キナバル山 登山旅行(1997.8.4−10)/マレーシア/サバ州
友人夫妻3組6人で4000m登山に挑戦しました。これは、その時の日記と、写真です。

4日目

8月7日(木)
午前1時30分起床。雨は上がっていた。昨夜の雨が滝となって岩盤を流れる音が響く。同室の英国人はまだ寝ている。邪魔をしないように注意しながら身支度を整える。他の部屋の登山者たちも起き始めたようだ。湯を沸かしてヌードルを作ったが食べるフォークがない,と探し回っているドイツ人がいた。アンソニーは2時に来るはずだが,少し遅れている。我々はバナナなどを食べて若干の腹ごしらえをした。2時20分頃,アンソニーが紅茶とビスケットを持って上がってきた。昨日のことだが,アンソニーは最初,朝はラバン・ラタ小屋に降りれば紅茶があるのでそれを飲むように,と私に説明していた。しかし,すぐに自分が2時に持ってくるから,と言い直した。どうやら,下の小屋に降りてまた上がるのでは,我々の体力に影響が大きいと見たのであろう。それは正しくもあるが,残念なことでもある。しかしまぁ,助かったことは確かだ。紅茶を飲んでいると,それを見た白人(たぶん英国人,いやスウェーデン人だったか)が,「これは地中海クラブかね」と皮肉を言った。そのあと彼はアンソニーに話しかけていたが,アンソニーが自分は山岳ガイドである旨を答えた部分以外はよく聞こえなかった。アンソニーによれば,今日は天気がいい。それを聞いて,先ほどのフォークを探していたドイツ人は「それはいい知らせだ」と言った。
午前2時40分,出発。ヘッドランプを頼りに急坂を登る。すべりやすい木の階段や,岩の道を,場所によってはロープを持ちながら,ぐんぐん高度を稼いでいく。真っ暗で景色はまったく見えない。少し上がったところで周囲の開けたところへ出た。小屋の明かりが下に見える。空にはオリオン(たぶん)が見えた。曇っているらしく,星の数は少ない。南十字星は,このあたりではまだ見えないのだろうか。それとも,時刻の問題だろうか。今回は西川・天文中年(かつては天文少年だった)が来ていない。このメンバーでは誰も詳しいことを知らない。やがて,3810メートル地点のサヤッサヤッ小屋に着く。ここからは,まったく岩だけの地形になった。ちっとも険しくはないのだが,角度が急なので歩きにくい。サウス・ピークを左に分けて,正面にロウズ・ピークが見えた。とにかく登るだけ。午前5時55分,標高4101メートルのキナバル山頂に到達した。ちょうど太陽が昇り始めたところだ。東の空が赤く染まってくる。ただし,雲は多い。気温は摂氏2度。風が強いので体感温度はもっと低い。寒くて,あまり長くはいられない。それに頂上は狭くて混雑している。何枚か写真を撮り,午前6時30分,山頂をあとにした。

山頂からの日の出

下山

下りは速い。急坂をどんどん下って,午前8時30分,グンティン・ラガダン小屋に戻った。下りのスピードについてアンソニーに聞くと,彼は「非常に速い」と答えた。また,「登りが遅いので心配していただろう」と言うと,笑って頷いた。ラバン・ラタ小屋に下り,朝食となる。昨日同様,トースト(バターとハチミツ付き)に目玉焼き,ソーセージ,コーヒー。小屋の前で全員揃って写真を撮り,午前9時30分,下山を開始した。時折,休憩をはさみながら,とにかく急坂を下った。膝はガクガク,最後の1キロメートルで私は右膝が痛くなり,最後には引きずる感じになった。

下山苦しい

奇岩ロバの耳

途中の休憩時に,アンソニーにお礼として60リンギット受け取ってもらった。ガイド料は別に払っているのだが,彼はガイドとして模範的だったように思う。途中ですれ違うパーティのガイドに比べて,差は歴然としていた。小屋までと小屋から上とで靴を履き分けていた。また,下山中,ボッカが登ってくるのと数多くすれ違ったが(若い女性のボッカもかなりいた),その際アンソニーはボッカが足を止めないで済むように気を使っていた。問題はお礼の金額だったが,だいたいガイド料(地球の歩き方に出ていた額)と同程度の額にした。アンソニーは,週に3回で計6日,ガイドの仕事をしている。日曜日が休み。この近辺ではもう一つ,ガイドをする山があるという(ただし,そちらは2000メートル台とのこと)。明日はまた,キナバル山に別のパーティをガイドして登るらしい。彼の家族はPHQから1キロメートルほどのところに住んでいる。
残り1キロメートルほどのところで雨が降りだした。大したことはないが,雨具を着る。

階段は大変きつい

みんなでひと休み

やがてその雨も上がり,12時45分,登山ゲートに帰着した。ゲートでは車が待っていた。食堂へ送ってもらい,昼食。無事登頂のお祝いにビールを飲んだ。薄いビールだったが,ここはイスラム国。それに,我々は下山したばかりだ。昼食は相変わらずのマレーシア風セットメニューで,これには少しうんざりした。なお,食事には毎食デザートがついた。スイカ,マンゴー,パイナップルで,スイカは日本のものと違って甘くなかった。帰国後,たまたま新聞で読んだのだが,スイカは本来甘いものではないそうだ。昼食を終えて外へ出てみると,スコラさんが待っていた。彼女は我々にキナバル山の登頂証明書を渡してくれた。PHQへ戻って預けた荷物を受け取り,売店で絵ハガキ,Tシャツなどを買って,コタキナバルへの帰路につく。アンソニーは,我々の出発までPHQにいてくれた。握手をして別れる。途中,行きがけに寄った露店でバナナとパイナップルを購入。あとで食べたところ,前回に比べて小さいバナナが少し固かった。パイナップルは大変おいしかった。
午後4時30分,ホテルに到着。別れ際,スコラさんに,他にツアーがあるかと聞いてみた。彼女の返事は,パン・ボルネオ・ツアーズには日本人スタッフがいるので電話をしてほしい,というものだった。結局,連絡はしなかった。皆すっかり疲れていたので,夕食はホテルの隣のレストランで済ませることにした。そこは中華料理が中心で,味はまあまあだった(おいしかったという声もある)。マレーシア料理に飽きてきたところだったので,あっさりとしたヌードルには皆,喜んだ。値段も,一人30リンギットくらいだった。しかし,2日間のガイド料がレストランの夕食二人分で消えてしまうとは。

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