最近、どうにも体調がよろしくありません。いえ、風邪や何かしらの病気ではない……と思うのですが、ただどうもその……よく眠くなるんです。
もともと、わたしや長門さん、それに朝倉さんは睡眠を人間ほど必要とはしません。もちろんこのインターフェースは、惑星表面上に生息し文明を築いている有機生命体の社会の中で違和感をもたれないように、原生生物と同じ機能を備えています。
ですから眠ることは当然できますし、眠ることが無意味だ、というわけでもありません。ただ、その睡眠時間を自分で調整できると言いますか……例えば、三日くらい眠らない必要性があればそうできますし、逆に八時間なら八時間だけ、と一秒の狂いもなく眠ることができます。
だから、今のように学内での活動中に眠くなるなんていうことは、本来ならあるはずがない出来事なんです。そうですね、PCの低電力の待機モードでOSを無理矢理動かしているような……そんな倦怠感で頭の中が重く感じるんです。
「喜緑くん、どうかしたのかね?」
「……はい?」
夢と現の狭間といいますか、そんなところを意識が浮遊していたようです。聞こえてきた会長の声で我に返るなんて……本当にどうも、おかしな具合ですね。
「君が居眠りとは珍しい。疲れているようだな?」
「……失礼いたしました」
「年度末で何かと激務が続いていたから、仕方がないといえばそうだ。ふむ、今日はこれで帰りたまえ」
「いえ、まだ業務が残ってますので」
「確かに君は有能な人材だ。この生徒会も、君の尽力あってこそ機能していると言っても過言ではない。だからこそ、疲れを溜め込まれても困るのだよ。その作業とて、今日中に仕上げなければならんものでもない。休めるときに休むのも、仕事のうちだ」
確かに、会長の言う通りかもしれません。ただ……わたしが疲れを溜め込んでいる、というのはどうでしょう。そんな疲れるようなことは何もしておりませんし、何より自分自身で『疲れている』という認識もありません。
でも……どうなんでしょう。疲れているのかしら? わたし自身は涼宮さんと積極的に接触しているわけでもなく、ただ長門さんがしでかしたことの事後処理を行っているだけですから、それほどの苦労があるわけではありませんし……。
それで仮に疲れがたまっているのなら……そうですね、息抜きも必要になるのでしょうけれど……今までそんな経験はありませんから、どうすればいいのかしら?
「会長、ひとつお聞きしてもよろしいですか?」
「ほう、珍しいことは立て続けに起こるものだ。なんだ?」
「会長は、息抜きに何をなさってますか?」
そんなことを聞いてみると、会長はさも意外だと言わんばかりの表情を浮かべました。わたしがそう聞くのは、そんなにおかしいことなんでしょうか。
「人に息抜きの仕方を尋ねられるというのも、おかしな話だと思っただけだ。息抜きの仕方などというものは人それぞれだろう。度が過ぎることさえなければ、プライベートは好きにすればいい」
好きなこと……ですか。
「そうですね。わかりました、会長」
わたしの好きなこと、ですか。そういえば、そういう考え方はしたことがありませんでしたね。役割がまずあって、だからこそわたしは存在しているわけです。無意味に増殖し続ける有機生命体とは、そういう意味での生い立ちがまるで違います。
だから、好き勝手に行動する、ということはあまりできません。長門さんは好き勝手動いてますけれど、そういう意味で彼女は少し立場が違う──と言えば、そうですね。
「それでは会長、申し訳ございませんが、今日はこれで失礼いたします」
荷物をまとめ、生徒会室のドアの前で一礼して廊下に出て、それから帰宅しようとしたところで、また眠気が。
うーん、やっぱり疲れているんでしょうか。わたしにも、息抜きが必要なのかしら? それなら……そうですね。あとで長門さんに連絡を入れておきましょう。少しくらい、わたしの好きにさせてもらうのも、悪くないかもしれません。
それが、わたしの息抜きになるんですよ。きっと。
気がついたのは、電話が鳴る呼び出し音でした。携帯電話ではなく自宅の電話で、やけにけたたましく鳴り響いています。どうやらわたし、帰ってきてすぐに眠ってしまったようで、制服姿のままでした。
「はい……もしもし」
『わたし』
まだちょっと頭の中がボーッとしているようですけれど、ベッドから起きあがって受話器を取ると、聞こえてきたのは名前すら名乗らない、短い言葉。それだけで誰からの電話なのか、すぐにわかりましたけれど……でも、珍しいですね。そちらから電話をしてくるなんて。
「ああ……長門さん、どうかなさったんですか?」
『話がある』
「お話……ですか?」
わざわざ電話でするような話、ですか。わたしたちの場合、情報の共有・交換は言語を介さずにも行えるのに……ああ、でもその場合は情報統合思念体にも筒抜けになりますね。わざわざ電話をしてきたということは、つまり、二人だけの内密の話、ということでしょうか。
「何かありましたか?」
『制限解除コードを要求する』
「え……と?」
長門さん、異時間同位体との連結凍結以外の制限なんてありましたっけ? 今まで眠っていたせいか、あまり頭が働いてなくて思い出せないのですけれど……。
『コードナンバーは……』
512桁のナンバーを聞いて、それでようやく思い出しました。でもそのコードって、長門さん自身の能力制限コードじゃなくて、朝倉さんのじゃありませんか。
「却下します」
『何故?』
「まだ不確定要素が多すぎます。今はまだ、時間をおくべきでしょう」
『へいき』
「それこそ、何故? ですよ。何か明確な理由でもあるんでしょうか?」
『見ていればわかる』
えーっと……これはどうしたものでしょうか。そんな曖昧な理由だけでは、とてもじゃないですけど承諾できませんよ。
「それだけの理由では弱すぎます。許可できません」
『……そう』
何なんでしょうね。どうしてそこで、長門さんが落ち込むような素振りを見せるのか、わたしにはちょっと理解できないんですけれど。
「この話は、明日、学校でしましょう。直接話をしたほうがよろしいんでしょう?」
『今から』
「ごめんなさい、ちょっと体調がよくなくて。だから、明日で」
『体調……?』
受話器越しに聞こえる長門さんの声が、いつもの平坦さとはちょっと違う疑問系の声になってました。そんなにわたしが体調を崩すのがおかしいんでしょうか。
おかしいですよね。この惑星表面上のウイルスや病原体で左右されるようにはなっていないのに。
「そんな深刻なものじゃないんです。ただちょっと、眠いだけで」
『へいき?』
あらあら、長門さんが人の……というか、わたしの体調を気遣うなんて。ちょっぴり感動しちゃったじゃないですか。
「平気ですよ。それでは、おやすみなさい」
どう頑張っても、長門さんと長電話なんて出来ません。ただ、どうして急にあんなことを言い出したのかが気になりますけれど……ああ、でもダメ。話を終えた途端に、また眠気が。
なんでこんな、ホントに急ですよ。急に眠気が襲ってくるようになって……ええと、昨日とか何かしたかしら? 何もしてないですよね。
ただ……そうそう、確か朝比奈さんと……ええと、文芸部の部室にお邪魔したときに……。
「……あれ?」
どうやらわたし、本当にどうかしているみたいで、長門さんからの電話のあと、やっぱり眠ってしまったようです。制服のままで、まるで……そうですね、人がクロロホルムでも嗅がされたかのような勢いで眠ったようで。
それだけならまだいいんです。いえ、よくないですけど、いろいろ理由付けできるじゃないですか。疲れている、とか、体調がよくない、とか。
でも……ええと、この状況になると、そうも言ってられないようで……とりあえず、どうしてわたし、外で寝ていたんでしょう?
