【Respect redo】吉村美代子の憂鬱 七章

「うぅ〜……ったたた……」
 あ〜、何か窓の外が明るいです。気がつけばもう、夜が明けて悪夢の一夜が過ぎ去ったみたいですね。
 まったく昨晩は散々でした。世の中では、酒の席では酔った者勝ちとか言うらしいですが、どうやらそれは事実のようです。
 ただでさえテンションの高い橘さんは、それはそれは見ているこっちがドン引きするくらいのハイテンションでケラケラと笑いながら絡んでくるし、一方の佐々木さんは愛しい恋人が逃げた直後に可愛がっていたペットが老衰で死んじゃったみたいな涙を流しながら、わたしにべったり抱きついてすり寄って来るわけですよ。
 それを朝倉さんが必死になだめようとしてくれたのが唯一の救いでしたが、それをあっさりと反故にする喜緑さんの底意地の悪さにうんざりです。次から次に取り出す酒瓶は、瞬く間にダースを越えて、酔いつぶれた藤原さんの顔には、それはそれは心に一生ものの傷が付きそうなステキなラクガキをされちゃってました。
 そんな中で唯一平和だったのは、周防さんでしょう。とっとと寝ちゃったものだから誰にもイタズラされることなく、至福の寝顔を見せていました。ところで、寝言なのかどうなのか知りませんけれど、いつもの平坦で間延びするような声音で「チベットでラマの毛皮がネクタイに」とか言ってたんですけど、いったいどんな夢を見ていたのか謎すぎます。理解できる方がいらっしゃいましたら、是非ともご一報いただきたく思う次第です。
「はぁ〜……」
 窓辺から見える外の日差しは、まだ本当に日が昇ったばかりという感じでした。時計を見れば、朝の六時頃でしょうか。他のみなさんは……ええっと、年頃の乙女とは思えない姿で眠り続けています。もしここで優しさを見せるなら、何も見なかったことにして立ち去るべきなのかもしれません。
 それにしても酒臭いです……。
 寝不足というのもありましたが、それでも昨晩は未成年にはあるまじき酒盛りからスタートして、早い時間に寝てしまいました。朝の早い今ではすっかり眠気も取れて、二度寝する気にもなりません。おまけに、お酒の臭いもキツいですしね。
 なので。
 ぱっと見たところ、全員が眠りこけている今のこのチャンスを最大限に活かすべきだと、わたしは思うわけですよ。何をするって、それこそ邪魔されず、自然の天然温泉で骨を休めるチャンスじゃないですか。
 思い立ったら即行動、というわけで、足音を忍ばせて部屋を出たわたしは、かなりウキウキ気分で温泉に向かったわけです。だってこの旅行で、唯一安心してのんびりできるリラックス空間が、今のこの時の温泉じゃないですか。
 脱衣所でお酒の臭いが染み付いた浴衣を脱ぎ捨て、タオルを片手にれっつごー。ようやくこの広い温泉で、足腰伸ばしてゆっくりできそうで……。
「うん?」
「……え?」
 湯船に近付くと見える影。近付くわたしの足音に気付いたんでしょう、振り向かれた途端に目が合えば、そこにいるのは藤原さんに違いなく、ええっとつまりこれは……。
「き……っ」
「うおわああっ!」
 って、わたしより先に、なんで藤原さんが悲鳴を上げるんですか。
「なっ、何をやってるんだあんた!? とっ、年頃の娘が何という無防備な格好で、しかも人前で裸になるなんて、もってのほかだ! これだから過去の現地民は野蛮だと……ああ、見てないぞ。僕は何も見てない」
 こ、これはまた、なんというピュアボーイ。
 そりゃあ、隠すところはタオルで隠してますから何も見られてないと思いますけれど、それでもタオル一枚の姿なんですよ、わたし。そんなあられもない格好を見られて恥ずかしいのはこっちのハズなのに、藤原さんの慌てっぷりに毒気を抜かれる思いです。
 とりあえず落ち着けと言ってあげたい。
「あ、あのぅ……ここ、混浴ですから、そこまで騒がずとも……」
「混浴だと!? まったく信じられん。この時代にはそんなものが、まだまかり通っているのか」
 この時代だろうが何だろうが、混浴なんて昔からあるじゃないですか。
「そんなに嫌なら、出てってください」
「ふん、どうして僕の方から出て行かなければならないんだ。ノコノコ入ってきたのはそっちだろう。そっちが出て行くのが道理というものだ」
「わたし、来たばかりです。さっきから入ってたんですから、とっとと出て行けです」
「僕だって来たばかりだ。そもそもあんたに指図される謂われなどあるものか」
 なんという我が侭。橘さんじゃなくたって、張り倒したくなりますね……。
「わたしだって藤原さんに指図される謂われなんてありません」
