【Respect redo】吉村美代子の憂鬱 二章

 ぽんぺりぴんぽんぱんぴらぱんぽん、ぴんぴらぴんぽんぱんぽんぱーん♪
 と、わたしは携帯電話が鳴り響く音で目が覚めました。まだ外は薄明かりで、ようやく東の空が白んできたかな〜って時間だと思います。
 まったく非常識な感じで困りものですが、ついつい携帯を手に取って、そのまま出ちゃいました。
「はぁ……い、もしもし……?」
『その声の調子だと、まだ寝てるのですね?』
 ……え?
 すっかり寝惚けて出ちゃったものですから、いったい誰からかかってきたのかさっぱりでした。改めて携帯の画面を見れば、覚えのない電話番号からで……えっと、今の声、どういうわけか頭の片隅に、すっかりすり込まれてしまったようで、ピンッと思い至る相手が一人います。
 それに気付く自分にうんざりしてしまうんですが……。
「あの、えっと……もしかして、橘さんですか?」
『もしかしなくてもあたしなのです。すぐに外に出てくるように』
「ど、どうしてわたしの携帯番号知ってるんですか!?」
『ですから、あたしの情報網をナメないでいただきたいのです。四〇秒で支度しなってもんです』
 四〇秒て。こんな朝っぱらからどこに行くつもりですか。もしかして空の彼方ですか。発達した積乱雲の中にでも投げ込まれちゃうんでしょうか。
 そもそもどこから電話をかけているんですか?
『準備ができたらすぐ外に出てきてください。お待ちしてますので』
 外……?
 気になりカーテンを開けてみると、家の目の前の通りに停車しているモスグリーンのワンボックスカーが一台。その中から、笑顔で手を振っている橘さんの姿。
 あの人は、まったくもう……わたしの携帯電話の番号のみならず、自宅の住所まで突き止めてるんですか? もしかして、部屋の中に盗聴機器とかないでしょうね? そんなことをしていたら、さすがのわたしでも訴えますよ。
「はぁ〜……」
 昨日からの通算で、何回目のため息かしら? 自宅前まで追ってこられるとなれば、逃げられないじゃないですか。気乗りしませんけど、あの人のことだから家の中まで押し入ってきそうです。下手すれば、窓から侵入してきてもおかしくありません。
 まったく気乗りしませんけれど……ええと、二泊三日なのかしら? 両親にはその旨を説明してありますし、佐々木さんからも一言あったみたいで、残念ながらすんなり許可が出てしまったのが残念でなりません。ここでしっかりダメだしされるのを期待していたのに、いつもお世話になっている佐々木さんの信用度が、今回ばかりは裏目に出ちゃったみたいです。
 ですので行く分には問題ないんですけど……一緒にいるのが橘さんってことが、最大級の問題のような気がします。
「遅いのです。四〇秒と言ったじゃありませんか」
 ……本気で言ってたんだ、この人。もしかして、この人の言うことは限りなくボケに聞こえても真面目に受け取った方がいいのかもしれません。
 荷物をまとめて家を出て車の中に乗り込むと、そこにはすでに佐々木さんと周防さんも居ました。って周防さん、こんなときでも制服なんですか。
「やあ、おはよう」
 周防さんはなんだか目を見開いたまま眠ってそうで反応なっしんぐですが、佐々木さんはさすがというか、平時と変わらずって感じでした。
「おはようござい……ぁふ……あ、すみません」
 かくいうわたしは、それでもまだ眠くて欠伸が出ちゃいます。
「眠そうだね」
「今何時ですか?」
「ん〜……五時半かな」
「えぇ〜……」
