| 【Respect redo】吉村美代子の憂鬱 八章 | 
           
           
         
         降り続く雨は弱まる気配も見せず、かといって強まるわけでもなく、一定間隔で延々と降り続いています。周囲を見渡しても、立ち並ぶ木ばかりが目に入り、そこに見知った人の姿なんてどこにもありません。もちろん、知らない人がいるわけもなく。 
           そういえば、この森ってあれですよね、人食い熊やら巨大猪やらが闊歩している日本の中の秘境じゃありませんでしたか? そんなところに無力なわたしが一人でぽつーんといるわけでして……これは何かと大ピンチです。 
           冷静そうに見えますか? そう見えるかもしれないですけど、実はかなりの勢いで心拍数が上昇中なわけでして、人間、理解を超えた極限状態に陥ると、ふとした弾みに冷静になってしまうものなんです。そんなことない、と言われるかもしれませんが、わたしがそうなんですから、そうとしか言えないじゃないですか。 
          「みなさ〜ん、どこですかぁ〜……」 
           呼びかける声も雨音に消され、雨具を伝う水滴の冷たさが体温を奪っているせいなのか、思わず身震いしてしまいます。そんな寒いわけじゃないんですけど。 
           ええっと、何でしたっけ? これってやっぱり、皆さんが迷子になってるわけじゃなく、どちらかと言えばわたしが迷子になってるわけですよね? 山で迷子になったとしたら、それはいわゆる遭難ということになって、警察や山岳警備隊や山伏……山伏? と、ともかく、そういう人たちがいっぱい出てきて捜索されちゃうわけですよね? 
           うわー、それはまた一大事だー……って、違うですね。そんな他人様の手を煩わせてしまうことを申し訳なく思うよりも、自分が置かれた状況の方がまずいわけですよね。 
           ええと、冷静に。冷静になりましょう。もしかしてわたし、なんだか同じことを繰り返してますか? そんなはずありません。ええ、ないはずです。だってわたし、冷静ですから。 
           そんな冷静な頭であれこれ考えて……ここはひとつ、現実を受け入れてわたしが遭難しているとして、じゃあ遭難者が取るべき行動はどんなのでしたっけ? 確か……そうそう、あまりウロチョロしない方がいいんでしたよね。 
           となれば、ここでジッとしているのがいい……のかしら? でもこんな雨の中、何をせずともジッとしてるのは辛いものがあるわけでして、そもそもわたしが迷子になっていることに、あの橘さんたちが気付いているんでしょうか? 
           ……ジッとしてられない気がしてきました。 
           いやでも、そういう風に考えてしまうのが間違いなのかもしれず、それならやっぱりジッとしてるのがいいわけでして……。 
          「ひっ!」 
           ああああ、すいませんすいません。妙な声出してすいません。 
           ただ……そのぅ、何か……ですね、正面奥の生い茂った草木が不自然にがさごそ音を立てて揺れたように思えただけで、それでついつい悲鳴みたにな声を出しただけでして、ええ、大丈夫です。大丈夫ですよー。わたし、至って冷静で……。 
           がささざささざざざさささっ! 
          「ひょえええええっ!?」 
           や、やっぱり何かいますよ! 何か解りませんけど、でも何かがいるのは間違いありませんて! 
           いったい、今度は何ですか? 熊と猪はもういいですよ! ええっと、じゃあ後に残るのはあれですか。山奥を徘徊するちょっと頭のネジが弛んじゃった妙な人ですか? そんなの、いりませんってば! 
          「あらあら、とても個性的な悲鳴を上げるんですね」 
          「……へ?」 
           がさごそと草木をかき分け、どんな凶悪な野生動物が飛び出してくるかと腰を抜かしていたわたしですが……現れたのは、この雨の中、わたしと似たような雨具を着込んだ喜緑さんでした。 
          「な……何やってるんですかーっ! いったい、どこに行ってたんですか! わたしがどれだけ……もーっ、ばかーっ!」 
          「まぁ、何ですか。せっかく捜しに来たのに、人をお馬鹿呼ばわりするなんて、あんまりじゃありませんか」 
          「あっ、あんまりなのはそっちじゃないですか! かっ、勝手にいなくなってっ、わっ、わたし一人でここにいて、みんな捜してくれているのか不安で……んもーっ!」 
           なんてことを口では言ってますけど、正直ホッとしたのは間違いありません。言葉とは裏腹に、緊張の糸が切れたのか、雨なのか涙なのか知りませんけど、顔がもうぐちゃぐちゃです。 
          「あらあら、まぁまぁ」 
           そんなわたしの心情を知ってか知らずか、ちっとも困ったような表情も見せずにわたしの頭を抱え込むように抱きしめて、背中をポンポン叩いてくれるんです。 
          「一人で心細かったと言うことですね。それはまた、申し訳ないことをしてしまいました」 
          「……もういいです」 
           喜緑さんに抱きしめてもらって、ようやく気持ちも落ち着いた感じです。雨具についた水滴がぐちょぐちょで冷たくてあまり気持ちよくないから、そろそろ離してください。 
          「それで、他の皆さんはどこにいるんですか?」 
           茂みをかき分けて現れたのは、喜緑さんだけです。橘さんや佐々木さん、周防さんはもちろんのこと、個人的にはもうペアでいることが当たり前に思えてしまっている朝倉さんの姿もありません。 
          「ええっと……ですね」 
           何ですか、どうしてそこで口籠もるんですか。まさかとは思いますけどね、できることならこんな風に聞きたくありませんが、状況が状況です。ベタなお約束展開だけは願い下げですので、正直はっきり端的に、イエスかノーで答えてください。 
          「喜緑さんまで遭難してる……なんてことありませんよね?」 
          「おほほほほ。何をおっしゃいますやら。おほほ」 
           だから、イエスかノーで答えてください。 
          「大丈夫、大丈夫ですよ。わたしがおりますので、万事問題なしです」 
          「……遭難してるんですか?」 
          「いえいえいえ、わたしはあれですよ、吉村さんの姿が見えなくなってしまったので、皆様共々手分けして捜していただけです。幸いにして、わたしが真っ先に見つけることができたのですよ」 
          「それならみんなと合流しましょうよ。雨も本降りになってますし、早く帰りましょう」 
          「え、か、帰る? あ、ああ、そうですね。早く帰りましょう」 
          「……もう一度、聞いていいですか?」 
          「……何でしょう」 
          「遭難してるんですか?」 
          「……そうなんです……」 
           それはもしや、ギャグで言ってるのか……? 
