アクセプト・ウィッシュ

1

 世間一般の感覚で言えば日曜祝日はお休みだけど、わたし自身には関係ない。そもそも休む暇なんてあるのかどうかもわからないし、休みができるということは、わたしが存在する理由がなくなるってことと同義なんじゃないかしら。
 とは言っても、ここ最近は特に何もないのよね。小規模な情報爆発は観測されているけれど、どれもその内容に大きな違いはない。一度、データが取れればそれで充分な代物。
 ずばり言えば、暇なの。やることが何もない。まさに退屈。だからといって、前みたいに独断専行で消されちゃうのは、正直なところ勘弁してほしいわね。
 ああ、何しようかな。涼宮さんや彼とかに接触するのは禁止行為に値するし、かといって長門さんをからかって遊ぶにしてもすぐムキになるから、ちょっと大変。喜緑さんとは……関わり合いになりたくないなぁ。他の人たち……は、やめておきましょ。暇だけど、だからといってこちらから積極的に関わりを持っても利益になりそうなことなんて何もないし。
 そんなことを考えながら、公園のベンチに一人で腰掛けて本を読んでいた。長門さんの真似ね。あんな熱心に読んでいるものだから、どんなに面白いのかと思ったけれど……それほどでもないかな。
「ふぅ」
 飽きた、というよりも、面白さが理解できない。長門さん、こんなのを読んでどこがユニークなのかしらね。今度、教えてもらいましょう。
「おや、こんなところで会うとは奇遇ですね」
 ため息を吐いて本を閉じたそのタイミングを見計らっていたかのように、声をかけてきた人影がひとつ。顔を上げると、張り付けたような笑顔をわたしに向けていた。
「あら、こんにちは。そちらから話しかけてくるなんて珍しいわね」
「たまたま姿を見かけたものですから。おや、読書中でしたか」
 わたしに声をかけてきた古泉一樹が、さも意外そうに手の中にある本に視線を落とす。確かに、わたしが休日に公園で読書というのは意外かもね。
「少し中断。よかったら、読む?」
 本当は前半の、まだ話が動き始めたところまでしか読んでないけれど。でもそこまで読んで、オチも見えたから急につまらなくなったのよね。
「遠慮しておきましょう。実はその本、すでに既読済みなもので」
「あら、そう。実はこれ、冒頭部分で飽きちゃったの。最後まで読むべきかな?」
「私見で言えば、賢明な判断かと。僕は最後まで読んで、時間を無駄にした気分です」
「そう」
 やっぱり、読書なんてするものじゃないわね。それなら、まだ誰かと話をしていた方が有意義に時間を費やせるんじゃないかなって思えるわ。
 それが例え、目の前の古泉くんでもね。
「少し、話をしてもいいかしら?」
「伺いましょう」
「最近どうなの?」
 彼を相手に、あまり遠回しな言い方は通用しないわ。どうせ話を聞くなら、ストレートに聞いた方がいいもの。
「涼宮さんや彼の様子。わたしは会っていないから。元気にしているのかしら?」
「気になりますか」
「それはね」
 柔和な笑顔を浮かべる古泉くんに、わたしも笑顔を浮かべて返す。残念だけれど、今は腹の探り合いをするような気分じゃないの。
「はて……あなたたちの観測対象は涼宮さんだけでは?」
「彼のことを気にしたら、ダメかしら?」
「そんなことはありませんよ。ただ、あなたは一度、彼を殺そうとしている。あまり、彼について話すのは賢い選択とは思えないもので」
「そうね。それは賢明な判断だわ」
 こちらとしても、最初からなんでも聞けるとは思っていないもの。むしろ、何も話してくれないと思っている。それなら、どうでもいいような話で時間を潰すのも悪くないわ。
 そう考えて、彼の話題を出しただけ。それだけの理由。
「彼に会いたいのですか?」
 不意に、古泉くんはそんなことを言ってきた。
 わたしが彼に会いたい? 何故? 何のためにそんなことを思ったのかしら。
 別にどっちでもいいの。ただ、彼は涼宮さんにとっての鍵。彼に何かアクションを起こすことは、涼宮さんの情報爆発を誘発させることができる。その目的は今では破棄されている実行案のひとつだけれど……どちらにしろ、今ここでわたしが彼に会っても、涼宮さんにではなく彼にショックを与えるだけだから意味がない。
 だから、会わなくても別に構わない。会う必要なんて、どこにもないわ。
「そうですか。いや、それを聞いて安心しました。それがあなたの本心だと思いましょう」
「本心よ。今のところね」
「心変わりをしないことを期待しています。本音を言えばあまり過激なことはしないでもらいたいんですよ。後始末が僕らの役目とはいえ、厄介事を事前に食い止められるのであれば、それに越したことはありませんからね」
 ……あれ? 何かしら……話を聞いていて、少しだけ精神波形に乱れが出たわね。人で言うところの、ちょっとしたストレスみたいなものだけれど……なんでそんなものが出るのかしら。
「そうね。心変わりをしないためにも、彼の情報を少しわけてくれないかな? それで納得するかも。お茶くらいなら、付き合ってもいいよ?」
「遠慮しておきましょう。僕は彼と違って、何でもかんでも許容できるほど器の大きな人間ではありませんので」
「そう、残念ね」
「それでは朝倉さん、またどこかで」
 敬礼のように手を挙げる仕草を別れの挨拶に、古泉くんはそのまま去っていった。彼が本当に偶然にここに立ち寄ってわたしと接触した……なんていうのは、出来すぎた話ね。最初から、わたしに対しての警告をしにきたんだと思うわ。
 彼に接触しないように、と。
 言われるまでもないわ。そもそも、長門さんにも言われていることだもの。無理に会おうとすれば、また消されるのがオチ。
「所詮、バックアップはバックアップ……かぁ」
 今日はこのまま帰ろう。帰って、長門さんでもからかって遊びましょう。
 公園のベンチから立ち上がったわたしは、膝の上に置いたままにしてあった本のことを忘れていた。軽い音を立てて落ちた本を拾い……どうせもう読むこともないからと、そのまま公園のゴミ箱に捨てた。
 罪を犯した主人公が、愛する人に会おうと藻掻き、最後には……っていう、そんな物語。
 本当に、つまらない話よ。

