ、森さんがいつものことをやってるな」って気持ちで眺められるわけだが、場所は鶴屋家である。まるで岩の隙間から滲み出る自然水のごとくわき出る疑問は、どうしてこの人が鶴屋家でメイドなんてしてるんだろう、っていう、一度は消えた考えだ。
「あの……何か?」
 そんなことを考えていたせいか、俺の視線は我知らず森さんに不躾なほど向けられていたんだろう。照れるというよりは、どこかしら訝しむように見つめ返された。
「あ、いや」
「キョンく〜ん、仕事取られたからって睨んじゃダメだよっ」
 そんな人聞きの悪い。そんなことで、俺が森さんを睨めるわけないじゃないですか。
「仕事、とおっしゃいますと、何か粗相がございましたでしょうか」
 森さんのことだからさらりと流してくれるもんだと思っていたのだが、仕事の話というのが気になったのか、食い付いてきた。別に森さんの働きっぷりに文句を言うつもりはありませんよ。
「それがさっ! キョンくん、今日うっとこ来たのは募集してた家事手伝いのことなのさっ。ところがっ! 先に森さんに取られちゃったもんだから、ちょろんっとスネちゃってんのっ」
 別にスネちゃいませんよ。そもそも俺が気にしてるのは、自分のバイトをどうするかってのももちろんあるが、今においては森さんが働いている動機についてなんだ。
 かといって、それを本人に聞いても答えてくれるかどうか。とかく『機関』の人間は秘密主義が徹底している。仮に話してくれても、それが事実であるかも疑わしい。
「まぁ、そうだったのですか」
 なんてことを当の『機関』に所属している森さんに言うこともできず、黙して語らずを貫いていれば、森さんは森さんで鶴屋さんの話を鵜呑みにしたらしい。
「わたしも故あってこちらで働かせていただいておりますので、気軽に交代しても、とは申し上げられません。この度は、大変残念なことで……」
「あ、いや、そんなことはまったく気にしないでください。俺の方は単なるバイトを捜しているだけですから」
「そのバイトっつったってさ」
 俺の妙な言い訳めいたセリフを引き継いで、鶴屋さんが口を開いた。
「キョンくんの希望を叶えてくれそーなとこって、そーそー滅多やたらにあるもんじゃないっしょっ。まー、あたしもおやっさんとかに相談してみっけど」
「希望、と申しますと……どのようなものなのでしょうか」
「いや、まぁ、なんというか……」
 俺だって自分が最初に掲げた希望のすべてがすんなり通るような仕事なんてあるわけがない、と思ってる。そんな話を古泉や鶴屋さんに話せば、若干の憐れみを含んだ眼差しを向けられているんだ。そこへさらに森さんに話すのにも勇気がいる。
 ま、言うだけなら自由か、という楽観的なハルヒ的物の考え方で言ってみたが──。
「それはまた……」
 ──森さんにも、ことさら困ったような表情を浮かべられた。ここでもそうですか。
「ねっ? うちだったらまぁ、あたしがいるし、多少の融通なら利かせられっかなーって思ったけどっ! そうもいかなくなっちゃったってわけっさ」
「……それでしたら」
 しばし考える素振りを見せた森さんは、ちらりと鶴屋さんに視線を向けた。
「お嬢様が個人的に彼を雇用すると言うのはいかがでしょうか」
「え?」
「わたしは鶴屋家に雇われております。お嬢様のことのみならず、お屋敷全般の家事を賄うのが務め。彼には、朝晩の送迎や学舎でのお嬢様のご面倒を見ていただいては、と思いまして」
 えー……それは何だ? 鶴屋さんが個人的に俺を執事にして雇えばいいと言ってるんだろうか。しかもそれは学校でのこと、だって?
「いや、それはさすがに……」
「お嬢様も今後に大事を抱えていらっしゃるとお聞きしております。万が一を考え、同じ学舎へ通う彼ならば最適かと存じますが」
 ……大事?
「あー、んー、まぁ、そうだけどさっ。どーする、キョンくん?」
 少なくとも、森さんの話はあまり現実的なもんじゃない、と俺は思うわけだが、どういうわけか鶴屋さんはその考え方に否応もないらしい。それどころか、このお方にしては珍しく、自分で決めずに俺に決定権を丸投げしてる風でもある。
「どうするって……俺はバイトが見つかればそれでいいかな、ってとこなんですが」
「ほほうっ! んじゃ、ちっくらうっとこのおやっさんに話つけてみるっさ。ちょろんっと待っといてっ」
 もしかして、森さんの提案は鶴屋さん的にアリな話だったんだろうか。俺がどっちつかずな曖昧な態度を示してみれば、そんな言葉を残して颯爽と部屋から出て行ってしまった。
「働けるようになるとよろしいですね」
 にっこり微笑みながらそういう森さんに、果たして俺は、なんと答えるべきだろうね。