涼宮ハルヒの信愛 四章

 その日の朝は、俺にしては珍しく比較的早くに目が覚めたように思う。別に昨晩は早く寝たとか、暑苦しくて眠りが浅かったというわけでもなく、気分的には「よく寝たな」と思えるほどに熟睡していたと思うのだが、時計を見れば予定起床時間よりも早かったことだけは間違いない。
 起きるのに早い時間と言っても、再び寝に着くほど眠気が溜まってるわけでもなく、そのまま起きて顔を洗い、午後からの海水浴で使う水着やら何やらをカバンに詰め込んで、少し早いが家を出る。玄関先で空を見上げれば、雲一つない青空が広がり、今日も暑くなる予感を感じさせた。
 そう。そのときに感じた予感なんて、当たってもはずれても関係がない、どうでもいい天気の予感だけだった。それ以外の虫の知らせなんて何もなく、呑気に欠伸をかみ殺して自転車のペダルを踏み、駅前の公園へのんびり向かった。
 以前に路駐していたら撤去された忌まわしい記憶があるので、駐輪場にしっかり預けてから公園へ徒歩で向かう。約束の時間まで一〇分くらいの余裕があった。にもかかわらず、佐々木は公園のモニュメントか何か知らんが、柱に寄りかかって文庫本らしきものを読んで待っていた。つまり一〇分早くやってきた俺よりも前に佐々木は来ていたということで、いくらなんでも早すぎだろう。
「いつもより眠りが浅くてね。妙な時間に起きてしまったんだ。家にいても仕方がないので、それならばと早めに来ただけだよ。遅れるよりはマシだろう?」
「まさか不眠症とか言い出さないだろうな?」
「なんだい、それは」
 なんともなしに閉鎖空間の黒い塊のことが気になってそう言えば、佐々木には一笑に付された。
「ただ単に早く目覚めただけさ。昨日に浴びた光量が足りずにメラトニンがうまく分泌されなかったのか、あるいは遠足前の子供のように、キミとのお出かけに興奮していたのかもしれないね」
 たかが見舞いに行くだけじゃないか。そんなので眠れないほどワクワクするもんでもあるまい。
「おまえがそこまで俺とのお出かけを切望していたとは知らなかったよ」
「嬉しいだろう?」
「逆に何か無茶を言われるんじゃないかと、怖くなるな」
「くっくっ……まぁ、そう思うのが妥当だね」
 俺の軽口に、佐々木も解っているのか喉の奥を鳴らして笑い声を転がしている。
「ではキョン、ここでいつまでも話していられるほど暇ではないんだろう? 早く行こう」
「どこの病院なんだ?」
「私立の総合病院だよ。バスを乗り継がなければならない面倒なところだがね、世間の評判はそんなに悪いところではない。入院も必要な病気となれば、あそこをチョイスするのは妥当なところだろう」
「ああ……あそこか」
 古泉の叔父の知り合いが理事をやっている……ってことになってるが、その実、裏には『機関』の息が掛かっているという、少なくとも内情を知っていれば自身も身内も預けたくなくなるような、いわく付きのあの病院か。よくよくあそことは縁があるようだが、評判がいいとはね。それまた初耳だ。佐々木の言う世間というのが、いったいどこの「世間」を指しているのかにもよるけどな。
 ただ、そういうことなら道順を聞くまでもない。タクシーで向かってもいいのだが、二人でワリカンにするにも、たかだか須藤のお見舞いくらいで捻出するには躊躇いが生じる金額になりそうだ。手頃な値段で済ませられるバスを利用することにした。
 そのバスでの移動は、至極退屈なものだった。隣に座ってるのが何しろ佐々木なものだから、公共の場で大声で話をするでもなく、俺は静かに座って窓の外の流れる景色を見ているだけで、佐々木も本を読むのかと思えばそうではなく、寝ているわけではないだろうけども目を瞑って静かにしている。何でも、乗り物酔いするらしいからバスに限らず車の中では本を読まないらしい。そんな一面があったとは驚きだ。
「ん」
 窓辺に肘を突いてぼんやり外を眺めていると、懐にしまっておいた携帯が羽虫の羽音のような鈍い音を響かせていることに気付いた。場所がバスの中ということもあってしばらく放っておいたのだが、これまたしつこく震えている。無視し続けるにも限度を超えた呼び出しに取り出してみれば、発信者の名前は古泉となっていた。
「もしもし」
 仕方なく電話に出てみれば、傍らで目を瞑っていた佐々木が、若干咎めるように薄目を開けて睨んでくる。言いたいことは解るが、仕方ないじゃないか。
「今、バスの中にいるんだが……え? 何だと、もう一回言ってみろ。ハルヒが!? ちょっと待て、それはどういう……ああ、解ってる。落ち着いてるから、とにかく早く話せ。ああ……ああ。そうか、それで? わかった、すぐ向かう」
 俺が声に出していた言葉数は少ないが、通話を終えて漏れたのは溜息だった。肺の中の空気をすべて絞り出すような吐息は、疲れ半分、目眩半分の、合わせれば満身創痍と称してよさそうな感情しか含まれていない。
「どうしたんだ、キョン。涼宮さんの名前が出ていたようだが、何かあったのか? 顔色もよくないみたいだが」
 どうやら顔色にもダメージが出ているようだ。隣の佐々木が、俺の表情を見てそんなことを真面目な声音で言ってくる。
「何があったのかは、今の電話じゃよく解らなかった。ただ、古泉が言うには……ハルヒが……どうやら、その……倒れた、らしい」
「……え?」
 佐々木が隠そうともせずに驚きの表情を見せる。言った俺でさえにわかには信じられないのだから、無理はない。
「それほど心配することじゃない、とも言っていたが……俺にも連絡しておいた方がいいだろうってことで、電話してきたみたいだ。ひとまず病院に運んだと言ってたが」
「病院ってどこの? そもそも倒れたって、いったいどうして? そんな倒れるような前兆があったのか?」
「だから、俺にも解らないって言ってるだろ」
 矢継ぎ早に聞いてくる佐々木に、俺もつい語尾を荒げて言い返してしまう。これじゃまるで八つ当たりだ。
「あ……すまない」
「いや……。ともかく、ハルヒが担ぎ込まれた病院は、幸か不幸か、俺たちが向かってる病院みたいだ。古泉も心配ないと言ってたからな、慌てても仕方がない」
 そう、ハルヒが倒れたって話には驚いたが、それほど心配することでもないと言ってたし、側には古泉がいる。長門も朝比奈さんもいるに違いない。そもそもあいつが倒れるなんて、そんな病弱なワケがない。倒れたって話がそもそもの間違いかもしれないし、仮に本当に倒れていたとしても、どうせ何かに足を引っかけて転んだってのが関の山だ。
 そうに決まっている。