2

 そのままマンションへ戻ろうかとも思ったけれど、足が向いたのは公園の近くにある喫茶店だった。自宅へ戻ってもどうせ一人だし、何かやることがあるわけでもない。暇な時間をただ諾々と過ごすのは、何故かそのときは嫌だった。
 かといって、周囲にいる誰かがわたしのことを知っているわけでもない。だから、誰かと話しができるわけでもなく、それでも静まりかえった部屋に一人でいるよりは、雑踏の中に紛れ込んでいる事の方がマシに思えたの。
 喫茶店のカウンター席に腰を下ろして、そういえば本を捨ててきたんだった、と思い至る。あのときはそのまま帰るつもりだったけど、こうやって喫茶店でひとときを過ごすなら、時間を潰す役には立ったのにな。捨てなければよかった。ちょっと早計だったかも。
 しょうがないから、運ばれてきたコーヒーを飲みつつ周囲の会話に耳を傾けて時間を潰しましょう。今、店内には六十八名の客が十三組のグループに分かれている。だからって、その情報にたいした理由なんてないんだけど。
 その六十八名の会話を個別に収集して、グループごとの会話内容を再構築するだけ。もっとも、こんなことしたって何の意味もないわよ。有益な情報が転がってるわけもないしね。
「悪く言えば、盗み聞きしてるだけですものね」
「わっ!」
 びっ、ビックリした。ホント、いったいいつの間にわたしの横に座っていたのか、さっぱり気づかなかったわ。
「何もそんなに驚くことはないじゃないですか」
 わたしの驚き方がちょっと不満だったのか、喜緑さんは少し不満顔を浮かべてわたしを見るけれど……でもね、気配も音もなく人の真横に現れる方が悪いと思うんだけどな。
「ちゃんと声はかけましたよ? 朝倉さん、ちっとも気づいてくれないんですもの」
「あら、そう? ごめんね」
 ホントかどうかわからない喜緑さんの言葉には、適当な返事をしておくのが一番。やっぱり、素直にマンションへ戻っておくんだった。さっきは古泉くんで、今度は喜緑さんなんてね。今日はいろいろな出会いがあるわ。
「もしかして、一人でここに?」
 ダージリンティを頼んだ喜緑さんに、わたしはそんなことを聞いてみた。しっかりとわたしの横に腰を落ち着けたってことは……喜緑さんも一人なのね。わたしとは違うのに、休日に一人なんてね。
「違いますよ。いえ、一人なのはそうですけれど、ただあなたがここにいるから、やってきただけです」
「あら、わたしに話があるってこと?」
「ここ、涼宮さんたちの集合場所にもなっている喫茶店ですよ。鉢合わせでもしたら、困ったことになるじゃないですか」
「そうなの? でも、そんなときは長門さんも一緒でしょ。心配することなんてないじゃない」
「万が一、ということもありますから」
 あの長門さんに限って、万が一も億が一もなさそうだけどな。
「そんな石橋を叩いて渡るような慎重な性格だったかしら、あなたって」
「不確定要素はクリアにしておきたい、とは思いますけれど。でも、今日はちょっとしたお礼も兼ねてですよ」
「お礼?」
「先頃の」
「ああ」
 珍しく喜緑さんが失敗した話のことね。長門さんどころか、わたしにまでフォローに回らなくちゃならなくて、ちょっと面倒だったけど……でも、いい暇つぶしにはなったかな。だから、お礼なんて気にしなくていいのに。
 むしろ喜緑さんにお礼を言われるなんて、そっちのほうがちょっと……ねぇ?
「だから捜していたんですよ。でもまさか、ここにいらっしゃるとは思いませんでした」
「すっかり忘れてたのよ」
「……本当に?」
「何が?」
「いえいえ、別に」
 そんな風に言って、喜緑さんは相も変わらずの笑顔を浮かべている。それがちょっと、さっき会った古泉くんみたいで、ちょっと嫌な感じ。
「言いたいことがあれば、言えばいいのに」
「お礼をしに来ただけですから。迂闊なことを言って、気分を害されては困りますもの」
「つまり、わたしが不愉快に思うようなことを考えてるってことね」
「あらあら……図星です」
 さらりとそんなこと言って……笑顔を取り繕えば万事おっけーとか思ってるのかしら。
「らしくない、と思っただけですよ」
「わたしが?」
「待っているんでしょう」
「何を?」
「わかってらっしゃるくせに」
 わからないから聞いてるんだけどな。ま、喜緑さんとこんな禅問答っぽい言い合いなんて、するような気分じゃないことは確かね。もう、そんな話はおしまい。
「お礼なら、ここの会計は任せるね。それじゃ、またね」
「もうお帰りになるんですか?」
 席を立ったわたしを、喜緑さんが呼び止めてきた。まさか奢るのは嫌だ、って言うんじゃないよね? だって、お礼しに来たんでしょう?
「もちろん、ここのお支払いはわたしが持ちますよ。でも朝倉さん、これからどちらに?」
「帰るわ。もうどこにも寄り道しないから」
「休日なのに、もう帰られるんですか」
 いいじゃない、別に。休日の過ごし方なんて、人それぞれでしょ。
「それなら、ちょっとお出かけしませんか?」
「……誰が?」
「わたしが今、話かけているのはあなたなんですけれど」
「……誰と?」
「わたし以外に誰がいるんですか」
えぇ〜……喜緑さんと二人で出かけるの? それはちょっと……なんて言うか、うーん、言語で表現するのには難しい気持ちになるわね。
「いいじゃないですか。退屈なんでしょう? 楽しいですよ」
 にっこり微笑み喜緑さんを見て、わたしは無意識に「ああ、拒否権なんてないんだな」って思っちゃった。事実その通りなんでしょうけど。
 だからせめて、この程度のことくらいはハッキリさせておこうかな。
「もちろん、全部あなたの奢りなんでしょう?」

