涼宮ハルヒの信愛 一章

 真夏の炎天下、学舎へ続く坂道はある種の拷問だと思う。特に朝っぱらに急勾配の坂道をグリルのように照り付ける日差しの下を延々と歩き続けていれば、倒れるヤツだって一人や二人ほどいてもおかしくないだろう。
 特に、今時の高校生は若さ故に健康管理をないがしろにしている。幸いにして俺の場合は、母親が「朝ごはんはしっかり食べろ」とうるさく、それに従ってタイマーのように毎日決まった時間に俺を起こしに来る妹のおかげで、朝のエネルギー摂取はちゃんと行われているが、世の中には食欲よりも睡眠欲を優先させるヤツだっていてもおかしくない。かくいう俺も状況が許すのであれば、一分、いや一秒、いやいやコンマ何秒単位で、布団の中でぬくぬくと怠惰な時間を過ごしていたいものさ。
 そういう風に布団の中でギリギリまで寝てるヤツが、朝っぱらから強い日差しが照り付ける坂道を登ってみろ。気持ちいいくらいにバッタリ倒れること間違いなしだ。ちゃんと朝飯を喰ってきた俺だって、今すぐにでも倒れたい気分だしな。
 もっとも、俺が倒れたいと思う気分にさせているのは、日差しの他にもうひとつある。今、この手に握られている一枚のプリントだ。
 昨日、中学時代の同窓会幹事(男子側)を任された俺宛に、佐々木が昨晩のうちに中学時代のクラスメイト一覧をメールで送って来やがった。その一覧をチェックリストにして各種連絡をよろしく頼む、ということらしい。妙なやる気を出しているもんだ。
 面倒なことこの上ないが、理不尽な状況の中とはいえ、引き受けた手前はちゃんとやらねばならんだろう。今日は北高に進学したかつてのクラスメイトに声をかけておくべきか。いや、国木田に頼んで校内の連絡は任せるってのもひとつの手だな。そうした方がいいかもしれん。
 何しろ今日は、そんな煩わしい連絡係をやる前に、ひとつの大きな壁を乗り越えなければならないのだ。
「よう」
 その大きな壁とやらは、クーラーなんぞという文明の利器が取り入れられていない教室の中、全開にしてある窓の外を、頬杖を突きながら眺めていた。後頭部しか見えていないから上機嫌なのか不機嫌なのか正確な判断はできないが、醸し出すオーラはいつもと変わらないように思える。
「で」
 訂正しよう。
 涼宮ハルヒは不機嫌だった。ぐりん、と首が一八〇度曲がる物の怪みたいな動作でこちらに向けた顔は、眉間に皺を寄せて今にも舌打ちしそうなくらいだ。ガラの悪さで言えば、そこいらのヤンチャな連中より格上だろう。
「昨日、ちゃんとした理由もなく放課後に姿を眩ませた理由は何? 携帯の電源も切ってどこに行ってたのか、あたしが納得する答えを出してみなさい」
 ヤケに挑戦的だな。正義は我にあり、と言わんばかりだ。こんな態度を前にすれば、どれだけ堅固で確かな理由があろうとも通じそうにない。おまけに今は、確かにハルヒが言うように、ちゃんとした連絡もせずに機能の活動を早引けした負い目がある。
 いや、それにも理由はあるんだぜ? 佐々木が送って来たメールがあまりにもあんまりな内容で、急がなければと思ったんだ。待っていると言っていた喫茶店に向かう最中にハルヒから掛かってきた電話にも構ってられなかったから、電源を切っておいたわけさ。
 それで、佐々木が言って来たのは同窓会の手伝いだろ? あまりにも拍子抜けして、今朝の家を出る時まで、携帯の電源を切りっぱなしだったことを忘れていた。おかげで留守電のメモリはパンパンになっていやがった。聞くまでもなく消しておいたが、聞かなくて正解だったと、今のハルヒを見て思う。
「悪かったよ」
 ここは素直に謝っておこう。そう思ったわけだが、それで怒りの矛先を収めるほど、ハルヒはお優しい団長さまではないわけだ。鋭い眼光そのままに、メトロノームのように規則正しく人差し指で机の上をコツコツと叩いていやがる。
「あたしはね、キョン。納得する答えを出せ、と言ってるわけよ。悪かった、なんてのは謝罪の言葉よね? そんなのはいらないわけ。もしかしてあんた、定型文からもそろそろ除外した方がいいような謝罪の言葉ひとつで、ことを済まそうと思ってんじゃないでしょうね? それとも、今になって必死に言い訳でも考えてんの? 夏休みの宿題を意図的にすっぽかした小学生みたいにさ」
 何なんだろうな、こいつのどうでもいいようなところでの妙な勘の鋭さは。俺が今、考えていたことをまるっとトレースしてやがる。
「何もそこまで怒ることはないだろ。俺にだっていろいろあるんだよ」
「その『いろいろ』ってのを話してみなさいよ」
「ほれ」
 仕方なく、俺は佐々木からメールで送られてきた中学時代のクラス名簿のプリントを突き出した。
「何よ、これ?」
 ためつすがめつプリントを眺めながら、不機嫌気分を隠そうともせずにハルヒが聞いてくる。確かにそんなもんを見ただけじゃ、何も解らないだろうけどさ。
「昨日の用事ってのはそれだったんだよ。同窓会の幹事をやってくれと」
「それで何で携帯の電源まで切っとくのよ」
「その呼び出し方が酷かったんだって。ほら」
 仕方なく、俺は佐々木からのメールをハルヒに開示することになった。どうして俺はここまで必死に弁解してるんだろうな、などと思っちゃいけないかね?
「ふーん」
 メールに目を通して、それでようやくハルヒも納得したらしい表情になった。それほどまでに巧みで、人間心理を巧妙に突いているのが解るってもんだろう。
「呼び出しがあったのは確かみたいだけど……ホントにこの文面で同窓会の幹事を頼まれただけだったの?」
「だからそう言ってるじゃないか。俺だって欺されたが、幹事を頼まれたのは間違いないぞ。たった今、名簿だって見たじゃないか」
 って、だから何で睨む。他に何を出せとおまえは言うんだ。
「あんたを呼び出したのって、誰?」
「何でそこまでおまえに言わなくちゃならないんだ」
「いいから」
 何をそんなに気にしているのか知らないが、こいつは何をそこまでこだわってるんだ?
