【Respect redo】吉村美代子の憂鬱 五章 |
いったいこれはどういう状況なのかと考えたくもありませんが、人間は考える葦だと言う言葉があるように、無心でいようと思ってもあれこれ考えちゃうのは仕方がないのかもしれません。そもそも葦って何ですか?
「────イネ科の────多年草────」
ああ、そうなんですか。物知りですね、周防さん。そういう雑学に強いのはいいんですが、こんな森の中を女子校の制服姿なんていうヒラヒラした格好のままでいることに、多少なりとも問題ありとは考えなかったんですか? 唯一の変化は、麦わら帽子をかぶってるくらいじゃないですか。
ええ、わたしはちゃんと森の中を動き回るような格好をしてますよ。こんなことを予想していたわけじゃありませんが、着替えの中にジーパンも入れてありましたから。
何でそんな格好で、森の中に周防さんと二人でうろうろしているのかと言えば……食材探しの旅の途中だからです。
「そういえば、喜緑さんとの卓球勝負はどうなったんですか?」
「────……勝ち────」
あら、そうなんですか。あの半壊した卓球台を見たわたしの感想としては、痛み分けがいいところと思うんですけど……うーん、喜緑さんに同じことを聞いても、やはり「わたしの勝ちです、当然じゃありませんか」と、素晴らしいまでに清々しい笑顔で言われそうですね。
「はぁ〜……あ」
本当にため息しか出ません。冗談抜きに食料の調達から始めなくちゃならないなんて、いったいどんな宿ですか。日本人は農耕民族であって狩猟民族じゃないですよ。いくらなんでも食料を自力で森の中から摂ってこいとは、あまりにもあんまりじゃないですか。
一介の女子小学生が野生の動物を捕まえる手段なんか持ち得ないわけで、仕方なく川に釣り糸を垂らすしかありません。この季節に何が釣れるのか知りませんが、せいぜい川魚を釣って焼くくらいの料理しかできませんて。
いったい橘さんは何を考えているんでしょうね。あの人だって同じようなもんだと思うんですけど……川辺に姿はありません。いったいどこから持ってきていたのか、ハンチングをかぶって長い筒状のものを肩に担ぎ、佐々木さんを引き連れて森の中に消えていく姿を見かけたのが最後です。心なしか、晴天なのに雷のような音がターン、ターンと聞こえて来るのは気のせいでしょう。ええ、気にしちゃいけないことだと思います。
一方、朝倉さんも深く考えていないようです。あの人はあの人で、喜緑さんを引き連れて鉈とナイフの二刀流で森の中に消えていきました。ナイフと鉈で何をするつもりか知りませんが、妙に森の中がざわついているのは気のせいでしょうか? 第六感に訴えかける奇妙な殺気というか、殺伐した気配と言いましょうか、そういうのが充満してうなじのあたりがチリチリしているんですけれど、それも気のせいだと思いたいです。
何ですか、最近の女子高校生はそこまでたくましくないとやってけないんですか? わたしもあと三年か四年くらいで女子高校生になるはずなんですが、橘さんや朝倉さんを見習いたいとは思えないんですけど。
「釣れませんねぇ〜……」
「──────」
釣り糸を川に垂らして、釣り竿を握り続けて何分くらい過ぎたでしょうか。一向に反応を示さない浮きを見続けることにも飽きて周防さんに目を向ければ、こちらは石像みたいに同じポーズ……つまり、釣り竿を手に川岸の岩の上に腰掛け、たくし上げたスカートから伸びる足先を川の中に浸して、ボーッとしています。忍耐力が必要な作業は、周防さんにはうってつけなのかもしれませんね。
もっとも、暇なわたしとしては、話し相手にもなりそうにないので暇なことこの上ない感じではあるのですが。
「……あれ?」
まったく動かないように見える周防さんの姿ですが、もしかすると何かしらの変化があるのかしら? アハ体験ができるかも〜と期待して見ていたら、変化は周防さんに、ではなくて、その手の釣り竿にありました。
「ねぇ、周防さん。糸、引いてません?」
えーっと、竿の先が必要以上にしなってますし、糸も川の流れとは関係なく動いているように思えます。あ、やっぱり引いてるじゃないですか。
「──────?」
いやそのえっと……「おまえは何を言ってるんだ?」みたいな目で見られても……。
「ほら、そのリールを巻き上げないと。こう、くるくるっと」
「──────」
それでもわたしの言ってることを理解してくれたのか、周防さんは凄い勢いで釣り糸を巻き上げちゃってます。見たところ力を入れている様子はないんですが、逃げようとする魚と引っ張り合ってるんだと思います。そんな力任せに引っ張っちゃうと……。
ぷちーん。
わたしが不安に思った矢先、案の定と言うか狙い通りというか、ぷっつりと糸が切れちゃいました。それだけならまだいいんですが、やっぱり周防さんにも力が入っていたんでしょうね、引き合う力の均衡が崩れたせいで、ばっしゃーんと川の中に、仰向けで落ちちゃいました。
「ああぁぁあぁ……周防さん、大丈夫ですか?」
慌てて駆け寄れば、水の中に上半身を水没させたまま、目をぱちくりさせてます。もしかして、驚いているんでしょうか? よくわかりませんが、ぶくぶくと口から漏れる空気が泡を作ってます。鼻から水が入っちゃったりして痛くないですか?
