ここでは、私がいろんな場所で、講演させていただいたときの講演録を紹介します。          <<Previous


2001.1.30
神奈川県立こども医療センター・「死」を知ることで見えてくる「生きること」の意味

 私は、7才、小学校1年生の時に、「筋ジストロフィー」であるという診断を受けました。この病気は、ご
存じとは思いますが、医学的に言うと、筋肉細胞の中にある、たんぱく質が壊れていくことで、筋肉が萎縮 し、全身の筋力が衰え、呼吸筋や心臓の筋肉まで侵されていく病気です。 診断を受けた当時は、20才まで生きられるか、わからないと言われていました。それから、20年以上 の人生を生きてきました。そして、今、31才です。
 今日は、医療スタッフの方々にお話しさせて頂くということで、どういった話をしようかと考えました。 そして、重い病気を抱えているからこそできる話をと思っていたところ、一冊の本と出会いました。それは、 鈴木秀子さんという方の書かれた本で、タイトルは、「幸福な死に方」といいます。本を開くと、人の生と死 に関しての貴重なメッセージに満ちていました。そこから「死ぬこと」と「生きること」についてお話しさ せて頂くことにしたのです。頂いたテーマと少し異なった内容となるかもしれませんが、よろしくお願いし ます。

◆「死」の認識について
 まず、人が「死ぬ」とは、どういうことでしょうか。どう認識すべきことなのでしょうか。私たちは、遅 かれ早かれ死んでいくことになります。たいていの人は、ずっと遠くにあることだと考えていて、その意味 がわからず、漠然とした恐れしか感じないかもしれません。
でも、それは、私のような病気、障害をもつものにとっては、いつも目の前にあることなのです。そして、 いつも「死」とは、「幸福な死に方」とは何なのかを考えてきました。 これは、人間の存在の意味を考えることでもあると思うのです。

死はなぜ怖いのでしょうか?
それは、現代社会では、「死」が触れてはいけない、覆い隠すべきものと考えられてきたからだと思うのです。 また、死を意識して見ないようにしてきたからでもあるでしょう。普通の生活をしていれば、それはどこか 別の世界で起きている、自分たちとは関係のないこととしてどこか隅の方に置いておくことができます。 アメリカでは、病院で亡くなった患者さんの遺体は、自宅に戻ることなく、そのまま葬儀場に送られるこ とが一般的になっていて、遺体は化粧を施され、衣装に飾られ、生前とはまるで人が違ったようなきれいな 姿で遺族と対面するそうです。   衛生上の問題と子どもたちにショックや恐怖感を与えないためという理由をつけて、死を覆い隠す工夫が なされているといいます。それでいいのでしょうか。

「幸福な死に方」には<これまでは、人間の生に力点が置かれ、医学をはじめとした科学が、人類の「生を 謳歌する」ためにフルに活用されてきて、医学の驚異的な発達が楽しく生きること、医学的に寿命を延ばす ことを可能にして、人々の生きることへの執着も肥大化させてきている>と書かれています。そういったこ とが、「死」を必要以上に恐れさせているのかもしれません。
 また、<治療ができる病気になった人は幸運な人で、まだ医療の手に負えないような病気になった人は、 不運な人とみなされるようになり、そして高齢になる前に亡くなる人は、不運な敗北者とみられるようにな ったのです。こうして、病人は、医師に委ねられるものとされ、その延長線上にある死は、病院において医 師の手で処理されるべき事柄となりました。その一方で、医師にとって、死は、「失敗」を意味するものなの ですから、死ともっとも近しい間柄にあるはずの医師が、死を必死に無視するという不思議な状況になって いるのです。かつては、自然に迎え、受け入れてきた死は、おぞましいもの、ひたすら無視するべきものと なり、無視できる存在になったのです。>とも指摘しています。  私は、死を無視することは、決して人を幸福にしないと思うのです。
また、「死」に直面している人に一般社会で考えられている「死」の認識を植えつけることは望ましくないと 思います。今、死とは、関わりのない人でもいつか死と向き合うのですから、死ということにフタをしてし まうのではなく、よく知っておくべきなのではないでしょうか。それもこれからの医療に大切なことのはず です。本当の医療を実現していくためには死を直視する必要があるでしょうし、死を単なる悲劇、「敗北」と とらえるのは、間違いであると思っています。

