涼宮ハルヒの笑顔:後篇

「こここ、こっち来てますよぉっ」
 そんなこと、見ればわかりますって。
 俺は朝比奈さんの手を取って、《神人》っぽい巨人に背を向けて走り出した。どこかに行けるわけでもないが、逃げ出したくもなるさ。とは言え、こっちが50メートル走ったところで、相手は一歩でチャラにしちまう相手。どだい、逃げられるわけがない。
 あっという間に距離を詰められ、降り注ぐ光を遮る影が俺と朝比奈さんを覆った。脳裏に辞世の句が十個くらい浮かんだが、せめて朝比奈さんだけでも守りたい。
 そう考えて、朝比奈さんを守るつもりで覆い被さって床に伏せた。そんなことをしても、相手の質量を考えれば二人そろってぺちゃんこになることは分かっているさ。それでも、そうしてしまうのは条件反射以外の何ものでもない。
 間近で雷が落ちたように、空気が軋む。俺の体は空中に緩やかに放り投げられ……って、なんで放り投げられているんだ?
 どさり、と背中から地面に叩きつけられる。足下が柔らかい砂で助かった。受け身なんて取れるほど、機敏じゃないんだ。
 機敏じゃないと言えば朝比奈さんは……と思って視線を巡らせると、地面に叩きつけられる前にキャッチされてご無事のようだ。
「古泉……」
 憎々しげに、あるいは感謝を込めて、俺は朝比奈さんを抱きかかえている微笑みエスパーを睨み付けた。
「言いたいことや聞きたいことは山のようにあるが、とりあえずは朝比奈さんを無事に守ってくれてありがとう、と感謝してやろう」
「その言葉を聞いてホッとしました。てっきり、怒られるものだと思っていたので」
「怒るのはこれからだっ! なんだこれは? いったい過去まで来て、おまえと長門は何をやってんだ! ここがどこで、なんで《神人》っぽいのが暴れているのか説明しろっ!」
 怒鳴り散らす俺に、古泉は抱えていた朝比奈さんを下ろして肩をすくめた。
「残念ですが、あまり説明する時間はありません。ここは特殊空間ですから、本来の時空間と時間の流れが違っていまして。あまりあなたをここに引き留めるわけにもいかないんですよ」
「俺は説明しろ、と言ったんだ」
「それはここを脱出してから、長門さんに聞いてください」
 古泉の体から赤い光が滲み出たかと思うと、その姿を赤光の球体へと変えて飛んでいく。俺が初めて古泉に連れられて閉鎖空間に入り込んだときと、まったく同じ姿だ。
 ってことはだ、あそこで大暴れしている巨人は、やっぱり《神人》ってことなのか?
「こっち」
 ぐいっ、と首が絞まるほどの勢いで襟首を引っ張られ、口から「うげっ」っと声が漏れた途端に、辺り一面が真っ暗になった。
 別に締められてオチたわけではない。あの閉鎖空間らしき場所から元の世界に戻っただけのこと。ただ……どうも入り込んだときからそれほど時間が経過したとも思えないのに、空は夜の帳で覆われていた。
「時間がない。急いで」
 俺の襟首を力任せに引っ張りながら、長門がそんなことを言った。
「ま、待て。急ぐ前に俺がオチる! 掴むなら手を掴んでくれぇっ」
 必死の嘆願を聞き入れてくれたのか、長門はようやく俺の襟首から手を離してくれた。最初から朝比奈さんの手を握ってるのと、同じようにしてくれ。
「ったく、おまえは……急ぐのはいいが、おまえと古泉が何をやっていたのか説明してくれ。さっきの巨人はなんなんだ? あの空間はハルヒが作り出してたのか?」
「違う。我々に対する敵対勢力の残存兵力が、涼宮ハルヒの情報創造能力を流用して作り出した疑似位相空間と局地戦用人型兵器」
「敵対勢力?」
 それはあれか、高校一年のころからチラホラ現れた、長門の親玉とは別種の情報生命体やら朝比奈さんとは別種の未来人やら古泉の『機関』と対立してたヤツらのことか? けれどあいつらは……。
「それはあなたが気にすることではない。事後処理はわたしたちそれぞれが行わなければならないこと。先ほどの局地的非浸食性異時空間へあなたと朝比奈みくるが引き込まれたのは、わたしと古泉一樹の失策。済まない」
 ……じゃあ何か、全部すっかり終わったもんだと思ってたのは俺だけで──朝比奈さんは過去の俺たちを助けてくれているから別としても──長門や古泉は現在進行形で厄介事を抱え込んでるのか?
