『レクイエム』考

3.レクイエム補筆
 
 まず、モーツァルト自身が作曲した部分は、〈イントロイトゥス〉(入祭誦)全部。〈キリエ〉大部分(オーケストレーションの不完全部分を弟子ヤコブ・フライシュテットラーとジュスマイヤーが補筆)。〈セクエンツィア〉、〈オッフェルトリウム〉の各章は声楽パート、入念な数字付き通奏低音、いくつかの重要なアドバイス(伴奏の楽器を何にするかなど)が残されている。(ただし〈セクエンツィア〉の6つの部分のうち、〈ラクリモサ〉に関しては8小節で途切れる。)よって、残り最後〈サンクトゥス〉、〈ベネディクトゥス〉、〈アニュス・デイ〉、〈コンムニオ〉に、モーツァルトの手による箇所は無いといえる。『レクイエム』は未完である。(この『レクイエム』は未完でなくてはならないと幻想小説仕立てにモーツァルトの死を描いたヴィルヘルム・マティーセンの短編はあるが)とにかく、前金をもらっている以上、コンスタンツェは完成した譜面を依頼主に渡さなくてはならなかった。未完では、前金の返還を要求されるかもしれない。

 そして、まずコンスタンツェは未完の『レクイエム』の楽譜をモーツァルトの弟子ヨーゼフ・レーオポルト・アイブラーに渡して補筆を依頼した。アイブラーは後のウィーン宮廷楽長であり、生前のモーツァルトの評価も高い。(註2)アイブラーが正式に引き受けたのは1791年12月21日で、期限は翌年の春までであった。しかし、彼は〈セクエンツィア〉の〈ラクリモサ〉を除くオーケストレーションを完成させ、残りは放棄してしまった。(この部分のアイブラーの補筆をジュスマイヤーのものより評価し、復活させたものをランドン版という)コンスタンツェはその後色々な作曲家の元(フライシュッテットラーを含む)を訪れて、最後にやってきたのがもう一人の弟子フランツ・クサーヴァー・ジュスマイヤーのところであった。(註3)

 しかし、腑に落ちないことがある。もしも信じられている通りに「モーツァルトがジュスマイヤーに仕上げ方の詳細な指示を与えていた」ならば、すぐにコンスタンツェはジュスマイヤーのところに譜面を持っていかなかったのか。そう尋ねられてコンスタンツェは言う。「当時、彼に腹を立てていたんです。なぜだったのかは忘れてしまいましたけど。」この問題に関して、考えうる推測のは次のようなものだ。アイブラーにはモーツァルトが認めるほどの力があった。そして、ジュスマイヤーにはそれが無かった。これはリチャード・モーンダーの説であるが、彼はモーツァルトの手紙の中に書かれた、ジュスマイヤーへの小言「またお前は嵐の中の家鴨みたいに突っ立ってるな。いくら言っても判らないのか」を引いて、この弟子の無能を語る。それに、前に引用したモーツァルトの妻コンスタンツェへの手紙からもわかるように、このときにジュスマイヤーはモーツァルトのところにいない。ジュスマイヤーはバーデンにいる。このことから、ジュスマイヤーが指示を詳細な『レクイエム』の相談はこのときは無かったということになる。その上、実際にモーツァルトの1791年の書簡を見てみると、(モーツァルトとジュスマイヤーが知り合ったのは1971年)ジュスマイヤーは何回にもわたってウィーンを留守にしており、レッスンが一体何回行われたかも定かではない。なぜなら、モーツァルトの死後、ジュスマイヤーはアントニオ・サリエリから数回のレッスンを受けたが、彼が受けたレッスンはいつの場合も数回だけという慌しいものであったらしい。

では、10月の間は指示を受けていないとしても、11月モーツァルトが感冒などの重なりで寝たきりになってからすぐにジュスマイヤーは指示を受けたのではないだろうか。しかし、それも後世の想像に過ぎない。寝たきりになって数日後のモーツァルトから義妹ゾフィーへの言葉(1825年のゾフィーの手紙より抜粋)をここに引用しよう。

