涼宮ハルヒの信愛 三章

 本能というものは人間のみならず、有機的な物質で構成されている動物や昆虫、魚にもあるものであり、それはつまり思考によって導き出される行動ではなく、肉体的なものに宿る原始的な行動なのかもしれない……なんてことを思いついてみたんだが、これには賛否がありそうなので自分だけの持論ということにして、決して口外しないようにしたいのだがどうだろう。
 そのように考えたのにも訳がある。本能というものが知性に宿るのではなく肉体に宿っているものであるのなら、実体がないであろう情報生命体とやらが肉体を得た場合、そこに本能は宿るのであろうか。
 宿るんじゃないかなぁ、と俺は思うわけだ。ずっと人の手を握りしめて歩く九曜の姿を見ていると。
 こいつの行動は、どうにも理論的ではないような気がする。もしかすると、人間には理解できないロジックに基づいて行動しているのかもしれないが、見た目が人間のそれである以上は人間らしい思考で行動していると考えたい。
「だからいい加減、この手を離してくれ」
 一向に手を離そうとしない九曜の態度に、俺は心底辟易していた。
 考えてもみてくれ。相手は周防九曜だ。長門以上に表情に変化が見られず、当然ながら周囲の眼差しなんぞ微塵も気にせずに我が道を行く宇宙人謹製アンドロイドだ。幸いにしてその見た目は世間一般の普遍的な人間のそれと違和感のない容姿をしているが、故に無表情で黙々と人の手を取って往来のど真ん中を突き進む姿は、果たしてどのように思われているだろう。しかも、引っ張られている俺がどこかしら嫌そうにしていれば、十人中、最低でも八人は「どんな修羅場が展開中だ?」と思うに違いない。
 俺はこれでも、多少なりとも世間の目を気にして生きている。人間社会は他人との摩擦があって形成されているものであり、他人の目をまったく気にしないで生きていけるほど、浮世離れした仙人みたいな心境になれるとは思えないからだ。
「────────」
 そんな俺の切実な願いが通じたのか、はたまた俺に対する重度の羞恥プレイに飽きたのか、ようやく九曜はずっと握りしめていた俺の手を離した。それほど強い力で握りしめていたわけじゃないが、まるで磁石のように吸い付いていたからな、妙なことになっていないかと自分の手をマジマジと眺めるが、特にこれといった変化はないようだ。
「……ん?」
 どうやら、九曜が俺の手を離したのは、前述したどちらの理由でもないらしい。引っ張られるままに周囲を見ることなく連れられて来ていたから気付かなかったが、どうやら俺は妙な連中のたまり場になりつつある件の喫茶店の前までたどり着いていたようだ。
「ここに入れってのか?」
 そんな問いかけに、九曜は「はい」も「いいえ」も、あまつさえ首を縦にも横にも振らずに、そのまま喫茶店の中へ入っていった。
 逃げるなら今がラストチャンスかもしれないな、などと思ったが、逃げたところで逃げ切れる保障はなく、それどころか追いつめられて更なるピンチを招きそうなので腹をくくろう。
 店内に足を踏み入れ、それとなく周囲を見渡すと……確かに橘の姿があった。あったのはいいが、そこにいたのは橘だけではなかった。無論、佐々木でもなく、俺をここまで連れてきた九曜がいるのは当たり前だ。
「……ふん」
 人の面を拝むなり、鼻を鳴らす藤原にいったいどういう仕打ちをすべきなのか、あれこれ考える。どれも殺伐としたものなので、ここは軽やかにスルーするのが大人の対応ってヤツだろう。
 そもそもこれはどういう会合なんだ? 佐々木を取り巻く宇宙人、未来人、超能力者が一同に介し、かといってそこに佐々木の姿はなく、どうして俺がこの面子の中に紛れ込まなければならないのかさっぱり解らない。
 そして何より解らないのは──。
「遅いです。何をやってたんですが」
 どうして俺が、面を付き合わせて早々に、橘から険のある声を投げつけられねばならないのかってことだ。
「さんっざんメールを送ったのに一通も返してこないだなんて。何なのですかまったく。危機管理がなっちゃいませんよ。反省してください」
「ああ、そうかい」
 そんな文句に、いちいち食って掛かるのもバカらしい。ここまで来た以上は何もせずに帰るつもりもないが、佐々木がいないのにまともに相手にしてもいられない。空いてる座席に腰を下ろしはするが、用件は手短に願おうか。
「緊急事態なんです」
「何が? そいつは──」
 と、俺は九曜を指さす。
「──佐々木に何かがあったと暗に示していたが、その佐々木はどこにいるんだ?」
「佐々木さんはこちらにはいらっしゃいません。でも、佐々木さんに緊急事態というのは間違いない……と、思うのですけど」
 人にスパムまがいの大量メールを送りつけ、九曜なんぞを迎えに寄越し、佐々木に何かあったというので駆けつけてみれば一喝され、それで橘の口から出てきた緊急事態なるものは、ずいぶんと曖昧な表現で表しやがった。
 なんとなく、胡散臭い空気が漂ってきたな。
「いったい何がどうしたってんだ? これでも俺は忙しいんだ。用件は手短にしてくれ」
「あたしと一緒に来てください」
「どこへ?」
「佐々木さんの閉鎖空間へ」
「……はぁ?」
 突然こいつは何を言い出してるんだ? どうして俺が、またあんなところへノコノコと赴かなければならんと言うんだ。おまえや古泉じゃあるまいし、あんなところへ何度も足を運ぶのは遠慮したい。たとえ佐々木が作り出した、ハルヒとは違う安定した世界であってもだ。
「口で説明するより、実際に見ていただいた方が早いと思うのです」
「何をだよ」
「そこで起きてることを」
「だから、何が起きてるんだ? だいたい、佐々木の作り出している閉鎖空間での話なら、おまえには解るんじゃないのか? 理屈じゃなくても、感覚で解るんだろ?」
「そうですけど、そうじゃないのです。ええっと、何て言えばいいのか……うううっ。もうっ! いいからとっとと目を瞑ってください。行きますよ」
 埒の明かない言い争いに業を煮やしたか、橘は俺の手を痛いくらいに握りしめてきた。何があっても言うことを聞くまで離さないという意思の表れを、その眼差しに感じる。感情が表に出ている分、さっきの九曜よりたちが悪い。
