涼宮ハルヒの信愛 二章

 例えば誰かに「若さとは何か?」と問われたとき、どんな答えを示せば相手を納得させることができるだろう。ひとまず俺は、「無茶をすることだ」と答えたい。その回答でどれだけの点数が貰えるか知らんけども、今の俺を見ればどんなに厳格で気難しい教師でも、花まる満点をくれるだろう。そのくらい、自分でも無茶をしたと思う。
 昨晩、喜緑さんが帰ってから、何処に仕舞い込んだか解らない中学の卒業アルバム探しという家宅捜査を実行し、激しい肉体的疲労に襲われたのが第一弾。どうにかアルバムを見つけ出したあとは、連絡の取れなかった旧友宛への同窓会開催のダイレクトメール作りを始め、細かいアルバムの文字とパソコンのモニターへ交互に目を向けることで激しい眼精疲労に襲われたのが、疲労困憊の第二弾。そして最終的には、一連の作業を終了させるのに東の空から太陽が顔を出すころまで続き、仮眠でも取ろうものなら学校へ行く時間までに起きられる保障はなく、結局徹夜になってしまったのが、俺がやらかした「若さ故の無茶っぷり」ってヤツの全貌だ。
 ……何やってんだろうな、ホントに……。
 今さらこんなことを言うのも気が引けるが、それでも言いたい。絶対的な仕事量は佐々木より多いよな?
 もしかしてと思うが、あいつもハルヒのように、厄介事はすべて俺に押しつけようと考えてるんじゃないだろうな? そう思えて仕方がない。この……何と言えばいいだろう、胸の奥でもにゅっとした気分を、いったい誰にぶつければいいんだろうか。ため込んだストレスの吐き出し口がないのは、何かにつけて体によくないと思われる。
「…………」
 その点、こいつは多種多彩なストレス解消方法を会得している。一昔前までは閉鎖空間をばんばん作りだし、ここ最近では俺にあたり、朝比奈さんで着せ替えを楽しんだりと、幸せそうで何よりだ。
 だからその……なんだ。朝の初っ端くらいは、もう少し愛想のいい態度をしてほしいんだけどな。
「なんであたしが、あんたに愛想よくしなきゃなんないのよ。バッカじゃないの?」
 俺よりもストレス解消方法は多岐にわたって完備しているってのに、どうしてこうも不機嫌なんだろうね。ご機嫌取りもバカらしい。こっちはこっちで、睡眠不足で頭の中が朦朧としているんだ。不機嫌なハルヒの相手なんぞ、やってられるか。
「……昨日」
 溜息一つ、俺が自分の席に腰を下ろすや否や、背後からハルヒが何やら呟いた。
 それは俺に話しかけているんだろうか? ともすれば意味のない独り言のような囁きにも似た口調は、どうにも判然としない。無視したままで問題なさそうだが、もしそうでなければ、ただでさえ不機嫌気分を晒け出しているハルヒの機嫌は、瞬く間に臨界点を突破するだろう。誰かそろそろ、この不安定な核融合炉よりも厄介な神様モドキをどうにかしてくれなか。
「何だって?」
 仕方なく反応して振り返れば、ハルヒは偉そうに腕を組んで、人を見下すような目を向けていた。何だよ。
「昨日の放課後、有希とみくるちゃんの三人で買い物に行ったの」
「……そうか」
 って、何故睨む。そんな日常会話を振られて、他に何をどうコメントすりゃいいんだよ。
「何も気にならないってわけ?」
「あん? あー……ああ、何を買ったんだ?」
 たぶん、こんな風に聞いてもらいたいんだろう。そんな前振りなんぞせずに、素直に話せばいいものを。
 まさに予定調和としか言いようがない俺の問いかけに、ハルヒは「仕方ないわね」とでも言い出しそうな態度でふんぞり返った。
「明日着る水着」
「へぇ」
 そういえば今日は金曜日か。今週末に海に行くとか言ってたから、明日がその予定日だってわけか。それでわざわざ水着まで調達したとはね。気合い充分だな。
「有希やみくるちゃんの水着ね、あたしが見立てたの。去年はほら、二人とも可愛い系だったでしょ? だから今年は、もう少し色気のあるものにしたのよ。特にみくるちゃん、すっごいの選んだんだから」
「凄い……ねぇ」
 人前で平気でバニーガール姿を披露したり、際どいスリットの入ったチャイナドレスを平然と着こなすハルヒが言う「凄い」とは、果たしてどのレベルだろう。よもや公序良俗に反するもんじゃないだろうな? それは流石にまずい気もするが、反面、見られるものなら見ておきたいと思う俺の気持ちを、果たして誰が責められようか。
「……ヘンタイ」
 ハルヒが責めて来た。
「まぁでも、あんたは明日、いないんだもんね。ちょーどよかったわ、邪な目で見る変質者が側にいないだけ、みくるちゃんも安心よねー」
「そういうおまえは、どんな水着を買ったんだ?」
「え?」
 え、って何だよ。昨日、水着を買いに行ったって話の出だしから朝比奈さんと長門の水着の話題が出て、それでハルヒはどうなんだ? っていう話の流れはそんなにおかしいもんかね?
