涼宮ハルヒの信愛 終章

「気がついた?」
 耳に届くその声が、朦朧としていた意識をはっきりと覚醒させる。いつ閉じたのか自分でも覚えがない瞼を開けば、そこが病院の待合室らしいところであると気付く。俺を覗いているその顔は……朝倉か。
「何がどうなってんだ……」
「無事に帰還を果たした」
 朝倉とは別の声がやけに耳元から響く……などと思って首を巡らせてみれば、どうやら俺は長門に膝枕をされていたらしい。妙にふかふかとした弾力ある椅子だな、なんて呑気なことを考えていたが、それで納得だ。そんなことをされているとはまったく思い至らなかった。
「気にしなくていい」
 長門はそんなことを言うが、気にするなって方が無理な話であり、さすがにそのままでいるわけにもいかずに俺は体を起こした。どこも痛むところはないし、海の中に落ちたはずだが、衣服はどこも濡れていない。
「すべては肉体的な活動とは別の……世界、で起きた出来事。故に、衣服や身体的に異常が発生することはない」
「つまり、すべては夢の中……ってわけか」
「その方が都合がいいでしょ」
 確かに朝倉が言うように、今回の出来事が事実だと知られるのは……佐々木はともかく、ハルヒにはまずいんだろうな。ま、あえて包み隠さず詳細に説明する必要もないだろうから、ハルヒが夢だと思うならそれでいいし、違うと訝しむのであれば、苦労するのは別のヤツになるだけだ。俺はどっちでもいい。
 それよりも問題なのは──。
「閉鎖空間は?」
「朝倉涼子の計画通りにすべて完了した。今後、二人の閉鎖空間が融合することはない」
 それを聞いて安心した。さすがに今回はかなりキツかった。どっちかならまだなんとか……これまでの経験もあるし、頑張ろうって気になるが、二人いっぺんは勘弁してほしいからな。身が保たない。
「でもね、わたしはいまだに納得できないの」
 妙にカリカリした声音で、朝倉は椅子に座る俺を見下すような眼差しを向けてくる。
「何の話だ」
「あなたが涼宮さんをないがしろにした理由」
「別にないがしろにしてないだろ」
「そう思ってるのはあなただけじゃないかしらね。あなたが佐々木さんを優先させた理由も解ったけど、あんな曖昧な約束を信じられるなんて理解できない。何を考えてるのよ」
 いいじゃないか、すべて丸く収まってるんだからさ。重要なのは結果であって過程はどうでもいいだろ。
「自分の行動に納得できないの、それだと。わたしは何もあなたのために行動してるわけじゃないわ。自分が納得できることをしてるだけ。だからTPDDを使ったし、ここにいるの。これから先のことだってそうよ」
 これから先、ね。そういえばこいつは過去の朝倉か。一年前、俺を殺そうとして長門に消される前の朝倉だった。
「TPDDと言えば」
「ごまかすつもり?」
「じゃない。おまえ、どうやって帰るつもりだ」
「ごまかしてるじゃない。まぁ……あとで朝比奈さんが迎えに来てくれると思うわ。でもそうね、それまではこの時間平面に駐留することになるかしら」
 そう言ってほくそ笑む朝倉だが、その表情は明らかに俺を困らせてやろうという思惑がありありと見て取れる。なにしろ今の時間平面での朝倉は、カナダに転校していることになっており、なのにこいつがフラフラしていれば、ハルヒどころか他のクラスメイトに見つかってもまずいことになりそうだ。
「それは推奨しない。あなたはすぐに自分が本来存在している時間軸へ戻るべき」
 長門も俺と同意見のようだ。きっぱりと、朝倉にそう言っている。
「いいじゃない、少しくらい。わたしには今しか時間がないんだから」
「そうなることを決めたのはあなた自身」
「それはそうだけど……」
「それに、このままあなたがここにいると、あなた自身にも筆舌に尽くし難い災厄が降りかかる」
「え?」
 長門がそこまで言うとは珍しい。いったい何が起こるって……考えるまでもないようだ。その災厄とやらは、すぐに姿を現した。
「あ・さ・く・ら・さん」
「え?」
 朝倉の背後、俺の位置からならその『災厄』とやらの姿はしっかり見えている。確かにこれは、朝倉にとって形容し難い災難であることは間違いない。
