五月のゴールデンウィーク明け、妹が東京見物と称して俺のアパートを占拠していた嵐が昨日でようやく通過したその日の朝のこと。寝不足続きで昏々と眠り続けていた俺は、間断なく鳴り続ける携帯の着音で無理矢理たたき起こされた。
乱雑に放り投げてある携帯に手を取り、不機嫌極まりない心持ちで通話ボタンを押す。画面に映っている着信履歴を見なかったのは、一生の不覚と言えるだろう。
「はい、どちらさん?」
『も──し、み──です』
不機嫌極まりない声で電話に出た俺は、相手がすぐに理解できなかった。寝惚けてたってのもある。昼夜逆転生活を余儀なくされたため、寝酒をかっくらったせいかもしれん。おまけにアパートの立地が悪いので、よく電波が途切れることも原因のひとつに上げておこう。
「あ、誰だって?」
寝不足に苛々も相まって、最初より口調がきつくなってたかもしれない。布団から抜け出して窓際まで移動しつつ、早朝から電話をかけてきた不躾な相手に、俺はつっけんどんに聞き返していた。
『ひゃうっ。あ、あの……朝比奈みくるです。えっと、今大丈夫ですか?』
「え?」
俺は携帯を耳から離し、着信相手の番号と名前を見た。ここしばらくご無沙汰だった朝比奈さんの番号で間違いない。一気に目が覚めるとともに、思わず青ざめたね。
「あ、ああ、大丈夫です。すいません、電波状態がよくないもので」
『それより、今日って何日ですか?』
なんだそれは? というのが、正直な感想だった。気分を害されたんじゃないかと思った、俺のピュアな気持ちをわずかばかりでも返していただきたい。
こうして朝比奈さんと会話をするのも、実に久しぶりだ。過去と未来を行き来している彼女には、こちらから連絡を取る手段がない。やんごとなき事情があるときは、彼女がこの時間で借りているマンションにレトロな手紙を送っておくしかない。どうしても朝比奈さんからの連絡待ちになってしまうんだ。
「なんですか、それ?」
『今、キョンくんって東京のアパートですよね? あたしの勘違いならいいんですけど……今日、五月のゴールデンウィーク明けですよね?』
「そうですね、それで合ってますよ」
ちらりとカレンダーに目を向けて、妙な確認を取ってくる朝比奈さんの言葉を肯定する。時間旅行を続けていて曜日感覚がおかしくなった、なんてことは、昔の朝比奈さんなら十分ありえるんだが……今もそうなんだろうか?
『キョンくん、不躾な質問でゴメンだけど……そこに今、涼宮さんいる?』
「え、ハルヒ……ですか?」
なんでそこでハルヒなんだ?
「いませんよ」
『ええええええっ!』
ガラスさえもぶち破りそうな超音波に、俺は咄嗟に携帯から耳を話した。なんなんだ、いったい?
「どうしたんですか?」
『あ、あの、キョンくん、今日はどこにも行っちゃだめですよ! すぐに連絡しますから、そこで待っててください!』
「それはいいですけど、」
ちゃんと説明してください、と言わせて貰えずに通話は切られた。
唐突に電話をしてきたかと思えば、意味不明な切り方。まったくもって朝比奈さんらしくない。高校を卒業してからは唐突な行動が確かに増えていたが、それもすべて過去に俺が体験したことと合わせてみれば納得できる範囲のもの。
けれど今日の電話だけは、あまりにもらしくない。いや、今の朝比奈さんらしいと言えば、らしい行動か。俺が高校時代に会っていた朝比奈さん(大)と同じような、秘密を隠している『らしさ』だ。
──また何か起きたんだな……
俺は朧気ながらに考えた。けれど今はもう、俺がしゃしゃり出るようなこともあるまい。ハルヒ中心のドタバタ騒ぎは幕を下ろし、あまつさえ俺とハルヒの道は分かれてしまった。今の俺にできることは、昔話を語るくらいさ。