◆「安楽死」の記事から思うこと
 「死」を考えた時、ある新聞記事を思い出します。それは、オランダでの日本人女性の安楽死の記事です。 その女性は、オランダ人の男性と結婚し、オランダに在住していた方で、末期がんでかなり重い症状であっ たらしいのです。オランダで「安楽死」法案が成立したのは、2000年のことで、条件つきで認められた 法案です(べルギーでも2001年に)。それは、確か、「本人が安楽死を強く望んでいること」、「末期症状 で生存できる見込みが期待できないこと」などが主な内容で、医師を罪に問わないことも明記されています。
記事の女性は、睡眠剤と筋弛緩剤の投与を受けて、安らかに最期の時を迎えた、ということでした。  こうした問題については、一般の健康な人々からすれば、「たとえ、末期であっても最期まで生かすことが 大切で、本人の意志でも、医師が手をくだすようなことがあってはならない」、「自殺と変わらないことを容 認していいのか」と思うかも知れません。それは、ある意味正しいことで自分がその立場ならそう考えると 思います。でも、別の角度から見ると、正しい、とは、言い切れるものではないと思えるのです。「生きる」 ことの尊厳から言うと、苦しんで苦しんで、生きる意味さえ見い出せない状況は人の「生」とは言い難いと 思うのです。「生きている」ことの意味を考えてみた時、ただ生きればいいという考えは、あまりにも悲しい です。
 今の医療は、長く生きること、生かすことにウェイトを置きすぎるあまり、死に直面している人を支え、 残された時を人として、どう生きるかということに目を向けることを忘れていたのでは…と思うのです。  私は、「筋ジス」という病気とともに生きてきたので、いつも「死」について、心のなかで自分に問いかけ てきましたし、今も人にとって、死とは何であるのか、その意味、自分らしい、人間らしい死のあり方とは
何なのかを問いかけています。 そして、私は、常に先にある「死」を意識し、見つめてきましたし、残された人生も「死」を見つめて生き ていくと思います。

 私のいう「死」とは、多くの人の考えるものとは違うかも知れませんが、「死」はすべての終わりではない ので、私は、なにかにしがみついてでも「生きる」ことには疑問を感じているのです。つまり、食べて、眠 って、排せつしてというだけの生活になってまで、あるいは、たくさんの機械につながれ、スパゲティ状態 になってまで、生きることに価値や尊厳はあるといえるでしょうか。私には耐えられません。誰だって、最 期だけは、尊厳を大切にしたいですし、心安らかに幕を引きたいはずなのです。「生きている」のがつらいか らだけではありませんし、逃げたくて言っているわけでもありません。また、安楽死が望ましいとは思いま せん。
 でも、尊厳ある死を私は望みたいと思うのです。それが、人間の究極の願いであると思うのです。健康に 生きていれば、そんなことは考えなかったでしょう。どんな人でも、「死」ということを本当に深く考えなけ れば、「生きる」ことの意味は見えてきませんし、生命の尊さ、大切さを知ることもできないはずです。この 世で生きることには限りがあるから、最後には、死んでいくことが分かっているから、今、この時を全力で 「生きる」のだと思うのです。ですから、「死」を覚悟していても、自分が納得できるところまで人生を悔い なく全力で「生き、生き切った」人には、死は単なる悲しみではないのです。

◆デス・エデュケーション−死の教育
 死が単なる悲しみであり、敗北であるなら、「死」は、全く無意味なものということになります。でも、そ うではないと思います。それが無意味であるとすれば、生きること自体が無意味なものとなってしまうでし ょう。  「死」についてもう一度とらえなおすには、「死」とは何なのか、人はどのようにして死んでいくのかとい ったことを学ぶこと、「死についての教育(デス・エデュケーション)」が必要だといいます。それによって、 見えてくるものがあるのではないかと思うのです。

