グロウアップ・デイズ

1

 自分がまだ子供だっていうことはわかっているつもりです。そもそも小学生ですし、自分一人でなんでも出来るわけでもないですから。
 でも、それでも「大人ってズルいなぁ」って思うことがあります。
 例えば、夜遅くまで起きていられたり、映画とかの年齢制限もそうですね。その他にもいろいろあります。もちろん、休日に友だちと街までお買い物に出かけることも、子供だからって理由で、ちょっと厳しいんです。近所で遊んだり商店街に出かけたりっていうのはそれほどでもないんですけど、街中まで出かけるときは、やっぱり保護者の人が一緒じゃないと親がうるさくて……。
「と、いうわけなんです」
 友だちと二人だけで遊びに来るつもりが、親がうるさかったばかりに、一緒に遊ぶ予定だった彼女のお兄さんにまで頼むことになって……ああ、もう。本当に申し訳なく思います。せっかくの休日なのに、わざわざ付き合わせてしまって。
「それで今朝になって妹が騒いでたわけか」
「本当にすみません」
「ま、暇だったしな。ついて歩くだけなら別に構わないぞ」
 そう言っていただけるのは有り難いですし、嬉しいんですけれど……でもやっぱり恐縮しちゃいます。本当なら今日は中止にしようと思っていたのに、まさかお兄さんの方からOKが出るなんて思わなくて。
 どうしよう……ううん、困ってるわけじゃなくて、なんていうか驚いただけで、そもそも二人きりってわけでもないから緊張することもなくて……でも、まさかこんな風に一緒にいられる時間ができるとは思わなくて──
「──んだ?」
「え?」
「いや、どこに行くんだ? って聞いただけだが」
「あ、えっと」
「今日はお洋服を買いに行くのーっ」
 一緒に来た友だち……お兄さんの実の妹になるんだけれど、その子がわたしに代わって答えてくれました。確かにその通りです……って、わたし自身が思い出してどうするんだって話ですよね。でも、それでさらにちょっと困ったことも一緒に思い出したんです。
 彼女が言うように、確かに服を買いに来たんです。服と言っても小学生ですから、そんな高いものじゃないですけど、ただ……服と一言で言ってもいろいろあるわけで……そりゃ、二人は兄妹ですから別に構わないと思うんです。でも、あたしの場合は、その、ちょっと。
「あ、あのお兄さん。わたしたち、そこのお店で二人で買い物してきますから。えっとその、それまでどこかで休んでてください」
「うん? それでも構わんが、しかし保護者として着いてきた以上は目の届くところにいないと、何かとマズくないか?」
「だっ、大丈夫ですよ。お店の出口は一カ所だけですから」
「でもなぁ」
 必死に説得するんですけれど、お兄さん、妙なところで真面目で……こういうところは、ちょっと……わざとやってるんじゃ? って思うほど、鈍いんですよね。
「キョンくん、ホントに一緒にお店の中まで来るの?」
 どうやって説得しようかとあれこれ思案していると、彼女の方からもそんな言葉が……って、ちょっと待って!?
「なんだ、何があるんだ?」
「あたしたち、下着も買うんだよ。いつも嫌だっていうのに、今日は選んでくれるの?」
「え? あ」
 そこまで言われてお兄さんの方もようやく気づいたみたいで、わたしの方を見て……うわぁっ、すっごい恥ずかしい……。
「あー、えっとじゃあ、そこのベンチで待ってるから。まぁ、なんだ。ごゆっくり」
 ごゆっくりって何ですか、もう……。

 お店はランジェリーショップじゃなくて普通の衣料品店ですから、何も買うのは下着だけじゃないんです。外ではお兄さんも待たせていることだし、あまり時間をかけずに店内を二人で見て回りましたけど。
 彼女の方は何着か試着して(下着じゃないですよ)買ったみたいです。逆にわたしの方は、あまり気に入った柄のものがなく何も買わずに済ませました。どうも、今ここで買っちゃうのは……なんていうか、見られて無くてもやっぱり恥ずかしいんです。
 それにしても、店内にはカップルで普通に下着売り場にまで来ている人たちがいるんですね。やっぱり大人になると、こういう場所でも平気になるのかしら?
 そういうのを見ちゃうと、羨ましいって思う反面、やっぱりズルいなぁって。わたしももう少し大きくなれば、好きな人と一緒にいろんなところに行けるようになるのかしら。別に下着売り場じゃなくてもいいんですけど。
「キョンくん、おまたせー」
「お待たせしました」
 外に出ると、お兄さんはやっぱり暇だったみたいで携帯電話をいじってました。何かアプリで遊んでたのかな? どちらにしろ、本当に待たせて申し訳ないです。
「随分と買い込んだな」
「えへへ〜。お家に帰ったらキョンくんに見せてあげるね」
「おまえのファッションショーに付き合うつもりはない。あれ、そっちは何も買ってないのか」
 お店の袋をぶんぶん振り回す彼女と違って、わたしの方は手ぶらでしたからお兄さんもすぐに気づいたみたい。
「はい。あまり、その、気に入ったのがなくて……」
「あ〜……もしかして俺がいたから?」
「え? いえ、そうじゃなくて、えっとその、気に入ったのがなかったから……」
「そうか」
 わたしがしどろもどろに答えると、お兄さんの方もちょっと困ったような表情を見せて……こういうのって、もしかするとわたしが気にするほど、相手は気にしないものじゃないのかなって思うんですけれど、でもやっぱり恥ずかしいですから……。
「なんていうか、悪かった。また今度、出かけるときに付き合うよ。ただ、今回みたいな買い物のときは、さすがに勘弁してくれ」
「え? あ、あ、あの……」
 お兄さんの方もやや困惑気味に、そう言いました。今日のお詫びに、みたいなニュアンスで言われちゃうと……断れないですよね。もちろん、断るつもりもないです。
 ないですけど……お兄さん、その誘い方はちょっと、ズルいですよ。