そんなことを薄ぼんやり考えていると、また携帯が鳴った。今度はちゃんとディスプレイに目を通す。朝比奈さんだ。
「もしもし?」
『今からそっちに、えっと、たぶん古泉くんが行くと思います。合流したら、すぐこっちに来てください』
まるで高校時代のハルヒからの電話みたいだ。定型文の挨拶すらなく、朝比奈さんは電話口で一気にまくし立てた。
「古泉ですか? なんだってあいつが、」
『あたしは長門さんと一緒にいますから、詳しくは合流してから。キョンくん、待ってますから、必ず来てくださいっ』
がちゃり、と切れた。もうちょっと甘い話をしませんか、朝比奈さん。
なんて感傷に浸る間もなく、呼び鈴が鳴らされる。このまま布団の中に潜り込んで夢の世界に旅立とうかとも思ったが、朝比奈さんたっての願いとあればそうもいくまい。
「ご無沙汰してます」
「早かったな」
久しぶりに見る古泉は、学生時代に散々見せていた笑みを潜めていた。せっかくの再会だ、作り物でも笑みを見せてくれたっていいだろうに。
「笑っていられる状況ならばそうもしますが、今は緊急事態なもので」
「緊急事態だって?」
こいつが緊急事態ということは、近年希にみる巨大な閉鎖空間でも出来たか? そうだったら、ここ最近のことを考えれば緊急事態だな。けれど何故、今になって俺を引っ張り出すんだ。そもそも俺を巻き込む理由なんてあるのか?
「朝比奈さんから何も聞いていませんか? ともかく、時間が惜しいのですぐに行きますよ」
「寝起きなんだよ、顔くらい洗わせてくれ。つか、いったいどこに行くんだ?」
「里帰りです」
言うや否や、古泉は俺の腕を鷲づかみにすると部屋から引っ張り出し、そのままコイツの車の中に押し込められた。さすが社長さん、ン千万クラスの高級スポーツカーとは恐れ入る……って、そんなことはどうでもいい。何なんだ、この強引な展開は?
「俺の都合も考えろよ! 何なんだ……わかるように説明してくれ」
ここがサーキットだとでも言いたげなドライビングで車をかっ飛ばす古泉に、俺は舌を噛みそうになりながら問い質す。ハンドルを握る古泉は、ちらりと俺を一瞥した。
「あなたの都合を尊重したいのは山々ですが、これでも僕はあなたの友人の一人であると考えているもので。友人の未来に関わることであれば、放っておけませんよ」
「俺の未来? なんだそりゃ」
「未来について、僕は専門外です。適任者に詳しい話を聞いてください」
それっきり口を閉ざして、車は高速道路を150キロオーバーで突き進む。途中休憩一切なしで、俺は懐かしの故郷に足を踏み入れた。
あまりの急展開だが、見慣れた景色を眺めると妙に落ち着く。懐かしさと切なさが鳩尾あたりでぐるぐる回る。東京に出て三年、一度も戻ってきてなかったから、その思いはひとしおだ。
そんな懐郷の念に浸っている俺を置き去りにして、古泉が運転する車はさらに懐かしい場所へ向かっていた。長門のマンションだ。あいつ、まだここに住んでたのか。
昔は俺の役目だったが、今日に限っては古泉が長門の部屋のキーナンバーを入力して呼び鈴を鳴らす。がちゃり、と音がして部屋主が通話ボタンを押したことを知らせるが、声は聞こえない。
「長門さん、僕です。彼も連れてきました」
そう告げると、カチッと音がしてエントランスの鍵が外される。通話を終わらせた古泉は、そのままマンションの中に入っていった。無論、ここまで連れてこられた俺だ、逃げるわけもなく後に続く。