 出て行かないなら、ここは混浴ですし、別に構いませんけど。少しでもイヤらしい目を向けようものなら、二度と光を拝めないようにしてあげますから。
「入るのか、あんた!?」
「当たり前じゃないですか。お風呂に入りに来たんですもの」
「信じられん」
 何ですかそれは。それじゃまるで、わたしが変な人みたいじゃないですか。まったく男の人なのに肝が据わってませんね。こういうときは、妙に意識しちゃうと恥ずかしさ倍増なんですから、何事にも動じないぞっていう気概を見せてもらいたいものです。
「まったく、あんたも変な女だ。男が入ってる風呂に堂々と入ってくるわ、佐々木たちなんぞとツルんでいるわ、まったく理解できん」
 どうしてわたしが変な女呼ばわりされなければならないのか、我が身を省みて考えてもらいたいところです。
 そういう藤原さんだって、橘さんにアゴでこき使われても付き合ってるじゃないですか。あなたの方がオカシイですよ。って、そういえば橘さんが妙なこと言ってましたね。
「藤原さんって、未来人なんですか?」
「ふん、だから何だ」
 あれ、否定しませんよこの人。
「え、本当にそうなんですか?」
「それがどうした。そのことを知ったからと、あんたにどんな利点があるんだ?」
 うわ〜、何でしょうこの態度。ムカつくったらありゃしません。
「じゃあ、これから起こることもいろいろ知ってるんですか? たとえば……ギャンブル事で絶対負けないとか」
「ふん、そんなくだらんことは禁則にすらなりゃしない」
「明日の天気もバッチリわかるとか」
「禁則だ」
「もしかして、わたしの将来がどうなるかとかもご存じだったり?」
「禁則だ」
「…………なんですか、それ?」
「教えることはできない、という意味だ。もっとも、禁則でなくとも、何一つ教えてやるつもりもないがな」
 何ですかそれは。上手いこと言って、結局は本当に未来人らしい未来的な情報なんて何も与えてくれないなんて、胡散臭いったらないですよ。
「じゃあ、どんなことなら話せるんですか」
「何もないな」
 こ、この人は……。湯船に沈めてあげちゃおうかしら?
 そもそも、人と会話を続けようとしない態度はどうかと思いますよ? わたしの方も、降った話題が橘さんからの与太話というのもどうかと思いますが、それでも多少なりとも食い付いてくれたっていいじゃないですか。
「ええい、やはり落ち着かん」
 ざっぱーんと、藤原さんが立ち上がる音が聞こえました。ええ、見せるつもりも見るつもりもありませんので、同じ湯船に浸かっているとは言っても、藤原さんに背中を向けていますもの。
「あれ? もう上がっちゃうんですか」
「当たり前だ!」
 それはそれは何よりです。これでわたしもゆっくりのんびりお風呂に浸かれると言うもので……。
「うおわあっ!」
「へ?」
 またもや聞こえた藤原さんの悲鳴に、ついつい振り返れば……あら、周防さんじゃありませんか。ばったり藤原さんとご対面ですね。
「──────」
「ちょっ、まっ、待て! 僕は何も、」
 周防さん、表情をぴくりとも動かさずに睨め付け、湯船の中で立ち上がっている藤原さんの頭を鷲づかみにするなり、その細身の腕からは想像も付かないような腕力で湯船の中に押し込んじゃいましたよ!?
「がぼげぼがぼががっ!」
 こ、これはマズイ。かなりまずいです。いくらなんでも、湯船で溺死は藤原さんにピッタリすぎて笑えないです。
「ちょっ、ちょっと周防さん! それはまずいですよぅ!」
「──────痴漢────」
「いえあの、ここ混浴ですから……あああああ、誰かーっ! ちょっと誰か来てくださーいっ!」
 などと、わたしが必死になって叫んでも、誰一人として現れないなんてひどいです。もしやそれは、ピンチに陥ってるのが藤原さんだから、という理由が多分に含まれているんでしょうか?
 こうなってはわたしが周防さんを食い止めなければならないわけで、どうにかこうにか藤原さんの溺死は免れました。
 もっとも、意識薄弱状態だったのを湯船から引っ張り出し、脱衣所に放り出すまでをわたしがやらなくちゃならなかったわけで、いい迷惑だったのは言うまでもありません。おまけに見たくないものまで見る羽目になって、もう何て言うか……ああ、早く忘れたい。
 どうしてこう、ようやくのんびりできると思っていたのにこんなことになっちゃうんでしょうか? 神社でお祓いでもしてもらった方がいいのかもしれませんね、わたし。
「──────」
 藤原さんに代わってわたしの隣に腰を落ち着けているのは、言うまでもなく周防さんです。なんだか周防さんとお風呂での遭遇率が高いような気がしますが、もしかしてお風呂好きなんでしょうか?
