涼宮ハルヒの信愛 五章

 朝倉主体、ハルヒと佐々木の救出活動は佐々木の閉鎖空間内で行われる。というのも、直接アクセスできるのが佐々木の閉鎖空間しかなく、その内部にハルヒの閉鎖空間が発生しているのであれば、そうするしかないのは自明の理ってヤツだ。
 となると、そこに入り込める橘が朝倉を誘導しなければならない。ただそこで、橘はゴネた。朝倉と二人で閉鎖空間に行くのが嫌だということらしい。なんというワガママ。
 とは言っても、その気持ちも解らなくはない。俺だって朝倉と二人きりという状況は、できることなら勘弁してほしい。いや、それなりに信用はしている。しているんだが、二度も刺されそうになった(一回はマジで刺されてるしな)経験から、どうやら本能的な部分で拒否反応が出てしまうもののようだ。
 だが、閉鎖空間に行くのは何も朝倉だけではない。ハルヒと佐々木の閉鎖空間を引き離すためには長門の協力が不可欠ということもあり、長門自身も同行することになっている。これで朝倉と二人きりにはならないわけだから問題ないだろう……と思ったのだが、それでも橘には躊躇いがあるようだ。
「佐々木のためだろ」
「それは解ってますけど……あなたじゃないんですから、宇宙からの来訪者に囲まれて落ち着けるわけないじゃないですか」
 だったら九曜はどうなる……と言いたいところだが、あいつをちらりと盗み見れば、何を考えているのかさっぱり読み取れない面持ちで、電柱よりも身動きしない不動の姿勢で直立していた。
 九曜は見ての通り、いてもいなくても存在自体が空気より希薄なヤツだ。長門はともかく、朝倉くらい自己主張の激しいヤツとは勝手が違うのかもしれない。
「だったら藤原でも連れて行け」
「冗談じゃない」
 俺の言葉に、藤原は敏感に反応しやがった。
「あんなところに好きこのんで行くのはあんたらくらいなもんだ。あんたが朝倉涼子の手段を選んだのであれば、僕が赴く理由はない」
 これほど真っ当な意見を言われては、ぐうの音も出ない。俺でも、あんなところは用があっても生きたくない場所ベスト5にはランクインしてるくらいだ。
 それなら古泉を……とも思ったが、こいつはこいつで役割がある。状況次第でもあるのだが、朝倉と長門が首尾良くハルヒと佐々木の閉鎖空間の切り離しが行えた場合、佐々木の閉鎖空間に内包されていたハルヒの閉鎖空間が、この現実世界に出現する……らしい。俺はよくわからんが、朝倉はそう言い、長門も否定しなかったところを見るとそうなんだろう。
 となれば古泉は外で待機していなければならない。切り離されたハルヒの閉鎖空間を処理するのは、古泉がやることだ。
 残るは朝比奈さんだが……正直に言えば、この愛くるしい上級生を連れて行ったところで何にもならんのではないかと思う。それどころか、騒ぎを起こしそうで不安だけが募るってもんだろう。
 ……やれやれ、残るのは俺だけじゃないか。最終的な決断を下した立場として傍観しているのも気が引けるが、かといって一緒に行ってもやることがない。むしろ、邪魔だと言われるのがオチだと思うんだが、どうなんだろうね。
「自己責任って便利な言葉だよね」
 笑顔でそういう朝倉が、ことさら憎たらしい。何かのときに、おまえだけは絶対に頼ってやるもんか。
 最終的に、佐々木の閉鎖空間へは俺と長門、朝倉、そして導き役の橘の、計四名で行くことになった。傍目で見れば怪しげな儀式のように四人で手を重ね合い、目を閉じて──。


 ──ふと、耳に届く音が途切れた気配を感じて目を開けば、世界はひどく……なんて言えばいいんだ? 欠けているように見えた。
「なっ、何ですかこれ!?」
 俺も虚を突かれたが、何より辺りの光景を見て驚きの声を上げたのは橘だった。本来クリーム色が支配する佐々木の閉鎖空間は、まるで虫食いされた絵のように、あちこちに黒い塊が広がっている。
「予想以上にひどいわね」
 今のこの状況を見て、俺と橘以外にコメントを漏らすのは朝倉しかいない。長門は目を見開いているが見ているのかどうか解らないほど、微動だにしないもんな。
「この黒い塊がハルヒの閉鎖空間か?」
「明確に言えばちょっと違うかな。涼宮さんの閉鎖空間は佐々木さんの閉鎖空間に内包されてる感じで……んー、ふたつの閉鎖空間が重なり合って変色してる感じなのよ」
「ってことは、この黒い塊をひとつずつ消して行かなくちゃならんわけか」
「全部じゃなくても大丈夫。特に接触している部分を剥がせばいいだけ」
「じゃあ早くしてくれ。いつまでものんびりしていたくないんだが」
「ここじゃないもの。場所は……」
 と、朝倉が答える前にドアがガラリと開かれる音が響いた。静寂の中、ことさら大きく響く音に少しだけ驚きつつ振り向けば……ドアの前には、黒いヌリカベが……っておい。
「──────」
 なんで九曜がここにいるんだ!?
「着いてきた」
 気付いていたのは長門だけらしい。淡々と答えてくれたが、言うべきことはもっと別にあると思うのは、俺だけか?
 そんな九曜は、こちらのことなどお構いなしに病室を出て行った。あいつをあのまま放っておくのは何かとマズイ気がする。特に今のこの場所は佐々木の閉鎖空間内だ。いくらあいつでも、橘の導きなしに元の世界に戻れるもんじゃないだろう。……戻れるのか? 解らんが、放置しておくわけにもいかない。
「おい、何とかしろよあれ」
「と言われても」
 橘に文句を言ってはみたものの、橘は橘でどうしていいのか解らないらしい。この閉鎖空間はおまえの管轄じゃないか。好き勝手させずにおまえが九曜を止めなくちゃダメだろ。
「いいわ、着いて行きましょ。どうやらあの娘も、行き先は解ってるみたいだし」
 本当か? 朝倉が何を根拠にそう言ってるのか解らんが……だが朝倉だけでなく長門でさえも九曜の後に付いて歩き出している。こうなれば、俺と橘も着いていくしかない。
「行き先ってのはどこだ?」
 人気のない病院の廊下を歩きながら、俺は気になって朝倉に聞いてみた。九曜の足取りは、どうも外へ向かっているわけじゃなさそうだ。
「現実世界で、佐々木さんがいる場所」
「そこが目的地なのか?」
「そう。ここは佐々木さんが作り出している世界でしょう? 世界の中心は、つまり佐々木さんなのよ。彼女が現実世界でいる場所がこの世界の中心になってる……と思う」
「思う、だって?」
「初めてだもの。確証なんてないわ」
 そりゃそうだ。そうなんだが、長門と同じ属性の朝倉でも解らないような状況に、今はなっていると思うと気が滅入る。
 口数も少なくなり、先へ進む九曜の後ろと着いて行く。佐々木をどこぞへ連れて行ったのは朝比奈さんであり、その場所を俺は知らないが、別に階段を上り下りするわけでもないだろう。案の定、すぐに九曜は治療室らしき部屋と思われる扉の前で足を止めた。
「ここか?」
 俺が何の気なしにドアに手を掛けようと伸ばした──その瞬間、無動作で動いた九曜に手首をつかまれた。
「──────ダメ────」
 そう言った九曜は、アイコンタクトでも送るように朝倉を見る。その意味を理解できたのか、朝倉は肩をすくめ、俺に代わってドアを開いた。
 途端。
 ぶわぁっと、黒く着色されたドライアイスの煙のように、黒いモノがドアの中から足下を這うように流れ出てきた。
「ひえっ!」
「なっ、なんだこりゃ!?」
 そりゃあ驚く。驚かないのは長門と九曜と朝倉くらいなもんで、俺と橘はドン引きするくらいに驚いた。その黒い……なんて言えばいいんだ? 見たまんま、黒い煙のようなそれは、もしかして部屋の中に充満してたのか?
