2001年4月21日

シリーズ 「教職員人事制度研究会『検討資料』」を斬る A
県教委・管理職は、客観・公正な「人事評価」ができる立場にはない
 
 今回は『検討資料』の「客観性、公正さを担保し、偏りの少ない評価とするため、校長、教頭たちを含めた複数の者により評価を行う」とする点を中心に、その現実性と違法性を見てみよう。
 教職員に対する評価が、保護者たちとの話し合いや交流、生徒たちとの結びつきなど教育活動の広い場面で求められることはあり得ることだろう。そして、それを教職員が受けとめ職員会議や集団討議を通じて、個々人と集団の教育力量の向上に生かしていくことは必要であろう。
 しかし、『検討資料』にある「人事異動への反映、管理職選考への活用、給与面での効果的な支援」をもって「評価」に応えるといった姿勢は、妥当性を欠くものである。
 しかも『検討資料』にみる「評価制度」は、管理職と行政当局という一つの立場から行われるもので、保護者や生徒、教職員の意見や立場を入れないこの「制度」は、「客観性、公正さを担保し、偏りの少ない評価とする」ことについて、とうてい信頼はおけない。
 これについては、教育行政当局と校長、教頭たちが、自民党の一連の教育政策によって今日、どのような役割を担うに至っているかをみれば理解できるところである。
 まず、1956年に公選制教育委員会が任命制となり、教育委員は知事の任命、教育長はまず文部大臣の承認を得て教育委員(会)が任命することになったことは、教育が国民のものから政権政党の教育政策本意のものになった点で、重大な転換点であったことをふまえる必要がある。
 この転換から、公選制教育委員会の時の地方分権生は任命制によって中央集権生を強め、財界や政党の意図を体現した教育政策がトップダウンで導入されるのが一般化して今日に至っている。このため教育行政は、その理念の形骸化や財政権の喪失とともに独自性は一般行政と区別されるところがなくなっている。
 こうした構造的背景の下に、管理職の法制的強化、中曽根「臨教審」が進められ、学習指導要領の押しつけ、「国旗・国歌」の法制化、「構造改革」=リストラ政策の一つとしての「教育改革」が図られてきている。その推進役として各教育委員会が具体的立案を迫られ、学校管理職はそれを支える現場の「適任者」として登用されているのが実態だろう。
 
 「新たな人事評価システム」は、教育基本法に違反している
 このような構造をもって今日の教育行政は日々執行されている。これは、戦前の国家主義的な教育行政の「焼き直し」ともみられるものであり、戦後その反省と精算のもとに制定された教育基本法に違反していることは明らかである。
 憲法23条、26条の「学問の自由」「教育を受ける権利」を受けた教育基本法6条で「法律に定める学校の教員は、全体の奉仕者であって、自己の使命を自覚し、その職責の遂行に努めなければならない。このためには、教員の身分は、尊重され、その待遇の適性が、期せられなければならない」と教職の重みが規定されている。そして、10条には「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである A教育行政はこの自覚の下に教育の目的を遂行するのに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない」と記されている。
 ところが、前回述べたように『検討資料』は、本県の教育が「不当な支配に服し」、教員の「職責と身分が蹂躙され」るという、全く国家主義的教育への回帰をいっそう強めようとしている。
 教育危機の克服と国民の手に教育を取り戻すためにも、「新たな人事評価システム」の導入を許してはならない。
 
「新たな人事評価システム」は、国際法規にも違反している
 世界人権宣言26条2項では「教育は人権の完全な発展と人権及び基本的自由の尊重の強化を目的としなければならない」と謳われ、前回ふれた『子どもの権利条約』でも、「教育の目的」は「人格の完成」にあるとしている。
 これに直接たずさわる教職員の地位については『教師の地位に関する勧告』(I L Oユネスコ勧告)で「教育は、継続的過程であるから…・・すべての生徒に対する教育の質を向上させると同時に、教員の地位を高めること、この両者が一体化されなければならない」 「一切の視学、あるいは監督制度は、教員がその職業上の任務を果たすのを励まし、援助するようなものでなければならず、教員の固有な自由、創造性、責任感を損なうものであってはならない」とうとう、ゆきとどいた内容が展開されている。
 しかし、『勧告』は、それらとは反対に教職員の間に分断や差別、競争と排除を持ち込み、世界人権宣言や『子どもの権利条約』など国際法規にも違反して、人権の前進にブレーキをかけている。
 多発する教育問題の解決のためには、県教委が唱道する「国際化社会」にさえついていけない『検討資料』ではなく、教職員の本領発揮をを図る教育行政こそ行うべきである。
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