涼宮ハルヒの信愛 序章

 平日の放課後、授業が終われば親鳥の帰省本能のように旧館こと部室棟にある文芸部部室──すでにSOS団の本拠地として非公式ながらも校内津々浦々にまで認識されているであろう場所へ向かうこの俺が、今は何故か駅前近くにある喫茶店の窓際テーブル席に腰を下ろしていた。
 今のこの状況を、誰にどのような口調で異議を申し立てればいいのか解らない。いや、誰かに文句を言うのは筋違いだろう。何しろここにいるのは、あくまで自分の意思で自発的に来たのであって、誰かに強要されたわけではないのだ。
 それでもやはり、どこか釈然としない。こうなることを望んだ……というほどではないが、こうなる状況を作り出したのは確かに自分なのだが、それでもどこか、目に見えない力が働いているんじゃないかとさえ、思えてしまう。
「今、キミが眉間に皺を寄せてまで何を考えているのか……当ててみようか?」
 鏡を見ているわけじゃないから、視覚的にどう言い表せればいいのか解らないが、確かに眉間に皺を寄せているかもしれないな。だからと言って、その表情を見ただけでこちらの考えが解るってのかね? いつから読心術ができるようになったんだ、おまえは。
「できないよ、他人に対してはね。だがキミになら、これまでの経験と付き合いを照らし合わせて、誤差の少ない解答を得られるとは思う。そうだな……例えばこんな感じじゃないのかい? 総数三〇人弱のクラスメイトの中から、どうしてピンポイントで自分を選ぶんだ。自分みたいな人間より、より適切な人材は他にもいるじゃないか。たとえば国木田とか……と、そんなところかな?」
「あのなぁ……」
 今は夏。長い梅雨も明けて、初夏の日差しがまぶしい季節。手に取ったアイスコーヒーは氷も溶けて、コーヒーと水の層がかなり分厚くできていた。それを見るだけで、喫茶店で長い時間を過ごしているのか解るってもんだろう。
「解っているなら話は早い。国木田の連絡先を知らないと言うのなら、今ここで教えてやるから、すぐにでも連絡を取ればいい」
「それではキミを呼び出したことに対して申し訳ない。彼の電話番号を知るためだけなら、それこそメールで送ってくれるだけでよかったんだからね。にもかかわらず、時間を割いてやってきてくれたんだ。何かと忙しい日々を送っているんだろう? つまり、それだけやる気があるということではないのかな?」
「呼び出し方が卑怯すぎるんだよ」
「そうかい? 嘘偽りは何もないんだけれどね」
 しれっとした表情で、よくもそう言えるもんだと感心する。メールで来た文面は、こうやって顔をつきあわせて改めて話を聞く内容と大きく食い違っているような気がする。
「あのな、佐々木」
 溶けた氷で薄まった表層を避けるように突き刺さったストローを口に、沈殿しているガムシロップの甘ったるさに辟易しながら、言葉とは裏腹にストレスなんぞ微塵も感じちゃいないような楽しそうな笑みを浮かべている佐々木に対して、俺は重々しく口を開いた。
「どうして同窓会の幹事の代理をすることになっただけなのに、海上事故で無人島に流れ着いた遭難者が決死の思いで流した瓶詰め手紙のような内容を、メールで送ってくるんだ?」
「ああ……まさにそういう心境だね。是非とも助けてもらいたい」
「いくら何でもオーバーだろ」
 だから放課後の予定をすべてすっ飛ばしてまで、こうやって駆けつけたんだぜ? にもかかわらず、その実、他愛もないことすぎて、何をどこからどうやって怒ればいいのかさっぱり解らん。
「それは価値観の違いというものだね。キミにとってはごくありふれて他愛もないことかもしれないが、僕にとっては胃に穴が空いてもおかしくないほどのストレスに感じる出来事なんだよ。それを解ってくれていると思ったんだけどねぇ……そうでないのが残念でならない」
 残念なのはこっちの方だ。中学卒業以来、あの連中と俺を引き合わせること以外では一度としてそっちから連絡を取らなかったおまえが、珍しく自分の都合だけで俺を呼び出したかと思えば、宇宙人や未来人、超能力者が持ち込む厄介事以外の面倒も俺に吹っ掛けるためだったとは、涙も出やしない。
「卒業以来、疎遠になったヤツと会いたいと思わなくもないが、だからといって幹事なんて面倒なことをやってまで、とは考えてない。そうまでして会いたい相手なら、何も個人的に連絡を取ったっていいんだ。それにな、同窓会もやるというのなら諸手を挙げて参加するが、自らまとめ役を買って出るつもりもないんだぜ? こう見えてもやらなきゃならんことはてんこ盛りなんだ」
「多忙なのはいいことさ。暇を持てあますよりはよっぽど健全だ。だが、同窓会を心待ちにしていた級友が、突発的な病に倒れた今、それほど親密な友好を図っていなかったと言っても、友人としては何をおいても協力すべきだと僕は思うよ。それはまさに、現代社会において推奨されるべき道徳心に満ちた善行じゃないか」
「病に倒れるったって……ええと、盲腸か? 今のご時世、そう長引く病気じゃないだろ。回復してからだって遅くない」
「時に恋心は人を狂わすからね。冷静に考えればキョンの言うとおりかもしれないが、未練たらたらの恋慕の情は気持ちを逸らせるらしい」
 恋愛感情について、おまえにはあれこれ言われたくない気もする。俺の記憶が確かなら、おまえもハルヒみたいなことを口走ってたことがあったよな?
