2001.6.12〜神奈川県立川崎高校にて・バリアフリー社会を目指して−共に生きるために
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私が社会人となってから、8年の歳月が過ぎ去りました。その間にどの程度、世の中また、世の中の考え方が変わってきたでしょうか。私もそうですが、障害を持つ人たちの考えもそれを受け入れ る側の人たちの考えも以前とは全く違ってきていると思います。社会のなかで認められている障害 者の方もかなり多くなってきており、私が教育を受けていた時よりもはるかに理解されるようにな りました。ただ、状況は良くなったとはいえ、まだ課題も多く残されていると思います。制度や設 備の問題はもちろん大事ですし、エレベーターやリフトのようなものがある方が助かります。それ があるだけで精神的に楽に生活できると思います。でも、本当に大切なのは、そういう目に見える ことよりもお互いの内面、つまり、心の問題です。私は、この“心の問題”が解決されていくこと を望んでいます。それを解決していくには、社会、特に教育の場において、お互いが歩みより、学 んでいくことが必要だと思います。私は、小学校、中学校時代は、受け入れる体制が整っていたと はいえない状況のなかで学校生活を過ごしました。高校、大学時代は、障害を持つ生徒・学生を受け入れてきた実績のある環境のなかで学生生活を過ごしました。このふたつの限られた経験のなか からお話をさせて頂きたいと思いますので、参考にして頂けると嬉しく思います。
もうご存じとは思いますが、私の病気は、「筋ジストロフィー」という、筋肉細胞のなかのたんぱ
く質が壊れていき、筋力が弱くなり、呼吸筋や心臓の筋肉までおかされていく病気です。以前は、
20才前後で亡くなる人が多かったのですが、現在は、私がつけている呼吸器など医療の進歩によ
り、もっと長く生きることができるようになっています。そして、一般の人と同じというわけには
いきませんが、それほど変わらない生活を送れるようになりました。私のような障害をもつ人たち
は、QOL(Quality Of Life)、人生の質がとても重要です。質の高い人生を生きる
ためには、教育を受けることが大切になってきます。教育といっても二つにわかれます。一つは、
普通学校、もう一つは、養護学校です。私のような病気や障害があっても、普通の学力があって、「普通学校に行きたい」という意志のある人は、養護学校ではなく、普通学校に進学することが当たり
前になったことは大きいと思います。
私の時代には、必ずしもそうではありませんでした。普通学校に通える能力があっても、周りの
環境が許さなかったり、「障害のある子はみんな養護学校に行く方がいいのだ」というよく知らない
がゆえの間違った認識をもった人も少なくありませんでした。
ですから、入学できるのかということから心配しなければならなかったのです。私の場合は、運よく入学させて頂くことができたのですが、それでひと安心とはいきませんでした。大切なのは、
実際の学校生活です。これから学校生活が始まる訳ですから、ほっとしているひまはありませんで
した。教室の移動や行事への参加の問題と色々なことが出てきました。その当時、私の中学校では、
障害を持った生徒を受け入れたことがなかったのです。すべてが初めての経験ばかりでしたので、
先生方も私や両親も「事故がおきないか、うまくやっていけるか」など、色々な点で気を使う場面
が多かったことを覚えています。
それに、周りの理解を得ること、そして、本当の意味で認めてもらうのにそれなりの期間が必要
でした。中学時代はすべてが白紙から始まったので、試行錯誤の連続でした。
現在ほど、障害をもつ子どもへの理解が定着していませんでしたから、苦労した面がありました。
それでも、「できないこと、困ったことは手助けして、できることはさせてみよう」という先生方の
対応、そして、友人達が普通に接してくれたことで、様々なことをお互いに知りましたし、学ぶこ
とができたのではないかと思います。問題は、制度やシステム的なことよりも先生や本人の姿勢・
考えの方なのかも知れません。
もうひとつ難しかったことは、進学だったのですが、できることであれば、障害を持つ生徒を受
け入れている高校に行きたいと考えて、私立の和光高校を選びました。ただ、病気が進行性である
ということもあって、受験する許可がでるまである程度の期間を要しました。それは判断の難しい
ところです。それでも、認めてくださり、入学できたことを今でも感謝しています。
私にとっては、障害者を受け入れている学校とはいえ、新しい環境です。エレベーターやトイレ
などの設備は整っているので、何も問題はなかったのですが、友人ができるまでは、「これから先、
やっていけるのか」という不安で緊張して心配ばかりしていました。