「あたしは別に……去年のがまだ着られるもの。変わんないわよ」
「そうなのか」
 ハルヒはとかくあれだ。人にあれこれ着せて楽しむくせに、自分で着ることに関しては、やや無頓着なとこがある。部室で朝比奈さんにいろいろなコスチュームを着せる前に、おまえが着てろと、何度思ったことか。
「あー、でも……うー」
 何やらハルヒは、急に戸惑い始めた。
「なんだよ」
「べっ、別に何でもないわよっ!」
 何で怒鳴られなけりゃならんのだ。寝不足の頭にガンガン響く声音は、正直勘弁してほしい。訳がわからん。
「ただ、その……けっこういいなーって思うのが、お店にあったのを思い出しただけ」
「ふぅん。どんなのだ?」
「どんな? どんなって、そんなもん、口で言ってあんた解るの?」
 それこそハルヒの説明ひとつだと思うが、いかんせん、今はあまり頭が回ってないからな。よっぽど懇切丁寧に説明してくれなけりゃ解らんかもしれん。そんな面倒なことをハルヒがするはずもないので、結局は口で言われても解らないってことなんだろう。
「でも、いいの。そんな無駄遣いはできないし、あんまり派手に泳げなさそうな水着だったんだもの。あたしは明日、みんなのことをしっかり監督しとかなきゃならないし、みんなの荷物からも目を離せないし」
 そんな真似、今まで一度足りともやったことねぇだろ、と突っ込むべきなのか悩む。そもそも全員の荷物を見ておくつもりなら、泳ぎに適してない水着でも問題ないように思うのだが、どうにもハルヒが言ってることが理解できない。それともこれは、俺の脳味噌が寝不足で、ちゃんと働いてないことに問題があるんだろうか?
「まぁ、他に荷物見てくれている人がいるなら、話は別なんだけど」
「古泉にでも監視させときゃいいじゃないか」
「ダメよ。古泉くんは副団長だもの。そんな雑務は押しつけられないわ」
 副団長はダメで団長がオッケーってのも意味不明だよな。
「仕方ないでしょ、雑用のあんたがいないんだもの。団長たるあたしは、例え最下層のペーペーのやることでも、穴が空いたら補わなくちゃならないの。一番上に立つならそのくらいはしなきゃダメよ。偉そうにふんぞり返って口うるさいだけの、どこぞの生徒会会長とは違うんだから」
 これは驚きだ。ハルヒが、このハルヒが! あの生徒会長の態度を反面教師として受け取ってるらしい。もっとも、この発言とてこの場限りのものって保障はないわけだがな。
「そりゃまるで、俺のせいで新しい水着を諦めたって言いたいのか」
「そーよっ! あんたのせいなんだから!」
 自分で言っといてなんだか、本当にそれは俺のせいなのか? 八つ当たり以外の何ものでもないように思える。溜息を吐くのもバカらしい。
「わかったよ。明日、行けばいいんだろ」
「え? でもあんた、来れないんでしょ?」
「出発から一緒にってのは確かに無理だが、午後からなら時間は作れる」
「いいわよ別に。そんな無理しなくても」
「じゃあ、やめとくか」
「ああでもっ! あんたがそこまで言うなら……まぁ、しょうがないわよね。まだ夏も始まったばかりだし、午後からじゃ冷え込むだろうから海に入れないだろうけど、それでもよければ……好きにすれば?」
「好きにするさ」
 ようやく朝っぱらのハルヒとの不毛な会話を打ち切ることができた。やれやれ、これで少しは静かになるだろう。後は授業中、教師にバレないように寝られるかどうかが問題だ。
 しっかし……自分で言っといて何だが、果たして本当に何とかなるんだろうか? ハルヒとの会話を切り上げたい一身で出た言葉だったわけだが……まぁ、言ってしまった以上は仕方がない。
 なんとかなるといいな、ホントにさ。


 その日最初の授業で、俺は思った通りの行動を取っていた。ノートを取っているように見せかけて頬杖を突き、その実、意識は夢の世界を漂ってるってわけだ。
 かといって、一日に必要な睡眠量をその程度で補えるわけもなく、うつらうつらとしていたが、眠気がばっちり取れるようなことはなかった。
 ただ、幸いだったのは背後のハルヒが不機嫌オーラを醸しだしていなかったことだ。あのプレッシャーたるや、そこいらの猛毒なんぞ目じゃない。ヒットポイントゲージが瞬く間に目減りしていく勢いだ。それがなかっただけでも、睡眠不足でやつれた俺の体は、日常行動に支障を来すこともなく動けるだけの気力を残せたようだ。
「やあ、どうも。何やら久しぶりですね」
 次の授業は、何かと小うるさい教師の授業だったなと思い出し、授業そっちのけで惰眠を貪るのは難しいと判断した俺は、手洗いついでに顔も洗おうと男子トイレに向かったわけだが……そこで古泉に声をかけられた。
「そんなでもないだろ」
 せいぜい、一日ほど会ってないくらいさ。
「いやはや、高校生活が始まってから、ほぼ毎日お会いしてますからね。わずか一日とは言え、あなたの顔を見ないと何やら寂しさを覚えてしまいますよ」
 おまえはなんつー気色悪いことを、どの面下げて言ってんだ? 寝言は寝てるときに言え。いや、寝ていてもそんな寝言は口にするな。怖気が走る。
「それはそうと……あなたも随分と危険な綱を渡るものですね」
「あん?」
「昨日、あなたが楽しい夕食を過ごされた、あのお二人についてですよ」
 ああ……佐々木たちのことか。夕食の〜……なんて言うから、一瞬だけ喜緑さんの姿が脳裏をかすめたぞ。確かにあの人との食事は、さまざまな意味合いを込めて「危険な綱渡り」と称しても構わんだろうが、佐々木と橘の二人が相手は、何も危険なことなんてないだろ。