 デス・エデュケーションを含む死と生に関する研究は、「サナトロジー」(死生学)と呼ばれます。そのパ イオニアである、スイス出身の精神医学者エリザベス・キューブラー=ロスは「死にゆく患者のことばに耳 を傾けさえすれば、生について無限に多くを学ぶことができる」、また「死に瀕した人々は、わたしたちにと って最高の教師である」とも述べていますが、デス・エデュケーションとは、「死」を見つめるのと同時に、 「生」を見つめ、人間の本来の生き方を学ぶことだと思います。いかに「生きて」、いかに幸せな「最期」を 迎えていくか、家族はどう支えていけばいいのか、医療がいかに関わっていくのか、ということが大きな意 味をもつと思うのです。つまり、「死ぬ」ことと「生きる」ことは、全く別のことではないということです。
 「死」を考えていく時に、まず必要なのは、死を前にした人が、一人の人間としてたどっていく心の変化 を知ることだと思います。それは、キューブラー=ロスが著書、「死の瞬間」のなかで、「死とその過程」と 呼んだものです。 それによれば、「否認」「怒り」「取引」「抑うつ」「受容」という五つの段階にわけられています。

◆第一段階−否認
『まず最初に起こるのは「否認」です。強烈なショックを受け、「これは間違いだ。わたしが死ぬなんて、そ んなばかなことがあるはずがない」といって事実を否定しようとします。自分を守る防御であり、予期せぬ 悲劇に対処するときの正常で健全な反応で、否定することによって、人は自分の人生が終わるという考えを 打ち消し、それまでと変わらない人生にもどろうとする段階です。』

◆第二段階−怒り
『しかし必死に否認しても、逆らい切れない事実だと分かると、今度は「怒り」を感じ始めます。「なぜわた しだけがそんな過酷な運命を背負わなければならないのか?」という怒りです。そして怒りは、「なぜこのわ たしが?」から「なぜあの人ではないのか?」へと変化していきます。「わたしは、かなりまっとうな生き方を してきた。あんなにずる賢く、悪行を重ねている人が、ゆうゆうと生きているのに、なぜ、彼ではなく、わ たしがこんな病に侵され苦しまなければならないのか」という答えのないこの思いは、どんどん深まって、 家族であろうと、医師や看護婦であろうと、友人であろうと、「なぜあいつではなく、わたしなのだ?」とい う思いに苦しみ、だれかれかまわず当たり散らしたくなっていきます。』と定義されています。
 怒りの段階で重要なことは、周囲の人が、「どんな怒りを表しても、わたしはちゃんと受け止めてあげます よ、わたしはあなたがどんな態度を示してもけっして見捨てはしません」というメッセージを伝えることな のだそうです。思いを受け止めてもらえたという実感を得られれば、次に入るのが「取引」の段階です。

◆第三段階−取引
『多くの場合、人間を超える存在、神との「取引」です。「お願いです。自分のわがままな性格を直しますか ら、この子が幼稚園に入るまで命を永らえさせてください」「姑にちゃんと仕えますから、この子が高校を卒 業するまで待ってください」自分にとってかなりつらい条件を提示し、努力の代償として全快させてくれる よう願うのです。もちろん、この取引は、いつになっても成立しません。もし子どもが卒業するまで命が永 らえたとしても、その人は、「この子が結婚するまで」「わたしが還暦を迎えるまで」とどんどん新しい取引 を申し出ることになるからです。』とあります。 この段階になると、ようやく人の話にも耳を貸せるようになり、心を通わせることもできるようになるとい います。

◆第四段階−抑うつ
『この申し出が、無理な注文であることを悟ると、第四の段階である「抑うつ」の時期に入ります。悲しみ に沈み、ひどく落ち込みます。時間が経過すれば、病状は否定しようもなく悪化し、経済的にも苦しい状況 になる場合が多いので、落ち込みはさらに激しくなります。』と定義しています。  そんなとき、最良の支えとなるのは、優しく手を握り、そばに座っていてあげること、悲しみを認め、理 解し、祈ることであり、また、相手の考えを引き出すのでもなく、積極的な質問もせず、ただ相手に注目し、 深く耳を傾けること、「アクティブ・リスニング(傾聴)」ができれば、さらに理想的だといいます。