 ポンッと肩を叩かれた朝倉が振り向けば、よくあるイタズラで振り向いた相手の頬に人差し指で突いたりするじゃないか。そんな古典的な真似を、よどみなくやるところはさすがと言いたい。
 喜緑さんが涼やかな笑みを浮かべて、その表情とは正反対にあらん限りの力を込めて、朝倉の肩をしっかり掴んでいらっしゃる。
「あ……えっと……お、お久しぶり」
「ご機嫌麗しく。でも朝倉さん、あなたは本来、この時間軸に存在しない方ではございませんか? あなたがここにいらっしゃるのは何かと不都合が生じますことは、重々承知なさってますでしょう? それなのにこんなところで、いったい何をなさっているのかしら。わざわざ有機情報を伴い時間跳躍を行ってまで」
「え? ちょ、ちょっと待って。それはだって、」
「お話は、あとでゆっくりお聞かせください。では、参りましょう」
「えぇ〜っ! ちょっ、まっ……いやあぁ〜っ」
 まったく、ここは病院だって言うのに騒がしいヤツだな。だがこれで、朝比奈さん(大)が朝倉を迎えに来るまで、あいつが誰かに姿を見られることはなさそうだ。
 俺が安堵とも虚脱ともとれる溜息をこぼしていると、長門が無言で立ち上がり、朝倉を連れ去った喜緑さんの後を追うように歩き出した。
「帰るのか」
「憂うべき事態は終わったから」
 立ち止まることなく長門は答える。おまえがそう言うのなら、そうなんだろうが……。
「朝倉のことは?」
「…………」
 その問いかけに、長門は音もなく振り返る。
 つくづく、日本語ってのは便利なものだと思う。たった一言でこちらの言いたいことを伝えられるからな。たとえそこに言いにくいことが含まれていても、言葉の中にある意味を察してくれと暗に込めることもできる。
 それを、長門ができるのかどうか解らない。曖昧な言語での伝達が苦手と何度も言ってるようなヤツだ。だから俺が知りたい質問に見当違いなことを答えてくれても、それは仕方がない。
「朝倉涼子は喜緑江美里の監視の下、朝比奈みくるの異時間同位体が迎えに来るときまで拘束される」
「拘束ってのは、穏やかじゃないな」
「保護、と言い換えてもいい」
「そっちの表現が適切っぽいな」
 そのことは、長門が改めて言うまでもなく解っていることだ。俺が聞きたかったのはそんな話ではないが、聞き方がそう答えられても仕方がないものだから、その返答にこれ以上、何かを言うつもりはない。
「……例え、未来で何が起こるのかを知っていても」
 ぽつりと、長門の方からそう言ってきた。
「それは起こる出来事を見るに過ぎない。そこにある個々人の思惑を知ることは、その人本人にしかできない」
「うん?」
「わたしは知っていた。けれど、何も知らなかった」
 それが、朝倉が何故行動を起こしたのかという本当の理由のことを指しているのは、すぐにわかった。
 長門は四年前の七夕の日、俺が訪ねた時点で、それまで俺と過ごしていた長門自身の記憶はあるはずだ。そして何が起きたのかも解っているに違いない。ただ、どうして朝倉がそんな行動を起こしたのか、その本当の理由までは……長門も知らなかったんだろう。
「朝倉は俺に真実を解らせるために、」
「それもある」
 俺が皆まで言うまでもなく、長門は頷く。
「でも、それだけではない……とも思う」
「どういうことだ?」
「彼女はわたしのバックアップ。本来、わたしと彼女は相互協力の立場にある。わたしに不測の事態が生じた際には、彼女がわたしのサポートを行う。もし、彼女があのときを経ずに存在し続ければ、わたしは自身の不測の事態──これまで起こった雪山での遭難やわたし自身の暴走の際──には、彼女に協力を求めていただろう。彼女もそれに応じてくれる」
「それは……それで別にいいことなんじゃないのか?」
 もしあいつがまともに働いてくれるなら、もっと楽に簡単にことを収められていたんじゃないかと思う。いや、これまでの事件のいくつかは未然に防げていたのかもしれないとさえ思える。
「そうすることが合理的。でも、そうなればわたしはあなたたちを頼ることはない。そこに、これまで培ってきた信頼は存在しなくなる」
「……よくわからん」
「彼女は守る人。わたしは共に歩む人。朝倉涼子は、わたしが頼るべきは誰なのかを示すために、あえて行動を起こした。そう……思う」
「あいつがねぇ……そうなのか?」