「覗き見ってのは、いい趣味じゃないな」
「あいにく、僕にもそういう趣味はありません。ですが涼宮さんに関わるすべての人の保全も、僕らの役目ですから。特にあなたは内情をよくご存じでしょう。万が一の事態は、是が非でも回避したいのですよ」
「万が一ねぇ……」
 紛争地域や戦国時代じゃあるまいし、現代日本で万も億もあってたまるか。
「先月の事件やゴールデンウィークに起きた出来事をお忘れですか?」
「ああ」
 確かにあのときは何かと大変だった。起きた直後は「ふざけんな」と一人憤慨したもんだが、喉元過ぎればなんとやらさ。
 起きたことは仕方がない。そしてそれは無事に解決した。だったら後は、そんなこともあったなと、笑って話せるような思い出にするのが潔しってやつだろ。ねちねちと恨み節を垂れ流しても虚しいだけだぜ。
「随分と達観したものですね。僕としては、そこまで大らかな心は持てない、と言うのが本音ですよ」
「気持ちは解るけどな。去年の俺だったら同意してやるぜ。でもまぁ、この一年で厄介で面倒な事件に巻き込まれたり、押しつけられたりしてきたんだ。達観しなけりゃ、やってらんないぞ」
「そういうものですか」
「そういうもんだろ。高校になってから……おまえは四年前からか? どっちにしろ、その日から立て続けにあれこれ起きてるんだ。そのひとつひとつでキレてちゃ、ストレス過多でぶっ倒れるさ」
「おっしゃることはごもっとも。ですが、相手が相手です」
「じゃあ、こう考えてみろよ。おまえはハルヒの無意識とやらで妙な力を拒否権なく与えられて、閉鎖空間で重労働を強いられることになったんだろ? そのことで文句を言いたいと、今でも思ってるか?」
 俺の問いかけに、古泉はしばし考えるように手を口元に当てると、困ったような笑みを浮かべた。もっとも、それもポーズだけで、すぐに答えが出ていたんだと思うがな。
「四年前に起きたことと、つい一ヶ月前の出来事では比べようがありませんね」
「どっちも『昔のこと』で片の付く話さ。問題なのは、厄介事を引き起こすのがハルヒだけじゃなくなったってことくらいだ。そういう意味では、おまえも閉鎖空間でのバイトに橘京子の相手もしなけりゃならんで大変だな」
「お気遣いいただき、ありがとうございます。幸いなのが、ここ最近の涼宮さんの精神状態が安定していることですね。春先の一件以来、何事もなく過ごしていますよ」
「そりゃ何より……ん?」
 ハルヒの精神状態が安定している? 今朝まであんなにピリピリしていたのに、それでも閉鎖空間が作り出されることもない程度に安定しているのか?
「そうです。確かにあなたがおっしゃるように、昨日の涼宮さんは見ているだけでも解るほど、ストレスを抱えているようではあったんですが……それでも閉鎖空間は発生しておりません。再び能力が安定しているのかもしれませんね」
 そうなのか。今朝、俺が話しかけるまでのハルヒを見れば、日本各地のみならず、世界各地で閉鎖空間の十個や二〇個は作り出してるんじゃないかと思っていたんだがなぁ。機嫌取りで、明日の海水浴に行くなんて無茶なことを言わなけりゃよかった。
「おや、来られるんですか?」
「出来れば辞退したい」
「来ていただかなければ困りますよ。何しろ涼宮さんだけではなく、他の皆さんもあなたがいないとつまらなさそうにしてますからね。かくいう僕も、男一人で個性的なお三方と行動を共にするのは気が気じゃありません」
「客観的に見れば羨ましいシチュエーションだぜ」
「僕では役者が不足しています。あなたがいて、ちょうどバランスがいいんですよ」
「……それは喜ぶべきところなのか?」
「僕はこれでも、あなたを羨んでいるのですよ」
「そーかよ」
 古泉におだてられたところで嬉しくも楽しくもない。おまけに無駄な長話をしちまった。そろそろ次の授業が始まる時間だ。
「じゃあな」
「今日は部室に来られるんですか?」
「あー……」
 去り際に問われた古泉の言葉に、俺は携帯を取り出して、試しに着信履歴を確かめてみた。電話は掛かってきてないが、メールの着信が一件だけある。誰からのものか、二つ折りの携帯を開いて確かめちゃいないが、察しは付く。
「無理そうだ」
「それは残念です」
 いつもと変わらぬ笑顔のまま、本当に残念がっているのか判断しかねる古泉を一瞥して、けだるい五〇分の授業に挑むために俺は教室に戻った。


 ただでさえ理解し難い授業の内容は、寝惚けた頭ではさっぱり理解できなかった。無意識に黒板に書かれた文字を自動筆記でノートに写していたが、果たしてそれは後で読み返しても理解できるかどうか疑わしい。何だったかな……音叉がどうの、固有振動数がなんだの、そんな内容だった気がする。共鳴とか共振とか……うん? これは本当に授業の内容か? そんなもん、小学校や中学で習ったような気がするが、教師のつまらん雑学だったかもしれん。ともかく、後で国木田から改めてノートを借りよう。
 そんな感じで話の内容もろくすっぽ覚えてない状況を見ても解るように、俺の眠気はピークを迎えていた。眠りに落ちていなくても、瞼を閉じているだけでだいぶ違うと耳にしたことはあるが、それでも眠りの淵に身を委ねるのとそうでないのとでは天地の差がある。約一時間ばかりの昼休みを有効利用しない手はなく、静かに横になれる場所はどこだろうと、そればかりを考えるのは自然な思考の展開ってもんだろう。