 仕方なく、言われた通りに目を瞑る。やるなら早くやってくれ……などと思うまでもなく、すぐに橘が「もう大丈夫」と告げる声が聞こえた。
 目を開く。瞬間まで耳に届いていた雑音が、一切聞こえなくなる。
 以前と同じだ。喫茶店の中、周囲には誰の姿もなく、柔らかい室内灯が照らし出しているのは俺と橘の二人だけ。以前と違うのは、俺もこっちの閉鎖空間が二度目ということで精神的衝撃が少ないということだろうか。
「で」
 憮然とした表情を作り、離された手を組んで俺は背もたれに体を預けて橘を冷ややかに見つめた。
「前と変わらないじゃないか。それでいったい、何がどうしたってんだ?」
「着いてきてください」
 立ち上がった橘に、俺は渋々着いていく。この場所に入り込んだ以上、こいつがいなければ元の世界に戻れないんじゃないかという不安もあるし、ここまで来てまで意固地になる必要もあるまい。
 先を進む橘の後ろに着いて、喫茶店の外にでる。モノトーンの色合いの空には雲一つなく、クリーム色の柔らかな光が世界を包み込んでいる。それでも何故だろう、やっぱりハルヒのであろうと佐々木のであろうと、こういう異質な空間では落ち着かない。
 前は喫茶店を出て近場を目的もなくちょろっと歩いただけで終わったが、どうやら今日は違うらしい。先を進む橘の足取りはしっかりと何か目的があるって感じだ。
「見てください」
 ふと立ち止まり、見ろと言うくせに体をどかさない橘の肩越しに、その指さすものを俺は見た。
「……なんだありゃ?」
 我知らず、口を裂いて出るのは戸惑いの声。現実世界となんら変わらぬ景色の中、現実の世界にはないであろう黒い塊が、通りの壁に穴を開けているかのように広がっていた。壁に黒いシミのようなものがこびりついているとか、ペンキで塗りつぶされたとかそういうものじゃなかい。本当に……なんだろう、穴が空いている、としか表現のしようがない黒い塊だった。
「それが発生したのは、いつから、とは言えないのです。ただ、あたしが認識したのは昨日からでした」
 近付いて大丈夫なものなのか、そうではないのか解らないものだから、その場に立ちつくして黒い塊を見ている俺に、橘が事の発端を語り出した。
 ここ数日の間、どうやら橘は佐々木の様子を気に掛けていたらしい。俺と会っていたときのあいつは、これまでと何ら変わらない素振りだったのだが、どうやら橘も古泉と同じように佐々木の精神分析専門家を気取りたいようだ。内面ではどこかいつもと違う、と感じていたってわけだが、その違和感の正体が解らなかった。
 橘曰く、佐々木が作り出しているという閉鎖空間には《神人》が未だかつて一度も現れたことがない。そのため、閉鎖空間内で何かが起きているとは思っていなかったらしい。
「それでも気になって昨晩入り込んでみたら、それがあったということなんです」
 おまけに、この黒い塊は至る所で発生しているようだ。いや、それは違うのか? 昨日に発生していた場所に今日はなく、今日は今日でこの場所にできていた。移動している……と、言いたいんだろうか?
「じゃあ何か、これがもしや佐々木の《神人》ってわけか?」
「いえ、そうじゃないと思います。そうであれば、あたしが退治しておしまいじゃないですか。そうではなくて、それは……なんて言うか、まるで……うーん、なんて言うのかしら? 本来この世界に存在しない……異物?」
 疑問系で問いかけて来るな。俺に解るわけがないだろ。そもそも、こんなものを俺に見せてコイツは俺に何をさせたいんだ? まさかとは思うが、こんな異質空間で起こっている出来事に、俺に何かができると期待してるんじゃないだろうな?
「もちろん、あなたに何か出来るとは思っていません。ただ、あたしにとってもこの出来事は初めてで、これが無視できるものなのか、それとも何を置いても最優先で解決しなければならない事象なのか、さっぱり解らないのです。あなたはこれまでいろいろなことを経験してるじゃないですか。涼宮さんに同じような事象が発生してないか、教えていただきたいの」
「そんなことを言われてもな」
 俺がハルヒの閉鎖空間に入り込んだことがあるのは、今まで二度しかない。そこで見た事と言えば、暴れまくる《神人》と、それを退治する古泉たちの姿くらいだ。それ以外に特筆すべきことはなにもないし、あの灰色空間における異変なんて気付くはずもない。そもそもあの世界それ事態が異質なもんじゃないか。
「そういう話を聞きたかったら、俺より古泉を頼ればいいだろ。閉鎖空間のエキスパートはあいつだぜ」
「古泉さん……ですか」
 橘は、あからさまに嫌そうな表情を浮かべて見せた。
「あたしと古泉さんの関係が、そこまで友好的なものだと思ってます?」
「そんなことは知らん」
 たとえ仲良しだろうと険悪だろうと、この閉鎖空間を管理するのがおまえの役目じゃないか。自分でなんともできないんだから、土下座してでも古泉や森さんやら、『機関』の連中に協力を仰ぐべきだろう。プライドより役目を優先させろよ。
「そうしてもいいですけど、素直に教えてくれるかどうか……古泉さん、意外と腹黒くありません?」
 ああ……うん、それは否定しない。
「ですから、あなたから聞き出してほしいのです」
「なんで俺が」
「事は佐々木さんのことですよ? おっしゃるように、ここで起こる不測の事態はあたしがなんとかしなくちゃですし、それができないのは自分でも不甲斐ないわ。だからあなたに頼るの。それとも……涼宮さんだったら協力するけど、佐々木さんでは協力できない?」
 嫌な聞き方をするな。だいたい俺は、ハルヒだから、とか、佐々木だから、などと、あの二人を天秤に掛けるつもりはない。そんな恐ろしい真似ができるわけもない。
「だいたい、俺だからって古泉が正直に教えてくれる保障もない。それだったら……そうだ、九曜や藤原に聞いてみりゃいいじゃないか。おまえにとっちゃ、古泉よりは信頼に足る相手なんだろ? 違うのか?」
「あの二人……ですか。うーん……」
 そこで何故、考え込むんだ? おまえの仲間はあの二人だろ。俺や古泉より話を聞きやすい間柄じゃないのか?