「そう」
 長門はあっさりと肯定した。
 おいおい、マジかよ……。今回の時空改変騒ぎが虚言だと思って。おまえらがグルになって虚言を吐いてると思っていた自分が、ことさら恥ずかしく思えるぜ。
「敵対勢力にとって、時空改変が行われ始めているこの時間帯が最後のチャンス。何かしらの接触があることは予測できる範囲のこと」
「今は過去だろう、この時間のおまえや古泉は何をしてるんだ」
「この時間平面に存在するわたしの異時間同位体も敵性勢力の残存兵力は把握している。けれど、わたしの役目はあくまでもあなたと涼宮ハルヒの保全。他時間平面からの干渉に関して、この時間平面に存在するあなたや涼宮ハルヒに敵対的接触が行われない限り、わたしが干渉することはない」
 ……クールというか、融通が利かないというか、いかにも長門らしい。
「どうして、まだ厄介事が続いていたことを俺に教えてくれなかった」
「宇宙生命体の処理や未来の懸念、反社会的勢力への対処は、各々が所属する組織の問題。あなたを巻き込むべきではないと判断したのは、わたしや朝比奈みくる、古泉一樹それぞれの意思。あなたはには」
 長門はゆっくりとした動作で、しっかりと俺を指さした。
「涼宮ハルヒのことだけを想ってほしい。それがわたしの……わたしたちの願い」
 おまえは……おまえらはホントに……どうしていつも、人のことばかりを先に考えるんだ。そりゃ俺には何もできないかもしれないが、もうちょっと頼ってくれたっていいだろうが。
「それは違う」
 いつもより機敏に首を横に振って、長門は俺の言葉を否定した。
「今ならわかる。涼宮ハルヒは世界を変える力を持ち、あなたは人を変える力がある。三年前まで、わたしたちはあなたに頼り続けていた。だから今は──」
 長門は視線を彷徨わせ、自分の頭の中にある語録の中からもっとも適した一言を選び出したようだ。
「──恩返し」
 恩……恩ときたか。まったく、何言ってやがる。それこそお互い様じゃないか。
 今まで俺がどれだけ長門に……長門だけじゃない、朝比奈さんや古泉たちに助けられたことか。俺に人を変える力がある、だって? それこそバカげている。変えたのは俺じゃない。おまえたちが自分で変わろうと思ったから、変わったんじゃないか!
「ああああああっ!」
 突如、朝比奈さんの場違いな叫び声が木霊した。
「な、なんですか突然?」
「たっ、大変ですっ! 涼宮さんと約束の時間まで、あと30分もないですよぉ〜っ」
 おいおいおいおい、勘弁してくれ。時間に余裕があると思っていたのに、何時の間にそんなに時間が過ぎたんだ?
「疑似位相空間の中は通常空間と時間の流れが異なる」
 先に言ってくれ長門……って、古泉もそんなことを言ってたな。
「急いで、とわたしは言った」
 ……ああ、そうだな。そうだった、悪かったよ。さっきまでのいい話が台無しになるから、そんな睨まないでくれ。
「と、とと、とにかく急ぎましょ〜っ」
 言われるまでもない。俺たちはハルヒが待っているであろう、東中を目指して走り出した。
 なんだっていつもいつも、時間ぎりぎりになるのかね? 高校時代の市内パトロールの時みたいに驚異的な30分前行動を取っていたSOS団としては、嘆かわしいことこの上ない状況じゃないか。俺だって誰かとの待ち合わせのときは、今でも最低でも10分前には待ち合わせ場所に着くようにしてるってのに。
「……え? あれ、うそ……なんで?」
 急いでいた俺たちだったが、急に朝比奈さんが立ち止まって困惑顔を浮かべた。困惑、というよりも青ざめている。これ以上、どんな厄介事が降りかかってきたっていうんだ。
「あの……あたしたち4人に、元時間への強制退去コードが発令されちゃいました……」
「はぁ?」
 なんだそれは? いや、言いたいことはわかる。この時間において、俺たち4人はイレギュラーな存在だ。だからこれ以上引っかき回さずに元の時間に戻れ、と言いたいんだろう。
 だが待ってくれ。そうじゃないだろ。俺たちは改変された世界を元に戻すためにこの時間に来ているんだ。そうじゃなかったんですか、朝比奈さん?