 いろいろ聞いてみたい気もしますが、心なしか、不機嫌そうに見えるんですよね。いえ、表面的にはこれまでと大差ありませんよ? 大差はないんですが……何と言いますか、他の人だってどこか近寄りがたい雰囲気を身にまとってるときってあるじゃないですか。そういう感じなんです、今の周防さん。
 だから声を掛けづらいんですよね。その不機嫌の理由は、もしかして藤原さんを仕留め損なったのが原因なんでしょうか。
「あ、あのぅ……周防さん?」
 警戒する猫の気を引くような声音でにじり寄ってみれば、一定距離に踏み込んだ途端にそっぽを向かれちゃいました。んもーっ、何なんでしょう、このツンツンした態度は。
「どうしちゃったんですか、いったい?」
「────あなたは────わたしの──……話を、聞いて────くれない────」
「え?」
 何をおっしゃいますか。そんな伸びきったカセットテープの音声みたいなゆったりした言葉でも、ちゃぁ〜んと聞いてますよ。
 なのに話を聞いてくれないだなんて、こっちこそいじけちゃいますよ。
「昨日────夜────に──……」
 夜? 昨日の夜って、喜緑さんの奸計にハマって突発的に行われた酒盛りのときの話ですか? あのときは周防さん、さっさと寝ちゃってたじゃ……うん? あれ、でもその前にお風呂場で周防さんに……ああああ、思い出しました。思い出しましたけど……うぅ〜ん、なんかそのときのことも思い出したくないんですけど……でも、そこまで周防さんが本気となると、さすがにハッキリさせておかなくちゃダメなのかもしれません。
「あのですね、いいですか周防さん。わたし、女の子なんです。しかもまだ小学生です。そりゃ、ちょっとこう……体型の発育がよくて、親友の子に胸とか揉まれちゃったり……いえいえ、そんな話はどうでもいいんですけど、ともかく周防さんも女の子じゃないですか。いいですか、やはりですね、好きになるならステキな男性を見つけるのが一番だと思うんです。ええ、ええ、周防さんの趣味にアレコレ文句を言うつもりはありませんけれど、少なくともわたしにはすでに想う人がいるわけでして、ですから」
「──────好き────」
「いや、ですから」
「────とは、何の────こと────?」
「…………えーっと?」
 あれあれ〜? 何やら話が噛み合ってないような気がしますよー。会話のキャッチボールができないのは、橘さんの専売特許だと思っていたんですが……もしかして、わたしもですか?
「ええっと、周防さん。ごめんなさい。改めて聞きますけど、昨晩のお風呂場でのお話とは、いったい何のことだったんでしょう?」
「──────」
 なんて改めて聞いてみたら、周防さん、機嫌がまだ直ってないんでしょうか。つーんとそっぽを向いちゃいました。
「や、待ってください、周防さん。人同士のコミュニケーションは勘違いとすれ違いが七割なんです。だから世の中には争い事が絶えないんだと思います。でもですね、そこはほら、慈愛と謝罪によって許し合えるところが素晴らしいものだと、わたしは思うんですよ。周防さんもそう思いません? んー……ですから、ね? 機嫌直しましょうよー。あとで髪も洗ってあげますから〜」
「──────そう────」
 肩を揉んで頭をナデナデしてあげたら、なんとか機嫌を直してくれました。
「それで、話と言うのは?」
「──わたしの────こと────」
「うぅ〜ん?」
 周防さんのことですか? 今さら改まって自分のことを話すって……何やら嫌な予感がビンビンします。脳裏に過ぎるのは、橘さんや藤原さんの話なんですが、だとすればそれはええっと。
「もしや、宇宙人がどうのとかそういうお話なんでしょうか?」
「────そう────」
 どうやらわたしの読みも、まだまだ捨てたもんじゃないらしいです。
 ここからは、周防さんの話し言葉をそのまま再現すれば長いお話になってしまうのでかいつまんで説明するとですね──。
 自分は、大宇宙の遙か彼方に生息し拡散する広域情報生命体とやらが惑星表面に生息する有機生命体と意思の疎通を図るために作り出された存在であり、その目的は虚無から新たな情報を創造しうる力を観測するためとのことで、それがつまり佐々木さんのことなんじゃないかなーと思ってるらしいです。
 そんな話を聞かされたわたしは、果たしてどんなことが言えるでしょう。
「へ、へぇ……大変ですね」
 せいぜい、こんなもんですよ。
 いやだってほら、そうじゃありません? 他にどんなリアクションを取れとおっしゃるんですか。激しく同意したところで胡散臭いし、頭から否定しても聞く耳持たなさそうですし、だったらせめて、そこはかとなく同意するのが優しさってものじゃないですか。
「えーっと、じゃあ周防さん。その話はこれまでにして、取りあえず髪の毛洗いましょー」
「────わかった────」
 意見の対立に、真っ向から言い争ったって仕方がありません。ナイフの切っ先を向けられて、こっちもナイフの切っ先を突きつけたって互いに傷つくだけじゃありませんか。それならどちらかが妥協すべきであって、それができそうなのは、どうやらわたしの方みたいですもの。
 こう見えて、何気に周防さんって意地っ張りなとこありそうですし。
 だからあれこれと諭すようなことは言わず、さらりと別の話題に切り替えた方が賢い選択ってものじゃありませんか。
 周防さんも周防さんで、話すことを話して、ちゃんとわたしが聞いたことで満足したみたいですし、素直に湯船から上がって来ました。
 とりあえずわたしは、美容師というよりはトリマーのような気分で、べらぼうな量を誇る周防さんの髪の毛を洗ってあげることにしたわけです。
 でも、何なんでしょうね。橘さんといい、藤原さんといい、更には周防さんまで、どこかしら共通した認識を持ってるんですね。
 それなら……佐々木さんはどうなんでしょう? うーん、もしやこの後に、佐々木さんからも衝撃の告白とかされちゃうんですか?
