『レクイエム』考

2.レクイエム神話
 
 1791年時のモーツァルトは経済的に困窮状態であると同時に、彼自身病に冒されていた。鼠色の服を着た独りの男が、依頼主を隠して、モーツァルトにレクイエムの作曲を依頼し、多額の前払い金を置いて行く。モーツァルトはこの使者を死神だと思い、自分の死期が迫っていることを感じると同時に、自分のためのものとなるであろう『レクイエム』を無我夢中で作曲した。しかし、『レクイエム』は完成に至らず、病床でモーツァルトは弟子のジュスマイヤーに後の仕上げ方の詳細な指示を与えて12月5日にこの天才作曲家は夭逝する。

 大体上記のような記述は初期のモーツァルト伝記作家(ロッホリツ、1798やニーメチェク、1798や1792年『ザルツブルク・インテリ報』に掲載された無名氏の評など)に見られるものである。この実にロマンティックな物語はナイーブなモーツァルト像を人々に植え付けるには十分であった。死を予感し、自分の『レクイエム』を作曲し、未完で倒れ死んだモーツァルト。(死因はおそらく感冒などの重複)それを裏付けるかのような有名な書簡もある。(註1)しかし、現在の研究で、この書簡の偽作であることがほぼ明らかなため、我々はこの神話をそのまま鵜呑みにはできない。(モーツァルトの死生観に関しては別の書簡をおわりに引用したい。)

「鼠色の服を着た使者」の正体は明らかになっている。フランツ・ヴァルゼック・シュトゥパハ伯爵(1763−1827、フリーメイスン会員)が1791年2月14日に亡くなった妻の追悼ミサのレクイエムを作曲依頼するために同年夏におくった使者であった。一説に伯爵は作曲家に依頼して作らせた曲をしばしば筆写し、自分の作曲のものとして演奏したりしていたという。この『レクイエム』も『ヴァルゼック伯爵作曲のレクイエム』と銘打たれて、伯爵の指揮のもと1793年12月14日にウィーンで演奏された。しかし、1793年1月2日、コンスタンツェのために慈善的な試演が行われているため、初演としてはこちらをとる。(また、最新の研究によると、モーツァルトの死後5日(1791年12月10日)に冒頭の二章のみ、作曲者の追悼を謳って演奏されていることも参考までにあげておこう。)ヴァルゼック伯爵のこうした盗作行為は、後世のモーツァルト伝記作家を中心とした非難を浴びたが、ヴァルゼック伯は熱心な音楽愛好家で、私的な演奏会ではいくつもの作曲家の作品をとりあげて演奏後聴衆に作曲家は誰か当てさせたりしていた(アントーン・ヘルツォークの報告より)。よって今では、単に罪のない風変わりな人物という見方が強い。伯爵が故意に盗作をしたという説の根拠は未だない。

 またモーツァルトは重い病の中『レクイエム』を作曲したのかどうか。モーツァルトは『レクイエム』と同時に並行して『魔笛』(K.620)と『皇帝ティートの慈悲』(K.621)を作曲していた。『魔笛』の成功を喜ぶ真筆の書簡がある。少し長いが、引用してみよう。バーデンにいる妻コンスタンツェへで宛てて。

「土曜日はいつも入りが良くないのだが、オペラ(註・『魔笛』のこと)は満員で、例によって拍手喝采とアンコールだったよ………今、高い御馳走を腹に詰め込んだところだ。プリムス(僕の忠実な従僕)が持ってきてくれたんだ。ところが今日は食欲があってね、もう一回何か持って来いといって使いを出したよ………、今朝はよく働いたものだから、寝たのは1時半になってしまった………。昼飯のあとはまっすぐ家に帰って、オペラの始まる時間まで仕事をしていた………。パパゲーノのグロッケンシュピールつきのアリアのとき、僕は舞台裏へ行った。今日は、どうしても自分で弾いてみたかったからだ。シカネーダーが手を休めているときに、僕はふざけてアルページョを弾いてやった。すると奴さんは驚いた。舞台の袖を見ると、僕が弾いている。そして繰り返しのときに、今度は僕が弾かなかった。すると奴さんは歌を止めて、テコでも歌わないつもりだ。僕には彼の考えていることが判ったから、別の和音を弾いてやった。すると奴さんもグロッケンシュピールを叩いて「黙れ」と言ったので、みんな大笑いだ。今度の日曜日に行くよ。いっしょにカジノへ行って、月曜日には一緒に帰ってこよう。追伸、挨拶の代わりに、ジュスマイヤーには鼻にパンチをくらわせ、頭をごつんとやってくれ………。注意、君は黄色い冬のズボンを二つ洗濯に出したと思うのだが、ヨーゼフと二人で探しても見つからないよ。」(録音資料《レクイエムニ短調K.626モーンダー版》ホグウッド指揮L'OISEAU-LYRE 411712-2に付録のC.R.F.モーンダーのレクイエム解説、石井宏訳6頁)

この手紙に「死」の影はない。『魔笛』初演から1週間後のこの手紙は、書かれた日付(1791年10月8日、9日)から見ても丁度『レクイエム』の製作にとりかかっている最中なのである。(また、この書簡については、後の補筆の問題でも触れる。)書簡どころか、自筆譜の筆跡は滑らかで力強く、病める人間の手によるものではないはずという指摘もなされている(ヒルデスハイマー、1977)。また、経済的困窮を極めていたという話も、後世の研究から、想像を絶するほどの苦しさではないはずで、むしろ当時では比較的裕福な方であったという見方も出ている。ドラマは大分解体されつつあるようだ。

さて、残るは「弟子のジュスマイヤーに仕上げ方の詳細な指示を与えた」という部分であるが、これについては次の「補筆」に関わる問題で触れて行こうと思う。

(註1)「あの見知らぬ男が私を急き立てます。私も作曲する方が疲れないので作曲を続けます。私は自分の才能を十二分に楽しむ前に終わりに辿り着いてしまいました。これは死の歌(カント・フネーブレ)です。未完で残すわけにはいきません。」このイタリア語の書簡は『レクイエム』の成立にまつわり、何度となく引用されてきたが、もしも真筆ならば、実に貴重な資料である。しかし、偽作の疑いがいまや色濃い。(『モーツァルト事典』レクイエムの項 小林緑著 東京書籍 1991 50頁)

 

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