不自然ささえ感じるほどの闇に包まれた世界は、音もなく、街灯りもありません。空を見上げれば星はなく、ただ丸い月が青紫色に煌々と輝いているだけ。そして何よりわたしを戸惑わせたのは、情報統合思念体との連結ができない、ということです。
かつて長門さんが雪山で隔離されたときの情報を得ていますから、それに類することかと最初は考えました。けれど、何かおかしいんですよね。
長門さんの報告によれば、インターフェースが情報統合思念体との接続を強制的に遮断された場合、その処理機能の低下によって無理な情報介入行動を行えばオーバーロード状態に陥る、とありました。それがどういう状態なのかと言えば、今のわたしのように他の情報に介入し改ざんすることができなくなっている状況、だと思われます。言うなれば、普通の人と同じような状態なんです。
でも、その異常事態にあって、わたしのインターフェースにはまったく異常が見受けられません。平熱ですし、あれほどまでに強かった睡魔も、今ではすっきり消え去っていて……どちらかというと、気分的には爽やかな状態です。
これは敵性勢力による攻撃と判断するべきでしょうか。けれど、何故わたしを狙うのか、その理由がまったく見当が付きません。
それにこの場所。
目が覚めたとき、すぐにはどこかわかりませんでしたけれど、ここって学校じゃないですか。しかも、人の気配がまるでない廃校舎みたいです。
なんでわたし……自分の住まいから学校まで、そんな近いわけじゃありません。自分が猛烈な眠気に襲われて眠りについたことは覚えています。ですが、学校までやってきた覚えはありません。眠っている間に移動した……なんて、夢遊病じゃあるまいし。
困りましたね。ええ、本当に困ってるんです。情報統合思念体との連結も断たれ、能力も使えない。おまけに人の気配がまるでない。唯一の救いはインターフェースに異常が見られないということ。
お手上げですね。なので、こうなったら長門さんに助けを求めようかと思うんですけれど……でもあの人がわたしを助けてくれるのかしら。
まぁ、悩んでいても仕方ありません。
わたしは目の前の学校へ向かいました。近付いても灯り一つ見えません。非常灯さえ点いていないのは、やっぱりおかしいことです。
校門は閉ざされていませんでした。閉ざされていればよじ登らなければならなかっただけに有り難いですけれど、そんな些細なことで感謝しても仕方ありません。
窓やドアにはすべて鍵がかけられていたので、仕方なくガラスを割って中に入ります。力が使えればこんなことをせずに済むのですけれど……こんな真似をするなんて、わたしのキャラじゃありませんよ。
「はぁ〜……」
ため息をひとつ、校内に忍び込むことができたわたしは、その足で職員室へ向かいました。どれでもいいので電話を手に取って受話器を耳に当てると……ウンともスンとも言いません。やっぱり、どこにも連絡が取れないみたいです。
この場所……もしかすると、閉鎖空間なんでしょうか。そこがどういった場所であるのか、実際には体験していませんが、情報として存じています。周囲の状況とわたしが知っている閉鎖空間の情報を照らし合わせて考えてみても、敵性勢力が作り出した異常空間よりは、涼宮さんが作り出した閉鎖空間と考えた方が、符号する点も多いですし。
でも、それなら何故、わたしが閉鎖空間に迷い込んでいるんでしょう? もし涼宮さんが閉鎖空間を発現させているのだとしたら、ここには古泉さんを始めとする『機関』の方達がいて然るべきです。
でも、そんな人たちはどこにもいませんでした。そもそも、わたしが閉鎖空間に引きずり込まれなければならない理由がわかりません。
わたしと涼宮さんは、それほど深い接点がないじゃないですか。ここ最近、会話を交わしたのだって……一昨日くらいでしょうか、学校で朝比奈さんの忘れ物を届けたときくらいです。話した内容も、涼宮さんがパソコンで夢診断のホームページを探していたときに、ちょっとからかったくらいで。
……え? もしかして、それが原因なんですか? わたしはただ、涼宮さんが覚えていない夢を指して「前世の記憶」云々と言っていたから「理論的ではないですね」と、ちょっとからかっただけですのに。
もしかして、そのことで涼宮さんが怒ったのだとしたら、それが原因……なら、わたしはここから出ることが、
ジリリリリリリリリリーーーーーーーーーン!
「ひゃうっ!」
突然。もう、本当に突然です。
ほぼ無音の状況から音量最大のボリュームで、職員室にある電話という電話が一斉に鳴り出しました。驚いたなんてものじゃないですよ。腰が砕けるかと思いました。
……どうして電話が鳴ってるんでしょう。先ほど、受話器を耳に当てたときはビジー音すら聞こえなかったのに。
それなのにどうして電話が。
「…………」
驚き、戸惑い、呆然としている間も、ずっと電話は鳴り続けています。少なくとも幻聴ではなく、本当に電話が鳴っていました。
どうしましょう……出るべきなんでしょうか。電話がかかってくるなんて、ならここは閉鎖空間じゃないんですか? もう、さっぱりわかりません。
正直に言います。
もう、凄く不安なんです。どうして自分がこんな気持ちになっているのか分かりませんけれど、泣き出したい気分です。
そんな気持ちのまま、いつまで経っても鳴り止まない電話を前に、わたしはおそるおそる手を差し出しました。その手が、震えています。自分でも見て気づいたくらいで。
「はい……もしもし」
受話器を取り、耳に当てて。口の中が乾いているような気分を味わいながら、なんとか声を絞り出しました。もしこれで聞こえて来るのが、ホラー映画みたいな低くてひび割れた声だったら、卒倒していたかもしれません。
でも、聞こえてきたのは、
『ああ、よかった。ようやく繋がったわ』
わたしの今の気分とは真逆の、危機感も緊張感もない声でした。
受話器から聞こえてきた声は、何であれ、今のわたしをホッとさせる声であることに違いはありません。訳も分からない状況をなんとかする一筋の光明なんですから。
「その声……朝倉さんですよね?」
『そ。こうやって連絡するのにも苦労したんだから。そっちの空間とこっちの空間の捻れ具合が複雑すぎて、わたしと長門さんの二人で必死にプログラム解析を行ってるのよ? まったく、涼宮さんの能力はデタラメね』
涼宮さんの能力……ということは、やっぱりここは閉鎖空間になるんでしょうか。
『閉鎖空間っていうのとも、ちょっと違うかも。そこはもっと、メンタルな世界ね』
「メンタル……ですか?」
『時間もないから手短に説明するけど、そこは涼宮さんの深層意識の世界。そうね、今の喜緑さんはベクタデータみたいなものなの。ラスタライズして、現実世界にプリントアウトしないと元に戻れない、ってとこかな』
「え……っと、そういうことならつまり……わたしは今、どうなってるんですか?」
『現実世界では存在してないわ。一日くらい消失してるね。ただ、そこは閉鎖空間との類似性もあるから、古泉くんには見えていたみたい。今、わたしと長門さんで必死にラスタライズ作業の真っ最中。ただ、ちょっと時間的に厳しいのよ』
「厳しいっていうと……どういうことですか」
『喜緑さんをサルベージする前に、涼宮さんの夢が覚める……かも』
「つまり……?」
『夢っていうデータが消えたら、現実世界にデータを引き出せないじゃない? つまり、そういうこと』
そういうことって……それはつまり、涼宮さんの夢が覚めたらそこにいるわたしも消えてしまうと、そういうことなんですか?