 確かに昨日、朝が早いと言ってましたけど……それでも五時半ってのは早すぎじゃないですか? いったいどこに行くんですか。箱根か別府ですか? どちらにしろ、かなり遠いですよ。
「のんのん。そんなメジャーな所ではないのです。人が多くて、親睦を深めるには向いてないじゃないですか。これから向かうのは我々の組織の慰安施設なのです」
「そ、組織? 何ですか、その組織って」
「組織は組織なのです。あたしが個人的に属しているので、我が、世界に……ええと、なんでしたっけ?」
 昨日の今日で忘れちゃうってのが何とも……。わたしも覚えてないですけど。
「世界に平和と慈しみを与える橘京子の団」
 わっ、佐々木さんったら律儀に覚えてるんですね。さすがです。
「長いので、世界で愛される橘京子の団にしましょう」
 早くも名称変更みたいです。なんと言いますか、橘さんのファンクラブみたいな名称ですね。どうやれば脱退できるのか教えてください。
「ともかく、我らが団とは関係なく、あたし個人が所属している組織なのです。組織は組織であって他に適切な表現がありませんので、理解せずとも納得すればおっけーなのです。ちなみに、あたしは幹部なので施設も使い放題なのですよ」
 橘さんが幹部の組織……何ででしょう、ロクでもない一味のように思えてなりません。これならまだ、幼稚園の送迎バスのみを狙う悪の秘密組織の方が健全のような気がします。
「いちおう、我が組織も何かと資金難なところがありますので、一般にも開放しているのです。もっとも、開店休業みたいなものなので、このオフシーズンには滅多に利用客はありません。今回もいないと思われます」
 もしかしてその温泉施設とやらは、あれですか? シロアリにあちこち食われている柱ばかりの、しなびた温泉宿みたいなもんじゃないですよね? 嫌ですよ、わたし。泊まっているときに宿が崩れて生き埋めになる、なんて。
「失敬な。立派な日本家屋みたいなお屋敷っぽい旅館なのです」
 みたい、とか、ぽい、とか曖昧な表現ばかりなのが気がかりですが、それなら安心です。安心なんですが、橘さんに『失敬』と言われるのは、かなりショックですね……。
「もっとも、従業員もロクにいないので、ほぼ自炊になりますが」
 それのどこが旅館ですか。
「でも大丈夫です。ちゃんと雑用係がおりますので」
 それってわたしのことじゃないですよね? だとしたら、今すぐ帰らせていただきます。
「誰が雑用係だっ!」
 と、声を大きく反論したのは、車を運転していた男の人でした。そういえば、この人はどちら様なんでしょう? 先ほど橘さんがおっしゃってた組織の人……かとも思ったんですが、口調を荒げて反論する姿から、橘さんが患部という組織の人じゃなさそうです。個人的な知り合い……かしら? 見たところ、佐々木さんや橘さんと同年代のように思えますけど。
「そうそう、彼もきょこたん団の一員なのです」
 ころころ団名を変えるの、そろそろやめませんか? って、この人も?
「昨日、結局最後まで姿を見せなかった団員その二です。名前は藤原さん。年齢不詳なので、車の運転をしてもらってます」
「年齢不詳って……あの、免許は持ってるんですよね?」
「面倒なので捏造しました。あんなもんはあれです、ただの飾りです。使うときはビデオレンタル屋で会員証を作るときくらいです。なので大丈夫です」
 すみません、もうここで降ろしてください。歩いて帰ることになっても構いませんので、可及的速やかに降ろしてください。
「ふん、こんな原始的な乗り物を扱うことくらい造作もない」
 運転できるのと、運転していいのとは別問題じゃないですか。やっぱり橘さんが率いている一団に、まともな人はいないんですね?