 どういうわけか、こういう時に限って時間の流れってのは長く感じるものだ。時計の針が進むスピードに変化はないのだろうが、それでもバスが信号に引っかかり、停留所で止まる度にイライラするのは何故だろうな。
 それでも定刻通りに総合病院近所のバス停に到着した俺たちは、その足で急いで病院の正面玄関をくぐった。
「きょっ、キョンくーんっ!」
 その途端、俺のふざけたあだ名を口にして、体全身で体当たりしてくる影がひとつ。誰であろうそれは朝比奈さんだったわけだが、涙で顔をくしゃくしゃにした挙げ句に俺の胸に顔をうずめて来た。
「すっ、涼宮さんが……涼宮さんが、海に行く電車の中で……ううっ……あ、あたしが気付けば……そ、それで今、病室で……」
 朝比奈さんも朝比奈さんで、少しパニクってるのかもしれん。どうも話の要領を得ない。断片的に聞き取れた話はすでに古泉からの連絡で知っている。ともかくハルヒはどこの病室にいるのか教えてもらいたいんだが。
「ああ、ずいぶんと早かったですね」
 こんな状態の朝比奈さんが一人でいるはずもなく、いつもと変わらない態度のまま、古泉もそこにいた。少なくとも、今の朝比奈さんよりは話が通じそうだ。
「俺もこの病院に用があったんだ。それでハルヒはどこだ? いったい何があった」
「涼宮さんの状態を言えば、今はまだそれほど心配するものでもありません。医師の見立てでは、疲れが溜まっていたのだろうということですが……」
 ハルヒの状態を説明しながら、ふと古泉が佐々木に目を向けた。そのアイコンタクトが何を意味しているのか俺には解らんが、佐々木は自分に話を聞かせたくない素振りだと受け取ったのだろう。
「キョン、とりあえず病室に行った方がいい。彼女は僕が預かるよ」
 そう言って、総合受付前の待合室へ朝比奈さんに連れ添って俺と古泉から離れて行った。
「では、こちらへ」
 佐々木が朝比奈さんと離れたのを見計らうように、古泉は俺を誘って歩き出した。今すぐこの場で話せと言いたいところだが、場所が病院だけに大声で怒鳴りつけるわけにもいかない。進む古泉の後に続いて歩くしかない。
「佐々木がいると、何か困ることでもあるのか?」
「ああ、いえ。部外者……と言えば言葉は悪いですが、涼宮さんと深い友好を育んでいない佐々木さんにまで、いらぬ心配をかけさせるのが忍びなかっただけです」
「すでに心配してると思うぞ、あれは」
「ですね。ともかく、電話でも軽く説明しましたが、涼宮さんが倒れたのは海へ向かう電車の中でのことです。倒れた……と言うと、立っているときにバッタリ倒れたように聞こえますが、そうではありません。座っているときに、眠るように朝比奈さんに寄りかかったんですよ。その姿を見れば、うたた寝をしているんじゃないかと思えたのですが……目的の駅についても目を覚まさない。体を揺すっても目を覚まさず、長門さんの進言で病院へ連れてきたというわけです」
「長門が?」
「はい。異変に真っ先に気付いたのは、長門さんのようです」
 長門なら確かにおかしなことになれば真っ先に気付くだろう。ただ、それでも病院へ連れて行くように言うのは……。
「ええ。長門さんなら、病院へ連れてくるまでもなく治してしまえそうですが、そうではなかった。ああ、こちらです」
 古泉に連れられてやってきたのは、かつて俺が入院していた病室だった。もしかすると別の部屋かもしれないが、個室で作りが一緒だから違いがわからん。
 その病室では、ベッドの傍らに長門が座ってハルヒを見ていた。そのハルヒは、パッと見ただけでは単に眠っているようにしか見えない。本当に寝てるだけじゃないだろうな?
「ええ、寝ています」
「寝てる……っておい。倒れたんじゃないのか?」
「検査の結果では、心拍数や脳波、呼吸に異常は見受けられません。本当にただ、眠っているだけです。にも関わらず、涼宮さんは目を覚まさないんですよ」
「どういうことだ」
「わからない」
 俺の問いかけに答えたのは、古泉ではなくハルヒの寝顔に視線を固定している長門だった。
「涼宮ハルヒの身体的状態は安定している。通常の睡眠状態との差異は見受けられず、眠り続けている原因を正確に把握するためには、ノイズが多すぎる」
「ノイズ?」
 俺の疑問に、けれど長門は答えない。聞けば答えてくれるのが長門だが、はっきりした曖昧な情報の伝達をしたくないのか、その眼差しはエックス線でも放射しているかのように、瞬きを忘れていそうなくらいにハルヒを凝視していた。
 つまり、ハルヒの状態は、一見すれば眠ってるだけの状態であるにもかかわらず、その原因は長門を持ってしても不明という訳のわからないものだってことだ。起きている間は騒ぎを起こすが、眠っていても騒ぎを起こすのか、こいつは。
「問題は、この症状がいつまで続くか、ということです」
 と、古泉はいつになく神妙な顔つきでそう言った。
「今はまだいい。症状は睡眠と変わらないのですからね。ただ、長引くようであれば、点滴で栄養を与えていても弱っていきます。何とかして目覚めて欲しいのですが、原因が解らないのでは手の施しようがない。長門さんでさえ原因不明とおっしゃるのですから、僕らでは解決のための手がかりすら掴めないでしょう」
「眠り病……みたいなもんか」
「認識としてはそれに近いものです。ただ、トリパノソーマ科の寄生虫に蝕まれているわけでもない。それどころか、外的な要因はなにもないのです。お手上げとしか言いようがありません」
「手の施しようがないって……だったらこのままにしておくつもりか」
「もちろん何もしないわけではありません。そんなことは言うまでもなく解っているでしょう?」
「……すまん」
 ええい、何を慌ててるんだ俺は。ハルヒがあれこれ厄介事を巻き起こすのはいつものことじゃないか。今回はハルヒ自身がこんなになっちまってるが、妙なことになってるのには変わりない。
 これまでだって何とかなったんだ。今回も何とかなるに決まってる。いや、何とかしなけりゃならないんだ。話を聞く限りでは、今日明日でハルヒがどうなるってわけでもないらしい。時間は有り余ってるわけじゃないが、足りないわけでもない。今はまだ何も解らないのなら、解るように考えればいいだけだ。
 でも……それを、どうやって? 長門でも解らないことを、俺たちがどう考えればいいんだ? もしかすると、今まで何とかなってきた幸運もここで尽きてたりするんじゃないだろうな? 今まではどんな状況でも奇跡的になんとかなってきたが、その奇跡も底をついていたら……?