「だといいんですけど……。とりあえず、戻りましょう。あなたも状況は把握できたでしょうし、ここにいても何の解決にもならなさそうだから」
 それには同意する。
 どうにもここは落ち着かない。無音に無人の空間に、橘と二人きりというのは勘弁してほしいシチュエーションだ。おまけにこんな場所に妙なものまで現れているとなれば、真っ当な人間は一刻も早く元の世界に戻りたいと思うさ。
「…………」
 俺は改めて黒い塊に目を向けた。淡いクリーム色の光に包まれた異質なこの世界で、確かにこれは異彩を放っている。真っ黒い穴は、光すら飲み込まない常闇の様を呈しており、壁に穴を開け──穴?
「なぁ」
「はい?」
「この闇、穴の先はどうなってんだ?」
「どうって……穴だから、向こう側が見えてるだけじゃありません?」
「いや、真っ暗だから何も見えないぞ。もしかしてこれ、妙な異世界に繋がってたりしないだろうな?」
「何をそんなあなた、ドリーム語っちゃってるんですか。ここのことを、みなさん何て言ってます? 閉鎖空間って言ってるじゃないですか。閉鎖された世界が、いったいどこに通じるって言うんです?」
 こんなあり得ないような世界を自由に行き来するような非常識極まりないヤツに、俺はもしかして、常識的なものの考えで諭されているんだろうか。
 まぁ、かといってこんな正体不明の闇の中に手を突っ込んでみようとは思わないし、さすがにそれを橘にやってみろとも言えないな。
「早く戻りましょうよ」
「ああ」
 その声に返事をしつつも、俺は黒い塊のその先がどこかに通じてるんじゃないかと思って凝視しているんだが……それでも闇は闇であり、その先がどうなっているのか、結局何も見えなかった。


 どうにも鼓膜のボリューム調整がうまく働かないのか、周囲の音がヤケに大きく聞こえる。耳を手で叩き、氷水で喉を潤してから、まだ何の注文もしていなかったことに気付く。近くの店員を呼んでコーヒーを頼んでから、俺は改めて橘に目を向けた。
「で、この二人は佐々木の閉鎖空間で起きてることを理解してるのか?」
「話はしましたけど……」
 橘が九曜と藤原を見るのにつられて、俺も二人に目を向ける。
 九曜は九曜で、魂をどっかに置いて来ちまったようにぴくりとも動かずにどこを見るともなく視線をどこぞへ集中させているし、藤原は藤原で頬杖を突いてあらぬ方向を向いている。どちらも態度で「自分には関係ない」と主張しているようだった。
「こんな調子ですからね」
 溜息も出やしない。佐々木も、もう少し自分の周囲に呼び寄せる相手を選べなかったものだろうかと思う。
「おい、九曜。おまえ、何か解らないのか?」
 どちらも一向に喋り出す気配がないので、仕方なく俺から話を振ってみた。
「──────何も────考察すべき────事象が────ない────」
 解った、もういい。おまえに話を振った俺が間違っていた。もうしばらくそのまま黙ってそこにいてもいいし、むしろ帰ってもいいぞ。
「おまえはどうなんだよ」
 九曜はアテにならないので、仕方なく俺は藤原に声を掛けざるを得なかった。
「さて、どうだろうな」
 ふん、と鼻を鳴らし、藤原の野郎はどうとでも取れる言い方をしやがった。
「おまえ、未来から来てんだろ? なのに何も知らないのか」
「なら聞くが、あんたは数百年も数千年も前に起きた出来事を、正確に把握できているのか? そのときにどのような事が起きたのか解っていても、その起こった正確な原因や、その出来事の当事者の心境を把握できていると言うのなら、はっ、ご立派なもんだ」
 嫌味を混ぜた俺の言葉を受けて、藤原から返ってきたのは倍返しの嫌味だった。この性根の腐り具合は何なんだろうな。いったいどんな幼少期を過ごしてきたのか、大いに気になる。
「仮に、僕が何かを知っていたとしても、あんたらにベラベラ喋ると思うか?」
「つまり、あれは佐々木にとって何の害にもならない、あるいはおまえの得になる状況だってことか」
「禁則だ」
「これから何か起こるのか、佐々木に」
「それも禁則だ」
「……おまえ、やっぱり何か知ってるだろ」
「禁則事項だ、と言っておこう」
 ……この野郎……そろそろ本気でキレてもいいか? そもそもこいつは、いったい何のためにここにいるんだ。肝心な事が喋れないってのは、朝比奈さんを見ていれば百歩譲って理解してやらなくもないが、橘や佐々木に協力的なわけでもない。それなら、ここに居る意味がまったくないじゃないか。何がしたいのか、さっぱりわからん。
「前にも言っただろう。佐々木だろうが涼宮だろうが、僕にとってはどちらでも構わない、と。今は涼宮より佐々木の方が近付くのが容易だから、ここにいる。行くべき道が同じだから並んで歩いているようなものだ。ただ……そうだな、ひとつだけ予言してやろう」
「予言だと?」
「ああ、予言さ。確定された未来の話ではなく、本当に起こるかどうかも解らない、辻占いの予言みたいなものだ。信じる信じないは勝手にすればいい。あんたは」
 藤原は、無遠慮この上ないほどに、ビシッと人の鼻っ面に指を突き刺してきやがった。
「この先、重要な選択を迫られる。二者択一だ。選ばないと言う選択はない。必ず決断を下さなければならない時が来る」
「……なんだそりゃ?」
「くだらない予言さ」
 さもつまらなさそうに、藤原は話すことは以上だと言わんばかりに、急に立ち上がった。
「こんなところでい、つまでもあんたらに付き合っていられるほど、僕は暇じゃない。後は勝手にすればいい」
 忌々しげとさえ取れる物言いで、そんな言葉を残して藤原は振り返ることなく確固たる足取りのまま、喫茶店から去っていった。
 本当に、なんであいつがここにいたのか、その理由が最後までさっぱり解らなかった。解りたくもないけどな。
「ホントに困ったものですね、あの態度」
 藤原が立ち去り、俺が鉛のように重いため息を吐いていると、まるで他人事のような声音で、橘が空惚けたことを言いやがる。
「何とかしろよ、あれ」
「苦情は他所に回してください。あたしでは対処しきれないのです」
 諦めの境地と言うか、達観の極みと言うべきか、橘も藤原には最初から何も期待していないらしい。
「だが、あいつが何か知ってることだけは確かだぞ。締め上げて聞き出した方が手っ取り早いんじゃないのか?」
「そういう乱暴な真似はよくないと思うのです」
 じゃあ何か? 朝比奈さんの誘拐未遂は乱暴なやり方じゃなかったと、コイツはそう言いたいわけか。
「それを言われると照れますね」
 照れるところじゃないだろ。えへへ、とか笑ってごまかそうったってそうはいくか。
「それに、未来人さんたちの口の堅さはあなたもご存じでしょう? 仮にどれほど強力な自白剤を使ったところで、口を裂いて出てくる言葉が真実かどうかも怪しいわ」
 物騒な話を振ったのは確かに俺の方だが、自白剤だなんだと非合法この上ない言葉をさらりと口にして、橘は溜息混じりに頬杖を突いた。
「そもそも、今の状況がどれほどひっ迫したものなのかも解らないのです。藤原さん、あんな思わせぶりな態度を取ってますけど、実際はたいしたことじゃないのかもしれません。いいように弄ばれるのはゴメンです」
 そんな風に呟く橘を見て、どうやら藤原は仲間内からも信用されてないのがよく解る。あんな態度じゃ仕方ない、とは思うが、こいつらの間で未だに協力関係が築けていないってのも、いささか問題ありなんじゃないかね?