 このような、4つの段階を通って、最後の段階、苦しみや痛みと共存する力がわき、苦しみや痛みを味わ いながらも、恐怖や不安を感じずにすむ状態−「受容」へと向かうといいます。  それは、苦しみの意味を理解する道のりなのだそうです。この過程を経た時、苦しみの意味がわかるのか もしれません。自分の辿ってきた道のりを考えてみると、死というものが近くなくても病気を抱えている人 は、少なからずこうした心の変化を経験するのではないかと思います。私は、この五つの経過を繰り返して きた気がします。そして、それが私という人間をつくり、成長させてくれたと思います。

◆「死」をありのままに受け入れることと「死ぬ許可」
 死についてもうひとつ必要なことがあります。それは、死が迫っている時に、残された時間を心安らかに 過ごすために、本人はもちろん、家族がそのことを受け入れていくことです。受け入れることができなけれ ば、心を通わせることはできないと思います。それでは、死んでいくことへの苦しみ、悲しみを増すだけな のではないでしょうか。
 そして、死ぬ間際には、悲しみを乗り越えて、愛する人に「死ぬ許可」を与えてあげることも大切なのだ そうです。  それが、その人が思い残すことなく、安らかに旅立つための助けになるといいます。家族がその人の死を 受け入れていれば、「いかに安らかに最期を迎えさせてあげるか」、「いかに心豊かに過ごすか」を考えること ができると私は思います。それは望ましいことです。家族が受け入れていない場合でも、アメリカの臨床医 学の現場で、「医師や看護婦が、死を前にした患者を元気づけるより、死ぬ許可をきちんと与えることのほう
が思いやりの深い態度である」とされつつあるように誰かが橋渡しをすることで死にゆく人が安心して人生 最期の時を家族とともに迎えられるはずです。
 それは、死を迎える人が、人生の総仕上げ、人生最後の大きな仕事をするために必要なことです。最後ま で、一人の尊厳ある人間として生き、愛されているということを感じながら旅立つことができれば、どんな に幸せでしょうか。

◆「ドゥーイング−行為」と「ビーイング−存在」
 この死に向かう過程を知り、経験していくことで、死に直面している人は成長することができます。家族 や友人など周りで支える人は死を受け入れ、ともに過ごすことで、成長していきます。  今まで、人間の表面的な「見える世界(ドゥーイング)」しか見えなかった人でも、心の深い部分にある、
通常は「見えない世界(ビーイング)」が見えてきて、人にとって本当に大切なことが何であるかがわかって くると思うのです。  表面的な世界では、常に人との比較をし、序列や優劣のなかで生きようとすることになりがちです。人の ことなどかまっていられなくなっていきます。  しかし、人は、それではいけないことを心のどこかで知っていると思うのです。とくに自分自身や愛する 者が病気になって苦しんでいる時、死と直面した時にたとえ、どんな生き方をしてきたとしても、気付くは ずです。
 それは、鈴木秀子さんの言葉を借りるとすれば<今まで強く執着してきた世界は意味を失い、自分が生か されている存在なのだということに気づきます。そして、自分が、宇宙や自然、人との調和の中で生きてい く存在であることを受け入れることができるようになり、それまでには全くあり得なかったような「人間と しての成長」が果たされることがあります。「自分ががんばっているから、自分が善良に生きているから、自 分に価値があるから、こうして立派に生きている」といった意識が消え、「自分は宇宙や自然、人によって生 かされている存在なのだ」という意識に目覚めるのです。それまではバラバラに生きているように見えた人 間が、実は根源的な部分で一つにつながっていることを自覚するのです。>ということなのです。  このことに気付いた時に、「人の痛み」や「病気の人の気持ち」が分かるようになります。当たり前のこと が当たり前ではなくなり、「生かされていることへの感謝」と「人に与える喜び」を感じるようになると思う のです。「人生の質」が大きく変化するのです。死に向き合う、あるいは、重い病気に直面することは、その ことに気付くチャンスかもしれません。

