2011/10/24  koduc@me.catv.ne.jp   

        流行り歌になった軍歌・唱歌


「雪の進軍」: この反体制・厭戦軍歌は 軍楽隊長の作だった                     

       雪の進軍氷を踏んで どれが河やら路さえ知れず
      馬はたおれる捨ててもおけず ここはいずくぞ皆敵の国
       ままよ大胆一服やれば たのみ少なや煙草が二本

      焼かぬ干物と半煮え飯に なまじ命のあるそのうちは
       こらえきれない寒さの焚火 けむい筈だよ生木がいぶる
       しぶい顔して功名ばなし
  すいというのは梅干ひとつ

       着のみきのまま気楽なふしど はいのう枕に外套かぶり
       せなのぬくみで雪とけかかる 夜具の黍殻 シッポリ濡れて
       むすびかねたる露営の夢を 月はつめたく顔のぞきこむ

      いのち捧げて出て来た身ゆえ 死ぬる覚悟で吶喊すれど
       武運つたなく討死せねば 義理にからめた恤兵真綿
       そろりそろりと首しめかかる  どうせ生かして還さぬつもり    唄ってみよう 

日常の話し言葉のままに、唄い手の感情を率直に表したこの歌詞によって、初めて軍歌が大衆歌謡の仲間入りをしたと言えるでしょう。 ― しかしこの後も、軍歌/唱歌に口語体の歌詞が現われるのは、やっと明治34年の幼児向け唱歌、「うさぎとかめ」(石原和三郎作詞、納所弁次郎作曲)あたりであり、明治全期を通して軍歌/唱歌は 堅苦しい文語体の世界でした。 
作者はこの歌を、軍楽隊次長の肩書きの代わりに、『天籟廬主人 永井建子作歌・作曲、俗謡軍歌』 として28年の「大東軍歌 花の巻」 に発表し、次のように記しています。
        
我が第2軍が清国山東省に転戦せしは、明治231月の末にて、極めて寒気の烈しき時なり。 彼の威海衛は
        2月の初旬、難なく我手に帰せしが、劉公島には、未だ敵の残艦、偶々砲撃を試みつつある故、進む能はず。
        空しく虎山と云へる寒村に、14日間埋もれて駐営せり。 この際戦地のこととて、出放題に、例の自然発生的に
        詠じたるもの、即ち本歌にて、唯当時の実景を写生せしのみ。

敵地での辛い行軍、貧しい食事、こらえきれない寒さ、眠れぬ夜、そうした愚痴の中にも忘れない洒落と粋、 − 『出まかせに、いつものように自然発生的に詠じ』ているのは兵士達、永井はそれをとり繕うことなく写生しています。 最も注目すべきは4番の歌詞です: 慣用句の 『武運つたなく討ち死』 とは逆に、『武運つたなく討ち死しなけりゃ しなかったで、義理に絡めた慰問袋の真綿がそろりそろりと首を絞めにかかる』 という恐ろしい話!そして、『どうせ生かして還さぬつもり』 というこの発言は兵士たちの軍当局に対する不信の表明以外の何者でもありません。 徴兵され、死地に追いやられている兵士たちの、これが本音であることに不思議はありません。 『天地自然の声のやどる庵の主が書き留めた兵士達の唄』 というわけです。 驚嘆に値するのは、このあからさまな反体制歌が、一国の命運を賭けた日清戦争の最中に、軍楽隊指導者によって作られ、歌われ、実質的に官製に近い権威ある軍歌集に掲載されたことです。 

堀内敬三はこの歌について、軍歌に異例の言文一致、七五調に代わる七七調、シンコペーションなどの点を挙げて、それが日本古来の民謡に伝統を引くものであり三味線にも乗ると指摘し、『永井楽長は作曲の上では大衆と妥協してしまわない人であったが、独創の中に伝統の味を盛る腕を持っていた』 と、的確な評価を下しています。 その堀内も、太平洋戦争中の 「日本の軍歌」(1944年)では歌詞は3番までとし、4番については解説の中でのみ紹介した上で、『青少年の高唱に適する詞句で無いから省略すべきであると思う』 とせざるを得なかったのは仕方がないでしょう。 しかし、戦後の「定本日本の軍歌」(1977年)で、『最終行は「どうせ生かして還さぬつもり」が原文なのだが一般には 「どうせ生きては還らぬつもり」 と歌っており、そのほうが穏当に相違ないからここではそうしておく』 として、これを 「生きては還らぬつもり」 に改ざんしてしまいました。 
更にこれが金田一・安西両氏の 「日本の唱歌」(1982)では、あたかも明治28年の 「大東軍歌 花の巻」に発表された原作が 『生きては還らぬつもり』であったかのように記されているばかりか、『「どうせ生かして還さぬつもり」 となっている本もある』 とは酷いことになったものです。