「佐々木だが」
 別に隠すことでもないから正直に告白すれば、瞬く間にハルヒの柳眉がつり上がった。
「いやらしい」
 意味がわからん。どうして詐欺まがいのメールで呼び出され、理不尽かつ面倒な同窓会の幹事を押しつけられた俺に対して、そんな言葉が出てくるんだ?
「ま、いいわ」
 無駄だと思いつつも、その発言がどういう思考ルートを辿って口を裂いて出てきたのかトレースしようとしている間に、どうやらハルヒもお怒りの熱が下がってきたようだ。
「確かに嘘じゃなさそうだし、信用してあげる。でもね、今度からは遅くなってもいいから、ちゃんとその日のうちに連絡しなさいよね!」
 放課後に寄り道した小学校低学年の子供を待つ過保護な親じゃあるまいし、遅くなっても連絡しろと言うのか。
「もしかしてとは思うが、そこまで心配してたのか?」
「バッカじゃないの!?」
 耳をつんざく大音量で罵倒された。どうせなら、もう少し恥じらいある態度で言ってもらいたいもんである。
「昨日は大事な発表があったのよ。なのにあんた、いないんだもの」
「なんだよ、その発表って」
「今度の休みに海に行くわよって話。あ〜あ、こんなんじゃ興ざめじゃない」
「海だって?」
「そう。最近、めっきり夏めいてるじゃない? ちょっと早いけど、みんなで海に行こうと思ってさ。その話をしようと思ってたのに、あんたいないんだもの。もうみんなには言ってあるから、あんたも予定空けときなさいよ。今週末だからね」
「今週末?」
 それはまた急だな。急すぎて、タイミング的には最悪すぎる。
「あ〜……何というか、俺は辞退する」
「はぁ〜っ!? んなこと、許されるわけないでしょ!」
「いや、こればっかりは仕方ないって。もう佐々木の手伝いをする約束をしちまったし、そもそも、今週から来週にかけては団活すら休もうと思ってたんだ。タイミングが悪すぎる。いいじゃないか、俺抜きでも他の連中はいるんだろ?」
「こンの……っ」
 あのなぁ……そんな眼差しだけで人を殺せるような眼光を向けられても、だ。自分の都合だけで物理法則をねじ曲げるおまえじゃあるまいし、俺にはどうすることもできないって。
「あっそ。ああ、そう」
 怒気たっぷりに、誰がどう聞いても投げやりな気分を醸し出しながら、偉そうに腕を組んだハルヒは、目の中のハイライトが消えてるような眼差しを向けてくる。
「だったらいいわよ。昔のオトモダチと仲よくやってりゃいいわ。勝手にしなさいよ」
 いったん言葉を句切り、空気の澄んだ草原で深呼吸をするかのように大きく息を吸い込んだハルヒは、とどめの一言。
「バカァッ!!」
 鼓膜が破けるかと思うような大音響が耳元で響いた。
 俺の行動と、ハルヒの怒り具合を天秤にかけてみれば、どうにも釣り合わない気がしてならない。俺はそこまで罵倒されねばならんことをしたのかと思い、やはりどう考えてもこれは理不尽な八つ当たりとしか思えず、あれこれ言い返してやりたくもなったが、憤まんやるかたない表情を浮かべて窓の外に視線を戻したハルヒを前に、あえてこちらも口を閉ざした。
 そりゃ言ってやりたいことは山のようにあるが、ハルヒを相手に真っ当な怒りをぶつけたところで意味がない。こちらもヒートアップして頭ごなしに怒鳴るつければ、それはそれはハルヒの意地をより強固なものにしてしまう。
 引くことを知らないハルヒを相手にするならば、やはりここは世間一般のまともな対応ができる俺の方が引くしかない。
 もしかすると閉鎖空間でも作り出してるんじゃないかと思えるハルヒの憤まん顔を後目に、俺はもはや口癖になっている言葉を、声に出さず態度で示すに止めた。
 そんな風に朝っぱらからハルヒに罵倒され、その日の授業は四六時中背後から殺気を感じて過ごすハメになった。俺がいったい何をしたと言うのか問い質したいところではあるものの、とてもじゃないが振り返る勇気はない。幸いなのが、休み時間になれば北高にいる中学時代のクラスメイトに同窓会の連絡をするために、ハルヒの気配から逃れられることだ。
「キョンが幹事をするの?」
 中学時代から今に至るまで、ある種の腐れ縁になってきた国木田に真っ先にその旨を伝えると、さも意外そうな顔を見せられた。俺だってこんな真似をするのは意外と思わざるをえない。
「そんなことをしてまで同窓会をしたがってたなんて、知らなかったよ」
「俺じゃない。須藤っていただろ。やりたがってるのはあいつなんだが、盲腸かなんだかで入院してな、代役を押しつけられた」
「ああ、そうなんだ。それでも、よくそんな面倒な役割を引き受けたね」
「俺一人じゃないかなら。実際には須藤じゃなくて、佐々木に欺されたんだよ。俺が男連中のまとめ役、佐々木が女子連中のまとめ役って感じさ」
「ああ、それで」
 佐々木の名前を出した途端、幽霊でも見るような眼差しを向けていた国木田が、その正体が柳の木だと判明して納得したかのような目の色に変わる。
「何だよ」
「いや、佐々木さんに頼まれたんなら、キョンが断れない理由も納得だねってこと。何かと大変そうだね。代わってあげようか?」
「いや、それはいい。引き受けたのは俺だし、佐々木も気心知れた俺の方が連絡事項があるときにコンタクトを取りやすいとか言ってたしな」
「だよね」
 まるで端から俺がそういうことを解っていたように、あっさりと引きやがった。妙に引っかかるものを感じるんだが、やっぱり代わってもらおうかね。