「キョン」
 なかなか絶望的な気分に苛まされそうになってきたそのとき、俺を呼ぶ声が聞こえた。病室のドアの前、朝比奈さんを伴って佐々木もやってきたようだ。
「どうなんだい? 涼宮さんの容体は」
「ああ……いや、ただ疲れて寝てるだけらしい。そんなに、」
 ガタン、と俺の言葉を遮るような大きな音が響いた。まさかハルヒが起きたんじゃないかと淡い期待を寄せて振り返れば、けれど体を起こしていたのはハルヒではない。椅子に座っていた長門が立ち上がり、絶対零度のごとき冷ややかな眼差しをこちらに向けていた。
「……え?」
 と、佐々木が身を引いた。何しろ、足音も立てずに、顔に何の表情も浮かべずに近付いてきたんだ。おまけに前振りなしで佐々木の腕を掴んで来たんだ。そりゃ逃げたくもなる。
「おっ、おい長門?」
 佐々木もワケが解らないだろう。俺だって解らない。訝しみながら俺が声をかければ、長門は淡々とした声音で、佐々木に向かって告げる。
「みつけた」
「見つけた? 見つけたって何を……」
 誰もが思うであろう当たり前の疑問を、俺が代表して問いかけてはみたももの、長門はそれには答えず、代わりにテープの十倍速のような、並の人間では真似できないような早口で何かを呟いた。
「あ……」
 不意に漏れる吐息のような声をこぼして、佐々木がくにゃりと長門に倒れ込んだ……っておい、何してんだ!?
「眠らせた」
「だから、何でそんなことを」
「彼女がノイズだから」
「……さっきもそう言ってたが、ノイズって何だ?」
「彼女たちに下意識レベルでの同位が考えられる」
 俺にはまるで理解できないようなことを口にして、長門は眠らせたという佐々木を俺に預けて来た。そんな佐々木の顔を覗き込めば、これは単純に眠っているというよりも、麻酔か何かを嗅がされてるような、気絶に近い眠り方のように思う。軽く揺すったくらいじゃ目を覚ましそうにない。
 なんで長門がこんな真似をしたのかさっぱりだが、かといって俺に預けられても困る。
「申し訳ありません、朝比奈さん。佐々木さんが横になれる場所を用意するように看護師へ伝えて来てくださいませんか?」
「え? あ……はい」
 俺の困惑に気付いたのか、古泉が朝比奈さんを相手にそんなことを言い出した。そんなことは俺がやってもよかったんだろうが、この中で長門の話を聞いても聞かなくてもいいのは、おそらく朝比奈さんだけだろうから仕方がない。
 俺から佐々木を預かった朝比奈さんは、どこか困惑した面持ちで病室から出て行った。
「それで長門さん、詳しく説明していただけませんか?」
 長門の短い説明で理解できていないのは、古泉も同じのようだ。
「下意識というと、無意識の一歩手前……意識しなければ思い出せない状況だと記憶していますが、そのレベルでの同位とは、どういうことなのでしょう」
「その言葉の意味で間違いない」
「つまり……ほぼ無意識の状態で涼宮さんと佐々木さんは同位の存在である……と、そういうことなのでしょうか」
「そう」
 古泉の問いかけにそう答えた長門は、「考え得る最も高い可能性であるが」と前置きをして、さらに言葉を続けた。
「わたしが見ていた涼宮ハルヒの情報には、彼女が創造した情報とは類似性がある別種のノイズが混じっていた。二人は表層的には別の存在だが、能力は極めて類似……あるいは同一のものであり、内包する情報で認識すれば、その差異は限りなくゼロに近い。故に涼宮ハルヒの能力に呼応して彼女の能力も活性化する」
「活性化? なんでそうなるんだ」
「類似する存在は共鳴する」
 共鳴……って、そういえば九曜も似たようなことを口走ってたな。あいつが言うには共振……だったか? 英語で言えばresonanceで同じものだ。つまり、ハルヒか佐々木のどちらかが発した情報フレアに、もう片方が揺り動かされて……こんなことになった? 