          「人を助けに来て二次遭難になってるってあなた、本末転倒じゃないですか!」 
          「そんなこと御座いませんよ。わたしの役目は、吉村さんを見つけることだったんですから。ほら、こうして無事に見つけたじゃありませんか。その時点でわたしは自分の役割を完遂したのですから、褒められこそすれ、貶されることはございません」 
           この人の頭の中身の理屈は、どうやら凡人では理解し難い世界にぶっ飛んじゃってるみたいです。よもやこんな人だとは思いませんでした。あなたに会えて、ホッとして涙を流したわたしの気持ちを返してください。 
          「でも大丈夫。こう考えましょう。遭難しているのはわたしたちではなく、他の皆さんだと。そう考えればほら、気持ちがグッと楽になりますでしょう?」 
           それはどう考えてもダメな考え方で、喜緑さんと出会う前までちょっとパニクってたわたしが、散々繰り返し言い続けていたことと似ていませんか? もしや喜緑さん、あなたも少し、パニクってません? 
          「わたしは至って冷静です」 
           冷静な人は自分のことを冷静なんて言わないような気がします。ええ、先ほどの自分を鑑みての発言ですので、ちょっとは言葉に重みがあるでしょう? 
          「それにほら、わたし、こう見えても方向感覚だけはばっちりなんです。ええとですね、あっちが北で、こっちが南です」 
           その思いつきで指さした方向が北である根拠を、是非とも提示してください。 
          「根拠も何も、これです」 
           ……ダウジング・ロッド……。 
          「大宇宙の神秘のパワー、ここに極まれり。もしこれだけで不安と申しますなら、今ならお得なピラミッド・パワーもお付けいたしますけれど」 
           そんな抱き合わせ販売みたいな真似はやめてください。ただでさえ有り難みがないのに、胡散臭さ倍増じゃないですか。そもそも、北と南が解ったからと言って、宿がある方向は北なのか南なのか、あなたには解っているんですか? 
          「では、参りましょう」 
           い、行きましょう……って、本当にその、今までわたしが持ってたダウジング・ロッドをコンパス代わりに使うつもりですか!? 使うつもりなんですか、そうですか……。 
           もはや、今の喜緑さんにあれこれ言っても無駄なような気がします。わたしが持っていたダウジング・ロッドを手に、前を歩く喜緑さんの後ろ姿は──気のせいでなければ──それはそれは楽しそうでした。さすがに鼻歌交じり、とまではいかないですけど、ロッドが指し示す方向に、迷いなくずんずん進んでいきます。 
           そんな喜緑さんの雨具の裾をそれとなく掴んで、わたしは後を付いていきます。この人が何を考え、どんな確信を得て進んでいるのか知りませんけど、離されてまた一人になってしまうよりはマシですもの。 
           それでもやっぱり……ねぇ。 
          「あの……喜緑さん」 
          「はい、何でしょうか?」 
          「さっきから同じところばかり、ぐるぐる回っていませんか?」 
          「あら、そうですか?」 
           こっちの言うことを信じているのかいないのか、一概には判断できない口調ですけれど、ぴたりと足を止めて振り返ってくれるところを見れば、わたしが言うこともちょっとは気に掛けてくれたのかなって思います。 
          「だってほら、あそこの茂み。あの枝の折れ方って、喜緑さんがさっき出てきた時に折れたんじゃないですか?」 
          「あら嫌ですね。わたしの体重で枝が折れてしまったと、そうおっしゃりたいんですか?」 
           あのですね、幼稚園前の子供の力でもペキッと折れそうな枝じゃないですか。喜緑さんじゃなくたって、わたしの体重でも折れますよ。それは決して喜緑さんが重そうとか、ましてやわたしの体重云々の話をしてるんじゃありませんってば。 
           ……重くないですよ? ホントですよ? 
          「そのダウジング、本当にアテになるんですか?」 
          「信じる心が大事なんです」 
           なんて怪しげな宗教みたいなことを……自分で言うのもなんですが、わたしは世俗にまみれた凡人ですよ。信じられる根拠が欲しいです。 
          「そんなことより、この雨はいつまで続くんでしょうね」 
           ダウジングの信憑性は、「そんなこと」の一言で片付けられないこと……ですよね? だってそれで、ちゃんと宿に戻れる正しい道を探ってるんですよね? いわばわたしたちの運命を託してるんですよね? 
           ……違うんですか? 