◆命の大切さ
 「死」は、決してタブーではないのです。人は、死を正しく知った時に、生きることを大切にするように なると同時に、自分の残された人生について考えるようになります。そして「生」と「死」の意味を考えま す。  死は、今、生きていることの価値や喜びを教えてくれるのです。自分も、周りに生きる人の命も大切に思 えるようになるはずです。命の大切さを知った時、人生が輝きを増していくように思えるのです。

◆QOL〜私が考える、Quality Of Life
 そして、命の大切さを知ることで、私たちが生きていく時に大切にし、考えていくべきことが見えてきま す。それは、生きているという実感をもって、日々、過ごすことができるか、心がいかに充実して、幸福感 のなかで生きられるか、ということだと思います。つまり、よく言われることですが、Quality O f Life、生活の質、人生の質をいかに高めていくか、ということです。とくに、障害や病気を抱えて いる人にとっては、大切です。私は、重い障害を背負いながらも、両親や周りの人たちの力をかりることで、 普通の人と同じ生活を送ってきました。
 そして、小学校、中学校、高校と、普通学校に通いました。私の場合、高校まで普通学校に通ったことで、 大学まで進学しようという気持ちをもつことができたと思います。もちろん、先生方や友人達、まわりの人々 の理解と手助けがあってのことではありますが、健康な人と同じ青春時代を過ごしました。  そして、普通の人と同じ様に就職し、仕事というひとつの「生きがい」を頂きました。自分が生きている 意味を感じることのできる何かがあること、必要とされていること、生きている実感をもって、充実した日々 を送ること、そして、家族とともに日々を大切に生きること、それが、Quality Of Lifeと いうことではないでしょうか。私なりにいいかえるとすれば、誰もが望むことですが、普通に生きていくこ とであり、たとえ、すぐ目の前に死が迫っていても、まだ、死がずっと先にあるとしても、最後の時まで、 周りの人々に感謝しながら、自分らしく生きることであると思うのです。

◆F.ナイチンゲールのように
 Quality Of Lifeについて考えたとき、F.ナイチンゲールのことが頭に浮かびます。F. ナイチンゲールはクリミア戦争の時に、兵士たちを献身的に看護したことで有名ですが、私は、看護婦とし てのナイチンゲールの生き方はもちろん、その後の人間としてのナイチンゲールの生き方に魅かれます。ナ イチンゲールは、看護婦として活躍した時よりも病に倒れてからの生き方の方がより輝いていましたし、そ れがナイチンゲールの本来の生き方であったと思います。ナイチンゲールがもし、現場でだけしか生きてい なかったなら、今の看護や医療は、現在のようにはなっていなかったのではないかと思います。ナースコー ルも、白衣も、病室の白い壁も、エレベーターもなかったかもしれないのですから…。
 それも、ほとんどべッドにいる生活のなかで考えたということには驚きました。 看護の理論書を著わしたのもべッドの上だったということも知りました。  それを知った時に、自分は、どこか体が動かないことを言い訳にして、できることがまだたくさん残され ているにもかかわらず、逃げているという思いがしたのです。そして、自分のためだけに何かをするのでは なく、人のためにできることはないだろうか、と思ったのです。  それから、いつも心に「人の役に立つ生き方をしていきたい、何か自分にできることはないか」という気 持ちを持つようになっていきました。
この想いを持ちつづけたことが講演につながり、今回で13回目となりました。また、講演をしたことが、 次の講演へ発展し、ある人のために詩を贈ったことが詩を書きはじめるきっかけとなり、詩を書きはじめた ことが本を出版するという夢へと発展していったのです。そして、「詩に曲がついて、多くの人に勇気を与え ることができたら…」と考えていたところ、実際に曲がついて、CDにその曲を入れていただけるところま で発展していきました。その喜びが、さらに力を与えてくれました。心に描くことがどれほど大切か、今回 ほど実感したことはありません。まず、描くこと、描きつづけることです。 「人のために、社会のために何かをしていきたい」という想いを強く強く心に描いた時に、夢をかなえてい くための歯車が回りはじめていくのだと思います。