「そ、そうです! でも、上の……あたしの組織のもっと上の方から、今回の改変は歴史変化の許容範囲と見る意見もあって……だから、その」
「つまり、あなたと涼宮さんの結婚がもたらす変化より、結婚しない未来の方を選択した、ということですか」
 おまえ、古泉……何時の間に現れやがった。というか、無事だったか。
「空間の断裂がこの近くだったのは幸いですね。手間取りましたが、なんとか弱体化させることはできました。あとはこの時間平面の『機関』の役目です。それよりも、困った事態ですね」
「何がだ?」
「朝比奈さんも単独で動いているわけではなく、我々の『機関』のような仕組みになってるのでしょう。そこで今回の出来事の意見が分かれており、結果、今回の時空改変は歴史が持つ多様性のひとつ、許容範囲内の変化だったと結論づけたのではないでしょうか?」
「そう……です」
 古泉の憶測を、朝比奈さん自身が肯定した。
「なんだそれは? ずいぶん勝手な話じゃないか。そもそも今回の時空改変は俺とハルヒが結婚するかしないか、だろ? それはちょっとした歪みとかじゃなくて、未来における決定的な違いを生み出すんじゃなかったのか?」
 これじゃまるで、朝比奈さんが所属する組織の上が、俺らの敵対勢力の肩を持つようなもんじゃないか。おかしくなってる未来をまともな形にするために、俺たちはこうやって過去までやってきて……まとも?
 ……なら、本来、朝比奈さんが知っている未来と、今こうしておかしくなっているという未来の違いってなんだ? 俺とハルヒが結婚するかしないかで、未来が無視できないほどの決定的な違いってなんだ? 朝比奈さんが「禁則事項」と言った、その答えはなんなんだ?
「あなたと、涼宮ハルヒの子供」
 答えを言うことができない朝比奈さんに変わって、神託を下す使徒のように長門は告げた。
「確証はない。けれど考えられる選択肢のひとつ」
「どういうことだ?」
「あなたと涼宮ハルヒが結ばれることによって、涼宮ハルヒが有する情報創造能力がどのように変化するか、あるいは受け継がれるか、それがわかる」
 なんだそれは?
「……その考えは『機関』の中にもありました」
 どこか言いにくそうに、古泉が長門の言葉を受け継いで話を続ける。
「涼宮さんは世界を創造するという、神の如き力を持っている。けれど体は生身の人間です。いずれは老衰で、あるいは突発的な事故や病気で不帰の客となる日を免れることはできません。そのとき、世界はどうなるのか? 何事もなく続くのか、あるいは消滅するのか、もしくはがらりと様変わりをするのか、それとも……力を受け継ぐ神の子が現れるのか」
「それが……ハルヒと俺の子供だとでも? それを言うなら……」
 言っていいのか? それを、俺が。
「……何も俺との子供じゃなくたっていいだろう。ハルヒが産む子供であれば、別に俺じゃなくたって」
 言うべきじゃなかった。口にして後悔した。俺が何を思ったのかは……まぁ、察してくれ。
「朝比奈さん、強制退去コードが発令されたとおっしゃいましたが、具体的にはどうなるのでしょう?」
 俺が今、どんな顔をしているのかはわからない。ただ、古泉は俺の意見を無視して朝比奈さんに話を戻した。
「朝比奈さんは立場上、元時間に戻らなければならないでしょうが、僕たちにまで強制力があるものとは思えません。僕たちが勝手に行動すること──そういうことにして、見逃してはいただけませんか?」
 珍しく古泉が悪巧みめいたことを言うが、朝比奈さんは力なく首を横に振った。
「強制退去コードが発令された以上、あたしが元時間に戻ることを拒否することはできません。仮に拒否できたとしても、あたしたち4人は強制的に元時間へ時間遡航させられます」
「……長門さん、その場合、あなたの力で時間遡航をキャンセルさせることはできますか?」
「できなくはない。が、推奨はしない」
 長門にしては珍しく、その表情に諦めの色が浮かんでいた。
「朝比奈みくるの所属する組織と敵対することになる」
「しかし……」
「やめとけ、古泉」
 気持ちは嬉しいがな、これ以上、俺とハルヒのことで話をこじらせたって仕方がない。下手すれば、朝比奈さんの立場がマズイものになる。
 これがまぁ、運命ってヤツだ。もともと俺とハルヒに道は高校卒業と同時に分かれた。普通なら、もうそれっきりさ。けれど俺の場合、もう一度だけ道が交わるチャンスがあっただけめっけもンさ。それでも交わることができなかったというのなら、それを運命といわず、なんと言おうか。
 それだけハルヒが俺……たちと離れることを望んでいたってことだろう。あいつが一人で進むべき道を選んだというのなら、追いかけるべきじゃない。
「あなたは……それでいいんですか?」
「いいも悪いも、もう何もできることはないだろ。俺だって……」
 そうさ。俺だって出来ることがあるのなら、なんとかしたい。けれど時間がない。できることは何もないじゃないか。諦めたくはないが、諦めざるを得ないじゃないか。