「そう。でも、彼女には涼宮ハルヒほどのキャパシティはない。このままではいずれ、破綻する」
「破綻……どうなるんだ?」
「解らない。未知の領域」
 長門にも解らないことか。もともとハルヒの能力は意味不明なものだから、何がどうなるのか、そりゃ確かに解らないだろうさ。前例もなにもあったもんじゃない。
「しかし」
 と、長門の言葉に異を唱えたのは古泉だった。
「長門さんの理屈ではそうなのでしょうが、僕……いえ、『機関』にとって涼宮さんが作り出すのは情報フレアではなく閉鎖空間です。しかしここ最近、涼宮さんは閉鎖空間を作り出していない。それが長門さんの言う情報フレアど同義であるのか解りませんが、何も変化はありません」
「変化はある。ただ、それをあなたが認識できないだけ」
「それはあり得ない。閉鎖空間が発生すれば、僕には解るんです。理屈ではなく、直感的に認識できるのですよ」
「閉鎖空間はこの世界に発生していない……と思われる。発生しているとすれば、彼女の内面世界である可能性が濃厚」
「……あっ」
 橘に連れられて佐々木が作り出しているという閉鎖空間の中で見た黒い塊……もしかして、あれがハルヒの作り出している閉鎖空間……なのか? まったく勝手が違うから、そうだと断言はできないが……長門の仮説が正しければ、あの黒い塊が怪しいのは間違いない。
「そうか……佐々木さんの閉鎖空間内に発生しているのであれば、僕では立ち入れない領域です。いわば存在しない世界なのですからね。存在しない場所で何が発生し、どのような事が起きていようとも、解らないのかもしれません」
 通常の閉鎖空間はこの世界と僅かなズレで繋がってるんだったか? その繋がっている場所がこの世界にないのなら、その場所のエキスパートも手が出せないって理屈か……ん? いや、待てよ。
「……確か古泉、おまえが言うには、閉鎖空間がどんどん広がって、最後には世界が入れ替わる、なんてフザけたことを言ってたよな? もしそれが佐々木の閉鎖空間内で起きたらどうなるんだ?」
「入れ替わってしまうでしょう。この場合、佐々木さんが佐々木さんではなくなる……最悪、存在そのものが消失しかねませんね」
「だから眠らせた」
 そんな理不尽極まりない話に、俺が怒鳴りつけるよりも先に長門がフォローを入れた。
「睡眠中にも涼宮ハルヒは閉鎖空間を作り出した前例はある。ただし、睡眠時の無意識下では外的要因による発生頻度は低下する。涼宮ハルヒが自発的に睡眠状態に陥ったのは、無意識に彼女がそのことを認識しているからと推測される」
「佐々木もか?」
「彼女は涼宮ハルヒに比べて願望の抑制に長けている。睡眠時には症状の進行を抑えられると判断して、わたしは眠らせた」
 だからと言って、二人をこのまま眠らせ続けているわけにもいかない。なんとかしなけりゃならん。長門でさえ仮説でしか話せていないが、それでも考えられる原因は解ったんだ。ならあとは、長門の仮説が正しいのかどうかを確認し、そうであれば解決するしかない。
「どうすればいいんだ」
「方法は三つある」
 長門はそう言って、指を三本立てて見せた。
「ひとつは、どちらか一方が犠牲になること」
 立てた三本の指のうち、一本を折り畳みながらそう言うが、んなもん、大却下だ。
「次に、二人の力が共鳴した原因を取り除くこと」
 でもそれがどうして起きたのか、長門にも解らないんだろ? それを実行するのは現実的とは思えない。
「最後に、閉鎖空間内に発生した涼宮ハルヒの閉鎖空間を消すこと」
 それが一番現実的な方法か。あくまでも長門が挙げた三つの方法の中での話だが……冷静に考えれば、それも難しい話であることは間違いない。なにしろ……。
「涼宮さんの閉鎖空間であれば消すことはできますが、僕は佐々木さんの閉鎖空間内に立ち入ることはできません」
 それができるのは橘だけだ。が、橘は橘でハルヒの閉鎖空間には手出しできないんだろう。そもそもあの黒い塊が何であるのか……現状でもハルヒの閉鎖空間であるかどうかは解らないが、現物を目の当たりにしている橘は、あれが何であるのか解っていなかったんだ。
「だから、」
 長門が何かを言いかけたが、ふと口を閉ざした。眼差しだけを病室のドアに向けているのに気付いた俺は、つられてドアに目を向ける。まだ何も起きちゃいないが、頃合い的にそろそろ朝比奈さんが戻ってくるのかもしれない。
 案の定、すぐにドアは開いた。ただ、そこにいたのは朝比奈さんでも看護師でもなく、「どうしてこいつらが?」と真っ先に思ってしまう意外な二人だ。
「んもうっ! 何なのですか、九曜さん。こんなところまで人を無理やり……あれ?」
「──────」
 ドアを開いて現れたのは、長門が挙げた三つの解決方法のうち、もっとも現実的な方法を実践するために必要な橘と、そんな橘を連れてきた九曜だった。
 状況を見るに、橘は訳もわからず九曜に手を引かれるままに、ここへやってきたことは間違いない。では九曜は何故ここへやってきたのか。俺をただ黙って見つめる漆黒の双眸から探るには、あまりにも奥が深すぎて見当がつかない。
 だったら直接聞いてみろと言われそうだが……なんて言うのか、九曜に睨まれると何をどう言っていいのか解らなくなる。ちゃんと理解してくれているのならまだ話す甲斐があるってもんなのだが、ノーリアクションでは鏡に話しかけているようなむなしさばかりが募ってきて、何を言っても無駄なんだろうという思いから、結局言葉が出てこなくなるわけだが……。
「さてこれは……どういうことなのですか、九曜さん」
 そこはさすがに九曜なんぞとつるんでいる橘だ。最初こそ戸惑いを見せてはいたものの、俺たちを前にして気を張ってるのか、俺が飲み込んだ疑問をしゃんとした物腰で九曜にぶつけてくれている。
「出来ることなら、ちゃんと誰にでも解る言葉で説明していただきたいのです」
「────偶然の────中に────必然────最後の、カギ────」
 まったく意味が解らない。橘は「誰にでも解る言葉で」と言っていたが、とてもその意味を理解して実践しているとは思えない。かくいう橘も諦めたように肩をすくめている。俺に助けを求めるような眼差しを向けられてもだ、俺には宇宙語を通訳できるライセンスの持ち合わせはないぜ。
「──────彼女は────来てくれた────雨の中────だから────……」