「今日はこれで引き上げます。もし何か解ったら、ご連絡いただけると嬉しいわ。あたしへの連絡先は……送ったメールに返信してください」
 そう言うと、橘は伝票を手に立ち上がった。
「今日、佐々木は?」
「もうすぐ、こちらにいらっしゃると思います。ああ、そうそう。ひとつだけ、お願いしていいです?」
 おまえのお願いなんぞ即断即決で大却下だ、と言いたいところだが、閉鎖空間で見たことや、あの場の空気にあてられたのか、今日の俺はいつも以上に寛大だったらしい。
「……聞くだけ、聞いてやろう」
 苦虫を噛み潰す思いでそう言えば、橘はくすくすと笑い声をこぼした。
「佐々木さん、表層的にはいつもと変わりないと思いますけど、もしできれば……少し、優しくしてあげてください」
 優しくしろも何も、俺は常日頃から佐々木を相手に素っ気ない態度も乱暴な態度も取ってないぞ。もし仮に、日頃の態度では物足りないと言って、いつも以上に気を遣ったような態度で接しろと橘は言いたいのか? それで物事が好転するんだろうか。あの佐々木を相手に?
 何か違うような気もするんだけどな。
「────────」
「うわっ」
 って九曜、まだいたのか。存在感が希薄なだけに、一言も喋らずにいられると、ついついその存在そのものを忘れそうになる。つーか、こいつも何でここにいるんだ? そろそろ帰ればいいだろう。どこに帰るのか知らんけども。
「……なんだよ」
 その九曜は、けれど一向に立ち上がる気配すら見せず、人の顔を鏡か何かと勘違いしているような眼差しで凝視している。もしかすると、何かしらの宇宙電波を俺に向かって送信してるのかもしれん。が、あいにくだが、俺にはそんなケッタイなもんを受信する能力はミトコンドリアサイズもありゃしない。
 さすがに居心地が悪くなってきた……その頃合いで、ようやく視線をはずして俺の背後に目を向けた。他に興味を注がれるものでも見つけたようだ。
 やれやれ、もう少し長く見つめられていたら石になっていたかもな。今でさえ、妙な汗が背中を濡らしてるんだ。真夏とは言え、冷房の効いた喫茶店で、ここまで流れないだろうって汗の量だった。
「ご無事ですか?」
 そんな汗でびっしょりな俺の背後から、ポンッと置かれる白くて長い指。橘はここに佐々木が来ると言っていたが、俺の肩に手を置いたのは佐々木ではなく──。
「森さん!?」
 振り返れば、そこには普段着に身を包んだ年齢不詳の本式メイドが佇んでいた。
「ご無沙汰しております。それに」
 俺に向かって優美に微笑む森さんだが、ご無沙汰と言っても、前に会ったのは先月のオーパーツ事件のときだ。一ヶ月も経ってないので俺的には「久しぶり」って気分じゃない。そんな森さんは、表情を無くして九曜に目を向けた。
「そちらの方も、お元気そうで」
「ああ、いや」
 にわかに張りつめ始めた空気に不穏なものを感じ、俺は慌てて口を挟んだ。一触即発ってのは、もしかすると今のこの状況を言うのかもしれない。
「俺がここにいるのはこいつに引っ張ってこられたからであって……って、そもそも森さん、どうしてここにいるんですか」
「ご連絡を受けまして。あなたが……ええと、個性的な女性に連行されたけれど大丈夫なのか、と」
 九曜を指して『個性的』とは、随分とまたオブラートに包んだ例え方だな。
「誰からそんな連絡が?」
「鶴屋さんからです」
 だからどうして鶴屋さんからそんな連絡が……って、俺が九曜に連行される姿を見られているからか。けれど、そこでどうして森さんに連絡が行くんだ?