「やめておくよ。代わっても代わらなくても、あちこちから非難の眼差しを受けそうだからね。ま、頑張ってよ」
 なんだか釈然としない態度をされたが、こんなやりとりは何も国木田だけじゃない。他の連中にも同じようなニュアンスで言われた。
 まったくもって失礼な連中ばかりだ。俺をなんだと思ってるんだ? 何も佐々木に頼まれたから引き受けたわけじゃない、と言ってやったが、誰一人として聞く耳を持たなかった。重ねて言うが、とんでもない連中ばかりだ。
 溜息も出てこないうんざり気分を味わいつつも、一通り校内の同窓生に連絡事項を伝え終わった頃、俺になんとも言えないアンニュイな気分を味わわせる原因を作ったヤツから、メールが届いた。須藤ではなく、佐々木の方だ。こちらの進行具合を確かめる意味合いも含まれていたが、要約すると次のようになる。
 放課後に、会場についての打ち合わせがしたい。
 そんなもん、どこでもいいだろうと思わなくもないのだが、そういうわけにもいかないようだ。立場的にも呼び出しを受けた以上は断ることもできず、放課後になってすぐに昨日待ち合わせた喫茶店に向かうことになった。
「とまぁ……そんなわけで、俺はこれから用事があるんで」
「朝に聞いたわよ。さっさと行ってくれば?」
 放課後になり、改めてハルヒに報告すれば、けんもほろろな態度で一蹴された。
 何なんだろうね、あれは。いや、ハルヒの態度もそうだが、俺もなんだか落ち着かない気分だ。これをなんと例えようか。しいて言えば……そうだな、人が忙しいときに限ってじゃれついてくるペットが、いざこちらから相手をしてやろうと手を差し伸べると素っ気ない態度を取られた飼い主のような気分だ。
 まぁいい。ぷいっとそっぽを向いて教室から部室へ向かうハルヒを見送り、俺はそそくさと母校を後にした。帰宅部の奴らに混じって、一人下校するのはなかなか新鮮だ。いつもはやることなくても下校時間ぎりぎりまで校内に残り、何があってもなくても無駄に時間を費やしているから、そう思うのも仕方がない。
 急ぐでもなく、かといって行くのを躊躇うわけでもなく、マイペースで駅前の喫茶店に向かうと、すでに佐々木は待ちかまえていた。
 待ちかまえていたのはいいんだが……。
「おい、佐々木」
「何かな?」
「何でこいつまでいるんだ?」
 佐々木が確保していたテーブル席で、ストレートのアイスティを飲んでいるツインテールの後頭部を指さしていた俺は、果たしてどんな表情を浮かべていただろうな。
「何ですか? そんなパスタと思って食べたらうどんだった、みたいな顔をしないでもらいたいです。失礼ですよ」
 どうやらそんな顔をしていたらしい。
 人を指して失礼呼ばわりする橘は、けれど言葉で言うほど憮然とはしておらず、どちらかと言えばニコニコとして、お笑い芸人が十八番のギャグをいつやるのか期待する観客のような表情を浮かべている。
「橘さんにはね、今回の同窓会を行う会場をセッティングしてもらっているんだ。何かといい店を知っているよ。有り難いことじゃないか。だからキミも、感謝こそすれ、不躾な不満顔を見せるものではないな」
 冗談じゃない。二月の誘拐未遂といい、五月の脅迫詐欺未遂といい、同窓会の会場セッティングでチャラにできそうにないことをしでかしてきたコイツを前に、どうやったらいい顔をして見せられると言うんだ。
「ところでキョン、ちゃんと連絡は回してるんだろうね?」
「そりゃな。やることはちゃんとやってるぜ」
「それは何より。僕の方も同じ高校に進んだ旧友には連絡をしてある。あとは個別に電話連絡を入れるか、手紙でも出すくらいかな」
「それも俺がやるのか」
「キミはなかなか達筆だよ。紙媒体の連絡を行うのであれば、僕よりも適任だ」
 褒められてるのか、おだて上げられてるのか、判断しにくい言い方をされても素直に喜べないんだが。まぁ、手紙を出すにしろ、手書きなんて面倒なことはせずにパソコンで全部済ませちまうんだが。
「そんなことより、こいつがセッティングしてくれた店ってのはどんなところだ?」
「雑誌でも一度か二度、紹介されたこともある場所みたいだよ。僕は行ったことはないが、店の雰囲気だけではなく料理の味も悪くないらしい」
「そうですよ」
 佐々木の言葉尻に乗っかるように、橘も得意げだ。
「人気のお店ですから、普通なら予約を入れるのも大変なのです。もっとも、今はまだ本決まりではないから仮押さえですけど」
 それはあれか、『機関』ではないが、こいつが属する怪しげな組織の力を使ってってことなのか? どちらにしろ、店にとっては良い迷惑だな。
「もしよかったら、この後に行ってみてもいいですよ。値段も学生に優しいお手頃価格ですから、あたしがご馳走しちゃいます」
「遠慮する」
 佐々木だけならいざ知らず、橘まで一緒にいるんじゃ、楽しいお食事なんてできそうにないからな。
「とは言ってもね、キョン。店に行ってみようと言うのは冗談ではないのだよ。何事にも下見というのは大事じゃないか。今日、キミを呼び出したのも、そういう目的あってのことだよ」
「本気で行くのか?」
「何かと忙しいキミを呼び出したんだ、冗談で済ませるのは申し訳ない」
 どんなところなのか知らないが、制服のままで大丈夫なもんなのかね?