           どうやら喜緑さんの中では、いつまでも降り続く雨という自然現象の方こそが理解できないことっぽいです。いえ、何となくそんな雰囲気を感じたので、そう思ったまでですが。 
          「せめて雨くらい止んでいただければ、もう少し歩きやすくなりますのに」 
          「歩きやすさを気にするより、風邪を引かないか心配です」 
           雨具を着込んでいても、結局は雨に当たり続けていることに変わりはないですもの。潜水具とかウェットスーツじゃありませんし、体温が奪われ続けていることは間違いありません。 
          「せめて、どこかで雨風をしのげるとよろしいんですけれど」 
           他の人たちが見つけてくれて、いち早く宿に戻れるって考えは、この際なしと言うことですか。確かに……期待できそうにないところが困ったところです。 
          「それに天気がよければ、お散歩も楽しめますのにね」 
           あなたは遭難している今の状況を『散歩』の二文字で済まそうと言うんですか。 
          「まったく災難としか言いようがありません」 
          「災難なのは遭難したことじゃなくて、天気のことって言いたいんですか……」 
           今の口ぶりだと、そう聞こえちゃうんですけど。 
          「あら」 
           なのに喜緑さん、わたしのコミュニケーション能力を疑うかのような声を出して振り返りました。 
          「わたしよりも災難な目に遭っているのは、吉村さんの方じゃございませんか」 
          「え?」 
           突然何を言い出しますか。 
           そりゃ、遭難して助かるかどうかも解らない今の状況は、幸せとは対極に位置する状況だと思いますけど……でもそれは喜緑さんもそうであって、何もわたしの方が不幸を一身に背負っているわけじゃない……と、思うんですけど。 
          「今のこの状況の話だけではありませんよ。だって吉村さんは、佐々木さんや橘さんたちに半ば無理やり連れてこられたんでしょう?」 
           むしろ、橘さん一人だけが諸悪の根源だと思いますが……まぁ、そうですね。 
          「そんなことさえされなければ、今こうしていることもなかったのに」 
          「そうですけど……」 
           でもそれは、あくまでも結果論であって、今さらあれこれ文句を言っても仕方ないことじゃないですか? そもそも、わたしも毅然とした態度で断らなかったっていう、負い目……というか、悪いところもありますし。 
          「では吉村さんは、これからもあの方たちと行動を共にするのかしら? こんな散々な目に遭っているのに」 
          「縁が切れるのなら、斧でも鉈ででもぶっつり切っちゃいたいところですけど、今はもう、関わり合ったのが運の尽きって気がします」 
          「なら、わたしが何とかして差し上げましょうか?」 
          「あのですね、喜緑さん」 
           わたしは、こめかみを押さえながら言葉をひねり出しました。 
          「そういう話は、無事に助かってからにしましょうよ。今の状況でそんな話をしてたって、呈の良い現実逃避みたいですよ」 
          「現実逃避みたい、だなんて……なんてことをおっしゃいますか」 
           な……なんですか? そんなひどく真面目な表情されると、ちょっと気が引けるんですけど……何がおっしゃりたいんですか? 
          「みたい、ではなく、間違いなく現実逃避なんです」 
          「……えーっと?」 
          「やっぱりダメですね、ダウジング」 
           とかなんとか言いつつ、ダウジング・ロッドを投げ捨てやがりましたよ、この人。あなた曰く、信じる心がエネルギーのわたしたちの命綱、だったんじゃないんですか!? 
          「オカルトに片足を突っ込んでいるようなものは、やはり向きません。偶然の中の必然を探るのはダウザー協会の方々にお任せするとして、わたしたちはより堅実な方法で生還の道を探るべきです」 
           もう……何がなんだか……。 
           もしかすると、みんなとはぐれて遭難したわたしの真の不幸は、喜緑さんに発見されたことかもしれません……。 
          「さすがのわたしも、歩き続けてクタクタです。はぁ〜……さて、どうしましょう」 
           この人は……勝手に根拠もなくフラフラ歩き回ったのは自分じゃないですか。そろそろわたし、怒っていいですか? 
          「あら?」 
           さすがに一発、がつんと言っちゃおうかと息を吸い込んだときです。喜緑さんが、わたしの威勢を削ぐような声を漏らしました。 
          「あれ、何でしょうか」 
          「何ですか?」 
          「ほら、あれ」 
           喜緑さんが指さす方向に目を向けても……うーん、わたしの目には何も見えないような気が……あれ? でもちょっと……んん? 
          「灯りが見えませんか?」 
          「灯りって、でもこんな山奥で……あれれ?」 
           最初は、そんな灯りなんて見えませんでした。雨と風、それに立ち並ぶ木々に邪魔されていたからかしら? よくよく目をこらして、何て言いますか、モザイクが掛かった画面に何が描かれているのかを見ようとする感じで目を細めて一分くらい注視してようやく、米粒よりも小さな灯りが、ゆらゆらと点いたり消えたりしている感じです。 
           凄く曖昧な言い方だとは自分でも自覚してますが、それだけ判然としないんですよ。ただ、灯りがあることは間違いないようで……あれ? ということはつまり、宿かどうかは別として、人里が近いって言うことかしら? 
          「行ってみましょう」 
           そりゃあもう、否応もありません。もうクタクタです、なんて言ってた喜緑さんの方が先に歩き出したくらいですから、わたしも遅れるわけにもいかないです。 
           朧気な灯りに近付いて進めば、夢や幻ではなく、確固たる灯りであることが解ってきました。灯りがあるということはやっぱりそこには人がいて……灯り? ええっと、今ここで、急に我に返りましたけど、こんな山奥に電気が通っているんですか? 