「えっと、大丈夫でぅわっ!」
周防さんったら、起き上がりこぼしみたいな勢いで上半身を起こさないでください。
「んもーっ、何ですかいったい?」
「──────」
やおら立ち上がった周防さんは、水で濡れた髪が顔に掛かって、なんだかちょっと……そのぅ、ホラー映画にそのまま出演できそうな感じです。
そんな髪の毛が邪魔にならないのか、顔にかかる髪の毛のことなんてどうでもいいとばかりに、じゃぶじゃぶと川の中を進んでいきました。
「ちょっ、周防さん? 何やって……」
なんて思う間もなく、目の前の岩の前に立つや否や、渾身の力を込めて腕を振り上げ──。
ごおぉぉぉん。
と、それはもう、物凄い勢いで岩を殴りつけちゃってたりしてます。岩に八つ当たりしてるように思えなくもないんですが、それにしては容赦なしの一撃です。見た目とは裏腹に、鳥が逃げ出すような轟音と地面が少し震動したような一撃でした。
「なっ、何やってるんですか、周防さん!?」
「────魚────」
「へ?」
見れば、川面にぷかーんと浮かんでいる魚が数十匹。これあれですか、水の中に爆竹を投げ込んで釣り上げるとかいう、そういうやり方ですか?
「って、手は大丈夫なんですか?」
「──────平気────」
平気ってあなた……なんですか、妙につやつやのお肌は、実は超合金で出来てたりしちゃいますか?
「まったく、無茶なことしますね……」
「────これ──が、合理的だと────聞いた────……」
「また橘さんですか……」
あの人の言うことは、嘘八割の冗談二割で、真実なんて一厘もないと思いますよ。右から左に聞き流した方が……。
「────違う────」
けれど周防さんは橘さんを擁護するように否定して、ぷかぷか浮かぶ魚を指さして。
「────ユリッペ、網────」
ええっと……誰ですか、それは? なんだか理解しがたいネタ振りをされても、すべて拾えるわけもなく、拾うとすればぷかぷか浮かんでいる魚くらいってもんです。
岩を殴って魚を失神させる、なんて非常識な手段を講じてくれたおかげで、なんとか食材を手に入れることができました。禁漁行為ど真ん中のストライクで抵触しているのは間違いないので、よい子のみなさんは真似しないようにしましょうね。
ともかく、これで後は宿に戻って料理に取りかかればいいんでしょう……けど。
「えーっと、周防さん。宿の方向はこっちでいいんですよね?」
道ならぬ獣道を進む周防さんの後ろを着いて歩くわたしは、心なしか深くなる森の様子に不安を覚えるわけです。自信満々に進むものですから何も言わなかったんですけど、もしかして迷っちゃった〜……なんて、言いませんよね?
「──────」
その沈黙は何ですか。え? ちょっとあの、もしかして本当に……?
「────迷った────」
「ええっ!?」
「────わけではない────」
「……へ?」
んもうっ! 迷ってないなら、妙な間を空けないでくださいよ。でもここ、宿への道じゃないですよね? じゃあ何でこんなところに来たんですか。
「──────」
問いかけたわたしの言葉に、周防さんは無表情のまま人差し指を口元に近付けました。黙ってろとでも言いたいんでしょうか? 静かにしてもいいんですけど、それでもこの道は──ってほど道じゃないですけど──記憶にない場所です。そりゃ周りは木ばっかりで、どこを向いても同じように見えますが……でも、人が通った感じもありません。獣道でもなさそうです。それってつまり『迷った』と思ってもよさそうかなぁって思うんですが。
「あの、周防さん?」
「………………ぁぁぁ………………」
ん? 今、何か聞こえました? 少なくとも周防さんの声じゃないことは確かですけど。……うーん、気のせい?
「…………ぁぁぁ…………」
あれ? やっぱり何か聞こえますよね。何でしょう、近付いてる気がしますし……叫び声? 心なしか、地味に揺れている気がするのは気のせいですか?
そう思ったとき。
「…………ぁぁぁああああっ、きゃあああぁぁぁ…………」
えーっと……睡眠不足で幻覚でも見てるんですかね、わたし。
もしそうじゃないとしたら、目の前で……ええっと、樹木をかき分け、悲鳴でドップラー効果を作りながら全速力で山を駆け下りて行ったのは、橘さんと佐々木さんに見えたんですけど。
「あの、周防さん。今のって……」
「────あれ────」
す……っと、橘さんと佐々木さんが駆け込んで来た方向を指さす周防さんの指先につられ、そっちに目を向けて見れば。
「いぃっ!?」
木々をかき分けとか、そんなカワイイもんじゃありません。けっこう大きな大木さえもへし折って突っ込んでくる影が、まだそれなりに遠いなーって思える距離でも突っ込んでくる様が見て取れるんですけど……あれって何?
「────くまちゃん────」
「ええぇぇぇぇっ!?」
くまちゃんって何のことですか? などと言ってる場合じゃありません。
周防さんが言うところのくまちゃんの『くま』を漢字に変換するとしたら、それってつまり『熊』ですよね? あの大きさは、申し訳ないんですけど、ちゃん付けできるような可愛らしいもんじゃなさそうです。
「ぐごぉぉぉぉぉぉぉっ」
空気がビリビリ震えるほどの、洒落にもならない遠吠え出してますよ、あれ。怒り心頭って感じがしないでもないんですけど。
「わわわわわっ!」
ぼーっと突っ立ってる場合じゃありませんて。木々が生い茂る森の中、障害物をなぎ倒して突進してくるトレーラーみたいなのを相手にのんびりしてるのは、自殺行為以外の何ものでもありません。
何ですか、何なんですかいったい!? あの熊、妙に殺気だってませんか? 橘さんと佐々木さんを追いかけてると思うんですけど、いったい何をやらかしたんですかぁ!?