3

 今のわたしの気分を一言で表せば、それはたぶん、不機嫌ってことになると思うの。少なくとも、もうすぐ放課後で帰りにスイーツでも食べて帰ろうかなーって考えている時みたいな、ルンルン気分じゃないことは確かね。
「あのさ」
 そっちから誘ったって言うのに、わたしのことなんかそっちのけで窓の外に目を向けている同乗者に声をかける。
「何が悲しくてわたしたち、女の子同士で観覧車になんか乗ってるのかな?」
「あら、よろしいじゃありませんか」
 窓の外を眺めたままで、喜緑さんは悪びれた様子もなくそう言った。その視線は、観覧車に乗ってから一度としてわたしの方に向けられていない。ずーっと窓の外で、なんだろう、視線を辿れば、どうも園内を見ているみたい。そんな楽しいものでもあるのかしらね。
「ええ、楽しいですよ。けっこう高いですから、ほら、人がゴミみたいに……うふふ」
 ……喜緑さん、いつも微笑んでるから、それがどこまで冗談で言ってる台詞かわからないんだけど。そういう物騒なことは、あまり人前で言わない方がいいんじゃないかな。
 そもそも、そんな高いところが好きなら遊園地まで来ることないじゃない。そこいらの高層ビルの最上階にあるような展望室に行けばいいのにね。
「あら、朝倉さんは楽しくありません?」
「うーん、高いところでウキウキするような気分じゃないかも。アトラクションなら、もっと他にもあるじゃない。絶叫系とか。そっちの方がいいかな」
「やっぱり、悲鳴を聞くのが大好きなんですね」
 ちょっと、その誤解を招くような言い方はやめてくれない?
「冗談じゃないですか。真に受けられても困ります。それよりも、そろそろ頂上ですね」
「そうね」
 わたしが適当な相づちを打つと、喜緑さんは楽しそうに窓の外に視線を移した。さっきの「人がゴミ」発言が本音だとは思わないけれど、やっぱり高いところが好きなのかしらね。何か一人ではしゃいでるように見えるんだけど。
「ほらほら、朝倉さん。見てください」
 狭い観覧車の中をぐらぐら揺らして、喜緑さんはわたしの手を引っ張った。そこまでしてわたしに何を見せたいのか、さっぱりわからない。こんな真っ昼間で空気も澱んでいるのに、遠くまで見えるわけでもないのにね。
「そんな遠くを見てどうするんですか。ほら、あそこ。あの青い屋根の売店のところ」
「え?」
 言われるままに視線を向けて……わたしは言葉を失った。なんでここに、彼と長門さんがいるの!? これはちょっと、マズイんじゃないかな。だってわたしは……。
「あの二人が何をやってるのか、気になりません?」
「…………」
「朝倉さん?」
「え? ああ、そうね。多少なりとも気にはなるね。でも、別にいいんじゃない? ほっといても」
「あら、そうですか?」
 さも意外そうな喜緑さんだけれど、わたしとしては、そんな喜緑さんの態度が意外かな。
「長門さんが遊園地に来るなんて珍しいじゃない。それに、何も二人で悪いことしてるわけでもないでしょう? おまけに、わたしは彼に会えないもの」
「なるほど。そういうことですか」
 何を白々しい。喜緑さんだって、わかってることじゃない。
「仕方ないですね。それなら、邪魔しに行きましょう」
「ちょっと」
 何もわかってなかったのね。
「だから、わたしは彼と会うわけにはいかないの」
「そうですか。つまり、会えるなら邪魔しに行くわけですね?」
「行きません」
 会えるなら、って、そんな起こりそうもない出来事を前提に話をしても無意味じゃない。百歩譲ってそんなことが起こり得るとしても、だからってわたしが彼と長門さんのデートを邪魔する理由なんてこれっぽっちもないわ。
「素直じゃありませんね」
「わたしはこれ以上にないってくらい素直なの。ねぇ、喜緑さん。もしかして、彼と長門さんがここにいること知ってた?」
 急にわたしを連れて遊園地なんて、どう考えてもおかしいものね。聞いてみたら聞いてみたで、案の定というか何というか、まったく悪びれた様子もなく頷いた。
「そうでもなければ、どうしてわたしが朝倉さんと二人きりで遊園地なんかに来なければならないんですか」
「二人のデートを邪魔するつもりだったからでしょ」
「わたしは別に、そんなつもりはありませんけれど」
「じゃあ、ほっときましょうよ」
「わたしはそれでも構いませんよ。でも、朝倉さんはそれで本当にいいんですか?」
 いいも悪いも……そんなの、わたしが決められることじゃないでしょう。もう、いい加減にしてほしいわ。
「二人の邪魔をしたいのなら、一人でどうぞ。わたしは帰るね」
 ちょうど観覧車も一周して、係員がゴンドラの扉を開けたところでわたしは飛び降りた。
 まったく、喜緑さんの考えていることがさっぱりわからない。いえ、ひとつだけハッキリわかっていることは、バカバカしいとしか言いようがないこと、って点ね。
 なんでわたしが、長門さんと彼のデートを邪魔しなくちゃならないの? そんなことする必要なんてないし、する意味もわからない。
 何度も言うけど、わたしは彼に会うことができない。それは最大級の禁則行為に値するし、それを破ってまで会ったとすれば、わたし自身がどうなるかもわからない。自壊プログラムでも組み込まれているかもしれないし……とにかく、ロクなことにならないと思うの。
 そこまでして、わたしは彼に会いたいとは思わない。会う必要もない。
 そもそも、今日はいったい何なの? 古泉くんと言い、喜緑さんと言い、どうして会う人みんなが、そろったように彼のことを口にするの? いいえ、今日に限った話じゃないわね。前に長門さんもそんなこと言ってたし。
 いい加減にしてほしい。彼に……みんなに会いたいなんて、わたしは一言だって、
「きゃっ」
「あっ」
 一人憤慨して歩いていたら、周りが見えなかったみたい。こんな人が多いところを早足で歩いていたから、盛大に腕を引っかけて相手を転ばせちゃった……。
「ご、ごめんなさい。大丈夫?」
「いえ、わたしの方もよそ見していたから……あれ?」
 わたしが転ばせちゃったその子は、ええっと、いくつくらいだろう。同い年にも見えるけれど、どこか幼さも感じる年頃の子だった。もちろん、わたしが会ったことのある子じゃない。
 でも。
「あの……人違いだったらごめんなさい。もしかして、あなたが朝倉涼子さんですか?」