 ……そう考えると、ますます憂鬱な気分になっちゃいますよ。ええ、本当に。


「今日はダウジングです!」
 日も昇り、太陽が正午を指し示すような時間帯になって橘さんが出した話がそれでした。ちなみにこの日の昼食は、結局藤原さんに車を出してもらってコンビニから適当に食材を調達して済ませました。最初っからこうしろと思ったのは、わたしだけじゃないはずで……訂正します。たぶん、わたしだけだと思います。
「ダウジングって」
 おにぎりセットのたくわんをカリコリさせながら、朝倉さんが虚空に視線を彷徨わせたりしています。
「あの、L字に曲げた針金の棒を二本持って歩くことを言ってるの?」
「それで正解と言えなくもないのですが、花丸を上げるには、ちょびっとダメダメなのです。どちらかといえば、ただの丸ですね」
 そこにどんな違いがあるのか知りませんが、もっと別なところで橘さんは疑問に思うことがないのでしょうか。
 わたしの記憶が確かなら、朝倉さんとは仲良くできない敵対関係にある立場だと、昨晩に言ってませんでしたっけ? それが今、何で同じ部屋で一緒に昼食を取っているんでしょうか。しかもそれがなんともまぁ、ナチュラルな状況になっているんですけれど。
 ……あまり気にしちゃいけないことなのかしら?
「そもそもダウジングとは、」
「棒や振り子などの装置で隠された物を見つける手法全般を指すことだね。振り子の場合はペンデュラム・ダウジング、朝倉さんが言ってるのはロッド・ダウジングと呼ばれるものだよ」
 佐々木さんがスラスラとダウジングについて説明してくれました。つまり、解りやすい日本語に直せば『宝探し』ってことなんですね。
 ところで、得意満面に説明しようとしていた橘さんがうらめしそうに佐々木さんを睨んでますよ。
「と、ともかく! 本日はそれを行います。むしろ、この温泉旅行に隠された真の目的はそれだったと言っても過言ではありません!」
 はいはい。
「ほっ、ホントなんですよ!」
「くだらん思いつきだろう」
「しゃっらーっぷ!」
 余計なツッコミを藤原さんが入れた途端、橘さんったら封も切ってない中身たぷたぷの2リットルペットボトルを顔面目がけて投げつけちゃいました。飲み物をそんな粗末に扱うなんて酷すぎます。
「そこまでおっしゃるのであれば仕方ありません。他にはない、この貴重な物件をご覧あれ」
 と言って、ノビた藤原さんを横に追いやってテーブルの上に広げたのは、色も褪せて古ぼけた一枚の紙でした。紙というところがまた、胡散臭さ倍増です。
「地図……ですか?」
 そうですね。喜緑さんがおっしゃるように、確かに地図に見えなくもありません。ありませんけれど、これまたなんとも……稚拙というか、ようやく文字を書けるようになった子供が、頑張って書いたような地図です。
「何を隠そう、あたしが書いた物です」
 これを今の橘さんが書いたというのであれば、一生隠し続けたほうがいいんじゃないでしょうか。高校生にもなってこのレベルの図しか書けないようであれば、それはそれは恥ずかしいと思います。
「違います! いくらなんでも、今のあたしが書いたわけじゃないのです!」
 それを聞いて安心しま……せん。あのですね、宝探しと最初に言っておいて、ここで出すのが自分で書いた地図とは、どういう了見ですか? さすがのわたしも怒りますよ。
「もう、吉村さんはもう少し思慮深くあってほしいのです。一を聞いて一しか理解できないのであれば、この情報社会、ガセネタを掴まされて赤っ恥を掻くことになってしまいますよ」
 あなたと知り合いだということで……いえ、何でもありません。
「それで、橘さんが書いたというこの地図が、いったい何だって言うんですか?」
「よくぞ聞いてくださいました」
 聞かないと、話が進みそうにないんですもの。聞かずに済むならそれでいいので、無理に話すこともないんですけど。
「是非、聞いてください」
 そんな目を血走らせなくても……。
「あたしがこの地図を書いたのは、かれこれ一〇年ほど昔のことなのです。その当時、この近辺を訪れていたあたしは、何か拾ったのです」
「何かって……何を拾ったんですか?」
「忘れました」
 ………………。
「や、落ち着いてください。その握ったラムネ瓶は、そっと元の場所に戻すことをオススメします。間違っても人様の頭上に振り下ろしてはいけないのです」
 やだなーそんなことしませんよー。今は。
「な、なんか吉村さん、ちと怖いのです……。ま、まぁともかく、それはけっこう、荷物になる代物だったのですよ。でも、それは当時七歳のあたしから見て大きなものだった気がします。なので、それをこの近辺に埋めておいて、大きくなってから取りに来ようと考えていたんだと思うのです。だからこうやって地図を残したわけですが」
 そんなことを言って、橘さんは当時七歳の自分が書いた地図をピッと指さして。
「どこのことか、これじゃさすがに解りません」
 それを自分で言いますか。
 改めて地図を見れば……ええと、どう言えばいいんでしょう? 目印となっているのが、大きな木と川と落ちてた空き缶というのが、これまたなんとも……。
 どれも目印になってないところが、さすがとしか言いようがありません。
「過去の自分が今のあたしにこうやってひとつの試練を授けるとは、なかなか深いものがあるのですねぇ」
 深いどころか、当時七歳とは言っても、目印にしたのが目印にもなってないという、自分の浅はかさを呪うべき場面ではないでしょうか。違いますか? そうですか。
「ともかく、この宝を是非とも皆様のお力で見つけていただきたいのです」
 ……すみません、ちょっとあれですけど、これだけは言わせてください。
 おまえは何を言ってるんだ?