この点について長田暁二氏は、『支那事変勃発直後、皇軍兵士の思想にそぐわぬとして、軍は命じて末尾の歌詞 「義理にからんだ恤兵真綿 そろりそろりと首しめかかる どうせ生かしちゃかえさぬつもり」 の原作を 「どうせ生きてはかえらぬつもり」 と改訂させた。太平洋戦争突入後は、「兵士の絶望的気分を歌っているので士気が沮喪する」 との理由で歌唱することを禁止した』 としています。 (復刻版「軍歌大全集」―奥付なし、自序は昭和45年5月) 

念のために 「雪の進軍」を掲載した唄本を調べてみますと、明治31年から45年までの22件中、4番までの歌詞を載せた4件はすべて、「どうせ生きては還さぬつもり」 と原作どおりです。 明治年間にはこれだけの言論の自由があったのです。 また大正3年発行の 「新選学校唱歌集」、5年発行の「大正少年歌集」にも、 「・・・還さぬつもり」 となっており、「生きては還らぬつもり」という歌詞は結局KDLのどこにもみあたりませんでした。


『俗謡軍歌』というだけあって、「馬は斃れる、、」 の旋律を 「ままよ大胆、、」で繰り返しています。 『唄ってみよう』 と歌ってみた旋律は、実はこの楽譜と違っていますネ。 音程が悪いのはご勘弁願うとして、2段目の出だし「ソソーファ ソラソミド」 を 「ソソーミ ソラソミド」と歌ってしまいました。 私の覚えている 「雪の進軍」 はこうなのです。 −明治から大正・昭和と、耳から耳へ伝わってきた旋律はこれだと思います。 堀内は 『音階はヨナ抜きであるが第4音を巧みに採りいれて特殊な味をつくり、、、」 とこれを評価していますが、むしろ 『曲はヨナヌキ長音階で力みかえるところがなく』 とあっさりこれを無視している安西愛子氏の方が正解ではないでしょうか。
それに 「ドドーラソ、ソーソー」 と威勢良い出だしの旋律は、2番・3番の「焼かぬ干物と、、」、「着のみきのまま、、」 にはどうもピタッとこなくて、つい「ソソーミソラソミド」 を兵隊節のようにくり返したくなります。 安西氏は、 『この曲は歌い継がれているうちに、節は「馬は斃れる」からあとだけをくり返す短音階の歌としても歌われ、それが歌詞に一層マッチした』 としています。 まったくその通りで、明治43年生まれの私の母の「雪の進軍」もそれで、僕等子供たちもよくそれで歌っていました。  


                                                           唄ってみよう     

           

「鉄道唱歌」 流行り歌になった唯一の唱歌 
(この項未完)                            

        汽笛一声 新橋を はや我汽車は 離れたり
        愛宕の山に 入りのこる  月を旅路の 友として         唄ってみよう

                       
 

「戦友」 明治最期の兵隊節 (この項未完)

一、ここはお国を何百里 離れて遠き満州の 赤い夕日に照らされて 友は野末の石の下          唄ってみよう
二、思えばかなし昨日まで 真先かけて突進し 敵を散々懲らしたる 勇士はここに眠れるか
三、ああ戦いの最中に 隣におったこの友の 俄かにハタと倒れしを 我は思わず駆け寄って

四、軍律きびしい中なれど 是が見捨てて置かれうか しっかりせよと抱き起こし 仮包帯も弾丸の中
五、折から起こる突貫に 友はようよう顔あげて お国のためだかまわずに 後れてくれなと目に涙
六、あとに心は残れども 残しちゃならぬこの体 それじゃ行くよと別れたが 永の別れとなったのか
七、戦いすんで日が暮れて さがしにもどろ心では どうぞ生きていてくれよ 物なと言えと願うたに
八、むなしく冷えて魂は 故郷へ帰ったポケットに 時計ばかりがコチコチと 動いているのも情けなや
九、思えば去年船出して お国が見えずなった時 玄界灘に手を握り 名を名乗ったが始めにて
十、それより後は一本の 煙草も二人わけてのみ ついた手紙も見せ合うて 身の上話繰り返し
十一、肩を抱いては口ぐせに どうせ命は無いものよ 死んだら骨を頼むぞと 言い交わしたる二人仲
十二、思いもよらず我一人 不思議に命ながらえて 赤い夕日の満州に 友の塚穴掘ろうとは
十三、くまなくはれた月今宵 心しみじみ筆とって 友の最後をこまごまと 親御へ送るこの手紙
十四、筆の運びはつたないが 行燈のかげで親達の 読まるる心思いやり 思わずおとす一雫
       




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