見れば思い出すマンションの廊下は、体がしっかり覚えているもので、七階に上がって長門の部屋前まで足が勝手に動く。玄関の横にある呼び鈴を鳴らすと、鍵を外して部屋主が現れた。
「……長門か?」
正直、驚いた。朝比奈さんの成長した姿は高校時代に何度も見ているから、驚きはない。古泉は昔とそれほど変わってないし、野郎がどう変わろうが興味はない。
けれど長門に関しては別だ。宇宙人という属性があるとは言え、女性であることに変わりない。女性なんてのは、高校生と大学生ではがらっと印象が変わる。少女から女性になるとでも言うのか、カワイイから綺麗に変わるもんだ。
今の長門は、まさにそれだ。細かい部分で昔のままだが、ナチュラルメイクに控えめながらも髪をセットして、さらに身長も俺の肩くらいまで伸びて、おまけに女性らしい体型になっていれば、そりゃ驚きもするさ。まだ成長期真っ只中だったことに、だけどな。
「……なに?」
俺の不躾な視線に気づいたのか、長門が小首をかしげる。
「いや、綺麗になったなと思ってさ」
こんな恥ずかしいセリフがすらっと出てくるのも、俺が大人になった証拠かね。
長門はその言葉を受けてはにかみ……すまん、ウソだ。ひいき目に見ても睨んでるよな、その目つき。何も言わずに身を引いて、俺と古泉を部屋の中に招き入れた。
部屋の中は、昔に比べて生活感ある風景になっていた。それでも俺のアパートに比べれば少ないが、生活してるなぁ、と思えるくらいには荷物が増えている。
そんな中に、朝比奈さんはいた。
コタツの前で正座して、握りしめた両手を膝の上に置き、差しだされたお茶に手をつけた風もなく俯いている。どこかで見たことある格好だな、と思えば、俺がバイトしている喫茶店の女の子が店長に怒られて落ち込んでいる、そんな格好にそっくりだ。
「あ……キョンくぅ〜ん」
俺と古泉に気づいて、朝比奈さんは顔を上げるや否や泣き顔になった。あまりの懐かしさにうれし泣き……って感じじゃないことは断言できる。
「ご、ごめんね、キョンくん。あ、あたし……ひっく……こ、これでも、い、一生懸命がん、がんば……うぅ……頑張って勉強し、して……うくっ……き、禁則事項も少なく……ひっく……な、なったんだけど……」
済みません、朝比奈さん。泣き声が混じっていて要領を得ないんですが。
困り果てた俺は頭をかいて、泣きじゃくる朝比奈さんに触れるか触れないかという力加減で抱きしめた。あいにく古泉に無理矢理アパートから引きずり出されたもんでね、ハンカチの持ち合わせはないんだ。かといって、常日頃から持って歩いてるわけじゃないが。
「朝比奈さん、落ち着いてください」
「あ、あの……」
泣きやんだ朝比奈さんは、俺の腕の中で目を丸くしていた。高校時代じゃこんな真似はできなかっただろうな、なんて俺でも思う。けれど泣きじゃくる相手には、それ以上のショックを与えて泣きやませるのが一番だってことを、妹やイトコ連中を相手に俺は学んだね。
「大丈夫ですね。それで、何があったんですか?」
やや名残惜しい気もするが、朝比奈さんを離してその目を見つめる。潤んで赤い瞳が魅力的だが、次に出てきた言葉は俺の溢れる恋慕を根こそぎ奪い取るに十分な威力を秘めていた。
「はい……あの、時空改変が行われています」
くらりと来たね。
正直、すぐには理解できなかったさ。久しぶりに聞くトンデモ話だ。平凡な日常生活を送っていた俺に、おまけに文系の俺に、科学的な匂いが漂う話をすぐに理解できる頭脳の持ち合わせなんてあるわけがない。
そもそも──時空改変だって? それはあれか、俺が高校1年の時に遭遇した、長門が引き起こしたあれのことか?