「ですから吉村さん、瓶のサイズが昨晩の酒瓶になってるのは如何なものかと」
「だいたいですね、こんな地図にもなってない紙切れ一枚で、何がなんだか解らないものを探し出せだなんて、あなた正真正銘のアンポンタンですか?」
「アンポンタンだなんてとんでもない。あたしはいつだって真面目で正直な、みんなのアイドルですよ」
 こんなアイドルはイヤです。他の人たちだって、何をどうコメントしていいか困ってるじゃないですか。
「うん、いいよ」
「えぇっ!?」
 ちょっ、朝倉さん。あなたは少し、物事を深く考えてから、発言なり行動を起こしましょうよ。その場のノリだけで動くと、ロクなことありませんよ。
「そんなことないと思うよ。やらないよりもやった方がいいって言うじゃない」
「あらあら」
 そんな朝倉さんを見て、喜緑さんは楽しそうに笑ってますし。
「それで以前、一度失敗してらっしゃるのに、まだ懲りてないんですね」
 やっぱり失敗してるんじゃないですか。
「それに宝探しでしょ? 楽しそうじゃない」
 いや、それがちゃんとした宝なら、多少なりとも興味も沸くところですが、隠したのが七歳の橘さんですから。ど〜せロクなものじゃないと思うんですけど。
「どっちにしろ、今日は何の予定もなかったし。うん、暇だから手伝ってあげるわ」
「さすがは朝倉さんです。敵が送る塩を有り難く受け取るのもライバルの証。あたし、喜んで受け取っちゃいます」
 プライドがないんですか、あなたには。
「では、早速準備を整えて出発いたしましょう!」
 んもー。朝倉さんが余計なことを言うから、橘さんも俄然やる気になってるじゃないですか。後で泣いて帰ってきても、わたしは知りませんからね。
「ちゃんと夕飯までには、」
 って、ちょっと橘さん。なんでわたしの手を掴んでるんですか? わたしは「行きます」なんて一言も言ってませんよ?
「いいからほら、吉村さんもちゃきちゃき準備をしてきてください」
 橘さんに引っ張られ、準備しろとせっつかれても何をすればいいのか解りません。五円玉に糸を通しておけばいいんですか? どうして五十円玉じゃダメなんでしょう。もしや無くしたときにショックの度合いが十倍になるから、なんて理由だったりしませんよね? もしそうなら、なくしたときはわたしから橘さんに、飴玉でもプレゼントして慰めてあげますので安心してください。
「雨だね」
 わたしの準備なんてあるはずもなく、せめて浴衣から普段着に着替える程度です。当然、旅館の正面エントランスに到着するのも早かったわけですが、それよりも早いのは佐々木さんでした。
 わたしが来たことに気付いているのかいないのか、少なくともこちらをチラリとも見ずに空を見上げて呟きました。
 分厚い雲が空一面を覆い、ぽつりぽつりと雨粒が落ちてきています。
 本降りにはなっていませんが、何しろ場所は山です。山の天気は変わりやすいとはよく言ったもので、今は小降りかもしれませんが、今後どうなるか解ったもんじゃありません。
「こうなると、中止でしょうか」
 もともとやる気なんてゼロなわたしです。むしろ、中止になってくれた方がどれだけ嬉しいか。
 いいじゃないですか。橘さんの小さいころの思い出を無理に掘り返すことありませんて。思い出は、胸の中に眠らせておくことに意味があるんです。思い出はあれです、心の中で良い方にどんどん膨らんじゃうものなんですよ。それが現実と直結しようものならあなた、そこにはギャップが生じるわけで、その差が大きければ大きいほどショックも大きいですよ、万が一のとき。
「あらあら、中止ですか」
 佐々木さんと二人、並んで空を見上げていれば、背後から聞こえるのは喜緑さんの声でした。髪の毛は邪魔にならないようにポニーテールに結わいて、スカートの下にはスパッツなんて履いてます。昨日の食材探しの時でもスカートのみだったのに、今日はもしかしてやる気があるんですか?