2

 これをデートと言っていいのか分からないけれど、翌週の日曜日にお兄さんとお出かけすることになりました。しかも今度は二人きりだそうで……やっぱり、これってデートになるのかな。
 前にもわたしの方からお誘いして映画をご一緒したことはあるけれど、今度はお兄さんの方からだし……お兄さんの方からよね? うん、それは間違いないわ。
 でも今回は、映画を見るとかそういうことじゃない……のかな。どこに行くのかは決めてないけれど、今回はわたしが決めなくていいのかしら。
 いいのよね。たぶん、平気。今日はただ、着いていけばいいだけだと思うから……どこに行くのかしら? そうね、そのこと込みで楽しみにしよう。
 そう思っていたんだけれど……。
「はい、どうしたんですか?」
 待ち合わせ場所にまだ現れないお兄さんを待っていると、携帯電話の着メロが聞こえてきました。ディスプレイに表示されていた名前はお兄さんで、聞こえて来たのもやっぱりお兄さんの声。
『ああ、すまん。もう、待ち合わせ場所にいるのか?』
「え? ええ、もう着いてますけど」
『そうか。うーん……そうか、わかった。悪いが少しだけ遅れると思う。もうしばらく待っていてくれ』
「あ、はい。わかりました」
 少し遅れるっていう、ただの連絡だった……と思うんですけど、どうなのかしら? 今の電話での声を聞く限り、お兄さんの声がちょっとだけ疲れていたように聞こえたんですけど、何かあったのかしら?
 何かあったのなら、そんな無理をすることはないのに……でも『待っていてくれ』と言われてしまって、こっちも「はい」と答えた手前、折り返し電話するわけにもいかなくて。
 そんなことを考えて約束の時間を十分ほど過ぎたころに、お兄さんはやって来ました……のはいいんですけど。
「すまん、ミヨキチ。ちょっとワケアリなんだ。走るぞ!」
「え? へっ!?」
 息を切らせて走ってきたお兄さんは、そのままの勢いでわたしの手を取ると、勢いを緩めることなく走って駅まで一直線。大急ぎで切符を購入すると、そのまま改札を通り抜けて電車に飛び乗って……どこに向かうんでしょうか?
「あの、何かあったんですか?」
「いや、そんなたいしたことじゃないんだ。ちょっとした知り合いの……ま、気にしなくても平気さ。なんとかなったと思うが」
「はぁ……?」
 やっぱり、何かあったみたいですけれど、でもそれをお兄さんが話してくれないのであれば、聞くわけにもいきません。だから、その話はここまでにして、ちょっと気になることを……。
「今日は、どこに行くんですか?」
「え? ああ……そうだな、どこか行きたいところでもあるか?」
「ちゃんと着いていきますから、どこでも構いません」
「それなら……そうだな、電車にも乗っちまったし、遊園地でも行くか」
「はい」
 遊園地なんて凄く久しぶり。しかもそれがお兄さんと二人きりで……これって、やっぱりデートになるのかしら? うう〜ん……そう考えると凄く恥ずかしいけど、でもせっかくの機会だから……。
「ああ、そうだ」
 わたしがそんなことを考えていると、電車の中、隣に座るお兄さんがふと思い出したように口を開きました。
「もし、園内ではぐれた場合は入り口で待ち合わせにしておこう」
「はい。でも、わたしだってそんな子供じゃないですから、はぐれたりしませんよ」
「念のためさ」
「そうですね」
 それから遊園地までの電車の中、お兄さんといろいろ話をしました。内容は、やっぱりわたしたち共通の話題となると、お兄さんの妹でわたしの親友の話になるんですけれど、なんだかわたしが一方的に話しをしていたみたいで、でもお兄さんはちゃんと聞いていてくれて。
 わたしばっかり話をして申し訳ないなぁって思うんですけれど、ただ、ひとつだけ気になったことがあるんです。
 話をしている間、おざなりな受け答えじゃなくて、お兄さんはちゃんと話を聞いてくれていたんですけれど……ただちょっと、いつもと違うなって感じたんです。
 なんだか妙に、周りを気にしているようで、落ち着きがないっていうか……ソワソワしているみたい。
 もしかして、お兄さんも緊張している……ってことではなさそうだし……うーん、待ち合わせ場所に走ってきたことと、何か関係があるのかな? 本当に、何があったのかしら?
 少しだけ、本当にちょっぴりだけど、遊園地に向かう電車の中、わたしは妙な胸騒ぎを感じました。