「雨?」
 九曜が言う『彼女』とは、ハルヒじゃないよな。ハルヒよりかは佐々木の方が九曜のところに行く機会は多そうだ。パズルのピースみたいな断片的な話から推測するに、佐々木が九曜のところへ行ったことがあるようで、そこに『雨』というキーワードが含まれるとなると……どういうわけか、俺にはひとつだけ思い当たる節がある。
「それはもしや、先月におまえがしでかしたオーパーツ騒ぎのことか?」
 そんな風に考えたのは、九曜の口から漏れたキーワードから俺なりに少し考えて出てきたことであり、俺よりは九曜と一緒にいるであろう時間が長い佐々木との間になら、それ意外でも何かあっておかしくはない。
 それでも、俺の当てずっぽうな発言は的を射ていたようだ。注意深く観測していなければ解らないほど、ごくごく微細な動作で、九曜は視線を落とすように首を縦に振った。
「────彼女は────来て────くれた────から────……わたしも──────来なければ────ならない、と────思った────……」
「……そうかい」
 この九曜がそんなことを思うなんてな。
 あの日、あのときの出来事は、それだけ九曜が佐々木に対して恩に感じる出来事だったと……いや、違うか。恩の貸し借りでも観測対象だからでもなく、そういう損得勘定抜きで、九曜は佐々木に何かが起きた際には駆けつけなければと思えるような友達だと、そう思っているのかもしれん。本人にその自覚のあるなしは別にしてな。
 来たのはいいが自分でもどうしてそうしたのか解っていないような九曜の態度を見ていると、そう思える。
「もしかして……」
 九曜が口を閉ざし、妙な沈黙に包まれ始めた頃合いで、橘がどこかしら気まずそうに言葉を盛らした。
「佐々木さんに何かあったんですか?」
 何を今さら……って、そうか。九曜は何が起きてるのか把握してるようだが、橘にはまだ誰も何も説明してないのと同じか。古泉は端から、長門では九曜に負けず劣らずの『説明』になりそうだ。となれば俺が説明することになるのだが……何をどう言えばいいのかさっぱりだぞ。ハルヒと佐々木がリンクしてるってことらしいが、人に説明できるほど俺も状況をはっきり正確に理解してるわけじゃない。
「えーっとだな……」
 それでも黙っているわけにもいかない。解ってることだけを伝えれば充分だろうと思って口を開けば──。
「あのぅ……あ、ど、どうも……」
 長門が眠らせた佐々木をどこか別の部屋へ運んだ朝比奈さんが、どういうわけか妙におどおどした態度で戻って来た。橘と九曜の姿を見て取って律儀に頭を下げているが、その態度が気に掛かる。
「どうしたんですか、朝比奈さん」
「あ、うん。えっと……今、大事なお話の最中だった?」
「見ての通りです。今、とても重要なお話の最中なのですよ」
「あっ、ご、ごめんなさい……」
 確かに今はどうでもいいような世間話をしているわけじゃないがな、橘が朝比奈さん相手に偉そうにする謂われはどこにもありゃしないぞ。
「朝比奈さん、こいつの言うことをいちいち真に受けなくていいですよ。それで、何かあったんですか? まさか……佐々木に何かあったんじゃないでしょうね?」
「ううん、そうじゃなくて……えっとね、あの……なんてお名前かしら? あの、ほら、二月に花壇で会った人が、キョンくんに話があるから呼んできてくれって」
 二月……花壇?
「そんなの後にしてください。そんな名前も覚えてない相手なんて放っておけばいいのです。そもそも話があるならそっちからやって来いとでも言えばいいじゃないですか」
「え、あ、あ、うん。そうですよね……」
 だから橘、おまえは少し黙ってろ。それと朝比奈さん、いちいち橘の言葉に反応しなくていいですよ。こいつの台詞は馬のいななき程度と思ってりゃいいんです。
「そうですよね、じゃない」
「ひゃっ!」
 その声に、朝比奈さんが短い悲鳴を上げてドア前から飛び退いた。二月に花壇と来れば、なるほどな、こいつか。橘と九曜が現れて、一人だけ蚊帳の外かと思っていたが、そっちからのこのこと関わりに来たらしい。
「ふん」
 藤原が俺を……というよりも、ここにいる全員を一瞥して、呆れたように嘆息を漏らした。何なんだ、その態度は。
「あんたが思った通り、呆れただけだ。結局、こういうことになっているのか」
「結局……こういうこと、だと?」
 そうか……こいつ。そういえば昨日の喫茶店で、こいつだけは何かを知っている風だったな。今ごろ出てきたというのなら、洗いざらい話すつもりになったってことか、あるいは今のこの状況を見て嘲笑しに来ただけなのか……後者だったら問答無用で張り倒してやるがな。
「人に殴られて喜ぶような性癖の持ち合わせはないな。それで、どっちにするんだ? 佐々木か、涼宮か」
「どっち……? 何だそりゃ?」
「あんたの愚鈍さには憐憫の情さえ湧いてこない。決まってるだろ、助ける方だ。言ったじゃないか。あんたは二者択一の決断を迫られると。それが今というわけさ。人の話を聞いていれば、考えるまでもなく思い至ることだろう?」
 助ける? おまえが? いったいどうやって? そもそもどうしてハルヒか佐々木のどちらか一人だけなんだ。助けるのは二人ともだ。どちらか一人なんてあり得ない。
「藤原さん、どういうこと? 助けるって……いったい何が起きてるんですか。あなたに何ができるんです?」
「なんだ、そこの宇宙人どもから何も聞いてないのか」
 俺と似たような疑問を素直に口にする橘に、藤原は物言わぬ長門と動かない九曜に目を向けて肩をすくめた。
「今、涼宮と佐々木の作り出す異空間がほぼ重なり合っている。そうだな……一枚の紙の裏表のような状況になっている。どうしてそうなったのか理由はわからないが、そのままにさせておくのは何かとまずい。理由は言わずとも、だな。それを解決するには、どちらか一方の時間をずらすしかない」
「時間をずらす?」
「同時刻に時空を歪ませるほどの膨大な力が共存しているのが問題なんだ。小手先の解決方法ならいくらでもあるだろうが、根本的に解決するには同じ時刻に存在しないようにするのが手っ取り早い」
「なるほど……それは確かに理にかなっている話です」
 藤原の話を聞いていた古泉が、ヤケに納得してやがる。どこに納得できる根拠があるんだ?
