Essay |
Next>> |
【2001.8.2〜ニュース23・特集より「心の不良債権」という言葉に思うこと】 |
この「心の不良債権」という言葉は、2001年8月1日のTBSテレビの 筑紫哲也・ニュース23での筑紫哲也さんと五木寛之さん(作家)の対談、 「日本人のこころ」のなかでの言葉なのですが、 「ああ、今の時代に残念ながら、あてはまってしまう言葉だな」という思いがしました。 これまでは、不良債権を経済的な言葉としてしかとらえていませんでした。 実は、経済的な部分だけではなかったのです。 日本という国というよりも、日本人は、必要な政策を行なわず、 問題をすべて先送りしてきてしまい、マスコミはバブルがすべて悪いとたたき過ぎました。 良いものも悪いものも同じように考えて批判した、その結果がこの不況なのであると思うのです。 それは、日本特有の無責任体質がもたらした当然の結果かも知れない。 ただ、 私たちに全く責任がないとは言い切れないし、 誰かのせいにしていればいいというものでもないでしょう。 これまでの悪い流れを立ち切っていくには、私たち日本人自身が変わっていくことも必要ではないでしょうか。 本当に怖いのは、経済的なことよりももっともっと大切なことがなおざりにされ、 先送りされてしまうことだとは思いませんか。 経済にとっては銀行の不良債権処理が大切であるといいますが、 日本という国、日本人全体にとっては、「心の不良債権」処理をする必要があるのではないかと思うのです。 「心の不良債権」とは何なのか。 それは、大切なものを戦後の 厳しい時代を経て、日本が復興していく中で、 高度経済成長へ向かっていく中で、置き去りにしてきた結果、残されたものです。 一番、置き去りにしてはいけないものを置き去りにしてきたからなのです。 何かをいつのまにか、どこかになくしてきてしまったような気がするのです。 五木さんの言葉をかりるとすれば、もともと日本人は、 「和魂洋才(日本人のこころを大切にしながら、 西洋のすぐれた文化を学んでいくこと)」 で歩んできたのだが、経済的に豊かになるにつれ、 「無魂洋才(意味も考えずに、何でもいいから西洋の文化を受け入れること)」 に変わってきてしまったというのです。 何も考えずにすべてを受け入れることは、よく考えてみると、非常に怖いことだと思わないでしょうか。 どこで誇りを捨ててしまったのでしょうか。 外見は、いいように見えても、内容はない、からっぽに近い状態になってしまうのです。 それでは何が正しくて、何が正しくないのかさえ、分からなくなってしまいはしないでしょうか 。 誇りを捨ててしまったために、理不尽なことがまかり通り、無駄なことがあちこちに転がっているなんて…。 日本人としての誇りだけでなく、人としての誇りまで捨ててしまっていいのでしょうか。 ちょっとことでもキレる若い人たち、児童虐待、池田小の事件と、 これまでには考えらない ことが(こちらが慣れっこになってしまうことも恐ろしいが)起きてしまう世の中になってしまった。 「もう、終わりにしたい、終わりにしなければ…。」と思うのです。 そして、本来の「日本人のこころ」をとり戻して、新しく生まれかわらなければならないと思うのは、私だけでしょうか。 私は、そのために少しでも何らかの形で役立ちたいと考えているのですが、 皆さんは、どう考えるでしょうか。 |
■ページのトップへ ■Essay目次へ ■ホーム |