発表に向けての資料
(平凡社、世界大百科事典から抜粋。なお一部文字化けあり。)
【少数民族 しょうすうみんぞく ethnic minority】
民族国家 nation‐state を形成していない,人口比率において少数派 minority のエスニック集団 (ある民族= nation に所属し,共通の言語,共通の慣習や信仰,さらには文化的伝統をもった,他と異なる成員) をいう。
一般に,多数派 majority ないし支配的なエスニック集団は,自己を民族 (ネーション) と同一化するか,逆に民族を自己と同一化する。エスニック的に異種混合的な社会 (現実には世界の過半数にみられる) にあっては,あるエスニック集団による他の一つないしそれ以上の集団の支配をもたらす。この場合,従属集団は少数民族であり,このようなエスニック集団間の支配体制を〈エスノクラシーethnocracy〉と呼ぶ。
支配的エスニック集団が数的にも優勢な社会では,エスニック集団間の関係は〈少数派問題 minority problems〉としてあらわれる。たとえば,アメリカ合衆国では,ワスプ多数派 (WASP =白人,アングロ・サクソン,プロテスタント) は支配的な文化的イデオロギーの鋳型を規定し,それ以外の者 (黒人,ラテン系ないしスペイン語系,東洋系) は,すべて少数民族であると同時に少数派集団である。支配的エスニック集団が,数的に劣勢なエスノクラシーもみられる。南アフリカ共和国の白人はその典型であり,ボリビア,グアテマラでは,メスティソかスペイン人の末裔 (まつえい) が数的に劣勢な支配的エスニック集団であって,数的に優勢なのは先住インディオである。この場合,少数派集団はインディオであり,メスティソとスペイン人は少数民族となる。少数民族は,かならずしも支配の対象になるとは限らない。 民族主義イデオロギーの名による少数民族の共同社会集団の物理的排除ないしジェノサイドは,アルメニア人,ヨーロッパ系ユダヤ人,南アメリカのインディオなどに加えられたが,そうした事実は他地域でも多数行われた。また,あるエスニック集団としての少数民族の文化的アイデンティティの破壊政策 (エスノサイドethnoside=文化的な集団抹殺) が数多くみられる。フランスのブルト・コルシカ・オック語系の人びと,フランコ独裁下のカタルニャ人,イングランドによるアイルランド,ウェールズ,スコットランドの人びとは,いずれもエスノサイドの惨事に遭遇している。
しかし,多民族国家では必ず民族紛争が発生する,ということはできない。潜在的な民族紛争を政治的制度化によって管理することは可能であり,少数民族内部の政治エリートと支配的民族のそれとの政治的妥協,より進んで両集団の政治参加を保障する連邦制の形成によって,多民族国家でありながら政治秩序を維持した例が数多くみられる。逆に,民族間の境界が政治的・社会経済的矛盾と重なり,これまでの政治秩序のなかで紛争の危機管理が困難となったとき,潜在的紛争は政治的紛争に転化する。したがって,少数民族紛争は民族のアイデンティティを求める紛争であるとともに,他の政治的・社会的争点をあわせもつことが多いのである。
東南アジアの少数民族問題は,モンゴロイド人種という同一人種内部のエスニック集団間の様相を示すと同時に,少数民族が部族的なまとまりをもつ点に特徴がある。中華人民共和国は,総人口の約 94 %を漢民族が占め,その他 50 余種の少数民族からなる。少数民族は,それぞれ独自の言語をもち,それを使用する自由が許されている (詳しくは〈中華人民共和国〉〈大漢族主義〉〈五族共和〉の項を参照されたい)。旧ソビエト連邦は,総人口の約 52 %を〈ロシア人〉が占めたが,他はユダヤ人を含む 100 以上の少数民族からなる多民族国家であった。各民族は,それぞれの民族語を公用語・学校用語とする権利が認められており,放送,出版物などでは 70 種以上の民族語が用いられていた (詳しくは〈ソビエト連邦〉の項を参照されたい)。
少数民族にまつわる問題は,エスニック問題そのものであり,少数派集団,人種問題,人種差別問題と,つねに輻湊 (ふくそう) する実態を示している。なお,日本の少数民族 (問題) としては, 在日朝鮮人,アイヌ民族,在日華僑などがあげられる。
【アメリカニズム Americanism】
1781 年にジョン・ウィザスプーンが〈アメリカ英語〉の意味で用いたのがこの言葉の最初とされ,現在までその意味を保ってきているが, 1797 年,T.ジェファソンは合衆国の愛国主義の意味でこれを用い,世間的にはこの用法がひろまっている。
新世界に植民地を建設したピューリタンは,ヨーロッパを腐敗の地,アメリカを真のキリスト教の世界たるべき地と見なした。一種の神国意識である。独立戦争は,さらにこの国が〈自由〉の地であるという信念を,アメリカ人の間に燃え上がらせた。戦争当時のいくつかの愛国歌はアメリカを〈神〉と〈自由〉の聖地のごとくにうたったが,この二つは以後もアメリカニズムの支柱となってきている。