「長門さんは、今起きている現象を『共鳴』と言っています。それはつまり、互いが近しい位置で干渉しあっているからではありませんか。ならば遠ざけるのが、安全かつ確実な解決策です。ただ、涼宮さんの能力は地球規模、いえ、下手をすれば地球外のあらゆる世界にまで行き渡る力です。それは佐々木さんも同じなのでしょう。遠ざけるなら、時間の壁を越えるのが確実です。ですが……それをどうやって行うのでしょう?」
「TPDDを使う」
 古泉の疑問に、藤原は迷う素振りすらなく即答した。
「この原理をあんたらに話すつもりもないが、理屈で言えばTPDDの時間と空間を移動する技術を使うんだ。故意に暴走状態にして使用すればいい。そうすれば時間漂流者のできあがりだ。ちょうど先月──」
 藤原は、億劫そうに長門を指さした。
「あんたがなりかけたみたいにな」
 先月のオーパーツ事件。あれは朝倉や朝比奈さん(大)が言うには歴史を記憶し、改ざんできるような代物らしいが、それに長門が無理やり干渉しようとしたせいで時間と空間を彷徨う暴走状態になったと言っていた。それを朝比奈さん(大)は確か……長門が強制的に機能へ介入しようとしたためにTPDDと同じような作用を引き起こしたと言っていたが……逆を言えば、TPDDとやらは制御されてなければああいうことになるってことでもある。つまり……まさか。
「あれを作ったのはおまえか」
「さぁな。ただ、あの現象を参考にしたのは間違いなさそうだ。おかげでこの僕に、こんなつまらない役割が巡ってきた。まったくふざけた話だ」
溜息とも嘲笑ともとれる吐息を漏らし、藤原は腕を組んで壁に寄りかかり、そして俺を冷ややかな眼差しで睨め付けた。
「で、どっちにするんだ? 僕はどちらでも構わない。見るべきものは時空を歪ませる力であり、それがあるのなら涼宮だろうが佐々木だろうが関係ない。実行するのは僕だが、決めるのはあんただ」
「ふざけるな。それは確かに理にかなった話かもしれんが、つまりどっちかが犠牲になるってことじゃないか。どちらかが犠牲になるような解決方法は、最初っから却下だ」
「ならどうする? 他の解決方法はない。佐々木が作り出している異空間……閉鎖空間と言ったか。そこで起きていることを解決すればいいとでも思っているのか? 本当にそれが解決に繋がるのか? その瞬間は確かにそれでいいかもしれないが、一度起きたことが今後二度と起こらないと何故言える? そこまで楽天的に物事を考えられるのは、幸せを通り越して憐れとしか言いようがない」
「んだと!?」
「状況を楽観視しているようだが、実際は違う。事は涼宮と佐々木だけの問題ではないのさ。現実世界のここにも何かが起こるかもしれない。今は張りつめられた糸と同じ状況だ。少し力を入れれば、いつ切れてもおかしくない。それは朝比奈みくる、あんたも解ってることじゃないのか?」
「朝比奈さんが?」
 急に名前を呼ばれたからか、俺が目を向けると同時に、朝比奈さんは臆病な野ウサギだってここまで驚かないだろうってくらい、小さな肩を震わせて身を縮めていた。
「は、はい。あの……うまく言えないんだけど……空間が、そのぅ……空間なのかな? 言葉で上手く言えないんですけど、とても歪んでるように見えて……あ、目で見えてるわけじゃなくて、感覚でって言うか……」
 一言一言を選ぶようにそう言う朝比奈さんは、決して藤原に怯えて言っているわけじゃなさそうだ。時間を行き来するような連中にしか解らない次元で、何かが起きてるってことか?
「そういうことだ。さて、そろそろ決断してもらおう。どっちにするんだ? 選ばないという選択肢はない」
「だから、待てよ。仮に最悪そうするにしても、どうして俺に選ばせるんだ」
「今さらだな。そう思ってるのはあんただけだ」
「だから何故? どうして俺なんだよ」
「あんたがカギだからだ。それが時空を歪ませる力を解き明かすカギなのか、封じ込めるカギなのか、それともまったく別のカギなのかは僕にも解らない。ただ、あの力に何らかの影響を及ぼすのはあんただ。ならば残す力を選ぶのもあんたの役割なんだ」
 なんてぇ理屈だ。俺がハルヒの唐変木パワーに影響を及ぼす? そんなこと、今まで一度だってありゃしない。まるで無理難題を勝手に押しつけてるようなもんじゃないか。冗談じゃない。
「心中くらいは察してやる。できることならどちらも助けたいと思う気持ちも理解できる。僕だってこんな真似をするのは好きじゃない。ただ、そうしなければならないんだ。どちらも助かる奇跡みたいな出来事はない。例え奇跡的な出来事が起きたとしても、それは未来から見れば歴史的事実にしかならない。起こるべきことが起きたにすぎない。だから奇跡なんてあり得ない」
 あまりにも真っ当するぎる藤原の言葉に、俺は返す台詞を失った。
 こいつは未来から来ている。つまり今ここで起きていることを知っているのかもしれない。その藤原をして「どちらか一方しか選べない」と言うのであれば、歴史的事実としてそうなっているとしか思えない。そこに、奇跡的な出来事が入り込む余地は──。
「あ、あたしはあると思うんですっ! 奇跡って、その、あるんです!」
 と、絞り出すような大きな声でそう叫んだのは……朝比奈さんだった。
「奇跡って、その、起きてほしいって願うから起こるんじゃないし、起こそうとしても起こらないじゃないですか。奇跡って、頑張ってる人に神様がほんのちょっとだけ手伝ってくれることだと、あたし思うんです。キョンくん、あたしやみんなのために大変なことを頑張ってくれて……だからキョンくんが願えば、きっと奇跡って起きるって……そのぅ……」
 我慢できずに思わず口を挟んだのはいいが、それでも何をどう言っていいのか解らないとばかりに、朝比奈さんはどんどん尻すぼみに言葉がかき消えていく。
 そう言ってくれるのは嬉しいし有り難い。けれど朝比奈さんが自分でも言ったように、奇跡は起こそうとして起きるものじゃない。今ここで起きてほしいが、そんなに都合良く世の中はできていない。そもそも、その神様とやらは、今は眠りこけている。
「何をどう思おうと好きにすればいい。それに口を挟むつもりはない。それでも、」
「奇跡は起こらない、ね」
 藤原の言葉を遮って響いた声に真っ先に反応したのは、もしかすると長門だったかもしれない。それを俺は確認しちゃいないが、たぶんそうだったんだろう。
「そうよね。だってこれは奇跡じゃないもの。あらゆる可能性を考慮して、いかなる状況であろうとも対応できるように施した……最後の可能性なんだもの」
 そう言って、朝倉涼子はシルクのような柔らかな微笑みを浮かべて見せた。
「ずっと疑問に思ってたの」
 そう言いながら病室に足を踏み入れる朝倉の姿を、ここにいる誰もが驚愕に満ちた面持ちで見ていた。
 言葉を遮られた藤原はもちろん、朝比奈さんや橘はぽかんと口を開けて、古泉もトレードマークと化している笑顔を引っ込めてわずかに目を見開いているようだ。九曜も、そして長門でさえも表情にこそ変化はないが、思わぬ乱入者に心なしか動揺しているように見えなくもない。
 かくいう俺は……何故だろう、朝倉が現れることがさも当然とばかりに、その事実を受け入れている。
