シリーズ 今、定時制高校では G
知らないでいるより、知る喜びを求めて
荒井頼子(横浜翠嵐高校定時制96年卒業)
一歩
結婚と同時に独立した子供達を見送って 「産んだ責任」という任務の区切りを終えた時、私は、生きる目標を見失っていた。
そんな心の中を見透かしたように、中学の教師をしていた長女が、学区内の翠嵐高校 をすすめてくれた。しかし数学につまづき中退した過去がよぎり尻ごみしたが、長女
は、私がいつも口ぐせのように、言っていた言葉をとり、「やってみなければ何も生 まれない。だめでもともと、やることに意義がある。あの時のお母さんはどこにいっ
たの?」それは、テレビコマーシャルの(母さん僕の麦わら帽子どこにいったの) と同じ調子で、なんとか生きるという緊張感を、持たせようとするいたわりに、いつ
しか私は、長女の生徒になり特訓を受けていた。
学歴という社会の大きな壁
かえり見ると、長い社会生活で、矛盾や
疑問を感じながらも、適切な言葉が見つからず主張出来なかったその悔しさに涙した ことは幾度となくあった。目的をもち頑張る気力を阻むものは、それは「学歴」とい
う大きな社会の壁であった。入学式を迎えた時は、この壁を叩くのだという期待と、
果たして超えることが出来るだろうかという不安の始まりであった。
充実した学校生活
このような気持ちを、先生方は温かく見
守り受け入れて指導してくれた。そして時間外にわからないところを遅くまで教えて くれた。またそれぞれの意志が問われる小論文の出題、その論文の後ろには、いつも
先生の言葉が添えてあった。先生方は、一人一人あるがままを尊重し、理解してくれ た。この環境のなかで、年を感じることなく 、仲間と一緒に自由にのびのびと勉強で
きて、めぐまれた学校生活だったといえる。
また体育祭は、趣向をこらしたものがいくつかあった。中でも先生と生徒のリレーの
力走に皆が盛り上がったこと、水泳教室では寒さにふるえたことなどなど、懐かしい 思い出である。この外、印象深いのは、沖
縄への修学旅行であった。戦後50年という節目の年であり、また沖縄問題で世論が激
しくゆれている時でもあった。日本における米軍基地の75%が沖縄だということ、それは今でも生々しく残っている洞穴、戦争という名のもとに命を奪われたたくさんの
人の写真があるひめゆり記念館、それは戦争を知らない、しかし物質的にはめぐまれ ているこの仲間の人達と平和の大切さを語り合い、痛感出来たことは、素晴らしいこ
とであった。
学ぶことに恥はない
このように過ぎて見ると、長い4年間と
思えたことも、あっという間の年月だったという思いである。そして、これまでの過 程の中で強く感じたことは、「学ぶことに恥はない」ということであった。一つ一つ
を知る喜び、この学ぶ大切さを、知らないでいるより知ることの努力の大切さ、それ と、くじけそうになる時、頑張ろうと声をかけあった仲間の大切さであった。そして
暴力は、断じて許さないという強い姿勢に先生方は結束していた。この恵まれた中で 私達は、夜、疲れたからだに鞭うって学ぶいう一つの壁を乗り超えることが出来た。
そしてそれは働きながら学んだという自信と誇りを持ってである。
『燦々の太陽を求めて(卒業生の手記)』より、本人の同意を得て掲載しました。
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