「やる気ですか? いえいえ、同性相手と言っても下着を見せてしまうのは、さすがにはしたないと思い至っただけですよ。やる気で言えば、うちの朝倉さんでしょうか。ほら、このように」
 つい……っと一歩横へ引いて、背後に控えていた朝倉さんがご登場です。その格好がまた……なんて言うんですか? よくある探検家ルックなんですよ。その格好だけでやる気満点なのが解ります。
「いえいえ、それだけではございません。ほら、水筒に双眼鏡、リュックにハンガーを壊して作った即席ロッド・ダウジングも装備しております。やる気をここまで格好で表せる方など、そうそうおりませんでしょう? わたしにはそこまで準備する気力など、とてもともて……」
 確かに喜緑さんが言うようにやる気を見せている朝倉さんが……ですね。どうして、怒り爆発五秒前のような、好きな人の前で転んでぱんつ見えちゃった、みたいな、そういう震え方をしてるんでしょうか?
「こっ、こんな格好させたの、喜緑さんでしょーっ! もうっ、何よこれ!? 人類未到の地に初めて足を踏み入れたとか言って、先にカメラが入ってるような番組じゃないんだからね! まったく、人を着せ替え人形で遊んで……自分は無難な格好だなんてあんまりだわ」
「健康的な太股がステキですよ。丸太もぽっきりへし折れそうですね」
 にっこり、と笑ってもですね、今の一言はどう考えてもフォローになってないんじゃないでしょうか。
「やっぱり普段着に着替えてくる」
 場所と状況を考えれば、そんな変な格好じゃないと思うんですけど、その格好にさせられるまでの経緯に何かしらの嫌な思い出でもあるんでしょうか。朝倉さん、妙にぷりぷり怒って部屋に引き返そうとしたんですが。
「いいじゃないか、よく似合ってるよ。僕の感性が世間と大きくズレていなければ、誰が見ても心奪われる格好だよ、朝倉さん」
「え?」
 もう、なんて言うんですか? 佐々木さん、それは狙って言ってるんですか? 素で言ってるのであれば、もう少し自分のキャラクターというものを把握された方がいいんじゃないかと思うわけですよ。
「そ、そうかな? じゃあ、このままで……いいかしら」
 ほらー、朝倉さんが一人赤くなってモジモジしてるじゃないですか。佐々木さん、あなたはいったいどこを目指すつもりですか。
「それにしても、二人は遅いねぇ」
 二人……というと、言い出しっぺの橘さんと周防さんですね。藤原さんは勘定に入ってないんですか。不憫すぎて涙も出ません。
「呼んできましょうか?」
「いや、そこまではいいよ。ただ、行くにしても、やめるにしても、早く来て決めてもらいたいなと思っただけさ。言い出した当人に決めてもらわないとね。こちらはただ、話に乗るだけの立場じゃないか。中止も決行も、勝手に決められないだろう?」
 確かに、佐々木さんがおっしゃることには一理あります。わたしも、半ば無理やりとは言え断固とした態度で拒否しなかったので、勝手に「行くのを止める」と言い出すわけにもいきません。今のこの状況になってしまえば。
 そういう意味でも、確かに早く来て欲しいところですが。
「やーやー、皆様。お待たせしちゃいました」
 あ、やっと来た……って、橘さん……。
「いやー、九曜さんの準備に手間取ってしまったのです。お待たせしちゃって申し訳なしです」
 いったいどんな準備をしてたのか、それは橘さんじゃなくて周防さんを見れば一目瞭然です。
 服装は朝倉さんに近いものですが、その、首から下げているのがですね、水筒じゃなくて紐に通したニンニクとか、手に持ってるのがピックじゃなくて杭とか、いったいどんなバケモノ退治に行くんですか。
「世の中、何が起こるか解らないですよ。準備は念には念を入れてこそです」
 ええ、まったくですね。周防さんにそんな格好をさせるだなんて、ちっとも予想していませんでしたよ。本当に何が起こるか解りません。特に橘さんの奇行が。
「────…………────…………」
 ほらー、周防さんもぶつぶつ文句言ってるじゃないですか。あまり感情を表に出さない人みたいですから、橘さんの無理難題にも素直に従っちゃったみたいですけど。
 周防さん、何ですか? わたしが代弁してあげますよ。
「────観自在菩薩────行深般若波羅蜜多時────照見五蘊皆空────度一切苦厄────舎利子────色不異空────空不異色────色即是空────空即是色────……」
 ちょっ! はっ、般若心経をぶつぶつ唱えてたんですか!? もしかして、仕込みで時間がかかったって、これを教え込んでたんでしょうか?