「疑問って何が?」
 他の連中が多かれ少なかれ呆けている中、あまり動揺も戸惑いもなく口を開けるのは俺だけらしい。
「どうして彼女はわたしにTPDDを預けたままなんだろうって」
 その『彼女』とやらは、朝比奈さん(大)のことか。
「彼女がうっかり忘れてるだけかもって思ったけど、それでもおかしいのよね。TPDDそのものを貸し与えてくれなくても、わたしに時間遡航をさせたければ彼女が誘導すればいいだけの話じゃない? なのにそうせずに貸し与えて、回収すらしないんだもの。わたしが悪用しないと思って……なんて考えてるわけじゃなさそうだしね。そうしたらやっぱり思うところがあったみたい。ねぇ、朝比奈さん」
「え? あ、は、はいっ」
 朝倉が呼んだのは、今ここにいる幼い容姿の愛しい上級生である朝比奈さんだった。
「わたし宛に何か預かってないかな? あなたの上の立場にいる人から」
「あ、そう。そうなんです。ずっと朝倉さんのこと捜してたんですけど……あの、このデータって何なんですか? 圧縮されてる上にパスワードがかかっていて、中身がまったく解らないんですけど……」
 そんなことを言いながらおずおずと握手を求めるように手を差し出す朝比奈さんだが、その手には何もない。にもかかわらず朝倉は朝比奈さんの手を握る。それでデータとやらのやりとりが出来るらしい。
 もしかして、未来人は頭の中に今の時代で言うコンピュータらしき電子頭脳が組み込まれてるんじゃないだろうな? 作り話で済んでいるサイバーパンクの世界が実現して、しかもそれが当たり前の技術になってるんだとしたら、人間の進歩というか進化というか、そういうものに感心しつつも薄ら寒いものを感じずにはいられない。
「これ、TPDDを改良するためののバッチファイル……みたいなものかな。閉鎖空間内でも使えるようにするための。さて」
 朝倉は、それで準備は整ったとばかりにここにいる一同を改めて見渡した。
「状況は解ってる。あなたたちがやろうとしていたことも把握している。それを何故、わたしが知っているのかと言えば……」
 朝倉は、ちらりと朝比奈さんを盗み見るように視線を流してから、言葉を続けた。つまり、そういうことか。
「そのことにさほどの意味はないから、多くを語る必要はなさそうね。そんな時間もないし。重要なのは、わたしがここにいることでもう一つの可能性ができたということ。わたしの話を聞きたい?」
「まずは聞かせてもらおう」
 朝倉の挑むような言葉を真っ先に受けて立ったのは、藤原だった。
「あんたもTPDDを持ってるようだが、それでもできることは僕と大差ないんじゃないのか? いったい何をするだ」
 どこかしら挑むような藤原の言葉も、確かに頷けるところはある。朝倉だろうが藤原だろうが、TPDDを使う手段を講じるのであれば、そこに大きな違いはないように思える。
「情報の処理速度が違うの。いいわ、じゃあ説明するね。わたしがやろうとしてるのは、涼宮さんと佐々木さん、ふたりの共振している閉鎖空間を引きはがすこと」
「はっ、それは無理だ」
 鼻先で笑い飛ばしながら、藤原は朝倉の案を一笑に付した。
「あの空間は今、一枚の紙の裏と表みたいなものだと言ったばかりだ。あんただってそれは解ってるだろう」
「一枚の紙ね。うん、確かにその通りね。ところであなた、未来の人でしょ? 未来にはないのかしら?」
「……何のことだ?」
「間剥ぎって知ってる? 一枚の紙を二枚に剥ぐ技術ね。古本とか掛け軸とかで虫食い等で損傷した紙を薄く剥いで、その間に厚紙とか挟んで補強するの。それと同じようなことをするってこと」
「できるのか、あんたにそれが」
「人間には無理。でもわたしなら、ふたつの空間情報の隙間を解析できる。情報の処理速度はこっちが上だもの。でも、さすがに一人じゃそれは無理だから……そこは、長門さんにも協力してもらいたいな」
「…………」
 朝倉に名を呼ばれた長門は、けれど何も応えずに相も変わらずの眼差しを向けるだけだった。俺には、その表情から何を思っているのか読み取れないが、近しい存在とも言える朝倉には、何か思うところがあったらしい。困ったような笑みを浮かべている。
「わたしにとってはそうじゃないけど……お久しぶり、かな」
「…………」
「元気そうで何よりね。ちゃんとご飯は食べてる? コンビニのお弁当やレトルトばかりじゃダメよ」
「…………わかってる」
「そう。それならいいけど。……協力、してくれるよね?」
「わかった」
 その短い会話が何を意味しているのか、俺には解らない。他の連中にも解らないだろうし、同じ属性を持つ喜緑さんが聞いていたとしても、おそらく解らなかったんじゃないかと思う。朝倉と長門だからこそ、その会話には言葉以上の何かが含まれていたように思えてならない。
「仮に」
 これまでの朝倉の話を頭の中で整理し、その有効性を考えでもしていたのか、古泉が口を挟んで来た。
「ふたつの閉鎖空間を引き離せたとしても、剥ぐのは紙ではありません。涼宮さんと佐々木さんが作り出している閉鎖空間です。すぐにまた、融合してしまうのでは?」
「だから、引き離したふたつの空間の狭間に、わたしが持っているTPDDを使って壁を作るの。共鳴しているのなら、そうなっても非接触破壊が起こらないように緩衝材を滑り込ませればいいのと同じ理屈」
「そんなことができるんですか?」
「時間移動をするには、ふたつの要素が必要なのは解るでしょう? 時間の流れに干渉することと、空間に干渉することね。そのふたつがあって、例えばこの場所から過去の学校の部室へ時間遡航もできるの。わたしが持ってるTPDDは、さっき朝比奈さんからもらったバッチファイルで空間の壁を壊す性能に特化した改良を行ってある。つまり……」
 朝倉はしばし言葉をつまらせて視線を宙に漂わせ、それから話を続けた。
「イメージしやすい理屈で言えば、わたしと長門さんで融合しているふたつの閉鎖空間の狭間を見つけ、その間にわたしが持っているTPDDで断層を作るってこと。タマゴサンドでも作る感じかな。二枚のパンが涼宮さんと佐々木さんの閉鎖空間。間に挟まっているタマゴがTPDD」
イメージしやすいと言えばその通りだが、今起こっている厄介な現象も朝倉にかかれば食い物の話か。一気に話の深刻さが下がったような気がする。
「そうか、だからあんたがTPDDを持ってるわけだな」
「そういうこと」
 どうやら朝倉が提案している話を飲み込めたらしい藤原の言葉に、朝倉は頷く。
「この方法は人の情報処理能力じゃできないことだし、何よりTPDDから時間移動の機能を削いで空間干渉に特化させているんだもの。あなたや朝比奈さんにはできない方法ね」
 だから、朝比奈さん(大)は朝倉にTPDDを渡していたのか。今のこのときのために。
「確かにそれなら、あんたにしかできない方法だ。やるというのであれば、やればいい。僕も損な役回りから解放される」
 どうやら藤原は、朝倉の救出案を受け入れるらしい。自分がするはずだったことを放棄するつもりか、腕を組んで一歩後ろに下がった。
 つまりこれが、ハルヒも佐々木も犠牲にしない現状で行える最善の方法……なのか?