「ともあれ、メンバーも全員そろい、旅行に出発なのです」
 そこで橘さんはニッコリ微笑み──。
「楽しい旅行になるといいですね」
 と、わたしにとっては悪魔の嘲笑にしか見えない表情で言いました。


「うううう…………」
 ちょっと前の話ですが、学校の先生に『悲惨』って言い方はあまり使わないようにと、クラスルール? みたいなものを決められたことがありました。かなりお年を召した先生で、五年前くらい前に定年になっちゃった先生です。
 その年代だと、実体験で戦争を経験してるじゃないですか。だからなんでしょうね、戦後間もない頃に比べると、やっぱり今って幸せなものですから、悲惨っていうのはその戦争真っ只中、あるいは戦後すぐの頃を指すようなものだとおっしゃってたんです。
 今よりももっと幼かったわたしですが、その話を聞いて「なるほどなぁ」って思ったんです。だから極力、ちょっとしたことで悲惨だとかなんとか言わずに、別の表現を意図して使ってたりしたんですが……ごめんなさい、先生。今のわたしも、かなり悲惨なことになってると思うんです。
「吉村さん、大丈夫かい?」
「は、はひ……す、すびばせん…………」
 車から降りても、まだ真っ直ぐ歩けません。佐々木さんに支えられてようやく立っていられるんですが、それでもなんだか地面がぐるぐる回ってるような気がします。
 それにしても、どうして皆さん平気なんですか? 佐々木さんや周防さんは言うに及ばず、橘さんまでケロっとしているのに、どうしてわたしだけ……うぅ〜……うっぷ。
「車酔いなんて、まったく情けないのです。根性が足りませんね。この合宿でしっかり基礎体力を付けましょう」
 もはやツッコミを入れる気力すらありませんが、それでもわたし、頑張って言っちゃいますよ? 合宿って何ですか。この旅行は親睦を深める云々の旅行だって言ってた台詞は、もしかしてわたしの幻聴ですか。はうぅ〜……ますますもってダメみたいです……。
「ふん、僕の運転で目を回すとは、ますますもって過去の現地民は軟弱だな」
 あー、こうなんて言いますか、いい感じで怒りが沸々とわいてきます。そもそもわたしは睡眠不足の上であの運転に巻き込まれたんですよ? 偽造免許で無茶な運転をしてたのは誰ですか? F1マシンに乗ってるんじゃないんですから、どうして山道で首が痛くなるようなGを感じなくちゃならないのか、その辺りをきっちり説明してもらないでしょうか? 絶対に通報してやるんだから、もうっ。
「ほらほら藤原さん、か弱いお嬢さんをいじめてる暇があったら、荷物をちゃきちゃき運んでください」
「なんで僕がそんなことを、」
「あら、あたしにそんな口を利くんですか? へぇ、そうですか。……あの話、バラしてもいいんですね?」
「ぐぐぅ〜……」
 あら、なんでしょう。藤原さん、橘さんの一言で鞭を振るわれたサーカスのライオンみたいになっちゃってます。
「あの話、って何ですか?」
「んふ、それはね……」
「ええい、くそっ。荷物だな? わかったよ、運べばいいんだろ、運べば!」
「はぁ〜い、お願いします」
 なんだかすっかり言いなりですね、藤原さん。いったい橘さんに、どんな弱みを握られてるんでしょう? 怖くて聞くに聞けないんですが……そうですね、とりあえず、無事に家に帰り着いたら、本棚からコンセントの内側まで、念入りに盗聴器や監視カメラがないかを確認しようと思います。
「それにしても……」
 不幸中の幸いと言うべきか、宿は想像していたよりもまともでした。場所が山奥で、近所には当然コンビニなんてありません。もし何かを買い出しに行くとすれば、車を出さなくちゃならないような場所……と言えば、想像しやすいかもしれませんね。
 宿の建築年数なんて解りませんが、パッと見てもひどい老朽化はしてないようです。苦言を呈すれば、夜中に何か出そうかなぁ〜っていう雰囲気がある程度ですが、それは何と言いますか、どんな老舗旅館でも夜中になれば感じてしまうところかもしれませんね。
「温泉は風情がありますよ。野生の猿も入りに来るようなところらしいのです」
 なんだか初めてまともな情報を耳にしたような気がします。野生のお猿さんが入りに来るだなんて、テレビの旅行番組でしか見たことありませんもの。