それは……さすがに困ります。わたしにも役割がありますし、いつまでこのインターフェースで活動を続けられるかは分かりませんけれど、今この時に消えてしまうというのは……ええと、それはさすがに嫌ですよ。
『ちゃんと聞いてる?』
ああ、何かいろいろ考えていたら、朝倉さんの声が聞こえてなかったみたいです。もう本当に……ここに来てからいつもと調子が違うので、少しボーッとしちゃってました。
「あ、ごめんなさい。ちゃんと聞いてますよ」
『そう? なんかいつもと違うよ。とりあえず、こっちでも頑張ってるから、喜緑さんも頑張ってもらいたいの』
「何をすればいいんですか?」
『夢から目覚めないようにすること。人ってさ、自分に優しい夢とか思い出に弱いでしょ? だから、そこで起こることはある程度受け入れるようにして、優しくすれば醒めないと思うの』
「でも、そうするとずっとこのままで……逆にわたしが戻れなくなるんじゃありません?」
『ラスタライズが完了するまで引き延ばしてくれればいいわ。今はこうやって連絡を取るために無理矢理時間を同期させているけど、電話を切ると時間の流れにまた誤差が生じると思う。だから喜緑さんにはすぐに終わることかもしれないし、ずっと長く感じるかもしれない。とりあえず、もうひとつ引き延ばしのための楔を長門さんと古泉くんで打ち込むらしいから、まずは文芸部の部室に行ってみて』
「そこで何をすればいいんですか?」
『さぁ? そこまでは聞いてないわ。それと、そこはあくまでも涼宮さんの支配空間だから、もしかして喜緑さんにも何かしらの影響が出ているかもしれないの。だから……あ、そろそろ限界みたい』
「え? あの、」
『ごめんね。じゃ、頑張って』
「あっ、ちょっと!」
電話、切れちゃいました。随分とあっさりしたもので……まったく、人ごとだと思って随分と適当ですね、朝倉さんも。
でも、現状では朝倉さんや長門さんに頑張ってもらうしかありません。受話器を置いて、職員室を出たわたしは、その足で部室棟の三階にある文芸部部室へと向かいました。そこに何かしらの楔を打ち込むと朝倉さんは言ってましたけど……やっぱり、不安です。
不安? わたしでも不安に思うことってあるんでしょうか。今のこの気持ちが、果たして本当に不安と呼べるものなのかどうかはわかりません。けれど、落ち着かない気分であるのは確かです。
窓の外の青い月を眺めながら部室棟へ向かい、指定された文芸部部室のドアを開けるとそこには……。
「キョン!?」
……え? あれ、今のわたし……ですか? わたしですよね。なんで彼の俗称がつい口をついて出たのかはわかりませんけれど、でも確かにそこにいたのは彼です。
ここは涼宮さんの夢……と言うよりも、深層意識の世界だそうですから、この誰もいない世界に彼だけがいる、というのもありえる話かもしれませんけれど……でも床の上で、どこからどう見ても気絶している風なのは、ちょっとおかしな話です。
と、そんなことを冷静に観察してる場合じゃないですね。
「大丈夫ですか? しっかりしてください」
抱え上げて揺り動かしてみましたけれど、まったく気がつく気配すらないですね。
何でしょう。こう、平和そうに一人で気を失ってる……というよりも、眠ってる姿を見ていると、ふつふつと怒りが沸いて出てくるんですけれど。
「いい加減に起きてくださいっ!」
「ぃでっ!」
そんなに強くではないですけれど、彼の額を平手で叩くと、ようやく目を覚ましてくれました。その程度で目を覚ましてくれてよかった、と言ったところです。もしそれでも起きなかったら、本当にお荷物になるだけじゃないですか。
「ああ……くそっ。ひでぇ目にあった……」
目を覚ましはしましたけれど、その顔色はあまりよろしくありません。月明かりのせいだけではないと思いますけれど、船酔いか車酔いにかかったかのように真っ青になってます。
「大丈夫ですか? どうしてここに……何があったんですか?」
「何があったも……俺はただ、長門と古泉に呼び出されて、訳が分からないままで気がつけばここにいるんですよ。むしろ、何があったのかってことを聞きたいのは俺の方です」
「そうなんですか」
早い話、彼は長門さんに連れられてここにいると、そういうことなんですね。先ほどの電話で朝倉さんが言っていた楔というのは、つまり彼のことなんでしょうか。
「とりあえず、一緒にいてくれと、ただそれだけを言われているんですが……何がどうなってるんですか?」
本来のスペックを引き出せないでいるわたしは、自分で言うのも何ですけれどまったくの無力です。状況があまりよろしくない、ということは朝倉さんからの連絡でわかっていますけれど、それ以外のことはさっぱり。
「残念ですが、わたしもよく事態が飲み込めていないので。ただ……来てくださって、ありがとうございます」
何なんでしょうか。今まで不安……と言っても差し支えない感情を抱いていたわたしですけれど、彼がここにいるというそのことだけで、少しホッとして安心しているみたいなんです。
何か……変ですよね、この気持ち。
薄暗い、あるいは濃密な青一色で塗り固められたこの世界の中、わたしは涼宮さんの深層意識の世界に彼と二人きりでいる……ということになるのでしょうか。
ここにいる彼が、涼宮さんが思い描く理想を具現化したような存在……ということはなさそうです。朝倉さんからの連絡では、長門さんと古泉さんの二人で、この空間から抜け出すための楔を打ち込む、ということでしたから、彼がその楔とやらなのでしょう。
だとしても、どうしてこんな不安定で不明瞭な場所に彼が来てくれたのか、その理論的な理由というのが思い至りません。だってここは、いつ消えるかもわからない世界なんですよ? 消えてしまえば、二度と戻ることはできないんです。
いくら長門さんたちに頼まれたからと言っても、普通は断るじゃないですか。なのに来てくれるなんて……それは、どうしてなんでしょう? 事が涼宮さん発端だから? それとも……。
「それでこれから……どうしたんです?」
わたしの視線に気づいて、彼が言葉半ばで首を傾げます。
どうしたもこうしたも……わたしにはわかりません。わかりませんけれども……わたしには、彼のそんな一歩引いた態度がとても……とても、切なく感じました。胸の中心に、細く鋭い針を突き立てられたような痛みが走ります。
でも彼がそんな態度を取ることは、仕方のないことかもしれません。もともと一歩引いたところにいるのがわたしです。これから先、道が交わるとしても、それがあなたの助けになることかどうかもわかりません。
でも、でも今はこの世界に、わたしとあなたの二人しかいないじゃないですか。なのにどうして……。
「どうしてそんな、よそよそしいんですか?」
自分でも、どうしてそんなことを口にしたのかわかりません。ただ……彼の距離を置いた態度がどうしても我慢できなくて、それがわたしの心に暗い影を落として……そう、人はこれを悲しみというのかもしれませんけれど、そんな気分になって、だからついそんなことを。
「別にそんな、よそよそしいなんてことは、」
そう、それはいつもと変わらない彼の態度。それがいつも通り。だから、いつも彼はわたしに対して、ずっと。
「よそよそしいです」
ジッとその目を見つめると、彼は今にも逃げ出しそうに視線を逸らすんです。そんな彼の態度が、わたしの胸を締め付けるんです。
そうやって、距離を取ろうとする行為への悲しさ。近付いても、近づけないような不安。触れて欲しいのに触れてくれないもどかしさ。
この気持ちが……なにか……あれ? でも、この気持ちは……。
「お願い」
わたしの足は、無意識に一歩前へ踏み出していました。それに合わせるように、彼もまた、一歩下がって……それでも詰め寄ると、彼はパイプ椅子に足を引っかけて倒れて。
「いつもみたいに」
倒れた彼の上に、わたしは覆い被さるように体を預けて、その赤くなっている彼の頬に手を添えて……でも、待って。わたしがこんなことをするなんて……そんなつもりはなんてまったく……ない……でも、こんな行動に出るのはどうして? この胸の高鳴りのせい? あるいは、彼に対して近付きたいと、わたし自身がそう思って……?
「わたしの名前を」
名前……わたしの、なまえ?