3

 日曜日の遊園地はやっぱり混んでました。親子連れやカップルの人たち、友だち同士などさまざま組み合わせの人がいっぱいいて、アトラクションに乗るのも大変だけど、歩くのも大変そう。予め、はぐれたときの待ち合わせ場所を決めておいたのは正解かもしれません。
 でも、わたしとしてはもう少し……静かな場所がよかったかなぁ、って思うんです。
「凄い人ですね」
「これだけ人がいれば、平気だろうなぁ」
 わたしが人の多さに目を丸くしていると、隣のお兄さんがポツリと小声でそんなことを言いました。
「え、何がですか?」
「ん? あ、いや、なんでもない。それより、どこから行く? 好きなところからでいいぞ」
「それなら……」
 遊園地で遊ぶ場合、わたしはいつも人気のあるものから遊ぶことにしてるんです。だって、来たばかりのときの方が元気も有り余ってますし、乗るまでにかかる行列での待ち時間が長くても、それほど疲れないですから。
 だから、お兄さんが「好きなところからでいい」とおっしゃってくれたので、まずはこの遊園地の目玉のジェットコースターからにしました。
「いきなりコレか……」
「絶叫系のアトラクション、苦手ですか?」
「そういうわけじゃないが……あまり得意じゃないな」
 それはちょっと意外ですね。男の人って、誰でもこういうのは好きだと思ってましたし、そうじゃなくっても、お兄さんなら平気だって思ってました。
「やめておきましょうか?」
「ん? ああ……いや、何事も経験さ」
 うーん……何なんでしょう。やっぱり人気のアトラクションだから並ぶことになったんですけど……お兄さん、何かソワソワしてますね。
 ソワソワしてる、と言っても、乗りたくなくてソワソワしてるんじゃないんです。どちらかというと、何かを気にしているみたいなソワソワで……得意じゃないって言うのに、あまりジェットコースターに乗るときのことを考えてないみたい。そういう苦手なものを前にすると、人って表情に出るじゃないですか。
「何かあったんですか?」
 聞いちゃダメなのかもしれませんけれど、でもお兄さんの様子もおかしいですし、やっぱり気になって、つい聞いちゃいました。
「いや、別に」
 なんて、言葉を濁してますけど……でも、そう言われるとますます気になります。だって、何か落ち着かないみたいですし、それに疲れているようでもありますから。
「本当ですか?」
 こうしてお兄さんと二人で遊びに出かけることができるのは、もちろん嬉しいです。でも、だからと言って、疲れているのに無理してほしくはありません。倒れたりしたら、大変じゃないですか。
「いやまぁ、その」
 ジッとお兄さんの目を見ていると、それとなく視線を外されちゃいました。やっぱり、何かあるんですね?
「何か、ってわけじゃないんだ。ただ昨日から寝てないだけで」
「え、寝てないんですか?」
「知り合いの……ちょっとした手伝いをしてたら徹夜になっちまったんだよ。少しは寝る時間があると思っていたんだが、そうそう甘くはなかった」
 それでお疲れだったんですね。だったら最初から言ってくれればいいのに。
 今日だって、無理せずキャンセルしてくれてもわたしは構わなかったんですよ? お兄さんの健康第一なんですから。
 それに。
「そのお手伝い、まだ終わってないんですか?」
「いや、そんなことは、」
「ずっとソワソワしているのは、それが原因なんですよね?」
「そんなに落ち着きないか、俺?」
「はい」
 いつも見てますから、そういうことってやっぱりわかるんです。でも、お兄さんはそれでも首を横に振りました。
「終わってることは終わってるんだ。ただ、」
 と、そのとき。
 列の外からお兄さんの手を引っ張る人の姿がありました。小柄で、髪が短くて……ええと、お兄さんが通っている北高の制服を着ているんですけど。
「長門……ここまで追いかけてきたのか」
 お兄さんはその人を見て、盛大にため息を吐きました。

4

 わたしとお兄さん、それとお兄さんの知り合いの長門有希さんの三人は、遊園地内にある売店に設置されている丸テーブルで向かい合いながら座っていました。
 これは、ええっと……どういう状況なんでしょうか。物凄く、微妙な空気なんです。
 いえ、あまり険悪な雰囲気ってわけじゃないんですよ。長門さんはわたしに挨拶したっきりで、そのあとは一言も喋っていませんし、お兄さんはある種、観念したような面持ちです。かくいうわたしは、状況がいまいちわからなくて……ええっと、そもそも長門さんとお兄さんの関係って……?
「長門は……何て言うか、学校で同じ部活……じゃないな。同好会……でもないか、ともかく、同じ……仲間だな」
 不思議顔をしていたわたしに、お兄さんがどこか歯切れ悪く説明してくれました。それってつまり……お兄さんが徹夜でお手伝いしていたのは、長門さんの頼み事だった……っていうことでいいのかしら?
「そういうわけなんだが……なぁ、長門。昨日のとは別件で来たんだろ?」
 お兄さんがそう言っても、長門さんは何も反応しませんでした……が、お兄さんには何か見て取れたのか、またため息をひとつ。