 お経の内容云々は有り難いものなんでいいんですが、ただ……無表情でぶつぶつ唱えてると、ですね。子供が泣き出しそうなくらいコワイですよ、周防さん。
「なるほど……その手がありましたか」
「いくら何でも、わたしはあそこまでしないわよ?」
 それでも喜緑さんに押しきられて、朝倉さんならやっちゃいそうです。
「ところで、雨が降り始めてるんだけど」
 この状況を「ところで」の一言で流せる佐々木さんは、やはり大物の素質を備えていると改めて思いました。
「それでも行くの?」
「むっ、雨ですか。これは困りましたね」
 わたしとしては、訳のわからない宝探しを諦めて、悟りを開きそうな周防さんを正気に戻すのが先決だと思います。
「山の天気をナメちゃいけませんし、ここは少し待って雨足の様子を見るのがいいでしょうか。本降りなれば困りものなのです」
 さすがの橘さんも、山の天気に対してはまともで助かりました。
「その宝とやらがある場所は」
 話が様子見に傾きかけたところ、口を挟んできたのは喜緑さんでした。
「ここから遠いのでしょうか」
「場所は解りませんよ」
「それでもおおよその位置は覚えてらっしゃいますでしょう? 遠いのですか?」
「そんなに遠くはないですね。山道を歩いて十分くらいですので」
「それなら、さくさくっと行ってみるのもよろしいんじゃないでしょうか。この辺りは斜面もそれほど急ではありませんし、多少の雨なら土砂災害の危険も少ないでしょう。大丈夫ですよ」
 ちょっ、何を言い出すんですか喜緑さん。やる気満々だったのは、やはり朝倉さんが言うように喜緑さんの方だったんですか?
「ふむ……あなたがそう言うのであれば、大丈夫なのでしょう」
 そこにどのような根拠があるのか、じっくりねっとり聞かせてもらいたいです。
「行くの?」
 これが最後の確認とばかりに佐々木さんが改めて橘さんに聞いてます。
「行ってみましょー」
 やっぱり行くんですね……。


 時は戦国、乱世の時代。鳥羽伏見の戦いで云々……と言うようなナレーションが頭の中を一瞬だけ過ぎりましたが、よくよく考えればそこまで仰々しいものでもないなぁ、なんて思いつつ、今のわたしは雨具を着込み、どんより気分を背中に張り付けながら無意味にロッド・ダウジングを両手に持って歩いてたりします。
 周囲は雨。雨と言っても叩きつけるような豪雨じゃなくて、視界を遮るような霧雨です。水のカーテンが、視界を悪くしちゃってて、これはこれでうろうろするのは危ない気がするんですけど、皆さんの意見を聞かせてください。
「導かれるままに歩けばノープロブレムです」
「僕は後ろから付いていくから。崖とか落ちるときは、先頭に立つ人が危ないんじゃないかな?」
「────般若波羅蜜多────是大神呪────是大明呪────是無上呪────……是無等等呪────…………」
「わたしを信じて付いてきてください、くらいの言葉が欲しいところですね」
「やらないで後悔するより、やって後悔しましょうよ」
 全員が全員、まずはそこに座れ、とでも言ってやりたい態度なのが癪に障りますね。中でも周防さん、そろそろ般若心経を唱えるのはやめましょうよ。
 はぁ〜あ、まったくもう。自然の驚異をナメちゃいけませんと、昔の偉い人が言ってたじゃないですか。えーっと、その偉い人が誰なのかと聞かれても、返す言葉はありませんけど。
「このロッドを持つのは橘さんがいいんじゃないですか? 自分の宝物を探すための強行軍じゃないですか」
「いえいえ、こういうのはですね、若くて感受性豊かな方が行うのが一番なのですよ。ですから吉村さんと、朝倉さんなのではありませんか」
 もっともらしいことを言って懐柔しようとしてもですね、さすがにもう欺されませんよ。こぉ〜んな湿度80%以上はありそうで不快指数もぐんぐん上昇中の今、手を野ざらしで歩いくのは苦行以外の何ものでもありませんよ。
「そんなことないのでーす。ささっ、雑念は捨てて集中しましょう」
 雑念まみれの人が何をおっしゃいますか。それに、ダウジングで宝探しって現役小学生のわたしが断言しますけど、小学生だってしません。
 おまけに天気は最悪な状況ですし、一秒過ぎるたびに、どんどんやさぐれた気分になってくるんですけど……。
「朝倉さんの方に、何か反応あります?」
 わたしがロッドなら、朝倉さんはペンデュラムです。やっぱり五円玉に糸を通しただけじゃ……そのぅ、あまり有り難みというか、らしさというか、そういうものを感じませんね。凄く……貧乏ったらしいです……。
「全然ね。フラフラ揺れてるのだって、歩いてるからだと思うの。そっちは?」
「反応なんて、あるわけないじゃないですか」