 人気のない屋上も悪くない。が、今の状態では眠りに落ちたが最後、午後の授業が始まる前に起きられるかどうか解らない。携帯の目覚まし機能を活用してもいいが、それで起きられる自信はないな。自慢じゃないが。下手すれば、寝惚けて携帯を投げ飛ばしかねない。
 となると……やはり行くべき場所はあそこしかない。
「……と、言うわけなんだが」
 俺の不躾な頼み事を耳にして、果たして長門は何を思っただろうか。そのコールタールのような漆黒のくりくりまなこで凝視する姿を前にしては、せめて機嫌を損ねないでくれと願わずにはいられない。
 まったく我ながら長門に甘えすぎだと思うが、かといってM78星雲のカップラーメン宇宙人より正確無比なタイマー計測ができる長門以外に、今の俺を頼んだ時間ぴったりに起こせるヤツはいない。おまけに、時間まで静かにしていてくれるのも長門ならではだと思う。ハルヒでは、静かに俺を寝かせてくれるとはとても思えない。
「……わかった」
 了承してくれるまでずいぶんと長い間があった。その間、こいつの頭の中ではどんな自問自答が繰り広げられていたんだろう。世界に存在するどんなスパコンよりも正確かつ短時間であらゆる処理を完了させられるであろうこいつが、俺のささやかな安眠を求める願い事を受理するまでに、そこまで考えねばならんことでもあったんだろうか。
 まぁ……聞き入れてくれたのだから、深く考えるのはやめておこう。あとでちゃんとお礼はしなけりゃなぁ、とは思うが。
「じゃあ、申し訳ないが時間になったら、」
「今日」
 謝意を含んだ言葉を口に、そろそろ横になろうかと長机の上で腕枕を作り顔を伏せようとしたところ、珍しく長門の方から声をかけてきた。
 これは驚きだ。確かに長門は必要なことなら聞かずとも話してくれる時もあるが、それはよほど切迫した事態であるときのことが多い。
 かといって今はそんな有事に等しい出来事なんて何もなく、つまりこれは長門からの初めての世間話なんじゃないかと思える。となれば、眠気がピークに達しているであろう今の俺でも、後にしてくれと、言うに言えない。机に預けようとしていた上半身を起こして、本に視線を落としたままの長門の横顔に目を向けた。
「今日がどうした?」
「来る?」
「何が?」
「部室に……」
 それはつまり、昨日部室に俺が来なかったことで、困った事態でも発生したってことなんだろうか。いやしかし、長門が困る事態っていったい何だ? そんなことが起これば、俺がいてもいなくても、何かしらの事態がよくなるとも悪くなるとも思えないが……いやいや待て待て、喜緑さんから聞かされた話もある。
 朝倉のことで何かあった……いやでもそれは、長門には秘密だったよな? 俺だけの話なら隠し事はできないと思うが、事は喜緑さんが絡んでいる。長門への情報流出は、起こるとすれば俺からであり、それ以外ではあり得なさそうだ。もしや、俺がまだ把握してない厄介事でも発生したのかもしれん。
「何かあったのか?」
 そう聞くと、長門は小首を傾げて、何か理解できない代物でも見るような眼差しを向けてきた。あれ?
「いや、長門の方からそんなことを聞いてくるからさ。またハルヒが何かしでかしてるんじゃないかと思ったんだが……」
「二日続けて来なかったから」
「え? ああ、昨日は用事があったんだよ。ハルヒにもその辺りのことは話してあったが、聞いてないのか?」
「ない」
 あいつめ……何のために断りを入れたと思ってるんだ。他の連中にも伝えておいて欲しいからであって、あいつだけが把握してても仕方ないだろ。
「少し佐々木たちの手伝いをしなけりゃならなくなってな、昨日も一昨日も手伝わされてたんだよ。あー……今日もそういうことだから、放課後は来られないが」
「……そう」
 かき消えそうな声で頷いた長門は、目を伏せるように視線を本に戻した。
 う〜む、心なしかながとの態度がいつもと違うような気がする。口では何も言わないが、態度を見れば様子が違うのは明らかだ。やはりどこか、いつもの長門と態度が違うような気がする。
 もしやハルヒがまた何かやらかした……いやでも待てよ? あいつの表面的な態度はピリピリしていたが、古泉曰くその内面は安定していたらしい。閉鎖空間も出来ちゃいない。
「なぁ、最近どうなんだ?」
「どう、とは?」
「んー……ハルヒの様子とか」
 別に古泉の話を疑ってるわけじゃない。あいつは(自称)ハルヒの精神的専門家らしいから、それでもし「違ってました」なんてことになれば、ただでさえ活躍の場が少ない超能力者が、ますます役立たずってことになっちまうからな。
「特に、何も」
「閉鎖空間とかもなしか」
「そう」
 どうやら長門もそう感じているらしい。古泉だけならいざ知らず、長門まで太鼓判を押したとなれば、どうやら本当に安定しているようだ。あんな不機嫌な態度を醸しだしてたってのにな。安定した……ってことなんだろうか。もしそうなら、これから先はだいぶ楽ができそうだ。
「涼宮ハルヒの能力は安定している。物理法則を反故にする情報の流出はなく、この惑星表面にあるまじき異変が形成された痕跡はどこにもない。故に、情報統合思念体は危惧している」
「何を?」
「このまま涼宮ハルヒの能力が消滅すること」
 それならそれでいいじゃないか……と俺なんかは思うわけだが、長門の立場で言えば、それは確かに困ったことになるのか。本来はハルヒのトンデモパワーを観測し、そこから自律進化の可能性を見いだすのが目的……だったんだっけ?