          「あらあら、立派な建物ですね」 
           そして何より、近付いて見えてきたその建物──確かに人の手によって作られた建築物──は、これまたなんと申しましょうか、かくも立派な日本家屋だったんです。立派なんですけど、そこにある日本家屋は、やはりちょっとおかしいと思えてなりません。 
           いえ、見た目は普通なんです。のどかな田園風景が広がる場所にあるのなら、「立派なお屋敷だなぁ」とか、素直に感心していたかもしれません。 
           でもここは深い山の中で、道もさっぱりな場所なんです。周囲には──雨で視界が悪いとは言え──見上げてもてっぺんが見えない木々に囲まれている場所なんですよ。そんな中に立派な日本家屋があるなんて、おかしいじゃないですか。 
           そもそも、どうして窓から灯りが見えるんですか? こんな電気も通っていないような深い森の中なのに? とてもロウソクの炎による灯りとは思えません。 
          「あのぅ……喜緑さん。やっぱりここ、何かおかしくないですか? 変に立ち入るのはやめておいた方が……」 
           表札も何もない木造作りの門を前に、いったいどこに呼び出しのインターフォンがあるのかと視線を彷徨わせている喜緑さんの雨具の裾を掴んで、わたしは思ったことを口にしました。 
           何て言えばいいのか……そうですね、この怪しさと胡散臭さは、生半可のホラー映画じゃ太刀打ちできないほどの幽霊屋敷っぷりを醸しだしてるんです。 
          「え、何がですか?」 
          「って、ちょっ!」 
           やっぱりそこは喜緑さん……と、思うべきなんでしょうか。わたしの意見なんて、軽やかにスルーしちゃってくれてます。何の躊躇いも戸惑いもなく、呼び鈴らしきものがないのをいいことに、がらりと木造の門を開いちゃってました。って、そんな簡単に開くものなんですか、こういうのって? 
          「さぁ……? 簡単に開いてしまいましたけど」 
           いやぁ……喜緑さんのバカ力があってこそ、なんじゃないかと……。 
          「何でしょうか?」 
          「いっ、いえっ、何でもないです……」 
           喜緑さんの読心術は、ホント侮れません。 
          「ともかく、せっかく門が開いたんです。中に入ってみましょう」 
          「は、はぁ……」 
           尻込みするわたしとは裏腹に、いつもと変わらぬ様子で庭園を抜けてずんずん進んで行く喜緑さんは、お屋敷の引き戸前まで行くと、まるでここが自分の家だと言わんばかりの遠慮の無さで、ドアを開いてしまいました。 
          「あ、あの……いいんですか? 勝手に……」 
          「返事がありませんから。何も言わないということは、こちらの判断で動いていい、ということじゃございません?」 
           ございません。だってここ、まったく知らない人の家じゃないですか。返事がなければ勝手に中に入っていいなんて、そんなの世間一般じゃ許されませんよ。 
          「すみませーん、どなたかいませんかーっ!?」 
           仕方ないので、わたしが喜緑さんに代わって叫ぶしかないようです。そこそこ大きな建物ですけど、平屋ですから……玄関先で大声を出せば、たとえ一番奥に人がいても声は届いていると思います。 
           でも、帰ってくる言葉は何もなく、聞こえてくるのは外の雨音だけ。室内は水を打ったように静かです。 
          「誰もいない……のかしら?」 
          「吉村さん、返事ももらえないほど世間様に嫌われてらっしゃるんですか?」 
          「何でそうなるんですか」 
          「と、そんな冗談はさておき」 
           ……今の、本当に冗談なんでしょうね? 喜緑さん、本音と建て前の違いがほとんどないから、どこまで信じてどこから疑えばいいのか、さっぱり解りません。 
          「人がいないのは確かなようですね。でも」 
           言いながら、喜緑さんは下駄箱の上をスッと指でなぞりました。 
          「長い間、放置されているわけでもなさそうです。几帳面と言いますか、綺麗好きと言いますか、掃除が行き届いてます」 
          「灯りも点いたままですね。どこかお出かけ中なのかしら?」 
          「こんな雨の中を、ですか?」 
          「雨でもお出かけするじゃないですか。行きません?」 
          「中心街ならいざ知らず、こんな乗り物も使えないような森の中では、雨が降ると出足も鈍りそうですけれど……どちらにしろ、今のわたしたちが取るべき行動は、ひとつだけですね」 
          「何ですか?」 
          「服を乾かすことです」 
           それに異論はありません。わたしも濡れた雨具を着込んだままというのは、さすがに嫌ですもの。 
           誰もいないようではありますが、さすがに場所は他所様のお宅です。雨具を脱いだわたしたちは、玄関先に雨具を広げたまま、靴を脱いで室内に足を踏み入れました。 
           正面の障子を開くと、どうやらそこが居間になってるみたいです。そこがまた……なんと言いますか、随分とシックな作りなんですよね。だって囲炉裏があるんですもの。しかも、飾りじゃなくて薪がセッティングされていて、あとは火を点ければちゃんと使えそうなんですよ。 
           確かに建物の赴きとマッチしてるんですが……今のご時世で囲炉裏というのは、これまた何とも。 
          「これ、どうやって火を点けるんでしょう?」 
           そんなこと、わたしに聞かないでくださいよ。そもそも人の家で何を勝手なことをしようとしているんですか。 
          「だって、服も濡れてるんですよ? 乾かしたいじゃないですか」 