アメリカが多様な歴史と利害関係をもつ諸州からなり,しかもさまざまな人種の移民によって発展してきたことは,国家と国民を統合する力として,いやがうえにもアメリカニズムを高揚させる必要を生じた。そのためには,独立宣言と合衆国憲法が精神的,制度的に中心の役割を演じたが,もっと日常的に機能する統合役も生まれた。 星条旗はその代表で,現在でも連邦機関はもとより民間の多くの場所でかかげられ,民衆にアメリカ人意識を植えつけている。 自由の女神などが極端に畏敬の念をもって扱われるのも,その観点から理解しなければならない。
アメリカニズムは,ヨーロッパと違うデモクラシーの制度を神聖視する考えを生み,それがアメリカ大陸全土にひろまるべきだという〈明白な運命 (マニフェスト・デスティニー) 〉の観念を育てもした。またアメリカが万民に成功のチャンスを与えるという〈アメリカの夢〉の意識をかき立てもした。文学の世界では,自由な自然のままの人間を宣揚するホイットマンの詩なども,アメリカニズムの所産といえる。デモクラティックな自由人の能動性を重んじるプラグマティズムは,アメリカニズムの思想的な所産であろう。 しかし他面で,アメリカニズムは独善的な狭隘さや, 〈翼をひろげた鷲〉のイメージが象徴する,他国と他民族への威圧的態度spread‐eagleismも生んだ。 19 世紀中ごろの〈アメリカ党 (別名〈ノー・ナッシング党〉) 〉は,純粋なアメリカ人の尊重を標榜しつつカトリック系移民を排除したが,同様な態度はなんども形を変えてアメリカに現れ続けた。 〈100 パーセント・アメリカニズムを永続させる〉ことをうたった〈アメリカン・リージョン (在郷軍人団) 〉は,互助団体であると同時に,伝統的愛国主義の牙城となってきた。 アメリカニズムは,長い間,アメリカ人にほとんど当然のこととして信奉されてきた。ソローが強烈な個我主義の立場から,またマーク・トウェーンが反帝国主義の立場から,アメリカニズムに反対するようなことはあったが,その種の主張は世間一般にほとんどうけいれられなかった。 1960 年代になって,少数派人種の反乱,ベトナム反戦,デモクラシーのゆきづまりなど,さまざまな要素が重なり,ようやく単純なアメリカニズムに自己反省が生まれた。しかしアメリカニズムが崩壊してしまったわけではなく,アメリカ的理想主義は生き続けたし, 〈古き良きアメリカ〉〈強いアメリカ〉への回帰といった形での愛国主義もまたふたたび台頭してきている。
【外国人労働者 がいこくじんろうどうしゃ】
もっぱら高賃金の取得という経済的理由にもとづき国外から移住してきた出稼労働者をその受入国で呼ぶ名称。滞在は短期であることが原則で,滞在が恒久的であり,究極的には国籍の変更を伴う移民とは,いちおう区別される。また政治的理由により移住する難民や亡命者とも異なる。農業労働のように繁忙期にごく短期間,移入し雇用される季節労働者や国外に居住し日々,国境を越えて通勤するいわゆる国境労働者もこれに含まれるが,量的に多くかつ近年重要なものは,当該国に移住し, 1 年以上にわたって常用される外国人の場合である。西ヨーロッパにおける外国人労働者に対する呼称は各国で異なるが,一般にイギリスではイミグラント・ワーカー immigrant worker (移民労働者の意,フランスも同義の travailleur immigrレ),スイスではフレムトアルバイター Fremdarbeiter (外国人労働者),ドイツではガストアルバイターGastarbeiter (客員労働者) などと呼ばれる。外国人を移入し労働者として雇用することは,歴史的にみて新しい現象ではない。中国民族の海外移住者である華僑(かきよう) (東南アジア地域が圧倒的に多い) は,かなり古くからみられたし,とりわけアメリカや南米諸国への移民は 19 世紀の後半から活発に行われた。 移民も労働力の国際的移動という視点からみれば,外国人労働者と本質的な差はない。だが 1950 年代の後半以降,労働力国際移動の型には注目すべき変化がみられた。西欧先進資本主義国へのヨーロッパ周辺諸国からの移入が大量に行われてきたことである。以下ではこの新しい現象を中心に述べる。
移入国は,一般に,西ヨーロッパの先進資本主義国 (フランス,イギリス,ドイツ,スイス,オランダ等々) であり,移出国は,概してその周辺に位置する後進資本主義国,発展途上国 (イタリア,スペイン,ポルトガル,ギリシア,トルコ,ユーゴスラビア,北アフリカ諸国,パキスタン,インド等々。ただし,イタリア,スペインなどは 1980 年代ころから移入国に転じている) である。その他の特徴として,量的に大きいこと (家族を含め全体で 1970 年代半ばで 1500 万人にものぼると推定され,当該国就業人口の 1 割を上回る場合もみられる),動機が経済的であること (移入国で得る賃金は移出国の水準の数十%アップから 3 倍ないし 4 倍にもなる),永住でなく短期的移住 (1 年ぎめや 3 〜 5 年のものなどさまざま) を原則とすること,などを指摘できる。だが当初の期間終了後もかなりの部分が滞在しており, 10 年あるいはそれ以上になるケースもみられる。