「…………まだ……」
 ポツリ、と朝比奈さんが呟いた。
「まだ、です。まだできることはあります。強制退去コードが執行されるまで、まだもう少しだけど、時間があるはずです。五分後かもしれないし、次の瞬間かもしれないけど、まだ諦めちゃだめですっ」
「しかしですね……」
「しかしもカカシもありませんっ! キョンくん、諦めるためにこの時間平面に来たんじゃないでしょ? 涼宮さんとまた、会いたいんでしょ? なら、諦めないでください! あたし、イヤなんです。ホントのことがウソになっちゃうなんて、そんなの絶対イヤなんですっ!」
 朝比奈さん……。
 ええい、くそっ! 何をやってんだ俺は? 歳とって諦めやすくなっちまったか? 朝比奈さんにそんな当たり前のことをいわれなくちゃ行動できないような、マヌケな男になっちまってたのか? 情けないにも程がある。
「すいません、朝比奈さん。それに、長門も、古泉も。迷惑かけちまうが、勘弁してくれ!」
 俺は走り出していた。普通に考えれば間に合うはずもなく、こんなことしたって無駄で無意味なのはわかっている。
 だからどうした。
 無駄で無意味のどこが悪い。俺は感じたままに、感じたことをするだけだ。
 立ち止まってたまるか。下を向いてどうする。あいつはいつも、くっだらないことをクソ真面目に前を向いて一時も立ち止まらずに、やりたいことをやってたじゃないか。
 思い出せ。長門が世界を改変させたとき、俺は何を考えた? どういう結論を出した?
 忘れるわけがない。身の回りに宇宙人やら未来人、超能力者がふらふらしている世界を肯定し、受け入れ、傍観者から当事者になることを選んだ。涼宮ハルヒという訳の分からないヤツを中心に、バカ騒ぎしてやろうと決めたんじゃないか。
 それを決めたのは俺だ。もう離さねぇぞ、ハルヒ。おまえが拒んだってな、俺のほうから食らいついてやる。おまえの我が侭にはイヤってほど付き合ってやったがな、俺と離れたいなんて我が侭なんぞ、大却下だっ!
「はっ……がぁっ、くそっ……」
 もう汗も噴き出しやしねぇ。口の中はカラカラだ。運動不足がここに来てアダになってやがる。足の筋肉は悲鳴を上げて、目もかすみ、音もよく聞こえない。
 見慣れた線路沿いの道までたどり着いた。あとはそこの角を曲がればゴールだ。ここで立ち止まったら、二度と動けない。そんな気分で角を曲がる。
 と、そこで俺は愕然とした。足を止めざるを得なかった。
 道がない。真っ暗な闇が、そこにある。なんだコレは? どういうことだ。
 後ろを振り返れば、今まで走ってきていた道が、景色が、光の粒子に姿を変えて消えている。角砂糖で作られた町並みが、雨に濡れて溶けていくようだ。
 まさかこれが……朝比奈さんの言っていた強制退去コードの執行ってやつか? 俺は……間に合わなかったのか?
「くそっ……」
 ゲームオーバーだ。コンテニューも復活の呪文もありゃしない。未来を出し抜こうなんて、俺には過ぎた妄言だったってのか?
「認めるか……認めねぇぞ、こんなこと!」
 散々走り回って、喉もカラカラで声なんて出ないと思っていたんだが、それでも俺は叫んでいた。まだ、俺の体は声を出す気力を残していたらしい。
「ハルヒーっ!」
 周囲が闇に包まれる。確かにそこにあるのは、立つことだけを許された儚げな小さい足場だけ。それすらも、今に消え去ろうとしている。
「待ってろ、必ず会いに行くから!」
 違うだろ。そうじゃない。言いたいことは、そんなことじゃない。いい加減にしろよ俺。二十歳を過ぎて一年も経ついい大人が、言いたいこともわからないのか?
「ハルヒ、俺は……っ!」
 視界が回る。耳鳴りがする。誰かの声が聞こえた……気がする。
 誰だ? 誰かそこにいるのか? そこにいるのはおまえか、ハルヒ?
 手を伸ばす。その方向で合っているのかどうか、わからなくとも俺は手を伸ばした。
 目を見開いているはずなのに、何も見えない。闇がこれほど怖いと思ったことはなかった。
 伸ばした指先に、何かが触れる。触れたような気がした。必死にそれをたぐり寄せようともがくが、感覚がない。自分の体なのに、自分のものじゃないみたいだ。
 不安ともどかしさで、気が変になりそうだった。
 体全身の感覚がなくなる。上下感覚すら消失する。
 そして俺は──何かを手にしたのか、それとも失ったのか──それを確かめることもなく、意識を暗転させた。


 ゴンッ! と、額に携帯電話がダイブしてきた衝撃で俺は目を覚ました。最悪な目覚めに気分も落ち込むってもんだ。おまけに体全体が筋肉痛で痛むし、どうして自分がアパートの自分の部屋で寝ていたのかさえ思い出せない。
 ──まいったな……
 ご丁寧に、強制的に現代に戻されたかと思ったら、自分のアパートか。旅費が浮いて助かった、なんて感謝するとでも思ってるんじゃないだろうな?