「解らない。聞いても、彼女は何も応えない。なによりこれは、わたしの憶測でしかなく、真実であるとも限らない。でも……言葉ではなくとも信じ合い通じ合う気持ちがあることを、あなたと涼宮ハルヒは示し教えてくれた。それを信じようと思う」
「そうかい」
「そう」
 頷く長門に、俺は何も言うべき言葉はない。そう思う気持ちがあるのなら、それでいいんだと思う。
「また、明日」
 珍しく別れの言葉を残して、長門は喜緑さんと、喜緑さんに連れ去られた朝倉を追うように病院から去っていった。


「ひどいじゃありませんか! いくらなんでもあんまりなのです。それは充分な裏切り行為です!」
「うん、そうだね。申し開きもないよ。有り体な謝罪の言葉しか思い浮かばないほど、本当に申し訳ないと思ってる」
「そ、それならそうで、なんでそんなニコニコしてるんですかっ! そんなの、ちっとも反省してないじゃないですか!」
 こっちもこっちで騒がしいことこの上ない。外の待合室から近かったから立ち寄ったから佐々木の様子を先に見に来てみれば、橘がかなりの剣幕で佐々木を怒鳴りつけている珍しい場面に遭遇した。
「元気そうだな」
「やあ、キョン。おかげさまでね、この通り橘さんに怒鳴られている。あのまま眠り続けていた方がよかったんじゃないかと思えるほどさ」
 そう言う佐々木は、けれどどこか楽しそうでもある。
「当たり前です。あたしは佐々木さんが佐々木さんだからこそ一緒にいるんです。別に涼宮さんになってもらいたいわけないのです。それなのに……んもーっ! あなたからも何か言ってください」
「俺が何を言えばいいんだ?」
 そんことは俺があれこれ言うことじゃない。そもそも俺が言うことはもう言ってるし、橘にも思うところがあるのなら、包み隠さずそれを言えばいいじゃないか。そういうのが友達ってもんじゃないのかね?
「じゃあ言います。やっぱりですね、あなたがいないとダメなんだと思うのです」
「はぁ?」
「能力云々の話だけではなくてですね、佐々木さん自身にもあなたは必要なのですよ。あたしでは、やっぱりそのぅ、いろいろと足りない部分がありますし、何よりあなたでなければ補えない部分があるのです。今回のことも、あなたでなければダメだったじゃありませんか」
「あのなぁ……」
 それは何だ、閉鎖空間で朝倉に言われたことを気にしてるのか? あのとき、あそこで佐々木に近付くことができたのは、朝倉の言うとおり俺だけだったのかもしれないが、だからと言ってそれが今後もずっとそうだとは限らないじゃないか。
「やめておきなよ、橘さん。そんな理由でキョンが考えを改めるとは思えないし、何より不毛だ」
「でも」
「キョン、キミはああ言ってくれたがね。でも今の僕も僕であることに違いない。嘘も言い続ければ真実になると言うだろう? これもまた、僕の本来の姿だ」
 そう言って、佐々木は何故か溜息を吐いた。
「キミが言うように、僕は僕だった。他の誰かにはならないし、僕が僕自身を否定することもできない。だから、僕は僕のままで在り続けるしかない。それが例え、キミが側にいてくれなくともね」
「俺はここにいるだろ」
「そういう話ではなく、気持ちの話なのだよ。キミは僕にとって居心地のいい存在だった。だから僕はキミから与えられることを望んでいた。でも涼宮さんはそうではなかった。そしてキミも与える人ではない。その時点で道は分かれてしまったんだろうね。キミはキミの道を歩むし、僕は僕一人の力で歩んでいかなければならない」
「あー……なんというか」
 あまりにも抽象的な意見で、佐々木が何を言わんとしているのかイマイチ解らない。ただ、これは俺への説明でもなければ感謝の言葉でもなく、佐々木自身の決意表明みたいなもんなのかな、と思う。
「道がどうのと言うのなら、それがなんで他と交わらない一本道なんだ? 他の道と交わることだってあるかもしれないし、そういう道がないなら作ればいいように思うが」
 それが佐々木の言葉に対して、どれだけ的を射たとなのか解らないが、俺は普通にそう思う。その言葉を受けて、佐々木は不意を突かれたように口を閉ざし、しばらくしてから、喉の奥を鳴らすように笑い声を漏らした。