「た、たたたた、橘さーん!」
こういう時ってあれですね、人ってあり得ないほどの力を本当に出せるものなんですね。火事場の馬鹿力というのは、あながち嘘じゃないのかもしれません。
周防さんの手を引っ張り、熊の追撃から逃れるわたしが、先行する橘さんと佐々木さんに追いつけるなんてびっくりです。
「やぁ、吉村さん。こんなところで奇遇だね」
佐々木さん、あなたも必死で逃げてるくせに何を冷静にしてるんですか。少しは慌てましょうよ。
「これはこれは吉村さんと九曜さん。ナイスなところでこんにちはなのです」
「ナイスもスイスもありませんよ! 何ですかあれは!? いったい何をやらかしたんですか!」
「よくぞ聞いてくれました。あれはこの二子峠に牙城を築き、一大勢力を誇るボス熊なのです。背中の赤毛が特徴なのですよ」
嘘それ! 絶対嘘っ! そもそもここは二子峠じゃありません!
「いやいや、右目に銃弾を撃ち込まれたことで潜在能力が解き放たれ、巨大化し凶暴になったのです。冬眠さえしなくなった困ったちゃんなのですよ」
それをしたのは誰ですか? その肩に担いでる猟銃のせいじゃないですよね?
「ともかくあれを何とかしてください!」
「はっはっは。何か出来るなら逃げてないのです」
この人を転ばせて、熊が橘さんを食べてる間に逃げるってのはダメですか? そろそろ本気でそういうことをしたくなってきました。
「いい案だね、それ」
ほらほら、佐々木さんも同意してくれてますよ。やっぱりやりましょうそうしましょう。
「でも、橘さんをエサにしても、逃げ場がない以上は僕らも順番に熊の胃袋に収まることになりそうだし、あまり意味がないことかもしれないね」
「へ?」
「崖みたいだよ、この先」
「ええええっ!?」
そっ、そういうことは早く言ってください! クールなのはいいですが、慌てるときは慌てましょうよ! 今は慌てていいときなんですってば!
佐々木さんが言うように、木々の茂りが切れ、視界が広がった先に見えるのは確かに崖です。なんでこんなところに崖があるんですか。吊り橋もないなんてあんまりじゃないですか。
「ぐもおぉぉぉぉぉん」
右か左に逃げようかと思いましたが、この熊、足が速いです。といいますか、熊の移動速度は人間より速いから当たり前です。そもそも今まで逃げ続けられたのがおかしい話であって、ええっと……これって、どうしましょう?
「ああもうっ! 橘さん、武器を持ってるのはあなただけなんですから、何とかしてください!」
「もしやこの猟銃のことをおっしゃってるんでしょうか? いいですか、銃と言っても弾がなければただの鉄パイプですよ?」
「弾ないんですか!?」
「残念です」
わたしはあなたの準備不足に残念極まりないですよ! じゃあどうするんですか!? そもそも何であんなのに手を出したんですか!
「三大珍味と言えばフカヒレ、燕の巣、熊の手じゃありませんか。あたし、まだどれも食べたことがないのです」
そんな理由でこの状況ですか。そもそも三大珍味を求めて猟すること事態が間違ってるんですってば。そこのところを理解しましょうよ。
食材にするつもりが、逆にこっちが熊のエサになりかかってるじゃないですか!
「まだ諦めるのは早いのです」
諦めてませんよ。諦めてないから、どうにかしてくれと言ってるんじゃないですか。
「向こうが大自然の驚異なら、こちらは大宇宙の決戦兵器が立ち向かってこその盛り上がりでしょう! さぁ、頑張ってください九曜さん!」
「──────」
うわぁっ、橘さんったら周防さんに丸投げですか。まったく意味が分からない理由で丸投げしちゃいましたよこの人。って、周防さんも周防さんで麦わら帽子を投げ捨てちゃって、どうしてそんなにやる気満々なんですか?
「いやはや、何か凄いことになってきたね」
だからどうしてそこまで冷静でいられるんですか、佐々木さん!?
「さぁさぁ、ついに始まりました本日のメインイベント!」
まるでプロレスの実況みたいな口ぶりですね。
注目したくないのに注目しなければ命がない、人食い熊VS周防さんの無制限一本勝負の始まりってことですか? 熊が勝てばぴちぴち乙女4人分の新鮮なお肉が、周防さんが勝てば橘さん所望の中国三大珍味のひとつとして名高い熊の手が、商品として与えられることになっちゃってるってわけですね。おまけにわたしと佐々木さん、おまけに矢面に立ってる周防さんにはなんらメリットのない試合ですよね。
うわーん、短い人生だったなぁ、わたし。
「解説はあたくし、きょこたんこと橘京子が、実況はらぶりーミヨキチこと吉村美代子さんでお送りいたします。ほらほら吉村さん、泣いてる場合じゃありませんよ」
何を勝手なこと言ってるんですか。そんな一世代前の女子レスラーみたいなリングネームは持ってません! そもそも今のこの状況は、隙あらば逃げ出したいところなんですからねっ!