「呼んで……」
「き、喜緑さん……?」
呟いた、彼の言葉。
名前。
その名前が、わたしの……そう、そうです。わたしは喜緑江美里。そのパーソナルネームで呼ばれ、この惑星表面上に存在できるインターフェースを持ち、他の誰にも支配されずにひとつの『個』として存在しているのがわたしなんです。
そのわたしが、こうして彼と……涼宮さんにとって何かしらの変革を与えるであろう彼と、こんな気持ちを……こんなことをしようとするなんてことは。
「っでぇっ!」
「……あれ?」
鋭く乾いた音に、彼の悲鳴のような声。さらに付け加えれば、什器が乱雑に崩れ倒れるような音で、ふと我に返ると……彼が盛大に長テーブルやらパイプ椅子やらを巻き込んで伸びてました。
「えっと……」
「おかえりなさい」
「え?」
耳に届いた平坦な声に振り返れば、そこには長門さんがいました。窓の外は、これまでの濃密な青い色ではなく、朱色の光が差し込んでいて……ここ、どこでしょう?
「北高の旧館、通称部室棟にある文芸部部室」
「え?」
「あなたが消失してから、五十三時間四十一分が経過している。現時刻は日曜日の朝七時十八分」
「それはつまり……わたし、戻ってこられたんですね」
「そう」
頷き、長門さんは倒れている彼に指さして。
「涼宮ハルヒは、彼に否定された自分の深層心理さえも否定した。故に、あなたたちが迷い込んでいた擬似的な精神世界は崩壊。逆に、彼の言葉があなたをこの世界に連れ戻すための最後のワードとなり、あなたは彼に名を呼ばれることで『自分』という存在を取り戻すことができた」
「ああ……それで」
つまり、さっきまでわたしが抱いていた感情は、涼宮さんの感情そのものだったと、そういういうことだったんですね。だからわたし、彼に対してあんなにも胸が締め付けられるような思いを抱いて……おかしいと思ったんですよ。わたしは別に、彼のことをそこまで特別視しているわけでも、別段、気にかけているわけでもないのに……あら?
「あの……長門さん」
「なに?」
「わたし、ちゃんと元に戻れたんですよね?」
「そう」
「ですよね」
長門さんがそうおっしゃるのだから、元に戻っているはずです。
なのに、自分が抱いていた感情が、涼宮さんからの借り物だったなんて考えて、少し切なくなっていたり、ノビている彼を介抱している長門さんの様子にちょっとだけ悔しさにも似た感情を抱いているのは……いつか消えるであろう、元に戻ったときに僅かに残った涼宮さんの心の欠片みたいなものの影響なんです。人で言うところの、病み上がりの後遺症みたいなものです。
ええ、そうに違いありません。
「話がある」
と、ようやく現実世界に戻ってこられたわたしに向かって、長門さんが淡々と口を開きました。確かにおっしゃりたいことは山のようにあるでしょう。あるでしょうが、少し時間を空けても罰はあたらないと思うんです。
そもそも、今、長門さんの膝の上ではわたしに張り飛ばされてノビている彼もいますし、少し休まれた方がよろしいんじゃありませんか?
「へいき」
「長門さんが頑丈なのはわかりました。けれど、わたしもそうだというわけではありませんよ。繊細なんですから、そろそろダウン寸前なんです」
「あなたの身体機能に異常はない」
体の問題ではなくて、気分の問題なんですけれど……でも、助けていただいた手前、今回ばかりは文句も言えませんね。今は……日曜日ですか? そんな休日の学校、それも部室棟の文芸部部室という、万が一にも誰かに目撃されれば多少なりとも問題になりかねない場所というのが問題ですが、長くならないのでしたら聞いて差し上げます。
「それで、何でしょうか」
「朝倉涼子の行動制限の解除を求める」
……急に何を言い出してるんですか、長門さん。いえ、急にではないですね。前にも電話でその話をしてきたことがありますし、確かにわたしの方から「また後で」と言ったように覚えています。けど、それを今ここで言うんですか?
「あなたは、学校で、とも言った」
ええ、そうですね。確かにそうとも言いました。そしてここは、日曜日ですけれど間違いなく学校です。でも、今日は休日じゃないですか。そもそもここには彼もいますし、今はまだ気絶……というか、眠ってるようですけれど、聞かれでもしたらどうするんですか。
「……聞いてますよ」
「あら」
起きてらしたんですか? それはそうですよね。わたしが軽く頬を撫でて差し上げただけで、気絶するほうがどうかしてるというものです。
「へいき?」
「首の骨が外れて顎が砕かれるかと思った……」
長門さんの膝枕からのっそり起きあがり、顎をさすりながらそんなことを言います。大袈裟ですね。
「それよりも、朝倉の行動制限とかなんとか、いったい何の話だ?」
わたしと長門さんに目を向けて……というよりも、睨んでますよね、それ。そんな剣呑な眼差しで聞いてきます。だからその話は、今ここでするべき話題じゃないと……あのですね、長門さん。都合が悪くなると黙ってわたしを見るのをやめていただけませんか? 助けたりしませんからね。
「あなたが思っていることで間違いない」
そこで認めちゃうんですか長門さん……あら? あなたが思ってることって、つまり彼は朝倉さんがいらっしゃることをご存じだと、そういうことなんですか?
「やっぱり……朝比奈さんが見かけたってのも、朝倉なのか?」
「それは不明」
「……頼むからあんな危ないヤツの行動くらいは管理してくれ」
やつれたようなため息を吐く彼の気持ちも、わからなくはありません。まだすべての事象が半信半疑だったころに空間封鎖された教室で命を狙われたり、長門さんの暴走で世界改変されたときは実際に刺されたりしていれば、朝倉さんに対して不信感も募るというものです。
ええ、そうですよ。そのことは、しっかりわたしの耳にも届いております。隠し事なんて、できるわけがございませんもの。
「あいつがまた現れたりしたことについては、おまえの親玉あたりの思惑か? だが、今話に出ていた行動制限の解除云々ってのそうじゃないよな? あいつを野放しにするのか」
人食いのサーベルタイガーが檻から逃げ出した、とでもいうニュースを耳にしたような彼の慌て振りを見て、やはり朝倉さんの行動制限解除はまだ早いのではないかと思います。
インターフェースを再構築され、再びこの惑星表面上に『朝倉涼子』という個体が存在していても、涼宮さんの近くに置くことは……これでは無理じゃないですか。
「そう」
やっぱり朝倉さんの行動制限の解除は早いと結論づけていたわたしを余所に、長門さんは律儀にも彼の問いかけに素直に頷いています。
「これまでの行動を監視した結果、朝倉涼子の攻撃性は薄れていると判断できる。再度、わたしの監視をはずれて独断専行する可能性は低い」
「ゼロじゃないなら、起こるかもしれないだろ」
「へいき」
「何故?」
「わたしが守る」
あらあら、お熱いことですね。でも、長門さんらしい懐柔策でもあります。彼にとって、その言葉は疑うべきところは何もないでしょう。
「それに、喜緑江美里もあなたを守る」
そうです、わたしも……え?