「なるほど、確かにキミが言うことにも一理ある。道がないなら作ればいい、か。確かにその通りだ。キミはつくづく、面白いな」
「そうか?」
「そうさ」
 ひとしきり笑いを噛み締めた後、佐々木はふと笑みの色彩を変えてみせた。
「……ありがとう、キョン。キミはやはり、僕にとって掛け替えのない親友なのだろう。ただ、今後もそうで在り続けるかは保障の限りではないがね」
「だろうな」
 人の気持ちほど、永久不変で変わらないと保障できないものはない。いい方か、あるいは悪い方のどちらかへ必ず転ぶもんだと思う。でなけりゃ佐々木はここに戻って来なかっただろうし、俺の周りにいる奴らも、俺自身も、変わりはしない。
「そうだね。確かにその通りだ。ただね、キョン。キミがいつまでもここにいるのは、親友としてどうかと思う。僕よりも気に掛けている相手はいるだろう?」
「別に何も気に掛けちゃいないが」
「キミたちならそうかもしれないが、でもそれでも不安になることはあるだろう。人は気持ちで繋がることができる。でもね、その繋がりは弛むこともある。その弛みを取り除くのが言葉なのではないかな。だから、人には言葉も必要なのさ」
 佐々木が何を言わんとしているのか推し量るには材料が足りてない……気がする。ただ、要約すれば「とっととハルヒのところへ行け」と言ってるんだろう。しかもそれは、どうやら俺と佐々木の友情を左右するような代物らしい。
 そこまで言われたら、退散するしかない。
「あたし、諦めません。あなたはやっぱり必要なのです」
 佐々木に言われて部屋を出て行こうとする俺に向かって、橘がそんなことを言ってきた。おまえはまだそんなことを言うのかと呆れ果てちまう。
「諦めないのは勝手だが、何でおまえは別の考え方ができないんだ?」
「え?」
「もしおまえが言うように佐々木が俺を必要としているように見えたなら、どうしておまえ自身が俺よりも佐々木に必要とされる存在になろうとしないんだ?」
「そんなこと、できるわけが……」
「やってみなくちゃ解らないと思うけどな。これからは、俺よりもおまえの方が佐々木の側にいる時間はあるだろ」
「そんなこと、解りません」
「確かに解らないけどさ、だから何がどうなるかも解らないだろ」
「んむ〜……っ」
 犬が威嚇するようなうなり声を出すなよ。そんな睨まれて唸られても、おまえにあれこれ言われて「はい、わかりました」と首を縦に振るわけないだろ。
「あたし、それでもやっぱり諦めませんからっ!」
 結局、何を言っても平行線ならこれ以上言葉を重ねたところで変わらない。ヤケクソ気味に叫ぶ橘の怒鳴り声を後目に、俺は嘆息混じりに廊下へと進みでた──。
「上手くことを収めたようだな」
「──────」
 ──ところで、壁により掛かっている藤原と、所在なげに立ちつくしている九曜の二人に遭遇した。おまえらは何だ、こんなところにいないで中に入ればいいじゃないか。
「別に馴れ合うつもりはない」
「そうかよ」
 それならそうで勝手にすればいいさ。自分から離れようとするヤツを引き留めようと、俺も思わない。よく言うだろ、来るモノ拒まず去る者追わずってな。そもそも、こいつらがどうしようが、俺が引き留める謂われもない。
「あんたがやったことは、結局何も変わらない。元の木阿弥だ」
「ああ、そうかい」
「あんたもバカなヤツだ。上手くすれば今回のことですべてにケリが着いたかも知れないのにな。厄介で面倒な事柄からすべて解放されるというのに、そうしなかったのは愚かとしか言えない」
「それはつまり、おまえの提案に乗っからなかった俺への愚痴か」
「さぁな」
「なら聞くが、もしおまえの提案に乗っかって、俺が佐々木よりもハルヒを優先させたとして、それでもおまえはそうしたか?」
「ふん、絶たれた未来の出来事なんぞを論議したところで意味はない」
 などと藤原は言い捨てるが、何故だろうな、そんな台詞はごまかしにしか聞こえない。今はこいつと腹の探り合いをする気分じゃないんだ。
「おまえは、これから起こることを知ってるんじゃないのか?」
「ひとつだけ教えてやろう。未来というのは終わることのない道路建設みたいなものなんだ。目の前に見える道は変えようがないが、遙か彼方の道はまだ造られていない。目的の場所は決まっていても、そこに至る道はどうとでも造れる」