「やっぱりそうか。何度も言うが、おまえの頼みでもそればっかりは無理だ……というか、嫌だ。どうして今になって俺が朝倉に会わなくちゃならないんだ? 平気だと言われても、二度も酷い目にあってるんだぞ。信じられるか」
 朝倉さん……ですか。また、わたしも知らない人の名前が出てきちゃいました。
 何かいろいろと込み入った事情がありそうですけど……あたしもどこまで聞いていいものかさっぱりで、ひとまず事の成り行きを見守るくらいしかない……んですけれど、えっと、さっきからずっと、長門さんがわたしを見てるんですけど。
「わかった」
 と、お兄さんの言葉を受けて、長門さんが口を開きました。本当に、なんていうか、長門さんってお人形さんみたいであまり動かなくて……もしかして寝てるんじゃないかなって思っちゃったくらいで、喋ってちょっとビックリです。
 それで何を言ったのかと言えば、
「まずは食事」
 だそうで、わたしもお兄さんも肩すかしを食らった気分というか何というか……。
「……なんだって?」
「食事。売店のテーブルに腰掛けている以上、何か食べるべき」
 確かにその通りです。かなり人がいっぱいいる遊園地で、運良くテーブルに腰掛けることができたんですもの。他のお客さんも座って食事とか摂りたいんじゃないかなって思いますし、そんな中でただ座ってるだけっていうのは、なんだか悪い気がします。
 けど、なんかちょっと違うような気が……そういうこと、言っちゃダメなのかしら?
「あとで好きなだけ喰わせてやるから、」
「カレーでいい」
「…………」
「カレー」
「…………わかったよ。ミヨキチは何かいるか?」
「へ? あ、いえ、わたしは別に……」
 急に聞かれて咄嗟に応えちゃいました。
 お兄さんはそのまま、諦めた様子で長蛇の列が並ぶ売店へ行っちゃったんですけれど……あ、これってもしかして、わたしが買いに行った方がよかったのかもしれませんね。というのも、その……さっきからずっと、長門さんがわたしのことを見ていて……なんだかちょっと居心地が悪くて……。
「お願いがある」
 そんな落ち着かない気分でいるわたしに向かって、長門さんは視線を固定させたまま、突然そんなことを言いました。
「……え?」
「あなたに朝倉涼子を連れてきてほしい」
 なんてことを言われても、さすがにどう答えていいものか……。
「あなたにしか頼める人がいない」
「で、でも、わたしはその……朝倉さんって言う人のことは何も知りませんし……それに、事情もよくわからなくて。あの……その朝倉さんという方とお兄さんの間で、何があったんですか?」
 本当はそんなことを聞いちゃダメなのかもしれません。だってそれは、お兄さんのプライベートなことじゃないですか。お兄さんの口から聞くなら、まだいいとは思いますけれど……でも、長門さんから聞いちゃうのは……なんて言うか、はしたないような気がするし。
 でも、わたしに朝倉さんを捜して来てくれと言う長門さんのお願いを聞くのなら、やっぱり事情を知らないことには……それでも、躊躇いはありますけれど。
 はしたない、っていうのもありますし、そもそもお兄さんが、その朝倉さんと会うのを嫌がってるみたいじゃないですか。だから、お兄さんが嫌がることに手を貸すのは……よほどの事情がない限り、ちょっと……。
「……若干の齟齬はあるが」
 と、しばしの沈黙を経て、長門さんはそう前置きをしてから説明してくれました。
「彼と朝倉涼子は喧嘩をしている」
「ケンカ……ですか」
「わたしとしては、仲直りするのがいい、と判断している」
「はぁ……」
「そのためには、第三者の介入が最善だろう。特に朝倉涼子は彼以外の知人とも距離を置いているため、彼女のことを知らない人物に頼む以外に選択肢はない。あなたが最適」
「なる……ほど?」
 そういうものなんでしょうか……?
「あの、ケンカの原因って何なんですか?」
「コミュニケーション不足によるすれ違い」
 うー……んっと、それはつまり、ちょっと言葉が足りないことでケンカしちゃって互いに会うのを躊躇っている……ってことなんでしょうか。
 確かにそういうことってよくありますよね。そんな時って、会わずにいると互いに嫌なこと考えてますます会いづらくなるものなんですけれど、会っちゃえば何事もなかったように仲直りできるんですよね。
「朝倉涼子は今、この遊園地内にいるはず。会わせることができれば、問題は解決する」
「そうですね。お兄さんのことだから、それで大丈夫だとは思います。で、でもあの、連れてくるのはいいんですけれど、わたし、会ったこともない人ですから、見つけられるかどうか……」
「朝倉涼子の特長と、現在の居場所を伝える」
 そんなことを伝えられてもまだお手伝いするなんて……とは言っても、うーん、お兄さんがお友だちとケンカしたままでいるのは見過ごせないです……けれど。
「朝倉涼子は今、わずかに不安定な状態にある。わたしは、それも見過ごすことはできない」
 そう言った長門さんは、あまり表情に変化はないんですけれど、でも確かにちょっと心配している風に感じられました。
「その朝倉さんは、長門さんの大切なお友だちなんですね」
「……かも、しれない」
 それなら、お手伝いするしかないですよね。