          「それはそうですけど、家の人が戻って来たときに、どんな言い訳をするつもりですか」 
          「ありのままを話せばよろしいかと」 
           それで許してくれるのか、甚だ疑問が残るところですけど……でも、服を乾かしたい気持ちは解らなくありません。 
           こうなっては仕方ないですね。郷に入りては郷に従え……じゃないですけど、あとの責任は、すべて喜緑さんに被せればいいような気もします。 
           確か……こういうのって、新聞か何かを着火剤代わりにするんじゃなかったでしたっけ? そういうのがあれば火をおこせると思いますけど。 
          「あらあら、ここに丁度いいものがございますね」 
           喜緑さん、早速着火剤になりそうな新聞紙とマッチを見つけたみたいです。本当にそういうところは目ざといですね。 
           必要な道具が揃えば、あとは実行に移すのみ──とばかりに、新聞紙に火を点けて、組み上げられている薪の下に滑り込ませました。 
           よっぽど乾燥していたんでしょう。着火剤代わりの新聞紙の火が燃え移り、すぐにパチパチと爆ぜる音を響かせて、ちゃんと暖の取れる炎になりました。ああ、何ていうかようやく生き返った気分です。 
           これでようやく落ち着いた……ってとこでしょうか。わたしたちが遭難している現状は代わりませんけど、雨風がしのげる上に、今はいませんけど人が住んでいる家にたどり着いたんですから、助かったのは間違いありません。 
          「あ、そうだ。どこかに電話とかないのかしら? 宿に連絡を入れておかないと」 
          「なさそうですね」 
          「え?」 
           何でしょう、喜緑さん。なさそう、とは言ってますが、妙に確信めいた言い方です。この家の中は、まだ玄関と、その正面にあるこの居間の部分しか来てないじゃないですか。他の部屋なんて、まだ見てもいませんよ。 
          「そうなんですけど……うーん、なんだかこの状況と似た話を、知人からお聞きしたことがございまして」 
          「え、そうなんですか?」 
          「ええ。場所は雪山だったそうですけど、その人の場合は吹雪に見舞われて遭難しかかったところに、たまたま発見した洋館に逃げ込んだそうですよ。でもそこには誰もいなくて、なのに生活に必要な道具は揃っていたそうです。雨と雪、日本家屋と洋館という違いはありますけど、今のわたしたちと似た状況ですね」 
          「えぇ〜……」 
           それもまた、ちょっと不思議な話ですね。状況が似ていることもそうですけど、誰もいないのに生活に必要なものがそろってるところが、物凄く違和感のあるところです。ちょっとしたホラーですよ、それ。 
          「ホラーというよりは、ファンタジーかしら? だってそこでは、願ったものが出て来たそうですよ。たとえば……そうですね、冷蔵庫の中に食べ物でもないかなーっと考えながら開けば、潤沢な食材がちゃんとあったりしたそうです」 
          「まさかそんな……夢でも見てたんじゃないですか? その人」 
          「ですね。どうやら吹雪に見舞われて、集団催眠にでも陥っていたんじゃないかと、そういう結論で落ち着いたみたいです。あら? ということは今のこの状況も、もしかして夢なのかもしれませんね」 
           そんなことを言う喜緑さんは、普段と同じなんですけれど……でも何か、どこかちょっとだけ、勘違いかなと思える程度で、妙に真面目なことを言ってるように……わたしには思えました。 
          「夢なのかも……って、確かに今のこの状況が夢なら言うことなしですけど、いくら何でも夢と現実の違いくらい、わたしにだってわかりますよ」 
           どことなく真面目さが感じられる喜緑さんを前に、わたしは努めて明るい感じでそう言い返しました。 
           真面目にするのはいいんですよ? ええ、数時間前までは、真面目にやってくださいと思っていたんですもの。心の底から。 
           だからちゃんとすることに異議を唱えたりはしません……けど、今はどちらかと言えば、ちょっと困った今の状況を明るくするために、ちょっとくらいならふざけたって怒りません。むしろ、ふざけてくださいとお願いしたいような雰囲気です。 
          「何か変ですよ、喜緑さん。さっきから……そのぅ、何か奥歯に物が挟まってるような言い方して。らしくないです」 
          「……先ほどのお話、覚えてらっしゃいますか?」 
           こちらの話をするりと聞き流し、唐突にそんなことを言い出す喜緑さんの「先ほどの」とはいつほどの話なのか、すぐには思い出せません。 
          「ほら、一番の災難に遭っているのは吉村さんだっていうお話です」 
           ああ……そんな話をしてましたね。でもその話を、今ここでまた蒸し返すんですか? そんな話をしても仕方ないって、さっきも言ったのに。 
          「よろしいじゃありませんか。どうせ今はここにいるしかできませんし、いるのもわたしたち二人だけ。他に話す話題もありませんし、少しくらいわたしの話に付き合ってくださっても、よろしいじゃありませんか」 
          「じゃあ、お付き合いしますけど……どちらにしろ、発展性のない話じゃないですか。さっきも言いましたけど、もう過ぎちゃったことですし、今さらあれこれ言っても仕方ないですもの。それより今は、この状況をどうするべきか話し合った方が、まだ有意義な気がします」 
          「わたしが何とかして差し上げる、とも申したじゃありませんか」 
          「……何とかって?」 
          「ですから、あの方たちとの縁を切るお手伝いを」 