「わたしも、ですか?」
「あなたは今回、彼の助けあってここにいる。恩を返すのは礼儀」
そんな長門さん……そう言われて何もしなければ、わたしが礼儀知らずみたいになっちゃうじゃないですか。
「だからってな、」
「だから」
絶妙のタイミングで、彼の反論を遮って長門さんが口を開きました。
「一度、朝倉涼子に会って欲しい。できれば、今から」
そう言われて、彼は何か反論のひとつでもしたいのか口を開きかけて、けれど長門さんにジーッと睨まれて気をそがれたのか、何も言わずにただ、苛立つように頭を掻いて言葉を探しています。
「今から、ってのは無理だ。今日はちょっと野暮用がある。それに……仮に俺が朝倉に会ったところで、何もならんだろ。二度も殺されかけてるんだ。二度と会いたくない。なんていうか……仮に長門の蔵書が燃やされたとしよう。そうした相手と、仲よくできるか?」
「無理」
そこで彼の意見に同意してどうするんですか、長門さん。
「だろ? 俺にとっちゃ、朝倉がそうなんだ。すまん」
「……そう」
あらあら、あっさり引くんですか? そこはもう少し粘ってもよさそうですけれど。
「ああ、すまん。とりあえず、朝倉に会う云々の話を別にすれば、俺にはもう用はないよな? ですよね?」
「え? あ、そうですね。この度は、わたしのせいでご迷惑をおかけして、申し訳ありません」
「どうせハルヒのしでかしたことでしょう。いいですよ、別に。……ああ、もうこんな時間か……」
ちらりと時計に目をやって、彼は「着替えるくらいの時間はあるか」とかなんとか言ってます。お出かけの用事でもあったんでしょうか。こんな時間まで引き留めて、ますます申し訳なく思います。
「それじゃ長門、それに喜緑さん。また明日」
挨拶もそこそこに、彼は部室を飛び出していきました。用事があったこともそうでしょうけれど、これ以上、長門さんに朝倉さんのことで何か言われたくない、とも取れる急ぎ方ですね。
「追いかけないんですか?」
「追う。あなたは朝倉涼子の方へ」
「だから、何故わたしがそこまで……」
「あなたを助けるために朝倉涼子も力を貸している」
あら、そうなんですか。ああ、でもそうですね。涼宮さんが作り出していた空間への中和干渉プログラムを作り出して実行し、維持するためには長門さん一人では大変でしょうから、朝倉さんの手を借りていてもおかしくはありません。
あらあら、わたし、朝倉さんにまで借りを作ってしまったんですか。
「彼女にも恩を返すべき」
「何をさせようと言うんですか」
「彼の行き先に、朝倉涼子を連れてくるだけでいい」
「……いいんですか? 彼、絶対に嫌がりますよ」
「問題ない。あなたにも、わかるはず」
「…………」
確かに、涼宮さんが原因のこととはいえ、わたしのために駆けつけてくれる彼ならば、口で何と言おうとも実際に会えば受け入れるでしょうけれど。
「朝倉涼子の行動制限の解除を求める」
再度、長門さんがわたしに言ってきます。本当に……頑固というか我が侭といいますか、一度言い出したら聞かないんですね。
「わかりました。ですが、それは今すぐというわけにもいきません。わたしも朝倉さんを見極めてから、でよろしいでしょうか?」
「かまわない」
本当にもう……なんだか長門さんのペースに巻き込まれていますね、わたしも。
どうしてあそこまで長門さんが必死になって朝倉さんの行動制限を解除しようとしているのか、残念ながらその意図は不明ですけれども、わたし個人の意見としてはそれはまだ早いと思います。今の涼宮さんを取り囲む状況や彼女の側にいる人々、その思惑や行動を見ていれば、長門さんにとって朝倉さんがそこまで必要な存在であるとは思えないんですけれども……しかし、自分で「見極める」と言った手前、面倒でも朝倉さんと会わなければならいわけです。
どうやら今、朝倉さんは駅前公園の側にある喫茶店にいました。のんびりとティータイムですか。優雅なものですね。
「朝倉さん、こんにちは」
…………。
シカト、ですか。何やら周囲の音をすべて拾い上げて遊んでるようですけれど、このわたしが声をかけても無視し続けるというのは、なかなか上等な態度ですね。いえ、別に怒ってたりするわけじゃありませんよ? そんなことで怒るほど、わたしの沸点は低くありませんから。
「盗み聞きですか。あまり褒められた趣味とは言えませんね」
「わっ!」
耳元で声をかけて、ようやくわたしに気づいてくれました。これで気づかなかったら帰ってたところです。それにしても、驚きすぎですよ。
「何もそんなに驚くことはないじゃないですか。ちゃんと声はかけましたよ? 朝倉さん、ちっとも気づいてくれないんですもの」
「あら、そう? ごめんね」
なんだか適当すぎる言葉ですね。友好的にしろとは言いませんけれども、わざわざ足を伸ばしたわたしを多少なりとも労ってくれてもよろしいんじゃないかしら?
「もしかして、一人でここに?」
横に腰を下ろしたわたしに、やや驚き混じりに聞いてきます。わたしが一人で出歩くのが、そんなに意外ですか? むしろ、わたしが誰かと一緒に行動を共にしていることの方が、自分的には驚かれることだと思うんですよね。
「違いますよ。いえ、一人なのはそうですけれど、ただあなたがここにいるから、やってきただけです」
「あら、わたしに話があるってこと?」
「ここ、涼宮さんたちの集合場所にもなっている喫茶店ですよ。鉢合わせでもしたら、困ったことになるじゃないですか」
涼宮さんは観察対象ですから、その動向は逐一チェックはしてるんです。プライベートなことまで覗き込むような真似こそしていませんけれど、今どこにいるのか、とか、そういうことは常にサーチしております。どうやらこちらに向かってるですから、あまり長居するわけにもいかないでしょうね。
朝倉さんが、果たしてそこまでしているのかは疑問ですけれど。
「そうなの? でも、そんなときは長門さんも一緒でしょ。心配することなんてないじゃない」
「万が一、ということもありますから」
特に今の長門さんは、朝倉さんを涼宮さんや他の方に会わせることに積極的とも取れる態度を取っています。ニアミスしそうな場面に遭遇したら、間違いなく引き合わせるでしょう。事前準備もなにもなく。
「そんな石橋を叩いて渡るような慎重な性格だったかしら、あなたって」
あらあら、朝倉さんの目玉はデキの悪いビーダマですか? いったいわたしのことを、どのように見てらっしゃったのか、大いに問いつめたいところです。
「不確定要素はクリアにしておきたい、とは思いますけれど。でも、今日はちょっとしたお礼も兼ねているんですよ」
「お礼?」
「先頃の」
「ああ」
長門さんの話によれば、わたしを救出するために朝倉さんがお力添えをしていただいたとのことですけれど、彼女にとってみればお礼なんて言われるまでもないこと、とでも思っていたのでしょうか。すぐにピンとこなかったみたいですね。
それとも、わたしがお礼を言いにわざわざやってくることが信じられない、とでも思っているのでしたら……ふふ、さて、どうしてくれましょうか。
「だから捜していたんですよ。でもまさか、ここにいらっしゃるとは思いませんでした」
「すっかり忘れていたのよ」
忘れて……ですか。朝倉さんに限って、ということではありませんけれど、わたしたちに『忘れる』なんてことができるんでしょうか。得られる情報こそがすべてのわたしたちに。
「……本当に?」
「何が?」
まぁ、そういうことにしておいてさしあげます。
「いえいえ、別に」
「言いたいことがあれば言えばいいのに」
「お礼をしに来ただけですから。迂闊なことを言って、気分を害されては困りますもの」
そう言うと、朝倉さんはじろりとわたしを睨んできました。
「つまり、わたしが不愉快に思うようなことを考えているってことね」
「あらあら……」
朝倉さんが不愉快に……ですか。そうですね、行動制限の解除をどうするか、その判断がわたしに一任されているとなれば、朝倉さんにしてみれば不快に思うところかもしれませんね。
「図星です」
「あっそ」
鼻を鳴らしてそっぽを向く朝倉さんの姿は、なんだか見ていて微笑ましくもあります。どこかしら不機嫌で、わかっているのに知らない素振りを見せてこの喫茶店で時間を過ごしているのは、ただ単に時間を持て余しているから、というわけではないでしょう。
わたしが涼宮さんの心の世界に取り込まれ、感化された気持ち。元に戻れた時に、長門さんの膝の上でノビていた彼を見て抱いた気持ちは、今は幻とも思える儚げなものですけれど、あのときあの一瞬には確かにあった気持ちです。
それと似た思いを、朝倉さんが抱いているのはわかります。ただ、そうだとしても。
「らしくない、と思っただけですよ」
「わたしが?」
「待ってるんでしょう」
「何を?」
「わかってらっしゃるくせに」
本当にずるいですね、朝倉さん。気づいているのに気づかないふりをして、それを思い込むことで本当にわからないと錯覚している。でも、そうだとすれば以前の朝倉さんなら、考えるよりも行動していたかもしれません。
……確かに、変わったのかもしれませんね。
「ま、いいわ」
軽いため息のような吐息を漏らして、朝倉さんが立ち上がりました。
「お礼なら、ここの会計は任せるね。それじゃ、またね」
「もうお帰りになるんですか?」
頃合いとしてはばっちりかもしれませんね。わたしが把握している涼宮さんは、駅前に到着しているころでしょうから、下手をすれば本当に鉢合わせになりかねません。それを察知して席を立った、とも思えますけれど……さて、朝倉さんが何を考えているのかなんて、わたしにもわかりませんよ。
「ここのお支払いはわたしが持ちますよ。でも朝倉さん、これからどちらに>」
「帰るわ。もうどこにも寄り道しないから」
「休日なのに、もう帰られるんですか」
今の状況では、あまり遊び歩かれても困りもの、ではあるんですが……わたしも長門さんと約束した手前、少なくとも彼のところまで連れて行かなければならないもので。
そういえば今、彼は……自宅、いえ外ですね。ええっと……遊園地? 一人ではなくて、誰かと……彼個人のお知り合いの方と一緒かしら。
とりあえず、そこまで朝倉さんをお連れした方がよさそうではあります。行動制限を解除するかどうかは別として。
「それなら、ちょっとお出かけしませんか?」
わたしの提案に、朝倉さんはあからさまに嫌な顔をして見せました。
「……誰が?」
「わたしが今、話しかけているのはあなたなんですけれど」
「……誰と?」
「わたし以外に誰がいるんですか」
あらあら、そうもあからさまですと、さすがのわたしでもブチギレますよ?