「さて……何故でしょう。わたしはただ、迎えに行ってくれと頼まれただけです。ご同席してもよろしいですか?」
「え? ああ、はい。どうぞ」
「失礼いたします。それで……どうしてまた、彼女があなたを?」
「ああ、ええっと……」
 森さんも古泉と同じ『機関』に属する人間だ。実際に閉鎖空間に入って赤玉になり、《神人》とドンパチするのか知らないが、少なくとも俺よりは、これまで発生した閉鎖空間の内部でどのような事態が起きていたのかを知っているに違いない。そもそもこの状況で隠すことなど何もないわけで、俺は橘から聞いた話と、あいつに連れられて行った佐々木の閉鎖空間内で見た黒い塊についてを話すことにした。
 その間、九曜は口を挟んで来ることはなかった。もっとも、こいつが口を開くのは稀であり、開いたところで無意味な台詞を言うに決まっている。もしかして精密に作られた人形が代わりに置いてあるんじゃないかと思えるほど、視認できる動きは微塵もなかった。
「黒い塊……ですか」
「ハルヒの閉鎖空間で、それらしいものが出現したとか、似たことはないんですか?」
「そういう報告は受けておりません。それに、似たような事例があったとしても、それが参考になるかどうかも解りません。具体的には、どういったものだったのでしょう?」
「どうって……それこそまさに黒い塊としか言えないですね。穴が空いてるみたいでしたが、本当に真っ暗で何も見えやしません」
「何も?」
「何も、です」
「そうですか」
 森さんは細い指を顎に当てて考える素振りを見せたが、すぐに肩をすくめた。
「見当も付きません。そもそも、わたしに聞くよりもそちらの方にお聞きした方がよろしいのでは?」
 ともすれば、考えるような仕草こそ見せたものの、事が佐々木や橘が関わることだから深く考えなかったんじゃないだろうか。そう思えなくもないほど早く考えることをやめて、森さんは事もあろうに九曜に話を振った。
 そりゃあまぁ、そうだよな。九曜がどういう存在なのか知っていれば、こいつに話を振るのが自然な流れってヤツさ。長門の親玉とタメを張れるような存在に作り出された九曜は、今の長門と違ってよりデジタルに考えて動きそうだ。藤原や朝比奈さん(大)みたいに、言いたいけど先のことを考えれば何も言えない、と思うまでもなく、打てば響く鐘のように、解っていることを包み隠さず教えてくれるに違いない。まともな言葉で話すか否かは別としてね。
 ただそれでも、こいつも解らないって、
「────音、が────」
 俺の言葉に被せるように、突如として九曜が喋り出した。
「────重なり────壁、に────震えて、穴……が────」
「何だって?」
「────でも────越えられない──────壁────」
 何だ? 何なんだいったい? 妙なスイッチでも押しちまったか? べろべろに伸びたカセットテープのような声音で、まったく無意味なことを喋り出しやがった。こいつがこっちの質問を理解してるのか不明だが、九曜も九曜で、こっちの言葉が本当に解っていないのかもしれない。そう思えてくる。
「壁……震え……」
 ですから森さん。こいつの言うことは右から左に流しておいた方がいいですって。こいつとのコミュニケーションは異文化の人間を相手にするよりも難しい。ってか、端からしない方が賢明ですよ。人間が、人間以外の動物と会話できないのと一緒ですよ。
「────────」
 森さんはそれでも律儀に九曜の言葉を解読しようと考え込み、俺は考えることを放棄して呆気に取られていると、その無意味な台詞を口走った九曜は、スッと腕を上げると、伸ばした指先で目の前のコップを弾いた。
「きゃっ」
 と、聞こえた悲鳴は突然だった。そんな声を上げたのはけれど森さんではなく、俺たちの席から少し離れた場所にいる女子高校生である。店員がおしぼりなんか持って駆け寄るところを見ると、水でもこぼしたらしい。
 そんなどうでもいいようなことに気を取られている隙に、九曜は立ち上がっていた。滑るような足取りで、そのまま喫茶店から出て行く。
 これは本当になんて言うか……九曜といい藤原といい、佐々木の周りに集まった連中はロクでもない連中ばかりだ。
 にもかかわらず佐々木は平然として、自らの閉鎖空間でハルヒのようにストレスを発散させることもしない。今さらだが、佐々木ほど人間が出来ているヤツは、世界中を探しても他に一人いるかいないか、じゃないだろうか。
 もちろん、そのもう一人ってのは俺のことなんだけどな。


 佐々木の周りに集まる妙な連中の会合から、気がつけば森さんと二人きりという妙な状況になっちまっている。あの連中、人を半ば無理やり連れ出しておきながら、言いたいことだけを言って、用事が済めばさっさと帰るとはマイペースにも程がある。こっちの都合を多少なりとも考慮する気遣いはないんだろうか。
「どう思います?」
 と、森さんに問いかけたのは、かといって橘以下他の連中の態度についてではない。森さんがやってきてから口を開いた九曜の話のことだ。俺は端っから考えるのを拒否しているから右から左に流しているが、森さんは態度を見れば何か考えているようでもあった。俺に理解できないことでも、森さんには何か思い当たる節があるのかもしれない。
 そんなことを期待していたんだが……。
「よく解りません」
 森さんでも理解不能だったらしい。やっぱりあいつの言うことは、一貫して無意味なことばかりのようだ。
「いえ、そう決めつけるのは早計だと思います」
「でも、森さんも解らなかったんでしょう? あいつの話」
「それはそうですが、だからといって解らないから無意味だ、と言うわけでもございません。今の話だけでも数通りの仮説が立てられます」
「仮説? 例えば……どんな?」
 そう尋ねれば、森さんは曖昧さを隠そうとする笑みを浮かべた。
「根拠のない話は一人歩きして惑わすこともございます。お気になさらずに。ただ……そうですね、彼女が話した言葉は、我々が理解するに容易い言葉を、彼女が知らないだけかもしれません。ミカンとオレンジの味を知らない人に、ふたつの味の違いを口頭だけで正確に伝えられないのと同じです。できますか?」
 あー……んー……無理、かな? 無理だな。俺にはそのふたつの味の違いを正確に言い表すだけの語彙がない。つまり、九曜の言葉ってのはそういうものだと、森さんは言いたいのか?