「ただ、珍しいことにこの時期に外来のお客さんがいるようなのです。何もこんな寂れたところに来なくてもいいのにと思っちゃいます。それも女性二人組なのですよ? 何が悲しくて、山奥で女二人が連れ立ってやってくるのか……はぁ、やれやれってもんです。そういう将来は、自分的にはノーサンキューですね。そう思いませんか?」
 いやちょっと……なんと言いますか、わたしたちは二人組ってわけじゃないですけど、女だらけじゃないですか。五十歩百歩って言葉、知ってますか? 知らないですか、そうですか。
「ちなみにお風呂は、すべて混浴なのです」
「え? そうなんですか?」
「そうなのです。でも大丈夫、今は男性客もいらっしゃいませんので、ちっとも気にすることはないと思うのです」
 まぁ、お風呂ですからね。男性に裸を見られて喜ぶような性質は持っていませんが、かといって混浴と解っているお風呂でまで文句を言ったりしません。そこはそういうものだと理解しますので、相手の視線が下心丸出しでなければ、結構平気でいられたりします。
 でも、何ていいますか、それでも顔見知りの知人男性──この場合は藤原さんのことですが──と一緒の湯船に浸かるのは抵抗ありますね。
「ああ、彼なら荷物運びと移動の運転という役目が済んだら、ふんじばってリネン室に閉じこめておけばおっけーですので、お風呂までやってくることはないでしょう」
 鬼ですか、あなたは。
「とりあえず、食事も自炊が基本ですので……そうですね、このあとの昼食はあたしと佐々木さんが作ります。吉村さんは車酔いですから、九曜さんと一緒にお部屋で休んでいてください」
「………………」
「……なんですか、その沈黙は」
「へ? あ、い、いえ、何でも。何でもないです」
 もう何て言うか何と言いましょうか、こういうお言葉を頂けるのはとても有り難いのですが、何しろ言っているのが橘さんです。何かしらの裏があるように思えてならないのは、わたしだけでしょうか。
「もしかして、休憩するよりも動いていた方が元気になるタイプなのですか? それなら、」
「いえいえいえ、お言葉に甘えさせていただきます、はい……」
 周防さんと一緒、というところに、そこはかとなく据わりの悪いものを感じるのですけれど……でも休めるのなら休みたいのが本音です。
「先に温泉に入ってくるのもおっけーですよ。部屋は最上階の一番奥です」
 温泉は後回しでいいですし、最上階と言いましても二階建てじゃないですか。周りは木ばっかりですし、そんな見晴らしもいいように思えないんですけれど、この旅館で一番いい部屋なんでしょうか? 
 その辺りのことは、正直どうでもいいんですよね。最初から期待していたわけじゃないですし、今は少し仮眠を取らせてください。眠っている分には、隣にいるのが周防さんだろうと橘さんだろうと関係ないですし……そう思っていたんですけれど。
「────────」
 なんだか勝手知ったる様子でどんどん旅館内を突き進んでいた周防さんなんですが、一階のまったく関係ない部屋の前で足を止めちゃいました。
「あの、その部屋じゃないと思うんですけど……あの、ちょっ、ちょっと周防さん!?」
 止める間なんてありません。まるで何かを振り払うかのように、目の前にあった襖をぱしーんと音を響かせて開いたんです。
「ひゃっ!?」
 周防さんの奇行もそうですけれど、室内に人がいたことにもビックリです。そういえば橘さんが「他の客もいる」とかなんとか言ってましたけど、このお部屋だったんですか。
「すみませんすみません、コレすぐ片付けますので。ホントごめんなさい。ほら、周防さん。行きましょうよ」
 ホントにどうしてわたしが謝ってるのかわかりませんけれど、ともかく周防さんをさっさと連れ出すのが先決だと思って、わたし、室内なんて見てなかったんですよね。だから誰がいるのかさっぱりわからなくて──。
「あれ? 吉村さんじゃない」
「え?」
 何故かその人はわたしの名前を知っていて、その顔をよく見れば知っていてもおかしくないと納得できるんですけれど、今度はそれで、どうしてここにいるの? って新しい疑問もわいてくるのが当たり前かなって思います。
「あ、朝倉さん!?」
 どうしてあなたが、ここで浴衣姿でくつろいでるんですか?