「そう」
今から六年前に事を起こした張本人が、俺の問いかけを肯定する……と、今の言い方はちょっとひどいな。何がひどいかはわからんが、ひどい気がする。ただ、俺も急な話で混乱してるんだ。そこはわかってくれ。
長門は頷き、説明してくれた。
「今回の改変で劇的な変化はない。緩やかに、誰にも気づかれず行われた。わたしは現在も、いかなる時間帯における自分の異時間同位体との接続コードを凍結している。そうでなければ気づいたかもしれないが、手遅れ」
「手遅れって……そもそも、何がどう改変されているんだ? 俺には何も変わってないように思うんだが……」
「そうです。だから、今まであたしも気づかなかったんです。でも今日、あたしが知っている未来とは決定的に違うことが起きているんです」
落ち着きを取り戻した朝比奈さんが、長門の説明の後に続く。未来のことに関しては、やはりこの人に聞くしかない。
「その違いって、何ですか?」
「今日は、あたしが知る限りでは、キョンくんと涼宮さんが入籍する日なんです」
…………。
いや、うん。正直、今の瞬間に意識がぶっ飛んでたね。マンガ的表現をするならば、口から魂が抜け出たイラストがピッタリ当てはまるだろうさ。
なんだって? 俺とハルヒが入籍? そんなバカな。
そもそも、それが本当の話だったとして、俺とハルヒの入籍が今日じゃないから時空改変されてます、って考えるのは短絡的じゃないか? 前に朝比奈さんも言ってただろう。時間の流れはちょっとした歪みなら修正されると。朝比奈さんが知る未来と微妙にズレているからって、そこまで話を飛躍させるのはどうなんだ?
「そうです。ちょっとした時間の歪みなら、確かに修正されます。でも……キョンくんと涼宮さんの結婚は、そんなちょっとした歪みじゃないんです」
「……どういうことです?」
「えっと……それは今のあたしでも禁則事項です。でも、キョンくんと涼宮さんの結婚はとても重要なことなんです。あたしが知る未来のためにも、この世界のためにも」
未来のため、世界のためか。これは……そうだな、今だからこそ言うべきか。言っておかなくちゃならないだろうな。
「朝比奈さん、正直なことを言いますが、俺はハルヒと結婚することに文句はありません。ただですね、俺もどうせ結婚するなら、自分が惚れ込んで、相手も俺のことを好きでいてくれる女性と結婚したいんです。誰でもいいってわけじゃありません。朝比奈さんは、周りから『こいつと結婚しないと世界がおかしなことになるぞ』って言われて、結婚できますか?」
「それは……」
「それにですね、もしここで俺が『実は朝比奈さんのことが好きです』とか『長門のことが好きなんだ』って告白したら、それでも朝比奈さんは俺に『ハルヒと結婚しろ』って言うんですか?」
俺の言葉に、朝比奈さんはまた、泣きそうな顔になった。その表情だけで、俺の言いたかったことを理解してくれたんだと分かる。そう思う。
つまり、俺は世界のため、未来のためっていう大義名分で動くことは、もうできない。
ほかの連中と違って、俺は凡百な人間だ。正義の味方でもなければ、自己犠牲で得た平和に感動できる純粋な心根の人間でもない。人並みに欲望もあって、人並みに臆病で、人並みに安定した生活を望む、ただの人間なんだ。電車の中で目の前に年寄りがいれば席を譲るが、戦争を止めるために平和維持軍に入隊できるヤツじゃない、ってことさ。
「そんな顔しないでください。困らせるつもりじゃないんです。ただ、分かって欲しかっただけなんですよ。もう、未来のためとか世界のためとかで自分を犠牲にできるほど、純粋じゃないんです」
「確かに、その通りですね。あなたの意見はもっともですし、何も間違っていませんよ」
そう言って頷き、古泉が俺の意見に賛同してくれた。こいつがそんな風に俺の肩を持つとは意外だ。
そう思っていたんだが……。
「今の朝比奈さんの発言も、やや的を外していますしね」
古泉はあくまでもレディの味方のようだ。ま、同性としてその気持ちはわからなくもないが、たまには俺にも救いの手を差し伸べてみないか?