「どうなんだい?」
「別に構わないと思いますけど。着替えたいと言うのであれば、待っても構わないし」
 やっぱりこいつも来るんだな。
「あら、それなら遠慮しましょうか? 佐々木さんと二人きりがいいと言うのであれば」
「あのな」
「ふふ、冗談ですよ」
 どこで笑えばいい冗談なのか、是非とも教えてもらいたいところだ。
「何であれ、ここで時間を潰していても仕方がない。どうする、キョン?」
「解ったよ」
 橘の申し出なら有無を言わさず却下するところだが、佐々木まで妙に乗り気ときている。乗り気な女子二人を前に、断る手段を持ち合わせている男はそうそういないだろう。こういう場合、諾々と流れに乗っちまうのが男の悲しい性だね。
「じゃあ、お店に連絡入れておきます。佐々木さん、ごめんなさいですけど、ここの会計してきてもらっちゃっていいですか? 領収書は無記名でお願いします」
「いいよ」
 橘に言われて、佐々木は先に席を立つと、伝票を手に足取り軽くレジへ向かった。コウしてみると、橘はともかくとして、佐々木も年相応な普通の女なんだなと思う。食い物が絡むと、妙に積極的だ。
「あの、ちょっと」
 俺も席を立とうかと腰を上げたそのとき、橘に袖口を掴まれた。
「何だ?」
「どう思います?」
「何が」
「佐々木さんのこと。いつもと違うように感じません?」
「何の話だ?」
 妙に神妙な顔つきだ。佐々木に何かあったとでも言い出すんじゃないだろうな?
「いえ、そうじゃありません。ただ……うーん、上手く言えないけど、佐々木さん、少し落ち込んでませんか?」
「はぁ?」
 何を言ってるんだと思ったが、そういえばこいつは単なる誘拐未遂犯でもなければ、詐欺未遂犯でもない、佐々木が作り出したらしい閉鎖空間に入り込める超能力者だった。SOS団で言うところの、古泉と同じ属性の持ち主だ。
 古泉がハルヒ専門の精神科医であるのなら、同じ属性を持つこいつは佐々木専門の精神科医であってもおかしくない。
 その橘が、佐々木を指して落ち込んでると言う。
「今のあの姿を見て、落ち込んでると言うのかおまえは」
「あっ、今のは言葉のアヤで。本当に落ち込んでるかどうかは別として、安定している佐々木さんの精神状態に、ですね。少し変化があるのですよ。僅かな変化なんですけど、こんなことは初めてだから。あたしもよく解らないのです」
「つまり、佐々木の深層心理が喜怒哀楽のどれかに傾いてるってことか?」
「そう、そうです。それがいいことなのか、それとも悪いことなのか、あたしにも判断できなくて。あなたの目から見て、何か違います?」
 そんなことを言われても、微細な変化っぽい佐々木の感情の変化が、俺に解るわけもない。人相占いすらできないんだからな。
「いつも通りじゃないか?」
 それでも俺のコメントが欲しいなら、そうとしか言えないな。
「うーん……そうかなぁ、そうですか。うん、ごめんです。今の話、忘れてください」
 俺の一言で何を思ったのか知らないが、橘は浮かべていた困惑気味な表情を隠して、先ほどまでと同じような笑顔に戻した。


 橘ご推薦の店は、そんなに悪い所じゃなかった。話に出ていたように客足は途切れることなく続き、俺たちが店に行ったときも多少の列ができてたほどだ。そこは橘のツテがあったおかげか、まるで顔パスのように店内に通された。なんとも周りの目が痛いが、こういうときは堂々としてりゃいいんだろうかね。
 そんな店内は、高校生が集まるには健全そうで明るいし、メニューもソフトドリンクも充実している。この点だけで俺的には高評価だ。橘自身については明確なコメントを避けさせてもらう……って、こんな言い方をすれば言わずとも解ろうものだが、店に罪はない。いいものはいい、と言っておこう。
 それよりも俺が気になるのは、この店の前の店──佐々木と待ち合わせをしていた駅前の喫茶店を出る際に、橘がポロッと漏らした一言だ。
 佐々木の深層心理に何かしらの変化が出ている……ねぇ。
 そんなことを言われれば、多少なりとも気にはなる。どうにも佐々木の様子ばかりに気を取られていたせいで、集中して料理の味わいを堪能できなかった。おまけに俺が見ていたことを佐々木自身にも気付かれて、ごまかすのに苦労したほどだ。まったく橘め、余計なことを言ってくれる。
 それはいいとして、俺は注意深く佐々木の態度を観察していたのだが……さて、言うほど佐々木の態度に何らかの変化は見られないように思うけどな。中学のときの記憶と照らし合わせて見ても、やはり佐々木は佐々木であって、突き抜けたようなハイテンションでもなければ、鬱になりそうなほどのダウナー傾向でもなさそうだ。まぁ、橘が言うには極微細な深層心理での変化らしいから、表面まで出てきてないだけかもしれない。
 だったら、俺がちらりと見たところで解るはずもなく、しつこいようだが橘と会話している佐々木の姿は、言うまでもなくいつも通りの佐々木だったわけだ。
 結局、店の支払いは橘が持ってくれて、俺は珍しく奢ってもらった形になった。もしやこいつの組織は、古泉のところの『機関』よりも羽振りがいいんじゃないかと思えてしまう。
「それじゃキョン、何かあったら連絡するが、キミの方でもやることを忘れないように」
 まるでデキの悪い弟に注意を促すような姉みたいな口調だな。
「ああ、解ってるよ」
「ではいずれ、またお会いしましょうね」
 奢ってもらった手前、橘に嫌そうな顔を見せるわけにもいかない。紋切り型の挨拶くらい、しても罰はあたらないだろうさ。ただ、そうそう頻繁に、またお会いしたくはないけどな。
 珍しく財布に打撃を負うことなく過ごせた喫茶店からの出来事を終えて、帰宅の途に着くと、途端に夕暮れ時でも暑さの引かない真夏の熱波に体が堪える。タダで美味いもんを喰えたっていう、いい目に遭えたのはいいのだが、それはある意味、今回の臨時幹事を請け負う前渡しの報酬みたいなもんかもしれない。家に帰れば北高でも佐々木が通う進学校でもない、他の高校に進級した同窓生宛の同窓会開催のお知らせを作らなけれりゃならんわけだしな。面倒事が待ちかまえる家に進む歩みも、そりゃあ鈍くなろうってもんさ。
 それでも家に帰らなければならず、面倒なことを面倒だからと先延ばしにすれば、自分の首を絞める結果になる。何より、さっさと同窓会の仕事は片付けなければ佐々木に怒鳴られる上にSOS団の活動にも顔を出せないし、となればハルヒもグチグチと文句を言ってきそうだ。
 こういうのを四面楚歌って言うんだっけかな? むしろ、八方塞がりって言い方が適切か。やれやれだ。
「あっ、キョンくん。おかえりなさーい」
 溜息混じりに玄関を開くと、ちょうど二階に上がろうとしていた妹と出くわした。そりゃ兄妹で、同じ家に住んでいるんだから顔を合わせるのは必然であるのだが、その妹がお盆の上にジュースが注がれたグラスを乗せて、危なっかしい足取りでフラフラしている姿に違和感を覚える。
「ミヨキチでも来てるのか?」
「ううん、違うよー。キョンくんにお客さんなの」
「何だと?」
 ええと、待て待て。俺はたった今、帰ってきたばかりだ。当然、それまで家にはいなかったわけで、それは妹も知ってるはずだ。よもや俺の部屋に、もう一人の俺がいるなんてことはないだろう。そんなもん、妹の態度を見れば一目瞭然だ。
 常識的範囲で考えを巡らせれば、つまり俺がいないにもかかわらず、俺を尋ねてきた客を家の中に招き入れて、今まさに俺の部屋にいるってことなのか?