 無人のこの世界は、それでも電気が通っていて灯りも普通に点いているのだが、その室内だけは本当に真っ暗だった。ブラックホールのように、光すら飲み込んでるみたいな印象を受ける。
「ここまでひどいのか……できるかな」
 それを目の当たりにした朝倉が、とてもとても頼りないことを口走る。今さらそんなことを言われても、こっちが困るってもんだ。
「やるしかない」
 方や、長門はあくまでも強気だった。
「そうね。長門さんは涼宮さんの閉鎖空間から互いの境界領域を探ってみて。わたしは佐々木さんの方から探る。見つかったらタグを打ち込んでくれればいいわ。そこにTPDDを使うから」
「了解した」
 頷き、長門の口から聞き取れない言葉がこぼれ出す。朝比奈さんに言わせれば『呪文』らしいその言葉は、なんだか久しぶりに耳にするような気がする。
 それに合わせるように、朝倉も同じように呪文を唱えだした。まるで聞き取れない高速言語のそれは、生身の耳で聞き取ろうとすれば耳鳴りでもしそうだが、今は……何故だろう、響き合う弦楽器の音色のように、何らかのメロディを奏でているように思えた。
 俺にはさっぱり解らんが、どうやらハルヒと佐々木の閉鎖空間を引きはがす作業が始まったようだ。
 それが果たして上手く行ってるのか難航しているのか、素人目……もとい、一般人たる俺の目にはまるで解らない。少なくとも、目に見える変化は今のところ何も起きていないのだから、間違い探しをしているわけでもあるまいし、変化は起きていないと見て間違いなさそうだ。
 ただそれでも、長門と朝倉のデュエットは続き、その声音にも変化がないところを鑑みれば、ハルヒと佐々木の閉鎖空間の境界線とやらを探るのに時間が掛かっているのかもしれない。
 何であれ、俺にできることは何もない。ここにいるのだって、ゴネる橘の付き添いで来たのだから、端から役割なんてありゃしないのさ。
「……ん……んん? なんか……うーん、あれ?」
 ハラハラするでもなく、のんびり構えているのでもなく、どちらかと言うとテレビを点けたらたまたま放送されているだけで番組名すらしらないドラマを見ているような気持ちで見守っていた俺の横で、背中の痒いところに手が届かなくて落ち着かないと言わんばかりの声を、傍らの橘が漏らしている。
「何だよ」
「その、今さらこんなことを言うのもあれなんですけど、あの二人がやってること、止めた方が……」
「はぁ?」
 今さらこいつは何を言い出してるんだ? すべて承知の上で俺たちを佐々木の閉鎖空間内に連れてきたのはおまえじゃないか。そもそも、止めると言って今のあいつらに何をしろと言うんだ。
「やっぱり……やっぱりダメです! これ、止めてください。やめさせて!」
「何なんだ急に!? そんなことを言われても俺には、」
 訳がわからん橘の突然の錯乱具合を諭そうと口を開いた俺だが、最後まで言えなかった。言う前に事を起こしたヤツがいたからだ。
 周防九曜が黙して語らずの口から、長門と朝倉のハーモニーに割ってはいるかのように、件の高速言語を口にする。
「うわっ!」
 まるで金属をこすり合わせるような、あるいは黒板に爪を立てるような、空気が爆ぜるような耳障りな音が駆け抜ける。鼓膜を振るわすその音が駆け抜ける一瞬だけ両手で耳を押さえた俺は、不愉快な音が消えた頃合いで顔を上げた。
 閉鎖空間らしい静寂が戻っていた。俺たちが出す衣擦れの音、あるいは息づかいの音だけが妙に大きく聞こえる。長門と朝倉のハーモニーも、それに割って入った九曜の高速言語も止んでいた。空気が凍てつく瞬間とは、まさに今のこのときを指すのかもしれない。
「ちょっと、何するの!? どういうつもりよ!」
 そんな凍結した空気に、怒りという炎で溶かしたのは朝倉だった。事が順調に進んでいたのかそうでないのか不明だが、どちらであっても自分がやろうとしていたことに横から割って入って邪魔をされれば、そりゃあ怒鳴り散らしたくもなるだろう。
「────いる────ふたり──────いえ、一人────わからない────。でも────消える────……」
 朝倉の怒りが解っているのかいないのか、九曜はいつもの調子で完璧なまでに意味が解らないことを口走った。何を言いたいんだ、こいつは?
「何なの、いったい?」
 九曜の無意味な行動と台詞で毒気を抜かれたか、朝倉は俺に九曜の発言意図の通訳を持ちかけてくるが、俺だって何が何やらさっぱりだ。
「そんなことよりも、そっちはどうなんだ? 何をしていたのかさっぱりなんだが、上手く行ったのか?」
「境界部分はなんとか探り当てたけど、TPDDを使う前に邪魔されたもの。まだ終わってないわ。あと一手順ですべて終わるんだから、邪魔しないで」
「邪魔とかではないです!」
 橘が、どこかしら慌てるような、焦っているような声音で朝倉に食って掛かった。
「今はまだ、閉鎖空間の分離はしないほうがいいです。上手くは言えないけれど……今、それをすると取り返しのつかないことになります」
「何のこと?」
 俺だって解らない。なんで橘はそんなことを急に言い出してるんだ。
「待って」
 どこか落ち着かない素振りを見せている橘と、急に邪魔をした九曜に首を傾げている俺と朝倉だが、長門は違うらしい。待てと言うや否や、黒い煙があふれ出している室内をトレースするかのごとく凝視しはじめた。
「……いる」
「いる?」
 九曜もそう言っていた。いるって、ここは無人の世界だろ。橘の導きあって俺たちはいるわけだが、それ以外には誰もいない……いや、いるって、まさか。
「佐々木……か? いや、ハルヒの方か? 居るのか、ここに」
 俺の脳裏に過ぎったのは、ハルヒが世界を作り替えちまう寸前まで行った、昨年五月末の閉鎖空間でのことだった。あそこには何故か俺と、そして閉鎖空間を作り上げたハルヒ自身もいた。
 前例があるんだ。ハルヒが自分の作り出した閉鎖空間の中に入り込んでいた前例が。そして九曜と長門がそろって「いる」と言っている。
 ここにいる俺たち以外に誰かが居るとすれば、残る可能性はその二人しかいない。
「だが、あいつらは外だろう。ハルヒはベッドで寝ていた。佐々木も、朝比奈さんがどこか横になる場所へ連れて行っている。ここに居るわけがない」
「肉体は外にある。だが、ここにいるのは彼女たちの心。人はそれを魂と呼ぶかもしれないが、それともまた違うもの。彼女たちそれぞれを形作る……記憶、がここに居る。でもそれは曖昧なもの。どちらにでもなれる可能性。この閉鎖空間と同じように、二人はひとつになっている。互いの境界線がはっきりしない」
「正直に言うが、よく解らん。結論だけ言ってくれ。このまま閉鎖空間を切り離したとすれば、二人はどうなるんだ?」
「それでも目覚めない」
 おい……待ってくれ。それじゃここでやろうとしていることは、すべて無駄だってことなのか?