「もちろん、彼女の言葉が我々を誑かすだけのもの、ということも否定できません。それこそ、こちらの混乱を狙っているかもしれないのですから。わたしが彼女の言葉に何かしらの意味を見出そうとしているのも、前回のことを経て、彼女にも何らかの変化があって欲しいという……楽観的な希望です」
 前回……前回ね。妙な小道具を使って俺たちの立場をそっくり入れ替えようとしたあいつが、あの出来事を経て何かを学んでいるんだろうか。これまで通り、ボーッとしていて何を考えているのか解らんヤツだけども、過去にも騒ぎの規模を拡大して今はいない朝倉や四年前の森さんまで巻き込み……ああ、そうだ。
「森さん、今のとはまったく関係ない話なんですが……」
「何でしょう」
「森さんは、四年前から朝倉のことを知ってたんですよね?」
「ええ、そういうことになります」
「ウイルスを預けられたりしているってことは、七月七日以降にも会ったことがあるんですか?」
「そうですね。今さら隠し立てする必要もありませんので白状いたしますが、幾度となく言葉も交わしてもおります。ただ、それでも親しい友人関係を築いていたわけではございません。どちらかと言えば、相互監視という関係でしょうか」
「相互監視?」
「朝倉さんは、未来をわずかにでも知っているわたしが迂闊な行動を取らないようにするために。わたしは、朝倉さんから地球上に現存するTFEIの動向を探るために、です」
「じゃあ、森さんは朝倉のことも監視していた……?」
「そうです。一年前、あなたが朝倉さんに襲われたときも把握しておりましたが、あれは既定事項だろうとの判断で介入はいたしませんでした」
 それはいい。今はもう、それが仕方のないことだということは解っている。あいつが俺を殺そうとした理由は、あいつ自身の口から聞いている。四年前の七月に。
 だからそうではなくて……。
「ええと、それならあいつの三年間の行動を、ある程度は把握していたんですよね?」
「はい」
「あの事件の後、あいつはどうでした?」
「どう、とは?」
「妙な行動を取ってたりとかは、なかったですか?」
「何を指して妙と言うのか解りませんが、特に変わった様子はございませんでした」
「そうですか」
 俺がこんなことを森さんに尋ねたのにもワケがある。喜緑さんから朝倉が時間遡航しているという話をされていたことを、ふと思い出したんだ。それで、四年前から去年までの間、おそらく誰よりも朝倉の近くにいたであろう森さんなら、何か知ってるんじゃないかと思って聞いてみたんだが……やっぱり何もないみたいだな。
「……ああでも、行動ではございませんが、妙なことをおっしゃってましたね」
「何て言ってたんですか?」
「人が他人を信じるときに、どうすればあそこまで信じ合えるのか解らない」
 ……何なんだ、それは?
「ひどくご立腹の様子でした。反面、納得していたような、満足していた風でもありました。理解はできないけれど、受け入れられる……と、わたしはそうお見受けいたしましたが、何を指しているのかまでは存じません。印象に残っている『妙なこと』と言えば、そのくらいでしょうか」
「それはその……急に、ですか」
「そうですね。少なくともわたしが監視の目を光らせている間、朝倉さんにそう思わせる出来事があったことは確かでしょう。ただ、その前日に何かあったようには思えませんでした」
 つまり、その日か。その日に朝倉は時間遡航している……のかもしれない。
 確証はない。ただ、喜緑さんが言うように朝倉がTPDDの技術を得ていたとして、考えられる仮説でしかない。そもそもあいつが本当に時間遡航している証拠は、どこにもないんだ。喜緑さんの言葉でしかそれは言われてないわけだし、現状では俺の前にも俺の周囲にも、朝倉が現れているって話は聞こえてこない。
 だいたい、朝倉が時間遡航できるとして、そして本当に俺の前に現れるとしても、それが今日や明日に起こることってわけでもないだろう。一ヶ月後かもしれないし、一年後なのかもしれないじゃないか。
「さて」
 俺があれこれ考えていると、森さんが席から立ち上がった。
「ご無事のようですので、わたしはそろそろ戻らせていただきます。よろしければ自宅までお送りいたしますが、いかがなさいますか?」
「ああ、俺はもう少しここに……佐々木が来るらしいんで」
「佐々木さんが?」
「中学のときの同窓会で、無理やり幹事を押しつけられたんですよ。その打ち合わせってわけです」
「そうですか……様々なことがございましたのに、今もまだ親しい関係を続けていらっしゃるのですね」
「あいつは俺の親友らしいですからね。親友なら、困ってるときに手を差し伸べるのが健全ってもんじゃないですか」
「おっしゃるとおりです。ではいずれ、またどこかで」
 柔和な笑みを浮かべ、男装の麗人みたいに男前の会釈をして、森さんは現れた時と同様、颯爽とした佇まいで喫茶店から出て行った。
 結局、最後まで残っているのは俺のようだ。橘が先に会計を済ませて行ったが、追加注文されたメニューの支払いは俺がしなけりゃならんらしい。そんな持ち合わせがあったかな? いやまぁ、小銭で済ませられるので問題ないのだが、それより佐々木はいつになったら来るんだろう。コーヒーもすっかり冷めている。
「お客様、コーヒーのおかわりはいかがですか?」
 温くなったコーヒーを一気に飲み干すや否や、店員がそんな声をかけてきた。もしやそれは、いつまで居座ってんだということを暗に示しているんじゃないか? などと思いつつも、こっちはまだ予定があるので立ち上がるわけにもいかない。神経の図太いところを見せつけるように、せっかくなのでおかわりをもらうことに……って。
「……何やってんですか」
「以前にもおっしゃったじゃありませんか、アルバイトです」
 コーヒーを片手に、エプロン着用の喜緑さんがそこにいることに、今さらながらに気付いた。そういやそうだったな、この店は。今日もいるとは思わなかったが。
「生徒会の仕事はちゃんとやってるんでしょうね?」
「もちろんです。でも、アルバイトのことはご内密に。ところで、個性的な方々と入れ替わり立ち替わり、何をなさっておいでだったんでしょう?」
 カラのカップに手慣れた動作でコーヒーを注ぎながら、喜緑さんはヤケに平坦な声音で聞いてくる。まるで人が悪巧みをしているみたいな言い方をしないでもらいたい。
「客の詮索をするのは、客商売じゃ御法度じゃないですかね?」
「盗み聞きをするよりはマシじゃありませんか」