そして、それを応援し、支えてくださる人々が必ず現れてきますし、必ず力をかしてくださいます。その 時のために、準備をしておくことが大切です。つまり、自助努力ということでしょうか。私は、運がよかっ ただけなのかも知れませんが、想いは通じます。「運」という文字は「はこぶ」と書くように、運は自分で目 の前にもってくるものです。つかむのは自分自身です。すべてのことにおいて、自分から発信することが、 アクションをおこすことが大切であると思います。夢をかなえていくためにもうひとつ大切なのは、あきら めないことです。あきらめたら、そこでおしまいです。 絶対にあきらめないことだと思います。
 「人のために、社会のために何かをしていきたい」という心、言い換えれば、人や社会に対する愛があれ ば夢はかないます。私たちが生きている、この世界は、愛を実践していくための学校でもあり、すべての人 が「人のために、社会のために…」という心で生きていくことが大切だと思うのです。そのように生きてい る人の夢がかない、誇りを持って生きられる世界、幸福になれる世界をつくれたら、どれほど素晴らしいで しょうか。 そんな美しい世界をつくるために、少しでも、その力となるために、私は、「人のために、社会のために…」 といつも自分に言いきかせています。そのような生き方をしていけば、人は必ず成長できると私は思います。

◆今、苦しみのなかにある人へ
 話が少しそれたかもしれませんが、最後に、今、苦しみのなかにある人へ、伝えたいことがあります。た とえ、つらくても、そのなかには、あなたにとって必要な学びがあり、私には、私に必要な課題があるのだ と…。
時には、心のもやもやが爆発することだってあるでしょう。悲しみで心がいっぱいになることだってあるで しょう。  そんな時は、思いきり「怒り」、「悲しみ」を表に出してしまえばいいのです。私も気持ちを押さえきれな い時が数えきれないほどあります。大切なのは、怒り、悲しみをもちこさないことです。そして、そのまま の自分を受け入れること、今、ここに生きていることを忘れないことだと思います。
人は、過去を生きることも未来に生きることもできないのですから、「今、この時」を生きていくしかないと 思うのです。
 苦しみだけをとれば、不幸なのは間違いないです。でも、その苦しく、厳しいなかで多くの人と出会い、 時に小さな幸せもあったはずで、不幸な部分だけをとって不幸の再生産をする必要はないと思いませんか。 また、命の期限が近づいている人、それを支える人には、「健康な人のあと40年と重病人のあと3ケ月にど れだけの差があるでしょうか」という言葉を贈りたいと思います。
 人生の価値を決めるのは「どれだけ生きるか」ではなくて、「どう生きたか」ということです。  苦しみは、成長のチャンスであり、それを乗り越える力はすでに自分の中に備わっているということ、そ してあなたはけっして孤独ではないということ、どれだけのものを与えられているかを教えてくれます。苦 しみのなかからひとつでも何か大切なものをつかみとれたなら、人生は成功したといってもよいですし、素 晴らしい未来が見えてくると思うのです。
 「苦しみをプラスにする生き方」、「死を恐れない生き方」、それは強さに満ちた生き方であり、愛に満ちた 生き方です。私は、そんな生き方をしていきたい、そして、苦しみを経験してきた、また現在もその中で生 きている者として、子供たち、同じ世代の人たち、人生の先輩たちに、勇気と希望、夢をもって生きること の大切さを伝えていきたいと思っています。

本当に最後となりましたが、今日、私に講演する機会を与えてださった、高増先生、三杉先生、集まって頂いた先生方に心から感謝いたします。

ありがとうございました!!


【参考文献・引用】

 「幸福(しあわせ)な死に方

     〜逝く人と送る人の愛の絆


        鈴木秀子/著(同朋舎)












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