 俺はついさっきまであったことを、すべてしっかり覚えている。人を引っ張り回すだけ引っ張り回して、こっちが何もできないのをいいことに、無理矢理元の時間に戻された恨みを忘れてたまるか。
 俺に感謝されたいんだったらな、せめて無力を痛感させられた記憶もしっかり消してくれ。
「くそっ……」
 泣くべきか叫ぶべきか、それもわからない。眠りを妨げた携帯電話を手にとって、八つ当たり気味に投げ捨てようと思ったそのとき、ふとディスプレイを見れば、おびただしい量の着信履歴があることに気付く。
 履歴は、朝比奈さん6割、古泉3割、長門1割ってとこか。留守電にも、各々コメントが入っていた。いちいち紹介するのも面倒臭い。ざっくばらんに紹介すれば、朝比奈さんは謝罪、古泉は慰め、長門は……相変わらず、何が言いたいのかさっぱりだが、まぁ、慰めてくれているんだろう。
 魂の抜け殻になった体は、各々のコメントをただ適当に聞き流していた。
 ため息しか出ない。
 どんな慰めや謝罪の言葉をもらったところで、誰に当たり散らせばいいってもんでもない。この結果になったのはハルヒが望んだからであり、俺の力不足のせいでもある。
 遠いな、ハルヒ。
 おまえがこんな遠くに感じたのは初めてだ。おまえと離れたこの三年間、そんなことを微塵も思ったことはないし考えたこともないが、今は無性におまえが遠くに感じる。
「……ん」
 三人のメッセージを聞きつつ、頭の中ではハルヒのことを考えていた俺は、おそらく最後に録音されていたであろうメッセージで、ふと現実に引き戻された。
 これまで散々録音されていた三人それぞれの声が、そのメッセージで途切れた。何も喋ってねぇ。留守録に切り替わると同時に切ってやがる。
 イタズラ電話か、間違い電話か。
 どっちだっていいさ。用があるヤツなら、メッセージのひとつも入れておくだろう。
 携帯を投げ捨て、煙草に手を伸ばし、火を点ける。紫煙を燻らせながら無気力の条件反射でテレビを付けると、朝のワイドショーが映し出された。丁度朝の八時か。
 コメンテイターが「ゴールデンウイークが終わって今日から仕事の人も……」などと、どうでもいい前振りをしている。
 だからどうした。そろそろ将来のことを見据えて仕事選びを始めた俺なんて、毎日が暇つぶしみたいな……なんだって? 今、なんて言った?
 俺はテレビにかじり付く。ええい、おっさんのドアップなんぞ映さなくていい。今日が何日なのか教えろ。って、そうか、携帯を見ればいいのか。
 放り投げた携帯を拾い上げて、カレンダーを見る。間違いない、疑念が確信に変わった。
 今日は、朝比奈さんの電話でたたき起こされてハルヒが起こした時空改変を修正するために過去へ旅立ったその日だ。
 それが何を意味するのか? 答えはシンプルだ。けれど、その計算式は複雑極まりない。答えはわかっているが、その説明ができない。
 先に答えを出しておこう。
 時間がズレしている。
 それしかない。それで間違いないし、それ以外にあり得ない。
 本来なら……というか、俺の記憶が正しければ、これから古泉に連れられて田舎に戻り、長門のマンションから三年前の過去に旅立つはずだ。
 しかしそれは、もう過ぎたことになっている。
 何故それがわかるのか。
 決まっている。朝比奈さんや古泉、長門からの留守録メッセージが、事の終わりを告げているからだ。にもかかわらず、俺の記憶では「今日、過去に行って失敗する」という、その規定事項はすでにクリアされている。
 この時間に俺が二人いる……なんて単純な話じゃない。何故なら、ここが俺のアパートだから。ここに俺がいるなら、まだ何もしらない俺はどこにいるんだ、ってことになる。
 どういうことだ? 何がどうなっている? すべての出来事が1日ズレていることに……どんな意味があるんだ? そのことを説明できるのは……あいつしかいない。
 俺はすぐに電話をかけた。コールを待つまでもなく、すぐに繋がる。電話の前で待機してたんじゃないかと思える速さだ。
「すまん長門、俺だ。ちょっと混乱してるんだが……」
『わかっている』
 説明が短く済んで助かる。こいつにも、すべてわかっているんだな。それとも、この存在しない一日をくれたのは、おまえか?