           ニッコリ微笑んでそう言う喜緑さんですが……はっきり言ってわたしはちょっと困ってます。今のこの状況は、遭難して誰もいない森の奥にある日本家屋に二人っきりという、ある種の極限状態じゃないですか。 
           そのせいで喜緑さん、ちょっと危ない状況になっちゃってるのかな〜……って。 
          「縁を切るお手伝いって……もしかして、もうわたしに関わるのはやめてください、とか言ってくださるんですか? いくら喜緑さんからでも、あの人たちが聞く耳持つとは思えませんけど」 
          「いえいえ、もっと根本的なところから」 
          「根本的って?」 
          「ですから……そうですね、最初から、何もなかったことにする……とか?」 
           とか? って言われまして……笑っちゃうしかありません。もう起きてしまったことをなかったことにって、何をどうするつもりですか。全員殴って記憶喪失にでもしちゃいますか。喜緑さんなら本気でやりかねない凄味がありますけど、いくらなんでもそれは現実的じゃないですよ。 
          「そんなことする必要はありませんよ。すべては……そうですね、吉村さん次第です。あなたが本当にあの方たちと距離を置きたいと願うなら……ここなら、叶うかもしれませんよ」 
           すみません、さっぱり意味が解らないんですけど。 
          「言ったじゃないですか。ここは、願えば叶う場所……かもしれませんよ」 
          「そんなまさかぁ」 
           ははは、と笑うわたしにつられて、喜緑さんもうふふと笑いますが……何でしょう、この笑えない雰囲気は。互いに乾いた笑いが潜まると、耳に響く薪の燃える音だけがヤケに大きく聞こえます。手持ちぶさたで居心地も悪く、妙に落ち着きません。せめて何かこう、気を紛らわせるものでもあれば……。 
          「あ、何かお茶でも」 
          「お茶ならほら、そこに」 
          「え?」 
           ふと、何に気無しに喜緑さんが指さす茶箪笥の上に、お盆と急須、それにポットがありました……けど、こんなの、さっきからあったかしら? 
           訝しみながらポットを開けてみると、どうやらちゃんとお湯が入ってるみたいです。電気ポットじゃなくて、普通の保温瓶? そんなものなんですけど、まだしっかり熱くて……これっていつからお湯を入れてたのかしら? 
          「あのぅ……喜緑さん、さっきのお話ですけど」 
          「何でしょう?」 
          「橘さんたちと縁を切るのに何とかしてくれるって……何をどうしてくれるんですか?」 
          「具体的に言えば……今さらわたしが何かするというわけでもないのですけれど」 
          「はぃ?」 
          「ただ、ここはほら、どうやらここは願ったことが叶いそうな場所じゃございませんか。吉村さんが本当に皆さんとの縁を切りたいと願えば……もしかすると叶うのではないかしらと、そういう話です」 
          「ああ……」 
           なぁんだ、そんなことかぁ……と、今になればバカにできないような気がします。ここがどこか解りませんし、もしかすると偶然かもしれませんけど……でも、わたしが「お茶でも」と探してみれば実際にお茶のセットが現れたような場所です。にわかには信じられませんけど、ここは本当に……その、願えば叶う場所……なんですか? それなら、喜緑さんが言うように、わたしが皆さんとの縁を切りたいと願えば……え? 叶うの? 
          「果たして真実はどうなのでしょうね。そんなことは起こり得ないのかもしれませんし、万が一ということもあります。昔からよく言うじゃありませんか。病は気からって」 
           それは何か違うような気もしますが……ええっと……。 
          「で、でもその、どうすれば……?」 
          「願いが叶うのなら、心の底から願えばよろしいんじゃないかしら? より具体的に、切実に、平穏無事な日々に戻りたいと思えば、もしかすると時間さえも巻き戻すことができるかもしれませんね」 
          「願うって……」 
           何をどう具体的に考えればいいものか……。あれですか、週末に佐々木さんに声を掛けれられて、カフェで橘さんたちと会う前のことを考えればいいんですか? でもそれだと、同じことの繰り返しになりませんか? それじゃまったく意味がなくて、だったらええっと……。 
          「やり方は二つありそうですね。今、吉村さんがおっしゃった方法がひとつ。でもそれでは、おっしゃるように同じことの繰り返しになりかねませんね。なら、もうひとつの方法が最適かしら」 
          「と言うと?」 
          「他の人たちが、最初からいなかったことを願えばよろしいんじゃないかしら」 
          「いなかった……って?」 
          「言葉通りの意味ですよ。最初から存在しないこと、いなかったことにしてしまえばほら、繰り返す心配もございませんでしょう? 存在そのものの消失ですよ」 
           そっ、存在そのものの消失って……え? そんなことも願えば……叶う? 叶うんですか、ここは。 
          「別に殺めてしまうわけでもございませんし、何も道徳心を苛まされる心配もありませんね。よろしいじゃありませんか。吉村さん、散々な目に遭ってらっしゃるのでしょう? 自分が望まない状況に巻き込まれ、ストレスを感じてたんでしょう?」 
          「そ、それはそうですけど」 
           でも……あれ? 何かしら、どうにも、鳩尾辺りをきゅーっと押されるような、気分の悪さを感じるんですけど。 
          「もしここでそうせずに、今後もあの方たちと行動を共にしていれば、ロクでもない目に遭うのは間違いありませんよ。今だってロクなことをしていませんしね。それに巻き込まれて、吉村さんが苦しむ必要なんてありませんよ」 