「いったい誰だ? ハルヒ……じゃないよな?」
 お盆に乗せているグラスはひとつだ。客を名乗るヤツは一人ってことで間違いない。ハルヒがたった一人で、わざわざ俺の家に訪ねてくるとは思えない。
「古泉か長門か?」
「ううん、知らない人だよー」
 正直、目眩がした。
 知らない人って、そんなもんをホイホイ家の中に入れるってのはどういうことだ!? あまつさえジュースの差し入れを持っていくって意味が解らん。
「何でそんなのを勝手に家の中に入れてんだっ!」
「だってぇ、キョンくんとお友だちって言ってたんだもん。同じ学校の制服着てるし、優しそうなお姉さんだったよ」
 同じ高校の制服を着た優しそうなお姉さん? そう言われてパッと思い浮かぶのは朝比奈さんか鶴屋さんくらいだが、その二人なら妹とも面識がある。知らないとは言わないはずだ。
 それ以外で、妹とも面識がない優しそうなお姉さん……ねぇ。ダメだ、さっぱり思い当たる節がない……いや、何故だろう、そう言われると思い当たるのが一人だけ脳裏に浮かぶ。
「おまえは来るなよ」
 妹からお盆を奪い取り、乱入してきそうな妹をしっかり牽制てい自室へ向かう。これでもし、いるのが朝倉だった俺は何を言うべきだろうね。
「…………」
 別に意を決する必要もない。いつもの調子で部屋のドアを開けると、そこには人の机の引き出しを勝手に開けて中を物色している女がいた。
 幸いにして、あるいは残念にも、そこにいたのは俺が予想していた朝倉じゃなかった。ただこの人も──対外的には──優しそうなお姉さんかもしれないな。
「何をやってるんですか」
「いえ……思春期の男子が、持て余すリビドーを発散させるような青少年保護法に抵触する代物がないか、リサーチしているだけです」
 部屋の主を前に、勝手なことをしでかしている喜緑さんは、まったくちっともさっぱり悪びれた様子も見せずに淡々と答えた。
「知ってますか? 今あなたがしていることも、それはそれは言い訳無用の不法侵入だと思うんですけどね」
「あら、ちゃんと妹さんの許可は得てますよ」
「改めて聞きますが、何をやってるんですか」
「ちょっと確認したいことがあったんです」
 それが人の机の中を漁ることかと問いたい。問い詰めたい。とにもかくにも机を漁るのはやめてください。
「やめろとおっしゃるなんて、やはりここを調べられると困るんですね」
「そもそも、勝手に家宅捜査をされて喜ぶヤツはいないでしょう」
「そういうものなんですね」
 だったらあなたは、どういうもんだと思っていたのか是非とも教えてもらいたい。できれば俺が理解できるようにちゃんとした言語で。
「ところで」
 ぱたん、とようやく引き出しを閉めて、喜緑さんはこちらを振り向くことなく、明日の天気の話題でも振ってくるような口ぶりで声をかけてきた。
「こんな時間まで、どちらにいらっしゃったんですか?」
「どこだっていいじゃないですか」
 別に隠すつもりでそう言ったわけじゃない。ただ、勝手に人の部屋に上がり込んで物色してた相手に素直に答えるのがバカらしいと思っての発言だった……のだが、何故かそこで喜緑さんは俺を睨んできた。
「な、何ですか」
「今日の放課後、部室にはいらっしゃいませんでしたね?」
「ですよ」
「どこで何をなさってたんでしょう」
 再度問われて、何故か俺は物凄い違和感を覚えた。
 何だろう、この妙な感じは。そもそも、どうして喜緑さんがそんなことを俺に聞いてくるのかが解らない。俺の行動なんて……ああ、そうか。違和感の正体は、喜緑さんの問いかけか。
 別に監視されているとまでは言わないが、喜緑さんも長門と同じ属性の持ち主だ。わざわざ聞くまでもなく、すぐに俺の行動なんて把握できるんじゃないのか?
「正直に言えば、そうなんですけれど」
「じゃあ、解ってるんじゃないですか」
「佐々木さんとお会いしてたんですよね?」
「そうですよ」
 やっぱり解っているじゃないか。なのになんでそんなことを聞いてくるんだ? しかも、人の部屋の中に入り込んで来てまで。
「では、単刀直入に聞きますけれど」
 喜緑さんは、普段は見せないような真面目な……それでいてどこか深刻そうな表情を浮かべて、いつにも増して常識度外視のことを俺に聞いてきた。
「ここ最近、朝倉さんとはどこでお会いしたんですか?」
 予想に反して現れた喜緑さんだが、その口を裂いて出てきた台詞は予想の遙か斜め上を行くものだった。
 朝倉……朝倉ねぇ。そんな苗字はありふれたもの……とまでは言わないが、そこまで珍しい苗字でもない。探せばそれなりにいると思われる。
「けど、俺には朝倉って苗字の知り合いはいないですけど」
 などと言ったら、さらに睨まれた。睨むと言うよりも、凄味を利かせてくるんだが……何なんだ、いったい?