「────言葉────」
 ぽつりと、九曜がそう言った。
「なんだって?」
「彼女が──────わたしに、くれた────言葉、を────わたしは────わたしなのだと──────……」
「ああ、そうか」
 難解な九曜の言葉を理解したのは、朝倉だった。
「今ここにいるであろう涼宮さんと佐々木さんは、自分が誰なのか解っていない状態なのかもしれない。自我の境界線が曖昧になっているなら、たぶんそうだと思うわ。だからそれもはっきりさせなくちゃダメなの。よかったわ、あなたがここにいて」
 朝倉が、俺の気持ちを不安にさせるには充分な笑みを浮かべてみせる。
「何だよ」
「閉鎖空間の切り離しは、いつまでも先延ばしに出来ることじゃないわ。現実世界に影響を及ぼすもの。だから同時進行でしなくちゃならない。わたしと長門さんはこのまま作業を続けるから、あなたは涼宮さんを起こして来てあげて。この闇の中に、たぶんいる」
 つまりこいつは、黒い煙があふれ出している部屋の中へ入れと、俺に言ってるわけか。
「ちょっと、ちょっと待ってください。涼宮さんはそれでいいかもしれないですが、それなら佐々木さんは? 佐々木さんはどうするんですか」
「同時進行で進める以上、どちらかは後回しにするしかない。最悪な事態を想定すれば、確かにこのまま目覚めないことになるかもしれないけど、別に消えて無くなるわけじゃないわ。今は……正直に言うね。起こす方法は何も思いつかない。でも、可能性がゼロになるわけでもない。ゼロでなければ、必ず何か方法はあるの」
「限りなくゼロに近い話をされても困るのです。起こす人が必要なら、わたしが佐々木さんを、」
「それ無理」
「どうして!?」
「あなたはたぶん、佐々木さんとそれほど近い位置にいないんじゃない? ハッキリ言えば、佐々木さんはあなたに彼ほど心を許していない。ここにいるのは、涼宮さんと佐々木さんの心。たぶん、近寄ろうとしても近付けない。拒絶される」
「そんな……」
 橘は、この世の終わりを告げられたように蒼白になって俺を見る。
 佐々木が橘に心を許してないと朝倉は言うが……それはどうだろう。俺には何とも言えないな。佐々木が何をどう思っているのか、それを正確に知るのはやはり佐々木自身だから、俺がどう思っていても確証はない。
「それじゃいい? 閉鎖空間の境界領域を涼宮さんの閉鎖空間寄りで切り離してからTPDDを使うから……ま、いいわ。あなたはとにかく、その部屋の中に入って」
「待て、朝倉」
「心配しなくても大丈夫よ」
「そうじゃない。たたき起こすなら、まずは佐々木からだ」
「えっ?」
 え、って何だ。どちらかを優先させるというのであれば、誰がどう考えても佐々木からに決まってるじゃないか。
「ねぇ、わたしの話、ちゃんと聞いてた? 確かにどちらを先にしてもいいけれど、でもよく考えて。あなたは涼宮さんが大切なんじゃないの? なのにどうして佐々木さんを優先させるのよ」
「俺は人を天秤に掛けるつもりはない。そもそもあの二人をどうして天秤に掛けなくちゃならないんだ。何度も言うが、俺は二人とも助けたいんだ。それが同時に出来ないなら、だったらハルヒは後回しだ」
「だからどうしてよ!」
 埒が明かない。そもそも、そんなことをわざわざ口に出してまで説明しなけりゃならない理由はない。ちょっと考えれば解ることだ。
「何よそれ。意味が解らない。長門さんだってそうでしょう?」
 問われた長門は、黒水晶よりも深い闇色の瞳で俺をジッと見つめ、すぐに顔を背けた。
「あなたがそうと決めたのであれば、そうすればいい」
「ちょっと、長門さん!」
「時間がない。続けて」
「でも」
「続けて」
 無表情の長門に迫られて、朝倉は喉を鳴らすように言葉をつまらせた。そりゃあ長門に睨まれればそうなる。
「解ったわよ。わたしはわたしがやることをするわ。あとは好きにすればいいじゃない!」
 なかばヤケクソ気味な朝倉は、再び高速呪文を唱え始めた。合わせるように、長門も歌い始める。これで俺が黒い煙吹き出す部屋の中に入ればいいのか?
「あの」
 そうしなければならないのは解っているが、それでもどうも躊躇う俺に、橘が珍しく不安げな表情を見せていた。
「何だよ」
「佐々木さんのこと、お願いします」
「解ってる。いいからちょっと待ってくれ。さすがに、」
「本当にお願いします」
 重ねてそういう橘は、いつにも増して真面目だ。ちらりと九曜に目を向ければ、あいつも突き刺すような視線を向けている。
「過剰な期待はしないでくれ」
 任せておけ、と言えない自分が情けないが、そう言える根拠もないってのが正直なところなんだ。俺も男だから少しくらいは格好を付けたいが、どうもそうはさせてくれないらしい。
 溜息と一緒に肺の空気を一気に吐き出して、新鮮な空気を目一杯吸い込んでから、俺は黒い煙吹き出す部屋の中に飛び込んだ。


 夜、寝るときに部屋の電気を消して布団の中に潜り込んだときは、ただ暗いだけだ。街灯もない森の中にキャンプに行って、テントの中で眠るときもかなりの暗さだが、逆に星明かりが世界を照らしている。
 本当に一切の光も届かない闇の中なんて、まともな生活を送っていればそうそう赴くような場所じゃないのは、たぶん間違いないだろう。
 顔の近くまで引き寄せた手は形すら見えず、耳を澄ませたところで何も聞こえない。勢いよく部屋の中に飛び込んだのはいいが、それほどの闇に包まれた空間は正直言って尻込みするほどだ。おまけに何だ、場所は確かに室内だったよな? なのに何で歩いても歩いても壁にぶち当たらないんだ?