『わたしは何もしていない。今日は、すべての人々にとって当たり前の一日。今日という過去が明日という今になった、平穏な日常。あなたにとっても、そう』
 当たり前の一日だって? 今の俺にとっちゃ、奇妙で非日常的な一日でしかないぞ。
『違う』
 長門は俺の言葉を否定する。
『今日はあなたが知っている平穏な一日。あなたが本来存在する、今の時間。誰にも邪魔はできない。わたしがさせない。だから──』
 長門は同じような言葉を繰り返し、しばし口を閉ざしたかと思うと、最後に一言だけ付け加えた。
『──待っている』
 がちゃり、と通話は切られた。長門から受話器を置いたのだろう。もうそれ以上、話すことはないと言いたげだ。
 ──いや、違うな。話すことがないんじゃない。あれが長門の精一杯なんだ。何かしらの制限を受けているのか、それとも適切な言葉が思い浮かばなかったのか……どちらにしろ、長門は俺に答えを伝えている。
 俺が存在する時間。当たり前の日常。そして、存在しないはずの一日。
 大丈夫だ、長門。おまえは本当に頼りになるヤツだよ。おまえのメッセージはいつもあやふやだが、伝えたいことはしっかり伝えてくれることを、俺は知っている。そしてちょっと考えれば、すぐにわかる答えばかりだったよな。
 俺はシャワーを浴びてから身支度を調え、乏しい財布の中身を見てため息を吐いてから、外に出る。
 今日が昨日から続く当たり前の日常だと言うのなら──行くべき場所は、あそこしかない。


 小春日和の天気とは言え、夜になるとまだまだ寒くなる。筋肉痛プラス新幹線移動のひどい仕打ちでへばっている俺の体は、ゆるゆると続く路線脇の道を歩くだけでも悲鳴を上げそうだった。
 時折過ぎていく電車は、ドップラー効果を残して消えていく。次第に人気の失せていく道に、北高のセーラー服姿が似合っていた朝比奈さんを背負って歩いた思い出が蘇る。
 過去を懐かしむことができるのは、大人の特権か。
 昔を思い出してため息を吐くなんて、高校のころは年寄りじみて自分はそうなりたくないと思っていたが、逆に今は振り替える思い出があることを誇りに思う。
 その誇りも、ただ日々を積み重ねてきただけで培われるものじゃない。自分から前に出て行動しようと思ったから作り出すことのできた思い出だ。
「おい」
 おまえの思い出だってそうだろ? 俺なんかじゃ比べものにならないバイタリティで、いつも俺の手を引っ張って良くも悪くも行動を起こしてたよな? そこの──鉄格子をよじ登ろうとしているお姉さん。
「なによっ」
 そいつはポニーテールの髪を揺らし、貫くような視線を俺に向けた。
 既視感を覚える。
 三年か。そういえば前も三年の差があったな。これはあのときの再現なのか……なら、次に出てくるセリフもわかってる。
「なに、あんた? 変態? 誘拐犯? 怪しいわね」
 こういうのも、以心伝心というのかね? 嬉しいと思うべきか、嘆かわしいと感じるべきか、答えは保留にさせてくれ。
「おまえこそ何をやってるんだ?」
「決まってるじゃない、不法侵入よ」
 そう言って、二十歳も超えて立派な成人になったってぇのに、鉄扉の内側に飛び降りて、閂を固定していた南京錠をはずした。その鍵、まだ持ってたのか。
 鉄扉をスライドさせて六年前──こいつにしてみれば、もう九年も前の話か──のように手招きをして、自分はさっさとグラウンドに歩いていった。
 これで俺も不法侵入の共犯者か。
 肩をすくめて後に続くと、そいつは満点の星空の下、グラウンドの真ん中で空を見上げていた。七夕と違うのは、この空の明るさか。この辺りも都会になったと思っていたが、東京に比べると星の数が段違いだ。
「ねぇ、宇宙人っていると思う?」
 空を見上げたまま、そう聞いてきた。
「いるんじゃねぇの?」
「じゃあ、未来人は?」
「いてもおかしくないな」
「超能力者は?」
「そんなもん、そこいらにゴロゴロしているさ」
「ふーん」
 気のない返事をして、空を見上げていた視線を足下に移す。吹き抜ける風が、束ねた髪と遊ぶように巻き上げて駆け抜ける。その表情は、笑顔とほど遠い。
「悪かったよ」
 俺はその姿に謝罪した。これでも急いで来たつもりなんだ。あっちこっち寄り道して、長門からヒントをもらって、ようやく今日のこの日、この瞬間にたどり着くことができた。