「何やってるんですか、こんなところで?」
 ホテルや旅館に寝間着としておいてある浴衣って寝間着ですから、適当に着込む人が多いですけれど、朝倉さんはそれでも帯をしっかり巻き、髪もかんざし一本で結い上げて気合いバッチリです。これからお祭りにでも出かけるんですか? なんて聞きたくなるほど、そのまま外に出ても恥ずかしくない着付けをしていました。
「ちょっとした息抜き……かな。来週から復学なんだけど、その前に温泉でも行ってゆっくりしましょう、って誘われたの」
 そういえば誰かと一緒に来てるらしいですね。橘さん曰く、女客二人ということは、もう一人の方も女性だと思いますし……お兄さんじゃなくて心底安心したのはナイショです。
 それでも……なんと言いますか、今でこそホテルや旅館の室内着として定着し、夏祭りなどで見かける浴衣ですが、その歴史は安土桃山時代まで遡り、本来は湯上がりに水分を吸い取らせるための湯帷子が江戸時代に庶民の普段着として愛用されて浴衣になった、なんて歴史があるそうですよ。
 もともと略装ですし、浴衣で人と会うのは失礼とされてたようですけれど、洋装が主流の今の時代ですからね、そういうしきたりも今では気にする人は少ないですが……朝倉さんは、もしかすると気にする人なんでしょうか? 心なしか、落ち着きのない態度のように見えます。
「えっと、吉村さんは……もしかしてもしかすると……その隣の人と一緒に来たの?」
「え?」
 朝倉さんがバッタリ出くわしたショックでですっかり忘れていましたが、この部屋の襖を叩きつけんばかりに開いたのは、そもそも周防さんでした。もしかして、お知り合いなんでしょうか?
 そのことを周防さんに聞こうと思って横にいるであろう周防さんに顔を向けようとした……そのとき。
「ぅひゃあっ!」
「……え?」
 横を向くと、そこに居たはずの周防さんの姿はなく、代わりに聞こえてきたのは朝倉さんの悲鳴でした。首の筋を違えるほどの勢いで向き直れば、まるで瞬間移動でもしたかのような勢いで、朝倉さんを押し倒している周防さんが……って、何やってるんですか!?
「ちょっ、ちょっと、ひゃっ! このっ……ばっ、そん……あっ、ちょ、そんな……ま、待って待って……あっ、ん……っ!」
 う……うわぁ……これ、ちょっとあの……とてもその、口では言えないような出来事が目の前で展開してるんですが……うわーっ、うわーっ、うわあぁぁ……そんなことしちゃうんだ……。
「って、こらーっ!」
 これ以上はさすがにまずいです。いろいろな意味でピンチです。そもそもわたし、小学生ですよ? そりゃまぁ……その手の知識はそろそろ覚えて……って、違う違う!
「何やってるんですか、周防さん!」
 スパーンと思わず手が出ちゃいましたけど、そんなこと気にしてる場合じゃありません。別に周防さんの趣味にあれこれ文句を言うつもりはありませんけれど、そういう真似は人様の目がないところでやるべきであって……って、それも何か間違ってる気がしないでもありませんが、少なくともわたしの目の前ではやめてください。
「────敵────」
「何が敵ですか! 周防さんの方こそ女性の敵ですっ! いきなり押し倒して何やってんですか、まったくもうっ!」
 何ですか、そんな睨んだって、今回ばかりは怯みませんよ。今のは周防さんが悪いじゃないですか。さすがのわたしでも許しません。
「ほら、ちゃんと謝りなさい」
「──────ごめんなさい────」
 そんな舌打ちしそうな態度で……まぁ、いいです。それよりもこの……なんと言いますか、髪は解けて浴衣もはだけさせて、妙に艶っぽい朝倉さんはどうすべきでしょうか。情熱を持て余してるような男性の前に差し出せば、襲われることウケアイです。
 このまま放置しておくのも申し訳ない気がすますし、周防さんを置いたままにしておくのもいろいろ危険な香りがプンプン漂っています。
「あら、随分と賑やかですね」
 思案に暮れていると、随分と爽やかな声音が背後から聞こえてきました。こちらも浴衣姿で、長い髪を結い上げている女の人ですが、わたしはお会いしたことがありません。
「あ、あのもしかして朝倉さんのお連れの方ですか?」
「ええ。喜緑江美里と申します」
 いつから見ていたのか知りませんが、ぐってりと秘め事のあとのような朝倉さんの姿を見ても爽やかで居られる時点で、なんだか嫌な予感がするのは……これもすべて橘さんのせいですね。
「すっ、すみません。うちの連れが、そのぅ、なんと言いますか、粗相をしてしまったようで……」
「連れ、ですか」
 ちらり、と視線を動かして、喜緑さんが目を向けるその先には、周防さんの姿。その周防さんですが、こちらもまた、何と言うかいつもの鉄面皮なんですけれど、どこか目が据わってませんか? ……はっ、まさか!?