「いいじゃないですか。退屈なんでしょう? 楽しいですよ」
わたしの心和む笑顔を前に、朝倉さんはようやく納得していただいたみたいです。肺の空気をすべて吐き出すような深い深いため息を吐いて渋々承諾していただけました。
「もちろん、全部あなたの奢りなんでしょう?」
「ええ、もちろん」
あとでしっかり、長門さんに請求はしますけれどね。
わたしは何も、心から朝倉さんと二人で遊園地を満喫しよう、なんて思っているわけではありません。長門さんが彼を追ってここに来ているから、わたしも朝倉さんを連れて訪れなければならなかっただけなんです
わたしはまだ、朝倉さんの行動制限を解除すべきかどうか、迷っています。ただ、長門さんからは彼のところまで連れてきて欲しい、と言われているから、解除するにしてもしないにしても、すぐに行動を起こせる近くで待機しておくのが最善だろうと考えたわけで……だから、こんな観覧車の中という密室に近い状況で、不機嫌気分を隠そうともしない朝倉さんと二人きりで閉じこめられているわけです。たまったもんじゃなありませんよ。
「あのさ」
ほらきた。
「何が悲しくてあたしたち、女の子同士で観覧車になんて乗ってるのかな?」
ですよね? ええ、まったくその通りだと思います。わたしだって観覧車に乗るのなら、朝倉さんなんかよりも殿方の方がどれほど嬉しいか……まぁ、そんな話は置いておきましょう。
「あら、よろしいじゃありませんか」
朝倉さんに顔を見せてしまいますと、余計なことまで口走ってしまいそうです。仕方ないのでわたしは窓の外の、豆粒みたいな人混みを眺めて心を落ち着かせることにします。いえ、何も窓の外を眺めているのは、人間なんかを鑑賞するためではないんですよ? 同じ園内にいる長門さんを捜すためです。
「そんな楽しいものでもある?」
「ええ、楽しいですよ。けっこう高いですから、ほら、人がゴミみたいに……うふふ」
なんて冗談はいいとして……ちょっと朝倉さん、何ですかその顔は……。
冗談ですよ? 冗談に決まってるじゃないですか。わたしはただ、長門さんを捜しているだけなんですから、そんなあなた、あくびをしていたら口の中に虫が飛び込んできた、っていう顔でわたしを見ないでください。
朝倉さんだって、外を見れば楽しくなるんじゃありません? 楽しくならなくたって、窓の外を見ればイライラも少しは落ち着くんじゃないかしら?
「うーん、高いところでウキウキするような気分じゃないかも。アトラクションなら、もっと他にもあるじゃない。絶叫系とか。そっちの方がいいかな」
その台詞も、朝倉さんが言うと過激な危険思想に聞こえるから不思議です。
「やっぱり、悲鳴を聞くのが大好きなんですね」
「ちょっと」
わたしの愛くるしくも微笑ましいジョークで柳眉を吊り上げられても……。
「冗談じゃないですか。真に受けられても困ります。それよりも、そろそろ頂上ですね」
「そうね」
物凄い適当な返事ですね。せっかくわたしが気を遣って差し上げたのに……どうしてくれ──ああ、見つけました。
「ほらほら、朝倉さん見てください」
あれを見れば、朝倉さんも少しは機嫌がよくなるかしら? そんな面倒臭そうな顔をせずに、たまにはわたしの言うことを信じてみましょ? きっと幸せになれますよ。うふふ。
「そんな遠くを見てどうするんですか。ほら、あそこ。あの青い屋根の売店のところ」
「え?」
そこに見えるのは──言うまでもないことでしょうけれど──長門さんと二人でランチを食べている彼の姿。
実際どんな話をしているのか、あえて聞き耳身を立てるような、はしたない真似はいたしません。けれど、あのお二人の姿を客観的に見れば立派なカップルのようですね。
「あの二人が何をやってるのか、気になりません?」
「…………」
あらやだ、怖いくらいに静かです。
「朝倉さん?」
「え? ああ、そうね。多少なりとも気にはなるね」
近くにいるのに近付けない、今のこの距離を朝倉さんはどのようにお考えなのかしら。
朝倉さんにとっては近くて遠いこの距離なのに、けれど長門さんは労せず傍らにいる。それを目の当たりにして、心中穏やかでいられるかしら?
少なくとも、わたしが知っている朝倉さんはそんな方ではない、と認識しておりますが。
「でも、別にいいんじゃない? ほっといても」
「あら、そうですか?」
これはちょっと意外な反応です。まさか朝倉さんがそんな殊勝なことをおっしゃるなんて。
わたしがちょっぴり驚いた表情を見せていると、朝倉さんはまるで言い訳のように言葉を重ねてきました。
「長門さんが遊園地に来るなんて珍しいじゃない。それに、何も二人で悪いことしてるわけでもないでしょう? おまけに、わたしは彼に会えないもの」
「なるほど。そういうことですか」
なんだか朝倉さんのことがよくわかりません。もう少し引っかけてみましょう。
「仕方ないですね。それなら、邪魔しに行きましょう」
「ちょっと。だから、わたしは彼と会うわけにはいかないの」
「そうですか。つまり、会えるなら邪魔しに行くわけですね?」
「行きません。だいたいわたしは彼に会えないもの。会えないのに、そんな邪魔するとかできるわけないじゃない。それに、もし会えるのだとしても邪魔するわけないじゃない」
会えないから邪魔しない、ではなくて、会えても邪魔するつもりはない……本当かしら?
「素直じゃありませんね」
「わたしはこれ以上にないってくらい素直なの。ねぇ、喜緑さん。もしかして、彼と長門さんがここにいること知ってた?」
あらあら、さすがの朝倉さんでも、ここまでからかえばお気づきになってしまうものなんですね。
「そうでもなければ、どうしてわたしが朝倉さんと二人きりで遊園地なんかに来なければならないんですか」
「二人のデートを邪魔するつもりだったからでしょ」
わたしがそんなことをするメリットなんて、微塵もございませんよ。そもそも、そんな真似をする暇人と思っていただなんて、ひどいです。
「じゃあ、ほっときましょうよ」
「わたしはそれでも構いませんよ。でも、朝倉さんはそれで本当にいいんですか?」
重ねて問いつめると、朝倉さんは一瞬言葉に詰まり……それでも息を呑んで首を横に振りました。
「二人の邪魔をしたいのなら、一人でどうぞ。わたしは帰るね」
早口で捲し立て、ちょうど観覧車が一周したところで朝倉さんは飛び降りてしまいました。
あらあら、少しからかいすぎたかしら? むしろ追いつめすぎたかもしれませんね。まさか怒るとは思いませんでした。
でも、そのくらいのことで怒るだなんて、それだけ真面目に考えているということなのかしら?