「各派閥の思惑は、細部に至れば多岐にわたるが、大別すれば二つに分けられる。強制的に能力を発現させることと、現状を維持すること」
「強制的って……何をするつもりだ」
「涼宮ハルヒの能力発現は、感情のブレによるところが大きい。そこを刺激することで、意図的に情報改ざん、あるいは改変を行わせる。この思想は強硬派の理念に等しい」
 長門の親玉が直接ハルヒにちょっかいをだす……? しかもそれが強硬派の理念に……強硬派? 確か朝倉がそうだったよな?
「そう。でも」
 長門は、本に視線を落としたまま、書かれている文字を読み上げるような声音で断言した。
「わたしが、させない」
 さらりと頼もしいことこの上ないことを言ってくれるが、しかし長門の親玉連中がモメていることだろう。もしハルヒを刺激して云々って案が決行されたとしたら……まぁ、それでも長門は俺たちを守ってくれると思うが、長門は生みの親に敵対することになっちまうんだよな。それは……いいんだろうか。
「心配しなくていい」
「いや、でもな」
「涼宮ハルヒに強制的な介入は、現状では起こる可能性は極めて低い」
「何故?」
「危険だから」
 そりゃ、ハルヒに直接ちょっかいをかけるなんて危険極まりないことではあるが、そんなことは今さらじゃないのか。
「かつて、わたしは涼宮ハルヒの能力を流用して世界を改変させた」
「……ああ」
 あの、十二月の三日間。そのことを長門の方から口にするのは、初めてのような気がする。もっとも、普段から長門から話しをすることなんて滅多にないけどさ。
「その世界で、わたしは情報統合思念体が存在しない世界を創造した」
「そうだったな」
「涼宮ハルヒを刺激し、意図的に情報改ざん能力を発現させれば、同じことが起こり得る可能性は極めて高いと、わたしは進言している」
「ああ……なるほど」
 長門の親玉連中の目論みは、ハルヒの能力を観測してそこから自分たちの自律進化の可能性を探ることだ。自分たちが消されちまっちゃ、本末転倒ってわけか。なるほど、あの一件は長門の親玉連中に対しても、いい抑止効果になってるのか。
「それなら、しばらくは安心ってわけだな」
「そう」
「ならハルヒのことじゃなくてもいいが……何かあったのか?」
 なんだか話は別方向にシフトしちまってたが、俺は何も長門の親玉がハルヒに対してどう考えているのか聞きたかったわけじゃない。長門の様子に妙な違和感を覚えたから、ハルヒのことで長門が思い悩むことがあったんじゃないかと思ってあいつを話のネタにしたのであって……うーむ、やはりストレートに聞くべきか。
 でもなぁ。
「長門、何か悩んでるのか?」
「……別に、何も」
 思った通り、長門なら何かあってもそう言うと思ったよ。だから遠回しにハルヒをダシに聞いたのさ。
「眠らない?」
 どうやって長門の悩みを聞きだそうかと目論んでいたら、長門の方からそんなことを言ってきた。
「あなたは、眠るためにここに来た、と言っていた」
 そりゃ確かにその通りだが、今は長門の悩みの方が極めて重要な懸案な気がする。俺に話したところで解決しない話かもしれないが……うーん、それとも無理に聞き出さない方がいいんだろうか。
「あなたがわたしを見て、何かしらの憂いを感じていると言うのであれば、今ここで休むべき。それで」
 長門はほんの一瞬だけ、本から俺に視線を流して来た。
「わたしは充分」


 思わぬ展開には適時対応したいところであるが、寝惚けた頭ではままならない。昼に部室で安らかな一時を過ごす目論みは、長門の方から話しかけてくるという思わぬ状況で露と消えた。消えたと言っても、寝たことは寝たんだ。十分……いや、五分くらいかもしれん。机に突っ伏してコンマ何秒で眠れるのは、未来から猫型ロボットがやってくるマンガの世界だけで充分だ。
 おかげで放課後になった今も、まだ眠気を引きずっている。自分では真っ直ぐ歩いているつもりだが、もしかして斜行しがちになってるかもしれん。出来ることなら今日はこのまま真っ直ぐ家に帰ってベッドの中に倒れ込みたい気分だが……ああ、そういえば午前中に届いていたメールに目を通していなかった。どうせ佐々木から放課後の待ち合わせ場所についての連絡だろうとタカをくくって、放置しっぱなしだ。さすがにそろそろ目を通した方がいいかもしれん。
「ちょっとキョン」
 長かった一日を終えて教室を出ようと席から腰を浮かせたところ、背後からハルヒの鋭い声が飛んできた。
「明日、あたしたちは夕方まで海にいるから。別に期待なんてしてないけど、来るんだったらそれまでに来なさいよ」
「解ってるよ、ちゃんと行くって」
「日が暮れてから来たって、もういないんだからね。そこんとこ、肝に銘じておきなさい」
 声音だけで判断すればキツめな口調だが、表情も合わせてみればそこまでカリカリしているわけじゃなさそうだ。
「遅刻はいつものことだろ」
「開き直るな、バカ」
 ハルヒの辛辣な言葉に肩をすくめて、俺は教室を後にした。生あくびを噛み殺し、携帯を手にフラフラと歩いて下駄箱まで向かう足取りは、ともすれば危なっかしいものだったかもしれない。