「他のお二人がどのように考えておられるのかわかりませんが……僕があなたをここへお連れするときの言葉を覚えていますか?」
おいおい、人の記憶力を疑うような発現だな。たった数時間前の話を忘れるほど、ボケちゃいねぇよ。
「ならば安心です。こう考えてください。あなたと涼宮さんの結婚で世界の安定が得られるのは、ことのついで……おまけみたいなものです。重要なのは、あなたが本来結ばれるべき人との未来が消失していることです。これはあなた自身にとっては人ごとではありませんし、一大事ではありませんか?」
前口上が長いのは相変わらずか。何が言いたいんだ、古泉。
「友人のバラ色の未来が失われようとしているのです。それを救うのは当然でしょう?」
この野郎……何がバラ色の未来だ。ハルヒとの結婚が本当にバラ色だとでも思っているのか? あの天上天下唯我独尊の団長さまと四六時中顔を付き合わせることになるんだぞ。それのどこが幸せだって言うんだ。
「本当にそのようにお考えで?」
ええい、そのなんでも見透かしたような薄ら笑いはやめろ。友人から顔見知りに降格させてやろうか。
「……あのな、長門も言ったじゃないか。仮に、今の言葉が俺のごまかしだとしよう。でも、もう手遅れなんだろ? 今回の時空改変を起こした張本人は、話を聞く限りハルヒのようだが、過去に遡ってアイツに修正プログラムを打ち込んでも、もうダメなんだろ?」
「ダメ」
長門の言うことはいつも端的で的確だ。話が長くなると途端にノイズ混じりになるが、こういう場合は余計なことを言わず、事実だけを告げる。こいつがダメだというのなら、何をどうやってもダメなのさ。
「ほらみろ。どっちにしろ、」
「でも」
息巻く俺の勢いをくじくように、長門が言葉を続ける。
……でも、だって?
「時空改変が行われたその時間に、楔を打ち込めば修正することは可能」
長門……修正できる可能性がある場合はな、ダメとは言わないんじゃないのか?。
「ちょっと待て。何をどうしろって言うんだ?」
「今は正しき未来と謝った未来に道が分かれている状態。その分岐は緩やかだが、三年という月日を経て決定的な違いをもたらした。ならば道が分かれたその時間において、歪みをもたらした道に進まないよう正しき道へ楔を打ち込めば、三年という月日を経て正しい時間に戻る可能性は高い。ただ──」
長門はそこで言葉を途切れさせて視線を宙に彷徨わせた。
「──道が分かれた時間がいつなのか、それはわたしにもわからない」
口を閉ざし、長門は俺をじっと見つめた。その視線は「あなたなら分かるはず」と言わんばかりの目つきだ。
確かに思い当たるときはある。おそらく、間違いない。
──高校卒業のあの日、ハルヒにキスされたその日……
あの日から、俺とハルヒの道は分かれた。俺はそう確信している。もしその日でなかったとしたら、他に思い当たる日はない。もし過去に遡るなら、その日以外にありえない。
そしてもうひとつ、悩まなければならないことがある。
長門は「楔を打ち込む」と言った。ならばその「楔」とは何を指すんだ? このまま過去に遡ったとして、何をどうすればいいか分からないままでは、何もできないじゃないか。
「キョンくん、その時間に行きましょう」
と、朝比奈さんが悩む俺に向かってそう言った。
「あれこれ考えてちゃダメですっ! あたしたち、今までみんなで協力して何とかやってきたじゃないですか! 行動しなくちゃ、何も始まらないんですっ!」
朝比奈さんの言葉に、胸がズキリと痛んだ。
そう……だな。ああ、確かにそうだ。昔からそうじゃないか。SOS団絡みの出来事は、いつも訳も分からないまま巻き込まれて、それでもなんとかやってきた。今更あれこれ考えるのは俺らしくない。
「今になって、ひとつだけわかったことがある」
はぁ〜っ、とこれ見よがしにため息を吐いて、俺は目の前の三人を睨み付ける。出来る限り、渋面を作ったつもりだ。
「SOS団なんておかしな団体に所属していると、どいつもこいつもお人好しになるんだな」
文句を言ったつもりなのに、朝比奈さんや古泉は言うに及ばず、長門でさえもわずかに微笑んだように見えた。
どさっと、それこそ尾てい骨が砕けるような勢いで地面にへたり込むのは、男二人の役目。方や女性二人は慣れたもので、けろりとしている。