5

 ──青みがかった長い髪に太い眉。太股も太いが、ズボンに隠れて見えないかもしれない。今はおそらく怒りを振りまいて、周囲の目もまったく気にせず、それどころか突き飛ばす勢いで歩いているかもしれない……
 と、わたしが聞いた朝倉涼子さんの特長とはそういうものでした。
 それを聞いて、わたしはちょっと後悔したんです。後悔って言うか……先に謝っておけばよかったかなって。だから、今のうちに言っておきます。あとで、もう一回ちゃんと謝ろうかなっていうことも考えてます。
 ごめんなさい、長門さん。その特長だけじゃ、朝倉さんを探し出せそうにないです……。
 うーん、どうすればいいんでしょう。こんなにいっぱい人がいる遊園地の中、そんな曖昧な説明で特定の人を捜し出すなんてことができるとは思えないんですけれど……。
 今、わたしはお兄さんが買い出しに出ている間に抜け出しているんです。抜け出していると言っても、もうお兄さんが長門さんのところに戻っていてもおかしくない時間が過ぎています。
 長門さんから、たぶんこっちの方にいる、って方向から捜してはいるんですけれど……それでも大雑把すぎて、まったく見つけられる気がしません。せめて写真とか見せてもらえばよかったと、自分の迂闊さにちょっとげんなりです。
「はぁ〜……どうしよ」
 周囲を見渡しても、青みがかった長い髪の人なんて見あたりません。そもそも、怒ってる風な人なんて一人もいないですよ。
 それはそうです。遊園地で怒ってる人なんて、そうそういるわけが、
「あっ」
「きゃっ」
 キョロキョロして歩いていたせいか、人にぶつかって転んじゃいました。もう、なんだか踏んだり蹴ったりな気分……。
「ごっ、ごめんなさい。大丈夫?」
「い、いえ……わたしの方もよそ見をしていたから……あれ?」
 青みがかった髪に……ええっと、言っていいのか悪いのかわかりませんけれど、ちょっと太めの眉。怒ってる……かどうかは別として、身体的な特長で言えば、長門さんが言っていた朝倉さんにぴったり当てはまるんですけれど。
「あの……人違いだったらごめんなさい。もしかして、あなたが朝倉涼子さんですか?」
「え……?」
 あ、やっぱりそうなんですね。わぁ、すごい偶然です。
「あなた……だれ?」
「あ、初めまして。わたし、吉村美代子って言います」
 よかったぁ。まさか本当に見つけられるなんて、自分でもびっくり。長門さん、もしかして朝倉さんがどこにいるのか知ってたのかしら?
「あの、長門さんから頼まれて捜してたんですけれど……」
「長門さんから? ……あなた……ええと、吉村さん。あなた、長門さんに何て言われて来たの?」
「えっと、朝倉さんを捜してきて欲しいって言われて……」
「長門さんが……?」
 やっぱり長門さんのことを知ってるみたい。でも、朝倉さんの様子がちょっとおかしいなって感じました。
 長門さんが捜していたことを知らなかったみたいで、それどころかここに自分がいることをなんで知っているんだろう……そう考えているような素振りです。
「長門さん、あなたになんて言ったの?」
「え? ですから、朝倉さんを捜してきてほしいって」
「そうじゃなくて。長門さんは今、えっと……デート中でしょ?」
「でっ、デートじゃないです!」
 な、なんでそうなるんですか!? そもそも、お兄さんとデートしていたのはわたしの方で……どういうことかわかりませんけど、気がつけばデートしていたはずのわたしが、朝倉さんを捜すことになっちゃってますけど……。
「えぇっ!?」
 そんな説明をすると、朝倉さんはオーバーとも取れるほど盛大に驚きの声を上げました。あのその、そこまで驚かれることでもないような気が……あれ? 驚くところなんでしょうか。
「だってその……ねぇ」
 ねぇ……と、言われましても。
「あなたも、そんな乱入してきた人の頼みなんて断ればよかったのに」
「そうなんですけど……でも長門さん、困ってたみたいでしたから。断るに断れなくて」
 わたしがそう言うと、朝倉さんは呆れたように嘆息を漏らして……うぅ、そんなにおかしいですか、わたし?
「あなたも、わたしなんか捜してないで長門さんを怒ってやりなさいよ。わたしのことはいいから、戻ったら?」
「で、でもあの、朝倉さん、お兄さんとケンカしてるって長門さんは言ってましたし」
「ケンカ?」
 あれ? そうじゃないんでしょうか。長門さんの話だと、そういうことになってるんですけれど……朝倉さんは、自分のことなのに「そんなの初耳」って表情を浮かべてます。
「別にわたしは彼とケンカしてるわけじゃないよ。そもそも、彼とはここ最近、全然会ってないし……彼の口から、わたしのことを何か聞いてるかしら?」
「それは……聞いてないですけど。ただ、長門さんとの会話で、お兄さんが『どうして今さら会わなくちゃならないんだ』って言ってましたから……あの、こんな言い方すると怒られるかもしれませんけど、お兄さんの方も……その、はっきり言ってたわけじゃないから……でもどこか、朝倉さんと会うのを躊躇ってるようだったんです」
「え……?」
 そう言うと、朝倉さんは驚いたようで、でも──これは気のせいかもしれませんけど──少し悲しそうに表情を曇らせました。
「そう……なんだ。でも、わたしのほうから彼に会うわけにはいかないの」
「でも、あの……わたし、長門さんから頼まれたんです。だから、せめて長門さんのところに」
「それは別に今じゃなくてもいいかな。あとでわたしの方から長門さんに会いに行くから。だから、あなたも戻った方がいいわ。せっかくのデートだったんでしょ? ごめんね、邪魔しちゃって」
 なんだろう。何なのかな。気のせいかもしれないし、違うのかもしれないけれど、でも今の朝倉さんの態度は、その、何て言うか……。
「いえ……あの、わたしは事情とかよくわからなくて……だから、違ってたらごめんなさい」
「なに?」
「その、なんだか……朝倉さんの方が、お兄さんと会うのを躊躇ってるように見えるんですけれど……違いますか? お兄さんとケンカしてるわけじゃないんですよね? それに、最近は全然会ってないのに……なんだか、いろいろ理由をつけて自分から遠ざかってるように見えます。何でですか?」
「そんなこと、」
「なら、一緒に行きませんか? 長門さんもいますし」
「でも……」
 わたしがそう言うと、朝倉さんは図星を指されたみたいに躊躇いを隠そうとせずに、本当に狼狽し始めました。なんだか……えと、こんなことを言うのもおこがましいかもしれないんですけれど……その、その姿が少し、わたし自身と重なるように見えて。
「そもそも、わたしと会ったところで、彼がいい顔しないわ。それなのに会っても、困らせるだけでしょ?」
「そう……ですか」
 会おうとしない理由は、お兄さんが喜ばないから? それって、自分と会うことでお兄さんに喜んでもらいたいって、そういうことなんでしょうか?
「だからあなたも、早く戻って。彼とデートの最中だったんでしょ? なのにあなたがいなくなっちゃってたら、彼も困るわ」
 朝倉さん、さっきから自分のことよりも、お兄さんのことを優先させて考えているんですよね。それって、だから……つまり──。
「……あ……そう、ですね。そっか……わかりました」
 わたしが思い浮かんだ考えは、まったくの勘違いかもしれないし、全然見当はずれなことかもしれません。でも、その結論が一番しっくりくるんです。
「朝倉さん、自分のことよりもお兄さんのことを考えてますね」
「え……?」
「だから、わたし戻ります。ごめんなさい」
 気づいたその考えが、まったく違かったらいい、なんて考える自分は、少し嫌な子だなって思います。でも、朝倉さんの態度はそうとしか見えないんです。一度、そう見えてしまったら、他の理由なんてわたしには思い浮かびません。
 これって、もしかすると朝倉さん自身も気づいてないのかもしれませんね。でも、同じ気持ちを抱いている人から見れば、すぐにわかっちゃうことなんです。
 だから、ごめんなさい長門さん。わたし、やっぱり朝倉さんを連れて戻ることはできません。