 それがやってきたのは、二つ折りの携帯を開いてメールを確認しようとした、その直前だった。
「ちょっとキョンくんっ! なぁ〜にそんな、ふらっふらなのさっ!」
「うわっ!」
 背中をバシンと叩かれた弾みに、携帯を落っことしそうになった。幸いにしてストラップを手首に引っかけてたからよかったものを、そうでなけりゃ派手に吹っ飛んでたところだったぞ。
「驚かさないでくださいよ」
「ほんっとにフラフラだねぇ。んん〜っ? 何を悪さしてんのかなっ!? おねーさんにちょろんと白状しちゃいなよっ!」
 前触れもなく人を驚かせておいて、ケタケタ笑いながらそんな人聞きの悪いことを言うのは鶴屋さんを置いて他にない。何もたくらんじゃいませんし、叩いても埃すら出ませんよ。や、出ないですって。
「でもキョンくん、疲れてるみたいだけど本当に大丈夫? 昨日も部室に来なかったし……」
 鶴屋さんの心配の仕方が冗談半分であるのなら、表情に浮かべてまで心配してくれるのは、魔窟と化した部室を浄化するスウィートエンジェル朝比奈さんしかいない。
 この疲労困憊な我が身を癒してくれるのは、ヒマワリのような笑顔しかありません。不安と困惑混じりの表情なんて見せないでいただきたい──。
「──なんってこと考えちゃってたりしちゃってたりしてねっ! うっわーっ、キョンくん。そりゃヤバイって。イマドキ、ドラマでもそんな台詞を言わせる脚本家はいないって!」
「ちょっ、ちょっと鶴屋さん……」
 なんだか勝手に人の心の声を脚色された気がしないでもないが、さすがの俺でもそこまでのコメントは咄嗟には出てこない。特に今の半眠半起の状態ではなおさらだ。だから朝比奈さん、そんな真っ赤にならなくていいですよ。そんなに真に受けられると、俺が本当にそんなことを言ったみたいで、逆にこっちが照れますよ。
「んん〜? もしかしてもしかしなくてもっ! おねーさん、お邪魔っかな? いやーっ、ゴメンゴメン。んじゃ〜、あとはキョンくん。みくるのことは任せたよっ! んじゃね〜ぃっ!」
 んじゃね〜……って言われてもな、俺もこのまま今日は学校を出ちまうんだが。
「んもう、鶴屋さんたら……。ごめんね、キョンくん。なんだか疲れてるのに騒がしくして」
「いや、鶴屋さんの元気の良さは周りも元気にしてくれますからね。今の俺には有り難いですよ」
「そうですか? う〜ん、それならいいんですけど……あっ、早く部室に行かなくちゃ。キョンくん、疲れてるみたいだから、うんっと美味しいお茶、淹れますね」
「あ〜……」
 古泉も長門も知らなかったんだから、朝比奈さんも知らなくて当たり前か。朝比奈さんのお茶には心引かれるものがあるが、それで佐々木を放置しとけば、何かと面倒なことになりそうな気もする。
「今日もちょっと、部室には顔を出せないんですよ。昨日のうちにハルヒに伝えておいたんですけどね、あいつ何も言ってなかったみたいで」
「え、そうなんですか?」
 これで本日三度目になる、我が身に今起こっている状況説明を、前三人と同じように朝比奈さんにも説明すると、眉が八の字に垂れ下がった。
「そっかぁ〜……それで昨日も一昨日も来られなかったんですね」
「そういうことなんですよ。ですから今日もこれから行かなくちゃならなくて」
「約束してるのなら、仕方ないですよね。でも、本当に大丈夫なの? あまり無茶しないでくださいね」
 ハルヒとは対極に位置する心遣いに、心の中では大号泣だ。朝比奈さんからそんな言葉を頂ければ、何を置いても気力活力その他もろもろはフルチャージってもんです。あと三日間は不眠不休で戦えるね。
「あ、でも……それだと、明日の海も来られないんですよね。お弁当、一人分あまっちゃうかなぁ……」
「いや、それには顔を出しますよ。ええ、行きますとも。這ってでも行きますから、もしあるんだったら俺の分の弁当は何がなんでも確保しておいてください。特にハルヒと長門には匂いすら嗅がさないようにお願いします」
「ふふ……はい、わかりました。でも本当に無理しないでくださいね」
「大丈夫ですよ、自分の体のことですからね。自分が出来る限界ってのは解ってるつもりです。それじゃ、俺はこれで」
「あ、そうだキョンくん」
 名残惜しいがいつまでも朝比奈さんと心休まる一時を過ごしてばかりもいられない。離れたくないという本能を押さえ込み、意を決して下校の途に着こうとしたところ、意外なことに朝比奈さんの方から呼び止めてきた。こうなれば俺の脆弱な自制心なんぞイチコロだ。速乾性の接着剤を塗られたかのように、足がぴたりと止まる。
「はい、何ですか?」
「あの……これ、キョンくんに相談することじゃないかもだけど、でもキョンくんしか話せる相手いなくて……」
「うん?」
 なんだろう、このモジモジと今にも愛の告白をして来そうな態度は。そんなことをしてくるのであれば考えることなく首を縦に振るが、相談と前置きした時点でそれはないのも事実。そもそも、俺にしかできない相談ってなんだ?