なんて言ってるうちに、睨み合いが続く両者の間、均衡を崩したのは熊からです。威嚇のような遠吠えひとつ、周防さんの小さな頭がすっぽり隠せるほどの手の平を振り下ろし、黒曜石のように黒光りしている鋭いかぎ爪が襲いかかります。
ぶぅんっ、と爪が風を切る音が聞こえるほどのスピードで振り下ろされる一撃は、けれど遠目に見ていると巨体のせいで緩慢な動きに見えます。かと言って、それを間近で見ていたら、わたしなんか腰を抜かしそうですけど、周防さんは冷静です。ひらりと身を引いて紙一重で交わしました。
「熊はですね、ご覧のように体の大きさに比べて目が小さいでしょう? 北極熊は違うらしいですが、それ以外の熊は視力があまりよろしくないのですよ。特にあの熊は右目を潰されてますから、基本的に耳や鼻で敵を追うようです。緩慢な動きの理由も、そこにあるのかもしれません」
無駄な雑学のせいでちゃんとした解説っぽく聞こえちゃうんですが、本当に無駄としか言いようがない雑学なので、どこで感心すればいいのかわかりません。
ともあれ熊の一撃をひらりと交わした周防さんは、振り抜いた熊の腕を踏み台に、顎を狙っての飛び膝蹴りを食らわせました。熊の前足を踏み台にしてますから、俗に言うシャイニング式の蹴り技なんでしょう、見事に熊の顎を蹴りあえげています。人間相手にそんな真似したら、かなりヤバそうな角度で入ってます。
しかし相手は周防さんの倍近い体躯の熊です。一瞬だけ顎を浮かせはしましたが、倒れるようなことはありません。ピンピンしています。
「うーん、さすがに九曜さんの身体能力は卓越したものですが、いかんせん体重が軽すぎるのですね。通常の打撃技では、致命傷に成り得ないのです。かといって、投げや関節技でも、体格差のせいできっちりキメるのは難しいでしょう」
「それはつまり、周防さんに勝ち目がないってことですか?」
そうだとしたら、わたしたち食べられちゃうじゃないですか。
「いえいえ、これはルール無用のデスマッチなのです。生き残るためならなんでもありなのです。周防さんが勝つためには、相手の急所を貪欲に攻めるしかないのです」
「というと?」
「先に述べたように、熊は基本的に音と匂いで獲物を追うのです。そこをまず潰すのがセオリーですね。ほら、よく言うじゃありませんか。熊と格闘することになったら、鼻っ柱を殴ればいいと。そこが熊の急所だからなのですよ」
ほぇ〜……そうなんですか。本当に橘さんは、一般生活を送っていればまったく役に立たない、どーでもいいようなことばかり詳しいんですね。いえ、褒めてるんですよ? 褒め言葉なんですってば。
そうこうしているうちに、攻撃の主導権は熊に握られています。相手は熊ですから、あまり何も考えずに両腕をぶんぶん振り回しているだけみたいですけど……それだけでもかなり驚異的です。対する周防さんは攻めあぐねているのか、ひらりひらりとかわすだけで様子をうかがって手を出せないみたいです。
「ふぅ〜む、あの熊も伊達にここいらのボス熊ではないのです。自分の弱点をわかってますね」
「と言いますと?」
「闇雲な攻撃をしているように見えますが、しっかり自分の急所に九曜さんを近付けさせないようにしているのです。必ず手の振りが自分の顔の正面を横切るようにしてるでしょう?」
あ〜、確かに言われてみればその通りです。両手を顔の前でクロスさせるように交互に振り回してますね。
その攻撃を前に、周防さんは徐々に後退していきます。もしやこれは追いつめられているのではないでしょうか?
「いや、そうじゃないね。どちらかと言うと、九曜さんが誘い込んでるみたいだ」
と、そう言ったのは観客に徹していた佐々木さんです。どういうことでしょう?
「森の中に誘い込もうとしているんだよ。熊のリーチを封じ込めるつもりかな?」
ああ、なるほど。周りに木があれば、腕をぶんぶん振り回せないってことですね。なんだか昔っからある方法で、まったく捻りがありません。
「何をおっしゃいますか。王道こそ真理とは偉い人も言ってるじゃありませんか」
誰ですか、その偉い人って言うのは……。
「それに熊にとっては邪魔な木も、九曜さんにとってはいい足場だね」
そう言った佐々木さんの言葉の意味も、すぐにわかりました。腕を振り回そうにも周りの木が邪魔になっている熊ですが、ボーッとした見た目とは裏腹に俊敏な動きができる周防さんです。とんとんとんっ、と周りの木を足場に駆け上り、巨大熊のさらに上空へジャンプ。熊も熊でかなりの大きさですから、頭上のポジションなんて取られたことがないのか、周防さんの行方を見失っちゃってます。
全体重を乗せた膝蹴りが、熊の真上から鼻っ柱を叩き折る勢いで降ってきてクリティカルヒット。電光石火の一撃に、まるで時間が止まったかのように二人の動きが止まり──大きな音を立てて熊が前のめりに倒れたのは、その直後でした。
「おぉ〜っ」
周防さん、本当に熊を倒しちゃいました。思わずわたしも拍手です。いったいこの人は何者ですか。
「さすが九曜さんです。これであたしたちも食材ゲットだっぜ! ってことですね」
いやその、ちょっと待ってください。チーム分けはわたしと周防さん、橘さんと佐々木さんですよね? 熊を倒したのって、周防さんですから。
「あー、これだから。もー、こんなんだから。最近の若い子はあれですね、敵に塩を送る気概もあったもんじゃないですね。あーあ、日本の将来が心配だわ!」
拗ねないでくださいよ。別にわたしだって熊肉使った料理なんて作りたくないですし、何も渡さないって言ってるわけじゃないじゃないですか。
「でもこれ、どうやって持ち帰るんだい? さすがに大きすぎじゃないかな?」
そう、佐々木さんが言ったことをわたしも言いたかったんです。いくらなんでも、わたしたちで巨大熊を宿まで運ぶことなんてできないでしょう?