「え……?」
 重ねて何度でも言うわ。わたしはその子のことは何も知らない。会ったこともない。なのにその子は、わたしのことを知っていた。
「あなた……だれ?」
「あ、初めまして。わたし、吉村美代子って言います」
 訝しむわたしに向かって、その女の子は名乗りながら律儀なお辞儀を返して来た。

4

 吉村美代子と名乗ったその女の子は、感じた印象では何の後ろ盾もない普通の人間に見えた。朝比奈さんみたいな未来人なら時空間の僅かな位相で分かるし、古泉くんみたいに『機関』と関わりのあるような人なら、その佇まいから特殊訓練を受けたかどうかはわかるの。
 だから本当に、ただの一般人……だとは思うんだけれど、だったらどうしてそんな人が、わたしを知っているのもおかしな話よね。
「あの、長門さんから頼まれて捜してたんですけれど……」
「長門さんから?」
 ということは、この子は長門さんの個人的な知り合い……長門さんの? そんなの、ちょっと考えられないな。あの長門さんが涼宮さんや彼以外の友人知人がいるとは思えないもの。わたしと違って、積極的に人間と関わり合いを持つタイプじゃないしね。
「あなた……ええと、吉村さん。あなた、長門さんに何て言われて来たの?」
「えっと、朝倉さんを捜してきて欲しいって言われて……」
「長門さんが……?」
 あれ? でも、長門さんは今、彼と二人でいるのよね? さっき、観覧車から見たときは確かに二人でいたんだし。そんなときに、わたしを捜してきて欲しいなんて頼むなんて……何を考えているのかしら。
 ここで吉村さんと偶然──かどうかは別として──会ったことはよしとしましょう。それに吉村さんの言うことも、まぁ信じるとして……でも、だとしたらどうして彼と会えないわたしを、今のこの状況で捜させるの?
「長門さん、あなたになんて言ったの?」
「え? ですから、朝倉さんを捜してきてほしいって」
「そうじゃなくて。長門さんは今、えっと……デート中でしょ?」
「でっ、デートじゃないです! えっと、その……デートだったのはわたしの方だったんですけど……でもそこに長門さんが来て、その流れで何かこういうことになった、っていうか……」
「えぇっ!?」
 それじゃつまり……彼は長門さんとじゃなくて、この子とデートしてたってこと? そこに長門さんは割って入ってまで、わたしを捜して連れてくるようにって頼んだのかしら? 本当に長門さん、何を考えてるのよ……。
「あなたも、そんな乱入してきた人の頼みなんて断ればよかったのに」
「そうなんですけど……でも長門さん、困ってたみたいでしたから。断るに断れなくて」
 はぁ……随分と人がいいのね。この子も変わってるというかなんというか……。
「あなたも、わたしなんか捜してないで長門さんを怒ってやりなさいよ。わたしのことはいいから、戻ったら?」
「で、でもあの、朝倉さん、お兄さんとケンカしてるって長門さんは言ってましたし」
「ケンカ?」
 吉村さんの言う『お兄さん』って、つまり彼のことよね。話の流れから、彼以外には考えられないけれど……それよりもケンカって何? だいたい、どうして彼がわたしのことに気づいているの?
 長門さん、いったいどんな言いくるめ方をしたのかしら。ありのままを包み隠さず話せるわけがないから、何かしらのごまかし方はしてると思うけど……よりにもよって、ケンカしてるだなんて。
「別にわたしは彼とケンカしてるわけじゃないよ。そもそも、彼とはここ最近、全然会ってないし……彼の口から、わたしのことを何か聞いてるかしら?」
「それは……聞いてないですけど。ただ、長門さんとの会話で、お兄さんが『どうして今さら会わなくちゃならないんだ』って言ってましたから……あの、こんな言い方すると怒られるかもしれませんけど、お兄さんの方も……その、はっきり言ってたわけじゃないから……でもどこか、朝倉さんと会うのを躊躇ってるようだったんです」
「え……?」
 彼……わたしがいることを知ってたの? 知ってて……そっか、それはそうだよね。うん、それでいいのよ。
 彼がわたしがいることを知っていても、やっぱり会いたいと思わないのは、これでハッキリしたわね。だったら、わたしの方から会いに行くわけにもいかないじゃない? そもそも、わたしは彼と会うことは禁止されているんですもの。
「でも、あの……わたし、長門さんから頼まれたんです。だから、せめて長門さんのところに」
「それは別に今じゃなくてもいいかな。あとでわたしの方から長門さんに会いに行くから。だから、あなたも戻った方がいいわ。せっかくのデートだったんでしょ? ごめんね、邪魔しちゃって」
「いえ……あの、わたしは事情とかよくわからなくて……だから、違ってたらごめんなさい」
「なに?」
「その、なんだか……朝倉さんの方が、お兄さんと会うのを躊躇ってるように見えるんですけれど……違いますか?」
 ……わたしが……躊躇ってる?
「お兄さんとケンカしてるわけじゃないんですよね? それに、最近は全然会ってないのに……なんだか、いろいろ理由をつけて自分から遠ざかってるように見えます。何でですか?」
「そんなこと、」
「なら、一緒に行きませんか? 長門さんもいますし」
「でも……」
 わたしは、彼と会わない。会うことはできない。だから……そうね、吉村さんが言うように、自分から遠ざかってるのかもしれない。それは否定しない。
「そもそも、わたしと会ったところで、彼がいい顔しないわ。それなのに会っても、困らせるだけでしょ?」
「そう……ですか」
「うん。だからあなたも、早く戻って。彼とデートの最中だったんでしょ? なのにあなたがいなくなっちゃってたら、彼も困るわ」
「……あ……そう、ですね。そっか……わかりました」
 そうよ、ケンカしてるわけじゃないんだから。だから、仲直りとかそんなこととは──。
「朝倉さん、自分のことよりもお兄さんのことを考えてますね」
「え……?」
「だから、わたし戻ります。ごめんなさい」
 なんだろう……吉村さん、急にって思えるほどの態度でわたしに一礼すると、そう言って駆け足で雑踏の中に消えていってしまった。
 その理由が、わたしにはよく分からなくて……凄く落ち着かない気分のまま、わたしはその場に立ちつくしていた。