この新しい型の移入は,1950 年代後半以降西欧諸国で経済成長が持続し旺盛な労働力需要がみられたこと,とりわけ相対的に劣位の労働市場が答剩 (ひつぱく) したこと,他方,移出国では慢性的な過剰人口が存在したこと,によって生じた。先進国の労働者は〈超完全雇用〉状態のもとでより有利な職に移動し,低賃金で労働条件の悪い職場に欠員が生じた。この不足を埋めるために移入されたのが外国人労働者にほかならない。彼らの就業分野は移入国の事情によって違いがあるが,概して,鉱山,建設,鉄鋼・金属,機械,自動車等の産業や都市の清掃,下水工事,交通,サービス業等に集中しており,先進国労働者が就業を嫌う職種 (低賃金で労働条件の劣悪な部門) に多い。就業には労働許可を要するなど各種の行政的規制がある。労働許可が認められなければ,自動的に帰国を余儀なくされるから,不況の場合,この措置によって移入国は雇用量をコントロールできる (ただし EC 加盟国出身者は 1968 年以降,域内では労働許可を必要としない)。移入国政府は当初,一定期間に入れかえを図る〈ローテーション〉原則を考えていたが,経費の点や良質な外国人労働者を継続して雇用したい使用者の要請からも,厳密にこれを適用できない。しかし,各国とも国籍を与えることには消極的で,帰化はごく例外的にしか認められない。ここに重大な問題がある。言語をはじめ種々な文化的基盤を異にする人々が,多数,居住国の市民権をもたずに長期間滞在する事態からさまざまな問題が生じている。彼らは,不安定な立場のゆえに (とくに労働許可のない〈不法〉就労の場合) 不利な労働条件を甘受しがちであり,昇進の機会も少なく災害率も高い。不況期にはまっ先に整理の対象となる。特定地区にかたまって住み,現地の生活にとけこめず,住宅問題や治安上のトラブルもおきている。また,外国人労働者の間にも独自な,労働条件改善の行動 (たとえば 1973 年にドイツでおきた〈トルコ人ストライキ〉) や選挙権を要求する動きもみられる。
他方,移出国にとっては,出稼者の送金が外貨不足を補う有力な手段となっているが,それはもっぱら個人消費に支出され,工業化にはあまり寄与していないのが現状である。むしろ不況期に帰国者が還流し,失業問題を激化させること,また若い働きざかりの労働力を流出することによる損失などの不利な面も少なくない。 1973 年秋の石油危機以降,フランス,ドイツが新規の募集を停止するなど,移入に対する制限措置がとられている。が,すでに移入したものがなお相当数滞在しており,さらにその子女が学業を終えて就業年齢に達しており,これが新たな問題となっている。
[日本における外国人労働者]
日本で外国人労働者問題が本格化するのは, 1985 年 9 月のプラザ合意による〈円高・ドル安〉の容認がひとつのメルクマークとなろう。 89 年 12 月,出入国管理及び難民認定法 (入管法) が改正され, 90 年 6 月施行された (〈出入国管理〉の項参照)。すなわち,すべての外国人を就労可と就労不可に二分するとともに, 〈就労不可〉とされる者を雇用した場合に備え, 雇用主処罰規定 (3 年以下の懲役または 200 万円以下の罰金) を新設したのである。また,在留資格を 18 種から 28 種に拡充したが,それは主として専門的な職種についてであり,外国人の〈非成熟労働〉への就労は従来通り認めず,外国人労働者は受け入れない,とする建前と現実との乖難は避けられなくなった。
入管法改正後の最大の変化は,在留資格の〈日本人の配偶者等〉を拡大解釈することにより,就労が自由化された日系人 (日本人の二世・三世) の激増であり,とくにブラジル日系人が最も多い (〈ブラジル〉の[日本人移民]の項参照)。ブラジル人,ペルー人 (ほとんどが日系人とみられる) の在留者数は, 1990 年の約 6 万 7000 人から 95 年に 21 万人以上に増加しており, 95 年末現在,就労を認められた外国人約 112 万のうち 2 割近くを占める。日系人の受入れはその〈身分〉関係のゆえとされるが,現実には外国人労働者の導入政策となっている。また,93 年 4 月から始まった〈技能実習〉制度は, 〈研修〉という在留資格の拡充 (2 年の期間のうち後半は就労して技能を磨くというもの) として設けられたが,他方では中小企業の人手不足対策の面もある。
このほかに資格外就労 (不法就労) の外国人が多数存在し,法務省の推計によれば,96 年 5 月現在, 28 万 4500 人に及び,国別では韓国,フィリピン,タイ,中国などが多い。