           確かにそうですけど……でも、うう〜ん。でも何だろう、喜緑さんの言ってることは間違ってないんですよ。その通りですし、それはわたしも感じていたことです。このままじゃ、今後も振り回されるのがオチだなぁって思うんです。 
          「でっ、でもその、喜緑さんにそこまで言われちゃうほど、皆さんダメ人間ってわけじゃないと思います。ええっと、あの、何て言えばいいのか……確かにロクでもない目に遭ってますけど、だからって消えちゃえって思うほどヒドイわけでもなくて、そんなこと、わたしには」 
          「あら」 
           わたしがそう言うと、喜緑さんはさも意外、とばかりに笑みを引っ込めちゃいました。 
          「わたしの予想だと、あれこれ面倒なことは、今後もてんこ盛りですよ?」 
           うぅ〜……それはさすがに勘弁してくれと思いますけど……でもでも。 
          「そ、そういう面倒なことは、起きてみないと面倒かどうかなんて、解らないじゃないですか」 
          「では、今のままでよろしいんですか?」 
          「せっ、せめて皆さん、もう少しマトモな人になってもらいたいですけど……消えちゃうよりはマシです」 
          「そうですか」 
           そ、そうですよ。ええ、そうです。確かに面倒で厄介でちょこっと頭に来ることもありますけど、だからって消えちゃえと思うほどじゃないです。せいぜい皆さん、もう少しマトモな一般常識の範囲内で行動して欲しいくらいで、それ以外のことに関しては……ええっと、文句ない……かな? うん、ないです。 
          「彼とお知り合いみたいですから、引き戻して差し上げようかと思いましたけど……苦労するのも彼ですし、致し方ありませんね」 
           ふぅ……っと、喜緑さんがため息を吐いた……その瞬間。 
           バタン! っと、心臓が肋骨を砕いて飛び出して来そうな音を立てて、わたしの背後の襖が開かれました。 
          「ひぇっ!?」 
           なっ、何ですか? いったいこれは何なんですか!? 
          「あ、朝倉さん!?」 
          「無理!」 
          「へ?」 
           襖を開いて……というよりは、ぶち破るような勢いで転がり込んできた朝倉さんは、がばっと身を起こすなりそう言いました。というかあなたは、いったいどこにいたんですか。 
          「これ無理! もう無理! 喜緑さん、ホント無理だってば! そろそろやめておきましょうよ! あっちはわたしたちと違って単一端末なのよ? 天蓋領域とダイレクトに直結してるのよ!? 情報処理速度が違いすぎるの! わたし一人じゃ押さえられないわよっ!」 
           いっ、いったい何の話……? 
          「あらあら、根性無しさんですね。もう少し気張ってください。物事を強引に、無理無茶無謀に推し進めるのが、あなたのような強硬派のやり方じゃありませんか」 
          「だから、やってみて無理だって言ってるの! ああ、ダメ。もうダメ。ちょっとホントにそろそろ……」 
          「ま、こちらも話は済みましたから。では吉村さん」 
           なんだか訳のわからないまま、急に話を振られても反応のしようがありません。肩をすくめんばかりに落胆している喜緑さんに呼ばれても、何をどう反応していいものか。 
          「引き続き、よい夢を」 
           喜緑さんが、つぃっと突き出してきた指が、小突くようにわたしの額に触れた途端──ぶちっと、そんな音が聞こえてきそうなくらいにぶっつりと、目の前が真っ暗になって足にも力が入らず、どうやらわたしは、気絶でもしちゃったみたいです。 
         
           見えた風景は、すぐに天井の木目模様だって解りました。 
           これはまた、なんと言えばいいんでしょう。近年稀に見る目覚めの良さです。眠っていた状態をゼロとするならば、目を開いた途端に意識が一〇〇パーセント覚醒してるって感じです。それだけに、あのヘンテコな日本家屋で起きた出来事から、今こうして布団にくるまって横になっている状況に至るまで、いったい何がどうなっているのか解らずに混乱していることは間違いありません。 
          「やあ、気がついたかい?」 
           状況を確認しようとしていたのか、はたまた混乱したままだったのか自分でも解りませんが、瞬きも忘れるくらいにボーッと天井を見つめ続けていると、耳に届いた声でハッと我に返りました。首だけを巡らせて横を見ると、傍らで正座してわたしの様子を伺っている佐々木さんの姿がありました。 
          「あのぅ……何がどうなってるんでしょう?」 
          「うん? ああ、覚えてないの?」 
          「えっと……」 
           覚えてない……と言われても、ええっと、わたしは……。 
          「ほら、吉村さんが先頭を歩いていただろう? そうしたら急に目の前から消えたんだよ。こう……幽霊みたいに、フッ……とね。そりゃあもう、僕だけじゃなく、橘さんや他の人たちも驚いたよ」 
          「消えた……って?」 
          「崖……と言えば急斜面に聞こえるけど、そこはでひどいものではなく、やや急勾配の下り坂の道だったかな。雨で道もぬかるんでいたしね、どうやら足を取られて滑り落ちたみたいなんだ。そこをね、喜緑さんたちがすぐに追いかけて引っ張り上げてくれた。幸いだったのが、やはり雨のおかげかな。地面も柔らかくなっていたみたいで、大きな怪我がなくてよかったよ」 
           下り坂で滑り落ちた? あたしが? うぅ〜ん……そうだったかしら? なんだか頭の中に霧がかかってるみたいで、いまいち覚えてませんけど……佐々木さんがそうおっしゃるなら、そうだった……のかしら? じゃあ、今まで見ていたのは……夢? 