 側には誰もいない。いる気配もない。闇の中、目は見えず音も聞こえない。ここは本当に大丈夫なんだろうな? 何かで見たか読んだか忘れたが、原始時代の名残とかそんな理由で、人間、闇というものが先天的にダメらしい。何も見えずに何も聞こえないなら何もないわけで、だったら何かが起こるわけでもないと思うのだが、どうにもびくついている自分がいる。
 これでもし──。
「うわっ!」
 不意打ちだった。まったく予期しない出来事でもある。闇の中、文字通り手探りで進んでいたその腕を、急に掴まれたかと思うと力一杯引っ張られた。
 驚いたってもんじゃない。心臓が肋骨を突き破る勢いで驚いた。そんな強い力じゃなかったが、掴まれた腕を勢いよく振り解こうとしたときにバランスを崩し、相手も──姿は見えないが腕を掴んできたってことは誰かいるはずで──俺が抵抗することが意外だったのか姿勢を崩し、互いが互いにもつれ合うように倒れた。
 どうしてこういうとき、俺が下になるんだろうな。理由を考えればシンプルなのは解ってる。相手が引っ張る力より、抵抗した俺の力の方が強かったせいで、だから俺の方が仰け反るように倒れたってだけで……だからって頭を床に打ち付ける勢いで倒れるのはどうかと思う。目から火花が飛び散ったぞおい。
「ってぇ〜……」
「何をやってるんだ、キョン。大丈夫かい?」
「え?」
 目を開く。世界が明るい。今まで目を見開いていても何も見えなかった世界から一転、世界は光に包まれ、新鮮味も何もない見慣れた空が目に映る。ただし、世界は霧に包まれているようにどこか霞んで見える。そして目の前、俺に覆い被さるようにいるそいつは。
「佐々木、か」
「そうだ、僕だ」
 応えて佐々木は体を起こし、俺に手を差し伸べてくる。その手を掴んだ感触は確かに人の温もりが感じられるものであり、俺の目に映るその姿も佐々木で間違いない。
 ただ──。
「キョン、何がどうなってるのかどうにも理解できないんだが……キミにはこの事態が理解できてるのかい?」
「うん? ああ」
 胡乱に応えて、俺は周囲を見渡す。そこは病院内でもなければ、俺の記憶にある既知の場所でもない。もしかすると過去に一度くらいは訪れたことがあるのかもしれないが、記憶に残っているような目印らしきものはどこにもない。
 そこは、緑覆う山肌が一望できる丘の上だった。元々いた病院の面影はどこにもなく、近くに誰かがいるとも思えない。何より世界を覆う霧が、どうにも幽界との狭間に立たされている気分にさせる。
 ここはいったいどこなんだ?
「佐々木、何でおまえはここにいるんだ?」
「妙なことを聞くね。何でって、それは……ん? あれ? そう言えば、僕は……」
 珍しく、佐々木は口籠もる。
「ここにいる前のことは、何を覚えてる?」
「何を……うう〜ん」
「俺と一緒に須藤の見舞いに病院へ行ったことは覚えてるか?」
「ああ、そうだ。僕たちは入院した須藤の代わりに同窓会のセッティングをしていたね。それが一通り済んだから、病院まで行って、」
「そこでのことを、どこまで覚えてる?」
「それで……気がついたら、ここにいた。うん、そうだな。僕が覚えているのは、そういうところだ」
 佐々木はそこまで覚えている。俺もそれは解っている。そういう共通認識がある俺たちは、けれど今、見覚えのない丘の上にいる。つまりここは、あの病院で起きていた出来事から繋がっている場所なのは間違いない。間違いないが、どうやって繋がっているのか解らない。
「それで、キミは何を解っているんだ?」
「え?」
「え、って……今、自分で言ったじゃないか。この事態が理解できているって。そうじゃないのか?」
 あー……確かにそう言ったが、はっきり言って佐々木の話を聞き流しながらの生返事だったわけで、改めて答えれば「何も解ってない」ってのが正解だ。せいぜい、俺が解っていることは今しがた佐々木が自分で口にしたように須藤の見舞いに来て、その後……佐々木が作り出している閉鎖空間の中に入って、ハルヒと佐々木の閉鎖空間の切り離し作業に立ち会い、その流れで黒い煙で満たされた部屋の中に飛び込み、今、ここにいる。
 それは佐々木が知らないことだ。知らないことだから話はするが、それは俺と佐々木がこんなところにいる理由にはなってない。
「そう……僕と涼宮さんの閉鎖空間が、ねぇ……」
 起きていたことを、佐々木に隠し立てする理由はない。ハルヒと違って元から何もかもを知っているこいつに隠し事をする意味はないし、何より状況が状況だ。話さないという選択肢は、状況解決までの道のりを逆に困難にするように思う。
「ならここは、僕の内面世界ということになるのかな?」
 どこか感慨深く、佐々木はそんなことを言って緑覆う山肌を一望した。緑覆う、とは言っても世界は霧に包まれているように、どうにもクリアな視界とは言い難いのだが。
「こういう風になっていたとはね。人は自分のことなら自分自身がよくわかっていると言うが、あまりそうではないのかもしれない。思ったよりもまともそうだ。なるほど、こうなっているのか……」
「そうか」
 ここは、静寂に包まれた場所だ。大きなアクシデントもハプニングもない平穏とさえ言ってもいいだろう、そういう場所だ。けれどここにいる俺たちは、それ以前のことを覚えている。非現実的で騒がしい日常から繋がっている場所だ。そして俺は、長門と朝倉の導きがあってここにいる。
 ここが佐々木の閉鎖空間内であることは間違いない。そしてここに、その世界を作り出している佐々木がいる。ふたつの閉鎖空間の切り離しとやらが成功したのかは解らないが、俺は佐々木と出会うことが出来ている。
 ……待てよ? 朝倉は何て言ってた? 閉鎖空間が融合しかけている今、そこにいるのはハルヒも佐々木も自分がどっちか解ってない状況だと言ってなかったか? なら、ここにいる佐々木はどうして自分を『自分』だと認識できているんだ?
 いや、まぁいい。その理由は後回しだ。何しろ佐々木が自分自身を認識できているのなら、俺がここに来た目的は果たされているんだ。
 となればあとはハルヒを……どうやって? ここは佐々木の閉鎖空間内であって、ハルヒがいるであろう、あいつの閉鎖空間じゃない。おまけにここから抜け出す手段もない。
 まずい。考えれば考えるほど、次から次に困難な問題が吹き出てくる。
「佐々木、ここがおまえの閉鎖空間内なら、おまえで何かできるんじゃないのか? 元の世界に戻る方法とか、何かないのか?」
「そう言われてもね、僕は橘さんから話を聞いているだけであって、ここに訪れたのは今回が初めてだ。そもそも僕自身が作り出している世界だと言われても、ピンッと来ない」
 そりゃねぇだろ。自分が作り出したものを自分で制御できないって、欠陥品にも程がある。側には万能宇宙人も閉鎖空間のスペシャリストも時空間移動のエキスパートもいない。俺にできることは何もなく、せいぜい空間創造主の佐々木だけが頼りなんだ。
 その佐々木が、どうして何もできないんだ? こんな誰もいない、何もない場所に、いつまでものんびりしていられないんだ。
 くっそぅ……あれこれ考えても、ロクな解決策が思い浮かばない。俺が考えたところで無意味かもしれないが、画期的な閃きなんぞ何もない。せいぜい、前にハルヒと二人で閉鎖空間に閉じこめられ、曖昧模糊とした赤く輝く人の形をした古泉が「産めや増やせで」云々とふざけたことをほざいていたことを思い出すくらいだ。
 まさにあのときの再現か。相手がハルヒから佐々木に変わっただけで、それ以外の条件は同じってことか? じゃあ、脱出方法もハルヒのときと同じ……ん? それなら……いや、そうなのか?