「申し訳ありません。ちょっと解りにくいのかもしれませんけれど、わたし、極めて真面目なお話をしているつもりなんですが」
「ええっと……」
「いつの時代の朝倉さんか、なんてことはどうでもよろしいですよ。重要なのは、あなたがいつ、どこで朝倉さんとお会いしたかと、それをお聞きしているのですが」
 にこりともせずに切って返す喜緑さんの態度は、どうにも洒落が通じそうにない雰囲気だ。もっとも、この人の場合はつねに洒落が通じないと言えるかもしれないが、そういう意味ではなく、今はかなりピリピリしている……ように見える。
「何かあったんですか?」
「それをお聞きしたいというのであれば、先にこちらの質問に答えていただきたいのですけれど。正直に」
 どうやらここは、軽口を叩ける場面ではないらしい。何があったのか、それを知る前に聞かれたことに対して正直に答えなければ、我が身に危険が迫るかもしれん。理不尽な気がしないでもないが、今の喜緑さんを前に下手な意地を張ってもは無意味だろう。そんな気がする。
「俺が朝倉と会ったのは先月ですよ。喜緑さんも知ってるでしょう? 件のオーパーツ騒ぎのときに、過去からやってきたあいつと会ったのが最後ですよ」
「そうですか」
 ふぅ、と溜息一つ。喜緑さんは今にも苦笑のひとつでも漏らしそうに口をへの字に曲げてから、しずしずと俺に近付くや否や、ばしんっと両手で人の顔を挟み込んでジーッと睨み付けてきた。
「な、なんですか……」
「嘘じゃありませんね? 間違いないことですね? 適当な言葉でごまかそうとしても無駄ですよ?」
「あのですね」
 人の顔を両手でサンドイッチにしているばかりか、むにむにと弄ぶ喜緑さんの手を取って、俺は溜息混じりに憤りの言葉をぶつけることにした。埒が明かない。
「天地神明に誓って言いますが、俺が朝倉と会ったのはあのときが最後です。それは間違いありません。ってか、何なんですかいったい? 俺の行動くらいはすぐに把握できるんでしょう? だったら聞くまでもないじゃないですか」
「相手が朝倉さんですから。解らないかもしれないので確認しているまでです」
「今度は何事ですか」
 これまでの喜緑さん情報をまとめれば、どうやら朝倉絡みで何事か起こってるらしい。起こっていて、怒っているようだ。それは確実だろうが、そこにどうして俺が巻き込まれなくちゃならないんだ?
「では、協力してくださいますか?」
「できれば何が起こってるのか、その説明を先にお願いしたいんですけど」
「そうですね……」
 しばし考える素振りを見せる喜緑さんは、果たしてその頭の中にどんな図を思い描いているのか知らないが、勉強机の椅子に腰を下ろして、くるりとこちらに向き直った。
「朝倉さんが時間跳躍を行っているのはご存じですね?」
「前回のことですか? そういやあいつ、四年前から来たんでしたね。朝比奈さんと一緒に」
 その朝比奈さんは、いつも部室でお茶を淹れてくれる麗しの上級生ではなく、あらゆる面でボリュームアップした朝比奈さん(大)ではあったが。
「違うんです」
「違う? 何がですか」
「朝倉さん、単独での時間遡航を行っているんです」
「……へぇ」
 これはまた、どういうリアクションを取るべきだろうか。朝倉が単独で時間遡航をしていると言われても、万能宇宙人だからなぁ。そのくらいは簡単にできそうで、今さら驚くに値しないことじゃないだろうか。
「驚いてください」
「何でですか」
「わたしたちインターフェースには、有機情報を伴っての時間遡航をする権限は与えられておりません。長門さんから聞いてないでしょうか?」
「……ああ」
 もう一年以上も前の話だからすっかり忘れてた。そういえば、朝比奈さんみたいな時間遡航はできない、と長門も言ってたっけ。その代わり、異時間同位体と同期することで時間遡航ができる……だったか?
