2001年7月2日
シリーズ
「教職員人事制度研究会『検討資料』を斬る」 C
成績主義評価の拙速な導入ではなく、評価についてどのように考えるべきか、
純粋に教育上の研究課題として十分な検討と論議を
以上3回にわたって示してきたように、「教職員人事制度研究会」の中間報告(検討資料)は憲法、教育基本法、国際法などに抵触するだけではなく(シリーズA参照)、この間民間企業で問題点が明らかになり、破綻を示し始めている成績主義評価を学校現場に導入することにより、学校教育を根底から破壊していくことにつながる(シリーズB参照)点で、私たちはとうてい受け入れることはできません。
しかし、私たちは学校全体の教育力を総合的に高めるとともに、教職員の力量を向上させていくために、学校の教育活動を点検・総括することを否定するものではありません。現に、多くの学校では学年末など区切りの時期に、このような総括が行われています。
そうした現状をふまえた上で、教職員の評価について、教職員個人に対する評価が必要なのかどうかも含め、現場の教職員、研究者、保護者、県民が参加し、十分時間をかけた検討と論議を行っていくことが必要であると考えます。その際、「教師の成績評価は、現実政治と関係なしに、純粋に教育上の研究問題として、設定し直されるべきである」という「勤評反対声明」(上原専禄、石川達三など学者・文化人48氏の声明、1958年)は、今でも光を失っていません。
評価を賃金や人事に反映させたり、管理・統制のために使ってはいけない
評価は、憲法、教育基本法、子どもの権利条約の理念に基づく教育を発展させていくために行われるべきです。具体的には、子ども本位の信頼される学校作りのために、子どもによく分かる授業改善と生き生きした学校作りのために評価はなされるべきでしょう。
そしてそれと同時に、教職員個々の力量向上と教職員集団の力の向上、学校全体の教育力を総合的に高めるために行われることが必要です。
さらに、教育の成果は短期的に現れることは少なく、また1学級や1講座の生徒数、教員の持ち時間数、教材研究の時間確保、研修の保障などと深く関わっています。したがって、短期的な成果で教職員を評価することは大きな間違いを犯すことにつながります。
教育は、教職員の協力・共同で成り立っているといえます。教職員の評価を賃金や人事に反映させ、教職員を管理・統制するために利用することは、教職員をいたずらに競争させ、同僚教職員の失敗を期待することにつながり、教職員相互の協力・共同を破壊します。
校長や教頭など管理職からの一方的評価であってはならない
評価は、校長や教頭など管理職からの一方的なものであってはならないことは明らかです。管理職だけではなく同僚教職員をはじめ、生徒、保護者の意見・声も反映した評価が目指されるべきです。その際、生徒の発達段階を考慮し、また学校の自主性、教員の専門性が蹂躙されることがあってはならないでしょう。
また、「教育の条件整備」(教育基本法)を任務とする教育委員会が、「人事管理」で教職員を評価することはできないといえます。
自己申告・目標管理にもとづく成績主義評価を教育現場に導入してはいけない
評価の方法は、各学校の教育計画と実践にもとづいて自主的・主体的に決められるべきであり、教育行政による画一的な評価システムは導入されるべきではないと考えます。
各学校における評価の基準は、憲法、教育基本法、子どもの権利条約の理念に立脚し、子どもの実態をふまえた、教職員の民主的な協議と父母・地域の合意に基づくものでなければなりません。
また、教職員の評価は学年集団や分掌集団、教科集団に対する評価を踏まえる必要があります。教職員一人ひとりが短期的な達成目標を自己申告し、一人ひとりについての業績管理という成績主義評価を教育現場に導入してはいけません。特に、教職員を序列化する相対評価を行うべきではありません。さらに、評価の結果は、本人に開示され、異議申し立ての機会が必ず保障されることが必要です。また、こうしたことの前提として労使協議や苦情処理の制度が確立していなければなりません。
以上、ここで示した原則を踏まえ、「純粋に教育上の研究課題」として、教職員、保護者、県民が広く参加したもとで十分時間をかけ検討、論議していくことが重要であると考えます。
シリーズ
@ 「新たな人事評価システム」の導入は、学校教育そのものを破壊する
シリーズ
A 県教委、管理職は客観・公正な「人事評価」ができる立場にはない
シリーズ
B 民間でも見直しが始まった成績主義評価を、今学校現場に導入することは、最大の誤り
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