もう一度消えてしまうこと、あるいは彼のこと……さて、どちらかしら。
こうなると、朝倉さんの行動制限を解除したほうが楽しいことになるかもしれませんね。
いいでしょう、長門さん。助けていただいた恩もございますし、約束も守りましょう。現時刻を以て、朝倉さんの行動制限は解除いたします。
けれど、それでどうなるかまでは責任を持てませんよ? 何やらいろいろと策を施しているようではありますが……さて、わたしはただ、その結果を見させていただくに止めましょう。
これ以上の口出しをするなんて、わたしらしくありませんもの。
よくよく考えてみれば、わたしが長門さんに頼まれたのは彼の行き先に朝倉さんを連れてくることであって、朝倉さんを彼に会わせることではありません。ですから、この遊園地に朝倉さんと一緒に足を踏み入れた時点で、わたしの役目は終わり。お役ご免というものです。
なんだか自分自身に言い訳をしているみたいで釈然としませんけれど、事実そうなのですから仕方ありません。この後、朝倉さんがどのような行動に出るのか興味がないと言えば嘘になりますが、その結果を確かめるためだけに一人でぼんやりしているのもつまらないので、帰ることにしましょう。涼宮さんの夢の中から戻って、まだちゃんとした休養を取っていませんし。
そう考えて入退場のゲートへ向かうその最中……わたしは、視界の隅に見知った顔が同じ方向へ向かって歩く姿を見つけました。
「あら、お帰りになられるんですか?」
迷いも躊躇いもなく帰ろうとしていたその人──長門さんにわたしは声を掛けました。彼女が帰ろうとしていることに、ちょっと驚きを感じたからです。
長門さんは、彼と朝倉さんを会わせたいから、わざわざわたしに頼み事をしたと思うのですけれど……でも、その目的を果たす前に帰られてしまうんですか?
どこか少し……釈然としませんね。まるで、やることは済ませたとばかりの様子は、ちょっとおかしく思えるところです。
「ちょうどわたしも帰ろうと思っていたところなんですよ」
わたしが話しかけても、長門さんは沈黙を守るばかり。ここで何も聞いてこないのは、やっぱり少し変です。まだ長門さんはご存じないはずじゃないですか。朝倉さんが彼と会ったかどうかなんてことは。
それを確かめもせずにいるということは……つまり、そういうことなでしょうか?
「ずっと疑問に思っていたんですけれど、質問してもよろしいでしょうか?」
沈黙を守り、立ち去ろうともしないということは、それが了承の合図と受け取りますよ。
「どうしてそこまで、執拗に朝倉さんの行動制限解除を実行させようとしたんですか?」
それが少し、わからなかったんです。この現状において、朝倉さんが涼宮さんたちの側にいなければならない理由というのは、すぐに思いつきません。いなくてもいい、とまでは言いませんが、異常動作を起こす前の──涼宮さんや彼と同じクラスにいる──状態に戻す理由がありません。彼と朝倉さんを会わせようとすることは、つまりそういうことですよね?
でもわたしが見た限り、朝倉さんは彼に会おうとする……なんと言えばいいのか……そうですね、勇気がない、と言ったところでしょうか。そう見えたんです。
だから、わたしは朝倉さんの行動制限の解除を決断しました。今の朝倉さんなら、例え自由に動ける状態にあっても、自ら積極的なアクションを起こすことはない──彼に会うことも危害を加えることもない──その判断あってのことです。
長門さんがわたしに求めたのは、朝倉さんの行動制限の解除です。でもわたしは、長門さんの真意が彼と朝倉さんを会わせることにあったと思っていました。でも、その真意をわたしが読み違っていたとしたら? 長門さんの目的が、言葉通り朝倉さんの行動制限の解除だけであったとしたら……?
「そういうことですか」
長門さんは、何も応えません。どうやら、わたしのこの考えで間違いはないようですね。相手の要求を100パーセント受け入れることはできないけれど、その何割かなら受け入れられる。そういうこちらの打算的な心理を突かれた、ってことですか。
「もうすでに朝倉さんの行動制限は解除しています。まんまとあなたにしてやられた……と、いうことですね。朝倉さんを彼と会わせようとしたのは、フェイク?」
「それは違う」
そのときになって、長門さんはようやく口を開きました。軽口を叩けとまでは言いませんけれど、そこまで重くしなくてもよろしいじゃないですか。別に怒ったりしませんよ。
「あなたに、わたしの狙いが『彼と朝倉涼子を会わせる』と思わせておくことで、本命の思惑が楽に進むと判断した。わたしが直接関与したのは、あなたが涼宮ハルヒの夢の中に取り込まれた際の救出、及びこの地点に朝倉涼子を連れてくること。それ以外のことは、すべて偶然」
「よくもそこまで、偶発的に起きた出来事すべてを利用したものですね。お見事、としか言葉が見つかりません。でも長門さん……それは経過であって理由にはなってませんよ?」
そんな首を傾げられても、事実その通りじゃないですか。それは長門さんの狙いを実行するにあたってのトリックであって、目的そのものの理由にはなりません。
答えたくないのであれば、それは別にかまいませんよ。ただ、わたしの方で思うところがあるので、それを聞いてもらうことになりますけれど……沈黙を貫き通すのでしたら、それは了承の合図と受け取らせていただきますね。
「わたしが思うに、長門さんは朝倉さんへの罪滅ぼしのために行動した……と考えているのですけれど、違いますか?」
「…………」
そう定義することが相応しいのかどうかはわかりませんが、少なからず長門さんにも何かしらの負い目があるから、朝倉さんのために動いた……わたしはそう考えているんです。いえ、間違いなくそうだと思われます。
そうでなければ、長門さんが自ら積極的に動く理由なんて思い浮かびませんもの。
でも。
「本」
「……え?」
しばしの沈黙の後、長門さんの口から漏れた言葉はその言葉。
「朝倉涼子が戻ってから、わたしには本を読む時間が少なくなっていた。彼女が自由に動ければ、足りなくなった時間を取り戻せると判断した」
「……それが、理由?」
「そう」
まったく……本当に何て言えばいいのか、これだから長門さんには困ったものです。
「素直じゃありませんね。負けず嫌いもそこまで来れば立派です。わかりました、もう少しだけご協力いたしましょう」
本を読む時間が欲しかった……それが理由と言うのであれば、そういうことにしておいてあげましょう。真意が別にあったとしても、言葉として口にした以上、わたしはそれを信じます。
でも長門さん、このわたしが余所様の思惑通りに動くだなんて、本気で考えていらっしゃるわけではありませんよね? 本を読む時間が欲しかった……なんて思惑通りに、事を進めさせるわけにはいきません。
それとも、そう考えるわたしの性格も、長門さんの読み通りなのかしら?
