わたしとヴィーナス


実を言うと、ラヴェッソンについては殆ど何も知らない。さらに言えば、ミロのヴィーナスに手をつけようとして一生を終えたことで名をなした、孤高の変人という酷いイメージまでもっていたのだが、大間違い。ラヴェッソン先生御免なさい。まさか、そんなに素晴らしい人だなんて思いもしなかった。いま『習慣論』を取り寄せ中。美学にも哲学にも片足ずつつっこみ、そのまま彫刻まで彫っちゃうなんて並大抵じゃない。でも、まぁラヴェッソンには悪いですが、彼の考えを殆ど知ることない私の意見を傲慢にも述べるとしましょう。また、著作を読んだりしたら、勝手に変えるかも知れません。(11月8日現在、図書館で古ぼけきった『習慣論』を研究室資料から発見。借りてはみるが、野田又夫さん、旧漢字使いすぎ!読みにくいし、理解しにくい!まぁ、昭和13年ならしょうがないのか?というわけで時間がかかる予定。)

私は、ミロのヴィーナスの美しさはその《欠落》部分にあると思う。腕がないからこそ、人を越えた《美》を感じる。誰であったか、本当に《美》を感じるとは「未完」を自分の心の眼によって「完成」させることが出来る感性だとか言っていた人が居た。私は自分の中で無い腕を補い完成させているわけではないが、「未完の美」というものに惹かれるのは、そこに空白の部分、遊んでいる部分があるからだと思う。だから私は《欠落》した部分を持つ彫刻に倒錯的な憧れがある。手がどうであったか考える楽しみのためではない。「無い」という非日常がそこで手招きしているからだ。

ヴィーナスは人の手を越え、神の領域に浸食する。その美しかった両手と引き換えに。

ある女流詩人はミロのヴィーナスに関して嫉妬しながらも 「汝の玉座は虹のよう 永遠のアフロディーテよ………」 と憧憬を抱かずにはいられなかったという。そのエロチシズムと理知的な健康美との融合。完璧でないからこその魅力。その「欠陥」への憧憬という複雑な問題をミロのヴィーナスは静かに提議しているといえる。いま、故意に作り出したとして、このような特殊な作品が作れようか。この「作品」は明らかに「偶然」というなの神の手によって飛翔させられているのだから。

同様のことが、サモトラケのニケについても言える。あの彫像は首までないのだから、さらに顕著に私を誘惑する。彼女は頭部が無く、両腕もない。しかし、日常では知り得ない《美》の世界へと羽ばたく翼を彼女は持っている。

余談。ヴィレンドルフのヴィーナスにも惹かれる。ミロのヴィーナスとは対照的な美しさかも知れないが、すごく愛らしいし、それでいて俗っぽくなくて素晴らしい。これこそ女体美の極致。(でも、後期のルノワールの描く、肉のたるんだ女体は苦手………。)このような作品、今の人は作れそうで作れない。

 
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