「あの、五月のゴールデンウィークで……山で会った人のこと、覚えてる?」
 山で会った……といえば、橘のことだろうか。
「ううん、その人じゃなくて……」
 だよな。橘だったら、ゴールデンウィークのことを持ち出さなくてもその前にも駅前で遭遇しているわけで、そうなると橘ではなく……え?
「……朝倉?」
「あ、そう朝倉さん。その朝倉さんなんですけど、今どこにいるのか解りますか?」
「はい? えっと……え? 朝倉と会いたいんですか? いやでもあいつは……あー……それはまた、どういうことで?」
「えっとそれは……」
 朝比奈さんは、けれど次の言葉が続かずに口を酸欠の魚みたいにぱくぱくさせるだけだった。それはつまり──。
「……ごめんなさい、禁則事項になってるみたい。あれ? でもなんで……?」
 どうやら朝比奈さんも、どうして朝倉に会う理由を俺に言えないのか、理由が解らないって素振りだ。その表情から読み取れば、会わなければならない理由は、朝比奈さん自身も他愛もない理由であると自覚しているようだが……だったらなんでそれで禁則事項になってんだ?
「ご、ごめんなさい。変なこと言っちゃって。ごめんね、今のこと忘れてください」
「それはいいんですが……」
「うぉ〜い、キョンくーん」
 朝比奈さんが朝倉に会いたい理由はどうでもいい。ただ、朝倉のことを喜緑さんがマークしているって言っておくべきか俺が悩んでいると、そこへ先に下校したはずの鶴屋さんが戻ってきた。
「なぁ〜んか校門にさっ、キョンくんのこと待ってる女の子いるよっ! でもあの子さっ、んー、なんだろ?」
 どうにも鶴屋さんらしくない歯切れの悪さだ。こっちもこっちでいったい何だと考えていると、鶴屋さんはいつもより若干キツイ感じで睨んできた。
「ねぇキョンくんっ、ホントに何か悪さをたくらんでんじゃないだろーねっ!?」
「いや、別に何も……ああ、じゃあ朝比奈さん。ええっと、また明日」
「あ、うん。じゃあまたね」
 手を振る朝比奈さんに、別れの挨拶をちゃんと言う暇もない。鶴屋さんは鶴屋さんで、俺が外履きに履き替えることも待ってられないとばかりに手を引っ張り、正門まで連れて行かれたところで……。
「げっ」
 鶴屋さんがどうしてそこまで人に疑いの眼差しを向けていたのか、充分に理解できた。俺でも、あんなのと一緒にいるところを見れば、疑いの眼差しを向けていたかもしれん。
 田圃のカカシでももう少し愛嬌があるだろうという佇まいで、周防九曜が微動だにせず突っ立っていた。
 その眼差しを、果たしてどのようにたとえていいのか、適切な言葉が俺には見つからない。少なくとも、女子が愛しい相手に向けるような色気や艶のあるものでないことだけは確かだ。むしろ、そういうものとは真逆に位置するものと判断していいかもしれない。
 近寄りがたい独特の雰囲気とでも言うのか、はたまたヒヨコの雄と雌を仕分けている職人の目と言うのか……ともかく、周防九曜が俺に向けている眼差しというのは、そういうものだった。
「あの娘さん、あれってキョンくんの知り合いっしょっ? なぁ〜んか、ずーっとあすこに突っ立ってんだよねっ! 声かえたらさーっ、キョンくん連れてこーいって言うわけっ! キョンくん、おねーさん怒んないからほれ、ちゃーんっと白状するにょろよ」
 や、待ってください。俺は別にあいつと待ち合わせなんてしてないし、仮にそうだとしても何故に鶴屋さんに怒られなければならないのかさっぱりですよ。
 それにしても、あの九曜に声をかけられる鶴屋さんは、流石としか言いようがない。
「むむ〜っ? じゃーまーその言葉は信じてあげるけどっ! でもあの子、ホントなんとかした方がいいんじゃないっかな? あのまんまじゃほれ、お地蔵さんみたいにお供えされちゃうかもしんないよっ!」
 九曜相手に供え物をして、どんな御利益があるのかさっぱり見当が付かない。せいぜい、ちょっとした災厄を運んでくるだけで、いいことなんて何もなさそうだ。
 はぁ〜……まったく。それでも鶴屋さんの言うことは一理ある。あいつをあのままあそこに放置しておくのは、何かしらの弊害が発生しそうで怖い。一歩先に進んだ校内には長門もいるし、喜緑さんだっているだろう。もしかすると、俺が知らないだけで長門や喜緑さんの仲間がまだまだいるのかもしれないしな。
 鶴屋さんをその場に残し、俺だけが九曜に近付くことにした。こいつの意図を推し量ることなど時間の無駄にしかならず、何をしでかすか解らないヤツであるからして、そうした方が安全だろう。俺の安全は誰が守ってくれるんだろう、なんて考えるのはナシにしてくれ。
「何やってんだ、おまえ?」
「────」
「ってうぉわっ!?」
 近付いて声を掛けた途端、いや、途端と言うのなら、九曜の手が届く攻撃範囲内に俺が足を踏み入れた途端だろうか、何の前触れも予備動作もなく、それどころか触られた感触を皮膚が感知するよりも早く、手首を圧迫される若干の感触だけが走った。人の額に視線を固定したまま、寸分違わずに人の手首を鷲づかみにしやがったんだ。
「ちょちょちょーいっ! 何やってんのさっ!?」
 俺の態度で鶴屋さんも驚いたのか、慌てて駆け寄って来たが、何をしていると言うのであれば俺も聞きたい。いったい何の真似だ!?
