涼宮ハルヒの笑顔:プロローグ

「ただの人間には興味がありません。この中に宇宙人、未来人、超能力者、異世界人がいたら、あたしのところに来なさい。以上!」
 と、受験勉強のストレスから開放されて無事に高校生となり、その初日の挨拶で涼宮ハルヒが、かなり電波ゆんゆん……もとい、個性的な自己紹介をしてクラス全員をドン引きさせたその日も、今では遠い昔のこと。
 その後に続く宇宙人とのファーストコンタクト、未来人との遭遇、地域限定超能力者との出会いを経て俺が巻き込まれた事件も──時には死にそうな目にあったが──今ではいい思い出だ。
 そう、すべては思い出になった。
 結局、ハルヒの能力は完全になくなりこそはしなかったが、安定の一途を辿り、よほどのショックを与えない限り発現することはないらしい。だから、何かが終わったわけでもなく、何かが始まったわけでもない。結局、非日常的なことは俺たちSOS団にとって日常的なこととなり、日々はただ流れた。
 それぞれの今の状況を、軽く説明しようか。
 長門はハルヒ観測の役目がまだ続いているのか、あいつと同じ大学に入学した。ただ、一人の人間として生きる道も与えられたのか、将来は国会図書館の司書を目指している風だ。あいつが公務員になるのは、どうも想像できないね。
 朝比奈さんは未来へ戻った。いや、明確な別れの言葉を受け取ったわけではないから、まだちょくちょくとこの時間帯にやってくることはあるようだ。ただ、その風貌は高校生時代に俺を助けてくれた朝比奈さん(大)に通じる雰囲気となり、過去の俺たちを助けるために過去と現在と未来を行き来していることだろう。
 古泉は若き学生起業家だ。俺と違って頭のデキがよかったのか、それとも『機関』の後ろ盾があったからなのか、IT関連でそこそこの業績を残している。無論、ハルヒの能力が完全に消えたわけではないので、地域限定の超能力は健在。年に1回か2回は《神人》退治をやってるようだが、昔ほどの重圧ではなくなったと言っていた。
 そしてハルヒは、何を思ったのか考古学の道を目指して勉学に励んでいる。曰く「歴史に埋もれた世界の不思議をすべて解き明かすのよ!」と息巻いていたが、まぁ、昔に比べると現実的というか、地に足が着いた意見というか、あいつも大人になったということか。
 かくいう俺も大人になり──といっても、何が子供で何が大人なのか、その境界線がはっきりしないまま年齢ばかりが上書きされて──今では一人で暮らしている。残念ながら、ハルヒと同じ大学ではない。
 都内の三流……とまでは言わないが、決して一流とも言えない大学に通い、地元での知り合いとも離れ、俺は俺で我が道を進んでいる。今ではこっちでも知り合いが出来た。ただまぁ……艶っぽい話は何もないがね。
 決してハルヒたちと一緒の道に進むのがイヤだったわけではない。かといって、是が非でも一緒に進もうと思っていたわけでもない。なんだかんだと、ハルヒたちと過ごした三年間は楽しかった。ただ、楽しかったからこそ距離を置いた。何故そうしたのかは、俺がただ単に天の邪鬼だからかもしれないし、ハルヒが俺と距離を置くことを望んだから、かもしれない。
 その切っ掛けはたぶん……いや、間違いなく高校の卒業式だろう。各々の進路も決まり、俺とハルヒが離ればなれになることが確定事項となっていたその日のことを、俺は今でもはっきり覚えている。
 ………………
 …………
 ……
 形式通りの卒業式が終わり、女子生徒は別れに涙し、男子生徒は三年間恨み続けた教師にどうやってお礼参りをしてやろうかと話し合う中、俺は毎日の放課後に通っていた文芸部部室に向かっていた。誰かに呼ばれたわけでも、何か目的があったわけでもない。ただ、今日がこの道を通る最後の日だと思うと、やや感傷的にもなる。
 いつもより遅い足取りで部室へ向かい、扉を開けると「あんたも来たの?」と、ハルヒ一人だけがそこにいた。
「姿が見えないと思ってたが、ここにいたのか」
「そりゃあね、団長たるあたしが高校生活最後の日に、ここへ来るのはあたりまえじゃない」
「おまえでも感傷的になってるってわけか」
「おまえで『も』は余計ね」
 パイプ椅子を引っ張り出し、俺は腰を下ろす。ハルヒは俺と2〜3会話を交わしただけで、あとは黙って外を見ていた。耐えようがない沈黙、というわけでもないが、いつも沈黙を守り続ける長門がそこにいるような、落ち着いた気分にもなれない。
 俺の視線は自然とハルヒの後ろ姿に向けられていた。
「ねぇ、キョン」
 俺の視線に気づいたのか、それとも沈黙に耐えられなくなったのか、ハルヒの方から呼びかけてきた。「なんだ?」と返事をするも、こちらに目を向けようとはしない。
「あんた……だけじゃないけど……あたしに隠れて、いつもこそこそ何をしてたの?」
 その言葉は、何の話だと惚けられるほど軽いものではなかった。はっきりすべてを知っているわけではないが、何かある、と勘の良いこいつは見抜いていたんだろう。
「何って……未来人と一緒に時間旅行をしたり、宇宙人と脅威の謎生物と戦ったり、超能力者と悪の秘密結社を叩き潰したり……かな」
 すべて本当のことだが、俺は努めてふざけ調子でそう言うと、窓の外に顔を向けていたハルヒは、顔半分を振り向かせて俺を睨んできた。