いざ学校生活が始まってみると、気をつかう点は、教室の移動の時に車椅子を押してもらうこと
ぐらいで、そのほかの面では、当たり前といえば、当たり前ですが、本当に普通の生徒として扱っ
てもらえるので、精神的に安心して高校生活を送ることができました。先生方が構えずに接して下
さったことも大きかったです。 大学へは、付属高校なので、そのまま進学することができ、その面では、大きな不安はありませ
んでした。でも、設備が整っているとは言えませんでしたので、教室の移動などは人手を必要とし
ました。ただ、他の大学に比べて、障害者の学生を受け入れる素地がありました。慣れているとい
うことは非常に大切なことであると思います。そのため、普通の大学生と変わらない学生時代を過
ごすことができたのです。また、サークルに入ったことも大きなことでした。そこでできた仲間は、
色々な面で助けとなってくれましたし、就職活動のときや困ったときには、アドバイスもしてもらえました。
こうした学生時代の経験から言えること、つまり、障害を持つ生徒・学生を受け入れていく際に必
要なことは何でしょうか。それは、個人個人で違うので、「これさえクリアすれば、すべてうまくい
く」というものではないと思います。両親の協力はもちろん、スロープをつけたり、段差をなくす
など、基本的な部分はある程度、整えなくてはなりません。でも、もし整っていると言える状態でなくても、まわりの人の助けがあれば、何とかやれるものです。でも、設備や制度・システムだけ
が問題ではないと思います。本当に大切なのは考え方だと思うのです。
そのひとつが、「特別ではなく、普通に扱う」ことだと思います。
「普通に扱う」とはどういうことかというと、その人の目線で見て考えることです。「大変だ、大変
だ」とわれものにでもさわるように扱うことだけはしないでほしいのです。なぜなら、普通だから
です。特別扱いほど窮屈なことはありません。他の生徒さんと変わらない接し方をしてほしいので
す。いつもまわりばかり気にしているのは疲れますし、他の人とあまりに違う扱いをされると自信
がなくなってくるような気もします。
もうひとつは、「必要に応じて介助し、なるべく本人の意志を優先する」ことだと思います。つまり、
自然でいいのです。実際はやってみなければわからない部分もあるのですから、「こうでなければい
けない」ということはあまり考えすぎないことだと思います。あとは慣れてくれば、それほど大き
な問題はおこらないように思います。助ける側も助けてもらう側も、「こうでなければいけない」と
いうことばかり考えていたら、問題なく解決できることさえも解決できなくなってしまうような気
がします。それにそんなに肩に力が入っていたら長続きしません。それに、自分で考えて行動する
ことは非常に大切なことだと思われるのです。
最も大切なのが、私が小学校、中学校、高校、大学と教育を受けてきたなかで実感した、「共に学び、
成長していこうとする気持ち」です。共に生きる、「共生」という精神です。
この共に生きる、「共生」という精神が、今の時代には必要であると思います。
しかし、共に生きるとはどういうことでしょうか。私は、「共生」とは、障害がある人、ない人、
男性、女性、すべての人が区別されることなく生きられること、充実した日々を幸福感をもって生
きられることだと思います。また、必要とされ、その存在を認められているという実感をもちなが
ら生きることでもあると思います。 こういう精神が今の教育の現場には、特に必要なのではないでしょうか。
学生時代は、人間にとって、基礎を築くための重要な時です。その時に、自分という存在が必要
とされ、認められているという経験をしている人とそうでない人では、大きな差があると思うので
す。特に障害をもっている生徒にとっては大切なことです。それは、自分に自信をもつことができ
るからです。その自信が積極的な生き方をしていくための力になります。それは、自分以外の他者
をも認めようとする寛容の気持、優しい心をもてるからです。
これは、きれいごとであり、単なる理想論かも知れません。でも、私は思うのです。自信をもっ
ているからこそ、人に対して寛容の気持、優しい心をもつことができるのであり、そうした気持ち
がなければ、共に生きることなど、できるはずもありません。
人の支えがなければ一日たりとも生きていけないのが、人間です。現代の人は、あまりにも大切
なことを忘れてきたのではなないでしょうか。私たちは、日々、生活に追われ、時間に追われていくなかで、次第に自分のことしか見えなくな
っていきます。そして、他者へ目を向けることを忘れていくのです。
「共生」ということを考えた時に、自分以外の人への関心をもつことは、大変、重要なのです。最
近の事件、出来事を見ると、自己中心的な考え方が広がっているように感じられます。少年犯罪が