 俺にとっての日常。当たり前の平穏。それは、宇宙人や未来人、超能力者と一緒に訳の分からん事態に巻き込まれて、その中心にいる唯我独尊の団長さまを心配する一日。
 そして、ズレた今日が過去になった今という現実。存在しない一日という奇跡を残しておいてくれたのは──おまえだよな、涼宮ハルヒ。
 ようやく、おまえを見つけることができたよ。
「三年も待たせて、悪かった」
「まったくね。ま、あんたの遅刻癖はいつものことだけどさ」
 怒るでも呆れるでもなく、ハルヒはそう言った。どこか遠くを見ているような、けれどその目は俺を見ているのではなく、違う何かを見ている。
「この三年間、どうだった?」
「別に。どーってことない毎日だったわ。そこそこ楽しくて、まぁまぁつまんなくて……そういうあんたはどうなのよ」
「あり得ないことが連続の、非日常だったよ」
 それは揶揄でも誇張でもない、事実あり得ない日々の連続だったさ。毎日決まった時間に目を覚まして大学に通い、その後バイトに行って疲れて帰ってきて寝る。
 あり得ないだろ? 高校時代の俺の日常からは、かけ離れた生活じゃないか。近くに宇宙人も未来人も超能力者も──ハルヒすらいない日々なんだぜ。
 そんな世間一般の平凡な生活を送るハメになったのも、おまえが俺を見捨てようとしたからなんだ。分かってるのかよ?
「なんで俺たちから離れようと思ったんだ?」
「……別にそんなこと、思ってない」
 はぁっ、と俺はため息を吐く。
 そうだな、おまえは俺たちから離れようなんて微塵も思っちゃいなかっただろうよ。ただ、今のは俺の聞き方が悪かっただけだな。訂正しよう。
「なんで俺から離れようと思った」
 俺はそこまで鈍感じゃないんだ。おまえは確かに長門や朝比奈さん、古泉と離れたいとは思っていなかっただろうが、俺とはどうだ? 距離を置こうとしてたじゃないか。
 そりゃないぜハルヒ。俺を巻き込んだのはおまえの方だってのに、なのに見捨てるなんて酷すぎるじゃないか。
「あたしが……あたしであるために……かな?」
 ハルヒは淡々とそう告げた。
 意味わかんねぇよ。おまえはいつもおまえで、そのままだったじゃないか。俺が側にいてもいなくても涼宮ハルヒだったじゃないか。だったら、俺が側にいることを許してくれてもいいじゃないか。
「違うわよ。あたしは、あんたがいたから『あたし』だったの」
 そう断言した。断言してから、一瞬迷うように視線を泳がせて、言葉を続ける。
「中学の時はずっと一人で好き放題やってて、周りから孤立してた。高校でも、そうだと思った。けど、あんたがいてくれた。あんたは嫌々だったかもしれないけど、それでも引っ張るあたしに『やれやれ』って顔しながら、それでも着いてきてくれて……それが嬉しかった。あんたがいたから、あたしは一人じゃないって思えたし、笑っていることもできた。でも」
 ハルヒは、心の中の澱んだものを一緒に吐き出すかのように吐息を漏らした。
「もし、あんたがいなかったらあたしはどうなってたと思う?」
 貫くようなハルヒの視線。その視線には、何の感情も込められていなかった。喜びも悲しみも、怒りも哀れみもない。いや、もしかするとすべての感情がごちゃ混ぜになっているからこそ、俺にはわからなかっただけかもしれない。
「そして気づいちゃった。あんたがあたしを守ってくれて、笑うことを許してくれて、支えてくれてたんだって。そんなあんたがいなくなたら……あたしはどうなるの? あたしを生かしてくれていたあんたがいなくなったら……あたしはあたしじゃなくなるの? そんなことないって思った。思いたかった。だから」
 それが、俺から離れた理由? それを本気で言ってるのか、ハルヒ。おまえはそれでいいかもしれないが、なら俺の気持ちはどうなる? 自分勝手も過ぎるってもんじゃないか。
「あたしが何も知らないとでも思ってんの? あんた、いっつも額にしわ寄せてさ、すっごく大変で困ったこと抱えてますって顔してたじゃない」
 俺、そんな顔してたのか。確かに毎日そんな気分だったが、自分じゃまったく気づいてなかった。そうだな、ハルヒは勘の鋭いヤツだから、気づかれていてもおかしくはない。
「あたし、あんたの力になりたかった。あたしに何かできることがあるのかわからないけど、それでも力になりたかった。なのにあんた、何も話してくれなかったじゃない。手を差し伸べることさえ許してくれなかった」