「ねぇ、ゾフィー。お母さんにこう言ってくれ、僕は元気だ、お母さんの命名の成人の日の1週間後のお祝いの日には、僕がお祝いを言いに行くってね。(註・サンタ・チェチリアの日は11月22日よって、モーツァルトは11月29日に母に会いに行くつもりであった)」(前掲資料8頁)

つまり、モーツァルトは、近い死(12月5日の死去)を予感していたのでもない。予想外の唐突な死であったのではないか。確かに、ジュスマイヤーにモーツァルトが指示をしていたという証言はある。(註4)しかし、なぜそれがジュスマイヤーなのかという問題になったとき、リチャード・モーンダーはこう考えた。たまたまジュスマイヤーが1791年12月4日、病人の見舞に訪れた偶然の結果であると。モーツァルトもコンスタンツェもジュスマイヤーを評価はしない。コンスタンツェが最初に未完の譜面を持っていった先がアイブラーであるという事実は変わらないのである。こうしてモーンダーはジュスマイヤーの補筆を杜撰で陳腐なものとみなし、〈サンクトゥス〉、〈ベネディクトゥス〉をそっくりそのまま、〈ラクリモサ〉の9章節目以降を切り取ってしまった。代わりに彼は、最近発見された、〈セクエンツィア〉の最後に付けるはずだったモーツァルトによる16小節のスケッチを〈アーメン・フーガ〉として〈ラクリモサ〉の次にくっつけた(モーンダー版、1986)。(註5)また1991年にはロビンズ・ランドンが〈セクエンツィア〉部分のアイブラーの補筆を復活させ、これは通称ランドン版と呼ばれる。

またジュスマイヤーはモーツァルトの死後、机に散乱していた書き散らしを持ち去った、ないしコンスタンツェから受け取ったという話もある。(註6)だが、コンスタンツェ側は『レクイエム』が真正で、モーツァルトの手によるものであると主張し、ジュスマイヤーは自分が自分の判断で作曲し完成させたと主張する。ジュスマイヤーにとっては、自分の作曲したものが多くないと分け前はもらえないということであろうか、ジュスマイヤーの証言とコンスタンツェの証言の間には矛盾がある。(註7)そのほか、ジュスマイヤーは『レクイエム』筆写のときに、故意か他意かはしらねど、音の写し間違えもしているし(それらを主に修正した版はバイヤー版と呼ばれる)、モーツァルトの死後である「1792年」という年とモーツァルトのサインを真似たものをジュスマイヤーは『レクイエム』に奇妙にも残したりしたし、ジュスマイヤー作曲の楽譜をモーツァルトの名でコンスタンツェと共謀し売ったりした記録も残る。

よって、我々がモーツァルトの『レクイエム』と出会うとき、そこには必ず補筆の問題が関わってくる。「モーツァルト」(括弧付き)の『レクイエム』であるからだ。でも、私がこの『レクイエム』を聴いて感じることは、全体としての完成度の高さであり、ジュスマイヤーが作曲した部分が含まれるとしたら、私は彼に敬意を表したい。確かに、モーンダー氏などのモーツァルト研究家のスコア分析によれば、彼が作曲したとされる〈サンクトゥス〉、〈ベネディゥトゥス〉はおよそモーツァルトに及ばない、陳腐極まりないものに見えるかもしれない。(〈アーメン・フーガ〉に関してはまた後で言及する)しかし、ジュスマイヤーは曲りなりにもモーツァルトの弟子で、モーツァルトの生きた時代に生を受けた人物である。生きたモーツァルトに接していた人物の補筆と、まったく違う文化・時代に生きた研究家の補筆とどちらが優れているかは、言うまでも無いだろう。誤りの修正はあっても良いかもしれない、しかしまったく新しい作曲はなされるのは好ましくない。いくら新しい文化が、悠久の文化の猿真似をしても、程度を下げることはあれ、それよりも優れていることはいまだない。科学的手法による分析によってすべての真理が手に入るというのは、実に傲慢な考えだといわざるを得ない。だから〈サンクトゥス〉も〈ベネディクトゥス〉も全体に調和している限り、ともに生かしておきたいのが私の考えである。そこには師を想う弟子の追悼歌があるのかもしれないのだから。アイブラーが作曲していたらもっと優れていただろうとか、モーツァルトがもう少しだけ生き延びていたらどれほど美しい『レクイエム』があっただろうと想いを馳せるのは自由だが、アイブラーは途中で投げ出し、モーツァルトは未完のまま眠りについたのである。至高の『レクイエム』は天上で鳴り響き、我々の耳には届かない。