「ダメですよっ!」
 わたしが大声を出すと、周防さんはやっぱりというかなんというか、ビクッと体を震わせて、ゆるゆるとわたしの方に非難がましい目を向けました。
 やっぱり……今もまた、飛びかかろうとしてましたね? 何ですかまったく、別に同性愛云々で文句を言う気はさらさらありませんけど、見境なしはだめですよ。あまつさえいきなり押し倒すなんて言語道断ですっ!
「もう、ホントすみません。しっかり言って聞かせますので……」
「あらあら、仲がよろしいんですね」
 くすくす微笑む喜緑さんを前に、憮然としているような周防さんはフイっと顔を背けると、そのまま廊下の奥に向かって階段を上っていっちゃいました。
 はぁ〜……疲れた。
「もう、本当にすみません。あとでちゃんと謝りに来させますから」
「いえいえ、お気になさらずに。それより、あなたは朝倉さんとお友だちなのかしら?」
「え? あ〜……お友だちと言いますか、知り合いと申しましょうか……」
「もしかして、吉村美代子さんかしら?」
「わたしのこと、知ってるんですか?」
「やっぱりそうなんですね。ええ、朝倉さんからチラホラお話は伺ってますので。こんなところでお会いするなんて、凄い偶然ですね。先ほどの方と二人で来られたのかしら?」
「いえいえ、他に二人……」
 あ〜、一人はリネン室で監禁されてましたっけ?
「三人、いますけど」
「それでは五人でいらっしゃったんですか。なるほど、そうですか。ふふふ」
 ふふふ、って何ですか。普通に微笑んだような気もしますけれど、何でしょう、この何をしているわけでもないのに、腹黒さが醸し出されている空気は。
「もしよろしければ、あとでお邪魔させていただきますね。今は……朝倉さんがあんな調子ですし」
「あ、はい……」
「二人だけでは退屈するのではと思ってましたけど、楽しい旅行になりそうで安心しました。ふふ……それではまた、後ほど」
 絶えず微笑みっぱなしの喜緑さんはそう言うと、ぴしゃりと襖を閉めてしまいました。
 うー……ん、何でしょう。開けちゃダメな地獄の釜の底を開いた気分を感じているんですが……っと、いけない。そんなことより、周防さんを一人にしておけませんね。
 しっかり、お説教しなくちゃ。


「えっまーじぇんしーっ、えまーじぇんしーっ!」
 へっ? は……え? な、何ですか? 何事ですか!? うつらうつらしていたわたしも、さすがに飛び起きちゃうほどの声ですよ? そんな声を誰が出すのかと言えば……ま、一人しかいませんよね。
「も〜……なんですか、橘さん。少し落ち着きましょうよ……」
 眠い目をこすって体を起こせば、目の前には料理を両手に抱えた橘さんが仁王立ち。どうでもいいですが、この位置からだと下着が丸見えなですよ。青と白のストライプだなんて、そういうところは普通なんですね。
「あたしのパンツなんてどーでもいいのです。吉村さん、いつまでも寝ている場合ではありません! 九曜さんと仲良しさんなのはいいことですが、事は緊急を要しますよ!」
 周防さんと仲良しって何がですか。さっきも周防さんのせいで散々恥を掻いているんですから……あれ?