 そんなもん、五十歩百歩じゃないか。どっちもしないのが当たり前でしょうに。
「店員に話せないとおっしゃいますなら、」
「やあ、キョン。待たせたね」
 カップにコーヒーを注ぎながら何かを言いかける喜緑さんの言葉を遮って、俺を呼びかけたのは、ようやくやってきた佐々木だった。随分と待たされたが、タイミングに関して言えば絶妙だ。遅れたことを咎めるよりも、感謝したい気持ちでいっぱいだ。
「すみません、アイスティをひとつ」
「かしこまりました」
 メニューも決めずに注文をする佐々木の言葉を受けて、喜緑さんはコーヒーポットを片手に持ちながら、器用に伝票に記載している。その伝票を、ことさらわざとらしくテーブルに置いた俺の手の下に滑り込ませてきた。
『あとでゆっくり話を聞かせていただきます。逃げないでくださいね』
 伝票のメモ欄にそんなことが書いてあった。
「ん? アイスティの注文が、そんなに気になるのかい? 安心したまえ、キミに代金を支払ってもらおうとは考えていないよ」
「……いいよ、俺が奢ってやる」
 こんなメモを書かれてしまっては、佐々木に渡すわけにもいかない。結局、何があっても奢ることになるのは、俺の人生の仕様らしい。
 伝票を二つに折ってソーサーの下に挟み込みながら、自分の不遇さに心の中で溜息を漏らした。
 腰を下ろした佐々木は、同窓会開催までに終わらせておくべき作業のチェック表らしきものを広げ、作業の進ちょく具合を確かめながらテキパキと俺の作業進行具合を確認しつつ、あれやこれや書き込んでいる。
 その様子を見れば、おかしなところは何もない。いつものような難解で胡乱な言い回しに、本心を悟らせないような微笑みで表情を隠し、誰が見ても「変なヤツだな」とコメントするに違いない、俺の記憶にある佐々木だった。
「と、こんな感じで……ん? どうしたんだい、キョン? 人の顔をそんな不躾なまでにジロジロと見つめるのは、あまり褒められたことではないと思うよ。それとも、僕の顔に何かついてるかな?」
 言われるほどジロジロ見ていたつもりはないが、佐々木にはそう感じられたらしい。試すように目尻を下げてはいるものの、どこかしら挑むようなニュアンスも感じられる。俺が勝手にそう感じているだけかもしれないが。
「今日、ずいぶんと遅かったな」
「そうかな。確かに少し遅くなったとは思う。連絡したように、美容院に寄ってきたんだけどね、予約を入れていたのに少し待たされてしまった。何のための予約なのかと思わなくもないが、そんなことで騒ぐのも大人気ないので気にしていないけど……ふむ、キミがそこまで時間を気にするとは思わなかった。申し訳ない」
 俺だって、そこまで時間に厳しいわけじゃない。でなけりゃ、いつもいつもSOS団の連中に奢っちゃいないさ。それはそうと……はて? 前髪をつまみながら連絡云々と言う佐々木だが、そんなもんをもらった覚えはさっぱりないんだけどな。
「メールだよ。今日の待ち合わせ場所と、少し遅れる旨を記しておいたじゃないか。それを確認したからこそ、ここにいるんじゃないのかい?」
 メール? さっぱり覚えが……って、ああ。橘からのスパムメールに紛れて、佐々木からの連絡も届いていたのか。同じ内容のものばかりで、最初の数件を確認しただけであとは一括消去したもんだから、その中に佐々木からのも紛れ込んでいたのかもしれない。
「すまん、返信するのも忘れてたな」
「いいさ、別に」
 もちろん佐々木からのメールなんて確認してないが、かといって九曜に連れてこられたってことは言わない方がよさそうだ。そもそも、ここであいつらと会談していたことを、佐々木も知らないようである。話の内容が内容だけに、あいつらも佐々木には秘密で動いているらしい節もあるから、藪をつついて蛇を出す発言は避けた方が無難だろう。ここはさっさと話題を変えた方がよさそうだ。
「なぁ、佐々木」
「なんだい?」
「最近、どうだ?」
 そう聞いてみたら、まるで喉に餅でもつまらせたかのような表情を浮かべられた。そんなに妙な事を聞いたつもりじゃないんだが……その表情はいったい何を言いたいんだ?
「あまりにも他愛もないことを聞いてくるものだから、返答に困るじゃないか。本当にどうしたんだ、キョン。また何かあったのかい?」
「ただの日常会話じゃないか」
「それはそうだが、キミがそこまで在り来たりなことを聞いてくるなんて、そうそうある事じゃない。何か悩みでもあるのなら、解決できるかは別としても話を聞くだけなら聞いてあげようか? もちろん、他言はしないよ」
「別に何も悩んじゃいないが」
「そうかい? 悩みも葛藤もまったくない人生は幸せだと言う人もいるが、それはそれで虚しい人生だと僕は思うね。悩みというのは、解決を求める思考の旅じゃないか。人は考えることができるからこそ価値がある。考えるのをやめれば、人は人たり得ないと僕は思うよ」
「何を言いたいのかさっぱりだが、それならおまえも何か悩みがあるのか?」
 例えば……閉鎖空間の中に、そこの管理人みたいな橘でさえ正体が掴めないような代物を取り込んじまうようなこと、とかな。
「僕の悩みかい? そうだな……例えば、せっかく美容院に行ってきたばかりだというのに、気の利いたコメントのひとつも言えない朴念仁にどうやって文句を言うべきか……とかかな」
「え? ああ」
 そういやそんなこと言ってたな。言ってたが、パッと見た感じでは、どこをどうカットしたのかさっぱりだ。間違い探しをしてるんじゃないんだから、そんな微細な変化を突っ込めと言われても、何をどう言えばいいんだ? まぁ……日常会話を振るなら、最近どうだって聞くよりも、髪型云々の方が今の状況では適切かもしれんが。
「似合ってるんじゃないか?」
 こういうときの定型句は決まってるようなので、俺も先人たちの言葉に習ってそう言えば、おまえは何が言いたいんだと喉もとまで言葉が飛び出してくるほど、佐々木にしては珍しい呆気に取られた表情を見せつけやがった。
「いや……何と言うか……キョン、本当に何かあったんじゃないだろうね? キミがそんなことを言うなんて驚きだ。それこそ驚天動地だ。もしや余命幾ばくもない不治の病に冒され、辞世の句の代わりにそんなことを言ってるんじゃないだろうね?」
「すまん、今のは嘘だ」
「残念だがね、キョン。紙に書いた文字は消せるが、言葉というものには消しゴムがないのだよ。人の耳に届いた言葉を消すことなど誰にもできないものなのさ。何も裏がないというのであれば、ふふ、素直にありがとうと言わせてもらうよ」