「佐々木の受け売りかよ」
「あんたらの会話を流用してやったまでさ。どんな愚鈍なヤツでもわかるようにな」
 愚鈍とは俺のことを言ってるのか。相変わらずな胸くそ悪いヤツだ……が、今は食って掛かるような元気もない。俺のライフゲージはもうゼロに近いんだ。
「────────」
 そんな不毛な会話を続けている間、九曜は何も語らず身動きすら取らず、瀬戸の置物だってもう少し愛嬌があるだろうという佇まいのまま俺を見続けていた。何が言いたいのか、そもそも言いたいことがあるのかさえ解らん。
「九曜、これ連れてとっとと佐々木のところに顔を出してきたらどうだ」
「────────」
「なっ!? おっ、おい離せ! やめろっ!」
 俺には九曜の言いたいことがあまり理解できないが、どうやら九曜には俺の言葉が解るらしい。言いつけ通りに藤原の襟首を捻り上げ、そのまま梱包された手荷物を運ぶようにずるずると引っ張りながら、佐々木と橘がいる室内へ向かっていく。
 その間際、九曜が何かをぽつりと呟いたような気がする。俺の耳が正常に機能しているなら、たぶんあいつは「ありがとう」と言ったんだと思う。


「あれ?」
 ハルヒのいる病室のドアを開けると、そこにはにこやかな笑みを浮かべて古泉が待っていた。もちろん朝比奈さんもいるのだが、そっちはハルヒが横になっているベッドへ寄り添うように顔を伏せている。寝てるようだ。
「どうも、お疲れさまです」
「閉鎖空間の処理はいいのか」
「今日は来なくてと連絡が来ましてね。もともと《神人》のいない閉鎖空間でしたから、切り離しが成功して出現しても、すぐに消滅すると踏んでました。思うとおりになったようです」
 そういえばハルヒの閉鎖空間はそういう仕組みだったな。《神人》がいるから閉鎖空間があるのであって、《神人》がいなければ消える。そんなことを前に言ってたっけ。
「連絡してきたのは森さんか」
「ご明察の通りです」
「なんとなくな」
 今回の出来事であまり深く関わらず、それでも何か起きていると察して裏で暗躍してるのがいるとすれば、それはたぶん森さんだろう。昨日、俺が九曜に連れられて駅前の喫茶店を訪れたとき、そこに現れた森さんはそれであらかたのことを理解したに違いない。根拠なんて何もないが、あの人はそういうことができそうな気がする。
「今日に限って言えばここにいたほうがいいだろうとね、言われてしまいましたよ。まったく、あの人にはかないません」
 肩をすくめる古泉には悪いが、そもそも森さんと張り合えるだけのヤツが、この世にどれほどいるのか疑問だな。
 それが愚痴なのか呆れなのか感謝なのか判断しにくいが、そんな言葉を受け流して俺はハルヒに目を向けた。
「まだ寝てるのか」
「ええ」
 ぴくりとも動かずにいるハルヒは、俺が閉鎖空間の中に入り込む前と寸分違わず同じ姿のままで眠り続けていた。見ていれば今にも起き出しそうだが、このまま眠り続けたままなんじゃないかと思えなくもない様子だった。
「大丈夫なのか、これ」
「心配はいらないと思います。前とは違い、今は本当にただ眠っているだけでしょう。外部からの刺激ですぐに目覚めるはずですが、僕には眠り続けている涼宮さんを起こせるだけの度量はありませんね」
「俺だってねぇよ」
 ただ眠ってる分には害がないんだ。起きれば口やかましく騒ぎ出すに決まってる。わざわざ平穏な一時を自らの手でぶち破る必要なんてないし、起きるまで黙って大人しくしてるのが賢明な判断ってヤツだ。ハルヒの寝顔を見ていると、つくづくそう思う。
 起きるまでどのくらいの時間が掛かるかしらないが、突っ立ってるのも足が疲れる。座っておこう……と言っても、椅子のひとつには古泉が座っており、もうひとつには朝比奈さんが心癒す愛くるしい寝顔を浮かべて座っていらっしゃる。もう空いている椅子はないので突っ立ってるしかないわけだが……うぅむ。
「少し落ち着いたらどうです?」
「落ち着いてるじゃないか」
「そういう割りには、所在なげにしていますね。まるで冬眠から覚めたばかりのクマみたいじゃありませんか」
「座る場所がないんだ」
「ああ、なるほど」
 答えて、古泉はそのまま口を閉ざした……って、この野郎。そこまで言ったなら、席を譲るくらいの気遣いを見せやがれ。