6

 なんだかスッキリしない後味を感じつつ、朝倉さんと別れてお兄さんと長門さんが足を休めている売店側に備え付けられているテーブルまで戻ると、そこで待っていたのはお兄さんだけでした。
「どこ行ってたんだ?」
「済みません……あの、長門さんは?」
 お兄さんの質問には、さすがに正直に答えるわけにもいきませんから……あまり深く問い質される前にわたしが質問をし返すと、お兄さんは肩をすくめて見せました。
「帰っちまったよ。あいつはああいうヤツだからあまり多くを語らないが、こっちの言い分をわかってくれたってことかな」
 長門さん、帰っちゃったんですか。わたしが朝倉さんを捜しに行くことで、連れてくると思って帰っちゃったんでしょうか。それとも、わたしに捜しに行かせることが目的だったのかな?
 確かにわたしは朝倉さんに会うことはできましたけれど……ここに連れてくることはできなかった……ううん、しなかったから。
「どちらにしろ、悪かったなミヨキチ」
「え?」
「今、席を外してたのも長門に気を遣ったからだろ?」
「あ、いえそんな。そういうことじゃなくて……ええっと」
 わたし、そんな気の使い方なんて出来ないし、そもそも長門さんからのお願いで朝倉さんを捜す、っていう目的があったから席を外していただけで……長門さんに気を遣って、とかそういうことは、それはもちろん、お兄さんのわたしに対する配慮なのかなぁって思います。
 でも結局わたしは、自分勝手な理由で朝倉さんを連れてこなくて……それが……なんて言えばいいのかな、お兄さんが朝倉さんとケンカしているし、会っても気まずいことになるからって理由を自分に言い聞かせて納得しているような気分なんです。
 それが凄く……心苦しい? じゃないかな。もっとこう……うまく表現できませんけど、お腹のあたりがぐるぐる引っかき回されているような、嫌な気分なんです。
「あの……お兄さん。長門さんからちょっとだけ聞いたんですけど……朝倉さんっていう方と、ケンカしてるんですか?」
「……ケンカ?」
 思い切って聞いてみると、お兄さんはとても……そうですね、困惑したような表情を浮かべました。朝倉さんに同じような質問をしたときに見せた表情と、よく似た感じがします。
「長門がそう言ってたのか?」
「いえ、あー……そう、なんですけど」
「ケンカねぇ……」
 わたしの、肯定とも否定ともつかない曖昧な言葉をどう受け取ったのかわかりませんけれど、お兄さんは深いため息を吐きました。なんだかその背後に「やれやれ」と書き文字が見えてきそうな勢いです。
「あまり多くを語りたくないが、一言で済ませるならケンカなんてレベルの話じゃない」
「そうなんですか?」
「予め言っておくが、俺から何かしたってわけじゃないぞ。物事を被害者と被疑者で分けるなら、俺は十人中十人が『被害者だ』って断言する立場さ」
「それで、もう会いたくない……ってことですか?」
「まぁ、そういうことだな。言ったろ? あまり多くを語りたくない、って」
「あ、済みません……」
 朝倉さん、よっぽどのことをお兄さんにしたんですね。お兄さんがここまで言うってことは、それこそとんでもないことだと思います。
 でも……わたしがさっき会った朝倉さんは、お兄さんをここまで怒らせる人じゃなかった気がします。なんだかちょっと、そこまでやらかした朝倉さんと、自分が会った朝倉さんのイメージ結びつきません。もしかして、自分が会ったのは別の朝倉さんかなって思えるくらい。
「朝倉さんって、どんな人なんですか?」
「どんな……? そうだな、知り合いの言葉を借りれば、AA+ランクの美人でクラスをまとめ上げる優等生……ってことになる。対外的には、だが」
「お兄さんの目から見て、どうなんです?」
「俺からは……ノーコメントだ、と言うよりもコメントしにくい。ま、もういいだろ。あまりあいつのことは話したくないんだ」
「…………」
 お兄さんの口ぶりからは、確かに朝倉さんとは二度と会いたくない、って思いが伝わってきます。事実、そう思ってるんでしょうね。
 でも、そう思っている自分自身に、お兄さんも違和感を覚えてるんじゃないのかしら? いえ、それについては確証なんてありません。ただ、「言いたくない」と言ってるのにもかかわらず、聞けば答えてくれるのは、それだけ気にしてるってことなんじゃないですか?
 そういう気持ち、なんだかとっても苦しいんですよね。自分自身を無理矢理納得させている感じ……なのかなぁ。すごく落ち着かなくて──今のわたしみたいに。
 このお腹の奥でモヤモヤしている気持ちが、凄く嫌なんです。
「さっき」
 だから、言わなくちゃダメだって思いました。
「うん?」
「朝倉さんに、会いました」
「……なんだって?」
 本音で言えば、言いたくありません。でも、やっぱり言っておかなくちゃ、って思う気持ちも本心なんだと思います。
 こういうの、二律背反って言うんですか? どっちも正しいんだけれど、どっちかを選ぶことができません。だからって口を閉ざしたままにするのは、もっと違う気がします。
「朝倉さん、自分からお兄さんに会うわけにはいかない、って言ってました」
「あいつが?」
「でも、会いたいって思ってるみたいでした」
 その言葉に、お兄さんはこれと言った反応もなく……逆を言えば、つとめて無感動に「そうか」と返事をするだけでした。
「あの……わたしがこんなことを言うのもおかしいかもしれませんけれど……朝倉さんに会っていただけませんか?」
「……何故?」
「本当はわたし、さっき長門さんに朝倉さんを連れてきて欲しいって頼まれてたんです。でも、わたしの勝手な理由で連れてくることができなくて……。そうした自分が、今になって凄く嫌なんです。だから、ええっと、なんて言うか……」
「それはつまり、ミヨキチが自分の気持ちを納得させたいから、俺に朝倉と会って来い……ってことか?」
「えっ……と」
 そう言われると、確かにそうかもしれません……けど。
「俺からは、あいつに会うつもりはない。あいつも俺に会うわけにはいかないと言うのなら、会うこともない」
「そう……ですか」
「そうだよ」
 お兄さんの、その気持ちは……決意っていうか、何があっても嫌だって言う揺るぎなさが感じられます。
 だからやっぱり……お兄さんと朝倉さんを会わせることは、わたしには無理そうです。