増え、学校では、学級崩壊など、子供たちの心に大きな変化が起きています。
これは、単に子供たちだけの問題ではないと考えます。私も含めた、大人の側の問題でもありま
す。私たちは、子供たちが尊敬できるような生き方をしていかなければならないと思うのです。「ああいう人になりたい」、「自分も真剣に生きてみよう」という気持ちにさせる生き方をしていかなけ
ればならないと思います。しかし、現実はそのように生きることは難しく、結果、子供たちが夢を
もって歩むことができないような環境に追い込んでいると思います。こんな状況では、人に優しく
接することなどできませんし、相手を認める心も育たないでしょう。
また、親と子、先生と生徒の間の信頼関係が希薄になっていて、心から信じることができなくな
っていると思います。それも問題を大きくしている原因の一つなのではないでしょうか。
共に生きるということは人を信じることでもあります。信じることができなければ、同じ世界で
は生きられません。相手を信じ、認めあってこその「共生」であると思います。
また、共に生きようとする時に人、そして、自然に対する感謝の気持ちも大切であると思います。
人は生きているうちに周りの人や自然への感謝の気持ちが薄らいでいきます。自分一人で生きてい
ると思う心、自然を思いのままに人間の都合のよいように変えられると思う心には、傲慢さが見え
隠れしていると思うのです。そのような心で共に生きようとしても無理があると思います。私も常
に感謝の想いを忘れないで歩んでいきたいと考えています。
他の人々に対する優しい心、寛容の気持ち、信じ認める心、そして、感謝の想い。
そうした中からそれぞれが人間として「自立」する心が培われていくのではないかと思うのです。
少し話がそれたかもしれませんが、その意味で、本来、障害があるとかないとか、そういうことは
一緒に、共に学校生活を送るうえでは関係がないと思います。一緒に学ぶことでお互いに助けあう
ことの重要性を知ることができますし、社会にでてからでも必要になることだと思います。誰でも
いつか社会人となり、親になる時がきます。その時に必ず経験がいきてくると思うのです。障害を
持っている生徒は、「何とかできる」という自信が持てます。他の生徒も、ともに学校生活を過ごす
ことで、人が生きていくうえで必要なことは何であるか、感じとってくれると思います。この経験
が人をひとまわり大きくしてくれるはずです。社会にでてからではなかなかわからないこともある
でしょう。今、知っておくべきことかもしれません。その意味で学校教育は、重要な役割を担って
いますし、その質をさらに高めていっていただきたいと思います。
私のわずかな経験からお話しさせて頂きましたが、あくまで限られた範囲でのことですので、す
べてが当てはまるわけではありません。予想しないことも出てくると思います。でも、先生方と障
害を持つ生徒、保護者の方、そして、周りの生徒の間で創意工夫していくことで乗りこえられると
思うのです。問題点をクリアしていく中で、障害を持つ生徒がいることが別に″特殊なこと″では
なくなってくるはずです。そのためにもひとつひとつの積みかさねが大切であると思います。学校
もひとつの社会です。どうか、この小さな社会からバリアをなくしていってください。すべての人
を、ひとりひとりを「人として」扱う社会、それが、バリアフリーの社会だと思います。それが広
がっていった時、システム的にも、心の面でも開かれた、本当の意味での「バリアフリーの社会」
が現実のものとなるのではないでしょうか。学校は、単に学力を身につけるだけのところではありません。
人間として生きていく力、言って みれば、「人間力」とでもいうものを身につけるところでもあります。そして、共に生きることの大
切さを教え、人間的に「自立する」ための基礎を築いていくためのかけがえのない存在なのです。
そのことを忘れずにいてください。 私も忘れずに一日一日を充実したものにしていきたいと思います。
最後に、3月に出版されました、私の著書、「マイナスからのスタート」より、この詩を読ませて
頂いて私の話を終わりにしたいと思います。
人として
「かわいそうに」 その一言は嫌いです
それは目線が違うから嫌いです それは視点が高いから嫌いです
「大変だね」 その一言も嫌いです
それは同情してるから嫌いです 上から人を見てるから嫌いです
言い訳した生き方 嫌だから 一人の「人」にさせてください
障害はあります でも私は普通です 私は人です
障害なんて個性の一部です
あなたも普通です
人として話したい 人として信じてみたい
人として愛したい 人として生きていきたい
どうもありがとうございました。
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