5

 夕暮れの中、そろそろ一日も終わろうかという時間の今、わたしの目の前を、親子連れが帰宅の途について過ぎ去っていく。けれどわたしの目は行き交う人々の姿を見ていなくて、去っていった吉村さんの姿と、言葉ばかりがリフレインしている。
 あの子……わたしを見て、何かに気づいた。だから急に去っていった……そういう風に、わたしの目には彼女の姿が映ったの。
 なんだろう。何に気づいたのかな。その答えがわからなくて、ずっと気になって、わたしは遊園地のベンチに一人でずっと腰掛けて考えていた。
 気にする必要もないこと……って言えばそれまでだし、わたしに諭されて帰って行ったって考えるのが妥当なところだと思うけど……でも、長門さんに頼まれたからって、わざわざ彼とのデートを中断してまで人捜しに来るような子が、急に態度を真逆に変えるっていうのも……やっぱり変な話よね。
「うーん……」
 考えたところで、どうせ答えなんて出ないものね。もう遅くなっちゃったし、一人でいても仕方ないし、帰ろうかな。帰って……そうね、長門さんにご飯でも作ってあげようかしら。でも、ここ最近、毎日だし……そんな頻繁に押しかけても迷惑になるかしら。
 ……一人、かぁ。
 このままマンションに戻っても、誰かがいるわけでもないし、かといって明日になれば誰かに会えるわけでもない。明日からもずっと一人。
 それが、寂しいと思ったことはないの。辛い、と考えたこともない……違うかな。その気持ちは嘘じゃないけれど、でも現在進行形の気持ちってことでもないの。
 今は……。
「あら、まだいらしたんですね」
 とりとめもない思考の海に埋没していたわたしの視界に飛び込んできたのは、喜緑さんだった。まだ居たっていうのなら、それはあなたもじゃない。
「何をなさってるんですか、こんなところにお一人で」
 こんなところ、なんて言うけれど、連れてきたのは喜緑さんなのにね。勝手に離れたのはわたしの方だけれど。
「そういう喜緑さんこそ、何やってたのよ」
「誰かさんのせいで、不躾なお誘いをしてきた殿方をあしらうという、不毛な時間を余儀なくされておりました」
 あら、それは大変だったわね。もちろん、それは喜緑さんの話じゃなくて、人を見る目がないナンパしてきた相手のことだけど。
「それにしても、ちょっと意外です」
 わたしの隣に断りもなく腰掛けた喜緑さんが、そんなことを言ってきた。
「何が?」
「だって、一人でいらっしゃるんですもの。朝倉さんのことだから、てっきり彼に会いに行っているのかと思ってました」
「会わないわよ」
「何故ですか?」
「ダメなんでしょ、彼と会ったら」
「それが理由ですか?」
 探るような視線を向けてくる喜緑さんに、わたしはため息を吐いた。他にどんな理由があるっていうの?
「以前の朝倉さんなら、そういうことを律儀に守るようなことはないと思ってましたけれど。長門さんがおっしゃるように、本当に変わられたんですね」
「わたしは別に、何も変わってないじゃない」
「そうですね、変わられてないかもしれません。でも、わたしが知る朝倉涼子という人物像のイメージは、大きく塗り変わりましたよ」
「そう」
 それが褒められているのか、はたまたけなされているのか知らないけれど、喜緑さんの評価なんて興味がない。わたしのことをどう思っているのかなんて、どうでもいいの。
「嫌……なのかしら。いえ、怖いのでしょうか」
 前触れもなく、急に喜緑さんはそう呟いた。声は聞こえるくらいの大きさだったけれど、独り言のように言うものだから、わたしに言った言葉なのかよくわからない。
「え、なに?」
「拒絶されることが、です」
「そんなことないわ。別に彼から拒絶されても、どうでもいいの」
 わたしが即答すると、喜緑さんは子供のイタズラに気づいた親のように、鈴の音を転がすような笑い声を漏らした。
「わたし、『誰から』とは言ってませんよ」
「え? だって」
 喜緑さんも長門さんも、今日会った古泉くんや吉村さんさえ、ずっと彼のことを話題に出すんですもの。そう思うのが自然じゃない?
「そうですか」
「そうなの。だから、そう思っただけ。違うの?」
「違いはしませんけれど……」
 やっぱり、彼の話だったんじゃない。
「気になさらないのなら、そんな悲しそうな顔をしなければよろしいのに」
「……え?」
「今にも泣き出しそう。わたしには、そう見えますけれど」
「見間違いよ」
「大丈夫ですよ」
「泣く理由がないわ」
 なんで泣くのよ。慰められるいわれもないわ。そんな風に言われても、困るだけじゃない。
「彼は、拒絶しませんよ」
「なんでそんなことわかるの?」
「だって、わたしのことも助けに来てくださいましたもの。ほら、昨晩の話ですよ。いくら涼宮さんに関係することで長門さんに頼まれたからと言っても、渦中にいるのはわたしなんですよ? 関わりも薄いのに、そんな危険なことを請け負ってくれるなんて……普通はしないでしょう?」
 それは確かに、わたしも思った。一歩間違えれば、自分も涼宮さんの夢に飲み込まれて消失するかもしれないのに、って。
「人がいい、といえばそれまでですけれど……でも、彼の場合はちょっと違うような気がします。長門さんも、涼宮さんも、彼のそんなところに惹かれているんじゃないのかしら」
「なにが?」
「彼、口では何を言っても、求めて差し伸べられた手は必ず掴むんですね。どんなに面倒なことになっても、必ず掴んで離さないんです」
「……そう」
 そんなこと、喜緑さんに言われるまでもなくわかってることよ。
「だから、朝倉さんのことも受け入れてくれますよ」
 そうかもしれない。でも……それに甘えていいのかわからない。
「それでも、会いたいのでしょう?」
「…………」
「さて、と」
 わたしが何も答えずに……いいえ、答えられずにいると、喜緑さんは大きく伸びをして立ち上がった。
「わたし、そろそろ帰ります。明日は学校もありますから」
「あ……そう、ね」
「それでは、また……あ、そうそう」
 立ち去ろうとしていた喜緑さんは、ふと足を止めて振り返った。その顔に、マジシャンが自慢の手品のトリックを披露するときのような笑みを浮かべて。
「朝倉さんにかけられていた行動制限のコードは解除しておきました。わたしとしたことが、長門さんにまんまとしてやられた、というところです。ですので、明日は学校に来てくださいね。再編入の手続きがありますから」
「……え?」
 学校……って、え、なに? どういうこと? それって、つまり、だから……。
「あとは、朝倉さん次第です。それでは、ごきげんよう」
 中世の貴婦人のような会釈をして去っていく喜緑さんの後ろ姿を、けれどわたしは見ていなかったように思う。目では追っていたけれど、見えてなかったのかも。
 だって、そのときのわたしは……何も考えずに走り出していたから。
 いえ、何も考えずに、っていうのは違うかもしれない。
 ただひとつだけ──彼に会える……会いたい──と、それだけを考えていた。