帰宅する長門さんを見送り、その足で園内に戻ったわたしは、目当ての人物を捜して歩くことにしました。あのまま怒って帰った……とも考えられるんですが、せっかく近くにいるのにそのまま帰るような真似はしないと思うんです。
だからきっと、近いけれど遠いような、そんな位置にいると思うんです……けれど……ああ、見つけました。
ぼんやりと黄昏れているその姿は、無防備というか哀愁漂うと申しましょうか、知っている人が見れば意外に思えるほど、いつもの朝倉さんらしくありません。
「あら、まだいらしたんですね」
声をかけると、朝倉さんは一瞬驚いたような表情を見せて、でもわたしだと気づくや否や、ため息なんか吐いて見せます。まったく失礼な話ですね。
「何をなさってるんですか、こんなところにお一人で」
「そういう喜緑さんこそ、何やってたのよ」
「誰かさんのせいで、不躾なお誘いをしてきた殿方をあしらうという、不毛な時間を余儀なくされておりました」
などということはまったくなかったんですけどね。でも今の朝倉さんを相手に、懇切丁寧なご説明を申し上げるのはやめておきましょう。冗談交じりの嘘で充分です。
「それにしても、ちょっと意外です」
「何が?」
「だって、一人でいらっしゃるんですもの。朝倉さんのことだから、てっきり彼に会いに行っているのかと思ってました」
「会わないわよ」
即答ですか。即答するということは、それだけ意識してると言うことで……なんと言えばいいのか、朝倉さんも長門さんに負けず劣らずの意地っ張りですね。
「何故ですか?」
「ダメなんでしょ、彼と会ったら」
「それが理由ですか?」
その目を覗き込みながら尋ねると戸惑いの表情を浮かべ、わたしの視線から逃れるように顔を逸らします。そんな彼女を見て、わたしはため息しか出ません。
「以前の朝倉さんなら、そういうことを律儀に守るようなことはないと思ってましたけれど。長門さんがおっしゃるように、本当に変わられたんですね」
「わたしは別に、何も変わってないじゃない」
「そうですね、変わられてないかもしれません。でも、わたしが知る朝倉涼子という人物像のイメージは、大きく塗り変わりましたよ」
「そう」
そんなことはどうでもいい、というような返事。そうですね、今の朝倉さんにとって、自分自身のことなんてどうでもいいんでしょうね。大切なのことは、ひとつのことだけですものね。
「嫌……なのかしら。いえ、怖いのでしょうか」
「え、なに?」
「拒絶されることが、です」
「そんなことないわ。別に彼から拒絶されても、どうでもいいの」
あらあら、そこまで意識しなくたってよろしいじゃありませんか。素直すぎる朝倉さんの態度に、思わず笑いがこぼれてしまいます。
それが一番大切なことなんですね、朝倉さん。
「わたし、『誰から』とは言ってませんよ」
「え? だって……なんだかここ最近、会う人みんなが彼のことを言うから」
「そうですか」
「そうなの。だから、そう思っただけ。違うの?」
「違いはしませんけれど……気になさらないのなら、そんな悲しそうな顔をしなければよろしいのに」
「……え?」
実際に涙を流しているわけではありません。けれど、そう見えるんです。イタズラをして叱られた子供が、親にどうやって謝ろうかなってしているような、そんな顔。気のせいかもしれませんけれど。
「見間違いよ」
「大丈夫ですよ」
「泣く理由がないわ」
本当に困ったものですね。何もわたしの前でまで、そんな強気な態度を見せなくてもよろしいじゃありませんか。
「彼は、拒絶しませんよ」
「なんでそんなことわかるの?」
「だって、わたしのことも助けに来てくださいましたもの。ほら、昨晩の話ですよ。いくら涼宮さんに関係することで長門さんに頼まれたからと言っても、渦中にいるのはわたしなんですよ? 関わりも薄いのに、そんな危険なことを請け負ってくれるなんて……普通はしないでしょう?」
ともすれば、自分も巻き込まれて消えてしまうかもしれませんのにね。そのことを長門さんや古泉さんが説明していなかったから来てくれた、とも考えられますけれど……実際はどうなんでしょう。危険を承知でわたしのために? ……ふふ、それだけはなさそうなのが……ちょっと残念です。
「人がいい、といえばそれまでですけれど……でも、彼の場合はちょっと違うような気がします。長門さんも、涼宮さんも、彼のそんなところに惹かれているんじゃないのかしら」
「なにが?」
「彼、口では何を言っても、求めて差し伸べられた手は必ず掴むんですね。どんなに面倒なことになっても、必ず掴んで離さないんです。だから……」
まったく根拠はありませんけれど、確信を持って言えることです。どんな嫌な顔を見せても、彼ならきっと、朝倉さんのことも受け入れてくれますよ。
「でも……それに甘えていいの? わたしは、」
「それでも、会いたいのでしょう?」
「…………」
間髪入れずに問いかけたわたしの言葉に、今度は否定する言葉もありません。
「さて、と」
だからもう、わたしが言うことは何もなさそうです。その沈黙が肯定か否定か、考えるまでもなさそうですね。
「わたし、そろそろ帰ります。明日は学校もありますから」
「あ……そう、ね」
「それでは、また……あ、そうそう」
そう言えば、まだ朝倉さんに伝えていませんでしたね。一番肝心なことで、朝倉さんの躊躇いを断ち切る大切なこと。
「朝倉さんにかけられていた行動制限のコードは解除しておきました。わたしとしたことが、長門さんにまんまとしてやられた、というところです。ですので、明日は学校に来てくださいね。再編入の手続きがありますから」
「……え?」
「あとは、朝倉さん次第です。それでは、ごきげんよう」
こんなことまで言う必要はないと思いますけれど、でもそうですね。これは、長門さんへの仕返しでもあるんです。ここまで言えば、決心のつかない朝倉さんだって、いくら何でも動くでしょう。
長門さんは、彼と朝倉さんが会うも会わないもどちらでもいい、と考えていたようですが……わたしとしては、二人が会うことが、長門さんに対する仕返しになる──そんな気がするんです。理由なんてありませんし、何かしらの根拠あっての発言でもありません。
なんとなくですよ。なんとなく……ね。
世の中そんなに甘いものではなく、昨日の今日で朝倉さんが何事もなかったように学校へ通う……なんてことが、できるわけもございません。
朝倉さんは今日、学校に来ています。でもそれは、再編入のためのテストのために来ているだけであって、そのテストに合格しなければ復学はありえません……けれど、朝倉さんですからね。あらゆる手段を講じて合格するんじゃないでしょうか。
となればどうなるか、考えるのも億劫です。長門さんが居て、朝倉さんも居る。好き勝手にやられて事後処理に奔走するわたしの苦労も倍増しそうですね。
はぁ〜……朝倉さんのことなんて、やっぱり放っておけばよかったかしら。
「喜緑くん、週末の休みでうまく息抜きでもしてきたのかね」
今後、起こるであろう出来事に思いを巡らせて吐息を漏らしていると、会長がそんなことを言ってきました。
「どこか少し、楽しそうに見えるが」
「え……?」
会長の言葉は、自分でも少し驚きを感じるものです。今のわたし、楽しそうに見えるんですね。楽しいというよりも、どちらかといえば苦労しそうな悩みの種が増えてばかりで……でも、どうなんでしょう。楽しい……ええ、言われて気づくのもどうかと思いますが、どこか楽しんでいるかもしれませんね。
「会長のご忠告を受けて、週末には好きなことをさせていただきました」
「なるほど」
それは嘘ではありません。やや思うところはありますが、振り返ってみれば自分自身、好きなように動いていたことは間違いなさそうです。その結果が、こうなったと……ただ、それだけです。
「それは何よりだ。では、今週からまた、生徒会のために尽力してくれたまえ」
「はい、会長」
不測な事態が起こるそのときまで、この生徒会で会長の側にいることにしましょう。
まさかわたしが、こうやって生徒会の仕事に注力していることで平穏で安息を感じられるようになるとは、少々予想外ですが……ここにいることがいかにもわたしらしいと、涼宮さんの夢の中に取り込まれたことで考えるようになっています。
騒ぎの中心にいるのは、長門さんや彼の役目。わたしはただの傍観者……あるいは騒ぎを提供する立場。そして提供した次の騒ぎは、朝倉さんということにしておきましょう。
ですから、今しばらくはここでこうして、静かにしているつもりです。
〆
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