「あ、周防さん。すみません」
「──────」
 朝倉さんのところで起こした出来事を叱った後、早すぎた朝に極悪なドライブで疲れていたわたしは、そのまま寝ちゃったんですけど……何やら周防さん、膝枕しててくれたみたいです。
 そんなことしてくれてたなんて、まったく気付きませんでした。家で寝ているときも、朝になって起きれば枕を抱きかかえていることもありまして……ええっと、今も寝惚けて、周防さんを抱え込んじゃったのかしら?
「それより、何がエマージェンシーなんですか?」
「そうそう、大変なのです。敵機襲来です。よもやここで接近遭遇するとはビックリ仰天なのですが、逆に考えましょう。今ここで倒しちゃえばいいやって考えるのです」
 あーうー……のっけから意味がわからないし、わたしは自分の名前が書いてあるハンカチとか持ってないので、紳士や淑女にはなれそうにありません。二度寝しちゃっていいですか? 
「あ、吉村さん寝ちゃうのかな? 食事作ってきたんだけど、残しておこうか?」
 どどんっ! と手に持っていた料理皿をテーブルの上に投げ置いた橘さんに代わって、席のセッティングをしているのが佐々木さんでした。
「あ、いえ。夜に眠れなくなりそうだから起きます」
 佐々木さん一人に準備をさせるのもアレですから、わたしも慌ててお手伝いに参加……なんですが、用意されている料理が、どれもこれも脂っこい唐揚げとかコロッケとか、揚げ物ばかり。寝起きでこれは少しキツいです。
「ともかく、話は食事をしながらにしましょう」
 そのことに異論はありませんが、脂っこいものは喉を通りそうにありません。白米とみそ汁をメインに箸を進めてますが……でも、せっかく作っていただいた手前、まったく手をつけないのも申し訳ないので、少しくらいは。
「あ、美味しい」
「そう? それは何よりだ」
 やっぱり佐々木さんですね、頭もよくて料理もそつなくこなすなんて。
「いい揚げ加減でしょう? 油の温度を一八〇度でキープしておくのがポイントです」
 や、橘さん。揚げ物なら確かに油の温度って重要かもしれませんけど、わたしが言いたいのは味そのものであってですね……まぁ、いいです。米を食器用洗剤で洗うような真似さえしてくれてなければ文句言いません。
「え? 洗剤は使うものではないんですか?」
 ちょっ……茶碗の半分は食べちゃったじゃないですか!
「冗談です。吉村さんには、もう少しユーモアを理解する心の余裕が必要ですね」
 ……ぶっ飛ばしちゃっていいですか?