「あなたの落ち着かない理由を当てて見せましょうか」
「別にハルヒのことを心配してるわけじゃない」
「でしょうね」
「じゃあ何だって言うんだ」
「そうですね……」
 古泉はこめかみの辺りを指で突きながら目を閉じて、考える素振りを見せた。
「自分の判断の正確さに思い悩んでいる……といったところでしょうか?」
 言われて、俺はピーナッツを喉につまらせたみたいな表情を浮かべたに違いない。
「よく解ったな」
「お忘れかもしれませんが、僕はこれでも超能力者なんですよ」
「ああ、閉鎖空間でしか能力を発揮できない、微妙なことこの上ない超能力者だったな」
「いやあ……そこまで的確に言われてしまいますと、返す言葉もありませんね」
 事実そうなのだから他に言いようがないだろう。そんなことよりも、だ。
「おまえはどう思う?」
「どう、とは?」
「ここに来る前に、あちこちから言われたんだ。納得できないだのバカだのと。ほっとけ、とも思うんだが、そこまで言われると自信をなくすもんだな」
「気にすることはないでしょう」
 と、古泉はあっさりと寸分も迷わずに言い返してきた。
「それを決めるのは当事者たちではありませんよ。後の人たちがそれを決めればいいだけの話です。これまでの歴史を振り返ればおのずと解ることではありませんか。どれほど優れた策であろうとそのときに実行した当時は馬鹿にされていたかもしれない。逆に、明かな愚作であっても実行当時は他に類を見ない画期的な策と思われていたかもしれない。どちらであれ、決断を下す者は、そのときに自分ができる最適な手段を選んだに違いありません」
「そういうもんか」
「歴史に名を残す聖人も、産まれながらにそうだったわけではありません。後の世の人がそれを決めているにすぎませんよ。涼宮さんのことに関して言えば、僕を含め朝比奈さんも長門さんもあなたに一任している。佐々木さんで言えば、橘京子や周防九曜、藤原たちもあなたの決断に任せているわけです。あなたの決断に従うしかない。しかし、個人それぞれにも思惑がある。そこで不平や不満を感じて愚痴をこぼすのは当たり前でしょう」
「それを聞くのも俺の役目って言うのか」
 まったく、胃に穴が空きそうな話だ。そこまで面倒見のいい、教育番組のお兄さんみたいなタイプじゃないだろう、俺は。どっちかって言うと古泉こそ適役じゃないか。
「立場を変われと言うのならやぶさかではありませんが……それならばと僕が快く引き受けようとしても、あなたが易々と交代してくれるとは思えません」
 ヤケに自信たっぷりじゃないか。そこまで言われると、むしろ譲りたくもなる。
「それでもあなたは自分の立場を僕に──僕でなくとも他の誰かに──譲ろうとはしないでしょう。賭けてもいい」
「その根拠は何なんだ」
「僕と変わるということは、閉鎖空間での《神人》退治もオプションで付いて来るということです。それでも変わりたいと思いますか?」
「……悔しいが納得できた」
 確かにそれは勘弁してもらいたな。あんな気の滅入る場所で、それこそ二十四時間いつ出現してもいいように臨戦態勢でいなけりゃならんよりは、面倒なことが起きなければのんびりできる今の方が、何百倍もマシってもんだ。
「確かにおまえと役割を交代するのだけは勘弁だな」
「ご理解いただけて何よりです。さて」
 ムカつくくらいの爽やかな笑顔を見せる古泉に、ただただ嘆息するしかない──と、古泉は不意に立ち上がった。
「あなたを相手に白星を勝ち取ったところで、僕もこれでお暇させていただきましょう」
「ハルヒが起きるまでいればいいじゃないか」
「そうすべきかもしれませんが、それはそれで野暮というものではありませんか」
「何が?」
「僕はこれでも、涼宮さんの精神分析にかけてはあなたより一日の長がある、と自負しています。そういう理由ですよ。では、また」
 そう言って出て行く古泉だが、ハルヒが目を覚ます前に帰ることと、精神分析と、野暮って言葉がどうにもイコールで結びつかない。
 ま、だからと言って呼び止める理由もないわけで、帰るというのなら「おつかれさん」の一言で送り出すしかない。これで席がひとつ空いたわけで、散々突っ立ってた俺はようやく腰を落ち着けることができた。