「その方法で──」
 ここで、今までずっと黙っていた橘が口を開いた。
「涼宮さんも佐々木さんも確実に助けられます?」
 これまでの話は、こいつの専門外の話だから口出しする余地はなかっただろう。今も俺と同じように口出しできる話じゃない。それでも気になるところがあるのか、そんなことを言い出した。
 確かにどんな方法であれ、重要なのはそこだ。最終的にふたりが助かるのであれば、朝倉のやり方だろうが藤原のやり方だろうがどっちでもいい。ただ、可能性としては藤原論より朝倉論の方が望む結果を得やすいだけって話だ。
 そのところはどうなんだ?
「リスクはある」
 朝倉は、あっさりと橘の危惧を肯定した。
「やることは、結局今起きている症状を元の形に正すだけ。根本的な原因でもある『何故ふたつの閉鎖空間が共鳴しているのか』っていうことを解決していない。もしかすると、共鳴しなければならないことがあるのかもしれない。それを無理に引き離すのは、もっと困ったことになるかもしれない。それによって涼宮さんにも佐々木さんにも何かしらの悪影響が出てしまうかもしれない。すべては仮定の話。何事も起こらないことだってある。ただ、何か事を起こすのにノーリスクで済ませられるわけがないもの。だから──」
 朝倉は、俺を見る。
「わたしのやり方と藤原くんのやり方。どっちを選ぶ?」
 最終的な決断は、結局のところ俺に巡ってくるらしい。どうして俺が……なんて、ことを言い出すつもりはない。長門や朝比奈さんや古泉、そして朝倉にだってそれぞれの役割がある。こいつらは全員、その役割を受け入れて進んでいる。
 そして俺の役割は、こうやって決断を下すことらしい。時間移動ができるわけでもなく、超能力があるわけでもなく、宇宙的な超パワーがあるわけでもない俺のすべきことは、最終的な決断を下す役割らしい。
 だから、俺が決めろと朝倉は言うんだろう。藤原だって、さっきも似たようなことを俺に言っていた。
 けれど、だからって今回の決断は……俺一人で勝手に決められることなのか?
 かつて、朝比奈さんと一緒にハカセくんを事故に遭う直前に片腕一本で助けたときに感じた、そこはかとない違和感。助けた瞬間は無自覚だったが、あとで思えば、あの行為ひとつで俺は未来の可能性のひとつを摘み取ったんじゃないかと薄ら寒い感覚を覚えた。
 今もそれと同じだ。ここで俺が下した決断は、確実に未来を左右する。確かに今はハルヒも佐々木も何とかして助けたいと思うが、それは間違った選択なのかもしれない。今のこのときが歴史の分岐点であり、ハルヒか佐々木か、どちらかを選ばなければならない決断のときかもしれない。
 だとしたら、ふたりを助けることは間違いなのかもしれない。
「迷うことはない」
 朝倉の確認に答えられず、言葉をつまらせている俺に届く声。長門の声だった。
「あなたは、あなたが思う決断を下せばいい」
「そうは言うが、」
「かつて、わたしはわたし自身に自分が思う行動を取れと言った。朝倉涼子も、彼女が思う道を選んだ。あなたも、そうであって欲しいと願う」
 俺の不安や戸惑いを飲み込むような黒曜石のごとき視線をただ真っ直ぐに向けて。
「あなたの決断が仮に間違いであったとしても、恐れる必要はない。あなたが選んだ未来を、わたしも共に進む。そこにどのような困難が待ちかまえていようとも、わたしがあなたを守る」
 揺るぎない長門の眼差しを受けて、俺は頭を振る。
 そうか、そうだった。
 俺は自分がすべきことを知りたくはない。知りたいとも思わない。そのときに自分が思うことを信じてやって行くことを選んでいる。未来を左右する出来事に直面しているかもしれないと、怯える必要はなかった。
「やろう、朝倉。おまえの手段の方が、まだマシな気がする」
「のるかそるかの博打かもしれないよ? それでもいいの?」
 俺が決めていたことは、ハルヒも佐々木も助けることだ。藤原のやり方では、片方が助かる可能性は高くとも、もう片方が必ず犠牲になる。それなら朝倉の方法の方が、両方とも助からない可能性もあるが、逆に両方とも助けられる可能性が残る。
 そんなリスクを背負い込む話だが、それでも俺にはリスクを分かち合える仲間がいる。
「そ。わかった」
 朝倉は、何か含むところでもありそうな笑みを浮かべている。何だよ。
「ううん、別に。それじゃ、始めましょう」
 朝倉立案によるハルヒと佐々木の救出プランが、今こうして実行に移された。