「それで、何が大変でエマージェンシーだったんですか?」
 みそ汁をずずずっとすすりつつ、肝心な話を聞くことにしましょう。ああ……このみそ汁、作ったのは橘さんですね? わかめをもう少し小さく刻んでください。
「そう、そうなのです。敵が現れました。といっても主戦力ではなく、先兵みたいなものですが」
「どこにですか」
 唯一まともなのは海苔ですか。韓国海苔なのかしら? 少し塩がまぶされていて、しょっぱくて美味しいですね。
「ここですよ、この宿! よもや唯一の泊まり客が敵の先兵だとは夢にも思いませんでした。よもや海苔とわかめの海藻コンビが現れるとは……っ!」
「それはまた、大変ですねー……ん?」
 海苔とわかめは今食べてますが……唯一の泊まり客が敵の先兵? わたしたち以外で、今この宿にいるのは……もしかして。
「朝倉さんと……えっと、喜緑さんのことですか?」
「む? 吉村さん、敵のことをご存じだったんですか? はっ! ま、まさか裏切り……っ!」
 裏切りも何も、わたしは善意の第三者ですよ。橘さんの一味に加えないでください。まるで戦隊ものの特撮番組の主人公みたいに「まさかキサマが裏切りものだったのか!」みたいな、驚愕の展開が発生したような顔をされてもですね、わたしがここに来たのは朝に拉致同然で連れて来られているのは知っているでしょう? なのにどうやって朝倉さんたちに宿泊先の情報を提供できるんですか。
「そこにはきっと、どんな名探偵でも頭を悩ますトリックが!」
「いいですか、橘さん」
 はぁ、とため息を吐いて、無駄と知りつつも言わせていただきます。
「寝言は寝ている時に言うから寝言なんです。起きている時に言うのはたわごとです。どちらにしろ、そろそろ現実を直視して、実直に生きてみませんか?」
「そういうわけで、先ほど敵の方から果たし合いが申し渡されました」
 やっぱり無駄でした。いい加減、人の話をそろそろ聞いてください。
「一階の遊戯室で待ちかまえているそうです。こてんぱんにノシてやりましょう」
「遊戯室? そんなのがあるんですか」
「ええ、ばっちり完備しております。ダーツ、ビリヤード、卓球、エアホッケー、ビデオゲーム、カラオケ、さらにはこの宿限定のきょこたんプリクラもあります。なんでもござれってなもんです」
 そんなところに力を入れるなら、もっと従業員を充実させて客寄せをしたほうがいいんじゃないでしょうか……? 何ですか、自炊って。
「さぁっ! しっかり食べて、力を蓄えたらいざ決戦です。先兵と言えども油断なりませんからね」
 妙に気合い入ってるのは構わないんですが、わたしはその間に温泉にでもゆっくり浸かってくることにします。頑張ってくださいね。
「何をおっしゃいますか。吉村さんも大事な戦力ですよ? きょこたん団では新人も即戦力重視なのです。甘えは許されません。期待してますよ!」
 ああ、きょこたん団で確定なんですね……って、わたしもですか!? そんなキラキラした視線を送られてもですね……ええと、助けてください、佐々木さん。
「しかし橘さん」
 ああ、ようやくわたしの願いが通じたみたいです。事ここにいたり、ようやく佐々木さんが助け船を──。
「決戦はいいけれど、その前にせっかく温泉宿に来たんだ。気分を盛り上げるために、堅苦しい普段着は脱ぎ捨てて、浴衣にでも着替えるのはどうかな? その方が、遊戯室で遊ぶにも盛り上がると思うよ」
 って、助けちゃくれないんですね。浴衣なんてどうでもいいじゃないですか。
「確かに佐々木さんが言うことももっともです。それではささっと着替えて行きましょう。というわけで、吉村さん」
「はい?」
「脱げ」
「は? え、あっ! ちょ、ちょっと待ってっ! 待って待って! まだ食事ちゅ」
「遠慮しなくて無問題です。まだお若いですし、浴衣も着慣れていないでしょう? お手伝いしてさしあげます」
「わ、わわ、わかりました! わかりましたから、自分で脱ぎますから!」
 何ですか、この一味の中にはこんな人ばっかりですか? わたしはそっちの趣味なんてありませんから、巻き込まないでください。
 結局、橘さんに半分以上はひん剥かれちゃいました……。
「うわー……吉村さん、まだ小学生なのですよね? これ、何カップですか?」
「うわわわわっ!」
 人のブラを頭に乗っけて、タイムボカンだなんて……わたしが知らないネタはやめてください。そもそもあなた、いつの間に着替えたんですか。
「それじゃ、僕が後片付けをしておくよ。片付けまで含めて料理だと、よく言ったものだね。それでは諸君、頑張ってくれたまえ」
 さ、佐々木さん……そのしてやったりという笑顔はなんですか。それを口実に逃げましたね?
「さぁ、頑張って参りましょう!」
 何と言いますか、今の橘さんなら一人で充分な気がします。はぁ〜……これなら先に、温泉に入りに行けばよかったなぁ……。