 先に言っておきますが、反応がないのは強く握りすぎているからじゃないですよ。ちゃんと柄の部分はストローで通して、ロッドそのものはフラフラ動くようになってるんですから。
「ふぅ〜む、場所が違うんですかねぇ」
 ここに来て、橘さんがそんなことを言いだしやがりました。場所が違う、なんてことを真っ先に考える辺り、さすがです。それってつまり、ダウジングは100%完璧に作用すること前提での意見じゃないですか。
「もう少し、奥まで進んでみましょうか?」
 なんて提案が、喜緑さんの口から出てきました。やっぱりやる気があったのは、朝倉さんじゃなくてあなたの方だったんですね。
「とは言ってもね、天気が天気だ。あまり宿から離れるのは考え物じゃないかな?」
「そうですよ」
 ここは立場的にも心情的にも佐々木さんの提案に乗っかるとしましょう。
「今はまだ小降りですけど、どうなるかわかりませんし。晴れてからだって遅くないじゃないですか。成果だってまったくなんですもの」
「確かに闇雲に歩くのであれば宿に戻るべきかと思うのですけれど」
 と、何故か困り顔で喜緑さんが頬に人差し指をあてて小首を傾げております。
「でも、そのロッドに反応が出ていませんか?」
「え?」
 やだなー、何をおっしゃいますか。霊験あらかたな法具ではなく、宿のハンガーをぶっ壊して作ったロッドでお宝反応なんか出るわけありませんよ。そんなので反応があるのなら、世の中はトレジャーハンターだらけになってしまいます。
「右に傾いてるように、わたしには見えるんですけれど」
「それはだって、持ちながらフラフラしてますから」
「いえいえ、そうではなく」
 喜緑さんがわたしの持ってるロッドを正面に向け直して手を離すと……あら? すすーっと、二本のロッドの先端が、揃って左に傾いちゃいましたよ。
「おおっ! 凄いじゃないですか、吉村さん!」
 や、別にわたしが何かしてるわけでもないんですが……。
「反応があるのなら、戻るわけにもいきません。さささ、吉村さん。れっつごーです」
「ええぇ〜……」
 行くんですか? 行くんですね、やっぱり。
 こうなったら仕方ないですけど……本当に、雨が降る森の中、若い女の子が六人も集まって何やってんのかしら? なんて考えちゃダメなんでしょうか。
「でも、わたしの方には反応がないんだけど」
 確かに、反応を示しているのはわたしのロッドの方だけです。朝倉さんのペンデュラムはまったく無反応。
「それは朝倉さんだからですよ」
「どんなコメントを返せばいいのか、悩む言い方ね」
「どちらにしろ、反応してるのは吉村さんですから。道案内はお願いします」
 そういうことなら仕方ないですけど……どうして一番やる気のないわたしが、先頭に立って歩くことになっちゃってるんでしょう。神様が本当にいるのなら、意地悪さんなのは間違いなさそうです。
 ロッドが倒れた方向に、まずは進むとしましょう。確かに右へ左へ正面へ、進めば方向を指し示すかのように勝手に動いてます。こういうことって、本当にあるんですね。偶然かもしれませんが。
 そんなロッドの導きで進むと、雨足も徐々に強まって来ました。最初は霧か雨か解らない感じでしたが、今では雨粒もハッキリするほどの雨です。足音よりも大きく聞こえるなんて、かなりの雨になってきたと思うんですよ。雨具を着込んでいますが、それでも染み込んできた雨水で、服が体に張り付いて気持ち悪い感じです。
「これ、どこがゴールなんでしょう?」
 さすがにちょっと雨が強くなりすぎな気がします。ロッドはずーっと右や左に傾いて、まったくゴールが見えてきません。
 さすがに気になって誰ともなく問いかけてみたんですが……誰も反応してくれません。
「……あれ?」
 振り向けば、そこに見えるのは木、木、木。木ばっかり。佐々木さんも橘さんも周防さんも喜緑さんも朝倉さんも、誰もいません。
「あ、あれ……?」
 えーっと、待ってください。ちょっと待ってくださいよ。
 進んでいた道ならぬ道を戻ってみますが、やっぱり誰もいません。
「佐々木さーん」
 反応なし。
「橘さーん」
 無反応。
「周防さーん」
 あの人が反応するのは稀ですか。
「喜緑さーん」
 聞こえていても無視しそうですね。
「朝倉さーん」
 ……………………。
「も、もしかして……」
 冷静に考えてみましょう。
 ここは深い森の中。天気のコンディションは雨という最悪なもの。場所は、初めて来たところであり、前日の経験で物を考えれば、熊や猪が普通に徘徊している森ですね。
 そんな場所に、小学六年生のわたしが、どうやら一人でぽつーんといるようです。
 こ……これって、もしかして…… 今のわたしの立場は、世間一般で言うところの……その、遭難者……というものに該当しませんか?