「さて……何のことかな? まあ、そんな曖昧模糊とした記憶を引っ張り出したところで意味はないよ。相手を言い負かす武器にはならない」
「おまえを言い負かせるとは思っちゃいないけどな」
「なら、協力してくれるかい?」
「だからなぁ……国木田に頼めよ。あいつの方がしっかりしてるんじゃないのか?」
「キミが適任なのさ」
「何故?」
「女子連への連絡窓口に任命されたのが、僕だからだ」
「理由になってないだろ」
「なってるさ。いいかい? 男女それぞれに連絡系統を作るなら、そのまとめ役にはそれなりに親しい友人関係であった方が、全体の把握も取りやすいだろう? 僕が中学時代に親しくしていた男子生徒は、やはりキミを置いて他にいない。確かに場を取り仕切る能力は国木田くんの方が上かもしれないが、それだけではダメなんだよ」
「だからってなぁ……幹事をやるにしても、実際に同窓会が行われるまで時間を取られちまうのがキツいんだ。何度も言うが俺は忙しいんだよ」
「ああ、そうかい」
 ふぅん、と溜息を吐いて背もたれに体を預けた佐々木は、気のせいと思えるレベルだが、どこか冷ややかな眼差しを向けてくる。
「つまりキミは、僕を含めた旧友からの頼みよりも、涼宮さんと一緒に過ごす時間を大切にしたいと、そう言うわけだね?」
「何でそこでハルヒの名前が出てくるんだ」
「推測さ。キミの多忙理由が他に思いつかなくてね。それとも、それ以外に何かあるのかな? キミが、数日の余裕すら取れないほど多忙な理由とやらが」
「……べん、きょう……とか?」
「キミのジョークは、時に難解だね。どこで笑えばいいのか、大いに悩む」
 ……気のせいか、今の発言はどこかしらバカにされているように思えなくもないな……。
「確かにキミが危惧するように、男子側のまとめ役を買ってくれるというのなら、いろいろと面倒なこともあり、時間も大いに取られるだろう。多忙を強調するキミには無理な話になることは間違いない。では、その多忙な理由を是非とも教えてもらいたいね。涼宮さんのことではないのだろう? もし人に言えないような理由であっても、今は話してもらわないと困る。何故なら、その理由なしに僕が納得しないからだ。安心したまえ、その理由とやらが、仮にバブルが弾けた直後の日本経済のように、キミの評価を急落させるものであったとしても、僕はキミに対する価値を下げようとは思わないし、口外もしないと約束するよ」
 さすがにもうお手上げだ。この佐々木がここまで食い下がってくるのなら、あれこれ口先の方便だけで逃げられるわけがない。
 どうやら俺には、佐々木の協力要請を受け入れる以外の道は残されていないようだ。
「解ったよ。やればいいんだろ、やれば」
「そうかい? 無理にとは言わないよ。キミが拒否する明確な理由を示してくれれば僕も諦めるからね」
 ああ、ああ、悪かったよ。最初から素直に受けてりゃよかった。
「是非ともやらせていただきます、と。これでいいか?」
「それでこそ親友だ」
 よく言うぜ。その「してやったり」な笑みは何なんだ? 今まで散々、佐々木が表す多彩な笑みを見てきたが、今ほど心底楽しそうな笑みは見たことがない。
 やれやれ……これでしばらくの間、SOS団の活動は休止して、佐々木に付き合う日々が続くことになりそうだ。