ここは、いつの日だったか朝比奈さんと歩いた公園の常緑樹の中。今がいつなのかすぐにはわからないが、長門のマンションの中からこんなところに移動しているとなれば、時間遡航に成功したのだろう。これがただの瞬間移動だとしても驚異的だがね。
「いやあ……話には聞いていましたが、これほどの衝撃とは思いませんでしたよ」
どうやら古泉も俺と同じ感想を持ったようだ。
時間旅行の目眩。嘔吐寸前までに世界がぐるぐる周り、目を閉じていても光が瞬く感じは、極悪な代物と断言しても生ぬるい。どうしてこんなのが平気なのか、朝比奈さんにじっくり聞いてみたいもんだ。
「というか、なんでおまえや長門まで着いてくるんだ? 俺と朝比奈さんだけで十分だろ」
「せっかくの機会ですからね。時間旅行というものをやってみたかったんですよ。あなたの邪魔をするつもりはありませんので」
邪魔するとかしないとか、そういう問題じゃないないだろ。そもそも朝比奈さん、いつからそんな適当になったんですか。
「朝比奈さんを責めるのは酷というものです。僕と長門さんはその辺りで時間を潰していますから、お役目を果たしてきてください。よろしいですね、長門さん」
「……わかった」
何がわかったんだ長門。わかるなよ長門。おまえまで古泉みたいに時間旅行を楽しみたかっただけってのか? おいおい、いろいろ変わったな、おまえら。
「それではまた、後ほど」
敬礼のような挙手で挨拶をすると、古泉と長門は人気が途絶えた頃合いを見計らって、公園の外に姿を消していった。
「いいんですか、あれ……」
「今日は……えっと、特例です」
特例って……朝比奈さんもいろいろ成長したもんだ。昔は禁則に次ぐ禁則で思ったことも言えず、訳も分からないまま巻き込まれて泣いていたのにな。高校時代の庇護欲をそそる愛くるしさが懐かしいぜ。いやまぁ、今もそうと言えばそうなんだが。
「今、いつの時代の何時ですか?」
古泉と長門の奇行や、朝比奈さんの成長を見て感慨にふけっている場合じゃない。俺が時間を聞くと、朝比奈さんは華奢な腕には似合わないゴツい電波時計に目を向けた。
「今はキョンくんたちが卒業した日の、午後2時を過ぎたころです」
てことは3月頭か。その時間、当時の俺は何をしていたかな……ええっと、ああそうか、ハルヒと二人で部室にいて……キスされた時間か? もうちょっと前の時間かな。あのときは時間感覚が麻痺していたから、よくわからない。
「朝比奈さん、ちょっと質問なんですが」
「はい、なんですか?」
「今回の時空改変は、どのタイミングで修正すればいいんでしょうかね? 前のときは長門が変えた直後に戻したじゃないですか。今回もそんな感じですか?」
「えっと……前回のときはキョンくんを除いて、世界すべての記憶がその日を堺に塗り替えられてましたよね? だからあのときは、改変直後でなければダメだったんです。でも今回は緩やかな変化ですから……ゆっくりするわけにもいきませんけど、考える時間はあると思います」
考える時間か……何をどう考えればいいのかさっぱりだな。
「その時間ってどのくらいです?」
「ん〜っと……そうですね、長門さんも言ってましたけど、改変されたのが今日だというのなら、リミットは今日一日ですよ」
今日一日か……まだ時間があると考えるべきか、時間がないと思うべきか迷うところだな。
そもそも、今回ばかりはすでにお手上げ状態だ。何しろ前回の時空改変では、最初こそオロオロしていたが、後になって長門のヒントが出てきた。そのおかげで、俺は役目を果たせたようなもんだ。
けれど今回は、そのヒントすらない。長門自身もどうすればいいのか分からないままだ。数学者さえ頭を悩ませる難問に、小学生が挑むようなこの状況を嘆かずにいられるか。おまけにその正解を見つけ出さなければ、世界は改変されたままってことになる。
「ごめんなさい、キョンくん……」
どうすべきか悩んでいた俺は、口数が少なくなっていた。そんな俺の態度を見て、何を思ったか、朝比奈さんが頭を下げてくる。
「あたし、自分でも少しは成長できたかなって思ってたの。でも……やっぱりダメですね。肝心なときに役立たずで」
おいおい、まったくこの人は、いったい何を言い出すんだ?