6

 帰宅の途に着く人の波をかき分けて、わたしは遊園地の中、彼の姿を捜して走っていた。まだ園内には人も多く居て、けれどその客層もちょうど入れ替わる時間帯かもしれない。
 そういえば、彼って今日はあの……吉村さんとデートだったわね。どこまで親密な仲なのか知らないけれど、日も暮れ始めたこの時間まで遊園地にいるものなのかしら……なんてことを考えて、ふと冷静になっちゃった。
 吉村さんと別れたのは、昼も過ぎたころ。あれからけっこう時間も過ぎてるし、一緒にいる吉村さんが何歳なのかハッキリしないけど、彼よりは年下に見えた。だから、遅い時間まで引っ張り回しているとは思えない。
 もう、帰っちゃってるかな。まだいるかもしれないけれど、彼の方からわたしを捜すような真似はしないだろうし……ここで会うのは無理かもしれない。
 そもそも、わたしの行動制限は解除したって喜緑さんが言ってたんだから、明日になれば学校で……彼に会うことになる、と思う。再編入の手続きがあるから、明日すぐに転校っていう形にはならないのが、まだ救いなのかしら。
 いろいろ考えると憂鬱になる。彼との間にいろいろあったことは確かだし、わたしが戻ったところで──周囲は別としても──彼が受け入れてくれるとは思えない。
 これまでのように、一人でマンションの中に閉じこもっていなければならなかったのも辛いけど、学校に戻って人類社会の中に再び溶け込んでも……わたしにとっては針のむしろね。
 人によっては……喜緑さんなら「劇的な変化じゃないですか」と言いそうだけど、全然違うわ。このままじゃ何も変わらない。周りがどう見て何を思っても、わたしには何の変化も訪れていない。
 明日、学校に……どうしよう。行きたくないと思う自分は、我が侭なのかな。
 会えないから会いたい。
 でも。
 会えるから会いたくない。
 喜緑さんは、あとはわたし次第だと言った。そのわたしが、宙ぶらりんの状態じゃどうしようもない。自分の足で進むことにも戻ることにも戸惑いを覚えている。時間が過ぎれば過ぎるほど、躊躇う気持ちが大きくなる。今こうして、ベンチに腰掛けて顔を伏せている時間がずっと続けばいいとさえ願っている。明日が来なければ……そう思う気持ちは、次第に強くなっていく。
「はぁ〜………………痛っ!」
 顔を伏せてため息を吐いていると、不意に後頭部に鈍痛が走った。思いっきり殴られた訳じゃないけれど、何か固い金属みたいなもので小突かれた痛み。
 後頭部を押さえて顔を上げて──わたしは、自分自身の視覚情報にエラーでも出たかと思った。人間で言えば、蜃気楼か幽霊でも見たんじゃないかと、適当な理由を付けて納得しようとするかもしれない。事実、わたしもそうしようとしていた。
 でも、間違いじゃない。幻でも夢でもなく……今、わたしの目の前には、さもつまらなさそうな表情を浮かべて、わたしの頭を小突いた缶コーヒーを差し出して立っている。
「あ……と、あの、」
「ほら」
「え……あ、ありが……とう」
 訳もわからぬまま、状況も理解できていないままで差し出された缶コーヒーを受け取ると、彼は何も言わずにわたしの横へ腰を下ろした。
 それから、ちっともわたしの方を見ようとはしない。逆にわたしは、呆気に取られたままの表情でずっと彼の横顔を眺めていた。
「な……んで、ここに……いるの?」
 声がかすれる。喉が詰まりそうになる。呼吸もうまくできない。彼がわたしを見ていなくてよかったと、この状況を夢のように感じて冷静でいるわたしの一部は、そんなことを考えている。見られていたら、わたしはよっぽどおかしな顔を彼に晒していただろうから。
「なんで? さぁ、なんでだろうな」
 わたしの問いかけに、彼は自分のコーヒーで喉を潤せてから答えた。でもその顔は、わたしの方を見てくれない。
「だって、あなた今日は……吉村さんと一緒にいたんじゃ」
「そうだな」
「だったらなんで……どうして一人でここに、」
「まったくだ。なんで俺は一人でのこのことここにいるんだろうな。いったい誰の謀略だ? なんて、考えるまでもないが」
 あおるように缶コーヒーの残りを一気に飲み干し、空になった缶を片手に彼は立ち上がった。
「で」
「え?」
「何か言うことがあるんじゃないのか?」
 言うこと……言いたいこと、それはたくさんある。一言じゃ言い切れないほどの言葉がたまっている。たまっているけれど、でもそれをうまく表現できる最適な言葉が見つからない。
 戸惑い、言葉を探すわたしを、彼は再会して初めて、まっすぐ見てくれている。
「え……っと、あの、お久し……ぶり」
「そうだな。それで?」
「あ……うん、その……ごめん」
「何に対する謝罪だ」
「あの……いろいろ、と」
「そうかい。他には?」
「他? んと……ただい、ま?」
「俺はおまえの帰りなんて待っちゃいなかったがな」
「…………」
 他に……他に言うこと。言わなくちゃならないこと。彼に対して、わたしが言おうと思っていた言葉。それを必死に探すけれど、でもこれ以上は見つからない。言わなくちゃならないことはあるんだろうけれど、でもその気持ちは言葉になってくれない。今ほど言語でのコミュニケーションがもどかしいと感じたことはなかった。
 わたしが言葉をなんとか形作ろうとしていて、でもちゃんと形にならなくて、どうすればいいのかわからずにいると……彼は深い深いため息を吐いた。
「帰る」
「え? あ……」
「昨日から今日まで、散々な目に遭いっぱなしだ。明日からの一週間、まともに過ごせるように、そろそろゆっくり休みたいんだ」
「……うん」
 背を向けて、立ち去る彼の後ろ姿に、わたしはこのまま別れていいのかどうか迷った。
 彼には会えた。会うことができた。でも、それだけ。たった一度の邂逅で何かが変わるとは思っていなかったけれど、でも今のままじゃ会えなかったこれまでと、何も変わらない。
「ねぇっ!」
 彼に伝えるべき言葉は、まだ影すら見せない。でもこのまま別れちゃダメなんだって思う。だから、何も言えなくてもそれでも、わたしは彼を呼び止めていた。
「なんだ?」
「あの……わたし、明日からまた、学校に行くことになるの」
「で?」
「だから、えっと……明日。明日、学校で会えるよね?」
 彼を呼び止めて、言えた言葉はそんなこと。そんなどうでもいいような、他愛もないこと。そんなことしか言えなくて、少し自分が嫌になる。
 彼も、少し呆れたような表情を見せて……軽く吐息を漏らすと、再びわたしに背中を向けた。
「じゃあな、朝倉」
 結局、わたしは彼を呼び止めることはできなかった。
 でも。
「また明日、学校で」
 そんなどこにでもあるような、ごく当たり前で日常的な別れの言葉が、とても嬉しかった。これでようやく、わたしは明日を迎えられると思った。
 彼が去り際に残してくれた言葉が、わたしを拒絶するような言葉じゃなかったから。