「どうやら朝倉さんは、TPDDの技術を得ているようなんです」
「それって朝比奈さんが時間遡航してるときの技術ですよね?」
「そうです。憶測ですけれど、前回の件で朝比奈さんが朝倉さんにTPDDを渡したのではないかと思われます。もしくは一時的に貸し与えたか……どちらにしろ、何百年か何千年か知りませんが、遙か未来の技術とは言っても、所詮は人間が扱う技術です。一度でもその技術を情報として得たのであれば、わたしたちが複製できないものではありません」
 それは何ですか、さらりと嫌味を言ってるわけですか。
「つまり、朝倉は勝手気ままに時間遡航して遊んでる、と」
「それが困ったことなんです」
「あいつが何か悪さをするから、ですか?」
「その可能性も否定できませんが、時間遡航という行為そのものが、です。何故、わたしたちインターフェースに有機情報を伴っての時間遡航が許可されてないか、解りますか?」
 解りますか、と問われても、時間の概念すら危うい大宇宙の広域情報うんたらの考えることなんて、俺に解ろうはずもない。
「……さぁ?」
「わたしたちが、この惑星表面上ではイレギュラーな存在だからです」
「というと?」
「わたしたちは、涼宮さんの情報創造能力に自立進化の可能性を求め、観測という名目でこの惑星表面上に存在しているんです。それ以上もそれ以下もなく、あまり世間に深く干渉しません。雑多な人間に興味がないというのもありますし、人間独自の進化に手を加える気もありませんから」
 つまり、ハルヒ以外はどうでもいいと、そういうことなのか。そもそもハルヒが今から四年前に何かしでかしたせいで情報統合なんたらが目を付けたわけだし、ハルヒ以外は眼中にないんだろうね。
「つまりですね、わたしたちは涼宮さんの能力が解析できれば、もう存在する意義はないんですよ。それが明日なのか、それとも銀河消滅のそのときまで不明のままなのかは解りませんけれど……」
「ええと、すみません。その話と喜緑さんたちが時間遡航できないことと、どういう関係があるのかさっぱりなんですが」
「時間遡航ができるということは、永遠に存在できるということです」
「はい?」
「わたしたちの同期は、過去、あるいは未来に『わたし』が存在していることが前提で行えるものです。朝倉さんの場合で言えば、本来なら四年前から一年前のわずか三年間でしか時間遡航はできないんです。同期による時間遡航だと。でも、有機情報を伴う時間遡航が可能であれば、遙か未来にも朝倉さんは存在できるんです。その気になれば、何時、如何なる場所であろうとも朝倉さんは存在します。それがちょっと困ったことなんです。理由は、先に述べた通りですね」
「まぁ……理屈は解りましたが」
 本音で言えば、まだ少し理解しかねているところもあるんだが、簡単に言えば、朝倉がTPDDの技術を持ってるのはまずいと、喜緑さん──あるいはその親玉あたり──は判断したわけだ。それで朝倉からTPDDを取り上げたいと。
「それでどうして俺のとこに来るんですか」
「他に考えられるアテがないからです」
「アテがないって……俺のとこに来る理由もないでしょう」
「可能性の問題ですよ。時間遡航をするにしても、目的が必要じゃありませんか。わたしや長門さんに会うなんてことは、まずあり得ません。他の方々は事情を知らないですから省かれます。でも、彼女が時間遡航ができることを知っていて、会っても不利益にならない相手となれば……やっぱりあなたしかいないように思えるんですけど」
「んなこと言われても」
 仮にそうだとしても、ここ最近、俺は朝倉に会ってないぞ。それだけは間違いない。会ってないのだから、あいつが時間遡航してるかどうかも知らん。
「本当にあいつが単独で時間遡航してるんですか?」
「間違いありません。前回の出来事があってから、少し気になって、一年前に北高の校内であなたを襲って長門さんに消されるまでの行動を調べてみました。そうしたら、時間にして一秒にも満たないほどですが、朝倉さんがこの惑星表面上から消失していたこが確認されましたので」
 それが、朝倉が時間遡航をしている証拠なんだろうか。一秒にも満たない時間でも消えている、ということは……ああ、そうか。別の時間軸に跳んでるわけだから、行きと帰りの時間設定の誤差を少なくすれば、実時間では一秒に満たなくても、実際には長時間、別の時間軸に存在していたかもしれないわけか。
「あなたがまだ朝倉さんとお会いしてないと言うのであれば、これから先に現れるかもしれませんね」
 現れるかもって……いったい何のために? もしかして、また何か起こるのか? そんな、過去や未来を行ったり来たりしなけりゃならん宇宙人絡みの面倒なことが。
 ……喜緑さんの話、聞かなきゃよかったな……。
「ですので、これからしばらくの間、監視させていただきます」
「……監視?」
「はい。いつ朝倉さんが現れてもいいように、プライバシー無視の二十四時間監視体制を敷かせていただきます」
「ちょっ」
 何を言ってるんだこの人は!? んなもん、大却下に決まってる。承伏できるわけがない。
「嫌ですか?」
「当たり前じゃないですか!」
「それなら、協力してくださるんですね? 朝倉さんが現れたときに、逃がさないように捕まえておいてくれると」
「それは」
 朝倉を捕まえておく? 俺が? なんでそんな真似を……そもそも俺に、あいつを捕まえられるのか? 考えただけで、脇腹がチクチク痛むんだが……。
「協力してくださいますね?」
 にっこり微笑む喜緑さんは、笑顔の裏に「断ったら監禁です」など言い出しそうな思惑を、隠そうともせずにさらけ出していた。
 この究極の二択の中、どちらが肉体的にも精神的にも楽かと言えば……まぁ、いつ現れるのか解らない朝倉を捕まえる方だろう。
 喜緑さんの監視はとにかく厳しそうだ。心の平定を保てるかどうかも怪しい。逆に朝倉を捕まえることで言えば、少なくともあいつが現れるまでは何もすることがない。そもそも、本当に現れるかどうかも解らない。何しろ、朝倉が会う相手が俺だって話は、すべて喜緑さんの憶測だからな。
「で、実際に朝倉が現れたらどうすればいいんですか」
 それでも万が一ということがある。憶測であろうが何であろうが、可能性はゼロじゃない。ゼロでなければ、備えをしておくに越したことはないだろう。
「雑談でもしててください。逃げ出さないように時間を稼いでくだされば、すぐに駆けつけますので」
 雑談て……あいつと何をどう日常の話をしろと言うんだ。こっちから振る話題なんて、何もないぞ。
「そうですね……例えば『会いたかった』とか『おまえがいないとダメなんだ』など、母性本能を擽るうような甘い言葉でも耳元で囁けばよろしいのではないでしょうか」
「…………」