「む……それは確かに盲点でした。うーん……」
「ほーっほっほっほ」
悩む橘さんを前に、聞こえてきたのは高らかな笑い声。今度はいったいなんですか。
「さすがは周防九曜、我が虎の穴が差し向けた刺客を容易く倒すとはさすがです。しかし、倒して終わりと思っていただいては困ります」
「ちょっと喜緑さん、そんな高いところにいたら、ぱんつ見えちゃうわよーっ!」
高い木のてっぺん、風で髪をなびかせて仁王立ちしているのは喜緑さんでした。もしかして、そんなケッタイな場所で登場するタイミングを見計らっていたんですか?
なんという無駄な演出……。その木の下では、朝倉さんがナイフと鉈を両手にぶんぶん手を振っています。使ってないならしまいなさい、危ないでしょ。
「勝負はあくまでも料理対決。食材を手に入れた段階で満足されては困りもの。料理というのは食べた後の食器の片付けまできちんと済ませてこそ、料理ができると言ってもらいたいものです。あなたにはその熊を持ち帰る手段はございませんでしょう? 手落ちにもほどがあります」
「────────」
これはいったいどういう挑発なのか、聞いているわたしにはさっぱりです。もはや周防さんと喜緑さんの二人だけの世界のようですから、放って置いてもよさそうです。
それはそうと朝倉さんたちは、どんな食材を手に入れたんですか?
「さっき、大きな猪と遭遇したから仕留めちゃった。ボタン肉って言うんでしょ? 鍋にしようかなぁって」
顔や衣服に飛び散っているどす黒い点々は返り血ですか……。
「ナイフ一本あれば、魚だろうと猪だろうと、人間だって三枚に下ろせるわよ」
猪とはいえ、頬に返り血を浴びているのに爽やかな笑顔を浮かべないでください。そもそも『人間だって』って何ですか。そんな物騒な真似はやめてください。
「じゃあ、えっと……あの熊もバラせるんですか?」
「うん、まかせて」
うわっ、できるんだ。冗談のつもりで言ったのに、朝倉さんったらやってくれるみたいです。しかもナイフと鉈の二刀流ですか。
「ちょっと朝倉さん、何をなさるおつもりですか? 敵に手を貸しても百害あって一利なしですよ」
ところが喜緑さんは納得いってないみたいです。どうやら勝負事にはとことんこだわるタイプみたいですね。たぶん、好きな言葉は『完全勝利』で嫌いな言葉は『唯々諾々』なんでしょう。
「え、いいでしょ? どうせみんなで食べるんだもの。それにほら、熊肉なんて滅多に食べられないし、わたしたちも少しわけてもらいましょうよ」
「わたしは別に食べたくありませんよ、そんなもの」
「ふーん。じゃあいいわよ、喜緑さんにはあげないから」
「またそんなこと言って……もう、仕方ありませんね」
あら、意外と喜緑さんはあれですか、朝倉さんに甘いんですか? 仲むつまじくていいですね。
「今回ばかりは手を貸して差し上げましょう。その代わりと言っては何ですが……」
喜緑さん、まるで悪の大ボスみたいにニヤリとしています。な、何を要求されちゃうんですか、わたしたち?
「すみません、ここから降りるのに、手を貸していただけないでしょうか?」
ああ……高い木の上に登って降りられなくなっちゃったんですね……。
命からがら、ようやく戻ってきた宿を前に「ボロ宿よ、わたしは帰ってきたーっ」と叫びたい衝動に駆られましたがそこまでの元気はなく、代わりに叫んだ橘さんの姿を見て、やらなくてよかったと心底思いました。
それにしても、わずかな時間ではありましたが、なかなかサバイバルしてたと思います。そもそもわたしは橘さんに「温泉に行く」と言われて無理やり連れて来られているはずなのに、どうして食材探しもしなければならないのか意味不明です。
おまけに目の前で朝倉さんが熊を捌くその姿は、ちょっとしたスペクタクルでした。ええ、半年は動物性タンパク質を摂取するのが躊躇われるような見せ物でした。あぁ〜……思い出すだけで胃がムカムカしてくるんですけど……他のみなさんはケロッとしてます。この人たちは、次元の違う別生物と考えた方がいいかもしれません。
そんなわけで。
バラバラに出発したけれど、結局みんな一緒になって宿に戻ってきたわけですが、台所は一カ所だけです。そうなると三組同時に調理するには狭すぎるので、くじ引きで料理を作る順番が決められちゃいました。
結果、一番手が佐々木・橘ペア。二番手に朝倉・喜緑ペア。わたしと周防さんは最後らしいです。
なので──。
「周防さん、いつも髪の毛をそのまま湯船に浸けてるんですか?」
「──────」
せっかく温泉宿に来てるわけですから、そういう時くらいは誰でも、無意味に何度もお風呂に入っちゃったりするじゃないですか。特に今は山中を練り歩かされたわけで疲れちゃいましたから、のんびり湯船に浸かりたいもんなんです。
そう思ってお風呂場に向かってたら、周防さんまで付いてきちゃいました。まぁ、大浴場ですからね、一緒に入るのが嫌だとは言いませんけど……その長い髪はまとめ上げておきましょうよ。
仕方ないので、脱衣所で服を脱いだ周防さんを呼び止めてわたしが四苦八苦しながらまとめあげたんですけど……なんだか頭の上に頭が乗ってるようなボリュームになっちゃいました。いくらなんでも多すぎですよ、これ。もしや髪を切らないのは、何かの宗教的理由でもあるんでしょうか?