          「さて、目を覚ましたことだし、他の人たちを呼んでくるよ」 
          「え? あ、あのちょっと」 
           なんだか頭がボーッとしてますし、できることなら静かにしていたいんですが……佐々木さん、わたしが呼び止める間もなく部屋から出ていっちゃいました。出て行っちゃってすぐに、遠くの方から徐々に近付いてくる音。ドドドドドと響いて近付き、部屋の前まで聞こえてきたなーと思ったら。 
          「ご無事ですか、吉村さん!」 
           あの足音を聞けば、真っ先に駆けつけてきたのが誰なのかなんて考えるまでもありません。遠慮無しに襖が開かれるや否や、これはもう嫌がらせとしか思えないようなタックル……もとい、抱きつきを食らわせてきたのは橘さんでした。 
          「まったく、なんてドジっ子さんなのですかアナタは。怪我とかしてませんか? 痛むところはありませんか? 心配したのですよ、これでも!」 
          「あ……あの……今のタックルで……なんと言いますか……頸椎に深刻なダメージを負ったような気がするんですけど……」 
          「どうやら無事のようですね」 
           だから、あなたのタックルで首に深刻な深手を負ったと……。 
          「──────」 
           そんな橘さんの隣には、まったく気付きませんでしたけど、周防さんも一緒にいました。なんだか立ったまま、見下ろされてるんですが……その冷ややかな眼差しはいったい何をおっしゃりたいのか、推し量るにも難しいんですけども……。 
          「あ、あの……何でしょう……か?」 
           妙な凄味のある周防さんにおそるおそる声をかけると、まばたきすることすら忘れているかのようにわたしを直視したまま、すとんっと腰を下ろすや否や、橘さんほどのダイナミックさはなかったものの、慎ましやかに体を寄せて、しっかり人の背中に手を回してくるんですもの。今までいろいろな目に遭ってきたわたしも、これにはさすがにビックリです。 
          「なっ、なんですか周防さん。いったいぜんたい、どうしちゃったんですか?」 
          「これはあれですよ、九曜さんも吉村さんのことを心配していたってことなのですよ。え〜っとですね、言葉にすれば『捨てないでぇ〜、置いてかないでぇ〜』と言ったところでしょうか」 
           またそんな、なんて適当なアテレコをしてるんですか。そもそも捨てるだの置いて行くだの、なんだって周防さんがそんな風に思わなくちゃならないと言うんですか。いったい橘さんはどういう経路を辿ってその思考にたどり着いたのか、甚だ疑問でなりません。 
           なりませんけども……コバンザメのようにぴったり張り付いて離れない周防さんを見るに、百歩譲ってもしかするとそういうこともあるのかなぁ、なんて思えてきちゃいます。仕方ないので、頭でも撫でておきましょう。 
          「あ〜……そのぅ……あ、そうだ。喜緑さんと朝倉さんは?」 
           佐々木さんの話では、急勾配の道から滑って落ちたわたしを引っ張り上げてくれたのが、あのお二方なんですよね? ちゃんとお礼を言わなくちゃ、とも思うんですけど。 
          「ああ、あの二人なら帰ったよ」 
          「え?」 
          「藤原さんが麓まで車で送って行ってるよ。何でも、宿を取っていたのは今日まででした、と言うことらしい。最後の最後まで、こちらに付き合ってくれていたようだね。ああ、そうそう。吉村さんに伝言があったな」 
          「伝言……ですか」 
          「大変でしょうが、お大事に……とのことだよ」 
          「は、はぁ……」 
           お大事に、って言うのは解りますよ。滑り落ちて、怪我はしてないですけど、今の今まで寝てたんですから。でも大変でしょうが……って、何がでしょ? 
          「僕らも明日には帰るからね。吉村さんに怪我はないとはいえ、あとはのんびりした方がよさそうだ。あの二人が帰って、もうこの宿には僕らしかいない。ゆっくりと骨休めをするのも悪くないと思うんだが……さて橘さん。どう思う?」 
          「そうですねぇ……敵の先兵が逃げ帰ったことから、あたしたちの勝利は明白です。あとはゆっくりしちゃいましょう」 
           人様の宿泊スケジュールの都合を『逃げ帰る』と称するんですか、橘さん。それにしては、藤原さんが麓まで車で送り届けるなんて、サービス満点ですね。 
          「あ、そういえば橘さんが小さいころに隠したっていう宝はどうなったんですか? 結局、見つかってないんですよね?」 
          「何をおっしゃいますか」 
           あれれ? そんなわたしの発言を鼻先で笑い飛ばしちゃいそうなことを言うなんて、もしかして見つかってたんですか? 
          「いえ、モノは見つかっていませんが、あたしは気付いたのです」 
          「何をですか?」 
          「紆余曲折ありましたが、吉村さんも無事でみんな仲よくこうしているんですよ? これもひとつの大きな宝じゃーありませんか」 
           ……あー、えっと、うん、そ、そのぅ……まぁ、なんと言いましょうか……。上手いことを言ったつもりですか、橘さん。 
           佐々木さんも、そんなくつくつと笑いを噛み殺さないでください。わたしだって、そんなことを言われても返すコメントに困りますよ。 
          「そ、そうかもしれないですねぇ……あははー……」 
           周防さんの頭を撫でてあげながら、仕方ないのでわたしは、ひとまず同意しておくことにしました。 
           だって、他の言葉の選択肢が何もないんですもの。憂鬱混じりの溜息に紛れた言葉でも、それは仕方ないですよね? 
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