「それは……違う。俺は、」
「あんたが抱え込んでた不安って、あたしのことなんでしょ?」
 俺は、何も言えなかった。俺が抱え込んでいた懸案事項は、確かにハルヒのこと。それが間違っていないからこそ、何も言えなかった。
「あたし、あんたの重荷になんてなりたくない」
 揺るがない意思。挑むような言葉。こいつの頑固さは今に始まったことじゃないし、思い込みの激しさも並じゃない。一度口にした言葉が覆ることもない。
 それが真実の言葉なら。
「ウソはやめろ」
 今の言葉のすべてがウソだとは言わない。ハルヒの偽らざる本心であることもわかっている。けれど、その土台となる思いがウソなら、それは見かけ倒しの本心だ。根本にある思いを偽っている限り、俺が簡単に騙されると思うな。
 こいつは三年前の高校卒業のときに、俺に本心を見せていた。告白したことや、キスしてきたことじゃない。すべて吹っ切ったように見せた笑顔でもない。
 最後の言葉だ。
 あれが、おまえの偽らざる本心じゃないか。
「覚えているか? おまえ、俺に『またね』って言ったんだ。『さよなら』じゃなくて『またね』って。何もかも吹っ切ったように見せて、告白してキスまでして、それでも最後の最後でおまえは『さよなら』が言えなかったんだ」
 だから、今がある。この日、この場所で出会うことができた。
「ハルヒ」
 俺はハルヒの手を取って、抱き寄せた。
 いつもこいつの方から手を差し伸べていたけれど、俺はいつも振り払っていたのかな。悪かったよ、そんなつもりはなかったんだ。それでも今日だけは、今だけは、俺の方から差し伸べる手を振り払わないでくれ。
「おまえ、卒業のときに『俺の気持ちなんてどうでもいい』とか言ってたな。ひどいじゃないか。自分だけ言いたいこと言って、俺には何も言わせてくれないのか」
「……なによ」
「俺は、おまえと離れたいなんて考えたことは一度もない」
「…………」
 そうさ。俺はそんなことを本気で考えたことなんて、一度もないんだ。
 間違えるな。ハルヒに辛い思いをさせていたのは俺なんだ。意識的にしろ、無意識的にしろ、傷つけていたのは俺のほうだ。
 そして、それを気づかせてくれたのもハルヒだ。
 忘れるな。ハルヒが俺と出会って変わったって言うのなら、俺もハルヒのおかげで変わることができた。おまえが隣にいることが、俺にとっての日常であたりまえなんだ。もうこれ以上、無意味でつまらん非日常なんて送りたくはない。
 だから、言わせてくれ。
「おまえが好きだ」
「……そんなの……とっくにわかってたわよ、このバカっ!」
 絞り出すような声。微かに肩が震える。それでもコイツのことだ、泣いちゃいないだろうがね。泣きじゃくるハルヒなんて、想像もできやしない。
「そうか、わかってたか」
「あんたが許したんだからね! あたしが……側にいること。だから、もうあたしの方から離れるなんて言わないわよ!」
「ああ、それでいいさ」
「あたし、あんたの重荷になっちゃうかもしれないわよ。ホントのホントに、それでいいの?」
「いいって言ってるだろ。目を離す方が不安になる」
 俺だって──三年も返事するのに待たせたんだ。そのくらいの時間が必要だったんだよ。お互い様じゃないか。
「三年じゃないわ」
 ハルヒはそう言うと、ポケットから色あせた便せんを取り出した。ああ、すっかり忘れてた。
「あたしにとっては、中一から今日までの、九年越しの思いよ」
「そりゃまた……気の長い話だな」
「待たせたのはあんたでしょ」
「いや待て。それはジョン・スミスだろ? 俺じゃない」
「あんたがジョン・スミスでしょ?」
「いや……まあ」
「それとも、キョンって呼ぶべき?」
 こいつの意地の悪さは承知しているが、ここまでとは想定外だ。
「こんな時くらい、ちゃんと名前で呼んでくれ」
「名前……ねぇ」
 ハルヒは──本当に久しぶりに──白鳥座α星の輝きのごとき笑顔を浮かべ、底意地が悪く口元を釣り上げてから「あんたの名前名なんて忘れちゃったわ」と言って……俺の反論なんぞ受け付けないとばかりに唇を重ねてきた。
 それは冗談だよな? まさか本当に俺の本名を忘れてるわけじゃないよな? もし忘れてるってんなら……まぁ、いいか。
 それでごまかされるのが俺らしい役どころだろ?