7

 昨日、喜緑さんが言っていた再編入の手続きっていうのは、早い話が「学力テストをするからそれを受けてね」っていう話で、昨日の今日で以前のように学校に通えるほど、この人類社会っていうのはお気楽なものじゃないみたい
 そんな再編入のための学力テストも無事終了。さすがに満点を取るわけにもいかないから適当に間違えたりはしたけれど、合格ラインは軽く突破してるんじゃないかしら。試験監督として再編入テストの監督官をしていた岡部先生も、問題ないだろうって言ってたし。
 その岡部先生からは、クラスのみんなと会って行くか、とも言われたけれど、それは断った。
 まだ少し……ほんの少しだけ、わたしの中に躊躇いみたいなものがあるみたい。昨日は勢いで「明日、学校で」みたいなことを彼に言ったけど、今日はただ再編入テストを受けに来ただけだものね。どうせだったら今日のテストの結果も出て、初登校時に教室で会うのがベストだと思うの。その方が流れも自然じゃない?
 でも彼にああいう風に言った手前、やっぱり顔を出すべきなのかしら? 彼も待っている……待って……ないかなぁ。ないわね。昨日のあの態度を見れば、わたしが顔を出しても、あまりいい顔はしなさそう。だいたい、わたしを見ても驚きもしなくて、あまつさえ嫌そうな顔をしていたものね。
 そういえば……驚きもしないっていうのは何でかしら? わたしがいるってこと、知ってたのかしらね。その姿を街中で偶然見かけたことはあるけれど……でもあのときは、気づかれる前にこっちから離れたのに。
「あれ……?」
 とかなんとか考えつつ校内を歩いていたら、足が勝手に部室棟へ向かっていた。もっと正確に言えば、今目の前には文芸部部室の扉がある。
 これは……ええっと、どうしよう。
 そういえば今日のことについて、長門さんは何も言ってなかったわね。昨日、喜緑さんが「長門さんにしてやられた」って言ってたから、今回のことについて手を回してくれたのかとも思ったんだけど、はっきりしたことは何もわからなかった。昨晩、ちょっと訪ねて話を聞いてみたけれど、相も変わらずいつもの調子で本を読みながら「そう」の一言で終わり。
 だから、これといった禁則行為は言い渡されていない。彼や涼宮さんに会うことも問題ないみたいだし、どこへ行こうにもご自由にっていうことみたい。
 だから、ここに顔を出すことも原則問題なし、っていうことなんだろうけど、理由がないわ。どうせ顔を出すなら教室の方じゃない。まったく何やってるのかしら、わたし。こんなところで無駄な時間を過ごすくらいなら、早く帰って長門さんの夕飯でも作っておこうかな。
「あ」
 所帯じみたことを考えてため息を吐いていると、少し驚きが混じった声が背後から聞こえた。振り向くとそこには、目を丸くしている朝比奈さんの姿。
 そういえば、喜緑さんが涼宮さんの夢の世界に取り込まれて行方を捜していたときに、駅前のデパートで遭遇してたわね。あのときは不意に出会っちゃったものだから、彼や涼宮さんには黙っていて、とか、こっちが言わなければ変に思われることもないのに言っちゃって困惑させちゃったけど……でもどうせ、そんなことを覚えているはずないかしら。
「こんに」
「ごっ、ごめんなさい!」
 なるべく自然な態度で挨拶をしようと思ったら、こっちの挨拶途中に物凄い勢いで頭を下げられたんだけど……えっと、なに?
「あの、あたし、えっとその……キョンくんとケンカしてるなんてこと知らなくて」
 わたしがぽーかんとしていると、朝比奈さんはもじもじしながら、そんな懺悔を口にし出した。
「内緒にって言われたのに……そのぅ……もしかして危ないことになるかも、なんて早とちりして、それで話ちゃって……」
 あぁ……わたしと会ったこと、覚えてた上に話しちゃってたんだ……。そっか、それで昨日、わたしの前に現れた彼が驚きもせずに……そういうことだったのね。
「あのぅ……怒ってます?」
 俯いていた朝比奈さんが、ちらりと上目遣いでわたしを見る。怒る……っていうよりも、でも彼がわたしの前に──不機嫌さはあっても──会ってくれたのは、朝比奈さんが話してくれたおかげ……かな?
「ううん。内緒にしていてっていうのは、わたしの勝手な言い分だもの。結果的には……ありがとう、かしら」
「え? あの、それじゃえっと……」
「昨日、彼に会ったの。ぎこちなさはあるけれど、学校で会おうねって話もしたから」
「あ……じゃあ、キョンくんと仲直りしたんですか?」
「それは……どうかしら。でも今日、再編入の学力テストを受けに来たの。うまく行けば、今週中にはまたここに通うことになるから、そのとき普通に挨拶ができそう、かな」
「わぁ、そうだったんですかぁ」
 わたしの言葉に、朝比奈さんはまるで我が事のように満面の笑みを浮かべてくれた。この人のこういう笑顔っていうか、無邪気なところは、彼じゃなくても和むわね。
「よかったですね、ホントに。あ、そうだ。よかったらお茶でも飲んで行きませんか? 最近、長門さんにも……あ、長門さんのことはご存じですか?」
「え? あ、ええ。もちろん。同じマンションだから」
「あ、そうだったんですかぁ。その長門さんにも、わたしのお茶、おいしいって言ってもらえるんですよ〜。ですから、是非朝倉さんにも」
「え? いえ、でもわたしはそろそろ、」
「どうぞどうぞ」
 せっかくの申し出だけど、今日はそんなつもりはまったくなくて帰る気でいたんだけど……朝比奈さんはすっかりその気になっているのか、わたしの話なんてちっとも聞かずに部室の中に連れ込まれてしまった。
 なんだか妙なことになっちゃったわね。当然だけど、長居するつもりなんてまったくないし、わたしと朝比奈さんが二人っきりでいるところに彼がやってきたら、それはそれで怒られそうな気がしないでもない。早くお茶でも飲んで、さっさと帰らないと……。
「はい、どうぞ」
 おっとりした物腰からは想像できないほど、慣れた手つきでお茶を淹れた朝比奈さんは、満面の笑顔を浮かべたまま、わたしに差し出した。
「ありがとう」
 手にとって、一口。緑茶の香りがちゃんと立っていて、熱くもなくぬるくもない湯加減は申し分ない。そして何より……これは朝比奈さんの人柄なのかしらね、とても気分が落ち着ける味わいだった。
「どう……ですか?」
「美味しい。とっても美味しいわ、朝比奈さん」
「よかったぁ。いつでも飲みに来てくださいね」
「ええ、また……学校に通うようになったらまた、お邪魔させてもらうね」
 その言葉はまたここに、学校に通うっていう日常に戻れたからこそ、言える言葉。
 昨日、彼に会ったことは少し……急だったこともあって、ちょっと現実味がなかったけれど、でも朝比奈さんのお茶を飲んで、それが今だけじゃなくてこれから先もここに来れば飲めるっていうそのことで、わたしはここに戻って来られたんだなって思えた。
「さて、それじゃわたしは、」
 これで失礼するね、と言おうと思った矢先。
「まったく、どこにもいないじゃないのよっ!」
 ばたんっ! と開いたドアが壁に叩きつけられた音とともに、怒気を含んだ声が響いた。
「え?」
「あれ?」
 えっと……。
「あ、涼宮さん。朝倉さんが遊びに、」
「見つけたぁっ!」
 朝比奈さんの言葉も聞かず、ドアの前で一瞬惚けた表情を見せていた涼宮さんは、喜色満面の笑みを浮かべてわたしを指さした。