 それにしても、ハルヒはいつになったら起きるんだ? こいつはこんなに眠りが深かったのか。一分一秒さえ無駄にしないヤツだから、短時間睡眠で浅い眠りしかできないヤツって先入観があったんだけどな。
 それとも、この眠りの原因が原因なだけに、なかなか目覚めないんだろうか。
 こんなとき、うちの妹がいればいいのかもしれん。そこいらの目覚まし時計なんぞとは比べものにならないほど、きっちりたたき起こしてくれる。毎朝俺を起こしに来るそのままのノリで、ハルヒも起こすだろうな。
「…………あ……」
 そんなことを考えながらぼんやりハルヒの寝顔を見ていると、長いまつげがぴくりと震え、ゆっくりと目を開いた。いきなり飛び起きるような真似はせず、その眼差しはまだ寝惚けているのが焦点が合ってないようにも思える。五秒くらいは天井を眺め、それから首を巡らせて俺を見るや否や目を見開き……何か言うかと思えば何も言わず、首の向きを正してから、片手で顔を押さえた。
「……なにこれ……」
「気分はどうだ?」
「サイアク」
 嘆息混じりに言い捨て、ハルヒはゆっくり上半身を起こした。
「ここどこ? なんであんたがいるの」
「ここは病院だ。海行く途中に寝こけて、それからまったく起きないからって古泉たちが担ぎ込んだらしい。俺がここにいるのは、そんなはた迷惑な連絡が来たからだ」
「寝こけて……? ああ……寝てたのね、あたし。じゃあ……あれは夢……」
 夢、ねぇ。どうやら寝起きのハルヒがもらした「サイアク」とやらは、夢の出来事を指しているらしい。
「どんな夢見てたんだ?」
 なんて聞いたら、それはそれは物凄い眼力を込めて睨まれた。
「なんであんたに、あたしが見ていた夢を細部に至るまで詳細かつ懇切丁寧に説明しなきゃなんないのよ」
 誰もそこまで話せとは言ってないだろ。一気に捲し立てて、何をそんなにカリカリしてんだ、こいつは? もしかして寝起きはいつもこうなのか?
「それよりもあんた、佐々木さんとアレコレ約束してたんじゃないの? そっちはどうしたのよ」
「そっちも済ませてきた」
「済ませて来たの? ……なんだ、それでか」
「何の話だ?」
「キョン」
「何だよ」
「一発、殴らせなさい」
 ………………。
「何かこう、無性にあんたをぶっ飛ばしてやりたくなったわ。何でかしら? 無駄に寝こけて体力が有り余ってるのかしらね?」
「まだ夢の中を彷徨ってんじゃないだろうな。なんで俺がおまえに殴られなくちゃならないんだ? ふざけんなっ!」
「あーもう! ウダウダとうっさいっ! 男だったら覚悟決めなさいよっ!」
 いったいそれは何の覚悟だ!? ワケも解らん理由で殴らせろと言われて、はいどうぞと頬を突き出すのはどこぞの聖人だけで充分だ。俺はそこまで人間できちゃいないし、そんな真似されて喜ぶような性癖の持ち合わせもないっ!
「そんなに体力有り余ってるなら、もっと健全にスポーツで汗でも流して来ればいいじゃないか。おまえのストレス発散で殴られちゃたまったもんじゃない」
「格闘技だって立派なスポーツよ!」
「一方的に殴られて、それのどこが格闘技だ!」
「うっさいわねっ! いいからとにかく一発殴らせなさいっ!」
「あああああああのーっ! けけけ、ケンカはダメれひゅ〜っ!」
 俺とハルヒの言い争いがほどよくヒートアップしてきた頃合いに、割ってはいる舌っ足らずプラス噛みまくりな声。見れば朝比奈さんが、顔を真っ赤にあくせくしている。そういえば寝てるハルヒのベッドに突っ伏してたな。すっかり忘れてた。
「あ、あのあの、なんで二人ケンカしてるんですかぁ? 涼宮さん眠ってて、あたしもそのぅ……寝ちゃって……えっとその、だからんと、ケンカはダメですーっ」
 あまりにも必死に仲裁してくる朝比奈さんの態度を見て、なんだか毒気が抜かれる思いを覚える。それはハルヒも同じなのだろう、キョトンとした眼差しを朝比奈さんに向けたかと思えば、これ見よがしなため息を吐いた。
「あーもーいいわ。みくるちゃんのせいで、すっかり興醒めよ。この溜まった鬱憤、どうして……あ、そうだわ。明日こそみんなで海に行きましょう!」
 ……こいつは何を言い出してるんだ? 寝続けて、起きたと思えば海に行く? そんなこと、できるわけないだろ。