 さて……この佐々木を見るに、やはりいつもと違うところを見出すことができない。佐々木が作り出しているという閉鎖空間の中で、確かに好めで妙な黒い塊を見てはいるものの、それが佐々木自身に何らかの影響を与えているとかと問われれば……NOと答えてよさそうだ。
 なら、あれはいったい何なんだろうな。発生した原因はあるのかもしれないが、ニキビようなもんで、自然発生して自然完治するような、それほど気に掛けるものではないのかもしれない。
「さて、と。話を同窓会に戻させてもらうが、ひとまず現段階で僕らにできることは一通り済ませた感じだね。具体的な日程に関しては、須藤に任せてよさそうだ。それでその須藤だが、ひとまず明日、見舞いがてらに進ちょく状況の報告に病院まで行こうかと思っている。そもそも僕らは臨時の幹事だからね、ある程度のセッティングを済ませたら、あとは彼に丸投げしてもいいだろう。キミもその方がいいんだろう? そういうわけだから、明日もできれば時間を作っておいてもらいたい」
「そういうことになるとは思っていたよ。ただ、午後から予定があるからな、午前の早い時間なら問題ない」
「予定って?」
「ハルヒが海に行くと言い出したんだ。どうやら俺も行かなくちゃならないらしい」
「ああ……なるほどね。それなら仕方がない。なら、午前の面会時間に行くとしよう。少し早いが、朝八時に駅前公園でいいかな?」
「ああ」
「では、遅れずに来てくれたまえ。遅刻すれば、それだけキミの予定も後ろにずれ込むことになるからね。それで……今日はどうなんだい? この後、何かあるのかな?」
「ん? あー……」
 ここはやっぱり、喜緑さんの待機命令を無視するのは自殺行為なんだろうな。
「まだ少し、やることがある」
「それは残念だ。久しぶりに送ってもらおうかと思ったが、実に多忙を極めているようだね、お疲れさま」
「なんで俺はこんなに時間がないんだろうな」
「それがキミの性分というヤツなんだろうさ。ではキョン、実に名残惜しいがこれで失礼するよ。また明日」
「ああ、またな」
 佐々木は言葉通り、何故か名残惜しそうに俺を見て、軽く手を振って店を出て行った。その姿はやっぱり佐々木であって、いつもと同じように見える……のだが、何故だろう、上手く言えないが、その後ろ姿は最後に残した言葉同様、心なしか本当に名残惜しそうに見える。
 どうしてそう見えたのかは……さて、俺にもよく解らない話だ。
「それで」
「うわっ!」
 そんな佐々木の後ろ姿をぼんやり眺めてから居住まいを正したら、目の前にバイト用のエプロンを外した喜緑さんが、にっこり微笑みながら座っていた。いつの間に、などと思うのも、もううんざりするような唐突さだ。
「いったい彼女たちと、どのような悪巧みをされてたんですか?」
 何故に悪巧みと決めつけるんだ。
「気のせいか喜緑さん、俺のことを穿った目で見てませんか?」
「とんでもない。楽しそうなことばかりを起こす方だと認識しておりますもの。せっかくですので、協力できないことはないかと伺ってるまでです」
 気が滅入るような嬉しい申し出だ。そこまで言うのなら仕方がない……と言うよりも、俺が改めて口にするまでもなく、これまでの会話は盗聴されていてもおかしくない気がする。
「佐々木とは同窓会の打ち合わせで、橘たちとは……って、なんでそんな話までしなけりゃならんのですか」
「わたし、被害者ですもの」
「被害者?」
 あいつらが喜緑さんに何かできるわけもなく、かといって今のこの場所では俺と話をしていただけで何もしてないと思うんだけどな。
「あの天蓋領域の周防九曜です。他所のお客様のコップを倒すんですもの。後片付けに奔走させられました。いい迷惑です」
「あいつが? そんな真似、してないと思いますけど」
「しました。こんな風に」
 と、喜緑さんは九曜が去り際にしたようにコップを指で弾いた。そんなことをすればコップが揺れるのは当たり前なのだが、どういうわけか触れてもいないコップもかたかた揺れている。
「共振です。普通にすればこんな店内でそんなことは起こりませんが、あの小娘、発生させた音波を一定方向にのみ流れるように情報操作してまして、他所のお客様のコップを震えさせてひっくり返したんですよ。イタズラにも程があります」
 そんなことしてたのか。そんな真似をしたのはつまり、ここに喜緑さんがいることを承知の上での嫌がらせ? あいつの行動はあまりにも突飛だな。
「それで、何を話してコップをひっくり返す話になったんでしょう?」
「いや、ただ単に佐々木が作り出した閉鎖空間内に妙な黒い塊がありまして、それが何かと聞いただけなんですけど」
「黒い塊?」
 それについては、改めて語るのも億劫だ。森さんに続いて喜緑さんにも同じ話をしなけりゃならんとはね。
「どう思います?」
「どうと言われましても。つまりあの小娘が言いたいことは、その黒い塊とやらは共振による何かだと言いたいのではありませんか?」
「だから、それがどういう意味なのかってことですよ」
「わたしに解るわけがありません。それこそ本人に聞いてください」
 九曜に聞けっつったって、あいつがまともに話せるとは思えない。何より、あいつから話を聞くにもどこにいるのかもさっぱりだ。
「そんなことより朝倉さんです。何か解ったことや、起きたことはありませんでしたか?」
「あいつが現れてないのは言うまでもないですね。森さんも、朝倉が時間遡航したって話は知らないみたいですよ。ただ、何かあったようなことは言ってましたが」
「そうですか。それならやっぱり、地道に待つしかありません。大変ですね」
 そんな他人事みたいに言われても。俺としては、佐々木の閉鎖空間に発生した黒い塊のこともあるし、関わるならどっちかだけにしたい気分だ。ベストなのは、どちらにも関わらずに済むことなのは言うまでもない。
「今回は長丁場になるかもしれませんねぇ」
 ああ……まったくだ。いつ現れるのか解らないヤツを待ち続けるのも嫌になる。いっそのこと、朝比奈さんに頼んで過去の朝倉を締め上げた方が早いんじゃないかとさえ思えて来た。そんなことを頼んでも却下されそうではあるが。
 本当に、いつまで続くんだろうな、こんなことがさ。


 ──などと、俺は諦めの境地でのんびり事を構えていた。
 ところが。
 喜緑さんの予想とは裏腹に、事態は瞬く間に一変したのである。それも、俺が予想もしていなかったまったく別方面で。
 それは翌日の朝、俺の携帯を鳴らしたひとつの連絡が始まりだった。