7

 後悔先に立たず、とはよく言いますけれど、今のわたしがまさにそんな感じです。お兄さんのちょっと困った表情を前にすれば、朝倉さんのことは口にするべきじゃなかったかもしれません。いえ、その前にわたしのちょっとした……独占欲みたいな……ううん、嫉妬心? それとも違うかもしれませんけど、それに近い気持ちがあって、それで連れてこなかったわたしが悪いのかもしれません。
 あのとき……朝倉さんとお会いしたときに、無理にでも連れてくるべきだったのかもしれません。けど、でもやっぱりわたしは。
「これはまた、珍しい組み合わせじゃないか」
「え?」
 暗い気持ちに沈みかけていたわたしの背後から振ってきた声に、わたしは反射的に振り返りました。人の多い中だからかもしれませんけど、わたしの真後ろに音もなく忍び寄るように近付かれて声をかけられたものだから驚いたんですけれど……でも、それ以上にお兄さんの方も驚いてるように見えます。
「なんでここにいるんだ?」
 とは、お兄さんの声。かくいうわたしも、それとほぼ同じ疑問が、その人の姿を見て口を割って出てきてました。
「先生、なんでここに?」
「キョン、ここはキミだけの専用空間というわけじゃない。公の遊び場じゃないか。そこに僕が来ることで、それほどまでに意外に思われるのは心外だね。とは言え、大勢の人が集まる中で何の打ち合わせもなしに知り合いと出逢えたことは、確かに驚嘆に値するかもしれない。それに吉村さん、今はプライベートな時間だろう? そんなかしこまった態度をされると、逆に僕の方が困惑してしまう。普通でいいよ」
「あ……すみません、佐々木さん」
 わたしが謝罪の言葉を述べると、佐々木さんはわずかに目を細めて笑みを浮かべました。
「キミはすぐに謝るのが悪いところかもしれないね。同じ言葉でも、重ねて使えば軽く見られかねない。いや、別に僕がそう思っているわけじゃないよ。世間一般の認識の話さ。他者と接することなく過ごせる人間など稀だからね、他人の顔色をうかがえというわけではないが、自分の言葉が相手に与える印象というものを考えてみるのも面白い、ということを言いたいだけさ。ところで」
 佐々木さんは笑顔を浮かべたまま、わたしからお兄さんの方に視線を移しました。もしかして、お二人って知り合いなんでしょうか?
「キョン、まさかキミが惚気ていた相手が吉村さんとは夢にも思わなかったよ」
「何やってるんだ、ここで」
「遊園地に来て、することと言えば遊ぶことじゃないか。まさかキミは、僕が遊ばない人間だとでも思っているのかい?」
「そうは言ってないだろ」
「ふふ、わかってるさ。確かにここは、僕のイメージと合わない場所かもしれない。何しろ僕が今日、ここにいるのはちょっとした好奇心からやってきただけだからね」
「好奇心?」
「キミのデートの相手が誰なのか、親友として多少なりとも知りたいと思っても、なんら不思議ではないだろう? その相手が吉村さんとは、さすがに思わなかったけれどね」
 やっぱり、佐々木さんとお兄さんってお知り合いなんですね。それも、今日のことを話せるほどの……親友? なんでしょうか。
「ちょっと待て。俺は何も話しちゃいないぞ。ミヨキチが話したんじゃないのか? そもそも、二人が知り合いってのにも驚きなんだが」
「ああ、そうか。僕が説明しなければわからないことだね」
 お兄さんの疑問に、真っ先に口を開いたのは佐々木さんの方でした。
「キョン、僕は吉村さんの家庭教師をやっているんだ。家族ぐるみの付き合い、とでも言うのかな。その縁でたまに勉強を教えている。もっとも、僕が人に何かを教えるなんて真似はできそうにもないし、彼女自身はとても頭のいい子だからね。先生と呼ばれるのも恥ずかしく思うほどさ。それに吉村さん、キョンと僕は……そうだな、中学のときに同じクラスだったんだよ。そういう間柄さ」
 そういうご関係だったんですか。世間って広いようで狭いんですね。
「それに、今日のことはキョンから教えられたんだよ」
「俺から? いつ」
「やっぱり今の今まで気づいてなかったのか。どうにも妙だとは思っていたんだが、これではっきりしたよ」
 そう言って、佐々木さんは携帯電話を取り出してどこかに電話……メールかな? 操作を見るとメールみたいですけれど、どこかに送信した直後、お兄さんが自分のポケットに手を伸ばしたのが見えました。
「……おまえだったのか」
「できれば登録しておいてほしいね」
 苦い表情を浮かべるお兄さんに、佐々木さんはイタズラした猫のような笑みを見せています。ただの元クラスメイト……というわけでもなさそうですけど……?
「もっとも、こんなイタズラをするために顔を出したわけじゃない。そもそも声をかけるつもりさえなかった。せっかくのデートなのに邪魔したら悪いだろう? けれど相手が吉村さんで、おまけに二人とも様子もおかしいときている。見過ごせなくなった、というわけさ」
「おかしいって、何が?」
「遊園地まで来て、売店のテーブルに座り続けている姿がさ。カフェでお茶を飲んでるのとは訳が違う。その姿は異質だよ。周囲から浮いている、とも言えるね。迷惑でなければ話を聞かせてもらおうと、老婆心ながら考えていたわけだが……吉村さんの表情を見ればすぐにわかる。キョン、キミが原因か」
 お兄さんが……って、え? どうして?
「なんで俺のせいなんだよ」
「こういうことには疎い僕だが、少なくとも男女が二人きりで出かけるときというのは、互いに同意の上で楽しむものじゃないのかな? 今日のキミたちもそうなんだろう? にもかかわらず、吉村さんの表情は優れない。かといって、キミを知る僕だから言えることだが、嫌がる相手を強引に連れ出すような真似する男とも思えない。となれば、ここで何か一悶着あったと結論づけることに異を唱える者は少ないと思うんだが」
「そ、そんなことないですよ」
 佐々木さんの推論を、わたしは思わず否定しちゃいました。悶着……っていうほどのことじゃなくて、なんていうかわたし自身の気分の問題っていうか、その……だから、とにかくお兄さんが悪いわけじゃなくて。
「そうかい? それなら僕の勘違いで済む話だから、それでもいいさ。ああ、でも久しぶりに会ったキョンに、不躾なことを言ったのは失礼だったかな。それは謝る。だがね、キョン。キミもキミで、どこかに心を置いてきてないか? 目の前の可愛らしいお嬢さんを前に、上の空というのも、失礼だろう」
「上の空ってのはなんだ。そんなこと、」
「ない……とでも? いくら久しぶりに会ったからと言っても、中学最後の一年、他のクラスメイトよりは長い時間を共に過ごした相手の心内なんて、一目見ればわかるものさ。今のキミは、何かに思い悩んでいるように見えるよ」
「悩む? 俺が? 何に?」
「さあ、僕は超能力者ではないからそんな詳細な心の中まで覗けるわけでもない。ただ、今のキミは……そうだな、答えはわかっているのに、途中の数式が組み立てられずに頭を抱えている受験生みたいだ。そういうときは、答案用紙に答えだけでも書いておくことをお勧めするよ」
 その言葉の意味が、わたしにはちょっとわからなかったんですけれど……でも、お兄さんには何か思うところがあったみたいで、薄く笑っている佐々木さんをただ、困ったように睨み返しているだけでした。
「ミヨキチ」
「え……? あ、はい」
 急に、ホントに急にわたしのことを呼ぶものだから、ちょっと驚きました。
「前回のお詫びのつもりだったが、今日もいろいろ迷惑かけて悪かった」
「いえ、そんな。わたしの方こそ……その」
「どうやら面倒なことは、まだ山積みらしい。ひとまずそっちを片付けた方がよさそうだ。そうなんだろ?」
「あ……はい」
 複雑……と言えば、複雑な気分です。それは隠しても仕方のないことですから、隠しません。ただ……わたしの気持ちの整理とか、そういうことじゃなくて……お兄さんがそうしてくれたほうがいい、って思う自分の気持ちが、やっぱり一番強いんです。
 それに、ひとつだけわかったことがあります。
「今日は……少し時間がかかりそうだ。また今度、ちゃんと誘うよ」
「いえ、それはもういいです」
「……そうか」
「今度は、わたしの方からお誘いしますから」
 待っているだけじゃダメなんです。手を差し伸べてくれるのをじっと待つだけじゃなくて、わたしの方からも手を伸ばさないと、いくらお兄さんだって掴んでくれないじゃないですか。
 今はちょっと分が悪いかも知れませんけれど、でも明確な答えが出たわけじゃないですもの。そもそも、今そうしたほうがいいと思っているのはわたし自身です。
 だから、わたしは笑顔で言えるんです。
「いってらっしゃい、お兄さん」