「あのこれ、真面目な話なんですけど」
 そりゃあ、喜緑さんのことだ。言うことはつねに真面目でしょうが、根本的なところで世間とのズレがある。どんなに本人が真面目でも、言葉を受け取る側としては不真面目な台詞にしか聞こえないんですけどね。
「いえいえ、ですからほら、朝倉さんって何かと世話好きじゃありませんか。誰かに頼られるのが好きな方なんですよ」
 朝倉が世話好き? ああ……確かに朝倉は、クラス委員なんて面倒なことをやるような一面を持ってたな。おまけに長門が改変した世界では、わざわざおでんの差し入れなんて持ってきてたくらいだし……なるほど、喜緑さんが言うことも、あながち見当はずれってわけではなさそうだ。
 だからってなぁ……喜緑さんが例に出したような台詞を口にするほど、俺はトチ狂っちゃいないぜ。
「さて、わたしからのお話は以上です」
 勉強机の椅子に腰掛けていた喜緑さんは、慎ましやかに頭を下げて見せた。
「最初に確認もせずに問い詰めたりして、申し訳ございません」
 こりゃビックリだ。確かに怒鳴られ損だったわけだが、喜緑さんにこうやって頭を下げられると、なんだか背中がくすぐったいような居心地の悪さを感じる。
「あー……ところで、この話は長門には?」
「まだ何も」
「内緒の話なんですか?」
「そういうわけではございませんけれど、涼宮さんに関わりのない雑務の処理ですし。長門さんには長門さんの役目がありますので」
「なら、俺からも何も言わない方がよさそうですね」
「その判断はお任せします」
 その口調は文字通り丸投げしているようだが……ふむ、確かに長門にはあれこれ面倒なことを押しつけることが多い。どうやら喜緑さん自身も、自分だけで何とかしたいと考えているようだし、その考えを尊重しよう。
「それでは、わたしはこれで」
「キョンくーん、ご飯だよー」
 喜緑さんが立ち上がるのとほぼ同時に、階下から妹の呼ぶ声が聞こえる。帰ってきた時間も遅かったし、そろそろ夕飯時であることをすっかり忘れてた。もっとも、すでに軽食とは言え、佐々木や橘たちと食べてきた俺はそこまで腹は空いちゃいないんだが。
「喜緑さん、夕飯はうちで食べて行きませんか?」
「えっ?」
 こっちが疑問に思うほどの驚きようだ。俺の申し出は、そこまで意外に思うもんだろうかね。
「でも、お邪魔になりますから」
「邪魔ってことはないですよ。それに、俺は外で佐々木たちと少し喰って来たんで、そんなに入らないですから」
「そう……ですか」
 珍しく逡巡する喜緑さんだが、すぐに表情はいつものような笑みを浮かべた。
「では、お言葉に甘えさせていただきます」


 いつもの我が家での食卓の風景に、喜緑さん一人が混じるだけで空気がだいぶ変わるもんだ。妹は妙にハイテンションだし、親も妙にソワソワした態度を見せている。変わらずは俺と喜緑さんだけ……いや、喜緑さんも借りてきた猫のように大人しいか。突拍子もないことを口走るでもなく、不穏なまでに優しいお姉さん風な態度で妹の相手をしている。
 それが素の喜緑さんなのか、はたまた俺の親や妹を前にしているからこその取り繕った態度なのか知らないが、そんな悪いもんじゃないと思う。少なくとも、平穏な食卓に相応しいもんであり、そっちの方が容姿ともマッチしてていいんじゃないだろうか。
「なにか?」
「いいえ、何でも」
 夕食の一時を終えて、どこなのかまでは知らないが、帰る喜緑さんを玄関先まで見送りに出ると、こちらの考えなんてお見通しとばかりに澄んだ瞳を真っ直ぐ向けて微笑まれた。余計なことは考えない方が身のためだろう。
「それでは、朝倉さんが現れたらよろしくお願いします」
「よろしくと言われてもですね」
「朝倉さんの思惑が何であれ、懐柔されないようにしてくださいね。相変わらず、何が目的なのかさっぱりな方ですから」
「何を考えてるのか解らないってのには同意しますが……そんなヤバイことはしないと思うんですけど」
「あら」
 今の俺の発言に、喜緑さんはカンブリア紀の地層からナウマン象の化石が出てきたような驚きの表情を作って見せた。
「朝倉さんのこと、信用なさってるんですか?」
「さあ……どうでしょう」
 一年前なら間髪入れず、即座に「信用できない」と言い放ってやるんだがなぁ。先月のオーパーツ事件を経た今は、多少なりとも考えを改めざるを得ない。
 あいつが俺を殺そうとした理由、その目的。本人の口からとは言え、果たして真に受けていいものかどうか迷うところであるが、理にかなっているのは確かだ。
「疑いはありませんか」
「信用すると言っちまいましたから。せめて、自分の発言くらいには責任を持ちたいじゃないですか」
「それなら」
 いつもと変わらぬ態度のまま、いつもと同じような微笑を浮かべて、喜緑さんが俺の顔をしっかりと視線で捉えている。
「わたしのことも、信用してくださいます?」
「そういうのは、確認し合うものじゃなくないですか?」
「あら……手厳しいご意見ですね。少し残念」
 何が残念なんだろう。喜緑さんの考えていることは、よく解らない。
「では、夕飯ご馳走さまでした。おやすみなさい」
 一礼して去っていく喜緑さんに、俺は「気をつけて」と、あの人が何に対して気をつけなければ解らんけども、お決まりの言葉を口に出して見送った。
 その姿が街灯の光の中からも消えて、姿が完全に見えなくなってから溜息を吐く。
 過去の朝倉が、今か未来か知らないが、自由に移動している……ねぇ。
 本当だろうか?
 仮にそんな真似ができるとしても、あいつがフラフラと時間遡航して遊んでいるとは思えない。やるとしても何かしらの目的あって行動してるんだと思うが……それでも、それが朝倉個人の利益になることではないだろう。どうやらあいつは、自分のことは二の次に思っている節がある。
 俺に真実を伝えるために、ナイフを振りかざして襲って来て消えるハメになっちまったりとかな。そういうところは長門と似ている。どっちも自分のことを軽く見過ぎなんだよ。
 だとすれば、あいつが時間移動するのはハルヒに関わる何かがあってのことか。
 何か起こるんだろうか。これから先、朝比奈さん(大)ではなく、朝倉が時間遡航しなければならないような、それほどまでに窮地に陥るような厄介で面倒な出来事が。
 まっ、今ここで考えたって仕方がない。慌てるのは、事が目前に迫ってきてからで充分さ。そういうことが起こらないようにと祈りつつ、今はゆっくり体を休めるときさ。さっさと風呂にでも入って、早く寝よう……あ。
「しまった」
 喜緑さんの突然の来訪と、無理難題な頼み事ですっかり忘れてた。
 北高にも佐々木の高校にもいない、中学の同窓生宛の同窓会開催案内のダイレクトメールを作らなけりゃならないんだった。
 まったく……厄介事には事欠かないな、俺の人生。