ともあれ、ようやくのんびりとお風呂に入れているような気がします。食材探し前に入ったときは先客で佐々木さんが入っていましたし、そこに橘さんや朝倉さんまでいましたもの。賑やかなのは嫌いじゃありませんが、疲れたときくらいは静かに浸かっていたいですよ。その点、周防さんなら置物みたいに静かにしているから問題なしです。
体を流して浴槽に浸かり、ようやく一息。
「ふぅ……」
極楽ですねぇ〜……あ、周防さん。そんな水面を漂う海藻みたいに浮かぶのはやめましょうね。お風呂は浸かるところで浮かぶところじゃないですよー。
「あら」
「あなたたちも来ていたんですね」
静かな一時を満喫していると、浴場の扉を開いてやってきた人影が一組。朝倉さんと喜緑さんのご登場です。
「あ、どうも」
「──────」
ぺこりとお辞儀するわたしと違って、温泉の湯船でぷかぷか浮かんでいた周防さんはちらりと二人の姿を一瞥しただけで、またぷいっと顔を背けました。
何でしょう、物凄く嫌な予感がします。この空気は、安心して湯船に浸かっていられる時間を、少しでも引き延ばすために変えなければいけない気がします。
「ええーっと、お二人は何でしたっけ? 猪を仕留めてきたんですよねー」
おおよそ現代社会で生活を送っている健全な十代の女子らしからぬ話題を提供している気がしないでもありませんが、話せるネタがそれしかないのだから仕方ありません。
「そうなの。ちょっと大きな猪だったかな? 警戒心も強くて、近付くのに苦労しちゃった。あ、ねぇ知ってる? 猪って走ってる最中も曲がることできるのよ。猪突猛進って嘘なのかしら?」
ちゃぷん、と湯船に浸かりながら話をする朝倉さんは、本当に楽しそうです。どうやらこの人は、産まれる時代と場所を間違えちゃったみたいですね。少し昔の狩猟民族で産まれていれば、女性ながらも勇猛果敢な狩人として名を残していたかもしれません。
「仕留めるときも暴れて、返り血をいっぱい浴びちゃった。肌に付いた血はこうやってお風呂に入れば流せるけど、服にシミが残るかちょっと心配。大丈夫かしら?」
ああ、そういえば返り血浴びてましたね。すみません、湯船に浸かる前に体の汚れを流してきてくれませんか?
「そちらはどんな食材を手に入れたんですか?」
なんて聞いてきた喜緑さんは、湯船に髪が浸からないようにまとめてるのはいいとして……頭の上に折り畳んだタオルを乗せてました。
わたし、まだ一〇年ちょっとしか生きてませんけど、これまでの人生で初めて、コントみたいに頭の上にタオルを乗せてお風呂に入ってる人を見ちゃいましたよ。
「わたしたちは普通に釣りをして、川魚を少々……」
「あら、そうなんですか。また随分とシンプルな食材を選びましたね」
選ぶも何も、普通に考えればそれ以外の選択肢がありますか? 他に考えれば、せいぜい山菜を集めるくらいしか普通はできませんて。どこの世界に猪を仕留めたり、熊を素手で倒せる女子高校生がいるだなんて予想できますか。できませんよ。
「この時期だと、釣れる魚わぶっ!」
ふぇ? っと思う間もなく、ぴゅーっと飛んできた温泉水がジャストミートで喋っていた喜緑さんの口の中に飛び込んじゃったみたいです。もちろんそんな真似をしたのは──。
「なっ、何やってんですか周防さん!?」
「────水──鉄砲────」
手もみでもするように両手を合わせている周防さんは、ぴゅーっぴゅーっと自慢げに温泉水を飛ばしてますが……何をするにも唐突ですね、あなたは。そもそも喜緑さん相手になんて真似しちゃってるんですか。
「…………」
「ああああああ、何て言うかその、すみませんすみませんすみません」
「いえいえ、構いません。十人十色と申しますし、中には礼儀もへったくれもない方もいるでしょうから」
ニコニコして寛大なことを言ってくれる喜緑さんですが、実はそのとき、向かい合っているわたしは、その背後で半潜水状態で移動している周防さんの姿が……そのぅ……見えているわけで。
いろいろあって皆さん忘れているかもしれませんが、ここで改めてもう一度、できれば今後とも忘れずにいてほしいのは、わたしはまだ小学生だということです。人生経験なんて、人に自慢できるほど積んでいるわけでもありませんし、いざというときの判断を瞬時に下せるような器量よしでもない──と、自己判断ですが──思っているわけです。
そのときのことを後々になって考えれば、今のこの瞬間が状況悪化を食い止める最後のボーダーラインだったのかもしれません。
けれど、そのときのわたしはどうしていいのか考えあぐねていたんでしょうね。どうとも決断を下せず、ただ見守るだけで。
ぴゅっと、周防さんが水鉄砲で飛ばした大量の水が、喜緑さんを頭からすっぽり濡らしてしまったわけでして……。
「………………」
「あ、あの……喜緑、さん?」
「ときに」
「は、はぃ!?」
「一昔前までは、工業用のカッターの刃に宝飾品には使えないクズダイヤが使われていましたけれど、今はそれよりも切れ味鋭いカッターができたようで、そちらが徐々に主流になっているそうですね。何かご存じですか?」
「さ、さぁ……?」
ダイヤモンドより固いものなんて、わたしにはサッパリです。そして何より、そんなことを突然言い出した喜緑さんの意図がまったく読めずに不気味です。
「それはですね……お水なんですよ。普通の水に高圧力を掛けて射出すれば、分厚い鉄板だって簡単に切れちゃうんです。ほら、このように」
喜緑さんが湯船から両手を出して、その手の間にため込んだ水を放出した途端……ばしゅっ、と一直線に伸びる水が周防さんの髪をまとめていた髪留めをかすり、直線上にあった桶を貫き、さらには柵に穴を開け、あまつさえ柵の外にある木を抉っちゃったのか、メキメキっと音を立てて一本ばかり倒壊してしまいました。
いったい何をしでかしたんですか、この人は!?