「今日と明日は検査くらいするんじゃないのか? 入院だろ」
「別にあんたと違って階段から転げ落ちたわけじゃないんだから、そんなことしなくたって平気よ。病院だって、健康な人間を泊めておくほど部屋が空いてるわけじゃないんだし」
「それを判断するのが医者だろ。とりあえず医者を呼んでくる」
「あ、それならあたしが」
 俺が席を立とうとするのを、朝比奈さんが立ち上がる。そんな医者を呼びに行くだけだから、何も朝比奈さんに行ってもらうまでもないのだが、かき消えそうな声で「あたしじゃ止めておくことできないですし……」などと言われて納得した。今のハルヒなら、朝比奈さんを唆すか振り切るかしてでも病室から逃げ出しそうだ。
 とかく、じっとしていることができないヤツである。
「あ〜あ」
 ごろん、とベッドの上に寝そべり、ハルヒは退屈この上ないという溜息を吐いた。こういうとき、次にどんなアクションを起こすのかは二者択一である。打ち上げ直後のペットボトルロケットのように素っ飛ぶように動きだすか、あるいは──。
「だいたいあんたね、人の見舞いを事のついでみたいにしてんじゃないわよ。何を置いても最優先で駆けつけるべきでしょ!」
 ──こうやって俺に愚痴を言い出すか、だ。
「だからこうして来てやったじゃないか」
「今日だってあんた、海に来るのも遅れることになってたじゃない。他に用事があるなら、それは仕方ないけど。でも遅れて来るって、何それ? 来るなら時間ぴったり、来られないなら来ないにしなさいよ。待ってるのなんて退屈じゃない」
「わかった、わかった。明日はちゃんと最初から付き合ってやる」
「何よ、その『やれやれ仕方ないな』って態度は?」
「そんなこと言ってないだろ」
「ったく……いいこと、キョン。もうね、待つのが退屈だって嫌ってほど身にしみたわ。今度からあんたなんて待ってないんだからね」
「だから、それならペースを落としてくれ」
「冗談じゃないわ。なんであたしがあんたのペースに合わせないといけないのよ。そんなこと言うくらいなら、ん〜……ちょっとキョン、あんた後ろ向きなさいよ」
「何だよ?」
「いいから、はぁ〜やーくっ!」
「ったく」
 このまま後ろを向いた隙に窓から飛び降りそうなハルヒだが、さすがにそこまではやらないだろう。何をたくらんでいるのか知らないが、かといって言われたとおりにしないと暴れ出しそうな雰囲気である。
 警戒しつつも後ろを向けば、その途端にドスッと重いものを押しつけられた。俺の背にハルヒが乗っかってきたと理解したのは、首もとにしっかり腕を巻き付かせて来た後だった。
「何してんだ、おい!?」
「こうやっとけば、あんたが自分のペースで動けるでしょ。あたしも、自分で動かずにラクできていいわ。そうね、今はとりあえず医者のとこにでも連れていきなさい。みくるちゃんったら、呼んで来るなんて言って戻ってこないんだもの。いつまでも待ってらんないわ」
「あのなぁ……」
「何よ、まだ文句でもあんの? 重いとか言ったら、この首、捻り千切るわよ?」
 別に重いとまでは言わないが、おまえに対する文句ならアレクサンドリア図書館の蔵書量にひけを取らないくらいため込んでるぞ。聞きたいって言うのなら、背中にへばりついているおまえを引っぺがして、今から言い聞かせてやってもいいくらいだ。
 でもな。
 どうせ聞く気はないんだろ? この苦しいくらいに締め付けているおまえの腕は、振り解こうにも振り解けなさそうだ。
「……やれやれ」
 振り解けないなら仕方がない。どうせ俺には選択権なんてないんだろう。それならそれでいいさ。こいつが飽きて離れるまで、こうしておくしかなさそうだ。
「やっぱりあんた、そう言うのね」
「何の話だ?」
「こっちの話」
 何が楽しいのか知らないが、妙に嬉々とした声音でハルヒはしがみついてくる。
 どうやらハルヒが俺から離れることは……何故だろう、当分先になりそうな予感がする。それも、確信に近い予感だ。
 それが嬉しいか嫌かと問われれば、迷い無く「迷惑だ」と答えるだろう。
 しかしまぁ。
 結局のところ、俺にも問題があるのかもしれないな、とも思う。
 強引にでもハルヒを引き離そうとしない俺にもね。