「それ、本気で言ってます?」
「……だって」
「今回のことに気づいたのも、この時間まで戻ってこられたのも、朝比奈さんのおかげじゃないですか。おまけに今は、過去の俺たちを助けてくれているんでしょう? 言葉じゃ言い表せられないくらい感謝してますよ。もっと自信をもってください──なんて、俺に言われても慰めになりませんか?」
「そ、そんなことないですっ!」
真剣そのものの目で、胸の前で両手を握りしめて朝比奈さんはそう言った。
「あたし、ずっとキョンくんに迷惑かけっぱなしだったから……だから、そう言ってもらえると、すっごく嬉しいです」
そうそう、泣き顔よりも真剣な顔、真剣な顔よりも笑った顔があなたには一番似合いますよ。
……そういえば。
ハルヒはいつも、どんな顔で笑っていたかな。出会ったころは怒ってばかりだが、SOS団を作ってからはよく笑うようになった。時にふてぶてしく、あるいは生意気そうに。それでも最後はマグネシウム反応のような眩しいくらいの笑顔を浮かべていたな。
……何か違和感があるな。なんだろう、この感覚は。完成したはいいけれど本来の絵と違うジグゾーパズルが出来上がったような気分だ。
何かしっくり来ない。どこかおかしい。これはいつの時代に感じた違和感だ?
「……ああ、そうか」
我知らず、考えが唇を割いて漏れる。
あのときか。あの日の笑顔か。それが今に繋がってるっていうのか?
「どうしたんですか?」
思案に暮れる俺に向かって、朝比奈さんが不思議そうに声を掛けてくる。それでもすぐには返事をせず、しばし考えていた俺は……やはりその考えしか思い浮かばない。思い込みかもしれないし、間違いないと断言できる根拠もない。それでも今の俺に与えられた情報だけでは、それくらいしか解答を導き出せない。
「朝比奈さん、もうハルヒのトンデモ能力は落ち着いているんですよね? 今の俺があいつに会うのはアリですか?」
「え……っと、涼宮さんの能力が減退しているのか、それともただ安定しているだけなのかによりますけど……あ、でも、今日の夜に涼宮さんは誰かと会ってますね」
「それが俺ですか?」
「たぶん……ごめんなさい、この日の涼宮さんの行動は一通り把握しているけれど、今回の出来事はあたしも初めて体験することだから、確信めいたことは何も言えないの」
「ハルヒの行動がわかるだけでも有り難いですよ。それで、ハルヒが誰かと会っているっていうのは、何時頃の話ですか?」
「夜の……えっと、九時ごろですね」
「夜の九時?」
はて……? なにやら身に覚えのある時間だな。
「場所は公立の中学校……涼宮さんが中学時代を過ごした東中学校の校庭です」
ああ、なるほど。そういうことか。だから俺はまた、巻き込まれているのかね。
東中の校庭で夜の九時といえば、七夕の校庭ラクガキ事件の日と同じ場所、同じ時間じゃないか。ハルヒにとってもうひとつの思い出の場所で待ち合わせする相手といえば、一人しかいない。俺のことだが、俺じゃないヤツだ。
まだまだ活躍しなきゃならんらしいぞ、ジョン・スミス。
「その時間、ハルヒは自主的に中学まで行くんですか?」
「どうでしょう? 時間の流れがノーマライズされたものであるのなら、涼宮さんが出かけることは規定事項です。ですが、今は異常な時間なわけですから……」
この状況で危ない橋を渡る賭け事をするほど、俺はギャンブラー気質じゃない。だったら素直に呼び出しておいて、憂いを払っておいたほうが無難か。
「朝比奈さん、この時代で今の俺が買い物するってのは大丈夫なんでしょうか?」
「う〜ん……この時間の経済を大きく左右するような買い物でなければ問題ないですけど、何を買うんですか?」
「レターセット……かな?」
「え?」
頭の上にクエスチョンマークがふよふよ浮かんでいる朝比奈さんに、俺は肩をすくめてみせた。
「未来人が過去とコンタクトを取るのは、手紙がお約束なんでしょう?」
色気のない封筒に、味気ない便せんを使って「あの日の校庭にあの日の時間に来られたし。J・S」と素っ気なく書き記した手紙をハルヒの家に投げ込んだ俺は、ぽっかり空いたこの時間をどうしようかと考えていた。
そもそも九時にハルヒが俺と会うということになっているのなら、その時間帯付近に時間遡航すればよかったんじゃないか。仮に俺が手紙を出すことも規定事項に含まれているのなら、その役目は果たしたんだ。余計な時間をここで過ごすより、約束の時間まで跳躍できないものだろうか。
そう朝比奈さんに提言したのだが、却下された。
「何故です?」
「まだ、古泉くんや長門さんが戻ってきてませんから……」
そういやあの二人、いったいどこをほっつき歩いてるんだ? 勝手に着いてきて、事が終われば呼べなん……あれ? 呼べって、どうやって連絡を取れと言うんだ? この時間じゃ携帯なんて使えないだろうし、家に電話するなんてもってのほかだ。
「朝比奈さん、長門や古泉とどうやって連絡取るんですか?」
「え? え〜っと、それは……」
何気ない質問のつもりだったのだが、朝比奈さんは言葉を濁して腕時計に目を落とした。何をそんなに時間を気にしているんだ? 俺とハルヒの約束には、まだ5時間くらいは余裕がある。それとも長門と古泉の二人と時間で待ち合わせでもしてたのか? あるいは、時間的に気になることが他にあるとでも?