「あら、そちらにいらしたんですか? まったく眼中にございませんでしたので。ほほほ」
「──────」
なんだか喜緑さんの目が据わっちゃってます。対する周防さんも似たようなもんでした。その二人が同時に湯船から手を出した途端、その狭間で水が、水とは思えない爆ぜ方をしちゃったりしてるんですけど。
「水遊びがご所望なら、ええ、お相手して差し上げますよ」
な、何を言い出すんですか喜緑さん。少し落ち着きましょうよ。ここ温泉なんですから、水遊びなんてしちゃダメですよ!
「────上等────」
売り言葉に買い言葉じゃないんですから、周防さんも受けて立たないでください。
「ふっ、二人とも落ち着いてくだひゃあっ!」
これは本当に水しか使ってないんですか!? ばしゅんばしゅんと飛び交うニードルレーザーみたいな水が、床やら柵やらに穴を開けたりしちゃってますよ! ああもう、朝倉さんもぼけーっと見てないで、二人を止めてください!
「うーん、喜緑さんも、あの周防って娘も楽しそうだし、いいんじゃない? あの二人、仲がいいのかな? あ、そうだ吉村さん。背中流してあげよっか?」
「ええぇ〜っ」
い、いいのかなぁ……? このままにしておくと、温泉が使い物にならなくなりそうな気がするんですけど……。
「いいからいいから。いくらなんでも、あの二人だってそこまで無茶しないわよ」
本当ですかぁ? まぁ……朝倉さんがそこまで言うのなら、万が一のときはすべての罪を朝倉さんに被せちゃえばいいってことなですかね?
「ところで、朝倉さんはどこで周防さんたちとお知り合いになったんですか?」
背後で繰り広げられる圧縮された水レーザーで撃ち合いをしている周防さんと喜緑さんを他所に、本当に背中を流してくれている朝倉さんへ、わたしはちょっと気になることを聞いてみました。
朝倉さんってあれですよね、今まで何かしらの理由があって休学していて、もうすぐお兄さんが通っている北高に復学? するとか言ってた気がします。そこにどんな理由があったのか知りませんけれど、それなのにどこで周防さんたちとお知り合いになったんでしょう?
「あれ? 吉村さんは彼女たちから何も聞いてないの?」
「何のことですか?」
「ならばわたしが教えて差し上げましょう」
「わっ!」
な、何から何まで唐突すぎです、喜緑さん。周防さんとのキケンな水遊びはどうしたんですか?
「飽きました」
飽きたってあなた……周囲の備品を散々破壊しておいて『飽きた』の一言で済ませちゃうんですか。周防さんも周防さんで、何事もなかったかのように湯船にぷかぷか浮かばないでください。
「ほら、大丈夫だったでしょ?」
朝倉さんが得意げにそう言いますが、ちらりと見えた風呂場の惨状は、あまり……そのぅ、大丈夫と一言で片付けるには被害が大きすぎな気が……いえ、なんでもないです。
「そんなことよりも……よろしいですか、吉村さん。あなたは欺されています」
何なんですか、唐突に? わたしが欺されているというのなら、この温泉旅行に連れ出された段階で自覚してますよ。
「何をオトボケさんなことをおっしゃってるんですか。それこそ、どうでもいいような話でしょう」
いやあの、ご無体な卓球勝負を行ったり、人食い熊に襲われたんですけど……それを『どうでもいい話』で片付けちゃいますか。
「わかりました。では、何も知らないであろうあなたに、わたしからご説明いたしましょう」
「え? 喜緑さん、話しちゃうつもり?」
朝倉さんまで何ですか。いったい何の話ですか?
「あそこで湯船にぷかぷか浮かんでいる周防九曜さんはですね、遙か天頂方向に拡散する広域情報生命体が使わした人型端末なのです」
「…………」
えっと、ごめんなさい。こういうとき、どういう顔をすればいいのかわからないんです。
「笑えばいいと思うな」
「違うでしょう、朝倉さん」
そんな小ネタを織り交ぜないでください。ええと、ですからね? なんと言うか……すみません、日本語ハ話セマスカ?