「佐々木、おまえはここを見て、どう思う?」
「唐突だね」
「どう思う?」
「……そうだな、静かな場所だ、と思う」
 そりゃあな、人どころか動物も何もいない場所だ。おまけに《神人》すら出現しない場所と来ている。静かすぎるほどに静かだろうさ。
 ただ、俺が聞きたいのはそういうことじゃない。そんな客観的な感想ではなく、佐々木自身の個人的な気持ちだ。
 もし俺の考えが正しければ、それがここから抜け出せない理由で間違いない。つまり佐々木は──。
「この閉鎖空間のことが……気に入ってるんじゃないのか?」
 端的に聞いた俺の言葉に、佐々木は何も応えなかった。
「やっぱりそうなのか」
 佐々木はどういうわけか……誰もいない、何も起こらないこの世界を気に入っている。だからここから抜け出せない。そういうことで間違いなさそうだ。
 前もそうだった。ハルヒと二人で閉鎖空間に閉じこめられたときも、あいつはあの世界が気に入っていた。得体の知れない巨人が暴れ回る姿は、それこそハルヒが望むような不思議満載な世界だったからだろう。
 そこを俺が説き伏せて、適度なショック療法で世界改変の危機は免れたわけだが……佐々木の場合はこの世界の何が気に入っているのかまったく解らない。
 ここには何もないじゃないか。人も動物も《神人》すらいない。どちらかと言うと、現実世界より何も起こらない世界だぞ? 誰もいない、何もない世界の、どこがいいって言うんだ?
「何もない、というのは少し違うね。ここには普通に緑もあるし、現代人らしい生活を送るのに必要なアイテムもすべて揃っている。違うかい? しいて言えば……そうだね、生き物がいないだけさ」
「それを俺は『何もない』と言うんだと思ってるがな。生活に必要なもんが揃っていても、誰もいない場所に居続けてどうするんだ?」
「誰もいない……わけじゃない」
 わけじゃない……って、もしかして本当に他に誰かいるとでも言うのか? 
「そりゃ……この世界を隅から隅まで歩き回ったわけじゃないから、本当にいないかどうかなんて解らないさ。でも、鳥の鳴き声すら聞こえない場所なんだぜ? 仮に誰かいるのだとしても、探し出す方が無理ってもんだ」
「そうじゃない。探そうとしなくてもいいんだよ。解らないかな?」
 やけに自身たっぷりにそう言う佐々木の態度が気に掛かる。俺にはわからなくても、佐々木には他に誰かがいるって感じるものがある、とでも言い出すんじゃないだろうな?
「違うさ。僕が言ってるのはキョン、キミのことだよ」
 俺、だって?
「そうだよ、キミがいるじゃないか。この世界には僕が居て、キミが居る。一人きりというわけではないのさ」
 何て言う理屈だ。そんなもん、屁理屈もいいところだ。いや、屁理屈にすりゃなってない。悪さした子供が咄嗟の閃きで口走る言い訳と同レベルだ。
「だったら言い直すさ。ここには俺とおまえしかいない。他には誰もいないんだ。そこのどこが気に入ってるんだ?」
「それはもちろん、ここが僕の内面世界だからだよ。いわば僕の願望を表している世界なのだろう? そこを気に入らないと言うのは、逆におかしな話じゃないか」
 確かにそれはその通りかもしれないが……それなら佐々木は、この誰もいな無人の世界を望んでいるってのか? 他に誰もいない、何もない世界で変化すら起こりそうもないことを願っているとでも?
「望んでいる……どうだろう、僕はそれを望み、願っているのかな。いや、何かしらの変化が起こることを拒んでいるわけではない。僕はただ……」
 言葉尻を風に流し、佐々木は何かため込んでいるものでも吐き出すかのように吐息を漏らした。
「キョン、確かにキミの言うとおりだ。ここに居ても仕方がない。どうすればいいのか僕にも解らないが、どうにかして戻る手段を探し出そう。話を聞けば、涼宮さんも僕と同じようなことになっているんだろう? 涼宮さんも助け出すために、いつまでもこんなところでのんびりしてはいられない」
「ハルヒのことは、どうでもいい」
 ここは佐々木の閉鎖空間だ。この世界は佐々木が望む世界の姿と言い換えてもいい。そこから抜け出すには、おそらく佐々木自身がこの世界そのものを否定する必要があるんだろう。ハルヒのときも、結局あいつは《神人》が暴れ回っていた世界よりも、SOS団の面子がいる普通の世界を望んだからこそ戻れたんだ。だから、この閉鎖空間から元の世界に戻るには、佐々木がそう望む必要があるんだと思う。でなけりゃ、俺があれこれ何かしたところで、抜け出す手段なんて見つかるはずもない。
 だが、違う。俺が言いたいのはそういうことじゃない。ここからの脱出云々が、俺がここにいる目的じゃない。
「俺はおまえを助けるために、ここへ来たんだ。俺に何ができるか解らないが、それでもできることがあるらしい。だからここに来た」
「助ける? 僕を? 僕は何も助けを求めてはいないよ。今ここにいる僕はね。現実世界に肉体が残っているのなら、それが眠り続けている姿は確かに……キミのことだ、助けたいと思うのかもしれない。でもここにいる僕は、何も求めてはいない」
 言葉に一切のよどみなく言い放つ佐々木の言葉だけを聞いていれば、確かにその通りなのかもしれない。それこそ、俺が余計なお世話ってのをしてるだけのようにも思えてくる。
 だが、本当か? 本当にそうなのか? その言葉は信じられるものなのか?
「違うな、佐々木。やっぱり違う。おまえは助けを求めてるじゃないか」
「だから僕は、」
「ならどうして、俺の手を掴んだんだ」
 佐々木を助けるため、黒い塊が吹き出す部屋の中は一切の光が届かない闇の中だった。そこを彷徨う俺は、どこへ向かっていいのかさえ解らずにいた。あのままなら、佐々木に会うこともなく、今もまだ彷徨い続けていたに違いない。
 けれど今こうして佐々木と会えているのは、佐々木の方から俺を見つけて、腕を掴んで引いてくれたからだ。この何もない、誰もいない世界が佐々木の望む世界と言うのであれば、ならどうしてそこに俺を連れ込むようなことをしたんだ。
 それこそが、佐々木からの合図だったんじゃないのか?