「朝比奈さん、二人がどこにいるか知ってるんですか?」
「あ、あの、別にそれは気にしなくても」
俺は再度、尋ねた。朝比奈さんは、目を泳がせて明らかに動揺している。
……裏があるのか。
何が特例だ。古泉と長門もこの時間帯でやることがあるから、着いてきたんじゃないか。
「あの二人はどこで何をやっているか、知っているんですね?」
「それは……えっと」
なんで口ごもるんだ、朝比奈さん。俺に言えないようなことを、あの二人はコソコソやってるのか? だとすれば、長門が、というよりも古泉主導での企みか。あの二人の利害が一致し、あまつさえ朝比奈さんさえも一枚噛んでいる画策。
それは今回の騒ぎのことか? まさか……今回の時空改変が狂言だとでも言い出すんじゃないだろうな?
だってそうだろう。
俺は高校を卒業してから今日に至るまでの三年間、何かが変だと感じるようなことは何もなかった。改変されたのか否か、と問われれば「ありえない」と答えるさ。ただ、未来人たる朝比奈さんがそう言いだし、万能宇宙人の長門が肯定し、無駄に状況だけは把握している古泉までも乗ってきている。
こいつらを知っている俺だ、そう言われれば信じるしかないじゃないか。もし三人がそろって俺を騙そうというのなら、俺は疑いもなく騙されるさ。
「だ、騙すなんて、そんなこと、」
わかってる。わかってるさ、朝比奈さん。古泉は……まぁ、おいとくとして、朝比奈さんや長門が俺を騙す真似をするわけがないさ。だからこそ、なんだ。
「わかっているから、本当のことを話してくれって言ってるんです」
「…………」
しばしの逡巡のあと、ふぅっ、と朝比奈さんはため息を吐いた。どうやら観念したらしい。
「キョンくんには、涼宮さんのことだけを考えていてもらいたかったんです。実は今、」
意を決して朝比奈さんが口を開くのと、それはほぼ同時に起こった。
瞬き一回分の刹那の瞬間に、周囲の景色ががらりと姿を変える。夕闇迫る朱色の空が雲一つない青空に変わり、堅いアスファルトの地面が足を取られそうな砂丘に変わる。視界を奪うほどではないが黄土色の靄が辺りに漂い、平坦な空間がどこまでも続いていた。
「ひゃうっ!」
朝比奈さんが俺に飛びついてきたが、俺だって何かに飛びつきたい気分だ。
なんだこれは? なんなんだ、いったい!
「きょっ、きょきょ、キョンくん、ああの、あれ何ですかぁっ」
俺に縋り付く朝比奈さんが、俺の左手方向を指さして叫んだ。釣られて見れば、ガキの頃にテレビでみた巨大ロボットのような巨体の、それでいてのっぺりした巨人が、両手を鞭のようにしならせて暴れている。
まるで《神人》みたいじゃないか……って、ここは閉鎖空間なのか? なんでこんな所に俺と朝比奈さんは引きずり込まれているんだ?
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