8

 場所が場所だけに、こういう事態も少なからず考えてはいたの。だってここは涼宮さんたちが集まる場所だし、そこで悠長にお茶でも飲んでいれば、いずれ誰かがやってくるのは当然だもの。だからもし、ここに彼や涼宮さんでもやってくれば、ちょっとは驚かれるんじゃないかなって思っていたの。
 そうね、逆の言い方をすれば、わたしが驚かす立場ってこと。わたしを見て、「なんでここに?」って言われると思っていた。そうした場合に答え方もいちおう考えてはいたけれど……それがまったくの無意味なことって言うのが、身にしみて分かったのが今のこの瞬間。
「え、何? あの、涼宮さん。急に何? どうしたの?」
 驚かされたのはわたしの方。部室に入ってきた涼宮さんはわたしの手首をがっしり握りしめると、戸惑うわたしの言葉なんて華麗にスルーして、朝比奈さんに目を向けた。
「ほら、みくるちゃん! そこできょとーんとしてないで、一緒に行くわよ! 鶴屋さんから何も聞いてないの!? てか、なんでここに居るのよ」
「はぇ? あ、えっと、き、聞いてます。えっとその、ここには忘れ物があって、」
「ま、どーだっていいわ。時間がもったいないから急ぐ!」
「はいぃっ!」
 怯える朝比奈さんの手もつかみ、涼宮さんはわたしたちを引きずるように部室から飛び出した。鍵かけなくていいのかしら? とも思ったけれど、そもそも引きずられている自分の身を案じた方がよさそう。特に朝比奈さんなんて、涼宮さんの走るスピードに着いていけずに本当に引きずられている感じだし。
「きゃっ! はぅ……はわわっ! ううぅ……」
 なんとか着いていこうと頑張ってはいるみたいだけれど、足をもつれさせて転びそうになり、路上のゴミ箱やくぼみに引っかかって倒れそうになり、角に足をぶつけたりして、横で見ているこっちも思わず同情したくなるほどの不運っぷりが涙を誘うわね。
 仕方ないから手を貸してあげて、なんとか涼宮さんの走る速度に合わせながらたどり着いたのは、大きなお屋敷だった。
「やっほーぅ、ハルにゃん。随分と遅かったねっ!」
 そのお屋敷の前で待っていたのは……ええっと、そう、朝比奈さんの友だちの鶴屋さんね。実際に会ったことはないけれど、長門さんが得た情報で、機密性の低いものはわたしにもフィードバックされているから、彼女に関するベーシックな情報ならわかる。
「ごめんごめん。ちょっと手間取ってさ。それで、有希や古泉くんは来てるの?」
「あんまりにもおっそいからさ、先に始めちゃったよ〜っ」
 挨拶もそこそこに切り出した涼宮さんの言葉に、にこやかに笑う鶴屋さんの視線がわたしに向けられる。
「おおっと、あなたが朝倉さんかいっ? ふっふ〜ん、にゃるほどねっ。あたしは鶴屋さんなのだっ! よっろしくぅっ!」
「ほら、そんな挨拶はいいから!」
 わたしも挨拶を返そうと思った矢先に、またも腕を引っ張られて連行された。
 鶴屋さんを先頭に屋敷の中を進んで中庭まで行くと、そこには樹齢数百年は経っていそうな、枝振りも立派な染井吉野が薄桃色の花を枝いっぱいに咲かせていた。その下には重箱の料理と、そして──。
「え?」
 彼がいた。もちろんそこには古泉くんも長門さんもいて、その二人はわたしを見てもあまり興味がなさそうって言うか、わたしが来ても妙に納得しているような雰囲気。
 でも、彼だけは少し驚いたようで困ったような表情を浮かべていた。
「ていっ!」
「きゃっ!」
 彼を見ると、どうしても体が動かなくなる。もしかすると何かしらのバグがあるのか、あるいは行動制限の後遺症かもしれないけれど、そんな体が固まった状態のときに、涼宮さんがわたしを投げ飛ばした。
 あまりにも急にそんな真似をするものだからバランスも取れなくて、倒れそうになったところを彼に支えられて……それが、少し意外だった。急だったから、っていうのもあるんだろうけれど、でも彼がわたしを支えてくれることなんてないと思っていた。
「おい、ハルヒ! おまえのやらんとしていることはわからんでもないが、なんでここに朝倉が、」
「黙らっしゃい」
 わたしを支えながら、彼が涼宮さんに文句のひとつを言おうとするけれど、あえなく撃沈。それでも食って掛かろうとする彼の出鼻を挫いて、涼宮さんは両手を腰に、胸を大きく反って満面の笑顔を浮かべて口を開いた。
「有希、古泉くん。それに鶴屋さん。遅れちゃってごめんね。ともかく、ここからが仕切り直しよ! でわっ! これよりSOS団団長にして名幹事、涼宮ハルヒの主催による花見を始めます!」
 え……? は、花見?
「それと、今回は約一名部外者がいるけれど気にしないで。元クラスメイトのよしみってやつよ。転校したかと思えば戻ってきたようで、見かけたから連れてきたの。ま、こういうのは一人でも人が多い方がいいからね。さぁ、キョン! 花見と言えば宴会芸。ここで一発、あんたが何かやんなさい!」
「待て! いいから待て。ちょっと待てっ!」
 わたしを支えていた彼は、そこでハッと我に返ったのか、わたしを離して立ち上がり、涼宮さんの手を引いて木陰まで連れて行ってしまった。
 わたしはわたしで、この場が花見の席だっていうことくらいしかわからなくて、状況把握もいまいちできてなくて……ええっと、呆然としていたんだけれど、その目の前に古泉くんがコップを差し出した。
「何か飲みますか? 各種取りそろえてあるようですが」
「えっと……」
「ああ、涼宮さんに何も言われずに連れてこられたようですね。ええ、僕たちも何も聞かされていませんので、何故今日になって突発的に花見を決行したのかはわかりませんが……憶測ならいくらでも立てられます」
「どういうこと?」
「先に謝罪しておきますが……昨日、あなたに会ったあと、偶然にも涼宮さんに捕まってしまったんです。そのときに、あなたが『転校した』という理由でいなくなる直前に、彼と大げんかをして険悪な雰囲気のままだ、というような話をしてしまったんですよ。もちろん黙っているつもりでしたが、不慮の出来事と申しますか……ともかく、その話を聞いた涼宮さんが『だったらわたしに任せろ』と言いだしまして。それで本日、このような行事を行う運びになったんです」
「ごめん、よくわからないんだけど」
「つまり、涼宮さんなりの気の使い方なのですよ。もちろんあなたに、ではなく、彼に、ですが。考え方は単純な三段論法です。あなたが戻ってきて彼と険悪なままではよくない。仲直りさせるにはどうすればいいか。それなら季節も丁度良い頃合いだし、花見の席を設けよう……そんなところです」
「そう……なの」
 それで涼宮さん、わたしが何も言い返せない勢いで、あんな無理矢理な連れ出し方をしたのね。わたしに理由を話していれば、拒否されると思ってのことだったのかな。事実、まだ躊躇いのあったわたしは、断っていたかもしれない。
「僕としては懸案事項がひとつ増える結果となり、不本意ではあるのですが……」
 やや嘆息を漏らす古泉くんの気持ちも、わからなくはない。
「わたしがまた、何かするかもしれないものね」
「しかし、あなたがここにいることも仕方のないことです。何しろ涼宮さんが願ったことですからね」
「涼宮さんが?」
「僕が涼宮さんに話をしたせいで、彼とあなたを仲直りさせたい……そう思っているんですよ、彼女は。結果的にあなたがいることを受け入れてしまったわけです。ですので、事ここにいたり、今後また何かあるようなことになれば、それは僕の管轄外です。あなたが戻り、もしそれで何かしらの軋轢が生じるようなことになった際には、あとは長門さんにお任せします」
 古泉くんの投げ出したさじの受け取り先に指定された長門さんは、古泉くんの懸念もわたしのことも興味がないように、ただ黙々と重箱に箸を伸ばしていた。
 今の彼女は、自分で先を見とおす能力に枷をはめている。今後、わたしがどんな行動を取るか──それこそ以前の二の舞を演じるか──は、わからないはず。
 それでもかまわないという素振りで……ええと長門さん、ちょっと食べ過ぎ。
「みなさ〜ん、お待たせしましたー」
 その声で振り返ると、そこにはお揃いの衣装で身を固めた朝比奈さんと鶴屋さんの姿があった。お揃いの衣装っていうことはつまり、二人とも普段着や北高の制服とかそういう格好じゃなくて、胸元のリボンが特徴的なウェイトレス風衣装なんだけれど……なんでその格好なの?
「どぉ〜だい、これっ! 去年の文化祭のときの衣装をめっけてさ、みくるは部室で使ってるヤツ持ってきたみだいだけど、せっかくなんでそろえてみたんだよっ! 今日はトクベツさっ! あたしとみくるでうんっとサービスしちゃうよっ」
 ひらりと回ってスカートをちょっとつまみ上げる鶴屋さんを見て、真っ先に声を上げたのは涼宮さんだった。
「いいわ、鶴屋さん! サイコーよ! 人混みとは無縁のプライベート空間に、咲き乱れる樹齢ン百年の桜、おまけに美少女ウェイトレスが二人もってなれば、まさに桃源郷ね! うーん、わたしもあの衣装を持ってくればよかったかしら」
 あの衣装っていうのがどの衣装なのかわからないけれど、花見にウェイトレスっていう意味不明な状況をさらに混迷させそうだから、やめて正解だと思うな。
「お茶も淹れてきました。水出しのですから、熱くないですよ」
「あ、ならそれで乾杯しましょう。ほら朝倉、せっかくこのあたしが招いてやったんだから、何か言うことあるでしょ? 音頭取りなさいよ」
「え、わ、わたし?」
 そんな急に言われても……。
 わたしはみんなを見る。ジーッと見つめる視線を受けながら、みんなを見返す。最後に目を留めた彼が、やや不服そうな表情を浮かべてるけれど、反面、どこか諦めているようにも見えた。
 納得はしてないけれど、仕方がない。
 そんなところかな? 完全に受け入れてくれるわけではないかもしれないけれど、徹底的な拒否をするわけでもない。そんな風に、わたしには思えた。勝手な思い込みかもしれないけど。
「それじゃ、えっと」
 だから今、ここでようやくこの言葉が言える。そんな気がする。
「また、よろしくね」

 そんな花見は、朝比奈さんが淹れてきた水出しのお茶が、水と間違えて日本酒を使っていたことでちょっとした騒ぎになったけど無事に終わり、それから数日経って編入試験の合格通知が手元に届いた。
 わたしは改めて学校に通うようになった。
 クラスも彼や涼宮さんと同じ。それ以外の人たちも、概ねわたしが把握しているクラスメイトと変化はない。だから、クラスにはすぐに馴染むことができた。
 ただ、それでもやっぱり、彼との距離はまだ遠い。それは仕方のないことかもしれないけれど、それを除けば、わたしは以前の日常に戻れたんだ、って思える状況なのは間違いない。
「あ……」
 誰かに見つかることを考えずに自由に動ける今、久しぶりの校内を歩いていたわたしは、その足で屋上に向かった。今まで来られなかったし、高台にある校舎の屋上から街の景色でも見てみようって思っただけなんだけれど……そこに、彼がいた。
 フェンスに寄りかかり、足を投げ出して眠っている。別に捜していたわけじゃないけれど、教室にいなかったからどこにいるんだろう、とは思っていた。
 近付いても、起きない。別に気配を消してるわけじゃないから、どうやらぐっすり熟睡してるみたい。わたしのことを危険視してるくせに、こういうところは気楽っていうか、ぬけてるっていうか……。
「ねぇ」
 軽く声をかけて頬を突くけれど、まるで起きない。むずがるように顔をしかめただけ。
 せっかく寝てるんだもの、起こすのも悪いと思って、わたしはその隣に腰を下ろした。
 彼が起きていれば、きっとこんなことは出来ない。彼が眠っている今だけしか、こうやって寄り添うことはできない。
 だから今だけ、彼が目覚めるそのときまで、こうしていたいと思う。そうね、わたしの気配で彼が目を覚まさないように、わたしも静かに眠ってみようかな。
 今のこの瞬間が、少しでも長く続くことを願って。


涼宮ハルヒ朝比奈みくる長門有希吉村美代子喜緑江美里