「違うか、佐々木」
「…………」
 答えない佐々木は、代わりに漏らす溜息で俺の言葉を肯定した。
「キミは、本当に……どうしてそうなのかな。普段は何も気付かず何も解らず何も見ていないようなのに、人が本当に迷って苦しんで悩んでいると、敏感にそれを見て手を差し伸べてくる。驚きを通り越して呆れてしまうよ」
 褒められているのか貶されているのかよく解らないことを言って、佐々木は眼下に広がる山の裾野に目を向けた。
「でもキョン、これだけは間違いなく本音なんだが、僕は本当にこの世界のことを気に入ってるわけじゃないんだ。ただ、こういう世界なら出来るのかなと、そんなことを薄ぼんやりと考えているだけなんだ。そんな些細な思いだけで、本当にこの世界は構築されているんだろうか。それほどまでに強く深い願いではないのだけれどね」
「何が言いたいんだ?」
「誰もいない世界なら、僕は僕のままでいられるんじゃないかと、そんなことを考えた」
 佐々木は佐々木のまま……って、何を言ってるんだ? この閉鎖空間だろうとなかろうと、佐々木は佐々木じゃないか。
「僕は僕……か。どうかな。本当にそうなんだろうか? いったい誰が僕を僕として見ていてくれているのかな。橘さんや九曜さん、藤原さんは僕を見てくれているんだろうか。彼女たちが見ているのは僕ではなくて、僕が持っているという、涼宮さんの力に類するものじゃないのかな? 橘さんはよく言うね。『涼宮さんの代わりに──』と。つまり僕は涼宮さんの代わりなのかな?」
「それは違うだろ」
 橘が言うその言葉は、なんというか口癖みたいなもんだろう。佐々木をハルヒの代わりにしたいのではなくて、佐々木としてハルヒが持ってる力を持つべきだと言いたいのであって……橘を擁護するつもりは微塵もないが、あいつは何も佐々木をハルヒの代わりとして見ているわけじゃない。
「おまえは知らないかもしれないが、橘は本当におまえのことを心配していたんだ。俺がおまえのためにこっちに来るときに、あいつはいつになく真剣な面持ちでおまえのことを頼むと言ってきてたんだ。九曜だってそうだ。藤原は……よく解らんが、あいつもそうだろうさ。あいつらはおまえをハルヒの代わりにしてるんじゃなくて、おまえだから心配してるんだ」
「そうだね。確かにキョン、キミの言うとおりだ。彼女たちは、たぶん僕のことを心配してくれていると思う。キミが彼女たちを好ましく思ってないのは知ってるが、でも彼女たちは本当にいい娘たちなんだよ。僕のことを心配しているというキミの言葉も、素直に信じられる。ただ……僕はそれでも誰かの代わりになりたくない。彼女たちは結局、僕ではなく僕が持つと言う力に目を向けてしまう。僕は僕でいたいし、誰かや他の何かと比べられたくない」
「それは……矛盾してる」
「そう。それは解っている。矛盾している考えなのさ。人が作り出すコミュニティの中にいる以上、他の何かや誰かと比べられるのは仕方のないことかもしれない。ただそれでも……それでも僕は、」
「違う。そういうことじゃない」
 他人の目がどうのこうの、そんなことを言われても俺にはよく解らない。小難しい話をされても、それが正しいのか間違ってるのか判断できないし、だから佐々木の考え方を肯定することも否定することもできない。
 それでも、ひとつだけ解ることがある。
「おまえが自分を『自分』として見てもらいたいなら、どうしておまえ自身が自分を偽っているんだ?」
「僕、が? 自分を偽る……?」
「それだよ。どうして『僕』なんだ? おまえが俺と話をするときは、いつも男みたいな口調だよな。でも同性と話をするときはそうじゃない。そうやって自分を偽ってるじゃないか。国木田や、ハルヒさえも言ってたぞ。おまえの態度は作ってるみたいだってさ。自分をちゃんと見てもらいたいなら、どうして偽る? 本当の自分をどうして隠すんだ。橘たちが自分を見ていないとおまえは言ったな? だが、本当に自分を見てないのは……自分自身だろ」
 すべて俺の憶測さ。ただ、佐々木が言っていたことは、佐々木の態度と矛盾していると思ったまでだ。
「ああ……そうか」
 佐々木は両手で自分の顔を覆って、俯いた。漏れる声が、泣いているように震えている。
「そうなんだ、キョン。僕は……『わたし』は……自分自身が嫌い。誰かになりたいわけでもない、自分自身とも向き合えない。自分の気持ちに気付くのが怖いから、他人に自分を偽り自分自身さえもごまかしている。そうやって自分さえも解らなくしていたのに……そうまでしたのに……でもあなたには気付かれてしまった」
 そう口にする佐々木は、いつも俺と話しているような男口調でも、同性と話しているときのような作っている女らしい言葉でもなく……何故だろう、初めて佐々木自身の言葉を聞いているような気分を、俺は感じている。
「今なら解る。どうしてふたつの閉鎖空間が融合しかけたのか。それを望んだのは、わたし。わたしは自分であり続けたいと思っていても、あなたが側にいる涼宮さんになりたいとも思っている。こんな事態を引き起こしたのは、涼宮さんを羨むわたしの気持ち。それを、でも涼宮さんは、わたしを……わたしはわたしなのだと……守ってくれた」
「ハルヒが?」
 そうなのか? 俺は今回の出来事もハルヒがしでかしてることだと思っていたが、そうじゃないのか? 今の佐々木の言葉は……何故だろう、信じられるが、でも『ハルヒが守ってくれた』って、どういうことだ?
「教えて、キョン」
 けれど佐々木は、答えず逆に俺へ問いかけてきた。
「どうして先にわたしのところへ来てくれたの? 今を逃せば次がないかもしれないのに、それでもどうしてわたしを選んだの?」
「別に深い理由なんてない。ただ、今日はハルヒたちと海に行く約束をしていたろ? 俺が『行く』と言って、ハルヒは──しっかり明言したわけじゃないが──『待ってる』と言ったんだ。あいつがそう言った以上、俺が行くまであいつは待っていてくれる」
「それ……だけ? そんな理由で、涼宮さんよりわたしのところへ……?」
「それで充分なんだよ。例え何があっても、どこであろうともハルヒは待ってくれている。あいつがそう言った以上、俺は信じるしかない。だから、あいつは後回しにしても大丈夫だと思っただけだ」
「そう……そうなの」
 深い深いため息一つ。呆れたというよりも、諦めたというニュアンスが、どこかしら感じられる。
「もし……もしも、あなたと出会ってからずっと同じ道を歩み続けていたら、わたしが涼宮さんの代わりにあなたの信愛を受けていたのかしら」
「別に俺はハルヒのことを信用してるわけでもないし、大切に思ってるわけでもないが……仮におまえと中学から今までずっと一緒にいたとしても、ハルヒの代わりになんて成り得ない」
「……そう」
「佐々木は佐々木であって、ハルヒじゃない。ハルヒもおまえじゃない。なんで違う相手に同じことができるんだ? 俺にそんな器用な真似はできない。それに四六時中一緒にいたってな、俺がおまえに対する態度は今とそんなに変わらないさ。俺たちは……親友なんだろ?」
「親友……親友か。そう言ったのは、そうね。わたし、か。ありがとう、キョン」
 何に対する感謝なのか俺が理解するよりも前に、佐々木は音もなく静かに俺に寄り添い、顔を隠すように両手を背中に回して俺を抱きしめてきた。
「あなたがわたしを見ていてくれると解ったから……わたしが嫌う自分さえも、あなたは見ていてくれるから……わたしはもう大丈夫。だからキョン」
 俺の胸元に顔をうずめていた佐々木は、目元を若干腫らしながらも佐々木は口元に笑みを浮かべていた。
「キミは涼宮さんのところへ行きたまえ。僕はもう、この世界にとどまろうとは思わない」
「行け、って言われてもどうやって……?」
「こうやって」
 佐々木は俺を離したかと思うと、今まで顔をうずめていた胸元をトンッと押してきた。まったく力も入れず、ただ触れただけとも思える感触だったのに──俺は丘の上からバランスを崩して、頭から真っ逆さまに転げ落ちる感覚を味わった。


 どっぱーん! と、効果音を付けるなら、こんな書き文字が妥当かもしれない。そんな勢いで丘の上から佐々木に突き落とされた俺は、体を包む妙な圧力と息苦しさにちょっとしたパニックに陥っていた。
 真っ先に思ったのは「ここはどこだ?」ということであり、口を開けた瞬間にごぼごぼと泡が吹き出す様から、どうやら水の中にいるに違いない。あの丘の下に潜れるような湖か泉かしらんがそういうものがあったのかとも思ったが、開けた口の中に流れ込む水は、どこか辛い。これは塩水……海水か?