8

 たぶん、今日のデートはこれでおしまいなんだと思います。お兄さんはちゃんと朝倉さんに会ってくると思いますし、こっちに戻ってくることは……ないと思います。ちょっと悔しいですけど、でもそうするように願ったのはわたしですから、それは仕方がないことなんです。
「余計なお世話……だったかな?」
 姿も見えなくなってしばらく経つのに、お兄さんが去っていった方向をぼんやり眺めていたわたしですが、耳に届いた佐々木さんの声で、ハッと我に返りました。
「いえ、そんなことは……ありがとうございます、佐々木さん」
「そう」
 わたしの言葉に、佐々木さんはわずかに目を細めて微笑みました。
「余計なことをしてしまった……とも思ったから、感謝の言葉を貰えて少しホッとした。でも、結果的には邪魔をしてしまったことになるかな。それは謝罪するよ」
「いいんです。わたしも、こうしたかったと思っていて、でも思うようにいかなくて、どうしようかとも考えていて、でもうまくいかなくて……佐々木さんのおかげです」
「そう……」
 佐々木さんはそれ以上は何も言わずに席を立ちました。
「わたしはそろそろ帰るけれど、吉村さんはどうするの?」
「わたしも帰ります」
「彼を待たなくていい?」
「もう……待つのはやめたんです」
 待ってばかりじゃ何も変わりませんから。自分から動かないと、お兄さんだって気づいてくれないと思いますし。
「……強いね、吉村さんは」
「え? 何がですか?」
「いや、なんでもない。それじゃ帰りましょう。途中まで送るわ。あ、でも」
 そう申し出た佐々木さんは、そこで少し意地悪そうな笑みをわたしに向けて、
「こういう時は、一人の方がいいものなのかな?」
 なんてことを言ってきました。それってどういう意味なんでしょう?
「そうなんですか? わたしは別にそんなことないですけど……」
「だと思った。それじゃ、帰りましょう」
 うーん……今のってどういう意味なんでしょう? あ、もしかしてあれかな? よくある、失恋した女の子が一人でいたいっていう……って、わたし失恋なんてしてないですよ!
「いや、そういうつもりで言ったわけじゃない。ただの客観的な視点に準じた単なる妄言だから、気にしないで欲しいな」
「客観的な視点って、どうしてわたしのことを見て一人になりたいだなんて思ったんです? そんなことないですよ」
「それは主観というものじゃない? 客観性というものは、自分を見る他者が判断するものだからね。自分で自分を見ても、そこにはどうしても主観が入ってしまう。だからこそ、自分を客観的に見る、なんてことができる人間が果たして本当にいるのか疑問に思うところ。でしょう?」
 うーん……よくわかりませんし、いいようにはぐらかされているような気もします。
「そう? そんなことはないと思うけれど」
「それなら、ひとつ聞いていいですか?」
「なに?」
「お兄さんと、中学時代はどういうご関係だったんですか?」
「……そう来たか」
中学のときの単なるクラスメイトだった、っていう間柄だけで、遊園地までわざわざ一人で来るなんて変ですよね。ここで会おう、って約束とかしてるなら別ですけど、そういうわけでもなかったようですし。
 おまけに──たぶんお兄さんからだと思うんですけど──今日、わたしとデートだって知った上でわざわざ来るなんて、やっぱりおかしいですよね?
「それについては、ノーコメントを貫きたいところね」
「それじゃ、わたしの客観的な意見っていうの、言ってもいいですか?」
「それも聞きたくない、かな」
「どっちか選んでください」
 このままやられっぱなしって言うのも、悔しいです。もう、悔しいままで終わらせるのはやめにしました。だから、どっちかは必ず選んでもらわないと。
 なんて思って唇を尖らせるわたしに視線を向けて、ふぅっとため息を吐いた佐々木さんは空を仰ぎ、視線の先にある雲が形を変えるくらいの時間を経てから薄く笑いました。
「最近できた友人のことだけど……答えにくい質問をするとこう答えるのよ」
「え?」
「それについては禁則事項だ、ってね」
 なんだかやっぱり……はぐらかされてる気分です。お兄さんといい、佐々木さんといい、わたしの周りにいる年上の人たちは、一筋縄ではいかない人たちばっかり。
 でも、佐々木さんからは明確な答えが聞けたわけじゃないですけど、なんとなく分かります。そもそも、これといった用事もないのに一人で、それもお兄さんがデートだからって理由でやってくるっていうことは……つまりそういうことなんですよね?
 もう、本当に……朝倉さんの事といい、佐々木さんの事といい……お兄さんも少しは気づいてもいいのに。それとも、気づいていて知らないフリをしてるのかしら?
 ううん、お兄さんがどうなのか、ってことは……もうどっちでもいいんです。
 ただ次に会うときは、絶対わたしの気持ち、気づかせてみせますから……ね。


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