(註2)モーツァルトの書いたアイブラーの推薦状の内容はこうだ。「私は、ヨーゼフ・アイブラーは彼の有名な師アルベルヒツベルガーの名を汚さぬ弟子である、と思います。彼は作曲に関してはあまねく知識を持ち、教会音楽にも世俗音楽にもすぐれ、歌唱にも経験を積み、かつ完成されたオルガニストであり、ピアニストであります。約言すれば、彼は彼と並ぶ者がいないのが唯一の難点といえる、すぐれた若い音楽家だといえます。」(既出C.R.F.モーンダーのレクイエム解説、石井宏訳8頁)

(註3)ジュスマイヤーからブライトコップ宛ての手紙より。「この作品を完成する仕事は、いろいろな作曲家に依頼された。何人かはモーツァルトの作品に手を出して自分の名に傷がついてはつまらないと考えて断った。最後にこの仕事は私のところへきた。」(前掲書8頁)

(註4)義妹ゾフィーの証言。「ジュスマイヤーがモーツァルトのベッドの横にいました。有名なレクイエムの譜が掛け布団の上に置いてあり、モーツァルトは自分が死んだときの仕上げ方を教えていました。」妻コンスタンツェの証言。「夫が死を予感したとき、ジュスマイヤーに向かって、もし自分が未完のまま死んだら、最初のフーガを最後の章に使うように言いました。」(1799年のコンスタンツェからブライトコップへの手紙より・前掲書8頁)

(註5)他のエディションとして、1990年にはモーツァルト研究家、H.C.ロビンズ・ランドンが〈キリエ〉部分のフライシュテットラーの補筆と、〈セクエンツィア〉(〈ディエス・イレ〉から〈コンフターティス〉)部分のアイブラーの補筆を復活させた。これは通称ランドン版と呼ばれる。また、ドゥルース版(1984)、レヴィン版(1991)、ヴァド版(1999)などがある。

(註6)シュタードラーのレクイエム真正さに関する弁護内容より。「モーツァルトの死後、未亡人が私に語ったところでは、彼女は夫の机の上に何枚かの書き散らしを見つけて、ジュスマイヤーに渡したとのことである。その中身が何であったか、あるいはジュスマイヤーが何かにそれを利用したかどうかについては、彼女は何も知らなかった。」(前掲書9頁)

(註7)1800年ジュスマイヤーからブライトコップへの書簡。「〈レクイエム〉(註・入祭誦のこと)、〈キリエ〉、〈ディエス・イレ〉、〈ドミネ・イエズ・クリステ〉の各章ではモーツァルトは四つの声楽パートと、数字付きバスとを、完全に書いています。しかし、オーケストレーションに関しては指示はところどころでした。………また〈ディエス・イレ〉の続き(註・〈ラクリモサ〉のこと)は"judicandus homo reus"の箇所から私が書きました。〈サンクトゥス〉、〈ベネディクトゥス〉、〈アニュス・デイ〉の三つは、私が新たに作曲したものです。そして全体に統一感を与えるために、自分の判断で〈キリエ〉のフーガを最後の"cum Sanctis"のところにもう一度使いました。」(前掲書9頁)この手紙の中にある矛盾はまず、〈イントロトゥイス〉のオーケストレーションはモーツァルト自身の手によってなされているし、〈ラクリモサ〉の"judicandus homo reus"の箇所(第7、8小節)の声楽はモーツァルトの筆跡が残る。それに、フーガを再度用いて締めくくるという構成は、コンスタンツェの話によると、モーツァルト自身の指示であったはずだ。この矛盾には、やはり双方の利益取得の問題があったと考えられ、よって、もしジュスマイヤーがモーツァルトの詳細な指示を受けていたとしても、彼は同じことを言っただろう。

 

前の頁へ次の頁へ

楽想の木翳に戻る

周子の森へ