「……それ、本気で言ってる?」
「本気か冗談か、どっちだと思う?」
「……言いたくないってわけね」
 古泉の真似をして、俺は肩をすくめてみせる。出会った当初なら襟首掴まれて締め上げられるところだが、今ではすっかり丸くなったもんだ。はぁ、っとため息をついて、俺の方へしっかりと向き直った。
「ま、そういうことにしといてあげる。あたしも……この三年間、楽しかったしね」
 どこかメランコリックな表情を見せるハルヒに、俺は気になることを聞いてみた。
「SOS団はこのまま解散か?」
 SOS団を作ったのはハルヒだ。だから、解散させるか存続させるかを決定するのは、ハルヒの役目だ。俺たち団員は……ま、従うだけさ。
「まさか。あんたたちは、あたしの忠実な下僕なの。呼んだらすぐに集まらないと承知しないわよ。特にあんたは、一番遠くに行っちゃうんだし。遅刻したら、罰金だからね」
 ハルヒは俺たちとの繋がりを断ち切ろうと思ってはいないらしい。ただ、それが未来永劫続くとも思っていなかったんだろう。いつもは語尾にエクスクラメーションマークが似合うのに、その日に限っては言葉に力がない。
「悪しき慣習のおかげで、罰金に対する免役がついたからな。あまり強制力はないぜ」
「あら、学生レベルと同じと思わないほうがいいわよ?」
「大学生も学生だろ」
「くだらない言い訳なんて、みっともないわ」
「まぁ……努力はするさ」
「そうね、あんたが一番頼りないんだから、努力してよね」
 ああ、と俺が返事をすると、再び沈黙が訪れた。
 残念ながら、そのときの俺には自分からハルヒに振れるような話題の持ち合わせはなかった。語るべき言葉はこの三年間で散々出尽くしたし、今更言うべき言葉など、何もない。
「んじゃ、俺はそろそろ行くよ」
「……ああ、そうだ。あんたに言うことあったの、忘れてたわ」
 腰を上げた俺に向かって独り言のように、本当にたった今思い出したことのように、ハルヒが口を開いた。その言葉に俺への呼びかけがなければ、そのまま出て行きそうになるくらい、本当にどうでもいいような口調だった。
「あたし、あんたのこと好きよ」
 はにかむような甘酸っぱさも、照れるような奥ゆかしさもなく、それが世界の常識だからただ告げただけのような──これと言った感情の機微もなくハルヒはそう言った。
 だから俺は、すぐに何か言うことができなかった。驚きもしなかったし、嬉しさも感じなかった。心の中がざわつく感じもなければ、浮かれることもない。そのことを予め知っていたかのように、極めて冷静に返事をしていた。
「いつから?」
「ずっと前から。SOS団を作ったときからかしら」
「それを今、言うのか」
「今だからよ。昔、言ったでしょ? 恋愛感情なんて一時の気の迷い、精神病みたいなもんだって。でも三年間、その気持ちは消えなかった。三年経っても消えないなら、それはあたしの純粋な気持ちってことでしょ? ナチュラルなものなの。それを確かめるのに必要な時間が、あたしには三年必要だっただけ。だから、今」
「俺は……」
「ああ、あんたの気持ちなんていいわ。ただ、あたしがそれを言いたかっただけだから……三年間、ありがとう」
 ──ありがとう、か。こいつの口から感謝の言葉が出てくるとはね、青天の霹靂ってヤツだ。
 握手でも求めているかのように、ハルヒが手を突き出してきた。こんなしおらしく、けれどどこかサバサバとした表情は初めて見る。三年間、片時も離れずハルヒを見てきたつもりだが、俺でもまだ知らない顔があったのかと──そんなことを思う。
 俺は握手を求めるハルヒの手を握るべきかどうか、迷った。手を握り合うようなことは、この三年間で幾度となくあったが、今はどこか照れる。
 それでも、心を決めて手を差し伸べようとポケットから取り出すと、ぐいっとハルヒの方から掴んできて力任せに引っ張られた。
 相変わらずの馬鹿力め。不意打ちとは言え、男をぐらつかせる力を出せるのは、おまえくらいなもんだ。だから……今こうして俺の唇とおまえの唇が触れ合ってるのは、おまえのせいなんだぞ。
「またね、キョン」
 短いキスのあと、ハルヒはこの日初めて、笑顔を浮かべた。何かを吹っ切ったように、どこか切なそうに。
 チクリと胸が痛む。細く鋭い針を突き立てられたような痛みが伴うハルヒの微笑み。
 それが──高校時代に俺が見た、最後のハルヒの姿だった。
 ……
 …………
 ………………
 そして三年の月日が流れ、今に至る。あれから俺は、ハルヒに会っていない。あの日の部室であいつは呼び出すようなことを言っていたが、実際にはそんなことはなかった。
 かといって、まったく疎遠になってるわけでも……なってるのかな。卒業直後はメールのやりとりを、それこそ毎日のように行っていた。ただ今はそれほど頻繁なわけではない。週に1〜2通。タイミングが悪ければ、月1だっておかしくない。
 それは互いにやるべきことが出来たからだし、互いの人生を歩み始めたからだ。人はそれぞれ歩むべき道があり、俺とハルヒは高校を卒業すると同時に道が分かれた。
 ただ、それだけ。それだけだと思っていた。
 その日の朝、電話が鳴るまでは。