「────────連れて────連絡────が──……」
 えーっと何だ、こいつの通訳は誰に頼めばいいのかな? 佐々木か橘か? あいにく、どちらも側にいない。申し訳ないが、こいつ一人でフラフラ出歩かせるのは世間的にも問題ありだと、そろそろ本気で自覚してもらえないかね?
「────メェ……ル──……」
「メ、メール?」
 随分間延びしているが、なんとか一単語で理解できる言葉が九曜の口から漏れてきた。それはいい。いいのだが、何を指して……ああ、メール? もしかしてそれは、午前中に俺に届いた携帯のメールのことを指しているのか?
 まったく確証はないが、なんとなくそう思った。届いたメールは内容こそ確認してないが佐々木からのものだと、俺が思い込んでいるのもあるし、九曜が佐々木に繋がりのあるヤツだから、記憶の連想ゲームがそういう解答を導き出したんだろう。
「ま、待て。いいからちょっと待て。まだメールは確認してないんだ。ちょっと待ってくれ」
 捕まえた獲物を逃がすまいとするかのように俺の手を掴み続ける九曜を牽制しつつ、状況が飲み込めないなりにも何が起こるのか若干の期待を滲ませている鶴屋さんに引きつった笑みを見せて、俺はポケットから携帯を取り出して開いた。
「……なんだこりゃ?」
 届いていたメールは一通だけじゃなかった。着信を知らせるマークを視認しただけで、着信数までは確認してなかったのが失敗だったな。十数通、いやそれ以上か? 数えるのも面倒になるほど届いている。しかもその履歴がすべて知らないアドレスで……最初の一通だけ開いてみれば、どうやら橘からのものらしい。
 ……橘だと? なんであいつが俺のメアドを知ってるんだ?
 そんな疑問が脳裏を過ぎったが、さらに俺を悩ませるのはその内容だった。
『橘です。至急連絡ください』
『ちゃんと届いてます? 連絡ください』
『電話でもいいから連絡ください。番号は……』
『真面目な話なんですってば! とにかく連絡ください』
 とまぁ、文面はどれも違えど、言ってることはどれも同じだ。とにかく俺から連絡して欲しかったらしい。そして最後には『九曜さんを向かわせました。早く来てください』となっている。
「……つまりおまえは、橘に言われて俺を連れに来たと、そういう解釈でいいのか?」
 確認の意味を込めて尋ねると、九曜は頸椎を痛めかねない勢いで首を縦に振り、俺の問いかけを諸々ひっくるめての同意と受け取ったのか、踏ん張れないほどの圧倒的なパワーを発揮して歩き出しやがった。「待て」と言ってるだろうが。
「────────」
 いや、睨まれてもだな……。
「このメールは何だ? 橘から何か聞いてないのか?」
「────あなた、を────……連れてくる────」
「その理由だよ、理由。何なんだ、いったい?」
「────緊急────事態────……」
「はぁ?」
 緊急事態? 何が緊急なんだ? って、九曜が言う緊急って何だ?
 何故だろう、一抹の不安が胸中を過ぎる。虫の知らせというか、どんな知らせと聞かれても上手く言えないが、それでも何か嫌な予感がする。思い当たる節はまったくないが、可能性としてあるのはこれくらいじゃないだろうか。
「……佐々木か?」
 首を縦に振りやがった……。
 こいつは首を縦にしか振れないとかってわけじゃないよな? 佐々木に何かあったと、そう思った俺の考えは間違いじゃないんだよな?
 くそ……何で佐々木なんだ? いったい何があったってんだ。どうしてそれを俺に持ってくる? まったく訳が解らんぞ。
 九曜相手じゃ文字通り話にならない。スパムまがいのメールを寄越してきたのは橘だから、あいつに話を聞くのが妥当なとこだろう。呼び出しに素直に応じるようで癪だが、致し方あるまい。
「ちょっ、キョンくん。何なに、どしたんだい?」
「え? あー……」
 鶴屋さんが興味津々にしているが、橘が騒いで九曜が俺を連れに来たんだ。どうせロクなもんじゃなく、そんなことに鶴屋さんを巻き込むわけにはいかない。
「いや、何でもないですよ。何でもなくて、ええっと、待ち合わせの約束してたんですが、遅いからってこいつが迎えに来ただけなんです。それだけですから、そんな騒ぐもんじゃありません」
「ほぇ? そなの??」
「そう、そうです。だからぅわっ!」
 そろそろ掴まれている腕にアザが出来ていてもおかしくないほど、片時も俺の腕を離さなかった九曜は、今度こそ何を言っても何があっても立ち止まることはなさそうな勢いで歩き出した。
「あの、鶴屋さん! そういうわけですから特に何もないんで、えーっと、あとはとにかく大丈夫ですから!」
「えぇっ? ちょっ、ちょっとキョンくんっ!?」
 戸惑い気味という、鶴屋さんにしては珍しい表情を見ることができたのが、果たしていいことなのか悪いことなのか……少なくとも、これから起こることは決して喜ばしいものじゃないってことだけは間違いがなさそうだ。
 組まれたプログラムを実行するかのように一定のスピードを維持したまま歩き続ける九曜のヌリカベみたいな後ろ姿を見て、俺の吐息が鉛のように漏れ落ちたのは言うまでもない。