 いや、そんなことを考えている暇はない。早く海面に出ないと窒息してしまう。
「がぼがごぼぼぼがっ!」
 今、まさに命の危険を感じている。この危機感は、朝倉に脇腹を刺された時と同じ気分であり、もがけばもがくほど泥沼に陥っているような気がする。もしやこれは、三途の川とか呼ばれるものではないだろうな? 六文銭の用意をしてない俺は、だからこうやって忘却の川で溺れてるんじゃないだろうな?
 そんなくだらないことを考えられるのは、余裕の現れってわけでもない。そんなことでも考えて落ち着こうとしていたのかもしれない。
 ただ、実際に俺を冷静にさせたのは、そんな脳内をかけずり回る余計な考えではなく、じたばたと振り回す腕が硬いものにぶつかって鋭い痛みに貫かれたからだろうか。
 それが防波堤のテトラポットだと気付いたのは、闇雲につかまってそれで何とか海面に顔を出すことができてからだった。
「どこだ……ここ」
 新鮮な空気を肺の中に流し込み、一息ついてからようやく周囲を見渡す余裕が出てきた。
 先ほどまで佐々木と一緒にいた山間部とはまるで違う。視界を遮るような霧もなく、代わりにまぶしいくらいの夕焼けが地平線の彼方に沈みかけようとしている。
 場所は、やはり海で間違いない。出店やそんなものはどこにもないシンプルな海岸。周囲を見渡しても、人の姿はどこにもない。
「あんた、何やってんの?」
 誰もいないと思っていたが、それは横方向に見ただけでそう思い込んだだけの話で、実際には一人だけそこにいた。テトラポットの上、防波堤から俺に手を差し伸べている。
「は、ハルヒ……」
「ん?」
 そこにいるのはハルヒだった。俺が知っている、毎日学校で背後の席に陣取っている、見慣れた姿のハルヒで間違いない。
 差し出される手を掴んで、俺はようやく海中から地上に這い出ることができた。いくら暑い時期だからと、服を着たまま海面へダイブするのはやめた方がいい。そのことを、身を以て体験した今はより力説できそうな気がする。
「あんた、自殺でもするつもり? それとも暑さで頭をヤラれちゃったわけ? どっちにしろ、目の前で溺れてる姿を見せつけられるのはいい迷惑ね」
 会っていきなり辛辣な台詞を口にされた俺は、果たしてどんな表情を見せつけてやるべきかね。怒鳴り散らす気力もない。
「それよりさ、あんた、なんであたしの名前知ってんの?」
「え……?」
「あんたとどこかで会ったことあったっけ? それともストーカー? もしくは、あたしのSOS団に入団したい熱烈なファンってわけ? おあいにく様。どんな理由でも、今はあんたの相手してる場合じゃないの。服着たまま海に飛び込んでないで、さっさと家に帰りなさい」
「ちょっ、ちょっと待てハルヒ。俺が解らないのか!?」
「だから、あんたなんて知らないって言ってんでしょっ!」
 肩を掴む俺の手を邪険に振り払いながら、ハルヒは険のある声を飛ばしてきた。ここで蹴りが飛んで来たり投げ飛ばしたりしないところを見るに、ここ最近の丸くなったハルヒであるように思えるが……それならどうして俺のことが解らないんだ!?
「あたしはここで人と待ち合わせしてんだから、あんたの相手なんかしてらんないの。邪魔だからとっとと消えなさい」
「待ち合わせ……?」
 周囲を見渡すが、人がいる気配はどこにもない。人どころか、ウミネコも魚すらいるかどうかも疑わしい。どうも俺が知っているハルヒの閉鎖空間と勝手が違うので確証は得られないが、ここが閉鎖空間のそれと同じような場所であることは、さすがにそろそろ雰囲気でわかる。なんというか、満ちている空気で察することもできるさ。
 そんな場所で、ハルヒは誰を待っているんだ?
「それは、キョンを待ってるのか?」
 今のこいつは俺の姿を見ても解らない。だから、俺はそう聞いてみるしかない。けれどハルヒの返事は俺の予想を覆すものだった。
「何それ? 人の名前?」
 俺じゃない、らしい。いや、それならこっちの名前だろうか。
「それなら、待ってる相手はジョン・スミスか?」
「外国人に知り合いはいないわ」
 それでもないのか。キョンでもジョン・スミスでもない。それならハルヒは、こんな人気のない場所で誰を待っているんだ?
「SOS団の誰かが来るのか」
「あんた、みんなのこと知ってるの? ふーん。ま、どっちでもいいわ。そんなこと、あんたには関係ないでしょ」
 関係なくはない。俺がこんなところにいるのはハルヒに会うためなんだ。佐々木に丘の上から突き落とされ、気がつけば服を着たまま海の中に落っこちたのも、今のこのときのためなんだ。知らないだの帰れだの言われたところで、素直に従うわけにはいかない。
「誰を待ってるのか知らないが、いつまでここにいるつもりだ? だいたい、おまえだったら素直に待ち続けるんじゃなくて、そっちから迎えに行くだろ。こんなところでジッとしているなんてらしくないぞ」
「なんであんたに、あたしらしさを語られなくちゃなんないわけ? 何も解ってないのに勝手なこと言わないでちょうだい」
 沸点の低いハルヒは、そろそろ俺のことがうざったく感じ初めているようだ。ぎろりと人を睨んでくるが、かといってそんなことで腰を引かせている場合じゃない。こいつの凶悪な眼差しはほぼ毎日一身に浴びている。今さら睨みを利かされたところで、効果があると思うなよ。
「変なヤツ」
 睨み合いで初めてハルヒの方から引いたような気がする。俺から顔を背け、西の彼方へ沈み行く夕日に目を向けて、ぽつりとこぼした。
「約束したの。あいつは来るって言ってたし、あたしも待ってるって──言ってない気もするけど──言っちゃったもの。自分の言葉を曲げるなんて真似、したくないわ」
「それは……」
 俺との約束だ。やっぱりハルヒは俺を待っている。なのに、俺が俺だと解らないのはどうしてだ? それとも……その気持ちだけを覚えていて、実際には誰を待っているのか解らなくなってるんじゃないのか?