「なんでカタコトなんですか? もっとわかりやすく言いましょう。あの真っ黒小娘は、実は宇宙人なんですよ。まぁ、びっくり」
わたしとしては、そんなことを何の前触れも脈絡もなく言い出すあなたの思考回路にびっくりですけど。
「じゃあ何ですか、そんな宇宙人と互角に渡り合っているあなたは何者なんですか」
「……ふぅ、仕方ありません。こうなってしまえばすべてを語るしかなさそうです」
いえ、そんな嫌々な態度なら無理に喋っていただかなくても結構なんですが……。
「実はわたし、光の国で警備隊をやっておりまして、あの真っ黒小娘を宇宙墓場に護送中に逃げられてしまうとう失態を犯してしまったのです。お恥ずかしながら」
「へぇ、大変ですね」
「というのは嘘でして」
端っから信じてませんよ、そんな話。
「あの小娘の目的はあくまで佐々木さんなんです。佐々木さんに興味津々なんですね」
それは……ええと、なんとなく解ってます。だってほら、周防さんて……なんと言いますか 見境無く朝倉さんに襲いかかるようなことしちゃってるじゃないですか。
いえ、アブノーマルな恋愛感情について、わたしはあれこれ言うつもりはありません。そういうのは、各人の自由意思でご自由に、って思います。
ただ、わたし自身の身に降りかかって来るのは、正直なところ勘弁してほしいですけど。
「けれど吉村さん、あなたは佐々木さんに幸か不幸か選ばれてしまったのです。お気をつけください、あなたも真っ黒小娘の観察対象ですよ」
「えぇ?」
それはつまり……周防さんがわたしを?
まさかぁ、そんな……それはさすがにあり得ないんじゃないかって思うんですけど。
何しろわたし、小学生ですよ? 今年で十二歳の女の子ですよ? そんな、そのぅ、自分で言うのもなんですが、子供にまで手を出すほどの節操なしじゃないと思え……てしまえるのが、周防さんでした。
「年齢なんて関係ございません。ですよね?」
「ええ、そうね」
あ、朝倉さんまでそんな、あっさりと喜緑さんの言葉を擁護しちゃうんですか。
「だって、重要なのはあなたが佐々木さんと近しい関係で、吉村美代子っていう存在だということだもの。歳は関係ないと思うな」
喜緑さんだけならまだしも、朝倉さんにまでそう言われると、少し不安になるんですけど……。
「──────」
「ぅわ!」
少し不安を覚えてちらりと周防さんの姿を確認しようと思ったら、気配も音もなく、わたしの間近で幽霊よりも希薄な存在感を醸し出しながら突っ立ってるじゃありませんか。
「ど、どうしたんですか、周防さん?」
突っ立ってるだけじゃなくて、せめて何か言いましょうよ。それに何より、どうでもいいことかもしれませんが……その、いくら女同士だからって、上はともかく下くらいは隠しませんか?
「──────髪────洗う────」
「え? あ、あー、はい。はいはい、すぐどきますから……」
席を空けると、周防さんはわたしが今まで座っていた場所にすとんと腰を下ろし、どこから引っ張り出したのかシャンプーハットを装着するなり十回くらいポンプを押してシャンプーを潤沢に浸かって、頭をわっしわっしと洗い始めちゃいました。
その様子から、今までのわたしたちの話を聞いてたのかどうかわかりませんけれど……ええと、どっちなんでしょう?
「大ピンチですね、吉村さん」
な、何を言い出すんですか、喜緑さん。
「いえ、そんな気がしたもので。でも、ひとつだけ忠告を申し上げれば、ご自身の身の振り方は後々のことを考えてから選択した方がよろしいのではないかと」
の、後々ってわたしが取る選択肢なんて、ひとつしかありませんよ。
「ですから、あの、」
「あ、ねぇ喜緑さん」
ある種、助けを求めるようなわたしの言葉に被せるように、朝倉さんが危機感も何もないのほほ〜んとした声を上げました。
「そろそろわたしたち、食事の準備に取りかかれるんじゃないかな?」
「あら、もうそんな時間ですか?」
ちょっ、ちょっと朝倉さん。あなたマイペースすぎです。少しは空気を読んでください。読めますよね? カラケって読むんじゃありませんよ? くうき、ですよ。く・う・き!
「仕方ありませんね。それでは吉村さん、ごゆっくり」
「じゃ、またあとでね」
うわーん、やっぱり読めてないんですね。
喜緑さんの場合は確信犯っぽいですけど、朝倉さんはどう見ても天然です。今までのわたしと喜緑さんの会話を聞いていたくせに、なのにこの場にわたしと周防さんを二人きりにしちゃうんですか? それでもいい大人ですか!?
これはさすがに危険です。デンジャラスです。あんびりばぼーな事態です。これはもう、退散した方が……。
「────────」
って、シャンプーハットの影から、周防さんがわたしを睨んでるじゃないですか。ターゲットロックオンって感じですよ?
「な、なんでしょう……?」
「──────話がある────」
ざばーっと泡を洗い流しながら、周防さんがそんなことを言い出しちゃいましたよ。
その話って何ですか? 今ここで話さなくちゃならないことですか? お風呂場で裸でいることにちなんでの、包み隠さずぶっちゃけトークでもするつもりですか?
正直、勘弁してください。
「え、えーっと、それて今ここでじゃないとダメな話なんでしょうか……?」
「────そう────」
「それはもしや、人に聞かれると困る話でもあるんでしょうか?」
「────そう────」
こ、これはもう……確定的です。
「すっ、すみません周防さん! わたし、好きな人がいるんですーっ!」
言うべきことは言って、脱兎のごとく浴場からわたしが逃げ出したのは言うまでもありません。
その際に、ちらりと見えた周防さんの無表情が、わずかばかり寂しげに思えたのは気のせいでしょう。そうに違いありません。
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