 だとしたら、ここでいつまでも待ち続けていたって、来るヤツは誰もいない。
「本当に来るのか、おまえが待ってるヤツってのは」
「来るわ」
 やけに自信たっぷりだ。根拠のない自信はハルヒの専売特許みたいなもんだが、今回ばかりはどうかと思う。
「でも、もうすぐ日も暮れるぞ。相手だって、来られない事情があるのかもしれない。例えば……どうしてもはずせない用事ができたとか、もしかすると事故に遭ったとか、おまえも解らない理由があるのかもしれない。それでも待つのか」
「そうよ」
「何故?」
「それでもあいつは来るから」
 理由になってない。こいつが信じ込めば……まぁ、それはある程度叶うことは、これまでの出来事で実証済みだ。事実、今もこうして俺は来ている。
 けれど、俺が来たことにハルヒが気付かないんじゃ、いつまで経っても会えるわけがない。いつまでもハルヒは待ち続けることになる。
「いったいどのくらい待ってるんだ?」
「さあ? 時間なんて気にしてないから、知らないわよ」
「退屈だろ?」
「そうでもないわ。あんたみたいな変なヤツもいるし、さっきまで迷子の女の子の相手もしてたしね」
「迷子の女の子?」
 人が……いたのか?
「あんたみたいな妙な子だったわ。ずっと泣いててさ、何がそんなに悲しいのか知らないけど、泣き続けてたって仕方ないじゃない? だから言ってやったの。『そんなに泣いてたら幸せになれないわよ』って。そうしたらその子、『お姉ちゃんになれば幸せになれるの?』なんて聞いてきてさ」
 それを聞いて……何故だろう、俺の脳裏には佐々木の姿が浮かんだ。
「なんて答えたんだ?」
「そんなわけないでしょ、って言ってやったわ。あったりまえじゃない。その子があたしになったからって、それがその子の幸せになるわけない。だいたいね、幸せなんて人から与えられるもんじゃないの。よくあるでしょ? 定番のプロポーズの台詞で『キミを幸せにする』云々って。バッカじゃないの!? って思うわ」
「そうか?」
「そうよ。どうしてあんたにあたしの幸せが解るのよ、って思わない? 幸せなんて人それぞれじゃない。他所から見れば不幸に見えることも、本人が幸せと思っているなら、それがその人にとっての幸せなの。幸せの価値観なんて人それぞれなんだから、与えられた幸せなんて本当の幸せじゃないわ。自分の手でつかみ取ってこその幸せでしょ」
 いかにもハルヒらしいヒネクレ理論だ。将来、何かしらの手違いでこいつにプロポーズしようなどという奇特な人間が現れたら、そいつに今の言葉をこっそりアドバイスしてやろうか。
「だからあたしは、こうやって待ってるの」
「はぁ?」
 意味が解らん。待つことが、ハルヒにとっての幸せだとでも言いたいのか。
「ンなわけないでしょ、このアンポンタン。あたしの幸せは、あいつが側にいてくれること……かな」
「幸せは人から与えられるものじゃないんじゃなかったのか?」
「そうよ。だからあいつが幸せなのかどうかなんて知らないわ。あたしが勝手にそう思ってるだけ」
「……どうしてそいつなんだ? 他にも、もっといるじゃないか」
「まぁね。待ち合わせしてもいっつも遅刻するわ、愚痴ばっか多くて素直さもないわ、他の女の子見て鼻の下を伸ばしてるわ……よくよく考えたら、ロクなもんじゃないわね。でも、こんなあたしでも見ていてくれて、差し出した手を掴んでくれて、支えてくれているのもあいつだけ」
「そうなのか」
「本人にその自覚はなさそうだけどね。鈍感なヤツだから仕方ないわ。今のあたしがいるのも、あたしの周りに大勢の人がいてくれるのも、すべての始まりはあいつがいてくれたから。だから、あいつを信じていられるの」
「おまえに見切りを付けることがあるかもしれないぞ。付き合いきれないと、いなくなる日が来るかもしれない」
「かもね。でも、それでもあいつは『やれやれ』とか言って、手を差し伸べてくれる。そうでしょう?」
 何だろうな。何なんだろうな、ホントにさ。根拠のない話でも、そこまで自信たっぷりに言われれば否定の言葉も拒否の台詞も出てこない。
「悪かったよ」
 ハルヒが俺のことをそんな風に信じているとは思わなかった。言葉ではなく、態度でそれとなく思うところは……俺にもあったことは認めよう。だからハルヒよりも佐々木の救出を優先させたんだ。
 けれど、それでも来るのは遅くなってしまった。ハルヒが待っていてくれるからと、その信頼に甘えていたのかもしれない。
 だから、謝るのは当然だ。
「あんたの遅刻癖はいつものことだからね、いちいち気にしてたらやってらんないわ。でも、あたしは待つ女じゃないの。今回だけの特別サービスなんだから」
「ひとつだけ言い訳をさせてくれるなら、おまえのペースが早すぎるのも問題なんだ。着いていくだけでも一苦労なんだぜ」
「だったら、あたしの手を離さないことね」
 そう言って、ハルヒは俺の手を痛いくらいに強く握りしめて来た。相変わらずの馬鹿力だ。でも、今は手に感じる痛みより、その温もりが心地いい。
「俺でいいのか。おまえが待っていた相手は」
 ハルヒは言った。待っているのは、キョンでもジョン・スミスでもない、と。それでも待っていてくれたのは、俺なのか? 俺でいいんだろうか。
「言ったでしょ。それを決めるのはあたし。あたしはただ、待っていただけ。あんたがあたしの待ち人だって言うのならそうだろうし、あたしは待っていたのがあんただって決めたから、それはあんたでいいのよ」
「よく解らないな」
「納得の話よ。さっきの幸せの話と同じこと。あたしはあんたがいてくれて、自分が幸せだと感じているの。そのあんたが幸せなのか不幸なのかは問題じゃない。あたしは他人の幸せに干渉しようと思うほど傲慢じゃないし、あたし自身の幸せを押しつけようと思うほどお節介じゃないわ。だから、あんたがあたしの待ち人だったかどうかは問題じゃなくて、あたしがあんたを待っていたと思っている気持ちが大切なの」
 俺の不安を他所に、ハルヒはそう言ってくれる。
「だからもう、ここで待つ必要はないでしょ。あたしは、あたし自身が納得できる幸せを、この手で掴んでいるんだから」
「俺の幸せはどうすりゃいいんだ」
「それはあんた次第ね。あんたがあたしを見て、一緒にいて、それで幸せだと自分自身が納得しなさい。あたしは、見てくれているあんたが幸せだと感じるような人生を突き進んでやるわ」
「……そうかい。それじゃ、当分は目が離せないな」
「でしょう? だから……」
 沈み行く太陽の輝きに負けないくらいの極上の笑顔を浮かべて。
「来てくれて、ありがとう──」
 その日、そのとき、ハルヒは俺のことをキョンでもジョン・スミスでもなく──初めて本名で呼んでくれた。